No.45176

マンジャック #18(後)

精神レベルで他人を乗っ取れるマンジャッカーという特殊能力者を巡る犯罪を軸にしたアクションです。

2008-12-06 01:23:50 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:460   閲覧ユーザー数:445

 

マンジャック

 

第十八(最終)章(後)

 

 クールの身体を手に入れた成木。

「ははははは。力強い。素晴らしい力だよハンター君。」

 大野はその光景が信じられない。

「な...、なんで転移できたんだ...。」

 成木は、ゆっくりと立ち上がって、大野を見据えた。その自信は歴然となった力の差故か。

「君は知らなかったようだね。私は、血を媒介とした転移も出来るのだよ。」

「な...なんですって!」立ち尽くしていた原尾が仰天した。「特設拘置所で成木が逃げたとき、独房の中の死体には、人が近づいた形跡がなかったってことだったけど、その謎はそういう事だったのね。」

 遠隔転移...。原尾の言葉に大野が思い出した言葉だ。

 き、聞いたことはあったが、まさかこの目で見ようとは...。

 大野は目の前の敵の底知れぬ大きさに、震え上がるのを止められなかった。

 あ、あいつは...一体どこまで恐ろしい奴だ...。

 成木と大野の対峙はしかし、一瞬だけ延ばされた。操乱の身体から呻きが洩れたからだ。それは言うまでもなく、成木が立ち上がる時に操乱の身体に触れた際に転移させた、クールが洩らした声だ。

 

 クールが再び目を開いたとき、彼はそこに自分を見つめる己の身体を見た。

「な、何だと。」

「お早うエックハルト君。寝覚めはいかがかな。」(読者は忘れてるだろうけど、エックハルトってクールの名字ね。)

 自分の身体の語った言葉が、成木の発したものだということに気付いたクールの表情が激変してゆく。

 彼は絶叫した。

「おおおおおおお!!」

 な、何という事だ。まさかこの俺がジャッキングされようとは。クールが信じられないのも無理はない。大野と成木をあそこまで追い詰めた彼が、一瞬の、ほんの一瞬の躊躇いのために、これほど一気に立場を逆転させるこ

とになろうとは。

 まるでその思いを読んだように、成木が言った。

「我々にとどめを刺さなかったこと、それがあなたの失敗ですよ。」

 こ、こんなことで...。  俺が負けるのか...?

「おおおおお!!」

 クールは叫んで起きあがろうとするが、憑いた操乱の身体の出血がひどくて、首すら満足に動かすことが出来ない。

「くっくっく。ハンター君。彼が何故人工転移を欲したか分かるかね。」成木はクールに首を促して大野に言った。「彼は強くなりたかったのではない。まして人を支配したかったのではない。彼はささやかにもたった一つの願いを叶えるために、我々と死力を尽くして戦っていたのだよ。」

 だが、次にクールに振り返ってから彼に語った言葉は意外にも、どこか静かな響きが湛えられていた。

「だが、あなたの願いは叶えられたんじゃないかね。」

 その言葉を聞いて、クールは刮目した。

 

 クールは薄れゆく意識の中で、朧気な思考を走らせていた。

 そうだ...。俺の願いは叶えられた...。

 己でなくなりたい。俺は湾岸戦争の時の運命のあの日から、ずっとその事ばかりを考えていた。

 それからも数えきれない人間を殺してきた俺だが、殺した者が己の死にゆく恐怖に怯える断末魔の瞬間にはいつも、ダードの攻略戦の時に死んでいた子供の、見開かれた目を二重写しに見ていたのだ。半死半生になっても死ねなかったあの日から、俺の生にはいつもあの深い漆黒の眼差しが離れることはなく、眠りさえも俺を安らかにはしなかった。

 負った贖罪と慚愧の深さ。

 消え入るような声だがしかし、クールはいつしか己の心を語っていた。

「瞼に焼き付いた少年の目を消すには、己が他人になる以外にない。

 人工転移にやっきになったわけは、それだけだった...。

「だが違った。こうして他人になることが出来ても、やはりあの目は消えはしない。精神に焼き付いてしまった眼差しは、二度と消えることはなかったのだ。」

 

 後戻りが出来なかった男を、大野と成木はしばし諍いをやめてまで見つめる。それが一瞬先の己の姿かも知れないから。

 

「それに、お前達との戦いが、俺にはっきりと悟らせたよ。心は後悔を渦巻かせているくせに、自分は戦い続けることでしか自己の存在を見出せないことをな。」

 思えば、俺に従ってくれた隊員達の多くも、各々が持つ心の傷は大同小異だったろう。隊員達全てのそういった過去が、似たものの集まったクール隊を居心地良くしていたようだが、それは自分を終わらせる環境が、常に隣り合わせにあることの束の間の安心でしかなかったのだろう。となれば、彼らと同じ結果になることが、俺にとって最良の選択なのかもしれん。

 後戻りできなかった男の結論。

 死が、俺を唯一安寧へと導くのか...。

 

「くくっ...。俺が...お前達に勝てなかったわけが分かったよ...。」

 考えてみれば、隙をつかれた躊躇いは、お前達との闘いに終止符を打ちあぐねた為だ。俺が真っ先に倒れるのは当然かもしれないな。

 笑みを浮かべるクール。彼は死に瀕していることの絶望よりも、自分でなくなったことに喜悦を見いだしていたのか。

 奴の、ギルバートの言うとおりだ。お前達には求めるものがある。

 絶対に生きぬくことを諦めないお前達に比べ、生きることへの執念が...、残念ながら俺にはなかった。

 

 最後の言葉は、明らかに大野と成木に向けたものだった。

「お前達との闘い、悪くなかったぜ。」

「クール...。」大野は、クールの持っていた心の傷がどういうものだったかを知る由もない。だが、それに対する自分なりの責任と決着を常に引きずっていたその生き方は、彼にとって大いに共感せずにはおかないものだったのだ...。

「もう少し早く出会っていれば...。」大野はそれ以上言葉を継げなかった。

 成木もクールの死を前にして、しばしの追悼をおくる。そも、ソーニャは彼に殺されたとはいえそれは宿命。寧ろ、自分に逢うまでの延命を施したのが彼なればこそ、彼女は薄幸の生の最期を微笑みもって閉じることが出来たのだから...。

「ソーニャと共に死ねることを光栄に思いたまえ。」

 

 大野と成木を絶体絶命に追い詰めた最強の敵、クールは、操乱の身体、そして河合の首と共に、息絶えた。

 拮抗する三人のうちクールが最初に倒れたのは、たまたま他の二人を同時に敵に回したからに過ぎない...。

 

 

 大野は傍らにきた原尾の肩を借りて何とか立ち上がった。

 沸き上がる力を持て余しさえしている、クールの身体を手に入れた成木が、大野の方をあらためて見た。そして再び対峙する両者。

「さて、後は君達だけだな。」

 そんな成木のさり気ない言葉だからこそ、大野は刺すような殺気を感じとる。

「まるであんたが生き残るような口振りだな。」

「当然だろう。彼は未来を見失ったから死んだのだ。未来とは希望を見出した者の前にこそ開陳する。明日とは今日よりもよりよく生きたいと願う者だからこそ達し得るのだ。ならば当然...

