No.262817

ちいさないきもの

TRBRCHDMさん

暗い話です。いろいろとした紆余曲折の末、ここに投稿させて頂きます。誤字脱字が酷く、申し訳ありません。

2011-08-06 23:51:18 投稿 / 全16ページ    総閲覧数:496   閲覧ユーザー数:486

彼らは、ほんとうは、とても心の優しい方々だという事は、ちゃんと分っている。

まだ僕が、とても弱くて小さかった頃の思い出が、そのことをきちんと証明しているからだ。

彼らだけではなく、僕の周りに居る全ての人々が、すべてそうなのだという事も理解している。

 

お父さんが、真夜中に喘息の発作が起こった僕を車に乗せてくれて、

こんな時間になってもまだ開いている病院を、何時間もかけて探して回ってくれた。

お母さんはその時、後部座席で僕の事をずっと抱きしめてくれて離さなかった。

こういった無数の記憶は、決して忘れる事はないだろう。

 

彼らのためであれば、どのようなものにだって耐えられるし、実際耐えることができていた。

それでも、世界にたった一つだけ。

たった一つだけ、僕にはどうしても耐えられないものがある。

 

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体に走る強烈な軋みに否応なく起こされた朝は、とても肌寒い。

お正月はとっくに過ぎたけれども、まだ桜はつぼみも生まれてないくらいの頃だった。

肉体のだるさは、「取れなくても仕方がない」と割り切るようになった。

丸めるように横たえていた体をじわじわと伸ばして、頭の中をどうにか覚醒させる。

申し訳程度の保温材として体に被さっていたよれよれの新聞紙を丁寧に畳んで、

敷物である段ボールをエアコンの室外機の後ろに建て掛けた。

これらがないと、打ちっ放しのコンクリートの上ではとても寝られない。

無理をして一気に立ち上がろうとすると絶対に眩暈を起こすので、

膝をついた体勢から中腰になり、それからやっと立ち上がって、ガレージの水道まで向かう。

脚はまるで言うことを聞いてくれないし、お腹もひどく痛むのでどうしても姿勢は前屈みになる。

栓を一杯にひねってしまうと、音が飛び散ってうるさいので少しずつ流量を増やす。

冷水を両の掌に集めて顔を洗うと、蛇口を上に向けて水を口に含み、濯いで吐き出した。

赤を通り越してどす黒く変色した液体が排水されていく。

口の中の怪我は、治るのが遅いのだ。

いま羽織っている黒いセーターにも飛散した血液がくっついてしまったので、

繊維を痛めないように、細心の注意を払って脱いで、水道で手もみ洗いをする。

僕がまともに着ていい服なんてこれしかないし、

もう所々穴ぼこだらけで、クラスメイトには「雑巾」と呼ばれるような代物だけれども。

なんて言ったって、この服は何年も前にお父さんがくれた大切なものなのだ。

ゆっくり絞っておおかたの脱水をすると、そのまま着てしまった。

こうしておけば、体温ですぐに乾いてしまうことを経験で知っている。

 

とても日当たりのいい表の方まで行くと、流石にそのあたりは暖かかった。

新聞受けの中から今日の朝刊を、鉢植えの下から家の玄関の鍵を取りだす。

なるべく音を立てないように開錠して靴箱の上に朝刊を置くと、

そろそろと忍び足で自分の家に入って行った。

 

昨日の夕飯が終わって出た、汚れた食器を洗うのが僕の最初の日課だ。

お父さんと、お母さんと、お姉さんが起きる前に、全部を済まさなければいけない。

洗剤を含んだスポンジを握ると、あかぎれだらけの指にはすごく染みて痛い。

彼らがいつもどのようなものを食べているのかはわからないけれど、

目の前からはとてもいい匂いがするから、少しだけほっとした気持ちになった。

 

