No.226691

Alternative 1-1

これはとある勇者の物語。
正義に殉じ、誰かも分からぬ人々のために命を擲ち、富を得ず名声だけを与えられ続ける者の戦いの軌跡。
物語の舞台は五〇〇年周期でで否応なしに終幕する世界リゾーマタ。幾度となく文明を崩壊させられて尚、人々が身を寄せ合い懸命に生き抜こうとする世界。
銀髪の青年クロームは、五〇〇年に一度訪れる世界の終幕を防ぐために選定された勇者であり、終幕を避けるための手段を求め、世界各地を三人の仲間と共に旅を続けている。
世界の完全なる終末を望む、謎多き魔術師集団《魔族(アクチノイド)》と熾烈な戦いを繰り広げる中で、四人は様々な世界の不条理へと遭遇していく。

続きを表示

2011-07-07 00:35:01 投稿 / 全3ページ    総閲覧数:457   閲覧ユーザー数:449

 

1Cr Chapter―白黒楽章―

 

     〆

 

 子供の頃、英雄になりたいと思っていた。

 ただ漠然とした幼い願望。

 みんなのピンチに颯爽と駆けつけ、悪い奴をいとも容易く倒し、みんなから感謝されながらも見返り一つ求めずに格好良く立ち去り、また新たなピンチへと向かう。

 そんな、みんなから羨望と尊敬の念を向けられる英雄になりたかった。貴賤の区別なく人を救うことのできる人間に憧れ続けた。

 現実に、本に出てくるような完璧な英雄なんていない。そんなことは分かっていた。しかしそれは私にとって夢の終わりではなく、始まりであった。

 英雄がいないなら、自分が始まりの英雄になればいいだけの話だ。

 きっとそうすればまた新たな誰かが、自分の背中を見て英雄になろうとするかもしれない。英雄は新たな英雄へと決意を与えるはずだ。

 そうすれば、この世界だって、物語のように幸せで平和な世界になるかもしれない。

 私が英雄の叙事詩のきっかけになれればいい。

 そんなことを考えていた。幼い頃から夢見続けていた。

 世界中から苦しみを取り除けるような英雄の姿を追いかけ続けた。

 誰もが憧れるようなみんなの希望そのものへと、なりたかった。

 そのために生き続けてきた。

 今日の今日まで、そして明日もまた変わらず、私はせめて今私が守れるものを守るために戦っていくのだろう。その積み重ねがやがて世界中の人間の幸福という大輪の花を咲かせることを願って。

 物語の英雄はいつだって人々を助け続ける。朝な夕な世界を駆け回り、窮地から窮地へと奔走し続ける。

 彼らの戦いの終わりとはどこにあるのだろうか?

 物語の英雄はいつまでも人々を助け続ける。

 いつまでもいつまでも。

 まるで罪を購おうとする咎人のように見返りさえ求めず、求められず、積み重ねた重罪を清算するように、決して消えることのない罪を赦されるために。

 物語の英雄達は、何処へ、何処へ、征くのだろうか。

 そんな疑問から目を逸らし、私は今日もまた己の信じた正義を貫き続ける。

 

     〆

 

Nothing Ever Breaking Iron Cr―鋼鉄の勇者―

 

     〆

 

 そこは豪奢に飾られた広い部屋であった。部屋の奥には暖炉が鎮座しているが、今は火を灯しておらず薪が爆ぜる心地よい音も聞こえない。当然だ。うららかな日和が心地よい春の中程。暖炉など不要で、単なる調度品でしかなかった。

 しかしそれも情緒と言ってしまえば悪いものではないのかもしれない。この部屋の暖炉は上等な造りで、複雑な意匠が彫り込まれた高級品だ。調度品として見ていても、つまらないものではなかった。

 床は大理石。頭上に吊されたシャンデリアの拡散する輝きを受け、眩いほどに輝いていた。天井を見上げれば、そこは半球形となっており、全面で一幅の絵画となっていた。中心に描かれているのは母性を感じさせる柔らかな微笑みを湛えた美女であり、背には三対の白い翼が生えている。おそらく女神なのだろう。蒼穹を背景に背負い、血色のよさもしっかりと感じさせる白い肌が映えている。緩く波打つ髪は金色、優しく細められた瞳は碧い。女神と思しき人物の周囲には一糸纏わぬ赤子が小さな翼を羽ばたかせ舞っている。きっと天使だろう。