「明日を見るのは私だ。」

「俺達よりもあんたの方の未来に価値があるってのか?」

 やな理屈だな。大野は思った。だが、それが真かどうかはともかく、技だけでなく力まで手にした成木と、逆に全てを失った大野。彼我の戦力差は歴然としている。

 今度は、成木は逃げない。大野はそれを確信している。今が俺を殺せるチャンスだからだ。

 

 対峙する大野と成木。

 その一瞬の後、成木が先に仕掛けた。

「今の私にはこんなことも出来る。」成木は銃を使わないつもりだ。彼はダッシュで大野と原尾に近づく。

 速い! 完全にクールの身体をものにしている。大野はクールの最期を看取った成木が、その時間をクールの身体を制御するための時間稼ぎとしても利用していたことを悟った。

 大野はスタンガンを構えたが、そのさまはいかにも遅かった。成木は素早く大野達二人の懐に割って入り込んで、大野の手にした武器を蹴り上げた。その破壊力は、スタンガンを空中に四散させるほど...。

 大野は成木に胸ぐらを掴まれ、片腕一本で宙に上げられた。

「くっ!」

「大野さん。」

 止めようとする原尾に、成木は横薙ぎに手刀を放つ。原尾は合気道の使い手らしくその力を受け流したが、クールの身体から繰り出す拳のパワーは、ベクトルを大きくずらしたその力だけでも、原尾を吹き飛ばす。

 ば、馬鹿な。原尾は大きく宙を舞ってから壁にぶち当たった。

 な、何て力なの...。原尾は壁から張り出た消火栓の上にずり落ちたまま、動かなくなった。

「あんたが俺に肉弾戦を挑むとは、余程の自信があるとみえる。」

「事実、あるからね。」

 成木は大野を床に叩きつけた。そして反動で浮き上がった彼を蹴り上げる。

 そして放物線を描いて落ちてきたところに、再び鉄拳が唸る。

 ぐぅう! きょ...拒絶波を流す暇もありゃしねぇ...。大野は痛みに呻きながらも考える。一瞬でいい。一瞬でも奴を掴めれば...。

 

 やめて...。脳震盪を起こして朦朧としている原尾にも、大野達の闘いの様子くらいは判断できる。やめて...大野さんが死んでしまう。

 

 成木はまた蹴った。床に突っ伏している大野はボロ屑のように宙に舞い、床で跳ねる。

 成木はそうして落ちたまま、蹲って動かない大野に近づく。

「さて、そろそろ終わりにしようか。最期は首を落とされたいかね。」そして大野を掴んでもう一度持ち上げる。「それとも、胸を貫かれたいかね。」

「あんたにはどっちもできないさ。ジャッカーはハンターには勝てない。」

「減らず口もそれまでだね。」成木は空いた方の腕を思いきり振り被った。

 死ぬか...。下から迫る成木の腕に、流石の大野も死を予感する。

 

「!」

一瞬の間...。成木の動きが止まった。

 な、何だ? 成木の心中の叫び。こ、これは一体。

 成木は動かした腕を途中で動かせなくなるほどの激痛が、その身体から沸き上がるのを感じたのだ。

 な...、何だこれは。

 それは感知してすぐ、まるでメータが振り切れるように激烈な痛みとなった。

 うあぁぁああ。な、何という...。そうか、これはクールの...。

 成木はクールの身体が強化細胞であること、その寿命が短いことは読み取っていたが、延命薬を使わなくなった身体が起こす禁断症状については軽視していたのだ。だが、それはクールの身体にとって既に無視できないほど大きなものになっていたのだった。

 こ、これ程までとは...。成木は、身体中を駆け抜ける爆発するような痛みにたまりかねた。そして、クールがどれほどの精神力でこの痛みを圧して自分達と戦ってきたのかを知って脅威すら感じた。

 だが、今は感心しているときではない。つまり、それほどの緊急時だということだ。そして、成木はその事実に恐怖した。

 何故なら、成木は今危険な男を前にしているのだから...。

 大野が、彼の腕を掴んだ。

 

 

「がああああああぁあぁあぁあぁああ!!!」

大野がその隙を見逃すはずがない。彼は精神力の全てをこめて拒絶波を放ったのだ。

「がぁぁあああぁぁあ! あぁああぁあ!!」

とてつもない激痛。拒絶波はクールの身体の禁断症状の痛みと相乗効果を起こし、成木に想像もつかぬ程の痛みをもたらした。

 うおおおお!! 己の全てぶっつける大野。

「ハンターをなめんなぁ!!」

 がぁぁっぁぁああ!!! い、いかん。このままでは、精神崩壊が起きてしまう...。これまで二回受けた拒絶波とは比較にならない激痛に、成木は一気に焦燥がピークに達するが、硬直したクールの身体は大野を持ち上げたまま動かない。

 こ、こんなことで...。こんなことで私が消えるなど...。こんなことで、こんなところで...。

「おおおおおおおおおお!!」

成木の執念が奇跡を起こした。拒絶を叫ぶ細胞の全てを己の精神でねじ伏せ、クールの身体の制御をぶん取ったのだ。

「うおおおおおお!!」

「おおおおおおお!!」

大野と成木が同時に叫ぶ。

 だが、成木の執念が勝った。成木が渾身の力で振り回したクールの腕が、大野の身体をボールのように飛ばしたのだ。

 そのまま、大水槽に叩き付けられる大野。

 

 

 はぁっ。はぁっ。はぁっ。

 肩で息をしているのは、今や大野も成木も同じだ。だが、辛うじて立っている成木も、大水槽に凭れ懸かっている大野も、眼差しだけは力を失ってはいない。二人の目は、同時に同じことを叫んでいるのだ。

 先に倒れるのは、お前の方だ!

