No.59935

君と君の人生と

kirimisaさん

昔書いた暗いドロドロギャグ

2009-02-23 23:00:37 投稿 / 全8ページ    総閲覧数:705   閲覧ユーザー数:635

 

 

日曜

 

「リフリンジさん今晩は」

ベルが鳴ったので出てみるとパン屋だった。リフリンジははっきり言ってパン屋が嫌いだった。何故夜中に来るのか。太陽大嫌いお月様大好き夜大好き家大好きインドア派のリフリンジは激しく憤慨した。

「何か用」

「昼間のパンが固かったでしょう。お詫びに焼き立てを」

「そういうのは明日にして」

言い捨ててリフリンジは扉を閉めた。受け取る気はなかった。パン屋は明るくて気立ては良いが、おせっかいだった。リフリンジは昼間必ずパン屋で昼飯を買うが、それはただ単に近所にこのパン屋があるからで、こういうおせっかいに渡す愛想笑いなんか全く持ち合わせていない。田舎に住んでいるとこういう干渉がうざい、都会的な完全インドア派(別名引き篭もり)体質のリフリンジはそう思った。

「今の態度、最低だね」

三日前から家に居座っているトローチがテーブルに肘を突いて言った。トローチは見た目こそ見目麗しい美少年だが、はっきり言ってリフリンジにはうざいと言うほか無かった。トローチはいちいちリフリンジを罵倒するのだ。うざかった…!特に彼が連呼するのが『醜い』だった。まず第一声からそれだった。三日前、彼はリフリンジの家のベルを何度と無く鳴らし、ドアが軽く壊れるほどノックし、ものすごく迷惑そうな顔でドアを開けたリフリンジに対して「リフリンジって醜いね、生まれてきて申し訳ないと思ったこと無い?」と言い放った。その場で殺そうかと思ったが、あいにく包丁は錆びていて使い物にならなかった。奴は持っていたモップをドアにはさんで無理矢理侵入してきた。「ちょっと部屋を借りるよ、醜いリフリンジ」そう言って笑った顔は他人が見れば是非一緒に紅茶を飲みたいと思うような美少年だったが、最早リフリンジにはダーツの的かまな板の代わりくらいにしか見えていなかったに違いない。

「自殺志願者なの?」

リフリンジは言った。死にたくて(っつーか殺されたくて)彼はわざわざここに来たとしか思えない。喧嘩の押し売りを通り越している。錆びた包丁しかないけど、とリフリンジは付け加える。「でもやるなら外に出てからね」家にグロテスクなものを置く趣味も、愛する趣味もなかったので。

「今の君の顔、ぼくが人生で見た中で一番醜い。この街の人間は余程目が丈夫なんだな」

そう言って笑う顔をリフリンジは一刻も早く切り刻みたいと思った。

「私は衝動的ってよく言われるわ。今から包丁を取ってくる。どーしようもなく錆びてるけど無理矢理殺す。でも名前くらい最期に聞いておいてあげる」

「ぼくの名前はトローチ。でも呼ばないでね、醜いリフリンジにぼくの名前を口にされたくない」

リフリンジは無言で台所へ行くと、包丁を取ってきた。確かにそれはひどく錆びていて、使い物になるかどうか怪しかった。トローチは馬鹿にしたように笑っていた。事実馬鹿にしているのだ。怒りで手が震えた。ちょうど時計が0時を指し、部屋に鐘の音が響き渡った。

 

 

 

 

月曜

 

鐘が鳴り終わるのとほぼ同時だった。先に動いたのはリフリンジ。ピカピカに磨かれた上品な革靴が、ダッシュの余波で床にこすれた。フリルがふんだんに付いた真っ黒なスカートがふわふわ揺れた。パッと見は色白華奢に見える手でトローチの喉元を押さえつけ、右手に握った包丁を奴の右の目玉に思い切り突き刺した。つもりだった。トローチはとっさに滑り込ませたモップの柄で、錆びた包丁の切っ先を受け止めてにやりと笑った。

「醜いだけじゃ飽き足らず野蛮とか呼ばれたい、そういう趣味でも?」

「黙れ死ね」

キィン。ガツンガツッビシッ。錆びた包丁とモップの攻防はしばらく続いた。いやな音が響き渡った。トローチはいちいち罵倒するのをやめなかった。リフリンジは言葉で応対する代わりに、包丁を奴に突き刺そうとする動作を繰り返した。だが、トローチには全く当たらなかった。モップの柄は細かい傷だらけになったが、彼自身には傷ひとつ付いた様子がなかった。リフリンジはそれが不満だった。おかしい。こいつはおかしい。気付いて、リフリンジは突然、攻撃を止めた。

