No.451415

かんきつっ!

neoblackさん

蜜柑を愛してやまない青年、但馬守男は、大学でぼっち生活を営んでいた。そんな彼の前に非時の香の木の実の精を名乗る少女、橘このみが現れる。
ぼっちの家に転がり込んでアレがナニでコレされちゃうかと思いきや、人間の姿をした橘に守男は反応を示さなかった。彼が反応するのは、ガチ蜜柑だけであった――

今、人と蜜柑との戦いが、幕を開けれぅ。

2012-07-12 01:28:19 投稿 / 全4ページ    総閲覧数:955   閲覧ユーザー数:944

 

 さ~って、来週の『かんきつっ!』は?

 

 守男です。大学に入ってかれこれ三ヶ月、同じ大学生と会話をしていません。まともに話すのは実家への電話と、たまに荷物を届けに来る宅急便のにいちゃんとだけです。そろそろ会話の仕方を忘れちゃいそうです。夏なのに遊ぶ予定もないとか……色々な意味で終わってるわ俺。

 さて来週は、

 

 『守男、ガメオベーる』

 『守男、残り湯ごっくん』

 『守男、愉悦部入部』

 

 の三本のうちのどれかです。来週も、サービスサービスぅ♪

 

 前回までのあらすじ

 

 蜜柑が好き過ぎてミカニーを割と小さいときに思いついてしまった但馬守男は、東京の大学に入るも全く友達が出来なかった。でも兵庫にいたときも似たようなものだったからこれといって気にしていない風を装っているのだった! 本当はがっつり心を削られているのだった!

 押し寄せる浮かれた夏気分にむしろ背骨が凍えるような焦りを感じながら、一人暮らしのアパートに帰る守男であった……。

 

 

 第一果 柑橘、来たる

 

 

「ただいま……って、だれも居ないけどね」

 いつもと変わらぬ一人語りで寂しさを紛らわしながら、但馬守男はワンルームの自宅に帰ってきた。大学からの帰りは、必ずそうだった。そこで話せない分を、せめて家の中で発散する。

「サークル入るか? 今さらだよなあ」

 下らない独り言を止めようともせず、脊髄反射的に喋り倒す。こうでもしていないと、都会の喧騒から離れた大学の近くにあるアパートの一室は、薄ら寒いくらいに静まり返ってしまう。そしてなまじ森が近いために鳥や虫の声が聞こえてくるのが、静寂をさらに誇張する。多少痛々しくとも一人語りをしているほうが、守男にとっては落ち着くのだった。

 隣の部屋から笑い声が漏れ聞こえる。どうやら今日も友人たちを招いての酒盛りらしい。

「べ、別に羨ましくなんかないんだからね……」

 とりあえずツッコミを入れておいて落ち込み、ベッドに寝転がる。そろそろタイムセールが始まるので近くのスーパーに行かなくてはならないのだが、それも面倒になってくる。

「もうレトルトの中華丼でいいや」

 いつものように隣室の充実ぶりに気力を削がれながら、雪平鍋で湯を沸かす。そして冷凍庫のご飯をレンジに入れておく。あとはひたすらベッドに腰掛けて呆けておく。その直後、部屋のインターホンが鳴り渡った。向こうの部屋かとも思ったが、すぐに元気な声で「宅急便でーす」と聞こえたので、自分のところに来たのだとわかった。

「はーい。今アケマス」

 知り合いの少ない守男だったが、自分に届く宅急便に心当たりがあった。守男の故郷の兵庫県では、家族で果樹園を営んでいる。よく一人暮らしをしている守男に食べ物を、特に果樹園で取れる蜜柑を仕送りしてくれる。

 形の綺麗なものは売り物にしてしまうので、送られてくるのはどこか歪だったりするが、味に変わりはないので守男にとっては十分であった

「お届けものでーす」

 ドアを開けた先にいたのは、いつもの宅急便のにいちゃんだった。年の頃は自分と変わらないのだろうと守男は勝手に当たりをつけていた。実際、彼の話す内容は守男が嗜んでいたものと近しかった。

「はーい」

「あなたに愛を、目一杯」

「今度は学園戦記ですか?」

「最近DVD買って見直しまして。マイブームなんです」

「飛べイサミのほうは覚えてるんですけどねえ。そっちはうろ覚えだなあ」

「それじゃお貸ししますよ」

「じゃあ僕はイサミのほうをお貸ししますよ」

 荷物を届けつつDVDを交換する約束を取り付けたにいちゃんは、爽やかで元気な挨拶を残して帰っていった。彼は守男が会話する、数少ない人間の一人である。

 にいちゃんから受け取ったダンボール箱を部屋に運びながら、守男は少しテンションを高めていた。

「今度は何かな~っと……」

 ガムテープを切った時点で、濃密な柑橘系の香りが漏れ出して鼻腔をひりつかせる。やはり守男の好物である蜜柑を送ってくれたようだ。

「でゅふふ、堪んねえなあ……って、ん~? 間違えたかなあ?」

 中を開けると、中央に小さな木箱が入っているだけだった。しかしよほど大事な物らしく、重箱のように漆を塗ってある。他はその木箱を周囲に丸めた新聞紙が詰め込まれているだけだった。

 木箱を開けると、これまた小さな蜜柑がちょこんと座っていた。いつも送ってくるみかんとは違う、ずいぶんと小振りな姿である。しかし香りは、守男がこれまでに嗅いだこともないほどに濃厚だった。嗅ぎすぎると目鼻に痛みを覚えかねないほどである。そして皮の色は目が覚めるほど鮮やかな橙をしており、守男は香りと、そして姿とに、しばし見惚れてしまっていた。

「……在来種に似てるかもしれないなあ」

 果樹園の跡継ぎとして蜜柑に関しては一家言持っている守男は、早速目の前の柑橘を考察し始めた。

 古代から日本に在来している柑橘類は、今売られているものよりも小振りであった。そういった種に配合を重ねて身を大きくし、味も香りも整え、人が食べるのに適するよう育ててきたわけだが、守男は目の前の柑橘から、それらと真逆の方向性を受け取っていた。

 溢れ出る野趣が、どこか人に媚びない気高さを感じさせるのである。食べられるためにあるのではなく、ただ実としてそこにあるのだ。

「はあ、素敵過ぎる……」

 手にとって見ればさなきだに、その神々しさが芳香とともに匂い立つようだった。小ささの割りに重い質感も、高級感を演出する。

「蜜柑は命より重い。その認識をごまかすものは生涯蜜柑ジュース」

 小さな蜜柑を心行くまで眺めつくした後、守男は木箱の中に、丸められた書簡が入っていることに気がついた。達筆な字体から祖父が書いたと推測できる文章は、簡潔にこう書かれていた。

 

 この実、食すべからず。

 この実、傷つけるべからず。

 この実、渡すべからず。

 

 上から読んでも下から読んでも斜めに読んでも意味するところは何も変わらず、解釈の拡げようがないたった三行の説明を守男は戸惑いでもって受け取った?

「どうしろっての、これ?」

 食べてもダメ、傷つけてもダメ、誰かに渡すのもダメ。そもそも食べてはいけないのなら何故送ってきたのだろうか。見せびらかしたかったのだろうか。確かにこれほどの蜜柑ならばその気持ちも分からなくはない。しかし守男はどうしていいのか分からず、とりあえずは木箱ごと冷蔵庫に入れておくことにした。

「あれ、ちびまるこちゃんやってる。じゃあ明日休みか」

 曜日感覚をテレビで補完しながら、出来上がった中華丼にいただきますも言わず箸を付け、アニメを見ながら無感動に貪る。隣から聞こえる笑い声をなるべく耳に入れたくないので音量を上げたいのだが、万に一つ苦情でも言われたらと思うと恐ろしく、結局は胡乱な表情でひたすらテレビに食い入るという成人にしては情けない格好を晒さねばならない。

 一人暮らしなので、別に誰かに見られているわけではない。しかし当然ながら、自分は自分のことを見ている。鑑みれば見るほど空しさが増して、それに慣れてくる自分がいる。

 まだ自由が孤独の代名詞になるほど年を取っていないが、何とはなしに不安が募る休み前の夕方であった。

「さむッ!」

 中華丼も食べ終わるかという頃、台所のほうから突然声がした。ブボボッと米を吹いてびっくりしたまま辺りを見ても、一人暮らしなのだから他に人が居るはずは無い。というか居たら怖いし、危険である。

 隣人の声、にしては間近だった。まさか幽霊だろうか。

「うわマジ勘弁してよそういうの俺ほんと駄目なんだよ。いや大丈夫だ。まだ慌てるような時間じゃない。だいたい幽霊ってプラズマだしな、そうですよね大槻教授。特命リサーチを見ていた俺に隙はなかった」