食器洗いが終わると、家の洗面所へ向かった。

洗濯機から脱水まで終わった洗濯物を洗濯篭へ移して、

やはり彼らを起こさないように、足音をたてずに廊下を進む。

足の裏をフローリングの表面に、丁寧に密着させるように歩けば、ほとんど足音は立たない。

家の中庭で洗濯物を干していると、彼らの笑い声と共に食事らしきいい匂いがした。

なんとか間に合った事に安堵すると、残りの作業を急ぐ。

 

朝の日課が一通り終わったら、裏へ戻ってエアコンの室外機の前でうずくまっていた。

温かい微風が背中に当たって、少しだけ体を休めてくれる。

彼らがこっちへ来ない事だけを必死に祈りながら、

なるべく前を向かないように頭を抱えてじっとして、時が経つのだけを待っていた。

 

何台かの車のエンジン音が遠ざかるとまた家の中へ戻り、

とてもとても軽い、あちこち傷だらけのランドセルを抱えて玄関を出る。

外から鍵を閉めて、その鍵をまた鉢植えの下へ戻す。

 

破れ掛けたサンダルを視界に入れないように工夫して、

頻繁に襲い掛かる立ち眩みをなんとかごまかしつつ、小学校へ向かった。

 

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上履きなんてとっくの昔になくなったままだから、職員室の側にある小さな非常口から入る。

ここなら教職員用のスリッパがいつでも置いてあるからだ。

 

教室の前の廊下では、かろうじて机と椅子の形を保っているがらくたが投げ出されていた。

毎日のような事だから、なるべく何事もなかったかのように、それを引き摺るようにして教室へ持ち込む。

誰とも目を合わせないように俯きながら教室を進むけれど、

これがみんなに迷惑だって事はわかってる。

けれども、「それならこんな事をしなければいいのに」という考えはきっと傲慢なんだろう。

 

授業が始まっても、教科書もノートも全部捨てられたり、燃やされてしまったから、

みんなが何の話をしているのか全然わからなかった。

先生はいつでも不機嫌そうな目で僕を見るけれど、

頭の悪い子がクラスに居て、授業も真面目に聞いていなければ、誰だって嫌な気持ちになるよ。

ちゃんと悪いのは僕だって分っているから、いつでも心の中で何度も謝っていた。

 

給食の前にはいつもよくわからない雑用をみんなに頼まれる。

へとへとになりながら教室へ戻っても、僕の分はとっくの昔に無くなっているのが殆どだ。

それは、僕がみんなに、「食べちゃってもいいよ」って言ってあるからだけど、

何年か昔に僕の給食がぐちゃぐちゃに混ぜられていて、

あんまりお腹が空いていたから、まともな部分を少しだけ食べてしまったら、

それからしばらくはずっと、あだ名が「残飯」だったから。

みんなの後片付けだけを手伝って、昼休みに入ってみんなが遊びに出て行ってしまうまで、

ひりつくようなお腹の痛みに耐えながら、教室の隅でじっとうずくまっていた。

 

みんなが校庭に行って、校舎にやっと人気が無くなると、

廊下の端っこにある給食用具室にそっと忍び込んだ。

休んだ人が居れば、その人の分のコッペパンや牛乳がまだ残っているときが稀にある。

今日はパンと三角牛乳がそれぞれ二つづつ、手付かずだった。

たくさん残っていても、僕が食べるのは常に一人分だけに決めている

給食のおばさんの迷惑になるといけないから、誰かが来る前に急いでかきこんだ。

舌なんかもうぼろぼろで、なんの味がするかはまるでわからないけれど、

とりあえずお腹は膨れる。いいことだ。

一日の食事が終ったら、図書室で色々な本を読んでいた。

 

ちゃんと食べ物もあるし、授業にはついていけないけれど、頑張って勉強もしている。

 

