[12章]
この日、僕らの世界は一度壊れたのだろう。
暖かい日も寒い日も、温度を感じることは無かった。
初めて、親しい人の死に涙を堪えた僕は、その重さを初めて知った。
涙は、溜めると闇になる。それは重たくて、時々ふっと溢れだすのだ。止めようもないその苦しみに、僕はただ耐えるしかない。
父と母の死を背負った彼女は、どれほどの傷みを一人で耐えてきたのだろうか。
そして初めて、もしくはようやく涙を流した彼女は、それまでの彼女が嘘のように泣くようになった。
怪我をした時、動物をさばく時、嵐がそばを通った時。
その間、僕は笑いつづけた。必死に、笑って声をかけ続けた。
彼女が泣きやむまで。
僕は、狩りが上手くなった。料理が上手くなった。
必死だった作り笑いは彼女の傍にいれば自然と笑えるようになり、話はどんどん上手くなった。
彼女の料理には程遠い。それでも彼女は美味しいと言ってくれる。
泣きやんだ彼女は僕の手を握り額に当てる。そして僕に笑う力をくれる。
僕が何かを話すたびに、彼女は頷き、答えてくれる。
傷は癒える、などと誰が言っただろう。
僕らの傷は癒えることなく、ただ、足は前へと進み続けた。
気がつけば、僕たちが妹を失ってから3年が経っていた。
そう気付いたのは、彼女が倒れたからだった。
[13章]
がたり、と音を立てて椅子が倒れた。
僕はそれをただ見ていることしかできない。
それほど、唐突な出来事だった。
今、倒れた椅子に寄りかかる様にして傾いた彼女は、音を立てずにゆっくり倒れた。
その、無音で緩やかな時の流れを見届けたあと、僕の意識は取り戻る。
自分の足が思ったように動かない現実に焦りながら、もつれるように彼女へ駆け寄る。運び途中の朝食の入った椀が、視線の端で落ちて散った。
抱きかかえて、頭を動かしてはいけないのでは、と冷静に見ている自分が囁くのを聞きつつも彼女を呼び続ける。揺する。頬を叩く。
それでも彼女は動かない。
顔にかかる髪をどけて、その顔を見た瞬間、思い出す。
彼女の父の、彼女の母の、そして僕らの妹の。
あの、安らかな死に顔を。
彼女は、「死」につかまった。
[14章]
今日は、久しぶりにシチューを作る。
忙しい時にはシチューばかりになりがちで、出来る限り避けていたら、いつの間にかしばらくシチューを食べていないことに気がついたのだ。丁度新鮮な肉が手に入ったので、裏手の畑から根菜、葉野菜をいくつか取ってきて、それらと一緒に下ごしらえを済ませてある。
穀物の粉をタネとして、山羊のミルクで具を混ぜ合わせる。煮込んで、調味料で味を整えたら完成。簡単だが、栄養もあり食べやすい。
僕はそれを2つの椀に盛り、水と共に盆に乗せて階段を上る。
上った先には屋根裏部屋が、その奥にはベッドがあり、そこに彼女は腰掛ける。
窓から入る光が、彼女を影として浮かび上がらせる。
「ご飯にしよう。今日はシチューだ」
と僕が言うと、髪を揺らして彼女は振り向き、光の中で弱々しく笑った。
彼女が倒れたあの日から、もう1カ月が過ぎようとしていた。
あのまま目が覚めないのではないか、とすら思ったが、数時間後に彼女は目が覚め、自身になにが起こったかを理解した。
正直、彼女は泣くと思った。
しかし、彼女は泣かなかった。
出来る限り今まで通りにしようとして、僕が押しとどめようとするのも聞かず、畑の世話をして料理を作る。川まで行って洗濯し、水を汲んでは一緒に魚も獲ってくる。
最初は、昔の彼女に戻ったのかと思った。
しかしそんなことも無く、むしろ泣くことは増えたと思う。
倒れた日からしばらくして、彼女は眠りから目が覚めるたびに、「夢を見た」と泣く様になったから。
僕には、何が良いことなのか悪いことなのか、分からない。泣くことが悪いことなのか、泣かないことが良いことなのか。そんな判断も、することができない。
しかし彼女は、今の彼女は、あの強すぎた昔より、初めて涙を流したあの日より、何故だかとても美しく見えるのだ。
理由は、僕にも分からない。
そんな彼女も、ついに一週間前歩けなくなった。
それでも仕事をしようとする彼女に、僕は言った。
───もう、その体では無理だ。
彼女はしばらく僕を見ていたが、「そう」と一言だけ発し、その日から屋根裏のベッドが、彼女の生きる世界になった。
自身の死を直視したあの日と同じように、見る限りでは無感動に。
何を思っているのかは、分からない。それでも、ただ僕は彼女の傍に居続けて、今僕はここに居る。
[15章]
食べ終わった食器を片付け、また屋根裏部屋に戻る。
彼女は、日の落ちた紅く染まる森を見ている。
僕はそんな彼女を見つめ、それに気がついた彼女が微笑む。
彼女に僕が話すのは、主にその日の森の色。そこにある匂いや、空の重さ。彼女は外の話を好いていた。
出られなくなったからだろうか、僕が話す今日あったことを、彼女はいつも優しく聞いた。