 気を落ち着かせるためにわざと饒舌になった守男は、とりあえずテレビの音量を近所迷惑にならない程度に大きくしてみる。

 そんな彼の空しい抵抗を打ち破る強さで、先ほどの声が大きく轟いた。もちろん冷蔵庫から。

「は、は、は……、はまち how much!」

くしゃみと共に冷蔵庫のドアが勢いよく開き、守男は凝然とその様子を見つめていた。むしろさっきの絶望的なダジャレによって魂が抜け落ちてしまっていた。

「マーチが流れる待ち合わせ、このま~ち、だいすき~。何だよ、この町大好きかよ。学校休みだった平日に見てたよ」

「あの韻の踏み方は今をもっても秀逸じゃな」

「だ、誰だ!? おのれ……名を名乗れ!」

「何と言うベタな誰何か。しかし、嫌いではないぞい」

 冷蔵庫の前に、誰かいる。というかまだ体半分が冷蔵庫に入っており、これから出てくるということが窺える。

 もしかして人寂しさのあまり自分の至り知らぬうちに誘拐して、冷蔵庫に仕舞ってしまったのだろうか。犯罪を想起して勝手に戦きつつも、解離性同一性障害《二重人格》とか俺の時代始まったなと不謹慎なほうへも考えを巡らす守男であった。

「天が呼ぶ地が呼ぶ人が呼ぶ、悪を倒せと私を呼……ぶ、ぶ、ぶあっくしょい! ちくしょうめ!」

「で、結局誰なの?」

 いきなり知らない人が部屋に現れたので、ようやく守男は普通に怖がり始めた。流石にさきほどのテンションは長く続いてくれなかった。

「そんなことより熱い茶くれ、茶」

 ズビビっと鼻を啜り、寒そうに丸まりながら茶を要求してきたのは、生物学上は人間の女性に見えなくもなかった。年端は守男より明らかに低いのは、顔つきの幼さと肉付きの薄さで看破できた。

 あとの特徴らしい特徴といえば、髪の毛が茶色を通り越して橙色と呼べるくらい明るくて、瞳孔が金色じみているだけだった。まず日本人とは思えぬが、守男の好きなマンガやアニメには彼女以上にエキセントリックな髪色や目の色をした日本人がごまんと出ていたので彼にとっては十分に許容範囲だった。

(もしかして下着買ってこなくちゃなのかな? 押しかけ系ラブコメのイベント消化出来んのはいいけど……)

 如何せん、面倒くさい。突如現れた女の子の裸を見た途端、むしろ気分が萎えてしまった守男は、とりあえずシャツとズボンを闖入者に無料で借用した。

 

「うっすいのう。こりゃ白湯じゃなかんとね」

 いきなり冷蔵庫から現れた少女は守男の家を出ようともせず、妙に時代がかった物言いで文句を垂れていた。物取りの類には見えないので警察には通報していないが、どう接していいものか分からず、守男は困り果てていた。

 ズズ、ズズと、お茶をすする音だけが聞こえる。あと隣からの笑い声。このままでは何も進展しない。まずは彼女が何者かだけでも尋ねてみることにした。

「あの、そろそろいいかな?」

「何ちゃ?」

「あんた、誰?」

「そうさのう。橘……このみとでも呼んでくれい」

「じゃあ橘さん」

「このみ」

「はあ?」

「このみのほうが可愛らしかろう。かわいいは正義じゃからのう」

 マンガの宣伝帯みたいな少女の物言いに、守男は途方にくれて部屋の中で天を仰ぐ。

「……ウゼーし訳分かんねーし何なんだよこいつ。追い出したほうがいいかなこれそろそろ疲れてきたなあなんだか気味悪いしなあ」

「せめてそこはモノローグとして隠してくれ。正直にもほどがあるじゃろ」

「はっ!? 貴様見ているな」

「お前さんも大概疲れるキャラだべよ」

 早くもお互いの性格に辟易しつつ、橘は茶を啜り、守男は頭を抱えていた。とはいえ緑色の万能恐竜並みの垂れ目を誇る彼が途方に暮れても、単に呆けているようにしか見えなかった。

 なので橘も特段に守男の様子を気にすることなく、熱い茶を飲んで体を温めることに専念していた。

 突然一人暮らしの男の部屋に謎の少女が現れてから既に三十分。守男が聞き出せたのは名前だけだった。しかし彼とて無為に二十年以上過ごしてきたわけではなかった。激流に身を任せてどうかする術はいくつか心得ている。

「と、ところで――」

「おおう、そうじゃった。大事な用を忘れるとこじゃった」

 心得てはいたものの、それを使う気概が守男本人には欠けているため、度々こうして他人に先手を取られてしまう。激流に身を任せて明らかに流されてしまっていた。

「お前の親父から託された。大事に使うんじゃぞ」

 そう言って渡されたものを大人しく受け取ってしまうのも、自己主張の薄い彼ならではの順応力であった。

 とはいえその代物は、彼の予想の斜め上を行っていた。もしくは直球ど真ん中のどストレートなムービングファストボール。

『Earthquake / 地震 (赤)(X)

 ソーサリー

 地震は、飛行を持たない各クリーチャーと各プレイヤーにそれぞれX点のダメージを与える』

「ええええ!? 何、俺は切札勝負くんなの? 親父いつからプロのMTGプレイヤーになったんだよ! つーか持ってるから要らないし」

「これでウィニー対策はばっちりじゃな」

「いやいや紅蓮地獄のほうを積むし。もしくは火山の流弾」

「なにぃ!? とどめに使うのが熱いんじゃないか。分かっとらんなあ」

「とどめに使う時点でウィニー対策じゃねえだろ。確かにカードパワーは良いんだがなあ……って、ちっがーう!」

「素人のノリツッコミとか目も当てられんな」

「その意見には同意するが、今言われると激しくむかつく」

 ツッコミを悪く言われたのと先手を取られたのとこんなことをしてる場合じゃないのと激流に身を任せて頭がどうかしてしまいそうなのとが綯い交ぜとなって、守男の垂れ目がようやく地面と平衡になる。

「とにかく今重要なのは、あんたがどこの何者かってことだ! なあ……そうだろ松!」

「松が誰かはまあいい。そしてわしが何者かとな? よいじゃろう、答えちゃろうではなかか。わしのデッキに勝てればな!」

「何でワンクッション置くんだよ」

「ふふん。怖気づいたのか? ならばやらずともよいのじゃぞ。どこの誰かも分からない者と二人きりで会話のネタもろくに見つけられない気まずさを味わうがいい!」

「くっ、既に味わった気もするけどそんなことはなかったぜ! 俺もこの界隈では『エンチャントレス』の二つ名で知られたい男だ。そのデュエル、受けて立つ」

「何か残念なことを聞いた気もするが、とにかくデュエルスタンバイ!」

 そして二人は申し合わせたように、六十枚以上で組んだカードの束――デッキを一つずつ用意し、自分で念入りに切り直してから相手に渡してまた切らせ、上から七枚のカードを引いた。

「マリガン六回、フリーサイドボード、スイスドロー形式バトル!」

「マリガン六回、フリーサイドボード、スイスドロー形式バトル!」

 互いにルールを確認し、

「「ディアハ!」」

 古代エジプトの一部地域で流行していたと実しやかに噂されている掛け声とともに、デュエルは幕を開けた。

 まずは守男の先手。アンタップ・ステップ、アップキープ・ステップなどの開始フェイズを経て、手札にある土地を並べようとして――

「ズボン! ニマハッセ!」

「え? なんで雀鬼?」

「はい手札から『闇の旋動』を除外して『宝石の洞窟』プレイね。んで黒マナだして『暗黒の儀式』キャストして黒一マナで『納墓』キャスト、『アカデミーの学長』を墓地に。残った黒二マナで『浅すぎる埋葬』使って『アカデミーの学長』を場に戻して『不快な群れ』で手札の『闇の旋動』を除外して『アカデミーの学長』に-6/-6の修正を与えて破壊。『アカデミーの学長』のPIG能力でライブラリーから『ヨーグモスの取引』をプレイ。『ヨーグモスの取引』の能力でライフ十九を支払ってライブラリーから十九枚ドロー。手札から黒のカード八枚を取り除いて『魂の撃ち込み』を四枚キャスト。対戦相手に十六点のダメージ。そして十六点ライフゲイン。『ヨーグモスの取引』で十四点支払って十四枚ドロー。『Elvish Spirit Guide』を手札から取り除いて緑一マナを生み出し、『回収』をキャスト。『魂の撃ち込み』をライブラリーの一番上に戻してから一点支払ってドロー。黒のカード二枚を取り除いて対戦相手に四点のダメージ。そして四点ライフゲイン。合計二十点ダメージ。はいわしの勝ちー」

「俺何もやってねえええええええええ!!!」

 正確にはアップキープ・ステップの最中にライフがゼロになっていた。しかし一ターン目は土地もパーマネントもまず存在しない上に先手は最初のドロー・フェイズを飛ばされるので、守男の言うとおり何もやらずに勝負が終わってしまっていた。

 しばし放心状態のまま場を食い入るように見つめていた守男が、焦点の合わない視線を泳がせて呟く。

「あ…ありのまま、今起こった事を話すぜ。最初の開始フェイズを迎える前に負けた。な、何を言ってるのかわからねーと思うが俺も何をされたのかわからなかった。ズアーロックとかチェネルボールとかそんなチャチなもんじゃあ断じてねえ。もっと恐ろしい天和《ゼロターンキル》の片鱗を味わったぜ……」