 この絵が何を暗喩しているのか、そもそも深い意味などあるのかどうかも定かではないが、確かに神聖な雰囲気は感じた。感じただけであり特にどうということではない。

 女神が持っているのは竪琴だろうか。余計な飾りが多く、果たして演奏の妨げにならないのか甚だ疑問である。尖端の突起などはいらないだろう、と彼女は思った。

 そう彼女――部屋の中心に設えられた飴色のテーブルに足を載せ、尊大に紅いソファへ腰掛けた彼女は、そんなことばかりを考えていた。

 窓枠がどうして金色なのかが分からない。ベルベットのカーテンの色合いも今となっては目障りだった。立派そうな抽斗の上には羅紗がかけられ、上には金色の杯や高級そうな皿が立てかけられている。皿には料理を載せればいいだろうに、どうして埃を載せているのか、これもまた彼女には疑問であった。

 埃にドレッシングでもかけて食べるのだろうか? だとすればこんな立派な部屋に暮らさずとも洞穴で暮らせばいい。埃よりもいいものは山に行けばたくさんありそうなものだ。

 それとも埃を食べなければ死んでしまう体質でも持っているのだろうか? 埃で人が死ぬことはないと言うが、これはある意味埃で人が死ぬということなのかもしれない。

 そこまで考えて、彼女はくだらない思考を停止させた。どうでもいいことを考えて暇を潰そうと思ったが、これはあまりにも馬鹿らしすぎた。

 彼女は深いスリットの入った黒いノンスリーブのリトル・ブラック・ドレスから覗く白く滑らかな足を組み直し、右足をテーブルの上へと載せる。ハイヒールがテーブルの天板に傷をつけるが、そんなことはどうでもいい。

 細い肩紐のかかった撫で肩は薄く、首もとに浮き出た鎖骨は肉感的でさえある。

 体つきは細く、その痩躯を包む黒いドレスは飾りも柄もなく、ワンピースと言った方がいいものなのかもしれない。

 朝焼けの空を彷彿とさせる紫苑の髪は長く、小さな頭の後部、その僅か右寄りの位置でシュシュによって纏められ、肩にかけられている。目に毛先が触れる程度の前髪が垂らされ、顔の両脇には一房ずつ長い髪が残されていた。

 顔立ちは整っており、長い睫毛、物憂げに伏せられた濃緑の瞳、鼻筋はすっと通っている。しかし、その官能的な姿と艶美な表情に反し、顔は幾分あどけなさが残っているようにも感じられた。

 未だ成長しきらない幼さの面影が拭いきれていない。

 肘まである黒い手袋を嵌めた細い指の先には煙管が挟まれ、先端からは煙が燻っている。彼女の肢体のようにほっそりとした煙が身をよじらせ、天井の女神へと昇っていく。

 見るからに暇そうかつ面倒くさそうな顔で、少女は紫煙混じりのため息を吐き出す。

 何十分待たせるつもりなのだろうか。そもそも、ここで待っているようにと執事に言われてから何十分経ったのだろうか? この部屋には調度品は掃いて捨てるほどあるというのに、時計が置いていなかった。そのため、この部屋に来てからどれほどの時間が経ったのか、彼女には全く見当が付かなかった。

 日の傾きで時間を見ようとも考えたが、この部屋の窓からは日を見ることができない。

 少女とも呼べる女性はもう一度ため息を吐き出した。

 同じ体勢で座り続けるのも疲れた。本当は尊大な態度で迎えイニシアティブを取ろうと考えていたのだが、そろそろこの体勢にも辛いものが出てきた。組んでいた足を解き、ずるずると体を傾け、肘掛けに腕を敷いてそこに顎先を載せる。

 待ちくたびれていた。もうこのまま寝てしまいたいくらいだ。

 しかしそんな醜態を曝すわけにはいかない。ここは少しでも威容を演出できるように心がけたいところであった。

 肘掛けに顎を載せたまま煙管を吸い込む。薄い唇が軟らかく吸い口を包み込む様は妖艶で、官能的なものだ。

 血を塗ったように紅い唇の隙間から煙を吐き出し、女はゆっくりと項垂れる。

「暇だわ……とても暇だわ……脳が蕩けてしまいそう」

 何もしないで待つのは退屈以外の何物でもない。これを退屈と呼ばずして、何を退屈と呼ぶというのだろうか。

 もう帰りたい気持ちですらあった。

 何故、自分は律儀に待たされているのだろうか?