僕が好いて話すのは、今日見た花や動物のこと、小鳥がいる巣を見つけた話。
そういう話を聞く時の彼女は、年相応の少女のように、綺麗な瞳を輝かせるから。
話は尽きることが無い。
僕が彼女に話すから。
話は尽きることが無い。
彼女が聞いてくれるから。
そうして彼女が眠くなるまで、僕の彼女への話は続く。
穏やかな寝顔を眺めながら、長い黒髪を撫でて梳く。
彼女が目覚めないようにそっと。
でも、愛しさを込めて力強く。
この時間が、いつまでも続かないように、自分たちの時間にも終わりは来る。
それも、残酷なほど速く、静かに。
だけど、せめて今だけは。
彼女に、幸せな夢を。
僕に、彼女と居る時間を。
窓の外、広がる世界に、願う。
[16章]
彼女が歩けなくなってから、3週間が経った。
果物の採集と、畑仕事や家事を済ませ、初夏の朝特融の澄んだ空気を感じながら、階段を上がる。
いつもなら、彼女が起きるまで少し時間がある。彼女が夢を見ている時間。
だけど、階段を上った先、小さな屋根裏。
彼女は起きていて、座り窓の外を眺めている。
窓から入る朝日が逆光となり、彼女を黒く浮かせる。髪が、光を受けて輝いている。
いつもなら、夢を見たと涙を流す彼女は、振り向いて。
僕に静かな微笑みを見せた。
[17章]
何も言葉が出なかった。
それほどまでに彼女の姿は綺麗で、清廉だった。
まるで、陳腐な言い方だけれども、天使のような。
彼女は、僕の目を見据える。やわらかく、優しく。
「ねぇ」
彼女は、視線を外して窓を見る。視界に映っているのは、その外の景色。
「思ったことは、無かった? なんで、こんな世界で、お父さんやお母さんは私たちを生んだのだろうって」
彼女の言葉はよく聞こえている。
でも、体は動かず、声も出ない。
「私たちが生まれて、そこにあるのは死ばかり。なんで、こんな世界で、死ぬためだけに私たちは生まれたのかって」
彼女の穏やかな呼吸が聞こえるよう。
「私は、ずっと思ってた」
自分は呼吸を忘れているよう。
「私たちは、生まれて来ない方が良かったんじゃないかって」
彼女は言う。
「でも、分かったの」
「言葉には、どうやってすればいいか分からないけれど」
彼女が、振り向いて、笑う。
「生まれて、私たちは幸せだったのね」
幸せそうに。
幸せそうに、彼女は笑う。
僕は、足が動くままに、彼女のベッドへと寄って、膝をつく。
彼女がそっと差し伸べてくれた手をかき抱いて。
ぼろぼろと、零れた涙がシーツを濡らす。
その小さな手は、灯のように暖かい。
そんな僕を優しく撫でて。
彼女が綺麗に綺麗に微笑む。
「私が笑ったからって、キミが泣かなくても良いんだよ」
彼女は、そう言って笑う。
彼女が笑い、僕が泣く。
「しょうがないなあ」
彼女が言った。
「泣きやむまで、私がそばにいてあげるよ」
彼女はその次の日、眠ったまま、目を覚まさなかった。
[18章]
ざり、と音を立てて土が抉れる。
突き立った金具が土をかきわけ、そこに小さな窪みが出来る。抉れた土を掻き出して、再び金具が土に突き刺さる。
単調な、それでいて苦痛も無い作業。
並んだ石の、一番手前、全部の墓標の中心に、彼女の墓をつくった。
かつて二人で掘った穴より深く、かつて二人で掘った穴より速く。
それでも小さい彼女の体は、重い土にも押しつぶされない様で、すべてが覆い隠されるまで力強く眠りについていた。
鼓動も無く、呼気も無い肌は、真白であるというのに。
乗せる石は、川に綺麗な黒曜石を見つけたので、それを。手向けの花は、名も知らぬ小さくて真っ白い花。
水をかけて、黙祷する。
時をかけずして、目を開ける。
家族が眠るその場所が見えるよう、いまいた場所から数歩下がって、木に背を当てる。ずりずりと、座るのを惜しむように腰を下ろす。
目の先にあるのは、いくつもの石の標。
これから、どうしようかなどと、考えることはない。
心は、決まっていた。
僕は、泣いて。
彼女が泣くから、笑って。
そして、彼女が笑って、僕が泣いた。
泣いた。泣いた。泣きつづけた。
そして、ここにいるのは、俺だけ。
ただ一人、世界に一人。
いくら泣いても、涙は枯れない。
だから。僕は、彼女と一緒に置いていこう。
彼女が大好きな僕は、きっとそれが幸せになる。
じゃぁ、ここにいる俺はどうするか。
決まっている。
彼女が、笑ったのだ。
空を見上げる。
首がつかれるまで上を見て、澄んだ青と白さを目に焼き付ける。
そして、
───俺の大好きな彼女が、笑ったのだ。
───それなら俺も、笑うだけだろう?
青空に、にっと、歯を剥きだして、笑う
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冒険はなく、戦いもない。そして、慈悲もまた、ない。そんな世界で、ただ生きる少年と少女の話。 テスト投稿後編。こっちはルビ無し。