「てかそもそも広漠たる変幻地で多色回そうとする男の人って……。もしくはタップインランドで満足してる男の人って……」

「うるせー! フェッチランドなんか高くて買えるか! てゆーかそれならせめて土地を並べさせろよ。泣くぞ、マジで泣くぞこの負け方は! いい大人がカードゲームで泣いちまうぞ!」

「仕方ない。じゃあ交換してやろう。わしの秘蔵のカード『甲鱗のワーム』さまとな!」

「てめえシャクる気まんまんじゃねえか! ところで他にデッキないの?」

「あと親和とストームとズヴィバーゲンと」

「何でそんな変なデッキしか持ってないんだよ!」

「変じゃねえし! 元スタンダードだし! アングルードとアンヒジドで組んだっちゃあのもあるでよ」

「もっとタチ悪いよ。超速攻ってなんだよ意味わかんねーよ。あれ? ちょっと待って、もしかして……全然話進んでないんじゃね?」

「アヘ体験キタコレ」

「それを言うならアハ体験な」

「じゃあアヒィィィィ! 体験でも良かよ」

「何がじゃあなのかも分からんし、いきなり喘ぎだすあんたに脱帽かつ絶望だよ」

「ヒギィィィィ! 体験でもらめぇぇぇぇ! 体験でもいいじゃろう」

「人の話きけぇぇぇぇぇッ!」

「ああはいはいわしの正体な。わしゃ蜜柑の精霊で不老不死じゃ」

 マジック・ザ・ギャザリングでひどい負け方をしたかと思えばいきなりとんでもない正体を明かされ、守男は軽く目の前の少女を小突きたくなったのを寸でのところで堪えた。

「うわ……ないわ。気持ちわる……」

「うーんやっぱり信用ゼロ! まあ当然ですよね」

「そうな。忽然と部屋に現れた奴を疑ってかからないほど俺は人間として破綻していないからな」

「その割には正体聞き出すまで相当時間掛かっとるようじゃが。しかもカードゲームはやるのな」

「それは俺のコミュニケーション能力の問題だ。人間性とは関係ない」

「……お前さんの台詞が悲しいのは仕様なのかえ?」

「うるせえ! ちくしょう……何でこんな見ず知らずの赤の他人に同情されにゃ……って、だからお前の正体教えろって言ってんだろうがああ!」

「だから教えたじゃろうに。蜜柑の精じゃと。あれか? 証明したほうがええんか?」

「おう、証明と来たか。やれるもんならやってみろいべらぼうめQED」

「なるべくお前さんは没個性的な語尾がええんじゃがのう。見た目的にな、あくまで見た目的にじゃからな!」

「何でそんな必死なん? そんな趣向を要求されても困るでがんす」

「うざ……。まあええ、ちょいと目え瞑れ」

「え? やだ、そんないきなりキスなんて――」

「なよるなきめえ殺すぞクソが脳味噌ぶちまけてから出直せカス」

「流れるような罵倒をありがとうございますハートマン軍曹」

 守男が余計なことを言っている間に、橘言うところの証明は完了していた。

 何故なら、目を開いたそこには木箱のなかに入っていたものと相違ない蜜柑が、ちょこんと鎮座ましましていたからだ。

 一句も告げずに硬直し、目を皿にして蜜柑を見つめる守男。突如として目の前の人間が蜜柑になる。紛うことなき怪奇現象である。それを目の当たりにした彼の混乱は如何ほどか。段々と動悸が上がってきたのだろう、深く荒い鼻息がびすびすと喧しいほどである。

 当惑や疑念、それに恐怖さえもが走り抜け、顔面の筋肉が複雑に波打つ。奇妙な泣き笑いの表情をとったところで、しかし守男の口元は、両端を高く吊り上げられていた。

「うわ、うわうわうわ。何これうわー。……めっちゃコーフンしてきた」

「ええええええええ!?」

 大げさな声を上げて、蜜柑状態の橘がひょいと飛び上がる。どうやら驚いているようだ。

「いやあのそれは……いやないないない! 蜜柑的にもアウトだわそれ!」

 蜜柑の姿でいきなり喋り出す橘に、むしろ守男は気を良くしたようで、さらに鼻息が荒くなっていった。

「え? そうなん? 最近こういうの流行ってんじゃん。コスプレって」

「いやこれコスチュームじゃねーし! 体の組成から何から変えちゃってるし! どっちかっていうと変身だし! いやむしろ変態、そう、完全変態! 私は完全変態だ!」

「そんな老人言葉が抜けるほど焦らんでも……。しかもここぞとばかりに変態アピールとか必死すぎ」

「なしてわしんこつ批判されにゃならんのじゃい。そもそもお前さんのリアクションが有り得ないのが悪いんじゃ! もっと恐れ戦いて崇め奉るのが筋というもんじゃろうに!」

「ハンッ! 漫画とアニメとゲームをこよなく愛する日本男児に、この程度の怪異で驚けとは笑止! 俺をびびらせたければこの三倍は持ってこい!」

「笑止! とか素面で言っちゃう奴初めて見たわい」

「おい蜜柑のくせに素に戻るな」

「さて、キューイーディーったところで元に戻るかの。ほら、あっち向け」

 一瞬視線を逸らしてから振り返ると、元の? 人間の姿に戻っていた。

「どういう仕組みか分からんな。蜜柑なのはともかくそれは素直に怖いわ」

「蜜柑なのはスルーするんかい。まあ、あれじゃよあれ、えっと……チュシャ猫で空間断裂的なあれじゃよ」

「それどっちかって言うとARMSのほうじゃねえか。ナノマシン仕込まれてんのかよ。てか言いたいのはシュレディンガーの猫のことか?」

「え? シュレ……あ! ああはいはい、そうそうそれそれ! シュレディンガーね、はいはいそうそう。二年前くらいに流行ったあれじゃいあれ。流行ったわー二年前くらいに流行ったわー。守男さん知ってんねえ!」

「どうみても知ったかです本当にありがとうございました」

 橘が言うには、誰にも見られていない不確定な状態でないと、姿を変容させられないらしい。

「へえ。そういうもんかい。とりあえず正体が分かってよかった? のかな?」

 むしろのっぴきならない領域に無理やり引き込まれている感を否めない守男であったが、漫画にアニメにゲームを嗜む典型的日本男児の彼の頭の中にとっては日常茶飯事であった。

「わしの正体を見破るとは、やはり天才」

「シカマルェ……ナルトス好きとかどうしようもないな」

「ほら、わしって基本蜜柑だし。世俗とか一般常識とかNO眼中っていうか~」

「確かにMTGやってる時点で一般などとは名乗れんわな」

「MTGの何が悪い!」

「MTGは悪くないがあんたのMTGは悪いだろ。禁止カードアリアリとか誰もやりたがらん」

「ぐぬぬ……ズヴィを馬鹿にするでないぞ」

「むしろズヴィを盾に取るお前が謝れ」

「キーッ! ああ言えばこう言う。お前、人間のくせに生意気だぞい。しかも話が進んじょらんけん」

「そうか? 正体分かったんだし――」

「そもそも何でここに来たのかってことは聞かんのか!? てゆーかこの変態を何故にすんなりと受け入れとんじゃ!」

「あはっ、『てゆ~か』とか、女子高生かよ」

「びっくりするほど関係ねえええええ!!」

 叫ぶ橘を後目に、守男は適当にテレビのチャンネルを回し始めた。本当に彼にとっては、話が十分に進んでいたらしい。

「じいちゃんたちのこと知ってるんだ。それで十分だよ。ただ得体が知れなさ過ぎたから、込み入って聞いたまでだ」

「あれで込み入ったつもりだったのか。お前さん、よほど他人に関心無いんじゃな」

 橘の何気ない言葉に、守男は意味深な様子で顔から表情を消した。

「ああ、そうな。やっぱ俺って無関心なのか……。それじゃあ、あんたがどうしたいのかぐらいは聞いてやるよ。金は貸せんが、他のことは手伝えるかもな」

「オマエ、イイヤツ……」

「何故カタコトになる……」

「はっ!? まさかお主、そうやって優しくしたところを……」

 大げさに胸元を腕で覆い、身を竦ませてみせたものの、最初に裸で現れた時点でかまととぶりは通用しない。守男は養豚所の豚を見るようにわざとらしく冷めた目で彼女を眇めると、