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季節は夏に入る。

家の中で掃除機をかけていたら、お姉さんが二階から降りてきた。

てっきりうるさかったのかと思って、また煙草を押し付けられるのかと思って、

青ざめて歯をかちかち鳴らしていたら、硬貨を何枚か渡されてお使いを頼んでくれた。

そのときはすごく嬉しくて舞いあがっていたけれど、

いざお店に行くと、自販機の前に居た中学生ぐらいのお兄さん達に散々殴られて、

お金も全部取られてしまって。

どうしようもなくなったから家に帰ったけれど、人のせいにする訳にはいかないから、

お姉さんには「お菓子を買うのに使っちゃった」と言ったら、

別に取りだした煙草が一箱無くなるまで、僕の口の中が灰皿の代わりだった。

何度も謝ってやっと許してもらえて、ふらふらになりながら外の蛇口で口をゆすぐと、

最初は水が火傷にしみたけど、次は灰の苦さがすごく辛くて何度も咽た。

正気に戻って落ち着いて眺めると、水面に映っていた僕の舌は、

全体に白い水脹れがめくれあがっていて、たくさんの黒い斑模様は焦げ付いた肉だった。

 

あれからお姉さんは、顔を見せる度に同じ事をするようになった。

大切な人の期待と信頼を裏切ったのだから、仕方が無いのだけれど。

 

小さい頃に比べて、今は、傷の治りがとても遅い気がする。

アイロンや、煙草の火傷の痕は、毎日沁みるのを我慢しながら水で洗っても、じくじくと膿を作っていつまでも治らないし、

釘やカッターの切り傷は何日経ってもくっつかないで、少し押されただけでぱっくりと開いてしまう。

殴られた痣は赤かったり、青かったりはましな方で、どす黒く染まった肌は体が中から腐って行くみたいで、とても嫌だった。

傷痕のないましな所には、大抵赤いぶつぶつが出来ていて、すごく気持ちが悪い。

 

病院に行きたかった。消毒液とお薬の匂いが恋しくて、入院の時に食べたご飯の味が忘れられなかった。

でも、入院するほど酷いお仕置きを受けるのはもう二度と嫌だったし、

何ヶ月もお父さんやお母さん、お姉さんと会えなくなるのも同じくらい嫌だから、諦めている。

 

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秋は運動会の季節だけれども、この頃はいつも憂鬱だった。

練習そのものもひどく辛いし、何より団体競技が怖かった。

それでも学年が進むごとに、授業の最初の方で貧血や日射病を起こす事ができるようになった。

練習はこれでやりすごせる。本番の競技だって同じ要領で乗り越えられる。

 

けれど、いつも一番辛いのはそのときの周りの風景だった。

僕以外の、他のみんなは自分達の家族が来てくれる。

確かに高望みだって事はきちんと分っているけれど、それが悔しくて、

これは当たり前の事実だと分っているのにそれを悔しいと思ってしまう心が不甲斐無くて、

とてもじゃないけど見ていられないから、いつも運動会の昼休みは校舎裏の水道に来ている。

空腹をどうにかして紛らわそうと水をたくさん飲むけれど、すぐに全部吐き戻してしまう。

吐瀉物はほんの少しの胃液で濁っているだけで、お腹の中にはもう何もない事が一目で丸分かりだった。

あまりに何もすることがなくて、辛い方法で無理矢理気分を捻じ曲げたのだけれど、

その代わりに酷く疲れてしまって、水場の隣の用具入れに逃げ込んだ。

新品のプランターを枕代わりにして、うとうとしていると、いつの間にか辺りは暗くなっていた。

用務員さんに頼んで鍵を開けて貰って、ようやく教室に戻ったら、

朝、机に置いていたはずのランドセルは、床の上でばらばらになっていた。

 

こまぎれになってしまったランドセルのかけらを手に、僕は教室の床にへたりこんだ。

まだお父さんが、こんな僕にも優しかった頃に買ってくれたランドセル。

僕の知らない遠くの街のお店でそれを買ってくれたときの、お父さんの表情を、僕はまだ微かに思い出せる。

僕にとってもう幻のようにおぼろげな、温かく美しい思い出を証明してくれる、数少ない道具の一つだった。

これが無くなってしまったら、確かな筈だった遠い思い出も、幻の中の出来事になってしまう。

お父さんとお母さんが、本当は優しい人で、こんな僕にもまだ幸せだった頃があって、

そんな記憶すら、夢幻のように忘れ去ってしまうことが、僕は本当に嫌だった。

 