「ぼくのことをどうやら奇妙だと思ったみたいだね醜いリフリンジ。君の少ない脳みそでそれに気付いたのは賢明だ。まあ賢いっていっても犬くらい?いや、むしろミジンコくらい?」

トローチは罵倒をやめなかった。リフリンジはうんざりした。

「なんなのよ」

リフリンジは呟いた。こいつは一体なんだ。自分から押しかけてきて、こちらを罵倒してくる。死にたいのではなく私を殺したいのではないか。そういう考えすら浮かんだ。リフリンジはいちいち思考がぶっ飛びがちだった。殺されると思ったらそれ以外考えられなくなるタイプだった。ついでに思い込みも激しい。しかも厄介なことに、あんまり自覚がなかった。トローチはまた馬鹿にしたように笑った。っていうか彼は常にリフリンジを馬鹿にしているので、いちいち描写するのも面倒になってきた。

「ぼくのことが知りたいの?醜いリフリンジ。確かに、醜い上にお馬鹿な君じゃぼくの正体を推し量ることなんて出来ないからね――でもそれは教えてあげない」

リフリンジは諦めかけていた殺意が再び湧いてくるのを感じた。いつか殺す。リフリンジは神を信じなかったし天国や地獄の類も嫌いだったので、とりあえず不甲斐ない自分自身にそう誓った。

「あんたの個人的なことは心底どうでもいいわ」

口からはとげのある言葉しか出てこなかった。

「ただ何故来たのか、何しに来たのか。目的が知りたいだけよ」

諦めたような口調だったが、右手に持った包丁は手ごと小刻みに震えていた。リフリンジは衝動的にキレるタイプだったので、今の状態はものすごく稀なものだった。

「あ――そう」

トローチはつまらなそうな声を出した。

「じゃあぼくの個人的なことを教えてあげよう。ぼくはトローチ、これはさっきも言ったけど醜い君には絶対呼ばれたくない。これでも化け物の類さ。化け物の類のくせに何故こんなに美少年なのかというと、都合がいいからさ。君みたいに醜いとリフリンジ、生活するにも大変だろ。買い物に行けばうざがられるし、奇妙なものを見る目で見られるし、喋れば誰かが不快になるし、笑えば気持ち悪い…そんなリフリンジのことはどうでもいいんだけど、ぼくはその点美しいから。道を歩いているだけで誰がどのくらい振り向いたかわからない。まあこんな田舎町で振り向かれてもこちとら嬉しくもなんともありませんけどね。で、そんなぼくが君の家を半ギレでぶち破ろうとしたって、周りの人は君がぼくになにか酷い仕打ちでもしたんだろう、とかそのくらいしか考えてない。美しさって罪だ――ぼくは地獄に落ちるだろうな。でも貧乏人しかいない天国よりましだ」

トローチが喋り終えた時、リフリンジは眠っていた。これは奴に対抗する活路を見出したといってよかった。トローチが喋りだしたら眠ってしまえばいいのだ。でもそれはとりあえずリフリンジが起きてからの話。午前2時の鐘が2回、短く鳴り終えたところだった。

 

 

 

 

火曜

 

昼間、リフリンジは起きて、パン屋へ寄ってから新しい包丁を買いに行った。何故か起きた時にトローチがベッドですやすや寝ており、ベッドの持ち主のリフリンジは床で寝ていたのが解せなかった。そのせいで首が痛かったのも苛立ちを増大させた。寝ている出掛ける直前にトローチの布団に錆びた包丁を突き刺してきたが、全く手ごたえがなかった。彼はモップと寝ているようなので確実に防いだであろう。腹が立つ。店で気さくなパン屋は「リフリンジさんイライラしているみたいだから今日はバターをおまけしときますよ」と言ってきた。有難いサービスだったがリフリンジはお礼を言うことにどうしても嫌悪感と敗北感を覚える捻くれた人間だったので、何も言わなかった。田舎町の隅っこの金物屋にリフリンジは始めて入った。金物屋に包丁があるのか自信がなかったが、内なる殺意が先立って凶器を手に入れようとざわついたので、リフリンジは自棄になりながら金物屋のドアを開けたのだ。自棄が伝わってドアについたベルがけたたましく鳴った。店の奥に居る婆さんは面倒そうな顔をしていた(とリフリンジは感じた)。