「何で俺が、人間とセックスしなくちゃいけねえんだよ?」

 いかにも吐き捨てるように言った。

「直球過ぎるしいろいろやば過ぎじゃろそれ!」

「はあ? 人間とコミュニケーション出来るんだから、人間扱いして何が悪い?」

「う? ん? そこはかとなく論点がズレてる気がするんじゃがのう……」

「例えお前が蜜柑でも、お前は人間だ!」

「そんなドヤ顔して言われても……。それにどうあがいてもわしゃ蜜柑だし」

「そもそも見た目が人間って時点で正直そそられんわ。顔だけでも蜜柑にしてから出直して来い」

「ものっそい的外れなこと言われてんのにめっさ腹立つわい。しかもそんなウゴウゴでルーガな格好出来る訳ないじゃろ」

「心配ない。蜜柑星人は俺にとってズリネタだ」

「こいつ最悪だああああああああ!! 蜜柑的にも人間としても最悪だああああああああ!!」

「んだよ。良い奴って言ったり最悪って言ったりやかましいな。まあいいや、出かけんぞ。あんたも行こうぜ」

「出かける?」

「特訓だ」

 蜜柑が人間になったとて、日課を欠かすわけにはいかない。夜の公園で稽古すべく、守男は抱えていた袋から木刀を取り出した。

「特訓ってなんじゃ、剣術かいな」

「じいちゃんに習ったんだ。うちの家に昔から伝わるものだって言われて」

「ああ、非時流柑橘剣術か」

「また知ったかですか?」

「ちゃうちゃう。マジな話じゃよ。てかお前さんのほうこそ知らんかったんか」

「うん。名前は聞かされなかったな。何となくカッコいいから続けてんだ。健康に良いし」

「自分の家だけに伝わる剣術なんて、そりゃあそそられるがのう。どうせなら剣道でもやりゃあええのに」

「え? やだよ。叩かれんの痛いし、人がたくさんいるの嫌いだし、防具臭いし」

「とんだチキン発言じゃな。お前さん、友達少ないじゃろ」

「馬鹿にするな。俺は友達が少ないんじゃない。俺は友達がいないんだ」

「何とはがいない。全く、この残念賞まるだしのアホは何なんじゃ。但馬の家はどうなってしもうたんじゃ」

「それに、一度剣道はやってみたけど、馬鹿にされたからやめた」

「非時流をか? そりゃそうじゃ。ありゃあ人相手に使うもんじゃのうて、柑橘相手の剣術じゃからのう。あんなん普通にやったらただの踊りにしかならんけん。そこんとこ分かっとらん時点でお主は駄目だめじゃ。どれくらい駄目かというと、マサラタウンすぐ出たとこでひたすらレベル上げしてから進めようとするくらい駄目じゃ」

「ファンタジー北島をバカにするな。警察に連れてかないだけでも感謝しやがれってのに」

「警察というか公共機関はマジ勘弁してくだせえ。わし人間じゃないから戸籍ないんよ」

「……うわあ。蜜柑が変身とかのファンタジーを一瞬で踏みにじる発言だな」

 憎まれ口もそこそこに、守男は彼が子供の時分より祖父に手解きされた剣術を披露した。

 飛んで、跳ねて、振り回すだけの、型も何もあったものではない、剣術というよりは新体操に近しい踊りである。しかしこれこそ守男が祖父に習った剣術であった。

 非時流は軽妙流麗を頼みとする剣術で、力を乗せた刺突や斬撃はまず行なわない。片手に持った剣を手の中で弄び、その回転ごとに切りつけるという、剣術の基本から見れば一笑に付されるような技を平気で研鑽している。

 その反骨意識のようなものが、守男の感性に合致していたというのも、彼の趣味として長続きした理由である。

「よう練ってある。続けていたというのは、口だけではなかったようだの」

「あ、ああ。これくらいしか趣味がなくてな」

「漫画とアニメは違うんかい」

「あれは嗜みだ。武士だって能楽は嗜んでただろ」

「ふーん。日本も変わったのう」

 守男の剣術を一くさり見物すると、橘はもう飽いてしまったらしく、気の無さげな様子で首を鳴らしたり腕を伸ばしたりと、あからさまに暇な態度を見せ付けてきた。

 そんな構ってオーラに負けた守男から話しかける。

「ところであんたの目的、聞かせてくれないのか?」

「目的、目的のう。そこまでかっちりしたもんでもなかが、要は疎開じゃよ」

「疎開? 戦時中じゃあるまいし」

「いやなに、お前さんの実家が、ちと剣呑になりそうでの。わしだけお前さんのところに預けられたっちゅうことよ」

「剣呑て、なんかあったのか?」

 橘は顔を険しくしかめ、忙しい様子で辺りを見渡し始めた。

「どした?」

「風が、語りかける」

「うまい、うますぎる?」

「いや、わしに敵意を向ける者が発する匂いが、風を伝って語りかけてくるわい」

 せっかく振った埼玉銘菓の話題をスルーされた守男はしょんぼりしたものの、また電波話かとうんざりした気分にもなった。

 もう少し注意深く観察すれば、橘の様子がこれまでにない真剣味を帯びていることにも気づけたのだろうが、守男はそのような機微にまるで通じていないため、ただのネタ振りぐらいにしか考えなかった。

 彼女が蜜柑に変身するところを見て、人ならざる存在であることを納得したというのに、具体的にそれがどう自分に関わってくるのか想像しようともしていない守男は、正味のところ彼女の言動の八割近くを適当に受け流していた。

 そのようにいい加減な感覚だからこそ、目の前に現れた新たな怪異らしき存在も、特段に驚くことなく確認した。

 暗い木立の隙間に浮かび上がったのは、輝かしい金色の束。見紛いようのない金髪の外国人である。これだけならまだ一般人かもしれない余地もあったが、その服装は完全に橘寄りの人間であることを示していた。

 全身オレンジでコーディネートされた前衛的なフォルム。居るだけで鼻の穴が痒くなりそうなほど酸味の利いた体臭だか香水だかの臭い。

 守男は眠たそうな眉の片方を僅かに痙攣させたのみで、構わず稽古を続ける。なるべく人と関わりたくないので、もしかすればたまたまそのような服装をした外国人が通りかかったのだという可能性に賭けたかったのである。

 いつもなら問題なく勝てる賭けだったが、このときばかりはそうはいかなかったらしく、金髪の令嬢は早足でベンチに座ったままの木の実へと歩み寄り、かっと仁王立ちに見下ろした。

「見つけタヨ。橘サン」

「やはり、バレンシアか……」

「何だ、知り合いだったのか」

「ああ。こ奴はバレンシアオレンジじゃ」

「うほ!? この人も蜜柑!?」

 人間ではない二人の間を、守男の首が激しく往復する。相変わらず人間そのものの造形に感心するやら呆れるやらの思いであった。

 どうせなら蜜柑姿も見てみたいなどという守男の不埒な欲求などまるで構わず、バレンシアと呼ばれた蜜柑人間は話を勝手に進める。

「私がゴッドオブシトラスになるため、シんでもらいマスよ。橘コノミさん」

「ゴ、ゴッドオブシトラスって何? ものすごいネーミングだけど」

「柑橘族の王のことだ。そんなことも知らんのか。柑橘族にとってはもはや常識」

「マジか、最近はそんなんが流行ってんのか。日曜の朝は早起きしている俺としたことが」

「あと毎週夕方六時辺りも要チェックじゃな」

「そう。私たちバレンシアオレンジがゴッドオブシトラスになった暁には、他のオレンジを駆逐し、バレンシアオレンジが世界を席巻するのデース」

「世界シェアNO.1のくせに、まだ足らんとはのう。欲の皮の突っ張った柑橘め」

 吐き捨てる橘の口調は、これまでふんだんに盛り込まれていた諧謔の欠片も見出せない、冷酷な嫌悪が凝縮していた。こうした態度の切り替えは得意らしい。

 それを受け付けるバレンシアもまた安穏としていない。とろけるようなしたり顔で見下げている視線は、彼女もまた橘に好まざる思いを寄せているのだと察せられる。

「私が最も栽培されているのだから、他の需要の少ない品種は、大人しく道を譲ればいいのデース」

「おい、ちょっと待て」

 二人の蜜柑に挟まれて、さすがに稽古どころではなくなった守男が、バレンシアの聞き捨てならない発言に反応した。

「じゃあ何か、お前がこいつに殺されたら、もう蜜柑が食えなくなっちまうのか?」

 バレンシアは「何を今サラ」と呟いた。既に彼女の中では、守男も事情を了解しているものとされているらしい。

「バレンシアオレンジ食べればOKネ。オレンジも蜜柑も変わんないヨ」

「あぁ!?」

 バレンシアの言い様を受けてやや被せ気味に、そして大仰に、守男はドスの利いた声で答える。

「てめえは今、日本中の蜜柑業者を敵に回した……」

 手に持っていた木刀を握り締め、バレンシアの顔面に突きつける。思い切り低い声で脅しにかかるのだが、相変わらずの垂れ目であることは変わらない。

「蜜柑園の跡取り息子として、お前を倒す!」

「意外に沸点低いな、お前さん」

「じゃあそこの蜜柑をティマトゥリーに上げる前に、あなたの相手をシテあげるワ」

 橘に負けず劣らずいい加減な日本語で応じるバレンシアは守男の真似をしてか、何かを構えるようにゆるく手を突き出した。

「カモン、レイピア!」

 バレンシアが一声を上げると、その手の中には細長い鉄が握られていた。刺突を主眼に置いた細剣――レイピアである。

 本物か? 一瞬の間、戸惑った守男に向かってバレンシアが踏み込んだ。気配を察し、彼も首を竦ませて後ろへ退く。

 耳の間近を過ぎた鋭剣が、鳥に似て耳障りな鳴き声を上げた。

 驚愕をがっちりと顔にはめ込んだままのたのたと下がるのを、バレンシアは顔を綻ばせて見届ける。

「ま、ま……」

 ふるふると体を震わせている守男の右頬は、ぱっくりと横に裂かれていた。当然そこからはつるつると血が滴り、顎の先から服に滴る。

「マジもんの刃物じゃねーか! あんなの刺さったら死ぬっちゅーねん!」

「思わずエセ関西弁が出るほどの必死さじゃな」

「じゃあ死ネ、人間」

 その後に続いたのは、まったく呵責の無い突きだった。

 顔面というよりは喉を狙った穂先が空を切る。先ほどの一合でレイピアの間合いを味わった守男は、大きく後ろに跳んでいた。既に八時を回った夜半。光源の乏しい広場では、数メートル離れた相手の輪郭すら覚束ない。ましてや細いレイピアの切っ先など視認することすら困難だ。