 

 だがそうは言っても、成木の絶対優位は揺るがない。禁断症状を伴っているとはいえ、まだまだ動ける彼に対して、殆ど立てるかどうかすら分からない大野では。

 クールの身体は確かにもうボロボロだ。しかも私自身、もう一度拒絶波を喰らったら生きていられる保証はない。痛みに身を震わせながら成木は思う。接近戦はもう無理だろう...。

 だが、奴を殺すだけなら、これで十分だ。

 成木は遂に、懐からクール愛用の大型銃を取りだした。

 

 ガンガンッ。

 成木は雑に二斉射した。弾は大野の両脇、背にした大水槽に食い込む。さしもの大型銃も、厚さ70mmの特殊硬化ガラスは突き破れない。

 ガンッ。ガンッ。

 また二斉射。再び大野の頭の両脇のガラスに穴を穿つ。今度は遥かに大野に近い。

「どうしちまったんだい。」穿たれた弾痕を撫でながら、大野があざける。「下手になっちまったのかい。」

「愛嬌のない御仁だね。怖がらせようと思ったのだが。」

 嘘ばっかり。スタンガンを受けた身体に拒絶波も浴びてるんだ。腕の制御の補正をしてたんだろ。大野は心中ごちたが、そんなことが分かっても気休めにもならない。

 次は当ててくるな...。

 

「覚悟はよいかね。」成木が腕を上げて真っ直ぐに銃を向けた。

 大野は、それでも正面から成木を見つめている。コンマの可能性すらあれば、彼は諦めないのだ。

 一か八かってとこか。やってみるさ。

 大野はふとため息をついた。成木は、一瞬彼が観念したかのように思った。

「次の一発で決まりだな。それで俺の心臓はブチ抜かれるってわけだ。」

「何かね。命請いなら受け付けるつもりはないが。」

「きついね。いや、そうじゃなくてさ。あんたが狙ってるこの心臓のある位置ね、面白いとこにあるんだよ。」

「何を言ってるのかね。」恐ろしさに気が触れたのか。

「わるいわるい。回りくどかったよね。あんたの撃った四発の弾でもさ、このすんげぇガラスはビクともしないじゃない。だけどさ...。

「俺の心臓の後ろってさ、四発の重心なんだよね。」

 ま、まさか。成木は撃つのを躊躇った。だが。

「そっから動くなよマキちゃん!」

 大野は原尾を一瞥してそう叫ぶや、左に身体を倒しざま右手で思いきりガラスを叩いた。

 大野のハッタリであった。生身の右腕の打撃力ではたとえそこが重心だったとしてもビクともしなかったであろう。だが、ガラスの弾痕に填め込まれたアメ玉内のニトロに伝える衝撃は、それだけでも充分だったのである。

 バン!!

 バリバリバリバリッ! 爆発音が引き金となり、ホールに雷よりも甲高い音が轟く。巨大な水槽の表面に、四発の弾痕から凄まじい勢いで亀裂が走ったのだ。

 蜘蛛の巣の様に走り抜けたそれは、裏側にまで回っていったところで静寂を一瞬取り戻したものの...。

 

 ドッ!!!

 天井まで目一杯に詰まっていた圧倒的な質量の水が爆発的に弾け、怒涛の如く飛び出した。地上200mの空間に、数mの高さを持った津波が突如沸き起こったのだ。時速百キロの勢いと、進む先のあらゆるものを喰い尽くすどん欲な食欲をもつそれは、己の最初の獲物として、鋼鉄の肉体を持った一人の男に狙いを付けた。

「おおおおおおお!!」

 破砕したガラス片と魚達を伴った凶器満載の濁流は、戦慄する間すら与えず成木に襲いかかった。

 

 ひー! 大水槽真下の窪みに何とか身を横たえている大野は、頭上を掠める水流を間一髪の所で躱している。

 ホントに割れるとは思ってなかったけど...。大野は苦笑して思う。

 これで終わりだ、成木!

 

 猛り狂った濁流は百キロの勢いでもって成木をその場から引き剥がした。

 ぐぐぐぐぐぐ! 衝突時の衝撃だけでも、さしものクールの身体も身体中の骨を折られた。しかも水流中のガラスは巨大な凶器となって彼を切り裂き、あるいは打ち据え、突き刺さるのだ。

 こ、こんな事になろうとは...。なんとか...、何とかしなくては! 成木は激流の最中にあって、必死に助かる術を探す。

 だが、揉まれる彼がその行く手を見たとき、自分が絶望感に浸っていくのが判った。そこには、頑として揺るがないであろう、壁がそそり立っているのだ。そこにこの勢いでもって叩き付けられたら、いかなクールの身体も圧

潰は必定!

 成木はその瞬間、クールの背筋に冷たいものが走るのを感じていた。

 

 ゴッ! 水流が壁に当たった。水流は縦に弾け、まるで怒りにうち震えているかの様に壁を這いあがって天井まで達し、そこで再び四散した。

 ホールの空間全てに、凶器を含んだ水流が降り注いだ。

「ああああああ!」

原尾は消火栓上にいたままで壁に必死で貼り付いて、背中越しに展開されている地獄に耐える。発狂しないようとして必死に悲鳴を上げるのが精一杯だ。

 濁流の逆巻く最中、それは大野も同じだ。いつ死ぬか判らないほど、今この空間には凶器が充ちているのだ!

 これで無事だったら奇跡だ。海抜200mで水死なんて冗談にもならん!

 ゴゴゴゴゴゴ。 運命の潮流は二人を生死の秤に掛けていた...。

 

 

 どれほどの時間が経ったろう。

 辺りを覆っていた轟音が漸く消え、水の勢いが治まったことを告げていた。

 原尾は背後に感じていた殺気のやっと消えたことを感じて、恐る恐る強ばっていた身体の緊張を解いた。

 い...生きて...るの?

 そう。原尾は生きていた。しかも、少し壁に入り込んだ所にある消火栓の上にいたことで、致命的な怪我はしていなかったようだった。

 彼女はゆっくりと身体を動かしてみた。痛っ。壁に叩き付けられた時の激痛が身体に走って思わず身を強ばらせる。そういえば肋骨も折れていたんだっけ。

 しかし、そうした痛みも構わず、原尾は無理に身体を転じた。大野と成木がどうなったかを確認するのが先だ。

 

 ホールは股下辺りの高さまで海水に満たされていた。突然の環境変化をどう思っているのか、様々な海水魚が床を気ままに泳いでいる。そして水族館自慢の円筒型大水槽は、その半身を完全に破壊し尽くすという無惨な姿になり、今や片側にだけ残ったガラスで辛うじて天井と繋がっているという有り様だった。

 かなり向こうに人が浮いている。深く考えたくはないが、操乱の身体だろう。

 だが、それ以外に人影を見つけることは出来ない。

 大野さんは...。原尾は更に注意を凝らして辺りを見回す。

 し...。原尾は禁断の言葉が頭を巡るのを抑えることが出来ない。

 死んでしまったの?

 

 悲嘆な考えを増幅させる、時間ばかりが過ぎ去った。

 

 ザッ! 突然、水槽脇の水面が沸き上がったかと思うと、黒い影が立ち上がった。敵? 原尾は咄嗟に緊張するが、そうではなかった。

「ああああああああああ!!」

原尾の耳を聾するばかりの悲鳴。左肩を押さえてその声を叫んでいるのは、大野ではないか!

「大野さん!」原尾は涙声になって叫ぶ。彼は生きていたのだ!!

