No.573603

弾-丸-翔-子 完結

バイクで出会った翔子と達也。弾丸翔子と異名を持つ彼女にバイクビギナーの達也が教えを請う。バイクを通したふたりの心のふれあいが、心の同化に深化していく中、毒ガスを使ったテロが発生。ふたりの命が危険にさらされる。真の勇気とはいったい何なのか…。恐れを退け、お互いの命を守りあうふたりは、本当に自分たちが求めている道先を見い出していく。女性には厳しいかもしれないけど、読んでいるうちにバイクが乗りたくなる恋愛小説です。

2013-05-06 13:45:06 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:469   閲覧ユーザー数:469

 達也はシャワーから上がると、バスタオルを肩にかけ、オレンジジュースを片手に庭に出た。ガーデンチェアーに腰掛けると、ブルースがのっそりと出てきて、達也の足もとに寝そべった。ブルースの頭をなぜながら、達也はため息をつく。いよいよ明日がララバイコースのチャレンジの日なのだ。

 ツインドライブから帰ると、実際のララバイコースでの走行練習を翔子と繰り返し行った。何回かトライアルもしたが、4分を切ることができない。今日は最後のトライアルであったが、やはり4分を切ることができなかった。

『結果は気にしなくていいから。別にそれが人間の価値を決めるわけでもないし…。とにかくここまできたら、怪我だけはしないように…。お願いよ。』

 今日のレッスンでの別れ際、達也の身を案じて翔子はそう言ってくれたが、このままでは、副長の思惑通り、翔子の前から姿を消さなければならない。絶対にそれは嫌だ。しかし仮に結果に関わらず翔子が兄の言葉を反故にして、自分と会ってくれたとしても、決して嬉しくはないこともわかっていた。今後も心安らかに翔子と会えるようにするためには、あの峠のツインドライブで見せた火事場の馬鹿力を期待するしかない。達也は持っていたオレンジジュースを一気に飲み干した。

 今日は午後診療のため、病院へは遅めの出勤でいい。家を出る時間まで、気分転換にブルースと遊ぼう。達也は大人しく横たわるブルースにチョッカイ出す。無邪気な弟に寛容なブルースは、迷惑顔ながら付き合ってくれているようだった。

 その時外玄関のチャイムが鳴った。こんな時間に来客?あいにく母親は地域ボランティアの会合で朝から家を出ている。達也は家に入り台所のモニターボタンを押した。

「はい?」

『バイク便のセルートです。荷物のお届けにまいりました。』

 自宅にバイク便なんて珍しい。父が学会の資料でも送らせたのだろうか。不審に思いモニターからバイク便のライダーを見た。

「あれ?次郎さんでしょう。」

『えっ?』

 ライダーが自分の名前を呼ばれて驚いている様子がモニターから見て取れた。

「翔子さんのお兄さんの墓参りでお会いした上田…いや、ペケジェーですよ。」

『ああ、あの時の…。ここはペケジェーさんのお宅でしたか。』

「今、錠を開けますから。」

 達也は警戒心を解いて、解錠ボタンを押した。

『開きました。ありがとうございます。あれ?荷物が湿ってる。おかしいな…。』

 達也が入口にまわって、ドアを開けようとした時、珍しくブルースが激しく吠えたてている声が聞こえてきた。達也はブルースを止めようと慌ててドアを開けたが、そこで見た光景に達也は思わず凍りついた。

 外玄関から入ったところで、次郎が昏倒して痙攣を起こしている。遠目から見ても、嘔吐や失禁をしていることがわかった。慌てて駆け寄ろうとした達也を、ブルースが物凄い形相で吠えて近寄らせない。そして達也の足を止めたブルースは、踵を返すと次郎が手に持っていた書類封筒を咥えて、物凄い勢いで外へ駆けだしていった。

「ブルース!」

 ブルースは弟の叫ぶ声にも振り向くことはなかった。封筒を咥えたまま、老体の最後の力を振り絞って駆け続けた。

 一方訳の解らない達也は、とにかく次郎に駆け寄る。次郎が苦しみで大きく見開いた眼の瞳孔が収縮しているのがわかった。大量の涎、嘔吐、失禁。そして、痙攣。達也は直感した。ソマンだ。一刻の猶予もない。達也は救急車と警察、そして自分の病院に、至急PAMを搬送するように連絡した。この機転が後に次郎の命を救うことになる。

 連絡した各所の人と資材を待つ間、次郎はタオルを口に巻いて、次郎に付き添っていた。見ると書類封筒を持っていた次郎の指先が、炎症を起こしている。皮膚からの吸収か…。実際にスプーン一杯のソマンが庭にまかれていたのなら、タオルごときで達也の死を防ぐことは出来ない。しかし、ソマンが封筒に仕込まれること知ったブルースは、垂れ流れる前に封筒を咥えて飛び出していったのだ。達也はブルースの奇行の意味を悟った。ブルースは人間の弟を救うために、兄として毅然とした行動を取ったのだ。

 警察と救急車と病院からの搬送車が同時に到着した。まず血中のソマンを中和させなければならない。達也は、何よりも先にPAMを次郎に注射した。そして救急隊員に細かい指示をすると、次郎を上田総合病院へと搬送させた。警察の事情聴取を受けながらも、達也はブルースの安否が心配で仕方がなかった。

 翌々日、達也は洗浄されたブルースの遺体と対面することになる。ブルースは力の限り走って、達也とよく遊んだ空地へ出ると、そこで力尽きたのだ。人通りがないその空地でブルースの遺体は放置され、警察の捜索でようやく発見された。その頃には、ソマンの殺傷力も消えていた。ブルースの硬くなった遺体を抱きながら達也は人目をはばからず泣いた。愛犬とは言え少し大げさだと言う人も居たが、ふたりのことは誰もわからない。ブルースは達也にとってペットではない。欠け替えのない兄弟であったのだ。

 

 黒い男はいら立っていた。彼が長い間実験をして準備していた試みが、失敗したからだ。時間が経つと自然にビニールが破れてソマンが合成されて流れ出る。何と考えの浅い計画だったのだろうか。結局、バイク便のライダーの命も奪えず、犬一匹殺しただけだ。ターゲットに何のダメージを与えられなかった。

 やはりターゲットだけを狙うなんて、甘い考えがいけないんだ。広範囲な殺傷の中にターゲットが含まれていればそれでいい。それには瞬間的に大量のソマンを合成気化させる仕組みが必要だ。黒い男の兵器を作る邪悪な研究は、まるで留まるところを知らなかった。

 

 次郎の病室の前に、大勢の人たちが集まっていた。翔子、哲平、そしてライダー仲間達。病室の中で、達也が主治医と何か話しているのが見えた。ベッドの傍らでお腹の大きな若い奥さんが、目に涙を溜めながら寄り添っている。

 達也が病室から出て来ると、真っ先に哲平が尋ねた。

「次郎の容体はどうなんだ?」

 達也は居あわせた全員の顔を見回してしっかりした声で言った。

「心配も安定したし、命に別条はありません。」

 病室の前の通路に安堵のため息が溢れた。

「ただ…。」

「ただ、何?」

 翔子が強い口調で達也に尋ねた。

「やはり筋肉系統へのダメージが大きいから、PSDT(Posttraumatic stress disorder)、つまり心的外傷後ストレス障害や運動神経系統の後遺症が心配されます。」