 そんな疑問さえ浮かんだ。

 理由は決まっている。それが彼女に与えられた役目なのだから。

「カルフォル様……トリィは退屈ですわ。とてもとても退屈ですわ。このままではトリィは退屈すぎて死んでしまいますわ」」

 独り愚痴を零す。その声に答える者は当然いない。

 しかしその代わりとでも言うように返ってくる音があった。

 外から聞こえてくる微かな足音を彼女は耳敏く聞きつけ、跳ねるように体を起こす。

 足音自体は遠いが響く音は重く、偉そうに大仰な足取りで歩いていることが簡単に予想できた。

 トリィと自らを呼んだ少女は素早く背筋を伸ばし、僅かに崩れた髪を手櫛で簡単に整えて、足を組んでテーブルへと投げ出した。

 元の体勢へと戻り、少女は尊大に背凭れに寄りかかり煙管を咥える。

 しばらくと待たないうちに部屋の分厚い立派な扉が開かれた。現れたのは純白のレースの胸襞飾りが施されたシャツの上に、金色の刺繍が鏤められた緑色のジャケットを着た、恰幅のいい初老の男だった。腹部は何か詰めているのではないだろうか、という疑問を抱く程に膨れており、癖の強い髪も量が少なく脂の浮いた額が広くなっている。シャンデリアの光が反射されて眩しいほどだ。

 目は小さく、その奥に宿す卑しい輝きは低俗さを感じさせる。また鼻は低く潰れており、たっぷりと蓄えられた黒い髭もあまり似合ってはいない。

 指一本一本が醜く膨らみまるで芋虫のような手はステッキを掴み、億劫そうに動いている。足が悪いわけではなく服がきついのだろう。シャツのボタンが今にも弾け飛びそうなほどに内側から押し上げられていた。

 トリィはその姿を見て、まず最初に不快感を催した。そして男と目が合い、彼が不潔な笑みを零した瞬間、殺意が湧いた。

 こんな匹夫を一日千秋の想いで待っていた過去の自分も殺してしまいたくなった。

 男の白いタイツが気に食わない。

「これはこれはトリエラ様、お待たせして申し訳御座いません。何分込み入った事情がありまして――」

「能書きはいいわ。早く座って頂戴」

 冷たく、静かな口調でトリィは男の滑舌の悪い低い声を遮った。その声もあまり耳に心地よいものではない。

 トリィは煙管から煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出すと、その吸い殻を大理石の床の上へと、何気ない動作でぽんと落とした。

 視界の端で、不釣り合いな豪華な衣装を纏った男の顔がわなわなと動くのを確認する。少しだけ、気分がよくなった。

 男があからさまな咳払いをすると、それまでその存在さえ気取らせなかった執事が、さっと男の脇を通り抜け、吸い殻を片付けに向かう。

 よく出来た執事である。燕尾服を着こなした老執事で、元々の身長の高さに加え、背筋がぴんと伸びていることもあってとても長身だ。体つきも痩身とはいえ細すぎず、身長の比率が整っている。