「か、海水が...。」大野は叫んだ。「傷口に染みて...。あああああ!!」

 稲葉の白兎だ。これは痛いぞ。

「大野さん...。」原尾はしかし、大野が生きていたことが嬉しい。「良く無事で...。」

「無事じゃないってあんた。」大野は泣きながら叫ぶ。だが、その顔には痛みとは裏腹に、悲嘆の表情はない。

 無事じゃない。確かに無事じゃぁないが...。大野は微かに笑みをこぼした。

 ついに...遂に...。

 奴を倒した...。

 

 その表情を、原尾も見逃してはいない。心が少し落ち着いたことも手伝って、彼女はしっかりした口調で言った。

「やったわね...。」

 大野はひきつった表情のままではあるが、傷口から手を離して原尾に向かって親指を立てて見せた。

 

 

 ズン!

 大野の左肩に激痛が走った。左肩は完全に消し飛び、大野もきりもみしながら宙に吹き飛ばされた。

 なっ!!

 原尾は全てを見た。大野から離れること6mの水中から一条の線が飛び、大野を貫くのを。

「大野さん!」原尾は叫んで思わず飛びだそうとするが、彼方の水中から影が浮かび上がったとき、身体が金縛りにあったように動けなくなってしまった。

 な...、成木黄泉!!

 

 大野は水槽の縁に残ったガラスの上に落ちた。元々が分厚いガラスなので串刺しにこそならなかったが、背中をしこたま打ちつけた衝撃は計り知れない。

 だがそれより、大野はあのクールの大型拳銃に貫かれたのだ。

 ガラスによっかかってやっと上半身を出している彼の左肩は、肩胛骨を含めてまるまる無くなっていた。

 大野には死ぬほどの痛みが走っていたに違いない。しかし、その痛みをすら彼は忘れていたろう。それほどの恐怖が、彼の眼前に聳え立っているのだから。

 

 成木が生きていた!!

 

 

 成木は生きていた。クールの身体は全身ずたずたに引き裂かれており、大小のガラス片が突き刺さった瀕死の様相を呈していた。

 だが、彼は...、成木はそれでも生きていたのだ。それは正に執念としか言いようがない。

 大野さんが危ない! 原尾は恐怖と痛みを堪えて動こうとした。

「止まりたまえ!」成木が制した。

 くっ。もし飛び出しても、大野さんの所に辿り着く前に蜂の巣になってしまう。無駄死にするだけだわ。今の原尾では歯がみしてでも苦汁を舐めるしかない。

 

「心臓を狙ったつもりだったんですがね...。」

 成木は銃をしっかりと大野に向けて言った。

「私を...。」成木は語った。「私をこれ程までに追い詰めるとは...、まったく君といいクールといい...。

「しかしね、最後に勝ち残るのは私なんですよ。」

 

 絶体絶命の大野。

 眼前の成木は、7mの距離を空けて、大野に銃を構えている。六連装の銃は後一発、確実に入っている。そして彼は、それを外さないだろう。

 参った。大野は思う。ほんと...、参った。

 大野は動けない。だが、銃によって釘付けにされているよりも、身体中に走る激痛によることよりも、寧ろ彼自身の迷いに依るところが大きかった。

 彼は今、眼前の敵に対する疑問に頭を気圧されてしまっていたのだ、そのためにまるで動けないほどに。

 奴の...、成木の精神力は何処から来るのだ?

 

 ロンド・バリ会場に於いて、成木は集団転移を失敗した。それは彼の論理から言えば、完全なる成功を導出するはずだったにも関わらず、千の心の拒絶という、正に本質の部分からの瓦解に終わっている、それは彼にとっては悪夢のような結果だったろう。

 なのにどうだ。奴は万丈を倒し、クールを倒し、ハンターの拒絶波さえもはねのけ、地獄のような水にも堪えきった。

 それを成し得たのは執着...。生への執着にほかならない。だが、その執念...、生き抜こうとする執念を、奴は何故持ち続けられる?

 一体奴の精神力の源泉は、何処にあるのか?

 奴をここまで突き動かすものは何なんだ?

 

 

 大野は立ち上がった。いや、だから立ち上がったと言うべきか。

 

 彼が今立ち上がるなど、常識的に考えればもうとても出来るはずがない。だが、その問いかけをするに相応しく姿勢を正すことが、たとえそれが敵に対してであっても行うべき礼儀...。ふと涌き上がったそんな想いが、身体

を破壊するほどの痛みに勝ったからこそ、彼は立ち上がったのだ。

 彼はその問いかけを、そうまでしてまでも発せずにはおかなかったのだ。

「あんたは...。」

 成木が撃つことを思い留まったのは、その言葉が発した大野の真摯さを、無意識に感じたからかもしれない。

「あんたは...。」大野はその問いかけをするのに、もう一度万感を込めなければならなかった。

「何故...そうまでして生きられるのだ。」

 

 

 成木をその言葉が止めたのは、必然か...、はたまた奇跡か...。

 その間に、成木は何を思っていたのか...。彼が言葉を返すのは、たっぷり五秒かかった。

「私が...、人の中に入ったとき...」成木は心の深くから言葉を紡ぎ出すように語りだした...。「どんな感じを受けるのか...、どう思っているのか...、ジャッカーでないあなたには判らないだろうね...。」

 

「ジャッカーは転移したとき、そこに人の全てを見る。その者の心臓が力強く拍動する様を、肺が酸素を歓迎する様を、血管が活発に脈動する様を...。それは、人が生きていること、その人の生命が躍動していることを己が精神で直接垣間みるということであり、その弾けるような生命の謳歌を直接聴き取ることなのだ。」

 成木は恍惚として語る。その心は今、実際にそれを見、また感じているのかもしれない。大野に語りながらも彼は同時に、彼の心に涌いた人の中を泳ぎ回っているのかもしれない。

「人という海原を巡るとき、その者はそこに、溢れるばかりに充ちた生命の息吹を感じるだろう。それは至福の瞬間であり、人に許された悦楽の極限だ。

「それを見られたとき、私はジャッカーであったことが、心から喜ぶべき事だったと初めて思った。その想い自体は、今も変わってはいない。たとい転移可能者が、実社会に於いて現在見られるような闇雲な差別を受けていても尚だ。」

 成木はしかし、そこでその表出させている表情を、僅かばかりに曇らせた。

「だがしかし、私はある日、あることに気付いてしまったのだ。それは他人から見れば些細なことであろう、取るに足らないことであろう。実際それは、深く考えてはならないことだったのかもしれない。

「だが私にはもう、それ以上人の身体に喜悦を感じ続けることが出来なくなってしまった。

「それを考えてしまったから。」

 

 人は...、人の心は何処にあるのか。

 

「人を動かすもの、人を生かすもの...。人の身体というある意味分子の集合体である機械的な物質の固まりに、命を吹き込む心は何処にあるのか? 生を満喫している筈の人の体の中に、私はそれが見あたらないことに気付いてしまったのだ。」

 

「本当の所、それは何処にあると思うね。脳? 違う。心臓? 違う。神経? 違う。その何処にも、それはなかったのだよ。」成木は言葉を巡らせる。彼がその探索を続けていたときの狼狽をそのまま表出して。