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冬の夜は、外では寝られない。

段ボールの敷布団と新聞紙の毛布ぐらいでは、コンクリートの冷たさ、夜の寒さはごまかしようもない。

エアコンの室外機だって、深夜は動いていない事が多い。

こういう時は毎晩、近所のコンビニエンスストアのトイレに篭って暖を取っている。

でも、その日はちょっとだけ何かが違っていた。

冬休みに入って一週間ぐらいが経った。

当然、まだ学校は開いてないから、給食には頼れない。

 

最近頭がくらくらするけれど、理由は眠いだけじゃない事はちゃんと分っている。

とにかく何か食べないと、このままじゃ絶対に死んでしまう。

その時はただただ死ぬのだけが怖くて、お店の人の迷惑なんて少しも頭に無かった。

今からすれば、それが最後のチャンスだったんだと思う。

 

トイレの天井近くにある換気窓が明るくなり始めたから、もうすぐ家に帰らないといけない。

脚を一歩踏みだす度に視野が傾いで気分が悪い。

少しだけ休もうとして床に屈み込むと、視界の隅にカロリーメイトが映ってしまった。

絶対にいけない事だとはちゃんと分っていたけれど、

その時はまだ、死んでしまうのも嫌だった。

 

のろのろと手を伸ばして一箱だけ掴んで、ぼろセーターの裏に隠してしまった。

不思議なほど気持ちは穏やかだった。

ああ、やっぱり僕は、最初から悪い子に生まれていたんだ。

このことをずっと、はっきりと覚えていることにした。

 

出入り口のノブに手をかけて、体が外に出たら全速力で走るつもりだった。

顔の皮膚だけが外の冷たい空気に触れた途端に、

右腕が後ろから伸びてきた手に凄い力で捻り上げられて、目の前が真っ暗になった。

 

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「どうしてこんな事をしたのかな?」

「………………………。」

「言わなきゃ、お家に帰れないよ?」

「ごめんなさい……。お腹が空いてて……。」

「とりあえず、ご両親の連絡先を教えてくれる?」

 

俯いていた顔が急に店長の目を捉えると、“それ”は必死の口調で哀願を始める。

 

「ごめんなさい、あ…・・・あの……、今日は、今日は金曜日で…」

「……?」

「金曜日だから…・・・明日も、明後日も、みんな家に居るから……。」

「居るから?でも、今居ればそれでいいんだけれど。」

「違うんです。・・・…泥棒したのが、みんなに知られたら……もう……

明日も、明後日もずっと、家に居なきゃいけないから……。」

「とりあえず君、近所の子だよね?この学区なら学校は分るから、宿直の先生に教えて貰うよ。」

 

浅はかにも、助かったと思った。

先生なら、いままでも酷い乱暴はされなかったから、必死に謝れば許してくれると思っていた。

ほんとうに、甘かった。

 

 

 

30分ほど経って出入り口近くの駐車場に、“それ”にとっては見覚えのある軽自動車が止まった。

ゆるゆると“それ”は車を見遣ると、一瞬顔を歪めた後に全てを悟って、

無表情を保ったまま嗚咽を漏らす事も無く、ぽろぽろと涙だけを流していた。

 

 

 

どうしてこんな子が生まれて来てしまったんだろう。

こんなおかしな子供じゃなくて、もっとちゃんとした子が生まれて来れば、きっとみんな幸せになれたのに。

可愛い赤ちゃんができたと思ったのに、それなのに、生まれてきた子がこんな、臭くて汚い、悪い子だったら、

お母さんだって、お父さんだって、みんなみんな嫌になるよ。

ちゃんとみんなの言う事を聞いて、頭も良くて、いいつけを守って、すぐに病気になったりしないで、

お腹も空かなくて、汚くもない、臭くもない、ちゃんとした子が、僕の代わりに生まれてくればよかったのに。

 

