No.496177

戦極甲州物語 拾参巻

武田菱さん

戦極甲州物語の14話目です。

前回コメントを下さった方、ありがとうございました!
返答の方は後書きにてさせて頂きます。ご了承ください。

2012-10-14 17:41:20 投稿 / 全2ページ    総閲覧数:3054   閲覧ユーザー数:2725

 岩殿城。

 山は山でも、岩山と言った方が適当であるほど、この山は特異な形をしていた。標高はさして高いわけでもないが、人の侵入を阻むかの如き急峻な形状が標高以上の大きさと威容さを醸し出していた。

 ここに城を築くことは難航を極めた。資材を運び込もうにも勾配がきつく、時に正規の登山道ですら岩登りのような真似をしなくては先へ行けないような場所が多数存在する。ここに巨大な石垣用の石などそうそう持ち込めるわけがなく、資材はその岩山ゆえの現地調達も多かった。またこの山は平坦な場所が少なく、何とか整備はしたもののさほど余裕のある造りではない。それゆえ規模は決して大きなものではない。しかし天然をそのままに利用したこの城は、まさに難攻不落と呼んで差し支えない。総構えの小田原城が人工の要塞ならば、まさにそれと対を成す城と言えよう。

 造りは連郭式山城。本丸を頂上に据え、その下に脇に控える副将のように二の丸三の丸が並び立つ。岩殿の山は急勾配で南側は切り立った断崖。ほとんど岩の山であり、城内も決して広くはない。その狭さでは大勢の兵がいても逆に動き難くてたまらなくなる。では少数で守りきれるのかと言うと、実はこれが守れるのである。北側も登れるような道はなく、東西から攻めるしかないこの山城は、しかし大軍が一度になだれ込めるような道はなく、大手門とこれに続く関門である揚城戸の門も非常に狭い。特に揚城戸の門は左右を自然の巨岩で挟まれており、これを利用して作られているため、仮に火で門を焼き払ったとしても岩は燃やせないため、結局道を押し広げることもできないのだ。

 

「兵糧攻めは時間がかかりすぎる。時間をかけ過ぎると武田の主力がこちらに戻ってくる可能性があるし」

「風魔の者どもからの報告では、武田はその大半を対信州勢に割いたとのこと。それでも戦力は2倍の差だそうで」

「ふん。信州勢よりも格下と侮られたようで気分が悪いわね」

「氏康様」

「わかってる。それも策の内かもって言うのでしょう?」

 

 北条の家を最初期から支える筆頭家老の言葉に苛立ちをまだ僅かに含みながらも、此度の北条軍総大将、北条氏康は毅然と返した。歳の差は実に親子どころか祖父と孫と言う方が適当なほどに離れている。それゆえなのか、氏康の極端な男嫌いも松田憲秀相手にはさほど強くは働かなかった。憲秀は程よく蓄えられた髭を風に揺らしつつ氏康の先を進む。

 

「憲秀。この城の水場を直接狙うのはやっぱり無理そう?」

 

 険しい道を多数の部下を率いつつ登りながら氏康は目で指し示す。

 まだ太陽は出ているが日が短くなり始めたこの時期、そう長く時をかけることなく夕焼けの時間を迎えることだろう。その日が照らす絶壁――鏡岩と呼ばれる、ほぼ垂直に聳える岩壁は自然の厳しさと雄大さを示すが如く。

 

「……無理でございましょうな。風魔の者どもの話によれば、水場は南側に面しているとのこと。弓矢で狙うにも距離があり過ぎます」

 

 憲秀が小さく首を振るのを見ても、氏康はすでに分かっていたことを再確認しただけに過ぎず、「そう」とだけ返した。

 どうやってこんな山に水が湧き出ているのか知らないが、岩殿城にはその内部にきちんと水場が設けられているという。水が確保できないと籠城のしようもないわけだが、こんな岩の山に水がどうやって湧き出るのか。岩殿城というより、自然の不思議さの方にこそ氏康は感嘆の声を上げたものだ。そして同時に、どうやってそれだけのことを調べ上げたのか風魔小太郎に問い質してみたい。

 

「けれど決してその水場は大きくはないはず」

「左様。湧き出る水量は決して多いというわけでもありますまい」

 

 兵糧は持つかもしれない。けれど水がなければ持たない。

 

「武田の動きから鑑みて、主力を対信州勢に当てている点から、こちらはきっと時間稼ぎ。だから主力も可能な限り短期のうちに信州勢を退ける算段でいるはず」

「兵力の集中は用兵の基本ですからな。それを甲斐各地に分散している状態は武田にとって決して本意ではないでしょう」

 

 北条軍も現在、氏康の本隊五千と綱成の別働隊三千に分かれている。これは主に小山田への牽制と武田の兵力分散を促すためだ。小山田の拠点である郡内を挟み込むように進軍することで小山田が上野原や岩殿への援軍に赴けぬようにすること。そして武田に北条軍の進攻経路を読ませないため。少なくとも現状で3つは武田に選択肢を与えている。すなわち、笹子峠か、御坂峠か、はたまた青木ヶ原などを通り抜けて甲斐南部へ迂回するか。

 実際に功を奏して、武田は北条軍に対しては兵を三分している。笹子峠に通じる道を塞ぐ岩殿城守備隊、御坂峠の本隊、南部の穴山隊。これに信州勢がいるのだから武田は主力をそちらに向けたため、さらにこちらに向ける兵力は限定されている。

 

「いっそのこと館そばで迎撃するという選択肢はなかったのかしらね」

「けだしその方が戦力をある程度集中できたでしょうが……やはり本拠地に敵を近づけたくはないのでございましょう。武田の躑躅ヶ崎館は防備も城に比べればはるかに薄いですからな」

 

 武田はあまり堅固で大規模な城を築かない。それだけの築城技術を有していないというのが理由らしい。元々甲斐は山々に囲まれた国ゆえ、その天然を最大限に活かすことが武田のやり方として定着しているというのもあろう。

 それに御坂峠や笹子峠など、大軍が通れる道が限られているのは守備側にすれば守りやすい。源氏の血筋を受け継ぐ武田家ゆえにかつての本家たる源氏政権の鎌倉幕府、その本拠地の鎌倉がそうであったように、天然の要害で本拠地を守ろうという伝統が根付いているのかもしれない。

