No.559297

神次元ゲイム ネプテューヌV ~WHITE WING~ (8) 天使は謳い、悪魔は嗤う

銀枠さん


まさかの連続投稿。明日は雪でも降るんじゃないかな。
まさかTINAMIに文字数制限があって、分割するハメになるとは思わなんだ。
昨日と今日とで7・8話といけたので可能なら9話も早くしたい。

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2013-03-26 02:43:04 投稿 / 全6ページ    総閲覧数:1284   閲覧ユーザー数:1134

第八話 天使は謳い、悪魔は嗤う

 

 

 

 プラネテューヌ――東門

 

 

 

ただ、そこには静寂があった。

じっと睨みあう一人の男と、一人の女。

二人の間にはいつはち切れるかも分らない緊張と、重たい沈黙が横たわっていた。

ハザウェイ率いる部下の男達も、固唾を飲んでそれを静かに見守っている。自然と対話し、己の肉体と魂とを鍛え上げた強者達の面にも、はっきりと分かる緊迫が見て取れた。

いつ訪れるか分からない、決闘の始まりに。

「……」

視界は最悪だった。

白い霧――

水蒸気が二人をすっかり取り囲み、分厚い濃霧の壁がそこには出来あがっていた。ハザウェイの刃にぶつかり、蒸発した雨粒がこの状況を作りだしたのだ。まるで、何者も二人の間へ不用意に立ち入ることは許されない聖域のように。

この二人の戦いを邪魔することなどあってはならない。

誰もが畏れと共に、そう確信していた。

もちろん男達はハザウェイの実力も、気性の荒さも身を持って知っている。だからこそハザウェイの集中を削いだり、彼の意に添わぬような行動がどれほど愚鈍で、早計な死を招いてしまうこともよく理解している。現にそこを理解出来ない愚鈍な仲間が三人も命を落としていたのだから。そんな彼らは物言わぬ、ただの赤い水たまりへと成り果てていた。

見事、風景の一部と化した彼らには、ご愁傷様としかいいようがなかった。

なにしろこの男は災害のようなものだった。

自分の歩む進路を阻もうものなら、そこにある何もかもを跡かたもなく蹂躙していく類の、災厄で最悪な意思そのものだった。

今まさにプラネテューヌ全域で荒れ狂う大嵐のように。

その刹那――

「ハッハア!」

 獣のような吠え声が沈黙を破った。

先に動きだしたのはハザウェイだった。

雨でぬかるむ足場をものともせず――血だまりと成り果てた部下達を踏みつけようと一変の躊躇なく、すさまじい勢いでイヴの元へと疾駆していく。

(イヴさん、敵が動き出しました!)

 にわかにイストワールの声。声だけでも十分な緊迫が見て取れる。

(ああ、そのようだな。あの戦闘狂がどこにいるか分かるか?)

(掛け声と、足音の方角から察するに……正面からです! 今データを送りますね!)

そう言った瞬間、脳内に情報の濁流が流れ込んできた。敵の位置を表す光点と、正確な座標までもが算出されている。これならば視界が濃霧で遮られていようと彼女には関係ない。目をつぶってでも当てられるという確信があった。ただ、イヴは耳を澄ますだけで良い。イストワールからの心の声に従うだけでいいのだ。

これも女神と国とを守らなければという人工妖精特有の義務感からなのか。

否、何があってもイヴを勝利に導くためサポートしなければならないという使命感なのだろう。

(それさえ分かれば十分さ)

 イヴは鷹揚に頷きながら、武器を構えた。

霧で視界不良なのを良い事に、モードを剣から銃へとこっそり変形させている。相手の得意とする間合いが近距離であろうと、そんなものに合わせてやる義理は全く感じなかった。むしろ近づかれる前に撃破してしまうべきだと判断――

(消え去れ!)

躊躇うことなく引き金を引き絞った。

 超音速で射出された弾丸が濃霧の壁を吹き飛ばし、ハザウェイの頬めがけて飛びだした。頬のみならず、頭部から肩にかけてまでの器官をごっそり抉りかねない破壊力。

 そのとき、ハザウェイの鼻がぴくりと動いたのをイヴは見逃さなかった。それから驚くべきことが起こった。弾丸が頬に当たるか当たらないかのすれすれのところで上体を後ろに逸らし、回避に成功している。

「バカな!? 銃弾を避けただと?」

 今しがた目の前で繰り広げられた奇行にイヴはまず己の目を疑い、次に情報源たるイストワールを疑った。

(い、いえ、たしかに私の情報にも、座標にも誤りがありませんでした)

 イヴの驚きと猜疑が伝わってか、イストワールがそう訂正した。何よりも、他ならぬイストワールこそが驚きを隠せずにはいられないふうだった。馬鹿げている。まさか銃弾をかわせる人間がどこの世に存在するというのか。

(私の狙いが甘かったのか?)

 イヴは内心驚嘆しながらも銃を構えて、相手に狙い定めることを怠ったりはしない。目が痛くなるまで凝らし、すぐさま第二射、第三射と次々に弾丸を放っていく。

 だが、いずれも弾丸は届かない。全弾ギリギリの距離で身体をひねって全てかわされてしまう。とても人間離れした動きで。

(いいえ、違います。あの人は全て避けてるんです……!)

(弾を避けているというのか!? 発射されてから飛んでくる弾丸をか?)

(おそらく火薬と薬莢の臭いで、銃弾が来るタイミングを判断しているのでしょう)

 獣のように貪欲な生存本能と、およそ人とは思えぬ過敏な動き。

改造された右腕があの男に常人ならざる力を与えているのか? 見たところそこに超上的な力が働いているようには思えない。

……たしかに理性と知性がこの男にどうしようもなく欠落している。さもなければこんな決闘などという回りくどい事をせずともリンダを人質とすることで、イヴの心を揺さぶって簡単に籠絡せしめていただろう。

(あいつ……本当に人間か?)

だが、それを優に上回る五感が備わっているのだ。獣並の反射神経と本能のみで。まるで運という名の星に生まれたような男だった。ただし、悪運だろうと何であろうと力づくで自分のモノにしてしまう強運も持ち合わせているのだろう。しかもこの状況を誰よりも望み、心から楽しんでいる。死と隣り合わせのスリルを。

それがこの男の恐ろしさの正体だった。

「捕まえたァッ!!」

 濃霧のすぐ向こうに、ギラリと光る眼光が見えた。もう目と鼻の先だ。

ハザウェイは大地をしっかりと踏みしめ、右腕から生える刃を突き出した。

「ちっ!」

 モードを剣に変えようにも間に合わない。

相手の剣戟を受け止めるべく、イヴは頭上に銃を構えた。

両手に衝撃が走り、けたたましい金属音が鳴った。灼熱の刃が銃に触れ、その鋼鉄のボディを少しづつ溶かされているのだ。

聞くも痛々しい音――

まるで銃が悲鳴を上げているようだった。

「どうしたどうしたァ! それで終わりかァ? 早くしないとお前の武器がガラクタになっちまうぜェッ!」

「こ、の……っ!」

 動けない。

 相手の武器ごと押し返そうにもびくともしない。この男に腕力で負けているからなのか。かといってこの状況を打開しなければ……銃がいつまでも持ちこたえてくれるか分からない。

「成程。妙な武器だとは思っていたが……そいつはテメェの身体によくなじんでやがるな」

 にわかにハザウェイが言った。

「テメェのもやしみたいな身体でそんなバカでかい銃を使ってれば、腕の一本や二本くらい反動でとっくに吹き飛んじまってるはずだ。だが、テメェの腕はそんな反動なんざ知らねェって顔で、健在してやがる。オレにはそれが不思議で不思議でたまらなかった。しかし、こうして組み合うことでその原理が分かったぜ。“使い手の身体の一部となる”。それがお前の持つ遺失物(ロストメモリー)の力なんだろう? それだけじゃねェ、そいつは常に成長する。吸い取った血の数だけ強くなる呪いの武具なんだろう? さながら龍の血を浴びることで不死身になったファフニールのようになァ!」

「……さあな、これの持ち主だったヤツはとうの昔に死んでしまってな。説明書もないから私にも分からない事だらけだよ」

 

――!?