「だから私は探した。人の中を、人の身体のあらゆる部分を、細胞の合間を彷徨って探した。それを成り立たせているその人の心を、生きていることの源を。」

 深く、深く...。成木の心の深くから、彼は語り続ける。

「それはしかし、思いがけないところにあった。

「見つけてしまえば簡単だった。それは身体の各部を探して見つかるはずもなかったのだ。心とは体内における”そこ”といえるようなある部分に存在するのではなく、命という存在そのものの中にあったのだから...。

「だが、旅路の果てにそれを見つけたとき、私がどんなことを感じと思うね。

 もろく、儚く、いたいけで...。

それが、私がそれを見出したときに私の中で涌き出してきた想いだ。他人の中で人の心を見つけたときの私の素直な感想だ...。」

 

 なんと...。なんと小さなものなのだ。なんと微かなものなのだ。

 

 成木は感じたと言う。人の身体という、数兆の細胞からなる大海原の広大さに比べて、人の心、それがなんと微々たるものかということを。

 千変万化する日常の中で、驚くほど簡単にゆらぎ、ぼやけるそれは、なんと危なっかしく、また不確かなものなのかということを...。

「人とは、いや命とは、かくもちっぽけなものによって動かされているのか。かくも頼りないものに依拠して、我々は生かされているのか。」

 成木は戸惑った。その事実に、そしてその行く末に。

 かくも、その小ささは、成木に対してナーバスな思考しかもたらさないで...。

「そして私は悩んだのだ。一人の心が、一人の中で一人の心を見つけるのでさえこれだけの困難と苦労を伴うのだ。ならば、他人の中を普通に生を生きている者たちが、お互いを心から分かり合えることなど一体可能なのかと。」

 友の心を分からなかった成木であればこそ、それは感じるのか...。

 

 その時大野は何を思う? 成木の言葉を聞くその表情は、毅然として厳しくはあるが何も読みとれない。

 

 

 全体とは、個の延長上にある。

 集団とは、個人の延長上にある。

 故に...、集団転移への固執?

 

 わだかまった杞憂に、視野を塞がれた成木。彼がそれを、いつ頃からその対処策として考え出したかは定かではない。が、そうして心理的に追い詰められていた彼が、集団転移が彼の苦悩と人類の停滞を払拭する唯一の方法ではないかと考えたとしても不思議はない。

「そうだ。そしてそれは実際、大いなる可能性を持っていた。集団転移とは、その内に人類が向かうべき道を含蓄しているのだ。」

 成木はいつしか叫んでいた。彼の心情の吐露は、皮肉にも転移によってではなく、言葉によってなされていた。

「そう、私はさっき、それを我が心で直に体現した。ロンド・バリに集った千の者たちと共に、私の元に一つに集約された心、全ての者が同じ想いを共有する瞬間...。それはまさしく、人の限界を超えた瞬間だった! 人という種による他の理解という理想の前に立ち塞がった巨大な壁を乗り越えた瞬間だったのだ!」

 

「あんたの支配が多人数に及んだ歴史的瞬間としか、俺には見えなかったがな。」

大野がとうとう沈黙を破った。怒気を含めて成木の言葉を砕いた彼の言葉は、敵慨する者として当然の反発であろう。

「あんたの見る先は俺には遠すぎる。第一、あんたはその千人にすら拒絶されたじゃねぇか!」

 

「それがどうしたのだ。心を束ねた先にある未来を見ることが出来るのは転移可能者だけだ。彼らをより良き未来へと導いてやれるのはジャッカーだけなのだ!」

 転移可能者が混迷を極める現在に生まれでたのが奇形ではなく必然ならばどうなのか。ジャッカーが生まれでた目的が、人類の変化の発端だとしたら?

「その天賦の才能を与えられた私は、千の拒絶程度に屈することなどあり得ない! 頑なとけなすならけなすがいい、偏執と罵るなら罵るがいい。

「私だけが、人類の行く末を垣間みたのだ!!」

 

 

 成木はだから、集団転移を追究する。だから、彼は明日の生を欲しがる。

 

「あんたが導こうとしている未来は、あるいは正しいのかもしれない...。」大野は身体を震わせていた。「だが、あんたはここまで来るのに、あまりに多くの人を踏みつけてきた。そしてあんたは、あんたの理想に辿り着くまでに、更に多くの屍を越えて行くだろう。

「それを俺は黙って見過ごすことは出来ない。何故なら...。」

 大野は成木を拒絶した!

「俺はジャッカーハンターだからだ!!」

 

 

 自分の心は、所詮言葉では伝えきれないということだな...。

 俯いた成木の表情は一瞬だけ曇った。だが、顔を上げた彼の顔には、凛とした殺気が形作られていた。

 成木が銃を構えた。大野は体の自由が利かない上に、足を捉える海水で動くこともままならない。

「逃げて!!」叫んで、駆け寄ろうとする原尾。

「動くな! マキ!!」

 大野が一喝した。そのあまりに毅然とした声に原尾は圧倒されてその場を動けなくなった。

 大野...死ぬ...黄泉...。大野を見て、原尾の頭にはそんな言葉が閃光のように走る。だがそれにも拘わらず大野はどうだ。怒りに震えるその拳、敵を捉えたままの熱い目。それを見ていると、大野のことが少しは判ってきた筈の原尾には、信じられないことにどうしてもこう思えてしまうのだ。

 彼は、勝つつもりでいる...。

 

「私の敵になったことを後悔したまえ!!」成木が叫んで引き金を引く...。

「おおおおおおお!!」大野は叫びざま海水に拳を叩き込んだ。

「迸れ!! 我が怒りよ!!!」

 

 成木はその瞬間、海水中を稲妻のような白光が自分に向けて突き抜けてくるのを確かに見た...。

 

 

 大野が叩いた水面の波紋が、ようやく成木に届いたとき、それは起こった。

「ぎゃあああぁあぁぁあああああああああああああ!!!!」

 成木の悲鳴だ。耳を聾するばかりの成木の声が、ホールいっぱいに響きわたった。

 

「おおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」咆哮する大野。

「があああああああああああああああああ!!!」絶叫する成木。

 な...なんだ...。こ...この痛みは...。こ...これはまさか...。成木は得心した。

 そうか! 殆ど同時に、原尾も得心した。血と同じくらい命に近い媒質...。

 海水中を、拒絶波が走ったのだ!!

 

 

 クールの身体に、拒絶波が走る。

「がああああああああああ!!」

 その痛みは今までのものとは比較すら出来ない。強化細胞で構成されたクールの肉体は、その細胞の一つ一つが急に成り代わった主に対して反旗を翻したのだ。出ていけ、出て行け! 己の全てを賭けてそれらは叫ぶ。

「おおおおおおおお!!!」それを助長するかのように、大野は怒りの波をぶっつけ続ける。

 な、なんということだ。この私が...この私が...。成木は激烈な痛みに耐えながら、必死で神経を腕に集中する。引き金を半ばまで引いた指先に集中する...。

 おのれハンター! おのれ大野一色!!