 

「武田は最初から長期戦を想定していない。そもそも武田は短気だし、岩殿城も無理に攻めなくても炙り出せばいい」

 

 武田が恐れるのは小山田の本格的な離反。下手に時間をかければ日和見を続ける小山田が明確に裏切りを宣言するかもしれない。だから可能な限り早く信州勢を追い返すことで武田の威を見せつけ、小山田への圧力をかけたいはずだ。

 

「――だっていうのに、つくづく腹立たしいわね、男は」

「……面目ございません。しかし氏康様、上杉憲政の愚考ぶりを庇うつもりなど毛頭ございませんが、こうなった以上はやむをございません」

「はいはい、理屈が通ってるのはわかってるわよ」

 

 そうは言いながらも氏康の言葉にはどうしても不機嫌な色が混じる。憲秀は氏康が聞き届けてくれたことに安堵しつつも、やはり彼女のこの偏り過ぎな性格は何とかしたいものだと改めて思う。昔の氏康も今と同じく男嫌いであったが、今よりもタチが悪かったのは子供ゆえに感情を抑えず、理屈も通らず、ただただその感情に従って男を毛嫌いし続けたことだろう。例外はせいぜいが父と弟の氏綱、そして義弟の綱成くらい。彼らと早雲の踏ん張りで、何とか感情を抑えて男嫌いを理性で制御できるようにはなったが、完全にとは言い難い。時折、昔のように感情のままに男であると言うだけで否定することがある。

 殊に常陸の佐竹はその辺りを揺さぶるのが上手い。あの狡猾な男のこと。むしろ自分が男であることを利用して、氏康を大いに振り回そうとするだろう。何とか早くに氏康には男嫌いを直せずとも、緩和するなり御することができるようになるに至ってほしいもの。

 

「本当なら10日くらい待ってもいいんだけどね。聞けば援軍で入城した信龍という子は此度が初陣だっていうじゃない。しかも性格はバカ正直で直情。こんなの、待ちぼうけを食らわされたら絶対に我慢できずに打って出てくる類よ」

「信龍とやらはともかく、氏康様。上原昌辰の存在を忘れてはなりませぬ。彼の将は武田では珍しい守りに長じた武将。あの信虎でさえ、奪った城に彼の将を入れて願掛けをしたというほどでございますぞ。それに加え、武田四名臣が一にして武田家の懐刀、甘利虎泰が全幅の信頼を置く女丈夫。これを侮っては、我らが河越夜戦の上杉どもめの轍を踏むことにもなりかねませぬ」

「……そうね。彼女は馬鹿にできないわ」

 

 とりあえずの特効薬……というか、即効薬の効き目があったことを、氏康の引き締まった顔から見てとった。男ならああも認めない氏康も、相手が女性であると途端に打って変わってその実力を認める。憲秀とて氏康を赤子の時より見てきたのだ。早雲ほどではないが氏康の扱い方というものを理解している。

 

「氏康様のお考えは某も納得できまする。時間の猶予があればそれもよろしいでしょう」

 

 何しろここは北条の領地である相模や武蔵から近く、兵糧や武装の調達は効きやすい。また上野原城を落としたのでこれを前線拠点として使えるため、兵站の確保もできている。長期戦に及んでも問題はない。

 

 

 

 しかしそれを許さぬ事情というものがあった。

 

 

 

 上杉軍の存在だ。

 

 

 

 上杉軍は南進を続けており、今は武蔵と甲斐のどちらにもすぐに攻め込める所に陣を敷いているらしい。その兵力はおおよそ1万。あれほどの大敗を喫したにも関わらず、上杉はまだそれだけの兵を動員できるだけの余力があるらしい。上杉の名声は落ちても、関東管領の威厳は失墜しても、その名は、その地位は、未だに東国の各勢力に影響力を持っている。ただし本心から上杉に従っているのはせいぜい結城氏と小田氏くらいのもの。佐竹氏や里見氏は逆にそれを利用して大義名分を得て、北条の領地を刈り取ろうとしているだけだ。今回の上杉の進軍も彼らによる調略の可能性もある。

 

「臆病者の存在はどうでもいいとしても、率いる将に業正がいないというのが気にかかるところね」

 

 長野業正。

 上杉当主、上杉憲政を捨て置くことはできても、この将だけは絶対に侮ってはいけない。侮れない。北条にしろ佐竹にしろ里見にしろ蘆名にしろ。いや、東国の者ならば誰もが警戒している。それが業正である。河越夜戦においても、彼の将がいち早く北条の策に気づき、撤退の殿を務めていなければ、今頃は憲政もこの世にはいなかったろう。早雲を以ってして「あの智勇にはいつも冷や汗をかかされます」と断言するほどなのだ。早雲がそう言うほどの将を、氏康が良くも悪くも意識しないわけがない。

 

「然り……とは申せども、業正の存在の在るなしに関わらず、上杉が甲斐に攻め込むことは憂慮すべきこと」

「ええ。少なくともこの郡内は抑えられれば……なんて思っていたけれど、それだけじゃ足りない」

 

 上杉が甲斐を手中にすれば、北条の本拠地である相模は再び上杉の脅威に晒されることになる。折角武蔵の南半分を抑えて上杉の脅威から相模を切り離したというのに。それを防ぐために郡内を取ることで相模と北条の楯にする。そういう考えでいた。

 だが早雲はそれだけではなく、上杉に甲斐を取らせないつもりでいるらしい。傲慢と言うわけではなく、上杉が武田を征伐するという形になることを絶対に阻止したいからだ。

 

「武田は甲斐源氏の名流。上杉の格式には劣れども、武田信虎によって暴走した武田を抑えたとあれば民心を掴むこともできましょうな」

「そうなれば上杉の名声は回復し、さらに甲斐の府中を手に入れた上杉は必ず郡内を占領した私たちを賊軍として扱うことでしょうね」

 

 甲斐の民を守るため。この大義名分のもとに出陣した北条が、逆に民から賊として見られて放逐される……これは絶対に避けなければならない。下手をすれば北条領国内の民たちもが北条を疑いかねないし、一度北条が賊として扱われれば、佐竹や里見にとってはこの上ない機会となろう。上杉の号令があれば結城に小田も動くことはほぼ確実。そして敵対してしまった今川も、実質的な北条の支配状態にある河東一帯を取り戻すべく動きかねない。