「もっと解るように言ってよ。」

 語気を強める翔子に達也は冷静に返答を返した。

「腕や足など、身体の一部が動かせなくなる可能性が高いってことです。回復後も長期間のリハビリが必要になるかもしれない…。」

 ライダー仲間が、壁を拳で叩く音が聞こえた。

「だいたいなんでペケジェーが狙われたんだ?」

 哲平の問いに答える達也の声は恐怖に震えていた。

「狙われたのは自分だけではありません。宛先は父になってましたから…。ソマンは、空気中に長く留まって人を殺し続けることができます。あの後、父も兄も母も帰宅してくる予定でした。もし自分が受け取っていたら、みんなはソマンが充満した家に帰ってくることになってたんです。」

「狙われたのは、お前の家族全員か…。」

「狙われる理由は、まったく思い当たりません。」

 改めて背筋が寒くなって震える達也の肩に、翔子が優しく手をまわした。

「しかもなんで、関係の無いバイク便ライダーがふたりも犠牲にならなきゃならないの?」

 翔子のやるせない言葉に、哲平は両手のこぶしを強く握りしめた。

「許せねぇ、絶対に許せねぇ。必ずとっ捕まえてやるからな…。」

 ともにいるライダー仲間もみな同じ気持ちだった。

「それで、犯人捜査は進んでるの?」

 翔子が哲平に尋ねる。

「交機の俺に解るわけないだろう。ただ、あまり進展はないという噂は耳にするがな…。」

「まったく…。」

 警察の不甲斐なさを嘆く翔子ではあるが、そのひとりである哲平が居る手前、その愚痴を止め、新たな言葉にきり替えた。

「でも、そんな怖いもの作れる人なんて限られてるんじゃないの。」

「俺にはよくわからん…。」

 翔子と哲平の会話を聞いていた達也が口を挟む。

「あれはもともと第二次世界大戦中にナチスドイツが開発した化学兵器です。レシピは存在するので、ある程度の知識と設備があれば誰でも作れてしまうものなんです。」

 今度は背筋が寒くなったのは翔子の方だった。

「ペケジェー、詳しいんだな。」

 哲平が感心したようにうなずく。

「最初の事件があった時に勉強しましたからね。」

 達也が居あわせた全員に向って話し始めた。

「以前地下鉄で大惨事をおこしたサリンって憶えてますか?」

 達也の問いに全員がうなずく。

「サリンもナチスドイツが開発した化学兵器のひとつでね、別名ジャーマンガス(German gas)って言われている。実はジャーマンガスは、開発されたのにあのヒットラーでさえ躊躇して、戦争にもユダヤ人にも使用されなかった。それがふたつも日本で使用されるなんて、本当に恐ろしいことです。」

「いったいナチスドイツは、いくつの化学兵器を作ったの?」

 呆れて翔子が質問すると、達也が指を折って数えはじめた。

「開発された順にタブン、サリン、ソマン。しかもその順に人を殺す力が強まっているんだ。」

「じゃあ、人を殺す力はサリンよりソマンの方が上なのか?」

「ええ。」

 哲平の問いに、達也がそっけなく答えると、居あわせた全員が黙りこくってしまった。達也がさらに言葉を続ける。

「大惨事を引き起こしたあのサリンですら、大気に30分しか留まれないのに、ソマンはなんと5時間にわたって人間を殺しまくれます。米軍からは、3番目のジャーマンガスとしてGDというコードネームで恐れられ…。」

「ちょっと待て…。」

 哲平が達也の言葉を遮った。

「ペケジェー。今何と言った。」

「えっ…だからサリンは30分しか…。」

「違うよ。その後だよ。」

「ああ、コードネームのこと?」

「そう。」

「ソマンはGDというコードネームで呼ばれてた。」

 哲平は眉間にしわを寄せて必死に記憶を手繰っていた。

「俺は以前『GDでも吸って死んじまえ。』ってつぶやいた男を見たことがある。」

「GDで死ねなんて…、相当ソマンに詳しい奴ですね。」

 そう言った達也を、全員が氷ついたような目で見た。口火を切ったのは翔子だ。

「そいつが犯人じゃない。」

 哲平が拳を自分の頭に当てて悔しがった。

「くそっ、手の届くところに犯人が居たのに…。俺は馬鹿か。」

「後悔はまだ早いですよ、副長。つまり…。」

 哲平は、仁王立ちになって全員を見た。

「そう、俺だったら犯人を特定できるということだ。」

 

 翌朝早々に、哲平はソマン事件捜査本部の入口に居た。昨夜のうちに上司に報告した内容が、瞬時に捜査本部にあがったのだ。捜査本部に一歩足を踏み込むと、ボード、電話、パソコン、調書が散乱する。事件対策本部ではよくある風景なのだが、騒然とした室内の中で忙しく、しかも荒っぽく働く12人ほどの捜査官は、目つき、言葉使い、立ち振る舞いが、明らかにワルだった。警察署でワルというのも変な話なのだが、哲平はなぜか血がうずくのを感じた。正義の為に働くワル。交機とはまったく違った人種がそこに居た。実際若き頃は、ワルを尽くした哲平だからこそ、こんな雰囲気にも物おじせず、いやかえって懐かしいとさえ感じてしまうのだ。

「坊や、なんか用か?」

 場の雰囲気に呑まれて立ち尽くす哲平に、捜査官のひとりがドスの利いた声で問い掛けた。

「招集を頂きました。日の出署の桐谷です。」

 直立不動で答える哲平に、一番奥の机にいた初老の捜査官が呼びかける。

「おう、待っていたぞ。こっちへ来い。」

 哲平は呼ばれた机の前まで進み、あらためて直立敬礼した。

「日の出署、交機白バイ隊の桐谷哲平警部補であります。」

「白バイ隊の桐谷?ああ、お前があの…いや今はどうでもいい、テロ対策室長の狩山だ。早速話を聞かせろ。」

 哲平は昨夜達也や翔子との話しを繰り返した。

「なるほど…お前は犯人の顔を見て覚えているのだな。」

「あくまでも、犯人かも…で確証はないのですが…。」

「いや、『かも』でも、犯人が捕まっていない現状では貴重な情報だ。おい、ケンジ。すぐに似顔絵捜査官を呼べ。」

「ヘイ。」

 ケンジ捜査官のやくざ調の返事が、哲平の心をくすぐった。しかし今どき似顔絵とは?