 

 

車の運転席から降りた人間は、30代前半ぐらいの女だった。

その女は着飾った服とよくできた笑顔を浮かべ、ありったけの社交辞令を店員に捲くし立てると、

能面のような表情で泣いている“それ”を引っつかんで、車へ乗せて走りさって行った。

 

人気の無い、農業用ではあるがきちんと舗装された農道の路肩へ車が止まると、

母親は“それ”を座席から引きずり出して、まるで浅いドブ川のような用水路の縁に連れて行った。

ゴミと汚物の浮いた汚水の中に“それ”を投げ込み、後頭部を踵で蹴り込んで、

“それ”の頭上から種々諸々の呪詛を吐き続けた。

 

ひとしきり鬱憤を発散すると、“それ”をドブ川から引き摺り上げて道路に放り投げた。

異臭を放ちつつ呆然とアスファルトの上にへたり込んでいる“それ”を一目見て鼻で笑うと、

 

「いいか?お前、動くなよ?少しでも逃げたら、病院に連れていかないからな?約束だぞ?」

「ごめんなさい、お母さんごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 

まるで念仏のように謝罪の言葉を吐き続ける“それ”の様子に満足すると、

車に乗り込むなり全く躊躇なくアクセルを踏み、ブレーキを無視して“それ”の半身を轢き潰し、

そのまま猛然と走り去って行った。

 

やがて、“それ”は這いずるようにしてどうにか近場の公衆電話まで辿り着くと、

アクリル板の内壁を支えにして立ち上がって受話器を持ち上げ、緊急用の赤いボタンを押すが、

脚の力が抜けて、固い駐車場のアスファルトへ崩れ落ちた。

受話器だけは奇跡的に離すことはなかったが、

救急センターに繋がったところで、いざ言葉を話そうとしても、

ごぼごぼというくぐもった音と血の泡しか口からは出て来ない。

タイヤの重心に圧し掛かられた箇所である左胸は不自然に歪み、凹み。

ありえないほど青黒くも赤黒くも染まって、折れた肋骨の先が左の脇腹から突き出ていた。

 

間を置かずにいつものようなひどい眩暈が起こり、真っ赤な視界が暗転して、意識を失った。

 

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やがて同じような一年が過ぎて、また同じ冬の日が始まった。

 

一年前の出来事から、あのコンビニエンスストアにはもう二度と、“それ”は近寄ろうとしなかった。

それでもやはり、冬の寒さからはどこにも逃げ場は無く、

暖の当てに困り果てて、結局、件のコンビニエンスストアに逃げ込んだ日は丁度。クリスマスイヴの夜だった。

 

幸い、店内に人気は無く、痩せ細った躯体をトイレに滑り込ませようとしたが、

トイレの扉には「清掃中」というプレートが掛かっていた。

よく辺りを見回しても、清掃用具入れなど、個室となっていそうなスペースは無い。

潔く暖を取るのを諦めて、プレートに背を向けると同時に、扉が開いた。

慢性的な栄養失調がもたらした小柄な背を竦み上がらせて、ともかく無礼を謝ろうと振り返ると、

かの一年前に見かけた店長が、哀れむような視線で“それ”を見下ろしていた。

 

中背だが横幅の広い体格の、中年の店長は深い溜息をつくと、

“それ”の手を連れ立って、ペットボトルコーナーの奥にある備品倉庫の中に座らせた。

「静かにしていればここに居てもいい」と穏やかな声で話すと、彼は店内へ戻って行った。

 

極度の疲労とストレスが積み重なっていたためか、“それ”は床の上にうずくまると、

すぐに規則正しい寝息を立て始める。

 

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店長は自分のシフトを無事に部下へ引き継がせると備品倉庫に戻り、

床に横たわる“それ”を、できうるかぎり優しく揺すって起こした。

 

