No.573565

残り香

樺原 恵さん

屯所時代。互いに想い合っているのにすれ違う沖千。

2013-05-06 11:29:09 投稿 / 全3ページ    総閲覧数:7609   閲覧ユーザー数:7600

 寝乱れた布団に横たわりながら、先ほどまで体温を分け合っていた女のことを想っていた。

 艶やかな黒髪を、言い知れぬ感情のままに掻き乱し、白い首筋に夢中で痕をつけ、赤唇から漏れた甘やかな声に、苦しいほどの切なさを覚えた刹那の刻。

 

 言葉を紡ぐ時も惜しくて、ただ愛することだけに全身を使った。

 

 ――愛しくて。愛しすぎて。

 ――苦しくて、焦がれすぎて。

 

 この感情はいったい何なのだろうか。

 護りたいのに壊したい。

 愛したいのに、苦しめたい。

 

 彼女の双子の兄も、どうしようもないほど、彼女に深く囚われている。愛されたいのに、それを表に出せない複雑な生い立ち。彼女に強く執着しているからこそ、あれほどまでに想いが歪んでしまった。

 彼女に纏わりつく全てを壊して、二人だけの世界を作り、揺蕩たうような時を過ごす。

 

 あの兄は、心の奥底でそんな未来を望んでいるのだろう。離れた時を埋めるように、誰よりも傍に居て欲しいのだと思う。

 

 それは、自分の中にもある願いで。

 彼女に近づく全てを排除して、二人だけで静かに暮らしたい。誰にも邪魔をされず、互いだけを見つめて、穏やかな時を過ごしたい。

 

 彼女は一人。得られる男は、たった一人。

 ならば、誰にも渡せない。

 僕の傍で過ごす未来以外は認めない。

 

 あの心を占めるのは、僕だけでいい。

 愛しげに見つめられるのは、自分だけでいい。

 

 その為になら、どんな事でもするだろう。

 執着の鎖で縛り付けて、他には何も見せないで、その琥珀の瞳が、僕だけを映し続けてくれるのな

ら……。

 

 ――他には、何もいらない。

 

 瞼の裏に浮かぶのは、腕の中で鮮やかに揺れ動く女の姿。闇に浮かぶ白い肌は――今でも渇きを覚えるほどに艶かしくて。

 

 体の芯に蠢く熱に突き動かされるように、乱れた着物のまま庭へと降りた。

 空を見上げると、濃密な夜を照らす月が目に入る。

 温かいような、冷たいような不思議な色。

 彼女の心のように、秘密を纏った月を飽くことなく眺め、切ない吐息を漏らした。

 

 その瞬間、体に染み付いた彼女の残り香が微かに立ち上って消えていった。そのあえかな香りを追うかのように、視線を辺りへと彷徨わせた。

 

 ――まるで、幻の彼女を探し求めるが如く。

病を得てから、僕は酷く荒れていた。

 思い通りにならない身体、次第に心を巣食っていく絶望。

 

 刹那的に振る舞いながらも、迫り来る死が恐ろしくてならなかった。幾多の人を切り殺した自分が、自身の死には恐怖を感じるのかと、自嘲の笑みが頬に浮かぶのを止められない。苛立ちのままに彼女を傷つけ、その瞳に哀しみの色を見る度に、昏い悦びと悔恨が心の中に同時に湧き上がる。

 

(違う、こんな事を言いたい訳じゃない)

(もっと傷つけばいい…)

 

 彼女と共に生きられぬなら、せめて深く癒し難い傷跡として残ればいい。

 彼女の未来に寄り添う男でも、けして消せはしない醜い痕を焼き付けたい。

 

 ――愛している。

 ―心の底から君が憎い。

 

 人の感情の中で、最も強い思いで君を想っている。

 愛と憎しみは、背を向け合った双子のようなもの。

 その根底にあるのは、相手への執着。

 

 懐から、深紅の液体の入った小瓶を取り出した。

 不吉なほど人の命を思わせる鮮やかな赤が、僕の不安と絶望で弱まった理性を揺らして、心に秘めた欲望へと誘っていく。

 

(これを飲めば…人でなくなる)

 羅刹となった隊士の、醜悪な姿が脳裏を通り過ぎた。

(…でも、飲めば命の灯火が延びる)

 艶やかな黒髪に彩られた女の顔が、誘いかけるように微笑んだ。白い腕を広げて、その胸に抱きとめるかのような姿で――。

 

 ふいに、声が聴こえてきた。

 揺れ動く心を嘲るような、不快な笑声。

彼女によく似た貌が、瞳に冷たい色を滲ませて此方を見ている。

 

(厭だ、飲みたくない)

 幻の顔が、揶揄うように口の端を吊り上げて笑った。

(人の血を啜る化け物と成り果ててまで生きるなんて)

 深い赤が、誘うように揺れている。

(…浅ましいことはできない)

 

 葛藤に打ち勝って、人の理性を辛うじて取り戻した。そして、胸元に小瓶を仕舞いこもうとした、その時。

 

 敬愛する近藤さんが襲撃を受けたことを知った。

 大切な人を汚された怒りに燃えながらも、どこか心が軽くなるのを感じた。

 

 ――これで薬を飲む理由ができた。

 

 怒りに青褪めながら薬瓶を手に取る僕を、嗤う声が聴こえてくる。欲望に負けた心を、堕ち行く理性を嘲る、甲高い笑声。

 