 老いてなお、その顔立ちは整っており、若い頃は相当の好青年であったことが窺えた。

 トリィは、こちらの方がよほど貴族らしいとさえ思ってしまった。

 そう、あの醜く肥えた匹夫は貴族なのである。

 信じ難い話ではあるが事実だ。そうでもなければ、トリィはこんな男を待っている義理もなかった。

「さあ、ベラクレート卿、どうぞお掛けになってくださいな」

 まるで自分の住処であるかのようにトリィは艶然と微笑み、テーブルを挟んだ向かい側の席を煙管で指し示す。

 男の顔が再び怒りに歪んだのが分かった。この男のプライドの高さを、トリィは知っていた。だからこそそのプライドを傷つけるような振る舞いを意識していた。

 例え彼女がどんな無礼を働いたところで、男は逆らうことなどできない。

 小娘一人に文句を言うこともできないのだ。

 プライドと立場、命など様々な物を天秤に架けた結果、ベラクレートと呼ばれた男は微かに頷いたような素振りだけを見せ、大仰な足取りで無言のままにソファへと腰掛けた。

 もしトリィの腰掛けるソファと同じ構造であるならば、相当頑丈にできているはずのソファがギシギシと不平を訴えるように軋んだ。もちろん、外見は同じで中身が違う可能性も否定しきれないわけだが、そんなことあるはずもないだろう。

 この場には一切関係のないことを考えて、トリィは必死に笑いを堪えていた。

 目の前でソファに沈み込む男は実に滑稽だ。くすくすと笑いながら、トリィは脇に置いていた革製の小さな巾着袋を引っ張り上げ、窄まった口を緩める。中に詰まっているのは大量の刻み煙草。糸のように細く刻まれた煙草を摘み上げ、丁寧な指使いで丸めていく。そうしてできた刻み煙草の玉を煙管の火皿に詰め込み、吸い口を唇使いも艶めかしく銜え込んだ。

 当然火はない。トリィの煙管は羅宇も異常なまでに長いため、彼女の手が届かない。だというのに、トリィは当然のように吸い口から煙草を喫う。すると、火の気もなかった火皿から、一瞬だけ炎が燃え上がり、トリィの白い頬を橙色に染めた。

 炎は一瞬にして消え去り、火皿に詰め込まれた刻み煙草には火が灯されている。

 炎が湧き出た瞬間、ベラクレートは驚き、その大きな体を器用に跳ね上げさせ、執事も目を剥いていたが、当の本人であるトリィは何食わぬ顔で美味しそうに煙を吐き出していた。

 否、当の本人であるからこそ当然のこととすることができるのかもしれない。

 トリィの扱う煙管は全体が金属製で出来ており、雁首には唐草模様が彫られ、羅宇は黒壇でできている。また吸い口の部分にも桜の花の彫刻が施されていた。一見しただけでも、高級なものであることは明白だ。

 何も言わずに煙草を味わい続ける少女に、痺れを切らしたベラクレートが恐る恐る口を開いた。

「それでトリエラ様、一体どのような用件で――」

「ベラクレート卿? 今は何時(ナンドキ)で?」

 その言葉さえも遮り、トリィは問いを投げかける。続く言葉を飲み込んだベラクレートは脂肪に埋もれた目を執事へと向け、時間の確認を促す。執事は何も言わずに懐中時計を取り出し、穏やかな動作で盤面に視線を落とした。

「十五時二十四分で御座います。トリエラ様」

「あら、そう? ところで、私は一体何時、ここに来たのかしら?」

「十五時丁度で御座います」

「あーら、二十四分。二十四分ですって、ベラクレート卿。二十四分もあったら、一体どれだけのことができるのでしょうか? ベラクレート卿」

 分かりやすいほどにあからさまな嫌味を言いながら、トリィはゆっくりと腰掛けから背を離し、体をテーブルの上に乗り出し、ベラクレートの表情を窺うように見上げた。

「二十四分もあったら、村一つくらいなかったことにできるのではありませんか? ベラクレート卿」

 くすくすとトリィは笑う。どこまでも無邪気に、あどけない顔立ち相応の、鈴を転がすような笑声を垂れ流す。

 しかし意味はどこまでも冷たい。それだけの時間があれば、彼のいる村一つくらいは容易に消し去れる。だから、待たせるようなことはするべきではない。

 そんな警告であった。

 ベラクレートは唇を引き結び小さく唸る。

 固く組み合わされた両手が微かに震えていた。恐怖に彼は凍えていた。目の前の年端も行かぬ顔立ちの、好奇心で少し背伸びをした服装で着飾っただけのような少女に初老の貴族が怯えている。