 彼の執念が指先に再び奇跡を起こそうとしたとき、支配に甘んじていたクールの身体が、最後の手段に出た。

 クールの腕が、音を立てて吹き飛んだのだ。

「なっ!」

 私への拒絶が、自己崩壊を起こしただと!!

 

 

 勝負あった!

 大野にとどめを刺す遠隔攻撃の切り札は、腕の崩壊と共に失われた。

 拒絶波から逃げようにも、成木の周りは全てが媒質である海水に覆われている。

 

 いや、まだだ。

 腕から始まった身体の崩壊が、全身に駆けめぐりだしても、それでもなお成木は叫ぶ。

 もう、何処にも逃げることは出来ない。だが、たった一つ。たった一つだけ、私が助かる方法がある...。

 大野を殺すことだ。

 

 執念と奇跡が、それを起こした。

 拒絶波を掛けられた時点で動かせる筈のない依童の身体が、一歩、また一歩と、歩みだしたのだ!

 私は倒す。あの男を倒す。何故なら...。

 奴を踏み倒した先に私の明日があるからだ。

 

 

「とてつもない。」大野は敵に言った。「あんたは本当に凄い奴だよ...。」

 成木は近づく。一歩。また一歩。

「だけどあんたは哀しい奴だ...。友を越え、なみいる敵を倒し、愛してくれる人を置き去りにしても、まだ人を幸福に出来ると思っているのだから。」

 また近づいた。だが、両脚のふくらはぎから下が吹き飛んだ。成木はむき出しになった脚骨でまだ進む。

 

 神と同じ力を持ちながら、ひとの心が判らなかったんだから...。

 

「おおおおおお!!」

成木が叫んだ。残る腕を大野の前に振りかざした。

 大野も絶叫した。

「悲しい運命を終わらせてやる。あんたの明日はもうゼロだ!!」

 

 全てが弾けた。

 

 

 大野はその瞬間、確かに感じた...。

 クールの身体と共に、四散してゆくもの。いや、触れられるような実体ではない、目に見えないが、風のように吹き過ぎていくことを感じられるもう一つのものを...。

 こ、これは...。

「ひとが...ひとの心が...。飛び去って行く...。」

 原尾もそれを見た。彼女の下にある海水中を泳ぎ去って行く魚影ではないものを、彼女の脇をかすめてゆくひそかな動きを。それは原尾にとって、殺人を無感情に行う者との印象しかない成木から出ているとは信じられないほど、穏やかな雰囲気を湛えていた。

 

 大野の脇を万丈が過ぎ去ってゆく。その後について最土がゆき、彼方でその二人は常盤となって消えていった。

 クールも一本腕の好敵手に別れを告げていく。人の返り血で血塗れの身体と命を失った彼は、あの少年の目から解放されたのだろうか。

 操乱もまた飛び去った。考えてみれば、彼は成木以外の数少ない転移可能者だった。そして同じくジャッカーであった彼は、成木の中に何を見たのだろう。名残惜しげに成木の残骸の周りを回っていたが、やがて消えていった。

 

 そうか。大野は突然現れたその人達が、成木の中にいる人達であると気付いた。彼らは成木の中で形作られた人達。いやだがしかし、外から成木を俯瞰して、彼を形作ってもいた人達だった。

 

 ロンド・バリ導者、クール隊の男、特設拘置所の所員達、そして痩身の主であった男...。

 千の人、万の心...。成木が関わってきた全ての人が、彼にとっての記憶が、思い出が、次々と風となって去っていく。

 あぁ。過ごしてきた、蓄積してきたものが剥離してゆく。一人の人間が生きてきた確かな証が、ちりぢりになって消えてゆく...。

 そして、膨大な風が吹きすぎた。

 

 その後、中心に残ったもの、全ての人との関わりを拭い去った後で、やっと残っているもの...。

 こんなに小さな...。大野はそれを見ていた。こんなに小さなものが...。

 それはあまりにもか弱く、小さなものだった。儚く、脆いもの。微かで、不確かなもの。

 俺にも...。大野は誰に語りかけているのか。

 俺にも今ならわかる...。あんたのしようとしていたことが。

 そして彼は気付いた。自分が何故執拗に成木を追いかけていたのか。ジャッカーに対するハンターという図式だけでは覆いきれない、自分の行動原理が何処にあったのかやっと判ったのだ。

 大野を動かしたもの、あの時、成木から流れてきたあの言葉...。

 

 

 ロンド・バリ会場に於ける闘いの最後。集団転移崩壊の時、拒絶波によって全ての人から引き離された成木は、その精神だけが遊離した状態になった。それは一瞬のこととはいえ、成木を全てのものからの遊離、物質と

いう概念からすらも超越するという、究極の遊離に陥れてしまったのである。どんな物にも依拠しないその状態は、彼に根元的な不安、すなわち、自分の存在に対する疑問を抱かせたのだ。その時の成木の問い、その言葉...。

 

 私とは一体何処にいるのだ...。

 私とは一体誰なのだ...。

 私は、なんなのだ...?

 

 大野は確かにそれを聞いていた。心だけになった成木がそう呟くのを。

 それは大野にとって意外だった。大野にとっては敵である成木が、その言葉を発したからである。いろんな意味で彼と正反対の位置にいる筈の男が、彼が今まで生きて感じていた漠然とした疑問と同じ疑問を発したからである。

 大野が成木を追ったのは、成木の行き着く果てにその答えがあるように思えたから...。それは彼自身の生きていく答えでもあるような気がしたから。

 

 

 そして今、大野は見ていた。成木の中の、その疑問を発していたものを。その疑問を発するのも無理もないほどの小さきもの、人の心の本質を...。

 それは成木がさっき言っていた通りのか弱き存在...。

 ゼロ・ヒューマンに残されているのはたったこれだけ...。常盤の謀略によって己の身体を喪失した成木には、自分のものと言えるのはそんなちっぽけなものだけだったのだ。

 こんなに小さなものが、自分を確かめたいと思ったとき、それは自分と同じものを見つけだすしかなかったろう。人の中で、他人という、自分とは違うものを見つけることが、自分のやるせなさを癒す唯一の手段だったろう。

 だから成木は、集団転移を欲した。心を一まとまりに集わせる手段を。

 寂しさを癒す手段を...。

 

 

 ロンド・バリには千人もの人々が集った。だがそれほどの人数がいても、人々は成木という人間について知っているはずもなかった。もし見たとしても、彼を駅ですれ違う一見の者以下にしか思っていなかったろう。成木がどういう人間か知っている者、いや、それどころかそもそも、成木という人間が存在したことを知っている者が、数多の人々にすらいない。寧ろ敵であるにせよ、自分の生き方に関わっている大野と闘っている時が、彼を愉悦させていた。哀しいかな成木は、千の心の中にすら、彼は自分の居場所を見つけることはできなかったのだ。