 

 ふいに訪れる浮遊感。つうっと足が滑った。いくばくか遅れてから、相手の力比べに負けて、自分の身体が押し返されたのだと気づいた。踏みとどまって体勢を立て直そうにも、雨でぬかるんだ大地がそれを加速させ、背中から勢いよく落下してゆく――

「させるかぁっ!」

 

 その前に、武器を剣へと変形――

 

自分の身体が地面に激突するよりも先に、大剣を突き刺した。突き刺した大剣を杖代わりにすることで何とか踏みとどまる。

すかさずハザウェイの追撃がきた。ガラ空きになったイヴめがけて右腕を振り下ろされる。

 

イヴは大剣を地面から抜き放った――

 

その勢いを殺すことなく、相手めがけて叩きつけてやった。

ハザウェイは右腕で攻撃を受け止めたものの、衝撃に吹き飛ばされて後方へと大きく飛んでいった。

 

とっさにイヴは剣を銃に変形――

 

空中で身動きの取れないハザウェイに発砲した。

しかし、ハザウェイはハエでも振り払うかのように、右腕の剣でなんて事のなさそうに銃弾を弾いてのけたのだ。この男の驚くべき動体視力が発揮された瞬間である。

それでもイヴはもう慌てない。こうなる事は頭のどこかで理解していた。先程、銃弾を避けられたそのときから、簡単に倒せるほどヤワな相手ではないと認識していた。こいつは正真正銘のケダモノ。すでにあの銃撃は牽制だと割り切っている。

だからイヴは疾駆した。

銃を剣に変形――ハザウェイめがけて斜めの斬撃を浴びせる。

案の定、右腕の刃で防がれてしまう。まるで子供をいなすかのように。

だが、ここまでは狙い通り。剣は相手の灼熱に溶かされることなく、同等に渡りあえている。攻撃の流れはこちらに回った。

(このまま一気に切り崩す!)

 腕にありったけの力をこめて剣を振り乱す。いずれも剣風だけで軌道を察知され、未然に防がれてしまう。それでもイヴはくじけない。相手につけ入る隙を与えず、休ませる暇すら与えず、次の一手を叩きこむ。踊り子のような舞いに、まさに流れるような連撃を叩きこんでいく。

防戦一方のハザウェイだが、その顔に浮かんでいるのは疲労や苦悶とは無縁のモノだった。端正な顔立ちは、うっすらとした喜色で歪められていた。

 

そのときだった。

 

ハザウェイの右腕が――刀剣の先端がぱっくりと割れた。花の開花を思わせる動作で、そこから銃口のようなモノが顔を覗かせたかと思うと、ふいにイヴの方角を向いた。

 ぞくり、と頭のてっぺんから身体の芯にかけて、鋭い悪寒が貫いた。

ハザウェイは反撃が出来なかったのではない。むしろ、あえて自分が不利な状況を演出してみせることで、イヴを何かに誘いこんでいたのだ。

(イヴさん、今すぐそこを離れて下さい! 何かを仕掛けてきます!)

 イストワールの悲鳴が聞こえてくる。

「お、おいっ! てめぇら死にたくなければ全員伏せろっ! ハ、ハザウェイ様は“アレ”を使う気だ!」

見物に徹していた部下達が、慌ただしく何事かを叫んでいる。彼らの怯えっぷりから察するに、これから来るモノと、その正体が何であるかを正しく理解しているらしい。

脇目も振り返らず、イヴは飛んでいた。ほとんど本能による動きだった。目には見えない何かから、迫りくる脅威から逃げ出すように、後方へと全力で跳躍していた。

ハザウェイが開かれた右腕を突き出した。

「さあ、祝砲を上げようじゃないか。あまねく滅びと嘆きを従え、鮮血で彩られたオレ達の麗しき花道の礎とするんだ。この世にひしめく有象無象を、共に支配しようじゃねェかァ――!」

空気を焼き焦がし、大気中の水分を干上がらせるほどの熱量が周囲に立ち込めていく。次第に銃口が灼熱を帯び、その中心点ともいうべき部分に莫大なエネルギーが集束し、煌々と燃え盛る紅蓮の炎に包まれていった。邪竜の大口のようなそこから爆発的な光が溢れ――

男が滅びを謳った。

 

滅火胞(メギド)!!》

 

 男の銃口が爆ぜた。ただし、そこから炸裂したのは弾丸などという生温いモノではない。

火球――

猛々しいまでの業火が放出された。

イヴは振り返ってしまった。目を覆う程の光を前にして、成す術もなく立ちつくしてしまったのだ。これほどの火力を誇るならば、人間一人を焼身死体に作り返るのは造作もないことだろう。成程、こんなものを見せつけられたら走って逃げるなどという考えはたちまち消え失せる。この男の持つ圧倒的な力の前に、生き残るという気力そのものを根こそぎ奪われてしまうだろう。

(イヴさん! 逃げて下さい!)

 イストワールの悲痛が頭の中に虚しく響き渡る。

(あれがまともに直撃すればたとえイヴさんでも――)

そして世界は炎に包まれ、ありとあらゆるもの全てが、灰塵に帰した。

 

   

 

「オイオイオイオイオイオイオイ。何ですかこのふざけた有様はァ?」

辺りに広がるのは一面の焼け野原。

空高く昇る煙から、かつてそこに息吹いていたであろう生命が、天に召されていくかのような儚い光景。焼けついた大地を、死者の痕跡を大雨が洗いざらい流している。

どんなに屈強な戦士であろうと、あの技をまともに喰らって立っていられた者は過去一人もいない。滅火胞(メギド)の有する破壊力の前では、全てが紙屑同然だった。現にあの技がもたらした衝撃波によって、一命こそ取り留めているもののハザウェイの部下達は一人残らず気を失っていた。

 あの女は、とんだ見込み違いだったのか――

しかしハザウェイの目に映るのは、獲物を仕留めたことによる高揚や達成感でもない。ただの色濃い失望だった。

「これで決闘は終わりなのか? ……だとすれば、実にしょうもない結果だなァ!」

 すっかり焦土と化した戦場をつまらなそうな目で見渡しながら、声の出る限りありったけの力こめて叫び続けた。

 世界を滅ぼした災厄だか何だか知らないが、それにしてはいくら何でもあっけない。こんなちっぽけな力を手にしただけの男に覆されてしまうほど脆弱だったのか?

お嬢さん(フロイライン)! テメェもその程度の女だったのか!」

 お前が滅ぼした世界とはそんなに壊れやすいモノなのか?

「そんなのあんまりだ! ……あんまりなんだよォ!」

そこに憤怒はない。哀惜だけがあった。彼の胸を支配するのは途方もない渇きだけ。

生きていてもひたすら退屈で、面白いことなど一つもありゃしない――

「ようやく――ようやく巡り合えたと思ったのにィ!!」

 まるで孤独にいななく、獣の遠吠え。

そのとき、その呼び声に応えるかのように、

「ああ、私も久方ぶりだよ。ここまでイカれたヤツと出会ったのはな」

 立ち込める硝煙の向こうから、煤けた頬をさすりながら、イヴが姿を現した。

 ハザウェイが息を飲み、おそるおそる振り返った。

「……お嬢さん(フロイライン)?」

何かを確かめるように、目の前に立つ白い女を、まじまじと見つめていた。

 

まさか《滅火胞(メギド)》を避けたというのか? そんなバカな。ありえない。だが、こいつはそれをやってのけた。だとすれば間違いねェ。こいつはオレと対等に渡り合える存在だ。

 

初めてイヴの姿をそこに認めたとでもいうふうに――

 

白雪のような美貌を誇るその女に、ただ見惚れていたのだ。

イヴは不審なモノを感じとったが、疑念をすぐに思考の外に追い払い、

「戦争ごっこはもう終わりだ!」

ハザウェイが身構えるよりも先に飛びかかった。

白銀に輝く刃を、ハザウェイの胸元めがけて振り下ろした。

しかし、ハザウェイは右腕を変形させなかった。それに慌てふためく素振りを見せるどころか、実に落ち着きはらった動作で、イヴの大剣を右腕で掴み取ったのだ。

衝撃を受け止めきれず、機械化した腕の接合部分が、めきめきと異音を上げても顔色一つ変えやしない。幾人もの女を惑わしてきた端正そのものの顔立ちからは、感情そのものが丸ごと欠落していた。

それでも夢見心地な表情だけはそのままに、

「……それでこそ愛しがいがあるというものだ」

 じろりと――蛇のような眼差しで白い肌を――イヴを見つめていた。

 

瞬間、イヴは全身が総毛立つのを感じた。

こいつは今、何と口にした?