「おい、ボウズ。今どき似顔絵か、なんて思ってるだろう。」

 図星を突かれた哲平は、口から心臓が飛び出そうになった。

「目や口などの部分写真を組み合わせる『モンタージュ写真』より似顔絵の方が、対象者の特徴が印象的に表現できて捜査には有効なんだよ。『モンタージュ写真』は作り間違えば、どんどん犯人から遠ざかってしまう。3億円事件未解決もそれが原因のひとつとして、上げられている位なんだからな。」

 さすがテロ対策室長である。狩山の鋭い洞察力に、哲平は脱帽した。

「とにかくいろんな顔を見て、記憶がぶれる前にまず似顔絵を作ってもらう。それが終わったら、被疑者の写真を見てくれ。」

「えっ、すでに被疑者が絞られているのですか?」

「ああ、7000人ほどに絞った。しかしその中に犯人が居るとは限らないがな…。」

「7000人…ですか…。」

「ヤス、シマ。ボウズを連れて行ってやれ。」

 哲平は狩山に敬礼する間もなく、ヤスとシマに両脇を抱えられて別室へ連れて行かれた。哲平は二人の捜査官に挟まれて歩きながら、捜査官になると被疑者の連行に慣れ過ぎて、人を普通に案内する作法なんて忘れてしまうのだと感じていた。

 小部屋で待っていると、やがてやってきた似顔絵捜査官に自分の見た被疑者の顔の特徴を告げ、やっとのことで1枚の似顔絵を作りあげる。その時点で、もう暗くなっていたが、家に帰してもらえるはずもない。そのまま軟禁され、ひとりひとりと握手をするように7000人の顔写真を見続けた。3日間徹夜作業の結果、7000人の中には、哲平が見た顔はなかった。

 

 徹夜明けで久しぶりに家に戻った哲平は、ベッドにつく間もなく翔子に呼び出された。翔子に指定されたスタバに遅れてやってきた哲平は、不機嫌そうに翔子に文句を言う。

「なんだよ、翔子。こちとら全然寝てないんだぞ。夕方からは勤務だし…。」

「ごめんなさい…。でも、どうしても話しがしたくて…。」

 長い髪を束ねて、肩をすぼめて謝る翔子。哲平は彼女を見ながら、なぜかミカが想い出された。徹夜明けの家路の途中に哲平の携帯が鳴った時は、相手がミカであると勝手に思い込んで携帯を取った。心も体も疲れている時に会いたい相手は、なぜかミカだった。実は哲平の不機嫌の理由はここにある。

「で、話って?」

「捜査は進んでるの?」

「その話しかよ…だから官は民に捜査のことベラベラ喋れないんだって。」

「犯人の目星は付いてるの?」

 哲平の返事に関係なく、執拗に質問を続ける翔子の気迫に押され、哲平も答えざるを得ないと感じてきた。

「さっきまで捜査本部で、7000人の被疑者の顔写真見たけど、少なくともその中には居なかった。」

「そう…あのさ、哲平が見た顔なんだけど、モンタージュ写真とかないの?」

「なんで?」

「これ以上バイク便ライダーの犠牲者が出ないように、達也の力を借りてソマン危機管理マニュアルを作ったの。会社も賛成してくれて、同業組合を通じて、都内各社に配ってくれることになったんだけど…それと一緒に犯人の顔も配れないかなと思って…。」

「犯人じゃなくて、今は重要参考人だよ。でも…、捜査機密は無理だと思うよ。」

「哲平、都内にバイク便ライダーが何人いると思ってるの。24時間を通して、街中のいたるところで荷待ち待機をして通行人を見ているのよ。沢山の警察が必死に捜査しているだろうけど、必ず役に立つと思うの。」

「そうかなぁ…でも翔子。なんでそんなに犯人逮捕に熱心なんだ。」

「なぜって…。」

 翔子が答えに詰まってうつむいてしまった。

「そうか…ペケジェーを殺されたくないんだな。」

 翔子が顔を赤くして哲平を上目使いに見た。

「別にそれだけじゃ…。」

 翔子の返事も終わらぬうちに、哲平はその場で捜査本部に電話し狩山を呼びだした。翔子の提案を簡潔に狩山に話すと、短い返事を繰り返して電話を切った。

「捜査本部の責任者の了解が出た。とにかく一刻も早く犯人を挙げたいから、何でも試したいそうだ。ただし、見つけた場合は絶対に独断行動しないで、まず捜査本部へ連絡することが条件だ。」

「よかった…。」

「ほら、これが俺が見た顔の似顔絵だ。」

 哲平は交機の職務中でも、会う人すべてに聞こうと似顔絵を肌身離さず携帯していた。差し出された似顔絵を見て、翔子はちょっと眉間にしわを寄せた。

「翔子。お前、今どき似顔絵か、なんて思ってるだろう。」

 思いを言いあてられて驚く翔子。その顔を見ながら哲平は、自分も交機をやめて捜査官に成れるかもしれないと思った。

 

 翔子が達也と哲平の力を借りて作ったソマン危機管理マニュアルは、共同組合を通じて都内の全バイク便ライダーに配布された。警察官が被害を受けたら犯人は警察全体から報復を受けることになると言われる。同様に、罪のないライダー仲間がふたりも犠牲になった事件だけに、バイク便業界全体が黙ってはいなかった。各社のコントーロールセンターが、所属するライダーからの情報集約をおこない、それを組合の特別部署に連絡。そこから捜査本部に送られるシステムが構築された。当然ライダーたちも業務の合間には眼光鋭く通行人を観察し、似顔絵にあった人物はいないかを探す。犯人、いや重要参考人の発見の為に、哲平が見た顔の似顔絵を持った何万の警察官とバイク便ライダーが、その目を光らせることになったのだ。

 以来、似顔絵に関する膨大な情報が捜査本部に寄せられたが、残念ながら哲平が見た本人に該当するものはなかった。そして1週間が過ぎた。

 

 正義の為に目を光らせる勇士が上田総合病院にもひとりいた。コッペイである。彼は手術の傷が癒えて動けるようになると、まず始めたことが病院内のパトロールだった。パジャマの上に哲平から貰ったジャンパーを羽織り、院内を定期的に歩いて回った。困っている人はいないか、悪い奴はいないか。退院まで残り少なくなった日々ではあるが、コッペイなりの目で病院に入院している人々の安全と平和を守ることに尽力していた。

 実のところ警察は、達也の家族の命が狙われている事を意識して、上田家の自宅やそれぞれの家族の動きに対しては警護にあたっていたが、病院そのものが狙われると言うことには思いつくことが出来なかった。結果的に、コッペイは無意識ながらも警察を越える洞察力を有していた事になる。

 今日も昼食前のパトロールを終えて、自分の病室に戻ろうとしている時だった。院内の通路である男とすれ違った。すれ違った瞬間、コッペイは以前味わったと同じ、この世にあるはずもないモノの気配を感じた。コッペイの背中に殺気にも似た冷気が忍び寄り、彼に緊張を強いた。ショッカーだ。ショッカーに間違いない。コッペイはゆっくりと振り返ると、その男は手袋をした右手に黒いスポーツバッグを持ち、足早に離れていく。コッペイは勇気を振り絞って、その男の後を付いていった。

 男は入院患者の為のラウンジにくると、談話用の椅子に腰掛け何かを待つようにじっとしている。コッペイは、植栽の陰に隠れて様子伺った。やがて、昼食の時間となり、ラウンジに居た人はそれぞれの病室に戻りはじめた。ラウンジに人影がなくなるとその男は、一転素早い動きで自販機の陰にあるゴミ箱の奥に、黒いスポーツバックを隠し込む。そして、何事もなかったように足早に立ち去っていった。

 ショッカーはいなくなったが、ゴミ箱を見つめながらコッペイはどうしていいか解らない。頭に浮かんだのは、哲平のことだった。とにかく副隊長に報告しなくては。急いで病室に戻った。

「テッペイちゃん。何処いってたの?お昼が冷めちゃうじゃない…。」

 心配して待っていたミカのお小言には構わず、コッペイは急いで哲平に電話したいとせがんだ。

「桐谷さんは今お仕事で忙しいのよ。あとひとつ寝れば、退院だから、今度おうちにお呼びすればいいでしょ。そんなことより、はやくお昼ご飯を食べちゃいなさい。」

 ミカのそっけない返事に、コッペイはコミックのヒーローと同様に、正義を成し遂げることの難しさを感じていた。

 