「一番よく切れる包丁を」

リフリンジは淡々と言った。この汚い店から早く出たかった。

「それであたしを刺すつもりじゃないだろうね」

猜疑心の強い婆さんはそう言って訝しげにリフリンジを見た。リフリンジは表情を変えなかった。何も言うつもりはなかった。そうだ、考えてみたらこの田舎町の人間だってトローチと変わりはしなかった。こちらのことなど何も考えずに、勝手なことを言っているだけだ。その関係には信用の欠片もなかった。ならば余計なことは言わずに、黙って商品を寄越せばいいのだ。リフリンジは何も言わずに、財布から適当に札を出して、汚いカウンターに置いた。婆さんも店の奥から汚い箱を取り出して、開けて見せた。箱こそ汚かったが、確かに真新しい包丁だった。「釣りはいらないから」冷淡にリフリンジは言った。婆さんは思わぬチップに喜んだようで、次またなにかあったら気軽においでねだの、家はどこだい錆びたものがあったら替えてやろうだの、それはそれで嫌な方向にうざくなった。リフリンジは馴れ合いが嫌いだった。何も言わずに黙って店を出ると、ドアを思い切り蹴飛ばして閉めた。ベルが入ったとき以上にけたたましく鳴った。こんな店に二度と来るものか。その時、背後から声がした。金物屋に用事がある客だろうか。

「…あなた、どこかで会いました?」

振り返ったリフリンジはぎょっとした。目の前には女性が立っていた。長くやわらかい金髪。青い瞳。綺麗な女性だった。リフリンジはこの女性――名前はフーリャといった――を知っていた。それも、ただ知っていただけではなかった。しかしフーリャは気付いていないようなので、無視して歩き出すことにする。この状況は自尊心の強いリフリンジにとっては、かなりまずかった。そういうときに限って、事態はもっとまずい方向へ転がる。

「美女と野獣を見てるみたいだ、醜いリフリンジ」

少し離れた場所にトローチが立っていた。リフリンジは困惑した。この時ほど名前を呼ばれて動揺したことはない。思わず手にした包丁の箱が入った袋を握り締める。

「えっ?」

フーリャは怪訝な顔で、リフリンジを見た。聴こえない振りをして立ち去りたい。リフリンジは普段人目なんか全く気にしないが、こういうシチュエーションは嫌いだった。逃げ去りたい。もしくは今すぐ消えてしまいたい。そうリフリンジは思った。

「お嬢さん、あなたの知ってるリフリンジだと思いますよ」

トローチは素晴らしい笑顔を浮かべた。フーリャは少し頬を染めたが、リフリンジは再び奴を刺し殺したくなった。幸い凶器ならある。しかし近くに居るフーリャがまずい。まずいまずい発言を、さらにフーリャはそのばら色の唇から行った。

「すてきな紳士さん。それは無いと思うわ。だって私の知ってるリフリンジは、隣町の時計屋の息子さんだもの」

 

 

 

 

水曜

 

次の日とその次の日、リフリンジは家から、というか部屋から出てこなかった。引き篭もり体質が最大限にその性質を発揮したのだ。ドアの音が時々聞こえたので、トローチは何度か外出したようだった。リフリンジは悩み苦しみまくっていた。というか後悔しきりだった、包丁なんか買いに出掛けるんじゃなかった、と。ベッドにもぐりこんだまま、昨日帰ってから今日までに、もう5回は泣いた。ただ泣くだけでは収まらなかった。叫んで枕を投げつけたり、部屋中のものを床に叩きつけたりした。もともと綺麗ではなかった部屋はすぐにごみの嵐になった。ベッドの上だけは安全だった。リフリンジは布団の端を膝に掛けたまま、しばらくすすり泣いた。黒いカバーのかかった布団は、乾いた涙と鼻水でカチカチしていた。惨めだった。早く消えてしまいたかった。そう思うとリフリンジはまた悲しくなってきた。泣こうと息を吸い込んだ瞬間、胃袋の辺りから音がした。昨日から食べずに泣くばかりだったのでお腹が減ったのだ。リフリンジはそんな自分がまた嫌になったが、お腹がすいたのは事実だった。

「醜いリフリンジ、君ってこれ以上醜くなることはないと思ってたけど――泣き顔も例に漏れず醜いね。そのまま外に出たら怪物の襲来だと思われるよ絶対」

部屋を出ると、テーブルにトローチがかけていた。彼はいつものように罵倒してきたが、それまではゆったりと紅茶を飲んでいたようだった。ふと台所を見ると(リフリンジは台所を全く使わなかったので、5年間掃除していなかった。よって、その現状を直視するのには勇気が必要だった)水場の周りだけ綺麗になっていた。向かいの暖炉にも、湯を沸かした跡がある。リフリンジの家なのに、トローチの方がいくらか上手くやれているのだ。この町の人間とも、この家とも。リフリンジは悲しくなった。もう殺意は湧いてこなかった。湧いてきたのは悲しみと虚しさだった。新品の包丁だって、部屋のごみにまみれて、もうどこにあるかわからない。リフリンジはまた泣いた。そんなリフリンジを見たトローチが何て言うかくらいは大体わかっている。しかし、涙を止めることは出来なかった。涙声でリフリンジは呟いた。