得体のしれない気味悪さに、剣がわずかに鈍る。

気づけば、全身を舐めまわすかのような粘っこい視線が、イヴの肢体を動きまわっていた。

お嬢さん(フロイライン)。オレはテメェに恋をした!」

男の声はかつてない感動に打ち震えていた。それは情熱的でありながら、ひどく病的な視線。

それに見つめられているというだけで不快感が湧いた。穴という穴から嫌な汗が滝のように噴出していくのを感じた。まるでこの男への生理的嫌悪や、生物的な拒絶感が形作られていくようだった。

「いや、この胸の高鳴りと昂りはそんな陳腐なものではない。そう、愛だ! この感情はまぎれもなく愛情だ! オレはテメェを愛してるんだ!」

「……“アイ”?」

 その響きに、イヴは胸が痛烈に疼くのを感覚した。

得がたい疼きが胸を掻きむしっていくたびに、心の奥深くにしまいこんだモノを――過去に埋葬してきたはずの大切な何かが、一つ残らず掘り起こされそうになる。胸の疼きが広がっていくのと共に、ふいに大きなお屋敷を見たという懐かしさが湧きおこった。いや、私はそれをたしかに見たのだ。あれはどのくらい前のことだったか。たしかそこの真下には、地底に続くような階段があった。ちょっとした冒険気分でそこを下っていくと、最下層に、何かを幽閉するような鉄格子が見えた。

その暗闇の向こうから、真っ白な手が覗いている。

 

 

“お話しをしましょう”

 

 

 くすり――と、少女の無邪気な笑い声が、どこかから聞こえた気がした。

 その声に、心臓を刺しぬかれるような恐怖が、きた。

気づけば、骨ばった骸骨の手が、すぐ目の前に伸ばされてきて――

「オレはお前が欲しい! 血の一滴から骨の髄に至るまで、身も心も支配してやりたい。お前の全てはオレのモノとなる!」ハザウェイのねっとりと絡みつくような視線が、イヴを捉えて離さない。「魂さえもだ。そう、全部! 全部だ! 全部オレのモノだ!」

「うるさい! お前みたいな安い男が……そんな言葉を気安く口にするな!」

 その呪縛から逃れるように、必死にかぶりを振った。

 この男を殺さなければ――

殺意が湧いた。そうしなければ度を越した恐ろしさのあまり発狂しかねなかった。

状況はこちら側が圧倒的に優勢だった。

イヴの剣はハザウェイの右腕を深々と抉っている。あとちょっとでも力を込めれば刃は心臓へと到達する。今やあの男の命はこの手に握られているのも同然。ありったけの力をこめてこの剣を振り下ろすだけでいい。簡単なことではないか。それで全てが終わるのなら。

「オレはテメェを愛してる!」

 相手の力強い言葉に、引きこまれそうになる。

「自分自身を理解しきれてないお前なんかに“アイ”の何が分かるというんだ!」

「愛してるったら愛してるんだよォ!」

 意識が、腕の力が――自分のなにもかもが吸い込まれていく。

「黙れ黙れ黙れっ!」

 声の限りに叫んだ。腕にありったけの力をこめて刃を押しこんだ。

 だが、動かない。これ以上、刃が動こうとしなかった。

 ただ、震えるばかりで腕がまったく使い物にならない。

気づけばハザウェイの左手が、イヴの腕に添えられていた。全てを包み込むような優しさを感じさせる手つきで、イヴの手からそっと武器を抜き取り、地面に投げやった。

奪われた――

武器が手から抜け落ちた瞬間だった。身体からどっと力が抜け、無様にもへなへなとその場に倒れ込んだ。

ごとり、武器が地面に落ちる音。大切な何かが奪われたのだという、途方もない喪失感がきた。

戦う気力も、自分自身の運命さえも。

ずしり、と重量感がきた。ハザウェイがのしかかってきたのだと分かった。抵抗は無意味だった。はねのけようにも身動きが取れない。上手く力が入らない。どうしようもない。

 私は負けたのか――

 それはこいつが男で、私が女だから? だから私は勝てないのか?

 ハザウェイの獣くさい息が首元にふりかかる。つう、と熱をともなった感触が、首筋を這いまわる。ぞくっと、背筋に震えが走った。必死に歯を食いしばり、漏れ出そうになる喘ぎを殺した。相手を見ないように顔を逸らし、目をつむることで、意識を宙に飛ばすことに努めた。

 このまま慰み物にされて、この男のなすがままに弄ばれるだけなのか。

 涙は出なかった。そういえば最後に涙を流したのはいつだったか。思いだせない。

(イヴさん! 武器を拾いなさい! 早く!)

 唐突にイストワールの声が聞こえた。

(抗いなさい! 生きることを諦めてはダメです!)

もしかしたら彼女はずっと叫び続けていたのかもしれない。イヴが正気を失っている間も一人抗い続けていたのだろう。その時に見てしまった醜悪な何かに、自意識を飲み込まれそうになりながらも必死に耐えてきたのだろう。自分が惨めだった。謝りたかった。あんな醜いモノを見せてしまった自分がイヤだった。出来る事なら自分の中にある何もかもを一切合切さらけ出して、このまま消えてなくなりたかった。

 耳元で、ハザウェイが囁いた。

「大丈夫だ。優しくしてやるよ」

 イヴの衣服にハザウェイの手が伸びてきて、ごそごそとボタンが外され――

「イヴから離れろ、この人殺しっ!」

 そのとき、にわかに女の子の声が降りかかった。

 ぐしゃり、と何かが潰れるような音。げえ、とヒキガエルのような呻き声を上げながら、胃液がどっとこぼれた。イヴの上で、激痛にハザウェイは口をぱくつかせ、身体はびくびくと痙攣を繰り返して、やがて完全にその機能を停止させた。

(何だ? 何が起こった?)

 咄嗟に、何が起こったのかまるで判別がつかなかった。イストワールもまだ混乱しているようだった。ただ、自分が助かったという事実だけは分かった。

 覆いかぶさっていたハザウェイをどけて、ゆっくりと身体を起き上がらせてみれば、

「お前は……」

 信じられないモノを見るように、顔を上げた。

 リンダがそこにいた。

「よかった……間に合って」

安堵したように笑みを浮かべた。大きな石が両腕に握られているせいか、ぷるぷると震えている。彼女の非力な腕ではその重量ですら手に余るのだろう。その笑みも過酷な重労働のせいか、どこか引きつっている。

その手に抱えた大きな石を、ハザウェイの後頭部に思いきり叩きつけたのだろう。

 遅れて、イヴはそう理解した。

すぐそばでハザウェイが仰向けのまま力なく倒れている。男の後頭部を中心にしてその真新しい血液がじわじわと勢力を広めていた。

 

   

 

 その後の守備はあっけなく進んだ。部下達は《滅火胞(メギド)》の余波を受けてか、一人残らず気絶していた。ハザウェイが倒れた時点で危険は全て取り除かれたのも同然だった。しかし目を覚ました時のことを危険性を考慮し、念の為手足を縛りあげることでその身柄を拘束しておくのも忘れない。

 部下達の男をふんじばり終えて、ほっと一息つきながら額をぬぐう。

(お疲れ様です。イヴさん)

 イストワールがねぎらうように言った。

(まだだ。安心するのはまだ早い。敵がいつ攻めてくるかも分らない)

 東門を奪還――

これで当面の問題はクリアした。だが、あれでまだ終わりとは思えない。敵が近くで軍隊を駐留させ、すぐそばに息を潜めている可能性があった。敵がどれほどの規模で、どれほどの戦力を有しているのか不明瞭な点ばかり。油断ならない状況なのは未だ変わりない。

今できる事はここの守備を固め、外からの進撃に備える。今はただ、軍備を整えたプラネテューヌの兵隊たちがここに派遣されるのを待つだけである。したがって、速やかに取り組まなければならない問題はただ一つ。

イヴは額の汗を手でぬぐいながら、リンダに目を向けた。衣服はバラバラに切り裂かれているため使い物にはならない。一応、イストワールのはからいで、着替えを持ってきてもらえるとのことだが、下着のまま嵐が吹き荒れる中を、何時間も立たせておくのはさすがに忍びない。即席だが、門番達の詰め所にあった上着をはおらせ、迎えが来るまで詰所の中で休むように勧めた。だが、彼女はそうしなかった。激しい風雨にさらされるのも構わず、一人寂しく曇天を見上げている。今回の騒動で、彼女は彼女なりに思う事があるのだろう。

(……イヴさん。行ってあげて下さい)

(ああ、分かってるさ)

 イストワールの声に頷いた。彼女に気遣われるまでもなく、そうするつもりだった。

「それ以上、身体を冷やすのは毒になる。中に入って休んでおけ」

イヴは物言わぬリンダの隣に、そっと並んだ。リンダは振り向かない。ぼうっとした表情で空を凝視している。かと思うと、

「……どうしよう」

 ぽつり、と掠れ声でつぶやいた。今まで体験したこともないような恐怖と過度のストレスが、彼女の心を擦り切れさせてしまったようだった。

「わたし、あの人を殺してしまった……人を殺してしまったわ」

 それだけをうわ言のようにずっと繰り返している。

 殺したとは、ハザウェイのことだろう。

 自然、すぐそばに倒れている男に目線がいった。

リンダは、自分を傷つけた相手のことを思いやっているのか?