ややあって瞼が開くと、何の感情も映すことのなくなった、虚ろな瞳がそこにはあった。

店長はまた深い溜息をついて、“それ”を立ち上がらせるように促すと、

店の外へ出て、店舗のすぐ横にある階段を昇った二階にある、店長の居住スペースへ案内した。

 

“それ”は、玄関マットの上に出ているスリッパが一足分だけであったのを察すると、

靴箱の中を漁ろうとする店長を、虚弱なまでに華奢な手で遮ろうとするも、

彼に薄汚れた足を指摘されると、目を伏せて恐縮する他無かった。

 

ビニールのスリッパを履かされて、彼の家の中へ通された。

整頓は行き届いている様に見えるが、埃が積もっていない訳ではない。

ただ単に、持てる物が少ない人種のようだった。

 

彼は和室前の廊下に“それ”を留めると、仏壇の前で正座をし、何事か呟いて手を合わせた。

彼の前に映っていた遺影が何者であったかは、“それ”には、知る由も無い。

 

5分ほど間を置いて、彼は和室からフルーツの詰め合わせを持ちだしていた。

小ぢんまりとした、明らかな贈答用のそれは、綺麗なビニールに包装されている。

 

彼は“それ”に目を合わせることなく、奥のダイニングへ招いて、

椅子を引いてやってテーブルへ向かわせた。椅子は、二足だけあった。彼は座らない。

彼は背を向け、小さなナイフを取りだして流しへ向かった。“それ”は椅子に座らない。

やがて、“それ”のやや前にあるテーブルの上に、切り分けられた林檎が乗せられた。

不器用な切り口ではあった。“それ”は、椅子に座ろうとすらしない。

やや思案した彼は再度その林檎を手にすると、今度はウサギ耳の装飾を持つように加工した。

自分も一切れ口に含み、新しく作ったものを差し出す。

“それ”は俯いたまま、微動だにしなかった。呼吸しているかも疑わしい。

 

彼は間が持たなくなり、何気なく片手を伸ばした。

すると、“それ”の雰囲気は一変した。違和感に気付いた彼は手を止める。

しかし“それ”の表情は、常に無表情である。姿勢も変わらない。

視線を下げると、拳が震えるほどきつく握り締められているのが見えた。

意を決して再度手を伸ばし、一見艶やかに見える黒髪を持った頭を撫でると、

驚いたことにそこにはまるで、乾いた砂の様な感触があった。

不審に思って掌を見遣ると、血液の固まった真っ黒なかさぶたが、指の間からこぼれ落ちていた。

“それ”は消え入りそうな声で、この床を汚した事を丁寧に詫びた。

彼はまた、深い溜息をついた。

 

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彼は“それ”を浴室まで案内すると、大きめのバスタオルを手摺りの上に掛けた。

着替えの下着を店舗から調達して来る。按排を考えて風呂から上がり。体を拭いておくように。

そのような事を二言三言ほど言い残して、脱衣所の遮蔽をする。

彼は果たして、“それ”が浴室をきちんと使えるかどうか心配ではあったが、

同伴する気にはどうしてもなれなかった。

うなじを少し眺めただけで、そこには小さなケロイド斑が無数にあったからだ。

“それ”の、見えない箇所の表皮を想像しただけで、彼は気が滅入りそうだった。

彼は小銭を手に、階段を降りていった。

 

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店舗から買い上げて来た、新品の下着の付属タグ類を鋏で切り取り終えると、彼はそれらの下着類をバスタオルの真下に置いた。

どうも上がりが遅いと感じて何度も声をかけるが、返事は一度たりとも戻って来ない。

怪訝に思って浴室のモザイクガラスを通すと、小柄な人影が不自然な位置に浮いていた。

彼は一気に顔色を青ざめさせて浴室に飛び込むと、

シャワーの持ち手にそのホースを通し、首を括って吊られている“それ”を、

自分の服が濡れるのにも関わらず、引き摺り下ろした。

脱衣所に寝かせて必死の形相で声をかけるが、たったいま下ろしたばかりだとというのに、

“それ”は返事も返さないし、表情も変えない、それどころか体すら指先一つ微動だにしない。

彼の脳裏には最悪の状況というものが過ぎったが、“それ”は事実、呼吸も脈も安定していた。

彼は今日何度目かの、深い溜息をついた。

 

