No.240543

世界は優しい

九条安曇さん

これもまたお引越し/京関風味

2011-07-28 17:43:33 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:291   閲覧ユーザー数:290

 

眩暈坂は、まるで私を拒んでいるかのようだった。いや、坂が私を拒むということなどないのだろう――坂自体に意思はないのだから。

しかし、私にはそのように感じられた。私自身の体調はいつもどおり悪い。それに、まだ初夏だというのに、滝のような汗が全身を濡らしている。

そのような事ではないのだ。私が体調を病んでいるのは何時ものことであるし、汗っ掻きなのは生まれつきである。何度も何度も、今より酷い状況でこの坂を登ったことはいくらでもある。

そのような事ではないのだ、私の歩みを鈍くさせているのは。

 

有大抵のことを言えば、悪夢を見たのだ。

 

どこまでもだらだらといい加減な傾斜で続いている坂道。それを登りきった先に、ひっそりと建つ古本屋。

きちんと棚に整理された本と、床に堆くつまれた本。古い本の匂いの染み付いた店内。この世の終わりを体現したような表情を張り付けて、静かに本を読む店主。

 

見慣れた光景、嗅ぎ慣れた匂い。気付かぬ内に――身体に、脳に染み付いていた場所。

私は夢の中でそこにいた。いたのだと思う。そこに行くと決まって座る場所から見る、風景が広がっていたから。そしてその先で人が死んでいた。今まで一度も会ったことのない容姿を持つ人だった。

ぐちゃぐちゃと潰れた身体に傷一つ付かぬ顔を載せたその人は、硝子玉をそのまま埋め込んだような両目で、確かに私を捉えてこういったのだ。

 

――君の世界は、とても優しいのだね。

 

羨ましいよ、と笑って、憎らしいね、と泣いた。

引き攣った笑いを搾り出し、赤色の涙を流すその人を前にして、私は何も言えなかった。何か言う言葉を持ち合わせていなかった。

ただ、泣き崩れるそのひとを見ている事しか出来なかった。

 

 

 

 

夢なのだ、あれは。私自身が創り出した愚にもつかない馬鹿な夢。だというのに、起きてからもずっと私の脳内に居座り続け、しまいには何も手につかない状態まで私を追い込んだ。なにもかもがぼんやりとしているのだ――輪郭が滲んでいるとでも言うべきか。

どうしよう、どうしよう、このままではいけない。そんなことを思いながらぼんやりと意識を拡散させていた。

そして気付いたら、この坂を登っていたのだ。しかし遅々として進まない。何時もは軽々とは行かずとも、それなりの時間で登れるこの坂が、とてもつらい。

少しずつ少しずつ目の前が白んでいく。

 

――君の世界は、とても優しいのだね。

引き絞られた笑い声。反響する泣き声。ぐちゃぐちゃとした身体。まき散らされている内臓、傷一つ付いていない顔。見慣れた風景に見慣れぬ色。

 

 

「君はそんなところで、何をしているのだね」

 

突然降ってきた声に意識が引き戻された。嗚呼、この声を私は知っている。

 

「きょ、きょ、京極、堂……」

 

相変わらずの和装と淡々とした口調。

私の同級生であり、向う先である古本屋の主人である友人が目の前に立っていた。

今はぼんやりとしかその表情を窺うことが出来ないが、きっとこの世の終わりを凝縮して引っ張り出してきたような顔をしているのだろう。

細いけれど力強さを感じさせる京極堂の腕がぐいっと私の腕を掴む。引き上げられるような形で、私は彼と向き合された。

 

「また彼岸にでも引っ張られたのかい。それとも」

 

また壊してしまいそうになったのかい。

 

その一言で、一気に目の前の光景が輪郭を取り戻す。

目の前の京極堂の顔も。その目に映る自分自身の顔も。そして私を苛んでいた、あの夢も。

見知らぬ顔など大嘘だ。あれは私自身、関口巽の顔だ。

この世で一番見慣れているはずの、自分の顔。

 

「雪絵さんがいたく心配していたよ、関口君。とりあえずここまで登ってきてしまったのなら、店まで遠くないから来るといい。」

 

しゃんと伸びた京極堂の背中の後を付いていく。登れない、登れないと思いながらも、頂上まですぐの所までは来ていたらしい。

 

どこまでもだらだらといい加減な傾斜で続いている坂道。それを登りきった先に、ひっそりと建つ古本屋。

きちんと棚に整理された本と、床に堆くつまれた本。古い本の匂いの染み付いた店内。その中心に座って、この世の終わりを体現したような表情で静かに本を読む友人。

 

――君の世界は、とても優しいのだね。

 

嗚呼そうだ、君の言うとおりだ。私の世界は無慈悲で、だからこそとても優しい。

 

 

 

 
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