目の前で門番を殺す光景を見せつけられ、それだけでなく自分自身も生きながらにして死にも匹敵する苦しみと辱めを与えられた。殺してくれた方がマシだと思えるほどの痛みを味わされた。常人ならば、相手を殺しても飽き足りない程の復讐心が芽生えるに違いない。にもかかわらず、こんな相手の安否に想いを馳せるだなんて。

 こいつはどこまでお人好しなんだろう。

 いや、違う。それだけではない。人を殺してしまったという事実に、良心の呵責を感じてもいるのだろう。ある意味で正当防衛とはいえ、その小さな手の平で、一人の人間の命を奪った事実には変わりない。そこにどんな事情があろうとも、幼い身にそれはあまりにも過酷で、受け入れがたい事実だった。

「自分を責めるな。お前は何も悪くない」

 くしゃり、とリンダの頭をなでた。

 休養――

 それが今の彼女に必要なものだ。

たくさんの人が死に、国は痛手を負った。喪失は大きい。復興は時間を要するだろう。誰もが目には見えない傷を抱えた。イヴも、リンダも。

「そうだ。今度、旅行にいかないか?」

「旅行?」

 リンダが目を丸くした。

「プラネテューヌの南端に海があるんだ。水も澄んでいて、とてもキレイな場所だ」

「ホントに?」

「ああ。ネプテューヌとノワールとプルルートの三人も誘おう。泳ぐにはシーズン外れだが……どうだ?」

「……うん! 行ってみたい!」

 弱々しく頷いた。元来に比べれば遥かに力ないものだったが、それでも穏やかな笑みを浮かべてくれた。

「なあ、リンダ。一つ聞いていいか」

「どうしたの?」

 リンダの目がこちらを向いているのをちゃんと確認してから口を開いた。

「どうしてあのとき、真っ直ぐ帰らなかった。私があの男に負けると思っていたのか?」

 それは、さっきからずっと気になっていたことだった。リンダは小さくかぶりをふった。

「一人で……置いて帰れるわけないじゃない」

その言葉で全てを察した。イヴとあの男が戦い続けている間も、リンダは近くの草むらで身を潜めていたというのか。ただ、それだけの理由で待ち続けていたというのか。その結果が、あの男を殺そうとも。人殺しの咎を背負う事になろうとも。

「リンダは馬鹿だな。……下手をすれば、お前が殺されていたかもしれなかったんだぞ」

「ひどい。馬鹿ってなによ」

 リンダは心外だとでも言いたげに頬を膨らませる。

 そんないじらしい様子に、ふっと華やいでいる自分がいた。

 ああ、ようやく帰ってきたんだ――

 そんな途方もない懐かしさで、胸の中でいっぱいになった。

 戦争が起こる前の自分達が――以前のような関係の私達が、ここに帰ってきたのだという思いが湧いた。

 リンダの傷は深く、心の奥底に根づいている。

 今回の一件はそれほど大きい。

 それは誰の目には見えない厄介なモノだ。身体の傷ならば医者に任せればいい。しかし、心になるとそうはいかない。どこにあるか分からない傷口を探すことほど難儀で、骨の折れるものはないだろう。

心のケアをすることで、少しでも早く後遺症から立ち直らなければ。

そのためなら何でもしようという思いが、自然と湧いた。

完治までにどれ程の時間を要するかは分からない。そもそも完治の目途があるかすら定かではない。それでもいい。少しでも彼女が傷の痛みを忘れることが出来るならば、その手伝いをしよう。リンダが困った時には、がんばれ、と背中を押してあげよう。

だって私達は約束したではないか。

何があっても絶対にお前を守ってみせると。その約束はまだ終わる事はない。

そう。ずっと、ずっとだ。終わりなんてないんだ。

「だってイヴさんは……イヴさんは、わたしの大切な――……」

 リンダが何かを言いかけて――ふいに、その言葉が途切れた。

 小さな首に、一筋の線がぷっつりと引かれた。

 赤い線が、つう、と真横に走る。

 

「――え?」

 

 イヴはぽかんとなった。言葉も出なかった。

 リンダの首筋に走る線――それが血の線だと遅れて気づいた。

ごとり、とリンダの首が落ちた。

それは胴体を離れて、ころころと地面へ転がり落ちていく。

今見ているものが遠のいていくようだった。現実感がまるで伴わない。外からそれを眺めているような感覚だった。映画館でスクリーンを見ているかのように。どこか遠い世界での出来事のように思えた。

「あ……あ……」

壊れ物でも扱うように生首を抱え込んだ。根元から生温かな鮮血がどくどくと溢れ出る。

「おい、血が、出てるぞ。はやく、出血を、止め、ないと……っ!」

取り返しのつかないことになってしまう。その前に止血しなければ……そんなとりとめもない思考ばかりが思い浮かぶ。

 表情は変わらず、穏やかだった。きっと彼女は自分が死んだことすら気づかなかったのかもしれない。痛みすら感じる暇もなかったのだろう。それがせめてもの幸いだったのか。分からない。誰にも分からない。その答えは確かめようもない。何もかもが手遅れだった。

とうに小さな命は、失われてしまったのだから。

「へッ……ざまァみやがれ!」

 男の声。

ぜえぜえ、と苦しげに息を吐いている。そいつの右腕は剣の形へと変形していた。

生温かい血が、べっとりと付着した刃――それが命を狩り取る死神の鎌となったのだ。

「クソガキ風情がオレ達の神聖なる決闘に横やりをいれやがって! これはその報いだ!」

 どうやら立っているのも限界なのだろう。イヴと戦うという願望だけを支えに、かろうじて意識を留めているのだろう。

すさまじい生命力の発露。

貪欲なまでの執着力。

頭部から出血しているにも関わらずその頑強さと頑丈な肉体を最大限に発揮しているのだろう。生きていることすら不思議なくらいに。

「さあ、お嬢さん(フロイライン)。オレと戦いを――」

 ハザウェイが満足そうに笑みを湛えながら、振り返ったとき、その表情が消えた。

「あああああああああああああああッ――――――!!」

 イヴが飛びかかった。

 

 ――殺してやるっ!

 

 叫んだ。喉が裂け、口の中に血の味が広がるのも構わずに。自分が叫んでいることすら気づかなかった。

 男を力づくで押し倒し、力の限り殴りつけた。

 ハザウェイが左腕で荒れ狂うイヴを引き剥がしにかかる。すかさず腕に噛みついた。相手が怯んで腕をひっこめようとする。それでも顎に精一杯の力を込め、決して離そうとしなかった。こいつだけは何が何でも許すつもりはなかった。ハザウェイは怒声を上げてもがいた。ここから逃げるつもりだろうが、そうはさせない。指に歯を立て、喰らいついた。顎の骨が砕けてしまいそうな程ありったけの力をこめて、親指と人差し指をひきちぎってやった。

「があぁぁぁぁああぁぁぁぁぁ―――――――ッ!!」

 耳朶をつらぬく苦痛の嬌声。

「ぉぉぉっ……オレのぉ、ゆゆ指がァァァァァァッ!!」

 それでも罪悪感を感じて手を緩めようとは思わなかった。

 

 ――死ね! クズ! お前なんか死んでしまえっ!