「もう嫌…」

「泣くのはやめなよ、醜いリフリンジ」

トローチが言った。優しい声だった。リフリンジは泣き止まなかったが、トローチの声はしっかり聞いていた。

「これ以上醜くなってどうするんだい。君が今やることは、これ以上惨めにならないように、まっとうな生き方をすることだろ。つまりパン屋に行って、いつもの安いパンを買うんだ」

そこまで言うと、トローチはまた紅茶を一口飲んだ。リフリンジは少し安心しながらも、その見透かしたような態度に苛立ちを覚えた。今の言葉はトローチがいつも言うようなただの悪口ではなかった。ただの優しい言葉だった。それが余計に嫌だった。見透かしたようなことを言ってどうしようというのか。結局無様な自分を見下したいだけじゃないのか。同じだ。周りの人間と同じだった。リフリンジは何も言わなかった。何も言わずに、部屋に戻った。ごみだと思ったものを全部窓から外に捨てた。捨てているうちに夜になり、月が高く昇っていた。後に残ったのは数冊の本と、時計がたくさんと、それから昨日の包丁が入った紙袋だった。これだ。リフリンジは包みを開けて、新品を取り出した。ランプの光を受けて包丁がギラリと光った。0時の鐘が鳴った。ドアの向こうでは、カチャカチャという音がする。トローチ、あなたそんなところに居ていいの?今から私が何をしようとしているか、わかっているの?

 

 

 

木曜

 

包丁を持ったまま、リフリンジは部屋のドアを開けた。わざわざ外に出るのも馬鹿らしい。血塗れになってもいい。どうせ持ってる服は殆ど黒なんだから。こうなったら何が何でもトローチを殺して、くさくさした気持ちをスッキリさせてやるしかない。リフリンジはそう思った。他のことなんか考える気にもならなかったし、考えようとしても苛立っている頭では到底無理な話だった。リフリンジの思考はぶっ飛びがちだった。そしてリフリンジは衝動的だった。曖昧な意志で突っ走ってしまうところが昔からあった。そのおかげでリフリンジは、今までの人生が20年ちょっとはあったのに、その時間をめいっぱい使って――失敗しかしてこなかった。

『馬鹿みたい…』

凶器を持って歩いてくるリフリンジを見て、トローチは微笑んだ。リフリンジには彼が何故微笑むのかわからなかった。やはり馬鹿にしているほかには考えられなかった。でも、それももうどうでもよかった。逃げる様子のないトローチの心臓に、思い切り包丁を突き刺した。ずぶり。トマトを裂いたような手ごたえがあった。やった。リフリンジは彼のネクタイから目線を少し上にずらして、トローチの顔を見た。トローチはやはり、笑っていた。先程と変わらず。不快になったリフリンジがさらに深く突き刺そうと包丁を抜きに掛かった途端――小さな悲鳴が上がった。叫んだのはリフリンジだった。上着に染み出す彼の血が黒かったから。ケチャップより墨汁で代用した方が良さそうな黒さだった。彼はイカの化け物だったのだろうか?――リフリンジの脳裏に、くだらない考えがよぎった。しかし刺さった包丁からは、紛れも無い鉄の臭いがした。

「さては、ぼくを殺そうとしてるのか。醜いリフリンジ」

トローチは笑ったままでそう言った。リフリンジにはなんとなく、次に言われる言葉が想像出来た。また罵倒だ、しかしこの数日間で、もう慣れっこだ。

「ぼくの血が黒かったんで、驚いたんだな。最初にぼくは化け物だって言ったろ。普通の人間の血が通ってたら、こんな汚い家になんか、絶対に…」

そこまで言って、トローチがよろめいた。そのまま床に倒れ、苦しそうに呻く。激しく咳き込んだ唇の端から、黒い血が一筋流れた。顔色がひどく悪かった。リフリンジは、トローチがこんなに普通に死にかけているのに少し驚いた。何度か包丁で刺したくらいでは、絶対に死なないと思っていたのだ。何故なら彼は化け物だから。