 実はその男を見た人物がもうひとりいる。翔子だ。昼食休みに、達也との危機管理マニュアルの修正点の打合せで病院のコーヒーショップいたのだ。

「その後家の様子はどう?変な人とかうろうろしていない?」

「ええ、そんな気配はありません。警護もありますし…。」

「通勤とかはどうしてるの?」

「事件があった日以来、非常時に動きやすいように、翔子さんのバイクで通ってます。相変わらず父には内緒ですけどね。」

「そう…。」

「自分のことより、翔子さん、このマニュアルの件でずっと働き詰めでしょう。無理しないで少しは休んでくださいよ。」

 翔子の頑張りの理由は達也にある。しかし彼はそれに気付いていないようだ。達也の言葉に送られながら、仕事にもどろうとした時、病院から出て来るその男を見た。

 とにかくその男の顔を見た瞬間に震えがきた。何処が似ていると説明が出来ないが、顔全体の印象が彼女に震えを起こさせたのだ。早速コントロールセンターに連絡しようとするが、ここ最近人一倍の目撃情報を送り、しかもそれがすべて空振りのこともあって少し気後れしている。哲平に連絡した方がまだ気安い。そう考えた翔子は、黒光りするステーションワゴンに乗り込んだ男を追いながら、ヘルメットに仕込んだ携帯イヤホンとマイクで哲平に連絡を取った。

 

 狩山は、窓から外を眺めながら、どうしようもない焦燥感にあえいでいた。行き詰る捜査の中で、あの桐谷という警部補は面白い情報を持っては来てくれた。それ以来格段と情報は増えったが、なかなかヒットしない。一向に犯人に近づいている気がしないのは、自分のかじ取りが間違っているせいなのかと、部下たちに見えぬところで唇を噛んでいた。

「狩山さん、似顔絵の男がヒットしましたよ。」

 捜査官のひとりが叫びながら、本部に飛び込んできた。狩山が待ち望んでいた報告だ。

「似顔絵の男に間違いないとの証言が取れました。」

「どこだ?」

「薬品のディーラーです。似顔絵の男に、ヘキサメチレンテトラミン (hexamethylenetetramine,HMT/複素環化合物)を販売したそうです。」

「ヘキサミンのことか?」

「はい。」

「おい…それって…膀胱炎や尿路感染症の治療に利用される一方で、裏の顔は、RDX(Research Department Explosive)爆薬を製造する原料だろ。」

「ええ、プラスティック爆弾の主要成分です…。」

「するとなにか、もしそいつが犯人だとしたら、ソマンとプラスティック爆弾の両方を持ったってことか?」

 狩山の問いに、室内は凍えるような沈黙に覆われた。

「ぐずぐずしてんじゃねぇ。ヘキサミンは毒劇物取締法の品目だ。販売記録があるはずだろうが。」

 狩山の一喝に、飛び込んできた捜査官が同じスピードで飛び出していった。

 

 病院内の通路を、自分の診察室へ向かって歩く達也は、先程別れた翔子のことを想っていた。自分の自宅で時間があった以来、何百回もなぜ自分達の家族が狙われるのかを考えていたが、まったく思い当たらない。それは、父も兄も母も同様だった。

 なのに自分は実際に命を失いかけた。愛するブルースの命と引き換えにその危機から救われたが、今でも亡き骸となり硬直したブルースの姿を想い出すと胸が掻きむしられる。もしこれ以上、自分の命を救うという理由で愛するものを失ったら、そのことだけで自分は生きていけそうにない。だから、翔子には無理して欲しくなかった。

 無意識のうちに、ブルースと同じ位置づけで達也の『愛するもの』の中に翔子が入っていた。

 

「翔子、どいつだ。」

 男を追っていた翔子の背後から、制服姿の哲平が声を掛けた。

 彼は職務中にもかかわらず翔子の招集に応じた。勝手な持ち場移動。始末書も恐れぬほど、彼も重要参考人の確保に必死だったのだ。翔子は、セルフのガスステーションで給油する男をあごで指し示した。

「うーむ…。」

 顎に手を当てながら、その男を眺めていた哲平だが遠目ではその顔が判断しづらい。

「ちょっくら職質かけてくら。」

「気をつけてよ、哲平。」

 哲平は片手を上げて答えながら、その男に近づいていった。

 

 証拠も不十分ながら、狩山が30年のキャリアを賭けて、裁判官から強引にとった家宅捜査令状。テロ対策室の捜査は疑しきは罰せずの原則を順守していたら手遅れになる。そんな悠長なことを言っているより、自分のキャリアを賭けてでも大殺戮を防げた方がいい。自分が間違って入れば、懲戒免職になればそれですむのだから。裁判官もいつもがならの狩山の強引な令状請求に苦虫をかみつぶしたような顔をしたが、結局請求に応じたのは、単に狩山の捜査勘だけではない。ことの重大性を認識したからこそだ。

 本部の捜査官のほとんどが販売記録に記載されている住所に集結した。清閑な一軒家の表と裏を固め、もしもの場合を考え除染隊まで待機させていた。

 ふたりの捜査官が外門をくぐり、玄関ドアのチャイムを鳴らした。何の返事もない。大きな声で名前を呼びながらドアを叩いたが応答がない。

 法令にのっとり自治体の関係者の立会いの下、ドアのロックが壊されて捜査官が室内に入る。昼間だと言うのに、厚くカーテンで遮光されていた室内は、何やら薬品の匂いが漂う漆黒の空気に満ちている。嗅ぎなれぬ匂いが充満する室内に、捜査官は一時たじろいだ。しかし、職務使命を暗誦しながら、勇気を振り絞って室内の奥まで入り込むと室内灯のスイッチを付けた。

 そこに透明なビニールで仕切られた実験室が現れると、捜査官の身体が凍りついた。おぞましい現場に慣れ切った捜査官でさえ、死体も血痕もないその実験室の邪悪な妖気に、膝の震えを止めることができなかった。

 一方、捜査本部で待つ狩山は、家宅捜索の結果報告を身動きせずに待っていた。動かない割には鼓動が異常に早い。極度の緊張状態であることが、自分でもわかった。だから、待ち望んでいる電話が鳴った時も、自分を落ち着かせる意味で電話を睨みつけながら5回鳴るまで待った。

「狩山だ。」

「室長、ビンゴです。」

 捜査官の興奮した声が受話器から聞こえた。

「被疑者は?」

「不在でした。付近に見当たりません。」

「くそっ…。」

 危険な状態は、依然続いている。

 

 哲平は、ガスステーションで給油する男に、近づいていった。背後から歩み寄っているので、顔そのものは見ることができなかったが、体つき、髪型は確かにあの時レストランで会った男に酷似している。しかも、近づくに従って、あの時感じた粘着気質なオーラが徐々に肌に刺さってきた。哲平の身体にアドレナニンが充満する。若き頃、喧嘩に向う時の興奮状態に似ていた。

 男は近づいて来る哲平に気付いたようだった。手にしたキャップを頭にかぶるとサングラスをして振り返った。哲平はもろに男の顔と正対した。しかし、鼻や口そして顔の輪郭はあの時の男に似ているが、一番特徴的だった黒目がちな瞳を確認することができない。