 

血の味が染みていくのを舌で味わっていると、心が昔に戻っていくような感覚が訪れた。青春の大半を過ごした、あのスラムに戻ったようだった。明日の食いぶちを繋ぐために、殺されそうになった事が何度もあった。他でもない。同じ人間同士に。

 共食い――

生き物として超えてはならない禁忌を犯してまで、生き残ろうとしていた。中にはイヴの白い肌を求めて襲いかかってくる者もいた。ときには肌が白いというだけで何度も殺されそうになったこともある。アルビノ。その肉を食す事で、老いも病も遠ざける不老不死の肉体が手に入る。そんな根拠もない馬鹿げた迷信だが、そこに一縷の救いを求めてすがりついた者が大勢いた。みな生き残る事に必死だった。生きようとしていた。イヴもその一人だった。自分から何もかもを奪いに来る輩を容赦なく殺し、相手と同じようにその何もかもを奪った。

ただ、生き残るために。

「テメェッ、このっ、鬼ぃッ!」

 ハザウェイが右腕を突き出した。右腕と肩の付け根に損傷個所が覗いている。イヴの剣によって刻まれたそこから、毛細血管のように複雑に張り巡らされた回線の束が覗いている。機械化された腕が銃口に変わるよりも先に、手を伸ばした。損傷して開けられたその大穴に腕からまるごと突っ込んだ。そこにある回線の束を丸ごとつかみ、それを獅子奮迅の限りを尽くして引っこ抜く。腕が、筋肉が、骨が、全身を酷使するあまり悲鳴を上げていた。それでも構わず殴り続けた。

ただ、戦いの権化のような男を、この地上から消し去りたかった。

 他には何も思い浮かばなかった。

 

   

 

プラネテューヌ東――黒の教団/聖地

 

「死んでしまえばいんだ」

 スタークの口からもう何度目になるか分からないつぶやきがこぼれた。

 憎しみを込めたつぶやきは誰の耳に入ることなく、ごうごうと荒れ狂う大河の音に飲み込まれていく。それが彼を余計に苛立たせる。お前なんてちっぽけなのだ。集団という大きな流れの前では矮小な個人でしかないのだ。そんなふうに笑われている気がしてならない。一刻も早くこの川から離れたかったが、彼には門番という役目の関係上、ここから離れることは出来なかった。

「みんなして僕を……僕をバカにしやがって……っ!」

 ぶつぶつと文句をもらしながら、ぎり、と拳を握りしめた。

実際にそこで誰かの首を絞めているかのような仕草だった。もちろんスタークの手には何も握られておらず、ただ空をつかんでいるに過ぎない。それは全て妄想だった。自分が優れているのだという世界に浸ることで、荒れ狂う精神を落ち着けている。ぶつけようもない苛立ちを妄想にぶつけることで安心しているのだ。それでも安心しきれない場合は、大抵、自分よりも弱い立場のモノへとぶつけられるのが常だった。犬や猫といった小動物をバラバラに切り刻むことで、精神の安寧を保っている。

“僕は司祭だ。お前らみたいな庶民とは格が違う。僕は偉いんだぞ。お前なんかと違って偉いんだぞ”

呪詛のようにそれを繰り返しながら、腹いせのように何度も何度もお腹に刃を突き立てた。その行為は、自分がこの狭い箱庭の王になったかのようで、トゲのように荒んだ心がひどく落ちつけられるのだ。その方が、自分の性器を握っているときとは比べ物にならない安心感がある。

 だが、今日だけはそれでも収まりが尽きそうになかった。

「……なんでみんなあいつの言う事を聞くんだ! あんなやつの言葉なんかをっ!」

 今回の件だってそうだ。

 戦争――

 スタークにとっては命のやり取りをする意義を見いだせない。だって死んだら全てが終わりだ。人生は一度きり。ゲームと違ってやり直しがきくはずもないのだ。我が身を危険にさらしてまで何かを得るなど愚の骨頂。自分の人生をみすみす棒に振るようなマネをして何が楽しいのだろうか。

もちろん僕はそれを訴えた。出来るだけ聞こえがいいように、みんなに気遣いを振りまく自分を演出して見せた。あの見事な演説は自分の中でも、迫真の演技であると誇りすら感じていた。

「だが……みなはそれを無視した……!」

ぎりり、と湧き上がる憎悪を噛みつぶすような歯ぎしりをした。思い出すだけでも腹が立ってくる。まるで虫のさえずりなどはなから聞こえていないかのように素知らぬ顔で、あの憎き男を――ハザウェイの言う事にばかり耳を傾けている。

集落の女は底抜けバカ揃い。あの男が見ているのはお前たちではなく、お前たちの身体なんだよ。しかし、誰一人として騙されているという事実に気づこうとしない。僕に見向きもしない。互いにクスクスと嘲笑いながら、汚いモノでも見るかのように僕から遠ざかるばかり。薄汚い売女どもめ。

大司祭様も、マイザーおじさんもそう。あんな野蛮人なんかに賛同するだなんてどうかしている。気が狂っているとしか思えない。あんな男のどこがいいっていうんだ。

「ハザウェイ……っ! あいつが、あいつさえいなければっ!」

スターク・シャイニングハンドにとって、ハザウェイという男は憎しみの対象だった。

みんなあいつの狂言にそそのかされている。なぜそれが過ちだと気づかない。一族の誇りがなんだ。僕はそんなもの知ったことではない。たかが先祖を殺されたというだけの理由にこだわって、命のやり取りを始めるなんてどうかしている。それがどれほど愚かで、無益な事だと。あいつの発する言葉の何もかもが間違いだとなぜ気づかない。

「畜生! 畜生! このっ、このっ……!」

 抑えきれぬ嫉妬に駆られ、血が出るのも構わず、めちゃくちゃに頭を掻きむしる。

あの男の存在が僕を狂わせる! あいつさえ……あいつさえいなければ僕はもっと上手くいってるはずだった! みんなが僕だけを見てくれるはずだったのに!

「みんな……死んでしまえばいいんだ……っ!!」

 憎悪たっぷりにわめきちらした瞬間だった。

 

 轟っ――と、大気を揺るがすような地響きが起こった。

 

その途端、雲海が真っ二つに割れ、そこからすさまじい衝撃と轟音をともないながら、雷鳴が河川を盛大に揺るがした。

あまりの衝撃にスタークは腰を抜かし、何事かも分からぬ悲鳴をあげながら、盛大に転げ回った。その尋常じゃない揺れっぷりといったら世界そのものが揺れ動いたのではないかと錯覚するくらいだった。

スタークはしかと見た。まるで神が下した鉄槌の如きあの一撃――あれが落下した場所は、ここからそう遠く離れていない。自分が生まれ育ってきた馴染み深い住居であるとすぐに分かった。

「あれが落ちたのは……僕達の聖地じゃないか?」

 スタークは立ちあがり、混乱覚めやらぬ頭で思索を張り巡らした。

しかし、何であんなものが落ちてきたのか?

もしかして敵の攻撃か? いや、そんなはずはない。この場所は誰にも知られていない。たとえこの場所を気づかれたとしても、対岸から大砲の弾がこの距離まで届くとは思えない。

もしかして流れ星が僕の願望を聞き届けてくれたのだろうか?

さすがに自分の放った言葉が引き金になったとは思えないが、それにしても絶妙なタイミングだった。仮にそうだと仮定しよう。だとすれば――神様が自分の願いを聞き入れてくれたのではないか。そうだ、そうに決まっている。これはきっと地獄のような退屈に耐え凌いだ、僕へのご褒美に違いない。あの光は、誰からも無視され軽んじられてきた僕の言葉を、神様だけが理解してくれたんだ。スタークはそう信じて疑わなかった。

そうと決まれば、こんな場所でぐずぐずしていられない。スタークはうきうきと高鳴る喜びを胸に抱きながら、自分達の聖地へと夢中になって走り出した。

 だが、青年が抱いた淡い希望はすぐに打ち消されてしまう。

「なんだ……これは?」

 居住区に辿り着いたスタークの第一声は、実に淡白なものであった。

 そこには、この世の地獄があった。

 辺り一面には、燃え盛る紅蓮の街が広がっていた。家という家から火柱が立ち昇り、すさまじい量の煙が立ち込めている。生きた人間が全身を炎に包まれ、この世のモノとは思えぬけたたましい絶叫を上げながら、踊り狂っている。そうすることで人から人へと火が燃え移り、まだ無事な建物へと炎が燃え移る……そんな悪夢のような悪循環が出来あがっていた。

 夢だと思った。いや、そうでなければ他に説明がつかなかった。たしかにこの想像を絶する光景を言い現すなら天罰だろう。しかし、これはあんまりだと思った。

 炎は嫌いだった。あの憎き男――ハザウェイが真っ先に思い浮かぶからだ。

 もしかしてこの惨事はあいつの仕業なのか?