「待て。勘違いしてないか――醜いリフリンジ。ぼくは刺された、から、死にかけてるわけじゃない………言っただろ、化け物だって。君が部屋に篭っていたから、何も言わずに放っておいたんだ、まずいなと思った、本当は無理にでも、部屋に入って、いろいろ言うべきだった、かも、しれない。けど、そんなことをしなくても、すぐ出てくると思ったんだ――端的、に、言っちゃうと、君を罵倒、していないと、ぼくは、生きて、いられないんだ」

よくわからないシチュエーションだった。罵倒しないと生きていられない化け物なんてそれほどよくわからない存在もあまりない。そういうわけでリフリンジにはいまいちよく理解出来なかった。しかしなんとなくわかったことはある。とりあえず確認したくて、リフリンジはそれを口に出した。

「もう死ぬの?」

トローチは少し笑って、胸から包丁を生やしたまま言った。

「そう」

「一応私が殺したことになるの?」

「そうだね…」

この状況にリフリンジは特に何も思わなかったが、ひとつ違和感を挙げるとすれば、トローチが微笑んでいるのが嫌だった。リフリンジは、死ぬ間際に笑う人間が気持ち悪かった。意味がわからないし、とにかく不快になるからだ。リフリンジはトローチに言った。

「笑わ…いえ、笑って」

なんて言えば笑わないでくれるのか、迷った末に出てきた言葉だった。して欲しいことを言うと彼は反対のことをしてくるから、して欲しくないことを言えばいいのだと思ったのだ。だが、最初に思いっ切り本音が見え隠れしていたので、これは失敗だった。トローチは黙ってリフリンジの言葉を聴いていたが、リフリンジの意に反して、彼は至極楽しそうに短く笑った。

「これ以上、ぼくを笑わせないでくれ。醜いリフリンジ」

そう言い終えて微笑むと、トローチは目を閉じて、ひとつ息を吐いた。その様子は嫌になるくらい優雅だった。それから暫くリフリンジはトローチの顔を見ていたが、彼が目を開けないのは判り切っていた。家にはやっと静寂が戻ってきた。午前2時の鐘が鳴ったのを、リフリンジは意識のどこか遠くの方で聴いていた。おもむろに立ち上がって呟く。家があまりに静か過ぎたので、何か喋らなければ、と思ったのだ。

「化け物の生ごみは明日片付けるとして、床は掃除しなきゃ…奴がモップを持っててよかった」

モップはテーブルに立て掛けてあった。リフリンジはそれを一瞥して、また呟いた。

「でも、床も別に掃除するほど汚れてるわけじゃないわね」

リフリンジは俯いた。自分の着ている、黒い服が目に入った。弔う――つまり、喪服を着ているつもりは全くなかったが、傍目にはそれ以外の何者でもなかった。先程まで、いくら血が染み込んでも黒い服だから大丈夫だと思っていた。しかし、

「あの色じゃ、私の服は元々血塗れだったわけね」

口に出しながら、リフリンジは自分の声が震えているのに気付いた。独り言がいやに多いと思った。視界がすこし滲んだ。ついでにお腹が鳴った。リフリンジは自嘲気味に笑って、声は出さずに呟いた。

『馬鹿みたい』

 

 

 

 

金曜

 

リフリンジは夢を見ていた。なんとなく、これが夢だとわかっていた。それでも、それはとても現実に近い――いやな夢だった。リフリンジは実家の時計屋のカウンターで、ぼんやりしていた。窓から通りを歩く人が見える。カチ、カチカチ、カチ、カチカチカチ。背後の壁に掛かったたくさんの時計がうるさかった。全部がどんな時計で、どんなからくりがついていて、どうやって動いて、それぞれ幾らなのかリフリンジは知っていた。時計は全て、時計職人であるリフリンジの父親が作ったものだった。時計はそんなに飛ぶようには売れなかったが、時々売れた。また、ある時は壊れた時計を持った客がやってきて、修理を頼まれた。簡単なものはリフリンジが直したが、どうしようもないものは裏まで父親を呼びに行った。いつも店番はリフリンジか、母親だった。リフリンジは時計が嫌いだった。針が動く音からして大嫌いだった。小さい頃から時計だらけの部屋で過ごしてきたのでよくわからなかったが、外に出るとすっきりしていた。時計が嫌いだと自覚したのは、近くに住む女の子フーリャが、母親同士の付き合いとおつかいで、よく店に来るようになってからだ。フーリャは、二人の母親が奥でお茶を飲んでいる間、リフリンジが店番するカウンターの向かいに寄り掛かって、よく喋っていた。