「何か御用ですか、おまわりさん。」

 男は口元に薄笑いを浮かべながら哲平に話しかけてきた。その余裕ある言動に戸惑いながらも、哲平は腹を据えてその男に仕掛けた。

「GDを吸って死ななきゃならないのは、お前だろう。」

 男が、哲平の言葉に反応した。一瞬身体を硬直させたかと思うと、一転、目にもとまらぬ速さで、右手を水平にはらう。その手にナイフがあった。敏捷な反射神経で身体を反転し、哲平はかろうじて致命傷から逃れたものの、逃げ遅れた左腕が血に染まる。

 男が脱兎のごとく駆け出すと、哲平はそれ以上のダッシュで男を追う。左腕に鮮血が滴り落ちようが、哲平の鍛えられた肉体で男を取り押さえることは簡単だった。男の右腕を絞って、ナイフを叩き落とすと背負い投げをかける。哲平の身体ごと地面に叩きつけられて、男のアバラ骨にひびが入る音がした。

 男は、哲平の身体の下であえぎながらもポケットに手を入れる。また武器を出すのではないかと、危険を察知した哲平がその手を押さえ込んだが、男はポケットから手を出すことなく、中で何かのスイッチを入れたようだった。

 轟音とともに、黒いステーションワゴンが爆発した。男は不利な体勢を挽回しようと車を爆破させたのだ。しかし、男はプラスティック爆弾を生成したはいいが、さすがに実験が出来ずにいたので、その破壊力がわからない。実際に爆発させてみると、この爆発は、男の予想をはるかに超えたものだった。

 車の爆発でガスステーションが引火しさらに大きな爆発を起こした。縦に上がった火柱とその爆風で、哲平と男は組み合ったまま吹き飛ばされた。地面に横たわり気を失っている男を尻目に、半分焼けた制服の哲平が雄々しく立ちあがる。哲平は爆発とともにソマンが襲ってくるかと、覚悟を決めて目をつぶりながら天命を待ったが、しばらくしても身体に変化は起きなかった。

「おめえ、いろんなおもちゃ持ってるじゃねぇか。」

 哲平は気を失っている男を睨みつけた。

 このターミネーターの映画のシーンのような一部始終を、翔子は足をすくませながら電信柱の陰で見ていた。爆破の瓦礫にうずまった哲平に駆け寄ろうとすると、中から哲平が立ち上がり、俺は大丈夫だと、アーノルド・シュワッツネーガーのように翔子に笑いながら片手を上げてサインを送ってきた。ひとまず安堵のため息は着いたものの、どうやらあの男が本物の犯人であることは間違いないようだ。

 でも、その犯人がなぜ達也の病院から出てきたのか…。翔子はハッとした。携帯を取り出すと、誰よりも先に達也へ一報を入れた。話しを聞いた達也は電話の向こうで驚愕していたが、すぐに声は冷静になった。

『…何から始めたらいいんだろう。とにかく、連絡してくれてありがとう。』

 達也は電話を一方的に切った。

 翔子は、とりあえず病院から避難するように達也に知らせたつもりだったが、彼は動けぬ患者を残してそんなことをする男ではない。危うくなった命があれば、身の危険を顧みずその命の元へ飛んでいく。翔子はこれから達也が何をしようとしているのかを察知し、反射的に病院へ戻らなければならないと感じた。達也が危ない。

 自分のバイクを見ると、爆発の衝撃で倒れていた。起こそうとしたが、ラジエーターが破損し冷却水が漏れだしていた。哲平の白バイを探すと、重いことが幸いして爆発にも耐え無事に立っている。翔子は躊躇なく哲平の白バイにまたがり、エンジンをスタートさせて病院に向った。

「おい、翔子、俺のバイクを勝手に…。あーあ、行っちまったよ…。」

 哲平は、諦めたように首を振ると、捜査本部に連絡を取った。そして時計を見てつぶやく。

「みんなが来るには15分はかかるよな…。」

 今度は男の処置に取りかかった。男に手錠を掛けると、未だ火柱が上がるガスステーションからバケツ一杯の水を汲んできて、男の身体にぶちまける。男はそれで目を覚ました。

「おい、GDのお兄ちゃん。病院で何やってたんだ?」

 男は最初事態が飲み込めず戸惑っていたようだが、やがて自分の境遇を知ると開き直って薄笑いを浮かべる。

「そうか、喋りたくないのか…。」

 哲平は、男の首を締めあげた。

「お前はナチが開発した毒ガスに詳しいんだって?でも、ナチが良くやっていた拷問は知らないだろう。」

 哲平は、燃え盛るガスステーションの中に男を引きずり込むと、水洗いホースのある場所に男を放り投げた。そして爆発で砕けた板に男の背中を固定して、頭を下に向けた状態で縛りつける。何処から見つけてきたのか、厚手の袋を持ってきて男の頭にかぶせた。

「ウォーターボーディングって知ってるか。」

 哲平はホースを引き出しながら言った。ウォーターボーディングとは、顔にかぶせた袋に穴をあけ口や鼻の穴に水を直接注ぎ込むことで急速に窒息を生じさせる拷問だ。頭を水槽などに押さえつけると息を止めて抵抗されるが、逆さまの状態で水を口や鼻の穴に注ぎ込まれると気管の咽頭反射で肺から空気が放出され、すぐに溺水状態に追い込めるため溺れ死ぬ感覚が簡単に誘導できる。殴ったり感電したりする拷問は、苦痛を与えることはできるが死の恐怖を実演することは難しい。しかし、この拷問は簡単に溺死する錯覚に陥り、死の恐怖で短期間に自白を強要できるとされている。

「お前は何回死の恐怖に耐えられるかなぁ。さあ、皆が集まってくる前に、話を聞かせてもらおうか。」

 哲平はホースの水を、男の顔に注いだ。こんな拷問を知っているなんて…。やはり、哲平は相当なワルだ。

 

 翔子の一報から達也の動きは素早かった。まず院長に連絡。あいにく父親は学会で不在だったが、兄である副院長が電話を取り、達也の報告内容に愕然として受話器を取り落とした。次に、事務長、そして防災室長に連絡を取り避難の指示を与える。

 動ける患者は、とにかく病院から遠ざかることとし、風向きを考えて避難エリアを指定した。

問題は動けない患者への対応だ。達也は事件以記憶していたレポートの隅々まで思い起こし、ソマンは空気より重いことに思いついた。そうか、ソマンは地を這うように広がる性質があるんだ。病院のどこにソマンが仕込まれているか解らないが、とにかく達也は動けない患者を、下の階から最上階へ避難するように看護師たちに指示を与えた。この時達也はプラスティック爆弾の存在を知らなかったのだ。

 神経ガスの恐怖に、さすがの医療スタッフもパニックに陥っていた。患者の避難誘導に猫の手も借りたい現状では、看護師だけでなくドクターや看護師以外のパラメディカルスタッフ全員の力が欲しい。医療スタッフを統括してもらおうと副院長を探したが、その姿が見当たらない。

「副院長先生は、もう病院を出て行かれました…。」

 秘書の返答に、拳を握りテーブルを叩いた達也だったが、すぐに表情を和らげ秘書に言った。

「恐ろしいとは思うが、事務の皆さんと一緒に、事務長について患者さんの避難誘導に協力してくれ。」

 秘書は顔を恐怖で引きつらせながらも、事務室へ飛んでいった。

 その後達也は、病院内の各階を走り回りながら、指示の徹底を図る。病院に患者が残っている以上、白衣を着ている者は、何人たりとも病院から離れることを許さない。そんな彼の気迫に押され、パニックに陥っていた医療スタッフも、やがて自分達の使命を取り戻していった。