 だが、今なら大野にも判る。千人に拒絶されてなお、成木が明日を見ようとしたわけを。

 千人では駄目だった。だが、一万、百万...、一億の人の心を集めれば、自分を拒まぬ心があるかもしれない。

 全世界の心を集めれば、この寂しさが癒されるかもしれない...。

 

 大野の前には、青白い微かな炎だけが残されて、淡く光っていた。それは気の毒なほど震えて、すぐ訪れるであろう死を待っていた。

 最期まで孤独に死ぬ...。成木の悲哀は炎の色に、動きによって表明される。

 

 しかしそれは消え入る寸前、ほんの少しだけ光と落ちつきを取り戻した。

 外の風からその炎の最後の輝きを守ったのは、河合の姿をした心だったからである...。

 

 

 マンジャッカー、成木。ゼロ・ヒューマン、成木黄泉。

 彼は身体を失ったが故に、自分の顔を持たない。人に合わせて仮面を変え、その時々で違う人を演じている。だから不安に震えるのだ、本当の自分はどれなのかと...。

 彼は人とは違う能力を与えられたが故に孤高だ。己の世界を持ち、一人の王国に誇り高き理想郷を築き上げようとする。だから人に本心を悟られるのを嫌うくせに、独りだと言っては寂しさに咽び泣く...。

 

「あんたはまさしく...。」大野は言葉をそこで止めると、静かにこう言い換えた。

「俺はあんたにそっくりだ...。」

 

 

 永遠とも思える時間が過ぎた。水族館のホールの中には、いまだ水槽からこぼれだしている微かな水音以外、静寂が続いていた。

 放心して立っている大野。消火栓の上で声を立てずに泣く原尾。

 終わったの?

 俯いたままの大野は、無言で頷いた...。

 成木は死んだ。

 

 二人は遂に、集団転移の災禍から人々を守ることに成功したのだ。だが今の二人にとって、それは手放しで喜べることではなかった。二人は人々を救いはしたものの、その代償として多くの者たちの明日を奪ったのだから。

 俺達が潰した未来は、成木の言うように輝けるものだったかもしれない。第一、俺達が残した未来は、あのロンド・バリに集うような人々が造っていくものなのだ。彼らと共にある未来が、成木の目指そうとした未来よりも良いものに成るというのだろうか。それを確かめる術がない以上、俺達の行動が正しかったのかどうかなんて、分かりっこない...。

 それは大野の考える通りであろう。だが、多くの者を倒してまで得た未来は、人々が今日と同じく明日を生きられる未来は、ほんとうに輝けるものとはならないのだろうか。

 多くの者を倒してまで得た大野の明日は、生きる価値がないのだろうか。

 

 バンッ!

 大きな音がした。原尾がその方向に目をやると、大野達がこのホールに入ってきた入り口のドアが、水圧で弾け飛んだ所だった。

「おおおおおお!!」

突然再開した水流は、おぼつかない足取りだった大野を瞬く間に薙ぎ倒し、そのままかっさらってゆく。

「大野さん!!」

「来るな! この先は...。」

 馬鹿なこと言わないでよ。原尾は水流に飛び込んだ。

 原尾は早い水流の中で更に加速し、大野に近づいた。今私が動くのは犬死にではない。あなたを助けるためなのだから。

 大野は弾けた扉付近に達しようとしていた。激流が彼を飲み込み、ホールから追い出そうとしている。

 間に合って!! 原尾は心中叫びながら水を蹴る。そして最も勢いの激しいドア付近に達するや、ドア枠を掴むことに成功した。もう片方の腕の先には大野が...。

 だが、指先があわや届くというところで、大野は流れすぎていく。

 ああっ!! 原尾の悲鳴に近い嘆息。

 大野が流れていく先には、彼の左腕の核磁気共鳴電池による爆発で出来た大穴が、彼を地上200mの空へ導こうとしている。

 させない! 原尾はドア枠から腕を放した。

 

 大野の眼前には、急速に天空が開けていく。

 おおお! 大野は恐怖で声を上げる。冗談じゃねぇぞこの作者!

 だが、悪態を付いてもその勢いは止まらない。彼は水流に翻弄されながら大穴の一線を越えた。

 大野は真下に広がる空間を見た。200m下に広がる眼も眩むような景色は、あらゆる物を米粒状にしてありがたいことにその高さを強調している。

 死!!

 彼の頭の中にその言葉だけが踊ったときだ。今まで彼と共に流れるままだった水流が、急に激烈な勢いでもって叩き付けて来るようになったのだ。

 う...腕が引っかかった? いや、挟まったのか...?

 い、息が出来ん! か、かといってこの手が放れても墜落死...。

 

 ドドドドドドドド!! 大野の傍らを数トンもの水が過ぎていく。そのことごとくが彼の身体を引き連れていこうとブチ当たっていく。それは彼にとって死に最も近い30秒だった。

 

 

 意識が幽かに戻ってきたのは、地上200mに吹きすさぶ強風に煽られたからだったが、大野は自分が生きていることに気付くのさえ、ひどく時間がかかった。

 急激に体温を奪われて朦朧としている中、彼は辛うじて目を開けた。はっきりしない彼の視界は、それでも眼下のパノラマを今一度映し出していた。

 大野の真下に当たる辺りは、漆黒の闇に包まれていた。そしてそこだけを避けながら、ビルを大きく取りまいて、蛍のようにまたたく赤い点が見える。原尾が集めた救急車の群だろう。もの凄い数だ、本当に関東一円から集めちまった。

 そうか、先にリフトが落ちたから、この下には来なかったんだな...。それなら少なくとも下では、けが人はでなかっただろう。

 さて、俺はどうなってるんだ、まだ腕が挟まれているようだが...。大野はそう思って、つと上を見上げて...眼を飛び出さんばかりに驚いた。

「マ...マキちゃん!!」

 大野は半身乗りだした原尾によって腕を掴まれていたのだ。

 原尾のもう一方の手は窓枠に掛けられているが、枠に残ったガラス片が刺さって血が滴り落ちている。

 何てこった...。大野はあまりの衝撃に頭がカッと熱くなった。あの激流の間中俺を支えてたってのか!