ひととおり浴槽の掃除を終えると、彼は自分の寝室へと向かった。

彼にとっては緊急時だったので、仕方なく自分の布団に寝かせていたが、

これから客間で新たに敷いた布団へと運ぶことにしたのだ。

小さな体を余計に丸めて眠っている少年はあまりに軽く、抱き上げるのに何の苦労も無かった。

 

もう何年も使っていないもう一つの寝具は、やや湿気を含んではいたものの、

昔のまま、清潔そのものの状態を保っていた。

頭を枕に乗せ、敷布団に横たえて、羽毛布団を被せる。

懐かしい匂いのするその部屋のふすまを閉めて、彼は再び自分の寝室へと向かった。

 

霊前で手を合わせて彼は何事かを呟くと、布団に入り、電気を消した。

 

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彼は自分のシフトに入る二時間ほど前に起床した。

客間のふすまを少し開けて様子を見ると、少年はまだ、眠っている。

特に異常が無い事を確認すると、早々に身嗜みを整えて、階段を降りていった。

 

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一日分のシフトを終えた店長は、コンビニエンスストアの制服のまま、

今に至るまで一向に起き出して来ない少年の身を案じて、客間へ向かった。

 

布団の横に座って目を凝らしても、やはり呼吸も正常な様子ではある。

先日のように起こそうとできうるかぎり優しく布団を揺すって見ても、

少年は首を振っていやいやをするばかりで、きつく瞼を閉じて布団にしがみついている。

 

「どうして、起きないの?」

「……こんなのは、夢だからです。」

「……?」

「こんなにわがまましてるのに、殴られてないなんて、こんなの絶対に夢です。」

「……いや、起きないと。ほら、目を覚まして。」

「い、いや、嫌です。目を開けたら、夢が終わっちゃう……。

今、目を開けたら、きっと我々は現実じゃ、段ボールの上で、新聞紙を被って寝ているんです。

柔らかいお布団なんて、夢に決まってます。でたらめです。みんな嘘ばかりです。

だからどうか、起こさないで下さい。こんな幸せな夢なんて、もう絶対に、一生観られない……」

 

彼は今日初めて、深い溜息をついた。

 

「じゃあ……。」

 

その単語を発そうとした瞬間、店長の目の前の空気が一変した。

何時の間にか両手が頭を抱えるようにして回され、明らかに見てわかるほどに腕は震えていた。

黒檀のような両の瞳には涙が一杯に湛えられたまま、

まるで一年前のあの日のような視線をこちらに重ねていた。

 

だが店長は、それまで少年が未だかつて見た事の全くない、

穏やかで柔和な表情を浮かべて、「ほら、夢じゃないじゃないか。」とのたまったのである。

 

少年は彼にすがりつくと、小さな嗚咽を上げて、また泣きだしてしまった。

店長は優しく背中を撫でてやりつつ、彼は生前の妻がよく歌っていた、

題名もよく知らぬ子守唄のような歌を、不器用に口ずさんでいた。

 

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とりあえず店長はなんとか少年を引き剥がし、

下着一式と、サイズこそ合わねども一応の服を布団の横に置いて、ダイニングへと向かった。

 

 

少年が服を着替えて、慣れない寝具を綺麗に畳もうと悪戦苦闘している時であった。

遠くから特有のサイレンの音が聞こえて来て、それは段々と、確実に大きくなっていった。

 

始めこそ大して気にもしていなかったものの、サイレンの音量がとても大きいままで、

遠ざかる様子がなくなったとの判断の間際、少年は客間を飛び出していた。

 