 そもそも対手を置いた稽古など殆どしたことのない守男は、相手との間合いの計り方からして分からず、とにかく離れるしか出来なかった。

 しかしそれをいちいち許すほど、相手も抜けてはいない。右足を前に出した半身を思い切り伸び出して、突きに掛かる。

 木刀もレイピアと同じほどの長さではあるが、体を半身にして片手を目一杯伸ばす突きは、守男の退避を容易に潰して切っ先を届かせる。

 二、三撃受けた時点で、自分の体捌きでは防ぎきれないと悟った守男は正眼の構えを解き、左手を切っ先近くに添え、木刀を真っ直ぐに立てた。構えを中央に絞り込み、正中線をカバーしている。

 鋭いレイピアにはまるで盾にならないかもしれないが、せめてこれくらいが、守男に行なえる防御の限界であった。

「覚悟シタか、ニンゲン!」

 威勢良く突きに来るバレンシアに対し、守男は木刀を真っ直ぐに掲げたまま足を止めていた。確かにこれでは彼女にとっていい的だが、動いていては、あの細い切っ先を見切れない。

 口笛のような擦過音よりも早く、守男は木刀を左に傾けた。

 ぎいっと後を引く不快な感触。木刀の刀身を、銀色の針が滑ってゆく。

「おお!」

「くっ!」

 二人が同時に声を上げ、弾けるように離れる。

「うおお、防げたあ。あっぶねえ、マジで死んじゃう五秒前。MS5だったじぇ」

「とってもとってもとってもとっても……」

「茶化すくらいなら手伝えよ!」

 防いだついでに交叉法で拳の一つでも叩き込むべきだったが、守男は思惑通りに防げたのが嬉しくてそんなことすら忘れていた。

「一回防いだクライで、いい気になるナ!」

 会心の突きを外されたことがよほど癇に障ったのか、バレンシアはさらに気合を上乗せして刺突を重ねてくる。

 暗闇の中で鈍い銀色が跳ねる。まるで魚が上げる飛沫のように、てらてらと輝いては相手に降りかかる。その雫の一つ一つを、守男は木刀で丁寧に払っていた。

 左手を切っ先に当てているので、通常の握りよりも素早い払いを可能にし、レイピアの連続する刺突に追いついていた。木刀の刀身がささくれ立つが、守男の肉には一切届かない。さきほどの防ぎで感触を掴んだ彼は、的確にレイピアを払っていた。

 とはいえ、それだけと言えばそれだけである。木刀が徐々に削られるばかりで、鋭剣に先んじることがない。

 守男は一向に反撃が行なえなかった。バレンシアの波状攻撃を防ぐのが精一杯で、それ以上の行動が先手先手で潰されてしまっていた。

 それに、他人から刃物を向けられるという現象そのものが、対人能力の絶望的な守男の心身を切削している。まだバレンシアが現れてから五分と経過していないのに、彼の喉は喘鳴を上げていた。

「ほらホラッ、防ぐだけでいいのかしラ!」

「いや良かないけども!」

 いちいち反応する守男を無視して、リズムに乗ったバレンシアはさらに速度を増してゆく。刺突だけでなく、しなりを生かした斬撃まで繰り出した。先端だけを走らせるような一閃が空気を裂く。

 木刀の横腹に叩きつけられるレイピアが木っ端を弾く。笛の音が鳴るたびに、守男がそれに合わせて小さく悲鳴を上げていた。

「ヒッ、ファッ、ハヒッ!」

 バレンシアのレイピアは正確に急所のみを狙ってくる。一つでも払い損なえば致命傷だ。それでも切っ先を向けられる恐怖を押さえ込み、ひたすら払い、弾いてゆく。それだけの気勢を支払うのに、彼の精神は占められていた。

 いい加減凌ぎきれないと判断したのか、隙を付いて守男がまたも大きく退いた。

「守るのは上手いのネ。でもそれじゃ勝てナイ」

 とどめとばかりにバレンシアは、余裕を持って構え直した。右腕を折り畳んで、果断の刺突を放つために絞り込む。

 対する守男は構えを正眼に戻し、先ほどと変わらない待ちの姿勢でいた。通常の握りに戻してしまっては一撃、二撃は防げても、その内に手が回らなくなってしまう。そんな状況を知ってか知らずか、守男はバレンシアに向かって笑ってみせた。

「あ、あああんた、背中がすす煤けてるぜ」

 震える口で勝利宣言をする守男に関せず、バレンシアが踏み込んだ。それに合わせて、彼の木刀が揺らぐ。

「きゃおら!」

 妙な掛け声を上げて、守男は木刀をやや斜めに薙ぎ払った。夜闇にきらめく銀光が、殆ど闇と同化しそうな焦げ茶色の一閃をまともに受ける。

 木刀がレイピアの切っ先を大きく弾く。初撃の刺突を見事に防いだ。しかし守男の体は、果断の防ぎによって完全に横へと流れてしまっていた。これでは戻りの早いレイピアを防ぐことは叶わない。

 なお勢い余ってつんのめる守男を後目に、バレンシアはレイピアを胸元に据え直し終えていた。あとは喉なり心臓なりを穿つのみである。

 とどめの二撃目を放とうとしてレイピアの切っ先に目をやったバレンシアは、驚愕に身を固くした。木刀に弾かれた刀身が、あらぬ方向へと曲がっていたのである。

 守男はこの機を待ちわびたとばかりに、動きを止めたバレンシアの懐へ一気に踏み込むと、彼女の眼前で木刀を大きく振りかぶった。

 すぐそこに迫る威圧で、愚かにも気持ちが受けに回ってしまったバレンシアは、レイピアを頭上に翳した。

「チェストォッ!」

 それでも守男は一切構わず、防御したレイピアごと、木刀をバレンシアの頭頂部に叩き付けた。曲がっていた刀身はついに折れ、地面に切っ先が刺さると同時に、オレンジの精はその場に崩れ落ちた。

「これぞ示現流、一乃太刀」

 とりあえず技名を名乗って残心らしいことをして、人心地つける。

「全くいきなり襲ってくるなんて。おかげで「貴様、どこの流派だ?」って聞けなかったじゃないか。これだから外国人は困る」

 まず危機は去ったが、さてこれからどうしようかと思案に暮れているところ、いつのまにかいなくなっていた橘が木の影からひょっこりと顔を出した。

「やってる?」

「居酒屋か! てかお前なあ、ホント死ぬとこだったぞ。殺す気か!」

「そりゃ殺す気でしょうよ。邪魔をしたんじゃからのう」

「邪魔って、どういうことだよ。確かにこいつの物言いはムカついたけど、こんなもん向けられる覚えは無いぞ」

「それでいきなり頭ぶっ叩いたんだから、お前さんもどっこいどっこじゃろうに」

「こまけぇこたあいいんだよ。てかこいつ何? あんたの同類だろ。何で襲ってくんの?」

「よく分っとるじゃないか。こ奴はわしと同じように蜜柑の精、つまりは霊果じゃ。自分の品種をより繁栄させるため、わしのことを狙ってきた、てなところじゃろうな」

「何でお前を狙うことが、繁栄に繋がんのさ?」

「わしはそんじょそこらの蜜柑とは違う。齢実に五千を超える霊果であり、不老長寿の妙薬なんじゃぞ」

「なんだババアだったのか。まあいいやババア。とにかく人に見られないうちに帰んぞババア」

「おいこらババア連呼すんな。普通に傷つくぞ」

 二人とも人間? 一人を昏倒させたことにはあまり関心を示さず、むしろ早くこの場を去ってしまいたかった。守男も橘も、この類の輩には関わりたくないようだ。

 初めて他人と明確に争い、なおかつ勝利した興奮は覚めやらぬものの、自分の攻撃で相手が倒れるというのはいかにもバツが悪い。だからこそさっさと目を逸らしたかった。

 守男の持ち得る順応性の高さは、ここでもしっかりと発揮されていた。橘が言った蜜柑云々を頭から信用――というよりは疑うことを疎んじ、、今まさに自分が倒した人間が蜜柑であることも疑っていない。それが本当か否かを考えることなど、彼にとっては徒労に過ぎなかった。

 土台全てが嘘だったとして、自分には何の関係も無い。ならばこの嘘のような状況が本当だったところで、やはり自分には何の関係も無い。

 諦めているわけでも、投げやりになっているわけでもない。抵抗したくないのだった。何もかもに抗ってしまえば、それはそのまま自分に帰ってくる。単純に自分を疲弊し磨耗させるだけなのだ。

 そんな無駄なことに、何故力を注がなければならないのだろうか。思い悩み悶え、悋気のままに喚き散らすぐらいなら、無理やりにでも肯定したり、思考を止めたり、目を瞑ったりしてしまえばいい。