「ば...馬鹿野郎!! 何やってんだ!!」大野は悲鳴のような声を上げた。「あんたも落ちるぞ! 手を離せ!!」

「し...死んだって...。」原尾は食いしばった歯の間から辛うじて声を漏らす。「離すもんですか...。」

 何言って...何言って...。

「何言ってやがる!! 俺なんかのために死ぬつもりか!」

「あなたは私を助けてくれた...今度は...私が助ける番よ...。」

 自...自己犠牲...。大野の脳裏に閃く言葉...それは彼にとって何より辛い思い出を想起させる言葉である。彼は居たたまれなくなって叫んだ。

「もう判った。もう判ったから手を離せ! もう充分だ...。

「俺の身体を見ろ! 左肩はちぎれ、身体も脚ももうボロボロだ。こんな俺を生かすためにあんたがこれ以上傷つくことはない。第一...。」

 俺はあんたにそっくりだ...。大野の躊躇いは成木に言ったその言葉がよぎったから。

「俺の心にはやっぱり邪悪なものが住み着いているんだよ...。だから俺は成木と同じ匂いを持っていて...。奴の決着が死でしかなかったのなら、俺の結末も...、そうすることが正しいんじゃないか?」

 

「違う!!」原尾は叫んだ。これまでにないほど大きな声で叫んだ。

「あなたは生きる価値のある人よ!!」

「あなたは確かに成木に似ているわ! でも、彼もあなたも決して邪悪な心を持っているわけじゃない!

「あなたが彼に似ているのは...」原尾は涙声で言った。「二人が湛えていた寂寥感よ。」

 

 河合の言葉が二人を過ぎる、「あなたは同じ匂いがする...。」

 

「あなた達が根底に持っていた人を恋しがる寂しげな気持ちが、彼女を惹き付けたのよ...。」

「だが、俺の中には...。」

「あなたは自分の心を信じていなさすぎる! あなたの身体は全てあなたのものよ。あなたはあなた以外の心で動されていているんじゃないわ! だって...。」

 原尾は大野の腕を握る手に渾身の力を込めた。

「私が握っている右手首の感触を、あなたは感じているでしょう。私があなたを助けたいこの想いを、あなたはその心で感じているでしょう!!」

永遠とも思える時間を駆け抜けて、大野の心のどの部分に、それは届いたか...。

「!」

 大野は初めて、自分の手で原尾の手首を掴んだ。

 

 だがどうするのだ。原尾とて肋骨を五本は折っている。彼女自身の力で持ち上げる力はもう無い。

 眼下には原尾の呼んだ救急車が五万といるのに、彼らがここで危機に瀕していることを伝える手段がない...。

 くそっ。大野は嘆じた。俺は今生まれて初めて生きたいと思っているのに...。

 ままよ! 大野が壁を蹴って、無理矢理にも原尾の手を引き剥がそうとした時である。彼の手を掴む、もう一本の腕!!

 何っ! 大野は驚いて思わず見上げた。

「し...新米君!」

「遅れまして、猫の手です。」

 

「な、何でここが判ったの?」少しずつ大野を引っ張り上げながら、信じられないといった表情で原尾は言った。

「リフトは降るわ爆発はあるわ、おまけにあれだけの量の海水ですよ、いくら何でも判りますよ。」馳が呆れて言った。「でも救助隊はロンド・バリ会場で手一杯なんで、対特である僕だけが駆り出されたんですけどね。よいしょっと!!」

 大野はようやく引き上げられた。彼は力無く原尾に倒れかかると、右腕で彼女を抱きしめた。原尾も拒みはしなかった。あれっと思いつつも、さり気なく目をそらす馳。

「何でもいいや...。」大野は一言だけ言った。

「とにかく俺達は生きてる。」

 

 

 

 

 エピローグ

 

 人工転移と集団転移を巡る一連の事件の顛末は、こうして幕を閉じる。

 ロンド・バリの会場にいた人々は、自衛隊の特殊部隊に撃たれて即死した三十人以外は、重軽傷混在しているものの一命を取り留めた。原尾の即断が功を奏したといえるだろう。だが、特殊部隊に関しては、集団転移中に取り込まれた者たちを除くと、ほぼ全滅という有様だった。

 21号令を発令した者として、普通なら国家から抹殺されるはずの原尾だったが、現場における指揮部隊が全滅したことの隠密処理のごたごたと、クールが自衛隊との最後の交信を行っていたことが、幸いにも彼女が利用されたのだとの認識を生じさせ、今回の処分からは無関係とされていた。だがそれよりも決定的となったのは、明林ら対特の連中がマスコミを上手く利用したことだろう。日本にかくまで危険な人権冒涜システムがあることをマスコミが静観するはずが無く、この三ヵ月後には内閣総辞職という事態にまで発展したのだから。

 日本に住む上での生命の危険は無くなったとは言え、彼女はこれとは別に、謹慎中にも関わらず警察寮を抜け出して、しかも無断で関東一円の救助車両を集めるという強権を発動した隠しきれない事実がある。当然のことながら重罰で、彼女は二階級の降格と半年間の減給という処置を受けることになる。ブランド物を当分は買えなくなった彼女は、「痛すぎるわこれ。」と周囲に洩らしているという。ただ、彼女の影の功績を評価する対特課長の明林による尽力が無ければ、懲戒免職間違いなしだった事は彼女自身身に染みているから、上記の苦言もあくまで冗談である。

 驚くのは馳であろう。対特中唯一動ける者として、クール隊のアジトを見つけだしたこと、またロンド・バリ会場の惨状の処置を曲がりなりにもこなした功績から、二階級特進して警部になってしまったのである。これで鈴鳴と同じ階級になったわけで、「こんなんありか!」という鈴鳴の悔しがりっぷりには気の毒なのだが笑ってしまう。

 上記に明林と鈴鳴が登場していることからも判っていただけるとおり、渋谷でアルカガスにやられて壊滅状態にあった対特も、半年あまりでようやく落ちつきを取り戻し、それに平行して、ガスにやられた市民達も一般の生活に戻っていった。

 さて、大野だが...。肋骨十本と両足の骨折、内蔵出血五カ所、肩からの出血多量に、身体中の打撲切傷数知れずという有り様だった彼は、医者が「普通死ぬぞ。」と呆れるほどの瀕死の重症だったわけだが、「しゅ...主人公ですから...。」と訳の分からないことを口走って耐え抜き、八カ月後に退院した。

 何を思ったか彼は、奇しくも同じ日に退院した最土園子を、何と養女にして引き取っている。「お前には将来身体で借金を返してもらうんだからな。」とか言って聞かせているらしいが、園子は妙になついているらしいから不思議なものだ。

 

 成木が死んでも、ジャッカーはいなくならない。

 だから今大野は、新しい左腕を付けるために膨大な借金を抱えつつ、またもハンターとして生き始めた。彼が糧を得る術は結局の所それしかないのであり、こぶつきになってしまった以上、それについてうだうだ文句を垂れている暇などなくなってしまったのである。

 とにかく、彼は生きていくことにしたのだ。

 

 ところで、再び商売敵になった大野と原尾はその後どうなったのであろうか。非常に興味深いところではあるが、これはもうこの話からは別のことになってしまうので、敢えて書く必要を感じない。

 そもそも、今回の事件で少しだけ大人になった彼らの心をこれ以上覗くのは、野暮というものであろう。

 

 

おわり

 

 

 

 
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