 燃え盛る業火を前に、呆然と立ち尽くしていると、

「どうしたのぉ、坊ちゃん。そんなところに立ってると危ないわよぉ」

 いつの間にか女が立っていた。

「あ、もしかしてぇ、あまりの怖さで、すでに漏らしちゃってましたかぁ」

 アハハッ、と人を小馬鹿にしきったような笑い声をあげた。見れば見る程、奇妙な風体をした女だった。全身がきらびやかな装甲に包まれており、手には杖のような武器が握られていて、人を馬鹿にしきったような薄い笑みを常に貼りつけている。

見たことのない出で立ちだった。だからこそ、この集落の人間ではないことは、火をみるよりも明らかであった。そもそもどこから侵入して来たというのか? あの大河を容易に渡れる手段をこいつは持ち合わせているというのか? そして、惨事を引き起こしたのは、全てこの女の仕業なのか? しかし、今のスタークにとって、それらの疑問は瑣末なものでしかなかった。

「この僕が……坊ちゃんだって?」

 この女が何者かなんてものはどうでもいい。

 それよりも坊ちゃん――その響きがひどく癇に障った。お前は童貞だ。女を知らない子供だ。異性と進んで交わる勇気と根性もない臆病物だ。そう馬鹿にされている気がしてならなかった。現に自分の評判に耳ざといスタークは、部下達から陰でそう囁かれているのを耳にしたことがある。こんな初対面の相手に――よりにもよって女からそう言われたことに激しい憤りを感じた。

「そうやって、みんなでよってたかって僕を馬鹿にして……いい加減にしろっ! 僕は司祭だ! 黒の教団を束ねる司祭なんだ! 偉いんだぞ! お前らみたいな一般庶民なんかと比べ物にならない地位にいるんだぞ!」

 初対面の相手に向かって、必死に己の権力を示そうとするスタークだが、

「あぁ……そうでしたかぁ。よかったですねぇ」

 すげなく切り捨てられてしまう。

「なっ……このっ、このぉっ!」

「ぶふぅっ……! 何コイツぅ。まじだっせぇんですけどー!」

 馬鹿にしきった態度を崩さない相手に、スタークの怒りはとうとう頂点に達し、顔面がぷるぷると震え出した。あまりの激情に全身の血管という血管が沸騰して破裂してしまいそうだった。

「このっ……このクソ野郎がぁぁぁっ! ブっ殺してやる! ブッ殺してやるぅぅぅっ!」

 ありったけの怒声を吐き出しながら、左腕を叩きつけるようにして地面に触れた。

 すると、その異名通りの出来事が起こり、スタークの左腕が光り輝いたのだ。

その奇跡の正体はスタークの左腕にある。遺失物(ロストメモリー)――そう呼称される先祖の忘れ形見からの恩恵だった。どうあれ、この力を作りだした太古の人間達は、今ではとても及びつかないような高度の文明社会を築いていたのだろう。

その力の発露を機械仕掛けの左腕に感じながら、彼は命じた。

 

氷塊刃(ドラグーン)!》

 

 瞬間、地面から巨大な氷柱が生えた。一本や二本という単純な話ではない。総勢数百という数の氷柱がそこには出来上がっていた。今や、この女は無数の剣に取り囲まれているのと等しかった。

「あの女を喰い殺せっ!」

スタークが指差した。それが引き金となった。そいつらは竜のように複雑にくねってみせながら、まるで氷柱の一本一本が意思を兼ね備えているかのような動きで、標的めがけて真っ直ぐ伸びていった。

それでも女は全く動じない。極めて落ち着きはらった様子で、

「無駄無駄無駄ァ!」

 手に握られた杖をぐるぐると振り乱した。杖が回転することによって生じた風圧が――自分の肌に触れるか触れまいかというその直前で全て叩き折られている。プロペラのように、目にも止まらぬ速さで回転し続ける杖が防壁となり、氷柱を一つ残らず粉砕。周囲に結晶の破片をまき散らしている。

「なにっ……!」

 これにはスタークも大層驚かされた。ただ杖を振り回すというごく単純な動作――それだけであんな化物じみた風圧と、信じがたい回転力を生み出すとは、とても人間技とは思えなかった。どうやらこいつは一筋縄ではいかない相手らしい。しかし、スタークは決して怯まない。極めて冷静な頭で判断を下し、次なる行動へと移っていた。

 

氷雪剣(オデュッセウス)!》

 

 左腕を冷気が包み込み、そこに氷の剣が形作られた。それは非常に鋭利で、透明感を持った刃だった。ハザウェイの《灼熱の刃(ヒートブレイド)》と非常に酷似した武装だが、そこにあるのは炎ではなく、氷の力だ。マイザーとハザウェイは似た獲物を得意としていながらも、皮肉な事に、二人は互いに相反する力を司っていた。

「僕の氷で、魂まで凍りつきな!」

 スタークが跳躍した。左腕にまとった《氷雪剣(オデュッセウス)》を携えて、それを女の脳天めがけて振り下ろした。女は杖を上段に掲げることで、氷雪剣(オデュッセウス)による一振りを難なく受け止められてしまった。だが、それこそがスタークの狙いだった。

「――罠にかかったな」

 ニヤリ、とスタークの表情に、始めて勝ち誇ったような笑みが浮かんだ。

 女が訝しむような目を向けたとき、スタークの左腕から凍てつく波動がほとばしった。身も縮むような冷気は、杖を通して伝わってきて――

「重っ……ってか、ちょう冷たぁ~! 何コレ? マジうぜぇーんですけど!」

 ずしり、と両腕に重りを乗せられたような重量感がきた。女の手が、腕が――杖ごとびっしりと氷漬けにさせられていたのだ。

スタークの《氷雪剣(オデュッセウス)》は対象の抹殺を目的としていない。むしろ、相手の不意を突く事で、身動きを封じることに特化した武装だった。

 無論、ただ虚を突くことだけが目的ではない。他ならぬスターク本人でさえも、敵の目を引き付ける(おとり)に過ぎなかった。

そう――先程、女の手によって砕かれた氷の破片たちが生き物のように蠢いていた。微細な粒にまで砕かれた破片たちが寄り集まり、忍びより、いつの間にか女の足元にうず高く積み上げられていたのだ。

「……なんですかコレはぁ、気持ち悪ぅ」

 女が不審に気づいたときには既に手遅れだった。まるで欠片の一つ一つが意思を持っているかのように、牙を剥き出しにしたピラニアの如く、一斉に女めがけて飛びかかった。女の全身が瞬く間もなく、結晶の海に埋め尽くされていった。

「冷たい牢獄の中で、許される事の無い罪に、永劫の赦しを乞い続けるがいい――」

 そしてスタークがパチン、と指を鳴らした。勝ち時を告げるかのように、小気味よい音が響いたその瞬間、女の全身がまばゆい光に包まれていって――

 

氷の世界(アイスバン)!》

 

 女の身体が分厚い氷の中に閉じ込められた。苦しみの絶叫すら上げる暇すらなく、冷たい氷の棺へと封じ込められてしまったのだ。

「ぁぁあははははははははぁぁぁぁぁぁっ! どうだ、思い知ったか!」

 スタークが両手を叩きながら、とち狂ったような笑い声を上げた。

「僕を馬鹿にするからこうなるんだ。これで自らの身の愚かさをたっぷり後悔したか? 誰を相手取ったか理解したか? だけど、今更謝ったところでもう遅い! ダメだねぇ! もう無理だねぇ! これは罰だ。僕を馬鹿にした罪をちゃんと償ってもらわないとねぇ!」