 運命論ほどではないものの、彼の大げさな受身の姿勢は、これまでの人生においてもたらされたものだった。彼の人生が既に、それだけ大げさなものだったからだ。少なくとも彼にとっては――

 何気なくバレンシアの方を見れば、人の姿は影も形も無い。代わりに浮かび上がるのは、巨大な樹木であった。

「ん……んん!?」

 公園に生えている木と勘違いした守男が二度見する。彼の拙い記憶によればそこに木など生えていなかったし、大人三人くらいを束ねたような胴回りの木というのも、いつも通うこの公園で見かけたことはない。

「は? 何これ? 珍百景?」

「VAWにでも投稿しとけ」

「あれまだ出てんの? 昔よく読んだわー親戚の家で」

「いや買えよ」

「いや買うほどじゃあ……」

「おい!」

 はて根のほうはどうなっているのかと守男が視線を下げたところ、彼の視界に映る枝の一切が脈動し、波打つようにうねってみせた。この時点でようやく彼は、この木が先ほど倒したバレンシアだという可能性を検討し始めた。

「おお、ワイアール星人っぽいな。写メ写メっと……」

「あれウルトラセブンのオリジナルビデオ作品だと、すっごいスタイリッシュになってるべさ。同じ星人とは思えんくらい」

「あれなー。そもそもちゃんと目があるって時点で驚きでさ――」

 その後の言葉を、守男は継ぐことが出来なかった。先ほどまで波打っていた枝の群れが、雨霰と降りかかってきたためだ。

「うおお!? 泰山流千条鞭!?」

「ウイグル獄長!」

 二人して飛び退ると、それまでいた場所を野太い枝が打ち据える。空気が暴虐的にかき回され、耳まで破裂するような爆音を連続させる。

 無論のこと、広場のコンクリートがめくれ上がっているのは見るまでもないようであった。

「写メ取ってる場合じゃねえ!」

「こ、これは……!?」

「知っているのか雷電」

「うむ。あれは柑橘に伝わる戦闘形態の一つ、シード形態」

「何……だと……っ!」

 とりあえずそれっぽい反応をしたものの、守男は木の化け物に襲われてどうしよう、というくらいの認識しか持っていなかった。

「柑橘にとってもはや常識」

「いい加減、変な常識を押し付けんでくれ」

「とか言いつつ受け入れてるお前さんは、実は結構すごいのかもしれんのう」

「珍しく嬉しくない褒め方だわー」

 一先ず離れて第一波は避け得たが、まだ安心するには早いようであった。木の化け物の根が枝と同じく蠢き、節足のように動いて追ってくる。その動きが人間並みに早いとなれば、さすがに守男も冷や汗を禁じ得なかった。

「うわキモ! ムカデみたいでキモ! てかはやっ! こわっ! はやっ!」

「ニンゲン、ニンゲン風情が、我に楯突くなど、許さナイ!」

 とうとう喋りだした木の化け物にも動揺することなく、守男は冷静にツッコミを入れる。

「おい、何か選民思想チックなこと言ってんぞ。蜜柑て大体そうなの?」

「んなこたない。きっとあ奴はユダヤ教徒なんじゃろ」

「そのざっくりした理解は間違いなくやばい。てかそれ以前にこの状況が限りなくやばくないかひゃあ!?」

 言い差した守男の頭頂すれすれを樹木の鞭が薙ぎ払い、風圧で頭が傾ぐ。なんとかバランスを保って倒れはしなかったものの、頭の近くを巨大な質量が通り過ぎたため、脳が衝撃波をまともに受け取り、漿液の中でぐらぐらと揺れているらしかった。

 愚鈍な守男でも脳震盪の影響はきちんと現れる。もつれこむ足を引き摺って、何とか近くの電柱にしがみつく。

 はたして木の幹に木刀を叩きつけても有効か、それだけが今は問題であった。

 思考停止に近いほど愚かしい守男の脳髄は、攪拌されながらも木刀を握り締めさせるほどの闘志を彼に捻出させた。まるで計算機を用いて答えを導き出すような容易さで、守男は目の前の化け物とがっぷり四つに組み合う決心を固めてしまった。勿論、彼我の実力差など眼中に無い。

 そんな彼の視界を遮ったのは、もう一人の化け物――橘であった。

「ぬしゃあ気味悪いのう。こんなのに遭ってもしゃんとしちょる。前に何ぞこんなんに巻き込まれたんかい?」

「まさか。今日が俺の初体験だぜ……」

 サムズアップで答えてみるものの、歯切れが悪い。

「タチバナ、コロす! シネエエエエエ!」

「カタコト怖いでーす。見るからに語彙少なくなってて怖いでーす」

「あ奴、やはり若いのう。シード状態は霊果としての全てを曝け出す言わば全身全霊の状態よ。己が内面を律する力が不十分であれば、往々にしてあのように理性を喪失する」

「ほうほうそんな設定があったとは」

「おいこら設定言うな。つまりは話して示談とか考えるなってことを言いたかったんよ」

「だったらもう、やるっきゃ騎士《ナイト》!」

 気合を入れて構えなおした矢先、空気の焦げ付くような音が目の前で上がる。守男の手の中にあった木刀は、柄から上がそっくり削ぎ飛ばされていた。

 遅れて飛沫を飛ばしたのは、彼に刻まれた横一線の傷であった。木刀を削いだ触手はそれに留まらず、両肘と鳩尾の辺りを裂いていたのだ。

 腕と腹に熱さを感じたときには、守男の腰はすとんと落ちていた。声を上げる間もなく、体が先に力を抜いている。そして襲い掛かる激痛が、徐々に音階を上げてくる。

「ん! ぬうううんんん!!」

 しかし守男は、声の限りの悲鳴を上げることが出来なかった。引きつった口が剥かれるものの、力んだ呻きしか洩れてこない。

 忙しく胸を上下させるたび、腹の傷口から血泡がたっぷりと湧く。横隔膜の部分を裂かれたため、呼吸のたびに傷口が押し広げられ、眼前が遠のくほど鮮烈に守男の脳内を奔り抜ける。

 そんな、傷口から自らを食らうように暴れまわる痛みの中で、しかし守男は片膝を立てて踏ん張ろうとしていた。そうしなければ今度はあの触手で全身を打たれるということが分かっていたのだ。この傷で助かるかどうか分からない。むしろ死ぬ公算のほうが高い気がする。それでも、大人しく諦める気にはなれなかった。もがき苦しんででも、生にしがみついていたかった。

 日本の蜜柑を軽んじた化け物を、許す気にはなれなかった。

 だから声を抑えて立ち上がろうとする。それをやめれば本当に死んでしまう気がした。ここで痛がったりしてしまうと、本当に痛いこと、傷ついたこと、死にそうな目にあっていることを、認めてしまう気がした。

 だから耐える。いや、耐えてみたいと、守男は思っていた。

 一方でそんな自分自身を、冷ややかに俯瞰してもいた。まさか自分にそのような屈強さが宿っているなど、守男自身も想像していなかったのである。特殊な訓練を受けたわけでもない自分が、何故こうも立ち向かえるのだろうかと。

 やはり自分は、どこか人とは違うのかもしれない。人が蜜柑になったり、その蜜柑が怪物になったのを目の当たりにしても腑に落ちる思いでいるのだ。

 普通は受け入れられない。なら受け入れている自分は普通ではない。

 それがどうしたというのか。マイノリティであることを喜んでいるのか。自分は一等、他人には理解しがたい性情を抱え込んでいると言うのに――

 明滅する自問が己の存在意義にまで飛びかけたとき、彼の体を支える感触があった。

「まさか真っ向行くとは思わんかったぞ。無茶をするでない」

 肩を組んで抱えられた守男と橘、そして樹の化け物と化したバレンシアが対峙する。幹の軋る音が、どこかさんざめく笑い声に聞こえる。

「サア、次はオマエだ、タチバナ!」

 バレンシアがそのように叫ぶも、橘に聞く様子はなく、傷を負った守男を苦い顔で見つめていた。だがそれも数瞬のこと、すぐに表情を翻した橘は、何か自分を納得させるように一人で頷いた。