「ねえ、リフリンジ。どうやって時計を直してるの?凄いわ」

「君こそ…どうしてぼくの名前を知ってるの」

「よくあなたのお母さんが呼んでるのを聞いたの。『リフリンジ、店番よ!』って」

フーリャはそう言ってくすくす笑った。とても可愛かった。リフリンジはなんて言うべきかわからなくて、黙って俯いた。フーリャはやさしい声で言った。

「ねえ、どうやって時計を直してるの?私あなたのことを尊敬してるの、14歳で時計職人の仕事ができるなんて、素敵。私なんかベッドを整えるくらいしか出来ないのに、リフリンジはもう時計を直したりしてる」

褒められて、リフリンジはすこし嬉しかった。あまり喋るのは得意ではなかったが、なんとか説明しようと思った。

「壊れた時計は…開けてみると、どれかの歯車が狂ってるんだ。そこを見つけて、正しく直してあげればいいだけなんだ」

「ふーん…難しそう。やっぱり、リフリンジって凄いわ。尊敬しちゃう」

そんなことないよ、とリフリンジは呟いた。フーリャに聞こえたかどうかはわからなかった。そんなことない。時計を開けて見るなんて、全然楽しくない。歯車の群れが気持ち悪かった。狂った歯車はすぐに見つかるけど、交換しても、この歯車自体は狂ったままだ。今までそんなこと絶対言わないで黙って直していたけど、本当は壊してしまいたかったんだ。フーリャにはきっとわからないだろう。そう思うと、無性に苛立った。つい、嫌味を口に出してしまう。

「君が羨ましいな…毎日暇そうで」

そこで場面が変わった。同じ時計屋のカウンターだったが、窓から見える景色はすこし寂しくなったようだった。これは…今より2年ほど前、あの日だ。リフリンジはそう確信した。逃げたくなった。カウンターから出ようとしたその時、扉についたベルが鳴った。振り返らなくてもわかる。来たのはフーリャだ。

「時計を直してもらっていい?」

嫌だったけど振り返る。青い瞳がこちらを見ていた。淡い金色の髪が揺れた。とても美しかった。

「……」

リフリンジは何も言わずに、フーリャの差し出す懐中時計を受け取った。この頃になるとリフリンジは殆ど彼女を無視するような形になっていたので、それはやり取りでも、会話でも、なんでもなかった。リフリンジはカウンターに背中を向けたが、フーリャが見ているのがわかった。小さい溜息が聞こえた。

「あのね、リフリンジ」

「……」

「私結婚するの。あなたも知ってるでしょ、領主さまのお家のカペラと…その時計、お父様から貰ったのだけど、向こうの家に行く時に持っていこうと思って。でも壊れていたから…だからあなたに直して貰おうと思ったの、だってあなたは…」

リフリンジが振り返った。フーリャは常々リフリンジを童顔の可愛いめの顔だと思っていたが、その眼が決して笑っていないのを見て、喋るのをやめた。

「この時計、もう、どうしようもないよ」

苛立った声でリフリンジは言って、受け取った時計を床に叩き付けた。リフリンジは衝動的だった。どうしようもないくらいその時の感情に素直だった。フーリャは今度こそ壊れてしまった時計を拾うと、泣きそうな顔で店を出て行った。カチ、カチ、カチ、カチ、カチ。針の音が耳障りだった。他の音はしなかった。リフリンジはその三日後、店にあった時計をありったけ壊すと、父親が怒り母親が泣くのも構わずに家を飛び出した。フーリャ、あなたが羨ましい。どうしてそんなに賑やかに笑っていられるの?私の心象風景は多分一年中地獄みたいに凄まじいことになっているのに、どうしてあなたはそんなに美しくて、そんなにやさしくて、そんなに朗らかに笑っていられるの?

『壊れた時計は開けてみると、どれかの歯車が狂ってるんだ』

そんなこと言われたって、もう、どれが正常な歯車で、どれが狂った歯車なのかわからない。正常だと思っていても、開けてみたら狂ってる。自分ではどうしようもないんだ。もう駄目だ。駄目なんだ。どうしようもないんだ…

「…………」

目覚めた時には、外は夜明けだった。部屋がほんの少しだけ明るくなっている。ぼうっと部屋を見渡す。昨日までごみの山だった部屋は、自分で片付けたせいでわりとがらんとしていた。自分でしたことなのに違和感を覚えた。ほぼ同時に、昨日までのいろいろのことを思い出して、リフリンジはものすごく死にたくなった。

 

 

 

 

土曜

 