 しかし、それも束の間の喜びとして終わる。

 パキィン――と、派手な破砕音が鳴り響き、氷が粉々に砕け散っていた。

 スタークはぼけっと間抜け面を晒し、生気を抜かれた人形のように立ちつくすことしか出来ない。氷の牢獄から優々と現れた、その出で姿に。

「アハハハッ、今わたしを倒したとか思ったっしょ? 完全にやっつけたとか思ったっしょ! 残念でしたぁ~」にんまりと得意げに笑う。「そんなの全然効きませぇ~ん!」

 女は、氷の微笑を浮かべていた。それはスタークを、心の底から震えあがらせた。

 驚くべきことに、あれほどの技を喰らっても、この女の身体から掠り傷一つとして見当たらない。スタークが渾身の力で編み出したあの技を、何でもないモノのように、いともたやすく破ってのけたのだからそれは十分なる驚嘆に値した。

 いや、違う。これは僕の力ではない。元々は先祖が造り出した力だ。

何が遺失物(ロストメモリー)か。何が司祭か。何が選ばれた力を持つ者か。そんな肩書きは紙屑程度の役にも立たない。全身から異常な狂気を立ち昇らせるあの女の前では、ただの無力なクソガキでしかない。

 夢から覚めて一転――

絶望のどん底へと突き落とされたような感覚だった。自分に何一つとして優しくはない、厳しい現実の世界へと。

「そうだ。良いことを教えて差し上げますねぇ。神様ってすごいんですよぉ。たとえ世界を大洪水で覆い尽くそうとも、自分の意のままに添わないウザイ人間共を何人虐殺しても、神様ってだけでなんとかなるんですって。つまり、神様なら何をやっても許されるんですよぉ。だ・か・ら――」

 

「――さっさと死になぁ!」

 

 そう言って、女は腕を空高く掲げた。その腕には信じられない程のエネルギーが集束していた。そこには周囲の空間をまるごと歪めてしまう程の力が込められていて――

「ぉぉっ……お前は……お前は、一体……何なんだっ!」

 怯えて後ずさるスタークを見下ろしながら、女は“まだ分からないのぉ?”というふうに、奇妙で奇怪な笑みを形作っていた。それは歓喜とも憎悪ともつかぬ、複雑な笑みだった。

「――……女神だよ」

 キセイジョウ・レイは嗤っていた。

 その腕からすさまじい光が放たれた。目も眩むような膨大なエネルギー波が飛んできて、スタークの身体はおろか、黒の教団の聖地そのものが飲み込まれていった。

 光に飲み込まれる直前、ああ――と、スタークは思った。

 自分はどこで道を間違えたのだろう。人生はゲームじゃない。例え、途中で命を落としてしまってもやり直しが効かない。よりにもよって、こんな格上の相手に勝負を挑むだなんて、我ながら愚かなことをしでかしたものだ。そう思うとせいせいした。驚くほどこの世への未練やしがらみといったモノが一気に吹き飛んでいた。彼は生きることを既に諦めていた。相手と自分の力量は天と地ほども差が開いている。この攻撃が直撃すれば、間違いなく自分は死んでしまうだろう。自分の命はもう閉ざされているも同然。だが、これから起り得る未来を想像することで、そこに希望を見出していたのだ。

 女神の力がこれ程強大なモノならば、戦地に喜び勇んで赴いたハザウェイ達もきっと無事では済まされないことだろう。

 

 ざまあみろ――

 

 それがスタークの抱いた、最後の思考だった。

 これは一万年前、世界に虐殺非道の限りを尽くした暴君の――いや、悪鬼の再来だった。

 世界の終わりが始まろうとしていた。

 

   

    

「あの男が――ハザウェイが死んだ!」

 歯をむき出しにして、マイザーが叫んだ。

 それは怒りでも驚きでもなく、悔恨からでもない。

 彼の胸を満たすのは他でもない。身の焼けるような歓喜だった。

「ああ、なんて喜ばしい事なんでしょう。あなたが死んでくれたおかげで私の分け前が増えたんですよ! 金が! 奴隷が! 領地が! 私の取り分が増えた! これほど充実した日が今まであっただろうか! これだからビジネスはやめられない! この商談を持ちかけてくれたマジェコンヌ様には感謝してもしきれませんよ。ハザウェイ――私はあなたの犠牲に、敬意と感謝の念を抱いている!」

 今にも踊り出したいくらいの希望がマイザーの全身を包んでいた。

「ありがとう! ありがとう! 死んでくれてありがとう!」

 まるで神様からお恵みを授かったかのように天を仰ぎ、感謝の言葉を口にした。

「ハザウェイ……正直に言わせてもらうなら、私はお前のことが好きではありませんでした。お前との関係はビジネスライクと割り切っていました。だけど、安心して下さい。お前の死は、決して無駄にはしませんよ。――この私の持つ、風の力でね」

 彼はイヴとハザウェイの戦いの一部始終を見届けていた。本来であればハザウェイがやられたという状況はお世辞にも喜ばしいとは言えない状況だ。四司祭(マテリア)の一角を落とす実力があるということは、自分と同等か、それ以上の力を持つ相手がいるということ。

だが、相手が先程の戦闘で疲弊しきっているのなら話は別だ。その隙をつかない道理はどこにもない。

大司祭から当然訊かれるだろう。何故ハザウェイを助けなかったのかと。自分が受けていた命令はあの男を助ける事だったのだから。だが、ここは戦場だ。どんな不測の事態が起こるのかも分からぬ狂乱の舞台。どうとでも言い訳は出来る。

大司祭にはこう告げておこう。彼は名誉の戦死を遂げたのだと。敵の攻撃が予想以上に激しく、苦戦を強いられたのだと。ようやく私が助けに入った頃には時遅く、既に息絶えていたのだと。戦争が大好きな彼にとって、戦場での死は哀しみに値しない。むしろ喜ばしいことであると彼の御魂も告げているでしょう、と。完璧じゃないか。

スタークは留守を預かっている身のため、今回の戦いによる恩賞はなし。ゴースは言うまでもなく候補の外にある。大司祭と食べ物にしか目がないあいつに出世だとか名誉だとか地位だとか、そういった欲とはほぼ無縁だろう。つまり、今回の戦争で得られる恩恵は全て、このマイザー・ウインドブレイクの手中にあるといってもいい! なんて素晴らしい話だろうか!

転がり出てきた儲け話をみすみす逃す程、マイザーは臆病風に吹かれてはいない。

「風向きはこちらに向いた。一攫千金とは、今のことを言うのでしょう」

 かくして、マイザーは自分の抱える軍隊を解き放ったのだ。

 自分達の聖地が、悪しき女神の手によって滅びの危機を迎えていることすら露知らず。

「巨万の富は、私が頂く! この私だけが!」

 ほくほくとした笑みを浮かべながら、ワーウルフという魔物の部隊を、突撃させた。

 

   

 

 

WHITE WING  ~OTHER STORY~

 

 

 

 

「さあ、ここから一緒に出ましょう」

 差し伸べられた手に、私の姉はただ呆然と目を見開いていた。怜悧な美貌には、明らかな戸惑いと驚嘆が浮かび上がっている。

「……リリー?」

 なぜ――と、白い少女は無言の問いを発していた。それは諦めではない。私の言っている言葉の意味そのものをよく理解できていないようだった。あまりにも奪われることに慣れすぎて。人生においてそうなるのは当然のことだと、心が受け入れるようになってしまったのかもしれない。

その心も肉体の自由さえも。常人と比べても、感じる心が遥かに麻痺していたのだろう。

「あなたはここから出たかったんでしょう? だから、私が手伝ってあげる。あなたが失ったモノを、私が取り戻して上げる」

 そう言って、私は有無を言わさず、彼女を縛りつける全ての鎖を解き放ってあげた。執事長から渡されたカギで、牢屋の封印と、彼女の手足を戒める鎖を順番に外していったのだ。

 そうしていく内に、がちゃり――と、全ての重しが外れた音が響いた。

驚いたように、はっと彼女が息を飲んだ。

「嘘……身体が軽い。こんなの初めて」

 感動したように手足をばたばたと動かしている。

そこにあるのが、本当に自分の身体であるかを確かめるように。

かと思うと、バレリーナのように、くるくるとその場で舞ってみせた。

無理もない反応だった。あれだけたくさんの枷が外されれば、身体が一気に軽くなったように感じるのも当然のことだろう。あまりの軽さに、本当に命がそこにあるのどうかすら分からなくなるのかもしれない。自分がそこにいるのかどうかを。