 何とも、不気味な構図であった。

「ベラクレート卿? 私はカルフォル様の使者ですのよ? 何か、それ相応の持て成しというものはありませんの? 私、咽喉が渇いておりますの」

 トリィの要求にベラクレートはわざとらしい咳払いをする。すぐに執事がその意味を察し、紅茶を淹れようと一歩踏み出した。トリィはそれを制するように執事へと煙管の雁首を突き付ける。

「私、ベラクレート卿に申しておりますの。彼は貴方の忠実なる僕(シモベ)かもしれませんが、私にとってはそうではありません。カルフォル様に忠誠を誓っているのは貴方でしょう? ベラクレート卿。そして私はそのカルフォル様の使い。私の言いたいことご理解頂けませんか? 今この時、私がカルフォル様であり、カルフォル様が私。忠誠を誓っているのであれば、ベラクレート卿自身が、私を持て成すべきではなくて?」

 艶然と微笑み、煙管を吸ったトリィはゆっくりと紫煙を虚空に漂わせる。

 しかしベラクレートは目を剥いたまま、動かない。彼にもプライドというものがあった。このような小娘一人のために、貴族である自らが紅茶を淹れるなどということは我慢ならなかった。

 確かにベラクレートはカルフォルという人物に忠誠を誓った。それでも小間使いになった覚えはない。

 今後の上下関係も考えれば、ここで従うのはあまりに愚かだ。

「あら? ベラクレート卿? 耳が不全ですの? いくら辺境伯様と言えど、老いには勝てないということでしょうか? うふふ」

 紅い唇を綻ばせ、細めた濃緑の瞳でベラクレートを見つめる。

「このままですと、私は貴方の欲するものを永遠に与えることができませんわね。それどころか、貴方が私達に忠誠を誓ってまで守りたかったモノを奪うことにもなりかねないですわ。それは残念、とても残念なことです」

 首を傾がせ、愛くるしい仕草でトリィはベラクレートに答えを促す。その言動は到底残念そうには聞こえず、むしろ別段どうでもいいことであるという認識が垣間見えた。

 ベラクレートの顔が苦虫でも噛み潰したかのように渋いものとなる。

 今、この脂肪に覆われた男の心の中で、二つの感情が鬩ぎ合っていることは簡単に読み取れた。貴族としてのプライドと、人間としての願望。その二つを天秤に架けているのだろう。

 唇を蠢かせ何かを言おうとしては唇を紡ぎ、しかしすぐに何かを言いたげに視線を彷徨わせる。

 滑稽だ。実に滑稽だった。

 とはいえ醜い男の葛藤を見続けるのはすぐに飽きてしまう。どんなものも冗長となってしまえば興が冷め、うんざりとしてしまうものだ。

 ここは一つ、男の背を押すことにしよう、とトリィは考えた。

 前のめりになっていた痩躯をさらに浮かせ、艶めかしいラインを描く臀部がソファから離れる。煙管を持った手をテーブルの上に置き、浮かせた膝も天板に載せ、するりするりと子供染みた動作で、トリィはベラクレートへと擦り寄っていく。

「ベラクレート卿?」

 音一つ一つを噛み締めるように、甘くゆっくりとした声で、トリィは再確認するように彼の名を呼ぶ。

「命は――誰だって惜しいモノですわよね?」

 煙管の雁首がベラクレートの心臓へと突き付けられた。

 トリィは無邪気に微笑んでいる。少女なのか妖女なのか、はたまた魔女なのか、彼女の挙動はそのどれにも固定されていない。

 ベラクレートは彼女のどんな仕草よりも、その無邪気な微笑みが怖かった。

「命の盟約を共に破戒するのでしょう? ベラクレート卿。ならば――素直に私達に従いなさいな」

 クスクスと笑い、四つん這いになっていた体を起こしたトリィは、そのままテーブルの上に座り込み、足を組みながら、妖艶に煙管から煙を吸い込む。

 黒いドレスのスリットから零れた白い太股は多くの男達の目を奪うに値するきめ細かさだ。

「不老不死の力――欲しくはなくて?」

 念を押すように、トリィはベラクレートを見下ろしながら問うた。

 頭上に君臨する女神は、下界で交わされる会話になど興味を示さずただ優しく微笑んでいる。その世界に対する不干渉な姿は、確かに神らしいものであると、トリィは心中で一人納得していた。

