No.228900

続思いの織物(後編)

小市民さん

皆さん、お久しぶり、「続思いの織物(後編)」をお届けします。様々な思惑の中、朗読会「思いの織物」が開催されます。
さて、劇中に登場する麗花記念講堂は、目白台にある日本女子大の成瀬記念講堂をイメージしています。また、劇中劇「思いの織物」は先般公開された映画「さや侍」に学んでいます。朗読会の中で衣音が演奏しているチェンバロ曲は全て実在しています。興味のある方はネットで検索してみて下さい。どれも美しい曲ばかりでお勧めです。ご感想お待ちしています!

2011-07-19 17:22:28 投稿 / 全2ページ    総閲覧数:578   閲覧ユーザー数:557

 例年通り、都心の七夕は曇り空が拡がっていた。

 午後五時が近づくと、連日の夏日にも関わらず、北品川の御殿山にある翔和女子学院の校地の一角にある麗花記念講堂へ、まるで吸い込まれるように人の列が続いた。

 麗花記念講堂は、翔和女子学院が創立間もない明治三十九年に大手建設会社の設計・施工で竣工した、明治時代としては斬新な洋風講堂だった。

 一階は講堂で、二階は教室や事務所に使われていた。二階の一室に同窓会運営事務局が置かれ、それを麗花会と呼んでいたことから、建物全体が麗花講堂と称された。

 赤レンガ造の壮麗な建物だったが、大正十二年の関東大震災で大きな被害を受け、隣接した校舎と繋がっていた教室や事務所は全て撤去され、二フロア吹き抜けの講堂として改修されたのだった。外壁は板張りとなったが、内部の講堂は大きな変更はなく、レンガ積みの基礎部分共々、創建時の面影を色濃く残し、麗花記念講堂が正式名称となって、区指定の有形登録文化財となっている。

 こうした麗花記念講堂は、ラテン十字型の平面、二層の屋上小塔の外観で、西洋教会堂の基本形式でありながら、西洋中世貴族の館の大ホール洋式を加味した設計で、貴重だった。

 外から見ると、こじんまりとした明治建築だったが、内部に入ると、拡がりを感じる。

 中央に演壇、両側にウイングと呼ばれる翼廊、二階桟敷を設け、左右の壁に華麗なステンドグラスを用いたゴシック風の大きな窓がずらりと配されている。

 厳かな光が差し込む天窓も次第に明るさを落としていくと、朗読会『思いの織物』へ足を運ぶ人の数も増し、主催する聖愛と衣音、クラスメートの有志による会場整理は忙しさを増した。

 エントランスホールで、生徒達に手渡されたプログラムを見ると、来賓の誰もがおやっと首を傾げた。

 朗読する物語は、三十年以上も前の卒業生の作品で、それを在校生が朗読することに加え、物語の合間合間に演奏されるチェンバロ曲は、どれもこれもJ・S・バッハの作曲で、聴き応えがあると同時に難易度が高い。

 これは、テープやCDに録音したものを流すのかと思えば、やはり在校生が演奏するらしく、ステージ上手前方に古いチェンバロが用意されている。

 校長の美智子も会場整理に出て、挨拶回りに余念がない。

 間もなく定刻となると、分厚いカーテンが引かれ、同時に講堂内の全ての照明が落とされ、闇となった。着席した来賓は誰もが固唾を呑み、ぴんと張り詰めた空気が麗花記念講堂にみなぎった。

 ステージ上手前方に置かれた古いチェンバロの直上にだけ淡いライトが点ると、プログラムには中等部三年生と紹介されてはいるものの、まだまだ童顔の抜けきらない衣音がゆっくりとチェンバロに向かった。

 あの子供がバッハを弾くのか? 来賓は未だ信じ切れない思いで、衣音を注視した。

 衣音はふと、自分の背後に人の気配を感じた。振り返るゆとりはない。しかし、三十年以上も昔に、同様のイベントを開催した結子であることは解った。

 幽霊に、背後に立たれても怖い、という思いは起きない。むしろ、このイベントを共に成功させよう、と励ましていてくれていることが理解出来た。

 か細い衣音の十本の指が鍵盤上に舞った。『思いの織物』の冒頭部分は、『イタリア協奏曲ヘ長調BWV971第1楽章アレグロ』であった。

 アレグロとは、音楽用語としては一般に『速く』であり、イタリア語では『陽気に』の意味である。その意味する通り、管弦楽曲を鍵盤楽器で再現しようとしたバッハの野心的な試みは、現代でも高く評価され、つかみにはもってこいの選曲と言えた。