 

「武田の次は私たち北条が完全に包囲されかねない……事は北条の命運に関わるわ」

「左様でございます」

 

 氏康の冷静な思考に、憲秀は事の重大さに眉を顰めつつも安堵していた。大丈夫だ、氏康はまだまだ冷静さを失っていない。彼女1人で制御できないものは自分が彼女と共に御せばいい。それを見込んで御本城様は自身を副将として付けたのだと、憲秀は自らを叱咤する。

 

「綱成様が間に合えばよいのですが」

「……三千で甲府に攻め上るのはなかなか難しいものがあるでしょうね」

 

 実のところ、氏康は当初、綱成に総兵力の半分である四千を任せるつもりでいた。だが綱成は総大将である氏康を危険に晒すわけにはいかないと、できる限り兵力を氏康に集中させようとして氏康がこれに反対し、結局、憲秀の仲介のもとで現在の本隊五千、別働隊三千に落ち着いた。小山田を警戒しなくてはならないのは事実だが、小山田を警戒すると見せかけて岩殿城を包囲するまでは同調するようにゆっくりと進軍していた綱成軍だが、今頃は進軍速度を急激に加速させて御坂峠へと向かっていることだろう。

 武田軍の総大将である武田信繁――すでに小太郎によって彼が信虎を排斥して当主に収まったことは伝えられている――が、僅かな手勢で御坂峠に向かっているからではない。言ってしまえば信繁の存在は理由ではない。

 上杉が北条の動きに気づく間もないほどに素早く動く必要があった。小山田が後ろからいきなり虚を突こうにもできないほどに。上杉が慌てて向かってきても時遅しと悟れるほどに。主力を率いて韮崎へと向かった信玄率いる武田の主力が急いで引き返しても間に合わぬほどに。雷撃の如く、甲府を速やかに手中にするために。

 

「私たちもこんな所でいつまでも時間をかけていられないわ。例え綱成が甲府を一番に落としても、その後必ず囲まれる」

「信州勢が横取りを狙ってくるやもしれませぬし、上杉軍も多勢に物を言わせてかかるでしょうしな」

 

 そのための氏康軍だ。笹子峠を越えて北方より来るであろう上杉軍を牽制し、氏康と綱成が合流して迎え撃つ。信州勢には上杉と懇意の者もいるだろうが、武田軍主力とぶつかる連合軍にとって、その後に今度は勢いづく北条軍を相手にするのは辛かろう。上杉軍も三千相手ならともかく八千を相手にしては、河越夜戦のことを思い出して二千程度の兵力差で優位に立っても怖気づいて動けないはずだ。実際、上杉軍は武蔵でもそれだけの兵力を動かせるにも関わらず一向に動かず、北条が動きを見せると途端に過剰な防衛体制を取っているのだ。もしかすると、今も武蔵にも甲斐にも攻め入られずに陣を敷いてじっとしているのは、恐れているからなのかもしれない。長野業正がいないのならば尚更だ。有象無象の将では兵の尻を叩こうにも自らの手足が震えていて話になるまい。

 もちろん、これらは勝利の驕りからの推測ではない。小太郎たち風魔衆がきっちりと集めてきた事実なのだ。

 

 

 

 北条は、驕らない。

 

 

 

 河越夜戦で教訓を受けたのは上杉だけではない。北条もまた、気を抜くことが大敗に繋がることを学んだのだから。大軍を前にしても怯まず、自軍が優勢であろうとも油断しない。当たり前のようで、しかし多くの人間が一つどころに集まって行動する軍ではそれがまた難しい。しかし逆に言えば、これが徹底している軍は、すなわち強兵であるということだ。

 難攻不落? だから何だ。真に難攻不落は北条の小田原城ぞ! 岩殿城など、いくらでも攻めようがある! 恐れるに足らず!

 

「さあ、行きましょう。北条の力、武田に見せてやりなさい」

「御意。弓隊、前へ!」

 

 率いてきた部隊の中から弓兵たちが飛び出し、矢を取り出してその鏃に火をつけ始める。油を含ませた布を巻いてある。周囲の岩にぶつけたりこすったりして火花を出せば、あっという間に火がついた。

 

「弓隊、できるだけ水場の辺りも狙いなさい! 直接当たらなくとも水場の辺りに火が回ればしめたもの! あとはとにかく撃って撃って撃ちまくれ! 敵に水を使わせるのよ!」

 

 堅固な城であることはわかっている。だから最初の攻めから奪い取ろうとは思わない。兵糧攻めをしている時間はないが、水攻めならば可能だ。水攻めとは言っても、水を用いて押し流すと言うのではなく、水を奪うことで戦意も奪おうという意味だが。

 弓兵たちが火のついた矢を番え、その鏃を空へ向けた。この先にある、岩殿の城内へ。

 

 

 

 

 

 空が夕焼けに染まり始めたそのとき、火蓋は切って落とされた。

 

 

 

 

 

「放て!」

 

 一斉に空へと放たれる火矢。引き絞られた弦が弾かれて震える低い音が重なる中、百を超える火矢が次々に岩殿城へと吸い込まれるように突っ込んでいく。さらに兵たちは矢に火をつけ、番え、次の矢を放っていく。断続的に続く火矢の行進。

 しばらくすると城内が騒がしくなる。離れていても否応なく怒号や悲鳴が聞こえてくる。それを耳にしながらも、氏康も憲秀も黙って目を逸らさず、いかなる変化も逃さないと言わんばかりに城を睨み続けた。

 

「憲秀。周辺の警戒を怠らないで」

「承知。風魔の者どもも周辺に潜んで警戒しております」

 

 城から目を離すことなく氏康は「そう」とだけ返した。ただ念を押しただけなのだろう。最初から風魔衆が氏康の部隊を囲むように潜んで警戒していることは周知のこと。この岩殿の山には大きな洞窟があり、武田はそこに兵舎すら築いており、有事にはそこから伏兵を差し向けることさえあるという。だがそれがわかっていれば何のことはない。風魔衆により先んじてその洞窟は調べ尽くされ、氏康がここへ来る前に火を放たせてあった。