 その動きの素早さゆえに、警察から通報があった時には、もうすでに避難誘導はスムーズに進行していた。そして、警察が到着するより早く、翔子が赤いヘルメットに白バイと言う雄姿で、病院に到着したのだ。

「達也。」

 透明の大きな密封袋を抱えて右往左往する達也に翔子が声を掛けた。

「翔子さん…なんでここに?」

「あんたはいったい何してるの?」

「患者さんの非難はとりあえず進んでいるから、ソマンを探そうと思って…。なんとか見つけてこの密封袋に入れ込めれば、液が漏れだしてもガスを防げる。」

「そんなことしているうちに漏れだしたらどうするの?」

「前の例では、荷物を受けって液が漏れだすまで1時間半かかった。その例で類推すると、もし犯人が本当に病院にソマンを隠したとしたら、準備や自分が持って移動する時間を前回同様の時間として差し引くと、犯人が病院から出た時間から1時間半、つまりあと10分程度はある計算になる。」

「そんなこと単なる予測でしょう。達也も避難しなくちゃ…。」

 その時、翔子の携帯が鳴った。

『おい翔子、病院へ着いたか?』

 哲平の声だった。

『病院に連絡しても、誰もでやしねぇ。』

「哲平?ええ、着いてるわよ。いまここに達也も居るわ。」

『そうか、犯人のやろう、一回溺れそうになっただけでゲロしやがったぜ。情けねぇ。』

「溺れる?」

『こいつやっぱり病院にソマンを仕込んだらしい。しかも、あと10分後くらいにガスが発生するようだ。お前ら早く逃げろ。』

 翔子はソマンがあると聞いても驚かなかった。達也は自分の計算が正しかったことを知った。

「で、どこに隠したの?」

『翔子、そんなこと聞いてどうするつもりだ?』

「いいから教えて。」

『うむ…、どうも入院棟の談話室らしいんだが。』

 そばで聞いていた達也が口を挟む。

「入院棟の談話室って言っても、5階から8階の4カ所ありますよ。もし、7階か8階だったらその階に避難している、動けない患者さんと病院のスタッフの命が危ない。」

「達也が見つけられれば、ガスが広がるのを防げるって…。」

『そうか、それなら逃げるわけにもいかないな…こいつにもう一回溺れてもらうか。』

 翔子も達也も哲平と犯人の間で何が行われているのか理解できなかった。

 その時だ。翔子は自分のジャンパーの裾を引かれるのを感じた。見るといつの間に来たのだろう、5歳くらいの男の子が翔子と達也の後ろに立っていた。翔子が哲平の名を呼ぶ声を聞いて、母の手を振り切って駆け寄ってきたのだ。

「坊や、この病院は危ないから、お母さんと早く外に出なさい。」

 駆け寄るお母さんを指差しながら翔子がその子に諭すが、男の子は頑として聞かない。

『どうしたんだ?』

 哲平の問いに翔子が答える。

「今ここに男の子がいて、外へ行けと言っても聞かないの。でも変ね…お兄ちゃんのジャンパー着てるわ。」

『コッペイか?おい、その子を電話に出せ。』

 哲平が慌てて翔子に叫ぶと、コッペイに言い聞かせる。

『危ないから早く母さんと外に出ろ。副隊長の命令だ。…えっ?』

 コッペイは、自分が見たショッカーのことを哲平に告げた。

『そうか、わかった…そこにお母さんがいるか?替わってくれ。』

 コッペイは大きな声でうんと返事をすると、携帯をミカに渡した。ミカは哲平に話すコッペイの言葉を聞いて、電話をかけさせなかった自分が、いかに取り返しのつかないことをしていたのかを悟った。

『ミカさん。コッペイは犯人がソマンを隠した場所を見たそうです。しかし、そこまで案内させるような危ない真似は出来ません。ミカさんがコッペイから詳しく聞いて、そこにいるふたりに知らせてください。』

「そんな余裕はないんでしょう?」

『えっ?』

「私も付いてコッペイに案内させます。」

『やめてください。そんな恐ろしいことを…。』

「恐ろしいことに勇気を持って立ち向かうことを、私たちに教えたのは哲平さんですよ。」

『そんな…。』

 ミカは携帯を切って、コッペイを抱きかかえた。そして、翔子と達也と連れだって談話室へ駆けだした。途中階段を駆け上りながら、コッペイの記憶では何階の談話室だったか、あいまいであることがわかった。とりあえず、5階の談話室へ急ぐ。

 談話室へ到着すると、コッペイはすぐに自販機の横のゴミ箱を指し示した。翔子と達也がそのゴミ箱に飛びついて中を確認したが、それらしきものは見当たらない。

「お母さん。談話室のどこに隠したのかはコッペイくんのお陰で解りました。これから全階の談話室に駆けあがるには、翔子さんとふたりの方が早い。お母さんはコッペイくんと病院を離れてください。あと7分です。」

 達也の言葉に納得したミカは、翔子と達也にお辞儀をするとコッペイを抱きかかえて病院の出口に向かった。

 翔子と達也はまた階段を駆け上がった。6階、そして、7階の談話室にたどり着いた時、ふたりはようやくゴミ箱の中に黒いスポーツバッグがあるのを発見した。

 

 翔子と達也ふたりで、バッグに液体のシミがないかを慎重に確認した。軽く振ってもみた。バックの中にソマンの液は漏れだしていないようだ。これならみんな助かるかもしれない。達也が慎重にバッグのチャックを開いて中身を取り出したが、ふたりのまったく予想外な品物が出現した。液体の入ったふたつのカプセルに粘土状のモノがしっかりとビニールテープで止められ、赤青黄色のコードが入り組んだ先に黒い箱とタイマー。哲平に内容を確認しようと、翔子は自分の携帯を手にしたがその手を止める。ガソリンスタンドで見た大爆発を想い出したのだ。

「そう言えば、犯人は爆発物を持ってたわ…。」

「これが爆発したら、7階、8階の人どころか、外で避難している人の上にもソマンのガスが降り注ぐことになります。これじゃ、密封袋に入れたところでどうにもならない。」

 翔子と達也は互いに見つめ合い、それぞれの瞳の奥に絶望的な恐怖があるのを見た。

「みんなが助かる方法はないの?」

「方法は…。」

 達也は今まで使ったことのない脳のシナプスまで総動員して、方法を探った。

「ソマンを洗浄するのに、水酸化ナトリウムの濃厚水溶液を使用します。もしこれを海水の中で爆発させることが出来れば、中和して毒性の低い化合物に分解することができるかも…。」

 翔子の目の色が変わった。タイマーの数字は5分を切っている。

「無理です、翔子さん。ここから埠頭まで5分じゃ行けません。」

「あたしを誰だと思ってるの。弾丸翔子よ。4分で行ってやるわ。」

 翔子は手にしていた携帯を投げ捨てると、黒いスポーツバックを担いで脱兎のごとく階段を駆け降りた。

「翔子さん。」

 達也が叫んで呼びとめても、翔子の耳には入っていないようだった。達也は、翔子が投げ捨てた携帯を拾うと、彼女の後を追った。そして、走りながらリダイアルし、哲平に翔子がしようとしている事を報告した。

 