 当初、録音を用いるのかと思っていた来賓は、目の前で堂々の演奏を続ける衣音を茫然として見つめた。

 衣音からは、講堂内は暗く、判然としなかったが、一階六百八十八席、二階四百七席はほぼ満席で、先程、母親の裕実と姉の愛生の姿も見かけた。

 七か月前の上野の奏楽堂で開催されたミニコンサートのときは、家族の耳目がないことにのびのびとした思いを感じたが、やはり、こそこそしなくて済むことは、すがすがしい。

 衣音はこの一か月間の生活を振り返った。

 クラスメートに頼んで招待状の原稿をパソコンで創り、三千部の印刷を発注、校正、納品の流れを体験した。宛名の印刷シールの印刷は学校のシステム室に頼んだ。宛先を印刷したシールの貼り付けは手作業で、気の遠くなるような作業だったが、クラスメートの有志の協力が得られたのは幸いだった。

 発送に当たっては、近隣の本局と呼ばれる郵便局で、料金別納郵便というものがあることを学び、有意義だった。

 これらの費用は、全て講堂の修理費用の寄付からの支出となり、稟議書の起案から財務への伝票の持ち回り、記録となるレシート一枚の重みまで体験させられた。

 最大の難関は、チェンバロを演奏する技術の習得だった。

 上野にある帝国芸大の音楽科でチェンバロを教えている講師が、母が働くヤマキ音楽教室の品川校でも教鞭を執り、中学生で身長百五十センチの衣音も師事することが出来た。鍵盤楽器に子供サイズはなく、最低でも身長は百四十センチ以上なければならない。

 この老講師は、厳しい、と事前に教室の事務員に聞かされていたが、衣音にも手加減なしで、言葉は穏やかだが、求められる演奏が出来なければ、十回でも二十回でもやり直しをさせられる。楽になりたければ、出来るようになること、ただそれだけであった。

 結果として、一か月で台本に指定された全曲を人前で演奏出来るまでになっていた。

 約四分間の演奏が終わると、次は聖愛の朗読だった。

 衣音を照らしていたライトが消え、聖愛に淡い光が注ぐ。聖愛はどこで学んだのか、舞台俳優に劣らぬ発声で、

「むかし、むかし、あるところに大変に栄えた王国がありました。

 この国の国王さまは家臣には厳しい人でしたが、領民たちには慕われていました。国王さまには一人息子がいて、明るい性格で、殿下と呼ばれ、誰からも愛されて育っていました。

 殿下は母である女王さまからチェンバロ演奏を学び、日に日に上達していきました。

 こうした幸せな王家でしたが、ある日、女王さまが流行病にかかり、突然に亡くなってしまったのです。

 家臣も領民も悲しみましたが、十二歳の殿下の嘆きは大変に深いものでした。家臣を気遣うことを忘れない殿下でしたが、母の部屋に閉じこもり、広間のチェンバロを見ることも出来なくなってしまったのです。膝を抱え、涙を流し続ける毎日となったのです。

 そうした殿下を何とか励まそうと、国王さまは幼馴染みで女王さまの兄上である公爵に預けることにしました。

 公爵の領地は、森と湖があふれ、大きな河には船が行き交い、それは人々の活気と豊かな自然がありました。

 公爵の城にやってきた殿下でしたが、そこは母が幼い日に過ごしていた城であることを知ると、悲しみをますます深くしてしまったのです」

 児童文学ではあったが、現代の核家族化に重なっており、来賓は共感をもつと、固唾を呑んで聞き入った。つかみはまずまず成功と言えた。

 淡いライトが再び衣音を照らすと、衣音は『チェンバロ協奏曲第三番ニ長調BWV1054第一楽章アレグロ』の演奏を始めた。まともに演奏すると、七分以上になり、来賓を飽きさせてしまうことを警戒し、三分程度に切り詰めている。

 この曲は、衣音が得意とする『ヴァイオリン協奏曲第二番ホ長調BWV1042』の編曲であり、気難しい帝国芸大の老講師から学ぶ際、すんなりと入っていけた。結子が物語を執筆した三十年前から後世、衣音が演奏することを知っていたかのようだった。