「すごい……まるで天使になった気分だわ」

 だが、姉は素直に喜んでいた。その証拠に、ふわり、と宙に浮かんでみせた。

「ここまで軽いと、背中に羽でも生えたみたい」

くすり、と楽しげに笑った。その仕草が、自由に対する喜びを如実に物語っているように思えた。

「そうだ。これあげる」

 私は、おずおずと姉に箱を手渡した。

それは黒いドレスだった。赤とか青とか紫とか――本当は色々なドレスがあったけれど、なぜか姉にはその色が一番映えるような気がした。

肌が白いからとか、そういった表面的なことだけではなく、それすらも超越した直感的な何かが、そう告げた気がしたのだ。そこは自分でも訳が分からなかった。

とにかく、姉でなければ相応しくないと思ったのは確かだ。

「そんな……さすがに悪いわよ」

 姉は申し訳なさそうにかぶりを振った。

「どうして?」

 思わず面喰らっている自分がいた。てっきり姉が喜ぶ姿を想像していたばかりに、この反応はかなり拍子抜けであった。

「私はもうかけがえのない宝物をたくさんもらっているわ。絵本と、“アイ”と――そして自由。これ以上の何かを望むのは良くない気がするの。それに……そのドレスって高価なモノなんでしょう? 受け取れないわよ」

「そんな遠慮しなくてもいいのに。今着てる服……すごくボロボロなのに」

「私なんかがドレスを着ても似合わないだけよ。でも……気持ちだけは受け取っておくわ。……ありがとう」

 それが本音らしかった。なおも引きさがろうとしない姉に、私はこう言ってやった。

「じゃあ、シンデレラもそんなボロボロの格好で舞踏会に行けたと思う?」

「う……」

 苦しげに呻く姉。後もうひと押しだ。

「それだと王子様にも出会えないわよ」

「うう……」

 何も言い返しきれず、ただただ視線を泳がせている。やはり姉もそういうのが気になるお年頃なのだろう。立派な一人の女の子だった。やがて決心したようにドレスを取り出して――しかし、頬を朱に染め上げながら、そわそわと落ち着かない様子でこちらを見つめている。

「その……恥ずかしいからあっち向いてて」

「女同士なのに?」

 きょとん、となった。

「……女同士だからこそよ」

「私たち、姉妹よ。それでもダメなの?」

「えっと、それは……その」

“姉妹”という言葉に迷いあぐねるように指をいじっていたが、

「……ダメよ」

 トマトみたいにすっかり赤らんだ顔で言った。羞恥で今にも爆発してしまいそうだった。姉の恥ずかしがる仕草が実に可愛らしくて、ついついからかいたくなってしまう。

「えー、いいじゃん。お姉ちゃんの肌、とっても綺麗なのに」

「と、とにかくダメなものはダメなの!」

 服で自分の身体を隠すようにして、ぶんぶんと首を振った。

仕方なく私は顔を逸らした。強情な姉にせめてもの仕返しで、ちぇ、と舌をちらつかせておくのを忘れない。たしかにいくらなんでも悪ノリが過ぎたところはあったけれど、姉に肌が綺麗だと告げたのは、本心からの言葉であった。衣擦れの音に耳を澄ませてからしばらく、

「ど、どう……かな?」

 姉の遠慮がちな声に振り返る――

 私の口から、うわぁ、と感嘆の息がこぼれていた。姉がドレスに身を包んだ――それだけのことなのに殺伐とした風景から一転、世界に花が満ち溢れていくような錯覚が起こった。まるで、絵本の中からお姫様が現れたかのようだった。地下牢がお庭のテラスに風変わりしたようにさえ思えてくる。

「すごい……まるで魔法にかけられたみたいだわ!」

 やはり私の目に狂いはなかったのだ。

 広大な宇宙の中に、ひときわ強く輝く一番星――

それを見つけたような素晴らしい気分に包まれていた。

「そんな……いくらなんでも褒めすぎよ」

 くすぐったそうに言う姉の手を引きながら、私達は地下牢を後にした。

 長い長い階段だった。下りのときはそう大した距離には感じない。けれど登りとなると、下りのときとは話が異なってくる。下りと違って体力も使うし、やっぱりきつい。

けれど、今はそれすらも苦には感じない。胸がドキドキと弾むのを実感していた。この階段を登り終えたとき、そこで待ち受けている栄光を考えれば、こんなものは何でもない。真の快楽とは苦痛を乗り越えてこそ、その味が初めて分かるものだ。

まるで、この道が天国の扉へとまっすぐ続いているかのように思えてくる。

ここを出たらどうしよう?

このことはパパとママにもすぐ分かってしまうだろう。

ちゃんと話せば分かってくれるよね――そんな思いが自然と湧いた。

 

“親が娘を愛するのはどこの家庭も当然のことだ。愛とは与えられるもの。親は子に惜しみなく愛情を与えなければならない。親であり続ける限りは、人間であろうと動物であろうとその役目を背負わなければならない”

 

素晴らしい言葉を頭の中で繰り返し味わった。パパとママはかつて私にそう言ってくれたではないか。余計なことは何も考える必要はない。きっとそれだけで十分なのだから。そう考えると無限の勇気がどこからともなく満ちていくのを感じた。

この世に何一つとしてムダなものはない。必ず意味がある。執事長さんもそう言って、私のことを後押ししてくれたではないか。だから、ここは私が頑張らなければならない。

 そういえば執事長さんは、何故お姉ちゃんを助けようと思ったんだろう。

 お姉ちゃんに本をあげたのはパパやママでもない。他ならぬ執事長さんだ。

やはりこの状況を知っていた一人だからこそ、何とかしてあげたいと切実に悩んでいたのかもしれない。誰だってあんな痛ましい姿で閉じ込められる姉を見れば、そう思うのは至極当然のことだろう。そう思った。

「……ルールローゼ」

 ふと、気づけばその名をつぶやいていた。

「え?」

 姉がびっくりしたように足を止めた。何か信じられないことを言われたかのように。心なしかその顔はひどく青ざめていた。

「それがあなたの本当の名前よ」

 私は念を押すように言った。それがどういう意味を持つかを。

「違うわ……。前に言ったじゃない。私はアダムよ。そう決めたって言ったじゃない」

 姉はうつむきながら、それを否定した。何か大切なモノを守ろうとするかのように。それを傷つけられたら、もう二度と立ち直れなくなるような、そんな恐れに震えていた。

「いいえ。たしかにそれもいい名前だと思うわ。でもね、本当のあなたはルールローゼなの。その方が、あなたらしいと思うわ。だからあなたはルールローゼでなくてはいけないのよ」

 ルールローゼ――それこそパパとママに与えられたモノだった。

 私はそれを教えてあげることで、姉から奪われていたモノを返して上げたのだという実感があった。今まで姉に与えられたのは、ボロボロな服と、絵本だけ。

他には何も与えられなかったはずだ。

私は彼女の名前を呼ぶことで、その白い身体に命を吹き込んであげるような尊さを感じていた。それは“アイ”と同じくらい一生の宝物となるのだろう。これは必要なことだった。

「ねえ、リリー」

 ふいに、ルールローゼが言った。その声は不思議なくらい穏やかだった。

 リリー、そう呼ばれた事にびくっとなった。そういえば今日名前で呼ばれたのは初めてだったかもしれない。

「何が美しくて、何が醜いのか――あなたは分かった?」

 私はかぶりを振った。その答えは未だに分からなかった。もしかすると質問の意味さえ理解しかねているのかもしれない。

「私ね。今、その答えがようやく解かった気がするの」

 ゆっくりとルールローゼが顔を上げた。そこには、少女のように無邪気さそのものの笑顔があった。曇り一つない、透き通った笑みが浮かべられていた。

「リリー。今なら、あなただけに、特別に教えてあげる」

「本当に!?」

 私は大いに喜んだ。相も変わらず、意味の分からない謎かけだったが、その答えが聞けるというのなら聞くに越したことはないだろう。

 それは秘密を共有する者同士の笑み。

「だから、さ」

 

――死んでくれる?

 

 そして、二つの手が、わたしの喉をぎゅっと締めつけた。

 ありったけの力を込めて、喉元へと徐々に食い込んでいく。

朦朧と薄れゆく意識のなか、この嘘つき、という声が聞こえた気がした。

 


 
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