 翔子が病院の玄関から外に出ると、警察、消防の車両がようやく到着しているところだった。誰に何の説明をするわけでなく、玄関前に止めてあった白バイにまたがり、赤いヘルメットを付けてエンジンを始動させた。エンジンが吹け上がるのももどかしく、高回転でクラッチを繋ぐ。タイヤから煙を上げながら白バイはスタートしていった。タイマーは4分を切っていた。

 後を追う達也も、翔子の数秒遅れで自分のバイクに飛び乗った。白衣のポケットを叩き中にあるPAMを確認しながらつぶやく。

『絶対に死なせるものか。ブルースと同じ目には絶対に遭わせない。』

 エンジンをスタートさせて、奥歯が砕けるほどの力でアクセルを開けると、翔子の後を追った。

 

 達也の哲平への報告が功を奏した。哲平から管内全交機に連絡が飛び、病院から埠頭へ向かう主な交差点全カ所にパトカーが配置されて、すべての車両をストップさせた。また警察無線を傍受したバイク便のコントロールセンターは、付近に待機するバイク便ライダー全員にメールを飛ばし、病院から埠頭に向う細かい交差点に待機するよう指令。そこで車両や自転車、歩行者に注意を促したのだ。

 従って翔子が疾走する白バイの先には、なにものにも邪魔されない綺麗な道が拓け、弾丸翔子の伝説の走りが繰り広げられた。ゾーンに入った翔子は、バイクとタイヤと自分のテクニックの限界ぎりぎりのところまでアクセルを開け続けた。リアタイヤはズルズルと滑り始め、バイク自身も今まで未知の高回転を体験させられエンジンが焼け始めた。交差点に配置された全警官、路地に待機するすべてのバイク便のライダーの目の前を、甲高いエキゾーストノイズを轟かせながら飛び去っていく。そのあまりにもの速さに、見送る者たちの目からは、翔子のヘルメットの赤が溶けて後方に延びたように見えた。

 驚いたことに数秒遅れて出たはずの達也が、翔子のバイクのテールをとらえた。つまりここまでは、翔子の走りを越えて走ってきたことになる。ここまで追いついたものの、彼の限界を遥かに越えた走りは、彼の神経をすり減らし、心の疲労と恐怖で気を失う寸前だ。危険な状態だった。しかし彼はわかっていたのだ。ここまでくれば翔子が引っ張っていってくれる。あの峠の道もそうだった。翔子と同化さえすれば、翔子の向く先に、翔子の倒す角度に、翔子の走るラインに、自然とバイクが動いてくれる。

 

 埠頭へ向かいながら翔子は、自分の鼓動にシンクロするもうひとつの鼓動を感じた。

『だれ?』

『僕ですよ、翔子さん。』

『達也?』

『はい。』

『またここへ来たの?』

『ええ。』

『なんで?』

『だって翔子さんを放ってはいけませんから。』

『なんでそんなに私のことを心配するの。』

『なぜって…。』

 今度は口から出かかっている言葉を躊躇しなかった。

『なぜって、翔子さんが好きだからですよ。』

 翔子は顔を赤らめながら、達也の差し出す手を握った。達也が連れ出してくれる先へ、ともに出て行こうと思った。

 

 突然、翔子の目の前に埠頭の岸壁が現れた。その先は海だ。躊躇せず翔子は白バイの前輪を上げると、リアを岸壁のブロックに当て、海に向ってジャンプした。重い白バイも翔子の手にかかれば羽根を持った鳥のようだ。白バイは翔子とともに美しい弧を描き海面に着水した。間髪いれず達也もバイクで海へダイブする。爆発はそこで起きた。

 海中ではあったが爆圧で翔子の身体がはじけ飛ぶ。爆心に遠かった分、達也のダメージは少なかった。見ると翔子が爆圧で気を失ったのか海中をゆっくり沈んでいく。達也はメットを脱ぎ捨て、急いで翔子のもとに泳ぎ寄ると身体を抱えて埠頭のブロックに引き上げた。

 翔子は海中で気を失って海水を飲んで心肺が停止している。しかも嘔吐、痙攣が始まり眼の瞳孔が収縮している。爆発で飛ばされたソマンを直接肌に受けたのだろう。最悪の状態だ。達也は白衣のポケットからPAMを出すとデニムのズボンの上から、翔子の足の付け根の動脈をめがけて注射針を突き刺した。翔子の赤いメットを着脱し口に溢れる汚物を、直接自分の口で吸い出す。そして、翔子の気道を確保すると心肺蘇生を開始した。

 やばい、自分もソマンを浴びたらしい。鼻水が出て、呼吸が苦しくなってきた。達也はもうひとつのPAMを取りだすと、自分の腕に乱暴に突き刺す。そしてまた翔子の心肺蘇生を開始した。

「翔子、戻ってこい!戻って来るんだ!…俺が引きもどしてやるっ!」

 達也は叫んだ。そしてPANの注射針を腕につき刺したまま、翔子への人工呼吸と胸骨圧迫を絶え間なく続けた。やがて、けたたましいサイレンと赤いライトの点滅とともに、おびただしいパトカーと消防車が集まってきて、達也と翔子の周りを取り囲んだ。

 

 

 暖かな日差しが溢れる休日。達也は峠の道をシルバーのヘルメットを被ってツーリングしていた。翔子のバイクは海に沈めてしまったので、バイクをレンタルしたのだ。借りたのはヤマハV-MAX。エンジンは水冷・DOHCV型4気筒。排気量は1679cc。直進では怒涛の加速感を得られるバイカーには涎が止まらない逸品だ。しかしここは峠道しかもバイクは借り物。達也は軽く流しながらコーナーを楽しんでいた。

 達也のバイクを赤いヘルメットが追い越していった。達也の顔に自然と笑みが浮かぶ。その後ろ姿を見ながら、やっぱり翔子のバイクライディングは美しい。前にいるより後ろについた方が楽しいのだと達也はあらためて実感していた。

 事件から3カ月。翔子は達也の迅速な救命処置で、命を取り留めるとともに後遺症もなく回復した。達也の病院に入院中の翔子は、達也の付きっきりの看護を受け、リハビリの期間も、達也はひと時も翔子から離れようとしなかった。

 実は、翔子にまとわりつく達也もソマンを浴びたのだが、爆心から遠かったので極微量の曝露で済んだ。曝露したことも忘れるほど、達也は翔子の回復に尽くしたのだ。いつしか病院内でも、ふたりは公認の仲になっていた。

 退院後、翔子の回復祝いにツーリングに出た。病気明けとはいえ、翔子のライディングテクニックはまったく衰えていなかった。翔子のバイクのテールにつきながら、達也は翔子と同化して、楽しく心のおしゃべりを続けていた。

 峠の頂上へ着き、ふたりは休憩することにした。展望台のベンチに座ると、翔子は以前と同じようにおにぎりを出してくれた。達也は嬉しそうにおにぎりを頬張る。

「ねえ、メットについているララバイマーク(交差する雷と梅)のシールどうしたの。」

 翔子がベンチの横に置かれたシルバーのメットをあごで指しながら聞いた。

「やっと気付いてくれましたね。副長がくれたんです。」

「どうして?」

「埠頭まで4分を切って走ったでしょう。もうララバイコースにチャレンジする必要はないそうです。暴走集団ララバイの構成員に正式認定です。キャプテンジャンパーは、コッペイくんにあげちゃったんで、シールくれました。」