 

「本当ならあれで怒って出てくることを期待してたんだけど」

「武田信龍。意外に辛抱強いのかもしれませんな……む。氏康様」

 

 憲秀が城を指さす。氏康がそこへと目を向けると――煙が立ち上っていた。

 黒煙と言うほどではないが、もうもうと煙が上がっている。

 

「火の回りが早いわね。篝火にでも当たって一気に燃え広がったのかしら」

「あの辺りは水場にも近うございます。もしかすると幸いにも……でございましょうかな」

「いいわ。軍神もこちらについたというところかしらね」

 

 氏康は弓兵たちに変わらず撃ち続けるように指示し、同時に長柄隊に門を囲むように配置させた。火や煙が回れば堪らずに出てくる可能性がある。平地に立つ平城ならば塀を登って堀に飛び込む兵もいるが、ここは南北を断崖、東西も道はあれども急峻な岩山。逃げだせる場所は東西の門以外にはない。

 

「さあ、出てきなさい。時間を置いて焦らすことはできなくても、短気な娘1人炙り出す方法なんて他にいくらでもあるんだから」

「油断は大敵でございますぞ、氏康様。武田は荒々しい気性。怒っているとなれば尚の事でございますれば」

「なんの。虎穴に入らずんば虎児を得ずよ、憲秀」

 

 氏康は気強く返す。慎重さが必要なことはわかっているが、押すべきときに引いてしまっては愚かというしかない。戦の駆け引きというものである。

 仮にもこの身は˝相模の子虎˝と呼ばれる身。子虎、というのは少々納得できないものがあるが……ならばもはや『子』などという言葉が合わぬと周囲に悟らせるだけのことをしてのけてやればいい。相手に˝甲斐の虎˝や˝甲山の猛虎˝と言われる者たちがいることも氏康の自尊心を大きく刺激していた。

 虎と呼ばれるのは、北条だけでいい。

 そして世に知らしめてやるのだ。北条はかつての執権北条氏の名が持つ威を借る狐などではなく、れっきとした別の家であり、恐るべき猛虎なのであると。『後北条』などとは呼ばせない。我らこそが『北条』。ゆくゆくは関東の覇権を握る大家である。伝統や名声ばかりの名家がどうした。今は力こそがものを言う戦極の世であるぞ。

 関東の雄、北条はここに在り!

 氏康は大きく息を吸い込み、まだ少女と呼べる小柄な身でどうしてと思えるほどの大声を張り上げる。

 

 

 

 

 

「我こそは! 北条早雲が子、˝相模の子虎˝北条氏康なり!――武田信龍! 虎の名を語るのならば、引き籠もってないで出てこられたし!」

 

 

 

 

 

 今の世は一対一の時代ではない。足軽が生まれ、鉄砲が出てきて、戦い方はどんどんと様変わりしつつある。それでも日ノ本において武士には一対一を望む気概があった。氏康とて武士。例え自らの身を危険に晒しても敵と本気で戦って勝利を手にしたかった。

 全ては北条の家のため。母のため。そして北条を奉じる家臣や民衆のため。武士は彼ら家臣や領民を守るためにある。決して天下を獲ることが武士の本分ではない。自らの『武士』を立てるため、その先頭に立って戦うことが氏康の、北条の将としての在り方だった。河越夜戦でも自ら奮戦して味方を鼓舞した。それゆえに˝相模の子虎˝と称されるのだ。

 虎の咆哮が虎を刺激したか。

 ついに、眼前の門がゆっくりと開き始めた。

 氏康は「構え!」と叫ぶとともに、自らも薙刀を取った。その腕前は若くしてすでに猛将として知られる綱成ほどではないが、北条において彼女と本気で渡り合える者は決して多いわけではない。自らの手で、敵将の首を獲る。その気概を、薙刀を握り締める拳に込めて。

 

「っ!?」

 

 だがその力が一瞬緩んでしまった。それは氏康だけではない。

 煙が漏れてくることは当然予想していた。しかしだ。まさか門が開くと共に勢いよくこちらに向けて吹き飛んでくるとは思っていなかった。門前すぐそばに構えていたら煙に巻き込まれるからとそう近くに配置していたわけではないのに、あっという間に煙は氏康たちを巻き込み、あたりはすぐに真っ白となり、あちらこちらで咳やくしゃみが飛び交う。氏康もまた例外ではなく、激しく咳き込んだ。

 

「ゴホゴホ! くっ、ゲホッ……ちょっと、これはいくらなんでもおかしいでしょ……!」

「う、氏康様! 氏康様を囲め! ゲホ、ゴホ!」

 

 咳き込みながらもなんとか目を開けて周囲を確認しようとする。だが辺りは真っ白で視界は自由がきかない。

 

(……真っ白?)

 

 はたと氏康は疑問を覚える。

 煙はわかる。だが火事の時に起こる煙はこうも真っ白なものか?

 それに……と氏康は咳き込むことは承知の上で鼻で煙を吸った。途端にむせて咳き込むが、やはりおかしいと思い、そしてこれが何なのかを即座に理解した。

 

「長柄隊! 層を厚くしなさい! ケホッ、ゴホッ……こ、これは砂よ! 砂煙!」

 

 火が起こす煙たい煙の臭いではない。これは戦で踏みしめられて否応なく立ち上る砂煙の臭い。騎馬が、兵が、巻き上げる砂煙の臭いだ。

 

「武田め……! グフ、ゲホ……水ではなく砂で火を……!」

 

 激しく咳き込み、目に入った砂煙に堪らず涙を零しつつ、憲秀は氏康を守るために彼女の前に立った。

 大事な水を消火で使わせる意図を察したのだろうか。それにしては対応が早い。『火を消すなら水』――誰もが当たり前に知る常識。であるがこそ、こういった火急の事態に対しては誰もが反射的にそう動く。砂でも消せるとわかっていてもなかなかそうは動けないものだ。だがこの騒ぎの中でそう指示してもすぐに兵たちが即応できるとは思えない。それもその煙を使ってこちらの目を潰してくるとは。予め対応方法を兵たちに徹底させていたとしか……。

 

(上原昌辰か……さすがは武田随一の守将。やってくれるわい!)