 衣音はふと準備期間中、『ヴァイオリン協奏曲第二番』を復習しておこうと自宅で演奏してみたとき、偶然、姉の愛生が友人三人を自宅に招き、宿題をやっていた。愛生はたちまちいつもの調子で妹に、

「うるさい! 下手くそ! どっかいってやれ!」

 と怒鳴り出した。衣音は不思議と腹も立たず、

「下手くそ以下だよ」

 にこりと笑ったが、姉の友人たちは露骨に眉をひそめ、愛生に、

「愛生ちゃん、どうしたの?」

「駄目だよ、何でそんな言い方するの?」

「妹さん、すっごい上手じゃない!」

 口々に姉を叱りつけたのだった。姉は不承不承、衣音の練習を認めたが、頼まずとも周囲が自分の味方となって助力してくれることに驚いたのだった。衣音の演奏が終わると、再び聖愛の朗読となった。

「すっかりふさぎ込んでしまった殿下を立ち直らせようと、公爵の家臣は知恵を絞りました。

 公爵の領地は大きな河を使い、接する国々との貿易も盛んでしたが、音楽家達の演奏旅行でも賑わっていました。その音楽家達の中から、特にチェンバロ演奏に優れた人を城へ呼び、女王さまがよく弾いていた曲を殿下の前で演奏して、殿下を元気づけようとしたのです。しかし……」

 一年たち、二年が過ぎて、呼び止めた旅行中の音楽家達の人数も十人、二十人と増えていったものの、殿下は立ち直るどころか、口も利かなくなり、表情さえ消えてゆく不幸が淡々と語られた。

 殿下にとって音楽家達の演奏は、大恩ある母を忘れさせようとする拷問にも等しいことだった。しかし、殿下は公爵も家臣も悪気があってしていることではないことが解るだけに、何も言えず、月日ばかりが過ぎていった。

 聖愛を闇に浮かび上がらせていたライトが、衣音へ移ると、衣音は『チェンバロ協奏曲第七番イ短調BWV1058第一楽章アレグロ』の演奏を始めた。

 この曲も、『ヴァイオリン協奏曲第一番イ短調BWV1041』の編曲で、元々が四分弱であったから、切った貼ったは必要なく、衣音にとっては幸運だった。

 衣音にとって、市販されているCDを録音した大家と肩を並べるほどの演奏を自分に期待していなかった。とにかく来賓に楽しんでもらうこと……この一言に自分の思いは尽きている。

 『思いの織物』は、周囲の努力にも関わらず、母の葬儀の夢にうなされたり、日常生活の中で、まるで母が生きているごとく振る舞い始める殿下の不幸が語られていく。

 同時に、殿下を医師に診せようにも、公爵も家臣も国王の子を病人扱い出来ず、ただ手をこまねき、音楽家達を呼び止めては、城に滞在させ、チェンバロを演奏させる以外なかった。

 こうした悲しい内容が続くが、楽曲は敢えて明るくテンポのいい作品を使っている。これは、結子の児童文学とクラシックの融和を試みた意欲的な姿勢からだった。

 衣音の演奏と聖愛の朗読が同時進行するパートから、朗読のみの段落へ入った。

 女王の死から三年が過ぎ、公爵の城へ預けられた殿下の消息を調べさせた国王が、家臣の報告に突然、怒りに我を忘れ、城を守る兵隊の半分を引き連れ、公爵の城へ向かったのだった。

 いよいよクライマックスで、聖愛は本領発揮とばかり、登場人物達とナレーションを見事に演じ分け、

「あまりの勢いの国王さまに公爵は、

『この軍勢は一体、何事でございます、国王陛下!』

『黙れ、公爵! 道を急ぐ音楽家達に無理強いを繰り返し、息子の前で演奏をさせていた、というではないか。周囲の国々から、今後そのようなことはなくしてほしい、と手厳しい文書が何通も届いていたではないか! 何という恥さらしだ。しかも、三年間もわしに黙ってそのような迷惑を他国に繰り返していたとは!』

 たちまち、公爵と夫人、そして家臣、警護の兵隊達の表情が凍りつきました。殿下のことばかりを考え、他国の迷惑を顧みなかった歳月は、領主として失格でした。夫人は、国王さまの前に走り出るなり、