「一応は助けてくれた礼じゃ。その眼に焼き付けておくがええぞい」

 酷薄な笑みを見せつけ、橘は守男の右手に、自身の右手を伸ばした。木刀を握る手を、その上から包み込む。

 この非常時に何をしているのかと責めそうだった守男が、にわかに口を噤む。それどころではないことが、彼の体に起こっていた。

 目方を優に超える樹木の怪物が迫るなか、守男の右手がじんわりと熱を帯びる。原因は明らかに橘の掌であった。彼の体を支えている橘が、眩い燐光に包まれているのだ。

 人が光るという今さらな怪奇現象に、守男はむしろ心休まる思いだった。こういう分かりやすい怪しさのほうが、今どきの人間には親しみやすい。

「吾こそは非時の香の木の実なるぞ。その威、今ここに示さん!」

 しかもそれに詠唱や呪文の加えてくれるなら、安心して預けられる。色々と。

 そして夜闇を掻き消す橙の光が、一瞬、守男の体を包み込んだ。その僅かな間に、多くのことが巻き起こっていた。

 まず守男を支えていた橘が姿を消し、彼は既に一人ですっくと立っていた。腹と腕を裂いた傷のあった箇所は健康な肌色に塗りつぶされ、瑕疵ほどの赤みも見当たらない。

 そして守男の右手に立ち現れたのは、一本の剣であった。刀身からまた幾本もの切っ先が伸びる、その形は、日本人ならば何かしら目にしたことはあろう造形に酷似している。

「七支刀……じゃない!? 一本多い。パチモンだこれ! これパチモンだこれ!」

 その剣は確かに七支刀と形を似せてあるのだが、枝刀が右側に三本、そして左側に四本と、刃が占めて八つ存在していた。

「これぞわしの真の姿。矛橘八支刀《ホコノタチバナヤザサエノタチ》じゃ」

「キェェェェェェアァァァァァァシャァベッタァァァァァァァ!!」

 剣から聞こえてきたのは、紛れもなく橘の声だった。どうやら人や蜜柑に姿を変えるのと同じ要領で、このような剣に変態したらしい。

「ところでどうじゃ? ストレッチパワーがそこかしここに溜まってきただろう!」

「あれは先生方が本当に大変そうだよな」

 疑問を呈する前にふざけたことをぬかされたために乗らずにいられなかった守男だったが、彼女の言うとおり、自分の中にこれまでにはない種類の力が漲っているのがまざまざと感じられた。

 単に栄養ドリンクを飲んで得るような偽薬的快濶ではない。もっと外的で奇妙な、名状しがたい何かが宿っている。しかしそれが恐ろしいかと言えば、まるでそんなことはなかった。ようやくイヤボーンの法則が発動したかと、やはり彼にとっては腑に落ちる思いであった。

 むしろ事態をそのように易々と受け入れる自分の性格が、相変わらず彼にとっては恐ろしかった。

「ふむ、あ奴の言っていたことはまことであったな……」

「え? なに? 伏線? 無駄にほのめかすのやめて。不安になるから」

 橘の思わせぶりな言葉が聞こえたが、すぐにそれはやかましい叫喚を被せられてしまった。

「グオアアアア!!」

 すっかり意識から抜け落ちていた脅威に目を向けると、もはや如何ともしがたいほどに距離が狭まっていた。

 一瞬、手の中の剣を振るってみたい衝動に駆られるが、すぐに相手の圧倒的な目方が迫り、守男の背骨から根源的な恐怖を滲み出す。連なる神経が取った行動は逃避であった。

 それも単にその場から離れたい一心の、飛び出した時点で守男自身も態勢の無様さに心胆が寒くなるほどの格好であった。

 このままじゃその場に倒れこんでしまう。そうすればあの鞭を背中にまともに受ける。あとはB級パニック映画の犠牲者そのものとなって惨たらしい最後を迎えるだけだ。

 死ぬ。死んでしまう。せっかくイヤボーン効果らしいのを受け取ったのに、その直後にやらかすというのはいかにも阿呆丸出しだ。勿体無いオバケに取り殺されても文句は言えない。

 全くもって勿体無い。バトル漫画の主人公に怒られてしまう。そして何より、Dドライブの中身を消去していない。

(ふおおお、まずいまずいまずい! 伝奇に巻き込まれるのはウェルカムだけどそれはマズい!)

 こんなことなら自動で消去するソフトを入れておくべきだったと後悔したとき、守男の背中に激しい衝撃が走った。

「あいたー! 急所に当たった! 効果はグンバツだあああ……って、痛くない。全然痛くない!」

 一頻り騒いでからようやく守男は、自分が五体満足であることに気がついた。ついでにバレンシアから遠く離れ、広場の端の電柱に衝突したということにも思い当たった。その距離は優に二十メートル以上。人間が一跳びで超えられる距離ではないのは明らかだ。

「あ? ん? ワッツハプン? どゆこと? 何を言ってるか分からねーと思うが」

「体を蜜柑力で包んであるからの。このくらいではびくともせん」

「んだよー。少しは謎っぽくしてくれよ」

「いやいや、蜜柑力なんてキーワードをすんなりと受け入れてるお前さんがおかしいのであってだな――」

「つまりはオーラ的なもんだろ。ふははは、馴染む! 実に馴染むぞおおお!」

「いや人の話聞かんかい。ついでに前も見んかい」

「ほえ?」

 せっかく離れた距離をいつの間にか潰され、またも鞭が振るわれる。今度はDドライブやバトル漫画に思いを馳せる間もないほどの切迫していた。

 まあ蜜柑力とやらがあると痛くないらしいから大丈夫だろうと考え、端から守男は防御や回避をするつもりはなかった。なので彼の顔面にバレンシアの枝鞭がぶち当たり、鞠球のごとく吹き飛んでいったのは必然中の必然であった。

 ブランコの柵が拉げるほどに腰をぶつけてようやく止まった守男は、先ほどのように喚き散らそうとはせず、痺れたように震えながら顔面に手を当てる。

 そこには左の下顎から右のこめかみへと、斜めに赤い腫れが浮かび上がっていた。

「痛え、めっちゃ痛え、ディモールト痛え」

「相手も蜜柑力でブーストしてるけえの。わし抜きで食らっとったら跡形も残らんかったばい」

「まじか。大事だな」

「ここに至るまで大事じゃないと思っとるお前の頭のほうが大事じゃわい」

 橘が化けた剣と会話しながら、そろそろ顔の痛みも抜けてきた守男は立ち上がる。さすがに三回も呆けて攻撃を食らうわけにはいかない。それに今回はいちいち口に出すだけの余裕がある。先ほど腹を割かれたことに比べれば何のことはなかった。

 まずはこの有り余る力に慣れなければならない。いきなり踏み切るだけで十メートル近く跳べる体になってしまったのだ。恐らく体全体の力が橘言うところの蜜柑力で大幅に底上げされているのだろう。それにしてはかめはめ波を打つときの亀仙人みたいに筋肉が盛り上がっているわけではないのが、守男にとっては不満であった。

 本人とはいえ、見た目がそのままなのに中身がまるで違ってしまっているので、戸惑いは簡単に拭えない。上手く御しきれるのかという不安が募るも、相手は守男の都合を考慮してはくれない。

 袈裟に振るわれた触手を跳んで避け、近くにあった木の枝に乗る。そこへ追撃が加えられるが、先んじてまた離れた木に飛び移った。守男がいた場所を空しく触手の先が打ち、欅の枝を木端に変える。

「ギキィィィィィ!」

 憤るような叫びを上げて、バレンシアは振るう触手の数を一気に増やした。その数は三十か四十ほどに昇っている。今や木の上に立ち、バレンシアを見下ろす形の守男に向けて、それらが殺到した。

 彼が立っていた木が滅多打ちにされ、木屑を大いに吐いて横倒しになる。しかし守男は既にその場におらず、地面に降りてバレンシアを側面へ回りこもうとしていた。

 逃げるばかりの守男だが、その顔に否定的なものは見えない。先ほどまでの不安をどこに置き忘れてきたのか、むしろ興奮が過ぎるらしく、ひきつった笑いが洩れ聞こえる。

「うひ、いひひっ! いくぜぇ、超いくぜぇ!」

 飛び上がる力を全て前進に傾け、地表すれすれを弾丸のように滑っていく。急激な転換に触手はまるで対応できず、彼が通った後を追うばかりである。

 しかしとうとう間に合った触手が彼の眼前を薙ぐように振るわれる。そのとき、守男の趣味である非時流剣術が炸裂した。

 守男は襲い掛かる薙ぎさえも見切り、むしろ足場にして高く跳躍してみせた。前宙のままバレンシアの顔面に相当する辺りにすっ飛んでいく守男は、その勢いを殺さず体ごと回転させて八支刀を叩き付けた。

 枝刃が触手にめり込み、苦もなく破って断ち切ってしまう。守男はもう一回転して足から地に降り、振り返りの一撃をバレンシアの胴体に見舞った。

 かっと小気味良い音を立てて、バレンシアの幹がばっくりと割れる。飛び上がっての宙転切りは非時流における基本の型、摘果。相手の攻撃を見切り、飛び上がりながら避けると共に斬撃を見舞う軽妙の技である。

 さらに懐で矢鱈滅法振るわれる太刀が、バレンシアの幹や根を細切れにしていく。まるで力感の伴わぬそれがしかし、一抱えほどもある枝を裁断している。

 片腕でバトンを弄う動きはいわゆる腕で斬るな肩で斬れ、肩で斬るな腰で斬れと教える剣道の術理とは真っ向から反する。斬撃の基点は殆ど指先に任せ、鉛筆回しの要領で大きく派手に振る。腕はその誘導しか行なっていない。

 元より踊りと見紛うような非時流は、軽さ速さを主とする流派である。そこへ超自然の力である蜜柑力が加われば速さは倍増、さらに重さを加えた恐るべき斬撃が繰り出されることになる。