 

 昌辰に対して皮肉を込めた賛辞を送っていた――そのとき。

 憲秀の目に何かが映った。正面、煙の先。何か……否、誰かがいる。

 憲秀は刀を抜き放った。後ろで氏康もまたその姿を認めて薙刀を握り直す。そんな2人の動きを向こうも捉えたのか、一気にその距離を詰めてきたではないか!

 

 

 

「望み通り、武田の『虎』の力を見せてやるのだ!」

 

 

 

「氏康様、お下がりを!――せえやあ!」

 

 気勢を上げて憲秀が向かってきた薙刀の穂先の一撃を迎え撃つ。刀が薙刀を打ち落とす! 返す刀で憲秀は斬り上げようとした。が!

 

「そいやああああ!」

「なんと!?」

 

 相手は地に打ち落とされた槍の勢いすらも利用して跳躍。薙刀を支えに憲秀の頭上を前転しながら越えていくではないか。その様、古に伝え聞く源義経の八艘跳びの如く。その先にいるのは言うまでもない。狙いは最初から氏康!

 

「くらええええええええ!」

「なんて突飛な……ええい!」

 

 回転の遠心力をつけた渾身の一撃を氏康は打ち上げた薙刀で払おうとする。

 奇しくも同じ薙刀同士が激突。一瞬、激しく火花が散って、視界の悪い中で相手の姿が確かに見えた。

 

「――なっ!?」

 

 その姿に、氏康は反射的に引いてしまっていた。それがまずかった。

 

「隙ありいいいい!」

「っ、きゃああああああ!」

 

 相手は薙刀を力任せに振り回し、氏康ごと薙刀を弾き飛ばした。勢いのあまり、数歩たたらを踏んだ挙句、尻餅をついてしまう氏康。

 

「氏康様! おのれ、奇怪な格好をしおってからに――覚悟せい!」

「そうはさせませんよ、松田憲秀殿」

「ぬっ!?」

 

 憲秀もまたその珍妙な姿を視認して驚きはしたものの、座り込む氏康をすぐさま助けようと駆けだそうとして。直後、背後からの声に咄嗟に振り向きながら刀を薙いだ。衝撃と戟音。憲秀の刀が迫る刃を打ち払う。

 

「何奴!?」

「愚問でしょう。ここをどこで、そして守る者が誰と心得ておられますか?」

 

 煙の中でも僅かに差し込む夕焼けの光を反射する刃。それが2本、憲秀の顔面へ向かってくる。顔を反らして躱す。一歩引き、そのまま刀を斬り返す。が、それは相手の刀に防がれ、そしてもう1本の刀は再び憲秀を襲う。寸でのところで回避――しきれず、脇腹のあたりで鎧を傷つける音がした。

 

「……なるほど。小太刀とは、まこと守ることに長けた将らしい得物よの。上原昌辰殿」

 

 鎧が防いでくれたおかげで怪我はない。だが自らの鎧に傷をつけられたことにこそ憲秀の武士としての魂は反応していた。老いてなお、その魂は健在。闘志が奥底から湧いてくる。その闘志が籠もった目で、煙がようやく晴れてきた中、憲秀は眼前に黒髪を靡かせて立ち塞がる相手を見据えた。2本の小太刀を手にし、驚いたことに鎧の一切をつけず、白と黒の袴姿。せいぜい胸当てくらいが防御装備と言えようか。それも所詮は薄いもので、おそらくは弓を引く際に身に付けるもので、戦場で相手の攻撃を防ぐ目的で着けているものでもあるまい。

 

「非力なものでして。鎧など着ればたちまち足手纏いにしかなりませぬゆえ」

「代わりに小太刀の二刀流によって防御を補ったと? ふっふっふ、さすがは守将と呼ばれながらも武田の人間。守り一辺倒に特化するという選択肢はないようじゃのう。守将としての才に、小太刀の使い手。まったく、羨ましい限りじゃ。才の無い男としては恨めしいほどに」

「才が無い、ですか……仮に貴方が才の無い方であったとしても、それを自覚し、そこまで自らを鍛え上げられてきた貴方は、決して平凡とは言えないでしょう」

「武田四名臣に褒め言葉を賜れようとはのう。わしも偉うなったものよ。しかし上原殿、所詮この身は御本城様の腰巾着。貴殿の言葉は腰巾着程度には過ぎたものじゃ」

「そうですか。では確かめましょう。その腕が腰巾着程度のものかどうか!」

「参られい、上原殿!」

 

 昌辰が斬り込む。左上段を憲秀は刀で受けた。そこに一拍遅れて繰り出される右の突き。それを――

 

「ふん!」

 

 憲秀は左手刀で昌辰の手首を叩き落す。昌辰の体勢がわずかに崩れる。そこに憲秀は一歩踏み込む。膝蹴り!

 しかしさるもの。昌辰は真正面から抗おうとはしない。左腕を咄嗟に引いて受け、身を後退させることで衝撃を流した。それでも昌辰の顔は僅かに痛みに歪んだ。それでも彼女が動きを止めることはない。憲秀が逃さぬとばかりに斬り込んできたから。頭上からの鋭い突きを瞬時に躱し、そのまま両腕を広げながら身を翻して回転。大きく足を運ぶことによって憲秀の側面に回りこみ、遠心力をつけた薙ぎを放つ!