 神はただそこにいるだけのものでしかないのだから。

 

     〆

 

 

 深い森の奥を俺は歩いていた。

 周囲には木々が生い茂り、頭上に広がっているはずの青空は折り重なった梢に遮られて見えない。太陽の光もまたほとんど届かず、硝子の破片のような木漏れ日だけが散らばっていた。

 頭上を見上げると、木の梢に茂る無数の若葉の隙間で陽光が弾けている。真っ白な光は翡翠に縁取られ、まるで宝石のようでもあった。

 これだけの大自然だ。空気も澄んでいて、呼吸してるだけで浄化されていくような感覚さえ覚えた。

 吹き抜ける風も穏やかで、首筋を流れ去っていくのが心地いい。

 小鳥の囀りがそこかしこで聞こえるが、姿はどこにも見えなかった。

「いい場所だな、ここは」

 隣を歩くクロームがふと、そんな述懐を吐露する。銀色の長髪の後ろを一つに纏めた長身痩躯の男だ。腰に細身の剣を佩き、動きやすい軽装をしており、その上に黒いジャケットを羽織っている。体つきは細いが、それは無駄なく鍛えられているためであり、別に繊細な体つきというわけではない。どちらかというとムダを徹底的に排した洗練された肉体という印象をまず最初に覚える。

 その顔立ちは、眉目秀麗という言葉がどんな物を表すのに使われるのか、という実例のためだけに生まれたように思えるほどの眉目秀麗であり、涼しげな目元なんかは特にいけ好かない。

 鼻梁は高く、切れ長の銀色の瞳の落ち着いた輝きが余裕そうで、尚のことムカつく。

 肌の白さも相俟って、その肉体は銀で構成されているかのようでさえある、などという気取った詩的な表現をしても、何ら差し支えのない容姿端麗な男だ。

 死ねばいい。

「いい場所、ねぇ。空気も煙草の次に美味しくて、空は重っ苦しい木々に覆われて見晴らしも抜群、その上道はこんなに整備された獣道で歩き心地も最高だ。両足に分泌された乳酸が、フル稼働で俺の筋肉疲労を癒そうとしてくれていてその健気な姿に、心はとてつもなくハートフル。まさに楽園じゃねぇか。あー、本当に素晴らしいねぇ。野郎と一緒じゃなきゃもっとよかったぜ」

 歩き疲れて苛立っていた俺は、鼻先の眼鏡を押し上げ、そんな嫌味を口早に垂れ流す。最後の一つだけは本心である。

 これで美女と一緒であろうものなら、手を取って導いて差し上げてやったものを。さらに、お洒落にヒールを履いてきたその美女が足をお挫きになられてしまった際は、何も言わずに背負って差し上げ、背中で胸の感触を堪能しながら目的地へと連れて行ってやりたいくらいだ。さらには目的地でホテルまで探し、手慣れた手つきでチェックインも済ませ、なんならそのまま部屋まで荷物を持っていて差し上げ、あわよくば挫いた足を介抱して差し上げ、彼女がどうしてもというのなら仕方なくながらも、非常に不本意ではあるが、やむを得なく、非常に不本意ながら一緒の部屋に泊まってやらないこともない、非常に不本意ながら。

 念のため言っておくが非常に不本意ながらである。

 それが現実だったらどれほどよかったものか……。現実とは非情である。非情で残念である。

 隣には見目麗しい、俺なんて背景になってしまいそうなほどに存在感が抜群で、多くの女性を引きつけるイケメンクールナイスガイだ。これじゃ、例えこの先で魔物に追われる絶世の美女がいたとしても、それを助けたところで俺なんて一切興味を示されることもないだろう。

 嗚呼、どうしてくれよう、この顔面格差!