その日の夕方、パン屋が訪ねてきた。リフリンジはいくらベルが鳴ってもテーブルに突っ伏して知らないふりをしていたのだが、パン屋がどうしても開けてほしいというのでぶっきらぼうに扉を開けた。その時、勢いのついた扉の端がパン屋の鼻に当たったが、断じて謝らなかった。リフリンジがしばらく店に来なかったので、なにかあったのかと心配していたのだという。パン屋は手にしたバスケットに、焼きたてのパンを2人分、たっぷりバターをはさんで持ってきた。お連れの方もいらっしゃるでしょう、とパン屋は言った。おそらくトローチのことだが、彼はもうこの世にいない。しかしそれをわざわざ伝えることもない。リフリンジは終止黙っていた。もう何も喋りたくなかった。パン屋が帰った後、リフリンジはランプの用意もしないで、パンを食べた。とてもおいしかったが、そのおいしさがここでは浮いているような気がした。自分が食べていいようなものじゃない。この家には幸せなんか欠片もないのだから。リフリンジは窓の外の景色を見た。夕陽が差し込んでいた。テーブルの端には包丁が置いてある。先日埋葬したトローチの死体から抜いたものだった。回収した直後は黒い血が所々にこびりついていたが、布で磨くといくらか綺麗になった。日が沈んだら、リフリンジはこの包丁で自分を殺すことにしていた。人生で見る最後の景色が真っ赤な夕陽で、最後の食事がおいしいパンなら、それなりに贅沢なものだとリフリンジは思った。そして最後の最後まで、自分は馬鹿なことしかしていなかった。失敗だらけだった。こんな人生だったら、なるべく早く終わらせた方が良いに違いなかった。日はほぼ沈んで、もうすぐ完全に暗くなる。そろそろだ。リフリンジはテーブルから包丁を取って、部屋に入ると、手探りで鍵をかけた。窓はおろかカーテンも閉め切った部屋は、日没直後の薄明かりも入らず、真っ暗だった。リフリンジはベッドに腰掛けて、深呼吸した。目を閉じる。包丁を首筋に当て、すこし経って、離した。怖いのだ。

「どうして」

リフリンジは掠れた声で呟いた。いつまで惨めに生きているつもりなんだろう。自分自身がよくわからなかった。ただ、リフリンジの今の状況もなかなか惨めだと思った。真っ暗な部屋で、一人で、ひたすら包丁と向き合っている状況。リフリンジはつらくなって、呟いた。声はやはり掠れてしまっていた。

「トローチが見たらなんて言うかしら」

「ぼくの名前を口にするのはよせってあれほど言ったのに、醜いリフリンジ」

突然背後から声がして、リフリンジは心臓が跳ね上がるほど驚いた。だが、声の主が誰なのかはすぐにわかった。包丁を持ったまま素早く振り向いたが、部屋の中は真っ暗で何も見えなかった。ランプを持って来れば良かったとリフリンジは思った。自分という人間は、ことごとく失敗ばかりを繰り返す。愉快そうな笑い声が聞こえて、リフリンジは半分叫ぶように言った。

「死んだんじゃないの」

「その通り、確かにぼくは死んだ。でも、君はぼくを呼んだだろ。化け物って一体どこが人間と違うのかというと、黒い血が流れていることと、命が髪の毛一本より軽いってことなんだ…醜いリフリンジ」

リフリンジは少しだけ安心した。化け物とはいえ人間に似たものを殺すのは気分が悪く、実は先日かなり落ち込んだのだ。しかしトローチの命が滅茶苦茶軽いというのなら問題はなかった。吹けば飛ぶし、呼べば戻ってくるのだ。ほんの少し心に余裕が出来て、リフリンジはトローチの居るであろう方向に向かって、馬鹿にしたように言った。

「また罵倒しに来たのなら殺すわ。そして二度と呼ばない」

「本当は寂しくて死のうとしていたくせに…でも君は注射をはじめ痛いことが大嫌いだから、怖くて死ねなかったんだ。人の心臓には平気で包丁を突き刺すくせに、自分には傷ひとつ付けられない…どこまでも惨めだな、醜いリフリンジ」

リフリンジはいらいらした。しかし、確かにその通りだった。悔しくなって、リフリンジは包丁をかたく握り締めた。首筋に刃を当てて、力を込めた。リフリンジは衝動的だった。しかしその時、心のどこかで警告が鳴っているのに初めて気付いた。『駄目だ、このままでは』『駄目だ、まだ死にたくないんだ』『駄目だ、怪我したくない』『駄目だ、ひとりになりたくない』『駄目だ、ひとりで、死にたくないんだ!』リフリンジはすこし驚いて、手を離した。包丁はカタカタいいながら床に落ちた。目が暗闇に慣れて、うっすら部屋の輪郭が見えた。そこで初めて、トローチが目の前に立っているのがわかった。トローチは微笑んで、言った。