何か、大柄で青い大仰な制服を来た一団が、こちらへ向かって口々に何かを叫んでいる。

玄関で立ち止まっている店長は、彼らの集団の中央で詰問を受けているようだった。

店長が振り返るのが見えて、こちらを見遣った瞬間、彼は確かに深い溜息をついていた。

 

元々不健康な顔色だった少年が、その時蒼ざめていたどうかは、判らない。

店長を引き止めようと、ふらつく脚を心の中で叱咤して駆け出すが、

廊下を数歩も進まぬうちに前列の一人に肩を掴まれる。

「どうして店長さんを捕まえるの!?その人は僕を助けてくれたのに!」

声が掠れるまで泣き喚いても、優しい笑顔を張り付かせた男達はまるで耳を貸さない。

薄暗い廊下に少年を残したまま、店長は赤い光の中へ向かい、滲んで消えた。

「もう大丈夫だ」「心配ない」と警官達は口々に囁き、清潔な毛布で少年の視界を奪った。

 

 

力無く崩れ落ちた少年は、毛布に包まったまま、廊下の端で蹲る。瞳孔が、開ききっている。

「ごめんなさい、店長さんごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

その呻き声は。少年の半開きの唇から、全くの無意識より発されていた。

 

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警察署で何を訊かれたかは、覚えが無い。

夕方になって、立派なスーツを着込んだお父さんが迎えに来てくれた。

警官達は皆、晴れやかな笑顔をしていた。

頭を撫でてくれた一人の若い婦警さんが「良かったね」と笑顔を綻ばせる。

そう。これで、良かったのだと思う。

 

帰宅した車はガレージの中に納まった。この中は決して、外から見ることはできない。

助手席にいつまでも座っていると、髪を掴まれて放り投げられた。

冷たいコンクリートの壁に顔からぶつかると、鼻の奥から喉を通った血が舌まで流れて来た。

目を合わせないように、三つ指をついて床に土下座をする。

がちゃがちゃとした残響音を伴う音が絶え間なく続いた。多分、ゴルフクラブを探している。

殆ど使われずに新品同様のままで仕舞い込まれたものが、このガレージの中には沢山あった。

あれで殴られる事は、よくある。たしか、背中の肉が抉れたような記憶がある。

痛いのは構わないけれど、床が血で汚れたら掃除をしなければならない。血は落ちにくいのに。

 

「傷物になったか。安くなっちまうな。」

 

もう傷のついてない所なんてどこにも無いのに、お父さんが何を言っているのかわからなかった。

お父さんの期待していた何かを裏切った事だけは、ちゃんと解ったけれど。

 

 

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意識が戻ると、そこは庭に敷き詰められた砂利の上だった。

東の方が少し明るんだ空からは雪がたくさん降っていて、もう地面に積もり始めている。

早く気がついてよかった。こんな所で死んじゃいけない。

セーターはずたずたに千切れて、本物の雑巾みたいになってしまった。

血がこびりついて、いつもよりだいぶ重いけれど、もうそんな事を気にしている余裕は無い。

 

まず上半身を起こそうとお腹に力を込めると、途端にもの凄い吐き気がした。

真っ白な雪の上には、どす黒く固まった血が撒き散らされた。

中には、ほとんど消化できていない食べ物の残骸も混ざっている。

半日前に、店長がくれた食べ物のようだった。

今朝には全部揃っていたような気がしたけど、その時には前歯もぜんぶ無くなっていた。

 

肘を使って無理矢理地面から離れると、泥塗れの握りこぶしが目に映る。

この庭は赤土だった筈だ。不審に思って目を凝らすと、それは泥ではなかった。

その少し先には、凍傷で真っ黒に壊死した指が、5本とも地面に零れ落ちていた。

 

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夜に冷やされたままの空気が重く垂れ込める朝方に、目が覚める。

毛布を除ける五指の動きには、今はもう何の支障も見られない。

二度寝など思考の片隅にもない少年は、そのまま起床し、二人分の朝食の準備に取り掛かる。

 


 
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