 翔子は笑い出した。実際、自らの命を賭して翔子の命を守った達也のガッツを、哲平も認めざるを得なかったのだ。

「これで翔子さんと堂々とお付き合いができます。」

 翔子はひとしきり笑った後、達也の言葉を聞いて寂しい目をした。

「達也、話しておきたいことがあるの…。」

「おにぎりの中にスカがあるんでしょ。」

 達也は翔子が心に抱えているものを察していただけに、わざととぼけた返事を返す。

「そうじゃなくて…。」

「ええ、解ってますよ。お兄さんの遺品を探しにアメリカ大陸へ行きたいんでしょう。」

 翔子は何も言わず達也を見た。達也が自分を想ってくれる気持ちが解るがゆえに、なかなか切り出せなかったのだ。

「兄貴のもとへ向かっていた命を、達也に引き戻してもらいながら、申し訳ないけど。」

「やっぱり、本気なんですね…。」

 翔子は青い空を眺めながらうなずいた。達也も青い空を見上げて、無理やりおにぎりを飲み込んだ。

「翔子さんが決めたことに、自分がどうのこうの言う資格はないです。」

 言いたくない言葉をなんとか絞り出すように、達也がしわがれた声で言った。

「翔子さんのバイクを海に沈めちゃったから、そのまま僕のバイクを使ってください。そのかわり、必ず返しにきてくださいね。お願いします…。」

 うつむいて小さくなった達也の肩に、翔子が寄り添ってきた。長い髪が風に揺れて達也に腕に優しく触れる。達也は手にしたおにぎりの残りを口に放り込んだ。やっぱり、今日はついていない。彼が手にしていたおにぎりはスカだった。

 その日翔子と達也は峠の頂上で別れることにした。長く細い脚を上げてBMにまたがり、片手をあげてさようならをする翔子。峠の頂上から遠ざかる赤いヘルメットを眺めつづけながら、もうあのバイクのテールを追うことが出来なくなるなと思った。そう思うと、達也の瞳に自然と涙が溢れて止めることができなかった。

 

 1年後。

 

「あれ?副長。珍しくスーツ姿でどうしたんです?」

 声をかけられた哲平が振り返ると車いすの次郎がいた。次郎のそばには、おんぶひもで乳児を背負う若妻がいて、哲平に笑顔で挨拶する。

「おう、次郎か…その後リハビリの具合はどうだ。」

「ええあと1カ月くらいしたら車いすからも降りれそうです。」

「そりゃよかった…。」

 いきなり後ろから、コッペイが哲平の長い足に飛びついて来る。

「コッペイくんも一緒でしたか。」

「ああ、さっきまでコッペイの小学校の入学式に出席してたんだ。」

「えっ?父親でもないのにどうして…。」

「なあ、どうして入学式を見ると涙腺が緩むんだろうな。なんか、涙がとまらなくてよぅ。」

 次郎の問いにもお構いなく哲平が話し続ける。すると、今度は後ろから眩しいばかりの貴婦人がやってきて、哲平の腕を取った。

「それじゃな、次郎。時間があったらまた先生と飲もうぜ。」

 哲平はコッペイを抱きあげて、貴婦人と腕を組んで平然と歩き去っていった。次郎一家は呆然とその姿を見送った。

「ねえ、哲平さん。お話ししなければならないことがあるの。」

「なんだ、ミカ。」

「コッペイに弟か妹ができたらしいの。」

 哲平の足が止まった。

「本当か?やったぞ、コッペイ。お前もついにお兄ちゃんだー。」

 哲平とコッペイは、抱き合いながら飛び上がって喜んだ。

「だったら早くミカと結婚しなくちゃ。出来ちゃった婚だけど仕方が無いな。」

「それがプロモーズの言葉なんですか?まったく哲平さんにはついて行けないです。」

 ミカが笑いながら言った。

「でも無事に結婚できるかしら…。」

「どうして?」

「私の唯一の身うちは叔父なんですけど、結構怖いんです。許してくれるかしら。」

「大丈夫、恐れず立ち向かうのが本当の勇気だろ。」

「だって1年前、ガスステーションをめちゃくちゃにした上に、ソマン犯人を勝手に確保して、しかも拷問までしたってすごく怒ってたから。」

「えーっ。」

「そうそう、あの時あんなワルはいないって叫んでました。」

「まさかミカの叔父さんって…。」

「そう、テロ対策室長の狩山なの。」

 哲平は頭にあの眼光鋭い室長を思い描いた。初めて自分の勇気が揺らぐのを覚えた。

 

 気温45度を超える過酷な南スーダンは、しっかり3食を取らなければ身がもたない。それだけ体力消耗が激しいのだ。達也はここでほんの小さな達成感と巨大な挫折感を味わっている。過酷な環境の中で、助けられるいくつの命を失っただろうか。翔子から別れてから、改めて自分のやりたいことを考え、自分の行き先をしっかり見据えた。父の反対を押し切り、使命に燃えて国境なき医師団に参加したのだ。そしてここ南スーダンに派遣されたのはいいが、想像を越える悲惨な状況にいかに自分の認識が甘かったかを思い知った。

 今日も疲れた目を瞬きながら、砂ぼこりの舞い上がる砂漠の向こうを眺めている。薬品のストックが底をついて、その補充を待っているのだ。その薬品が補充されたところで、病やけがに苦しむ人々の数に比べれば焼け石に水。結局麻酔の無い手術を受ける患者や栄養が取れない乳児の狭間で、医者でありながら何も出来ない自分に気付く。今自分ができるベストを尽くそうと何度も言い聞かせるが、ここにやってきた初志がくじけそうになっている事も事実だった。

 達也が眺める遠い先に砂煙が立った。やがて、その砂煙から一台のバイクが姿を現した。過酷な環境を走ってきたのだろう。バイクもヘルメットも泥だらけだ。バイクが到着し、ライダーが荷台に積んだ箱を持って達也のところにやってきた。

「Good job(ご苦労さん)」

 そう言って達也が箱を受け取り、中身を確認する。ライダーが受領書を差し出して、達也にサインを求めた。達也がサインをして診療室に戻ろうとすると、ライダーが彼の肩を手で押さえ、もうひとつ荷物があると指を一本立てた。何かと思って、達也が立ち止まるとライダーは、手に持っていたバイクのキーを達也に差し出す。

 達也は戸惑いながらキーを見つめていたが、ハッと思いあたってライダーのメットの埃を拭う。真っ赤な色が現れた。そしてライダーがゆっくりとメットを脱ぐと、そこから長い髪が懐かしい輝きを放ちながら飛び出してきた。やはり翔子だった。1年間のアメリカの旅はどんな旅だったんだろう。前にも増して、凛とした女性らしい美しさに溢れている。

「いい加減にしてよ。南スーダンまでバイクを返しに来るはめになるなんて。あたし聞いてないわよ、まったく。」

 翔子の笑顔が強い南スーダンの日差しに弾けた。

「ほらキーを受け取ったら、さっさとこっちの受取書にもサインして。」

 達也が見るとその受取書は婚姻届だった。もう妻になる人の欄に翔子の署名がある。

「翔子さん…プロポーズくらいさせてくださいよ。」

 翔子は半泣きの達也の肩を優しく抱いた。

 

 それから翔子は達也を手伝いながら南スーダンの診療施設で過ごした。翔子の登場で勇気を盛り返した達也は、無事任期を終えて、翔子と手を握りながら帰国する。達也は翔子のテールを追う癖が、まだまだ抜けないらしい。【了】


 
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