「自分が本当はどう思っているのかわかったかい。一時の感情は正直で――まあ君の場合衝動的だけど、それだけを意思とは言えない」

リフリンジは唇をかみ締めた。嫌な気持ちではあったが、苛苛するのとは違った。適当なことしか言ってこない周りの人間には苛苛した。今回は違った。トローチに、リフリンジにどうしても欠けている部分を的確に言われたから、言い返せないのだ。リフリンジが困惑するのを、トローチは笑って見ていた。考えた末に、リフリンジは言った。

「私にまだ、惨めに生きていて欲しいの?それを見て楽しんでるの?」

「君が、生きていたいんだろ。ならば、せいぜい惨めに生きるがいいさ。ぼくは君が提案したとおりに、それを見て楽しませて貰おう…醜いリフリンジ」

リフリンジは俯いた。それから床に落ちた包丁を拾って顔を上げ、すこし笑った。

「それじゃ遠慮なく、地獄に落ちるまで惨めったらしく生き抜いてやるわ。けど、その前に…今すごく気分が悪いから、気晴らしにあなたを刺す。刺しても死なないって言ってたものね?」

相変わらずの暗闇で、トローチの表情はよく見えなかった。しかし、彼が愉快そうに笑ったのが、リフリンジにはわかった。

 

 

 

 

次の日曜

 

翌朝、リフリンジが部屋から出ると、当然の如くトローチがテーブルに掛けて、紅茶を飲みながら昨日貰ったパンを食べていた。パンは元々食べる予定は無かったので特に気にしなかったが、トローチの格好は大いに気になった。否、気になるどころではなく、リフリンジはびっくりした。昨日は真っ暗だったのでよく見えなかったが、トローチの服は全体的に泥で汚れていた。本人は澄ました顔をしているが、恐らく数日前に家の裏に埋めたのがそのまま蘇生して、墓(?)から這いずり出てきたに違いなかった。心臓に開けた刺し傷もそのままだった。あの時腹いせにトローチの死体をメッタ刺しにしなくて正解だったかもしれない、とリフリンジは思った。もしそれをしていたら、もっと恐ろしいことになっていたに違いない。ナルシストの入った彼のプライドを裂くチャンスだったのも確かだが、それ以上に気持ち悪いものは精神衛生上よろしくない。

「床が汚れるから出てって化け物」

「相変わらず起きるのが遅いね、醜いリフリンジ。元はと言えば君があんな土の中にぼくを埋めるからだろ。そして服を替えようにも、君は女の子が着るような服しか持ってないんだから」

トローチはそう言ってさわやかに微笑んだ。顔だけはしっかり拭いたのか、暖炉の隅にタオルと水桶が置かれている。リフリンジは不気味でしょうがなかった。気持ちを推し量ろうにも、リフリンジは死んだことも、蘇生したこともないのでわからない。呆れた声でリフリンジは呟いた。

「生き返ったんなら怪我も治ったのかと思った。これじゃゾンビと変わらないわ」

「化け物は一度朽ちるまで同じ体のままなんだ。けど、失礼な物言いをするね、醜いリフリンジ…今日ぼくは忙しいんだ。服を新調しに行かないといけない…というわけで」

トローチは紅茶を飲み終えてから、上着を軽くはたいて、右手をリフリンジに差し出した。

「お金貸して」

「黙れもう一回死ね」

リフリンジは相変わらず衝動的だった。その辺に落ちていたグラスを拾って思い切り投げつけた。トローチは横にたてかけていたモップを素早く取ると、薄く笑いながらそれを防ぐ。街中の女の子ならしびれるようなウインクをしながら、トローチは愉快そうに言った。

「ぼくはもう怪我しないよ。何故なら君の攻撃がしょぼくてどうしようもないから。ねえ、いい加減学習しなさいよ、醜いリフリンジ?」

「あんたの自慢の顔を穴だらけにしてやるわ」

そう言ってリフリンジは扉を蹴って、一旦部屋に引っ込んだ。

「包丁を探しに行くんだろうな…でも、昨日ぼくが台所にしまっちゃったから、見つかるかな?」

そう呟いて、トローチはすこし微笑んだ。すぐに部屋の方から、ベッドや物をひっくり返すようなけたたましい音と、うんざりしたようなぼやき声が聴こえ始めた。

 

                                THE END

 

 


 
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