 戟音。

 昌辰の刃は、憲秀の刀に防がれていた。だがなんのその。昌辰はもう一本の小太刀で胴を狙う。

 

「させぬわ!」

「っ!」

 

 憲秀が思い切り昌辰へと押し込んだ。自ら懐へと飛び込んでいったのだ。体当たりとなり、昌辰の小太刀は止まってしまう。憲秀はすぐさま身を引き、追撃を避けた。無理に押すつもりはないのか、それとも昌辰が彼の視界の外で小太刀を逆返し、突き立てようとしていたことを察したからか。

 

「……才はなくとも、早雲殿の傍らに常に在り、北条の躍進を支え続けた宿将。戦があれば常に赴き、平時も政務と軍務、そして自らの鍛錬を一切怠ることなく務め上げてきた貴方がただの腰巾着なら、北条の人材がそれだけ優秀で豊富なのか、そうでなくばただの見る目無しのどちらかでしょうに」

 

 昌辰は油断なく憲秀を見据える。

 松田憲秀。

 北条の宿将でありながら、確かに彼の将は目立たない。それは昌辰が武田四名臣と呼ばれながらも他国からはその名を知る者が少ないのと似ている。昌辰はそれでも守りに長けた将として知る人ぞ知る将だが、憲秀は彼女よりさらに『地味』だった。特にこれと言って誇る才能はなく、特化した技能もない。政治力では氏康に劣り、武力では綱成に負け、謀略でも早雲に敵わない。北条家中においても平凡な将として通っている。

 だが彼はそれを自覚しているからこそ昌辰が侮ることはない。非力な身でありながら、だからこそ才ある者たちに仕え、戦を数多こなし、政務・軍務から片時も離れず、早雲決起の最初期より経験を積み重ねてきた。

 『北条早雲の腰巾着』

 その意味するところを、昌辰は決して見誤っていない。

 

「媚び諂うだけの腰巾着と、その立場を最大限に利用して相手の才や技能を盗み自らのものとする腰巾着では、まるで意味が違います。松田憲秀殿。私は、貴方ほど自らを高めることに貪欲な方を知りません」

「…………」

 

 憲秀は――笑った。兜の奥で。決して暗い笑みではなく、砂煙で薄汚れた顔でなぜそこまでと思えるほど爽快な笑み。

 周囲から見ても、華麗な昌辰に対して薄汚れた老兵に見えるだろう。されど。この老兵は、その汚れこそを誇る者。綺麗なだけでは意味がない。才が無いからこそ、泥にまみれ、汗を垂らし、恰好など二の次三の次にして地を這って北条に仕え続けてきた。

 北条早雲が松田憲秀を重用している理由はまさにそこにある。

 元々北条は下剋上で成り上がった身。世間からもその家格は下に見られ、伝統ある家の者たちはこぞってかつての執権北条氏の名を騙るだけの卑しい家だと蔑む。そんな家に、松田憲秀はそんな汚い身を晒してでも仕え続けている。自らの格好など気にせず、ただ自らを高め続け、その能力を北条の家のために。誇るべき過去がない。ゆえに伝統もない。だからこそ取り繕うような名家ゆえのしがらみや格好もない。そんな北条の家に、憲秀のような男はむしろ好ましいとさえ言えよう。馬鹿にされても構わず、北条の家を関東の雄へと押し上げることに邁進する。

 北条早雲にとって、憲秀こそが一番に北条を理解している存在なのだ。だからこそ彼を重用し、そばにおいた。

 

「北条が我が武田家の脅威となるのなら、松田殿、貴方は必ず討ち取らねばならない相手。この上原昌辰、全力で参ります」

「すべては北条の御家のため。御本城様への恩義のため。上原殿、貴殿の首級はこの松田憲秀が頂戴仕る」

 

 武田と北条の兵が2人のそばへとひしめく。

 

 

 

「いざ!」

「かかれ!」

 

 

 

――ワアアアアアアアアアアアアアアア!

 

 昌辰と憲秀。2人を先頭に、武田兵と北条兵がぶつかった。

 

 

 

 

 

「憲秀もすっかりその気になっちゃって。上原昌辰の首は私がもらうつもりだったのに」

 

 向こうで始まった戦いにチラリと視線を移しつつ、氏康は溜息をついた。10歩ほどの距離を開けて少年を先頭に武田兵たちが立ちはだかるも、氏康は一向に気にしない。氏康の背後の北条兵たちの方が総大将の無防備さにハラハラするほどだ。

 

「うぬぅ~、あと少しだったのに!」

 

 そして武田軍の先頭に立つ少年は少年で薙刀を振り上げながら地団太踏んでいる。その恰好はなんと虎の毛皮を被り、着物はまるで百姓の子供たちが着るような質素なもの。むしろボロと呼んでも差し支えないかもしれない。ただそう呼ばないのは、いちおうでもその着物がいい作りをした仕立てのいいものであることは一見すればわかるからだ。それを股下数寸で破いているのだから、本当に子供とは言え、この粗暴さは如何ともし難い。

 

「これだから男ってのは……それも武田の粗暴さが加わると手の付けようがないわね。不幸。本当に不幸だわ。早く甲斐の民たちを救ってあげないと」

「おい、お前! 武田を馬鹿にするな!」

 

 少年は氏康の言葉を聞きつけ――誰に憚ることもない声量での発言ゆえ聞こえて当たり前だが――怒鳴り散らした。しかし残念ながらその言葉も、混じる粗暴な部分だけが氏康に聞きとめられて尚一層氏康の呆れや嫌気を助長するだけであった。

 

「はいはい、もういいから。それより武田信龍はどうしたのかしら? 上原昌辰や兵たちは出して自分は高みの見物? 余裕のつもりかしら」

「ノブタツはここにいるだろ!」

「ふ~ん。貴方が武田信龍?」

「お前、馬鹿じゃないのか! さっきからそう名乗ってるだろ!」

 

 思い切り馬鹿と言われて氏康の頭の何かが1本切れかけたが、理性はまだ十分に残っていた。相手は年下であるということも氏康の余裕を助けるものとなったろう。

 もちろん目の前の少年が武田信龍であることはわかっていた。先ほどの危ないところを割り込んで助け、そして今はそばで控える黒づくめの服の忍者――風魔衆たちがあれこそ武田信龍だと耳打ちしてくれていたのだ。この戦が初陣だというのだから、あのくらいの年頃だろうとは思うし、初めての戦ということが彼の精神を昂らせているのだろうが、それゆえに氏康にしてみればいくらでも挑発のしようがある。

 ……そう思っていたのだが。

 

(……なかなか踏み込んでこないわね)

 

 信龍は何度か先ほどから怒り心頭といった体を見せているものの、氏康の思惑通り突っ込んではこなかった。昌辰がしつこく言い聞かせていたのだろうか。だがそれならそれでやりようはある。幸い、昌辰は憲秀が相手をしている。止め役はいないということだ。直情一本気な性格だというのなら、子供であるということを加味すると、いつまでも忍耐など続くわけがない。

 