「ハハ、ハハッ!」

 その道理に気がついた守男は威勢を増して剣を振るう。手向かう触手を、指先で弄うように回転させた太刀で刈り取り、あるいは体ごと遷移して避ける。

 先ほどまでの不安が綺麗に消し飛び、今の守男の頭にはこれまで祖父に習った剣術を顕すことしか浮かんでいなかった。

「ヒィィィィィハァァァァァ! たっのしいぃぃぃぃ!」

 奇矯な声を惜しまず上げて、動く大樹を微塵に切り飛ばす作業が続く。しかしながら敵もやられているばかりではなかった。

 細こい触手を向かわせる愚を悟ったのか、バレンシアはそれらを溶かすように束ね、一本の太り丸太を形成し、それを勿論、守男目掛けて横薙ぎに振るった。

 一際大きく唸りを上げる触手を見て取った守男は苦もなく避けて下がると、熱く長い息を万感込めて吐き出した。早くも冷える十月の夜陰に湿った吐息が混ざり、興奮に見開かれた彼の両目が白く浮かび上がる。

 肩を上下させて息をしている守男が、触手や傷口を治すバレンシアを見守る。互いの出方を見る僅かな間が、ひりつくように公園を満たしていく。

「いんやあ、ようやるのう、お主。初めてとは思えんわなあ」

 ようやく緊張しかけた雰囲気に、いかにものんびりと橘の声が通る。

「お前なあ、巻き込んどいてそれはないんじゃないのか?」

 それに応じる守男もやはり集中しているとは言いがたい状態であった。むしろ数々の事態を受け入れすぎて、躁のように高ぶってしまっている。

「んなこと言っちょうが、まんざらでもなかんべさ」

「自分で言うのもなんだが、動きがスタイリッシュ過ぎる。デビルメイクライやっててよかった」

「DMD! DMD!」

「おいやめろ。ダンテマストダイはマジやめろ」

「ゆとり世代が。あの難易度まで味わいつくしてこそのDMCじゃろうが」

「いいんだよ。ここから先はR指定だ」

「それはアニメ版じゃないか。ストロベリーサンデー食うか?」

「さあて、冗談はいいからよ、どうする? 俺はあんな化け物と戦ったことはないぜ。あんたが教えてくれなくちゃ動けん」

「あんだけ楽しそうに刻んどいてそれはないんじゃね?」

「あれは遊びだろ。倒すにはまた違う方法が必要なんじゃないのか?」

「変なところで割り切るのう。まあ仕方あるまいか。確かにあれは人の理の内にはない。しかし今やお前も、蜜柑の理の中にある」

「蜜柑の理ねえ。そいつは素敵だ。勃っちまうぜ」

「おい下ネタ止めろ」

「勃つと言ってもあれだぞ。俺の中の正義が呼び起こされる的なことだぞ」

「エタニティエイトですね分かります」

「僕の珠は、大きくなる!」

 またも調子を戻したバレンシアが触手を振り回し、守男を襲う。しかし既にこちらも息を整えたため、剣尖で過たず飛来する触手を払い落す。

「ふむん。そろそろ体も温まってきたようじゃし……」

「おう、どうする?」

「帰るか」

「AHO―――――――!」

 当然過ぎるツッコミに連動して放たれた一際大きな振り下ろしが、刃区まで深く潜りながらするりと幹から滑り出る。刃渡り七十センチ近い軌道でそのまま切り抉られたバレンシアは耐えかねたように引き下がり、木目を晒す傷口を触手で覆う。どうやらこれまでの再生では追いつかない規模の被害らしい。

「ったく。ここで帰るくらいなら最初から巻き込むな」

 冷ややかに言い捨てる守男の顔から、先ほどの快濶さがやや落とされていく。

 彼とて不感症ではない。この状況を受け入れはしたが、それを全て喜んでいたわけではなく、きちんと精神的重圧や不快感は抱いていた。ただそれを表に出さなかっただけのことである。

「歯に衣着せぬ辛辣な意見をありがとう。しっかり自分の意見を言う男の人って素敵」

「今さら気持ち悪いからそういうのやめてくれます?」

「敬語で怒られると興奮するよね」

「ちょ、おいぃ!? 蜜柑で人外で剣で変態とか、もうどうしようもねえな。次郎ばりに属性マシマシじゃねえか」

「何の、まだ手はあるぞ」

「やっと話が元に戻ったか」

「ここは必殺技、いわゆるフェイバリット・ホールドをかますほかあるまい」

「何故言い直したし。いつから超人ファイトになったんだよ。ビッグホーントレインで轢殺すっか」

「やっぱりタッグ技ならクロスボンバーじゃろ」

「残念ながら俺は完璧超人じゃないんでな。とうとう俺の異次元殺法が火を吹くぜ」

「まあそれはどうでもいいんだけど、とにかくいくぞ。剣を上にかざせ」

「え? どうでもいいの? 何だったんだ今のやり取り……」

 そう言いつつ、守男は橘の言ったとおりに八支刀を自分の頭上にかざす。すると八支刀からは、がらりと雰囲気を変えた折り目正しい調子の声が飛び出した。

「ここにタジマモリ、縵四縵、矛四矛を分けて大后に献り……って、後に続けんか」

「は? 俺も言うの?」

「こういう詠唱はお前さんも言わねば効果が無いと相場が決まっておろう。これはもはや常識」

「セイントに謝れ、超謝れ」

 そのとき、かざした八支刀が俄かに光を放ち、夜の公園で街灯よりも眩い存在となった。

「おい詠唱してないのに光ってんぞ。これ大丈夫か?」

「さっきのツッコミが判定されたようじゃな」

「ザケル的な意味でか。いいのかそんなんで?」

 バレンシアが動けない間に、守男は着々とフェイバリット・ホールドの準備を進める。かざした剣は形も判然としないほど光に包まれ、掴んでいる守男は目も開けていられないほどである。

 それに伴ってか、体中を迸る力の巡りは勢いを増し、荒れ狂う波のように守男を揺さぶり続けている。

「ああヤバい。これはヤバい。頭がフットーしそうだよおっっ」

「そんなことを真顔で実況するお前さんにどん引きじゃ。でもどんくらいヤバいかは伝わった」

「言っといてなんだが、それで伝わるお前に引いてもいいよね」

「どっちなんじゃ一体!?」

「で、どうすんだこれ。光り方が尋常じゃないぞ。ガイアにもっと輝けと囁かれてるのか」

「あともーちょい。あ、あー! ちょい行き過ぎ、気持ちちょこっと戻して、あーいい! いいね! そんな感じでいいよ!」

「うわ、何かウザい……。んで、どうすんだよこれ! もう風邪ひいたときみたいに頭ガンガンすんだけど!」

「早う振れ! 今じゃ、見敵必殺、見敵必殺う!」

「了解した、マイマスター!」

 思い切り一歩踏み出して降ろされた八支刀が、その勢いとともに蟠っていた光を爆発させた。拡散した光条は数え八本に分かたれ、のたくりながらある一点――バレンシアへと集束していく。

「奥義、八橘剣・哭び!」

 神話の八頭蛇神を髣髴とさせる光の帯が、バレンシアの体を文字通り八つ裂きに刻む。一振りにして八斬。それも複雑に入り乱れ、方向を違えていた切っ先は、回復の余地さえ残さず幹も枝も根も、単なる木端へと変えてしまった。

 辺りにバレンシアを形作っていた木片が散らばり、それぞれがオレンジ色の蛍光色を持つ液体を滲ませていたが、やがてその光は弱まっていき、ぼんやりと雑木林を照らすのは守男の持つ八支刀だけとなっていた。

 光の帯と化していたその刀身は一人でに縮まり、元の長さへと戻っている。

「これぞ非時流柑橘剣術奥伝が一つ、八橘剣・哭《おら》び」

「無駄に長くてたまらんケレン味だ」

「男子はホントそういうの好きじゃよな」

「仕方ないな。小学校に入るまでにロボットアニメとかを延々と見せられたらそうならざるを得ない」

「近くにレンタルビデオ屋があってよかったな」

「ビデオさえ見せてれば子供はおとなしいからな」

 言い差し、手の中にあった八支刀が一人でに浮き上がったかと思うと、強烈な光を放ち、中から人間の姿の橘が現れた。

「ふう。この姿は疲れるわい」

「あれ? 人が見てると変身できなんじゃなかったの?」

「ぎくっ!? あ、あ~、聞こえんなあ!」

「お前、獄長ネタ好きだな」

 こほんと咳を払い、橘はいかにも神妙そうな顔つきになった。

「この先、幾人もの刺客が送られてくるだろう。どれも一筋縄ではいかないぞ。柑橘は、じゃなかった。覚悟はいいか!?」

「刺客を相手にするなんて誰も言ってないんだが。しかも柑橘て、無理やりすぎだろ」

「じゃあもう、とりあえず帰るべさ。コンビニ寄っちくりい。オレンジジュースと蜜柑とぼんたんあめとなっちゃんとファンタオレンジ買ってくから」

「オレンジどんだけ好きなんだよ。てかさあ、お金持ってんだよな?」

「敢えて言おう、無一文であると!」

「記録願います! 願います!」

「やめて! イグルーはやめて! 泣いちゃうから! オッゴだけで泣いちゃうから!」

「弟かわいそすぎるよ……」

 もはや細かく追求する気力もなく、守男は橘を連れてアパートに帰っていった。

 

 
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