『国王陛下、申し訳ございませんでした。夫に入れ知恵をしたのはこのわたし。全て女の浅知恵が招いたことでございます! 公爵には何の罪もございません!』

 公爵をかばい、矢面に立ちました。国王さまは夫人の心遣いに奥歯を噛みしめ、

『これ以上、わしを惨めにさせないでくれ』

 足音もけたたましく、公爵の城へ入っていったのです。公爵、夫人、城の家臣達、そして国王さまの兵隊達も続きました。

 そして、女王さまが幼い日、使っていた部屋で三年振りに殿下を見るなり、国王さまは十五歳になっていた殿下の胸ぐらを引っつかみ、

『この大バカ者! いつまで腑抜けておれば気が済む!』

 殿下を殴りつけたのです。殿下は無様に床にたたきつけられても表情一つ動かしません。国王さまは再び殿下の胸ぐらを引っつかむと、

『一人息子のお前がいつまでもそのように悲しみ続けていたら、母上は心配で、不安で旅立つに旅立てないではないか! いつまで母上を苦しめれば気が済むのだ! お前にはつらくて、切なくて、たまらぬ母上の姿まだ見えぬのか!』

 つばを飛ばし、目を見開いて、殿下を怒鳴りつけたのです。公爵も夫人も誰もが、もはや殿下は正気に戻らないと、目を背けたそのとき、殿下は国王さまをひたと見つめ、

『母上が……苦しまれている、わたしを心配して……旅立てない? そんな……知らなかった。わたしは今まで何を……』

 見る見る瞳に生気が戻り、父の言葉を繰り返して、自らに問うたのでした。公爵、夫人、家臣と兵隊達は誰もが自分の目を疑いました。国王さまは息子の肩を力強くつかみ、

『そうだ、俺だってお前以上に寂しい。泣きたい。しかし、国王はそれを顔に出してもいけないんだぞ。俺と一緒に母上を笑顔で見送ってやるんだ!』

 女王さまが亡くなった三年間、国王さま自身も孤独のどん底にいたことを告白したのでした。父の本心を知り、立ち直り始めた殿下に、その場に居合わせた誰もが身分を超え、手を取り合い、涙を流して喜び合ったのでした。

 その翌朝、見違えるほど元気になった殿下は、国王さまに連れられ、懐かしい王城へと帰り道に着いたのです。父子の周囲にはたくましい兵隊が続いています。大きな河に沿った美しい街道を名馬の背に揺られながら、殿下は、

『チェンバロの演奏が聞こえます、父上。きっと母上が……』

 緑の中に建つ公爵の城を振り返り、ぽつりと呟くと、国王さまは、

『うん? 何か言ったか?』

 殿下に聞き返しましたが、殿下は静かに微笑むと、

『いえ、何でもありません。城へ戻ったら、わたしにも何かお役目をいただかなければ』

 瞳を輝かせて言う殿下の耳には、母がいつも聴かせてくれていた美しい演奏が届いていました。そう、一生に渡って、いつまでも、いつまでも」

 聖愛の朗読が終わると、衣音は『フランス風序曲ロ短調BWV831』の最終楽章に相当するエコーを奏でた。これも三分程の曲で、妙な手は加えずに済んだ。

 朗読会の最後を飾るにふさわしいチェンバロの独奏曲でありながら、充実した響きをもって締めくくられた。

 再び、照明が消え、麗花記念講堂が闇となった。来賓は、しばし、茫然としたが、衣音の姉の愛生が拍手をすると、最前列に座った美智子も拍手を惜しまなかった。

 二人に促されるように、そこここから拍手が起き、たちまち満場に喝采があふれた。

 講堂内に全照明が点灯すると、ステージに聖愛と衣音が並び、すっかり照れた笑顔でぺこりぺこりと礼を繰り返す姿は微笑ましかった。

 朗読会を成功させた聖愛と衣音に拍手を送り続ける美智子の傍らに、結子の霊が立った。結子もステージ上の聖愛と衣音を見つめ、

「どう? わたしの台本が勝ったのよ。企画を認可した美智子じゃないわ。講堂にスターは一人しかいない。勘違いしないでよね」

 勝ち誇って言った。美智子はちらりと同窓生を見ると、

「いいえ、本当に勝ったのは、あの子達よ」

 告げるように言った。

 聖愛はこの日の出来事が、文芸部設立への大きな弾みとなることに自信を得た。

 衣音は半年前、美智子に教えられた人の心がもつ三つの特質を胸の奥深くに銘じた生き方を続けていけば、社会から必要とされ、生き甲斐と喜びに恵まれた人生が得られることを、惜しみなく送られる拍手の中に学んでいた。(完)


 
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