「まあ、なら話は早いわ。武田信龍、降伏しなさい。これ以上無暗に兵を失い、民に犠牲を出すべきではないでしょう?」

「嫌だ!」

 

 そこはせめて『断る』と言ってほしいものだが、なぜだか嫌だと言われると腹が立つ氏康である。説得が通じる相手だとは思っていなかったが、この反応では無理だろう。男は変に自尊心に凝り固まることがあるし、初陣の男など尚更のことだろう。頭を抱えながら氏康は言葉を続ける。ただどんどんと投げ遣りなものになってしまうのは氏康もまだ気づいていなかったが。

 

「勝てると思ってるの? 私たち北条以外に一揆勢・信州勢・上杉勢までいるっていうのに」

「だからどうした! 武田は負けない! 兄上も姉上たちも強いんだぞ! お前なんか兄上と姉上たちの足下にも及ばない!」

「そう。その兄上様と姉上様が強いのはわかったけど、貴方はどうなのかしらね?」

「ノブタツも強いぞ!」

「だったら早くかかってきなさい。返り討ちにしてあげるわ」

「うぐぐぐぐ……っ、うう、だ、駄目だ駄目だ」

 

 これだ。

 確実に火に油を注いだ手応えはあるのに、寸でのところで信龍は抑えに成功している。胸に手を置き、何かを思い出すようにして。そして大きく深呼吸しての繰り返し。何かの呪い事なのだろうか。粗野な武田が、そしてこの直情馬鹿の少年がそんな乙女のようなものを信じているとは思えないが。

 

「怖気づいたのかしら? 武田の男は聞いていたほどでもないのね。その虎の着ぐるみには驚かされたけど、ただのこけおどしかしら?」

「お前さっきからオトコオトコってしつこいぞ!」

「男なんてロクなものじゃないんだからいいでしょ。貴方もそんな男になりたくなければ早く降伏しなさい。北条に来れば少しはたおやかになれるかもしれないわよ? 北条の男はそっちより随分マシよ」

 

 そう言った時だ。

 本来なら今の言葉を聞けば武田兵も怒り狂うところだったかもしれないのに、それどころか武田兵は気まずそうな顔をして、そして氏康を可哀そうなものを見るような目で見てきた。意味が分からず、氏康は不快さを感じながら何なのかと信龍を見る。

 と。

 信龍は体を小刻みに震わせながら氏康を睨みつけていた。何だか怒りだけではなく、嫉妬――それも同性の妬みという類に似ている――のようなものさえ感じてしまい、氏康はわけがわからずについついその勢いに「な、何よ?」と怖気づいてしまった。

 

 

 

 

 

「ノブタツは……! オ・ン・ナ・だあああああああああああ!」

 

 

 

 

 

 その叫びはこの岩殿の山を揺さぶるほどであった。離れたところで戦っていた昌辰や憲秀たちまでもが一瞬とは言え目をやるほどに。

 

「…………うそぉ?」

 

 ついそう零したのは……間違いなく失言であろう。

 そこでそばに控えていた風魔衆が再び耳打ち。すなわち、「あれの言うことは事実でござる。武田信龍は女子です」とのこと。

 

「ムッカアアアアアアアア! も、もう……もうノブタツは許さないぞ! 兄上と姉上たちが駄目と言ってもさすがにもう許さない!」

「あ~……うん。さすがに悪かったわ。ごめんなさい」

「素直に謝られると余計にむかつくのだ! それとその憐れんだ目はもっとむかつくぞ!」

 

 いやだってねえ……そう言い訳したくもなってしまう氏康。

 女に対しては緩くなってしまう氏康からすれば、この男勝りも甚だしい信龍は本当にかわいそうに見えたのだ。女たる者、女としての色気や気性というものも身に付けるべきであり、武田などにいたから彼女はこんなふうになってしまったのであり、すなわち北条としてはこの哀れな少女を然るべき環境で再教育してやるべきなのだ。

 

「うん。絶対に連れて帰るわ、貴女」

「理由はわからないけどとにかく嫌だ!」

 

 変な勘違いをしたままで氏康はもはや聞く耳持たずとばかりに薙刀を構える。信龍も女らしくないことは自覚こそすれ、それでも女としての自負もあり、さすがに今回ばかりは引けなかった。薙刀を振り回し、思い切り地に叩きつけ、そして身を低くして――

 

「兄上の命により、この岩殿城をシシュする! 武田一門、武田信龍、行くぞ!」

「北条氏康、受けて立つわ! 来なさい、武田信龍!」

 

 虎の如く突っ込んだ。

 が、それは氏康の思惑通りである。

 

「風魔衆!」

 

 氏康が叫ぶと同時、信龍の目の前に地中からいきなり細い縄が左右から引き絞られて飛び上がってきた。

 たったそれだけの単純な罠とも言えないような罠だが、それで信龍を始め武田兵たちが勢いのままに突っ込んで縄に止められ僅かながらも足止めされる。その僅かな隙こそ北条にとって好機。長柄隊が槍を突き出し、武田兵を突き刺しにかかる。武田兵たちが苦悶の声を上げ、胸や足、手や肩から血を流し、恨めしそうに北条兵たちを睨み、中には恨み言を叫んでせめて一矢報いようと刀を振り上げたところで矢に脳天を射抜かれて事切れた者もいた。

 

「うあああああああああああああああ!」

 

 だが信龍は止まらない。それどころか縄をどけもせずに無理矢理に前へ動こうとする。無駄なことを、と氏康は言いかけて次の瞬間、驚愕に目を見開いた。

 信龍の体が、縄を押し込んでいく。左右に縛り付けた木が僅かなりともしなっているではないか。

 

(どんな馬鹿力よ!?)