 それが、彼なのか…彼女なのかを考えることを放棄して、一気に小瓶の中味を干したのだった。

羅刹となった僕を、彼女は哀しい目で見つめていた。

 昼に眠り、夜に起きる異形のものと変わってしまった僕に、命が長らえたことを喜びつつも、密かに悲しんでいることに気付いていた。

 僕の前で、どんなに笑顔を浮かべて接していても、彼女の琥珀の瞳は、その胸の内を如実に表している。

 

「沖田さん、お加減はいかがですか?」

 彼女の優しい声が聴こえた。

「――千鶴ちゃん」

 瞳を開き、彼女の顔を見つめる。禁断の薬の力を得てでも、傍に居たかった最愛の女。

「…どうされました?」

 彼女の声が不安げに揺れて、その声と共に小さな手が僕の額に触れた。

「何でもないよ。……君こそ、どうしたの?」

「いえ、ちょっと様子を見に伺いました」

「そう…。見ての通り何ともないよ」

 そう言いながら、彼女の手に自らの手を重ねた。触れ合った瞬間、引こうとした手を、上からやんわりと押さえつけて離さない。

「沖田さん…?」

 彼女が戸惑いを隠せない表情で見返してくる。その双の瞳に、僕だけを映している事に、震えるほどの喜びを感じた。

 

「君は、どうしてそんなに僕を気に掛けてくれるの?」

 彼女の肩が、ぴくり、と動いた。琥珀の瞳を覗きこむと、苦しげに細められ、居た堪れないかのように、そっと伏せられた。その悔恨と苦しみに満ちた眼差しを見つめていると、ひどく胸がざわめいた。

 

「…どうして、そんな顔をするの?」

 頤に手を掛けて上向かせ、じっと彼女を見つめた。

「君の兄が仕出かしたことに責任を感じてるの?」

「…申し訳なく思っています」

「何故、君が謝るの?」

「薫は…私の兄だから。私を憎むあまりに、私の大切なものを傷つける――」

 彼女は哀しげな目で僕を見つめながら、静かに言葉を続けた。

「ごめんなさい、沖田さん。私が…傍にいたから。薫はあなたを苦しめると、私を苦しめることになると気付いてしまった…」

 彼女の瞳から透明な雫が幾つも幾つも溢れ出て、白くまろやかな頬に、束の間の光の筋を作った。

 その清き流れとけぶるような睫に、体がじんわりと熱を持ちはじめる。喉が渇き、呼吸はいつしか浅く早いものへと変わっていた。

 

 かさついた唇を舌の先で軽く舐めた。そして、ゆっくりと体を傾けて彼女の耳元で囁きかける。

「…君のせいだと言ったなら、君は何をしてくれるの?」

彼女の体が小さく震えた。

「僕に償いたいと思っているのなら…」

 言葉を切り、耳朶を軽く噛む。

「…君がそう思っているのなら」

 小刻みに震える体を抱き締めて、耳に何度も口付けた。

 彼女は唇を噛み締めて僕の行為を受け止めていた。そして戦慄く唇を開いて、か細い声で言葉を返してきた。

「……あなたが望むなら、どんなことでも」

 どこか甘やかな声に、背筋がぞくり、と粟立つ。

「私に出来ることなら――」

 語尾は掠れて、微かにしか聴こえない。羞恥に染まる首筋に手を這わすと、背が弓なりに反った。その反応に、我知らず笑みが浮かぶ。

 

「本当にそう思っているの?」

 問いかけると、彼女は俯いたまま小さく頷いた。

「なら、君の本気を見せて欲しいな」

「本気…?」

 戸惑った声にかぶせるように、言葉を続けた。

「…君から口付けて。僕を見つめたまま、一時たりとも目を逸らさずに」

 

 彼女の瞳が大きく見開かれた。そして、唇を噛み締めて僕を見つめていたが、くびを緩く振ると、諦めたようにそっと手を伸ばして僕の頬に触れてきた。

 

「…あなたの笑みは、全てを曖昧に溶かして分からなくしてしまう。あの月のように霞んで――」

 あなたが分からない、と吐息と共に零れ落ちた言葉は、互いの唇が触れ合うことによって消えていった。

 

(僕も君が分からない)

 

 ぎこちない口付けを受けながら、間近にある琥珀を見つめた。揺れ動く瞳の中に、一欠けらでも僕への愛がないかと懸命に瞳の奥を探った。

 

(君が欲しい)

 

 着物の襟に手を掛けて大きく開き、剥き出しの肩に唇を這わせた。彼女の腕が一瞬、押し留めようとしたが、すぐに力を抜いて僕の背へと回される。

 

(…何を考えてるの?)

 

 次第に乱れていく着物と、触れ合う肌。

 互いの体温は高まるばかりなのに、心は重ならず冷えたままだった。

 

「千鶴ちゃん…」

 苛立ちを含んだ声で名を呼ぶと、彼女が静かな瞳で僕を見つめた。そして、熱せられた体を感じさせる紅い唇を開いて、小さな声で囁いた。

 

「…あなたが望むなら」

 とろり、と蜜を含んだような声に理性が弾け飛ぶ。

 狂おしいほどの衝動のままに、白い肌を貪るように愛している間、彼女は霞んだ眼差しで空を見つめていた。

 深い闇に輝く月は、彼女の心のように冴え冴えとした光を静かに地上へと投げかけていた。

                               

                           【了】


 
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