 

 怪力にもほどがあろう。この小さな体で、細い手足で、どうしてこの力が出せるのか。

 今度は北条兵たちがその様に怖気づいた。それこそが好機と取ったか、信龍はさらに身を前へ前へと押し出して。

 

 

 

 木こそ倒れなかったが、その力に縄の方が耐えられなかった。

 

 

 

 縄が切れ、信龍は、そして武田兵は怖気づく北条兵に躍り掛かる。先の仕返しとばかりに斬られ、突かれ、なぎ倒されていく北条兵。

 

「怯むな、押し返せ!」

「この野蛮な甲州の猿どもが!」

「氏康様に続け!」

 

 氏康も迫る武田兵を薙ぎ倒し、次に斬りかかってきた信龍の薙刀を防ぐ。

 

「お前は絶対にノブタツが討ち取る!」

「やってごらんなさいな! ˝相模の子虎˝をなめるんじゃないわよ!」

 

 力では負ける。そう思った氏康は無理に押し合うことなく、さっと身を引いて信龍の横合いに回りこむ。が、そうはさせじ。信龍も崩された体勢を無理に直そうとせず、そのまま前に身を投げて氏康の斬り落としを躱す。そして地に膝をつけたままで薙刀を片手で薙ぐ。足下を狙って。氏康はそれを軽く跳躍していなした。

 

「豪快なこと。でも綱成ほどじゃない!」

「お前もやっぱり兄上や姉上たちほどじゃない!」

 

 言ってくれると氏康は薙刀を振り下ろし、信龍の薙刀を上から叩き落し押さえつける。成功するや否や薙刀を手放し、突進しながら腰の刀を抜き放った。

 

「覚悟!」

「お前がだ!」

 

 信龍も薙刀に拘ることなく、刀を抜き放って応戦する。

 わずかな間の鍔迫り合いは、氏康と信龍双方が弾き合うことで互いに距離を取って終わった。

 

「初陣とは思えない勇壮ぶりね。本気で欲しくなったわ」

「ノブタツはお前のこと嫌いだ。さっさと帰れ!」

「そうはいかないわよ。この戦いには北条の命運がかかってるんだから」

「知るもんか! ノブタツだってこの戦いは負けられないんだ! それに約束がある……兄上と、絶対に生きて帰るって約束が!」

「そう……でも残念ながらそれは無理よ。貴方はここで負けるんだから!」

「武田は負けない! 兄上も姉上たちもノブタツも!」

 

 再び2人は刃を交える。

 戦いはまだ、始まったばかり。それでも今この時を決戦としようとばかりに、武田と北条は激しくぶつかり合った。

 

 

 

 

 

――続く――

 

 

 

 

 

 

【後書き】

 このところは肌寒くなって参りました。少々風邪を引いたか、鼻がぐずつく私です。

 しつこいようですが、めっきり更新が遅くなっていて折角読んでくださっている皆様には大変申し訳ありません。

 

 今回は合戦の序盤として岩殿城に籠もる信龍と氏康の戦いを描きました。籠城戦なんだからいきなり打って出るのはどうよと私も思ったのですが、信龍を描くならこの方がらしい気もしましたので。

 それなら対信州勢にこそ信龍を向かわせればという考えもありましたが、当初私が信繁に考えさせていたことを優先してこの配置にしました。

 時間軸は原作本編より前になるので、氏康もまだ未熟なところが目立つように描いていますがどうでしょうか。母を尊敬するあまり、まだ垢抜けない部分や背伸びしているという感じを私はイメージしているのですが。

 兄や姉を尊敬している信龍と、母を尊敬する氏康。共に相手を崇拝や盲信しているというレベルにある尊敬ぶりなのですが、そこが弱点でもあります。その点で2人は似た者同士でしょうかね。

 そう言えば、ふと思ったら、現状の設定は信繁と氏康って歳も近いというかほぼ変わらないってことになるんですよね。氏康ってプロポーションいいですし、もし信玄や信廉にジェラシー感じさせるならこの上ない相手って感じですか?(笑)

 

 以下はコメントへの返答となります。

 まずは皆様、感想ありがとうございます!

 

>通りすがりのジーザスルージュ様

 信龍は本当にいいキャラしてまして、大変助かっております。彼女の出番をもっと増やしてあげたいと思う反面、なかなかシリアスだと扱いづらいので、シリアスが多めの拙作だとちょっと難しいところもあります。その信龍が対北条戦を支えるのは、彼女へのお返しというところでしょうか。

 

>tagayasu様

 信虎の扱いがおざなりだったことは反省点としてお受けします。信繁の本気さを見せるためとは言え、そう言われて見返せば前回より信虎の立場に立った思考が足りないものでした。信虎に関しては上杉の方と関係がある構想で、その都合上、信虎の退場はすんなりいかせたかったというのもありますが、構想の先を知るのは私だけなわけですから、一話一話を読んでくださる読者様の視点での推敲ができていなかった証拠。ご指摘に感謝いたします。

 

>ハスター様

 某理想郷と言われるとやはりアレかなあとは思いますが、何にせよあそこでやっておられる方に比べればまだまだです。ですがそのお言葉は非常にうれしく思っております。ありがとうございます。原作とは違う展開を見せる颯馬=信繁設定の信玄ルートですが、楽しんでいただければ何よりです。

 

>赤トンボ様

 物語の時間的には本当に短い間ですが、物語の進み具合からすると結構長めになるかもしれない19代当主信繁です。(笑)

 虎昌同様、満喫して頂ければ幸いです。

 

>ふるおり様

 本来なら私が説明しなくてはならないところをありがとうございました。

 

 さて……当初は厳しい(?)意見があったので執筆そっちのけで結構考えていたのですが……削除されたのか、コメントには見当たらない様子。

 『この作者は自分に都合の悪い意見は無視するのか』と思われるのも不本意ですが、下手に煽って炎上のようなことにはなりたくないので、コメントも消えている以上は差し控えさせて頂きます。

 ただ一言だけ。

 

 どんな人にも長所と短所があり、その人を好きな人もいれば嫌いな人もいます。信玄公を気に入らない人がいても当然でしょう。ですがそれでも、私は信玄公を『信玄公』と呼んで敬いたいと思う人間です。私としては少しでも信玄公を見て頂ければと思いますが、もちろん強要はしません。

 私はこの作品で信玄公をアピールしたいわけではありません。歴史家や考古学者でもありません。あくまで戦極姫という作品に出てくる武田家ルートの信玄嬢が気に入ったから書いているだけです。

 信玄公が嫌いな方がいるのは承知いたしました。ですが、拙作が今後、主人公を謙信公や氏康公、または信長公や家康公などに変えることはありません。あくまで信繁や信玄がメインです。申し訳ありませんが、どうかお許しください。

 

それでは失礼いたします。


 
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