「そう言うな。俺とて好き好んでお前を誘ったわけじゃない」

 ふん、と鼻を鳴らし、クロームは言う。こいつのこういう態度が俺は大嫌いなのである。

「好き好んで誘われてるんだとしたら、俺は今すぐ雑貨店に行ってコルク栓買ってきて、自分のケツにぶっ刺すな」

 俺にその趣味はない。未開封ということで、諦めてもらえたらいいんだけど。

「なんだ、それは? 新手のお洒落か?」

「そうそう、夜を女性と共にする時に、あら、ガンマくんってばお尻にコルク栓がしてあるのね? え、飛ばせるの? きゃーすごいわ、一メートルも飛んだわ! 素敵! と女性の心を鷲掴、めるかっつぅの!」

 思わず勢い任せに怒鳴ってしまった俺の大声は静かな森によく響き渡り、頭上の木々に潜んでいた小鳥達が羽ばたいて去っていく音が聞こえた。

 囀りも消え、残るのは沈黙……。

「フォローと言ってはなんだが――俺はお前のおそらく女性らしさを意識したであろう声色に、何とも言えない不快感を抱き、あと三秒お前が続けていた場合、間違いなく斬り伏せていたであろうことを、ここに付け加えておく」

 全く意味のないフォローありがとうございました。

 クロームくんの部屋には後ほどお礼として、人妻寝取り物の官能小説、かっこ、文庫本サイズ、定価三二〇イェン、二六九ページ、かっことじ、をお送りいたします。

 何これ、普通にいらない。しかも描写とか遠回しで美しい表現を使わず、卑猥な言葉などを一部伏せ字にしたような文章の奴を探してきてやる。

 うわ、すごいいたたまれない。女子に見つかって、変なニックネームを付けられればいいのに。

「ガンマよ……」

 眉根を寄せ、クロームは静かに俺の名前を呼ぶ。

「にやけた顔が、どうしようもなく気持ち悪い」

 気持ち悪いとか言うな、キモいより断然傷つく。

「どうせ、またくだらない悪戯でも考えていたのだろう? 全く、つくづく暇だな、お前は」

「別に、いつもくだらねぇことを考えてるわけじゃねぇよ。閃いちまったものはしょうがねぇ!」

 ぐっと親指を突き立てて、出来うる限り爽やかに微笑んでやる。

「なあ、ガンマ、俺は常々思っていたんだが、その首あまり使わないだろう? どうだ? 軽量化のために取ってみないか? 頭は人体で特に重い部位らしい。なくなれば身軽に動けると思うのだが」

「いや、遠慮しておくわ」

「そうか、そういえば、軽くなるほど、お前の頭の中には物が詰まっていなかったな」

 笑いもせずにそんな嫌味を言って、クロームは歩を進める。こいつは嫌味を言うにも、冗談を言うにも、表情が変わらないから分かりづらい。

「あのさ、お前さ、表情筋とかって、普段使ってる?」

「……突然何を言い出すんだ、お前は?」

「いや、マジで」

 こいつはいつも仏頂面で、どんな時でも表情が変わらない。それでは表情筋が凝り固まって、まともに可動できるのかさえ疑問なのである。

 数カ所くらい凝り固まって、新手の皮下装甲となっていても俺は何ら驚かないことであろう。

 クロームはしばし視線を動かし、考え込むような仕草を見せる。いや、考え込むところか、そこ。

「まあ、週に数回は……」

「…………」

 呆れて言葉が出なくなった。このお喋り大好きの俺様から言葉を奪うとか、マジどうかしてる。聞き上手リアクション上手とか結構個人的には思っているんだけど、今回ばかりはリアクションのしようがなかった……。

 むしろこれで週に数回は使えてるのな。そっちの方が逆に意外かもしれない。

 そのくらいの次元で、クロームは常に表情を変えない。

「……お前こそ、その頭いらなくね?」

「……お前に言われると、無性に腹が立つのはどうしてなのだろうか」

 そりゃ俺も同じだ。

 お互い、本当に相性が悪いな。全く。

 なんで俺はこいつと一緒にいるんだか、本当に疑問だ。いっそのことどこかへ消えてしまえばいいのにな。

 ため息くらい、吐くこと赦されてもいいと思う。

 と、そこで俺はある臭いを嗅ぎつけ足を止める。それはクロームも同じだったようだ。すぐさま体勢を低く構え、右手を腰に佩いた剣へとかける。

「来たか」

 低いクロームの声。細い眼を引き絞り、辺りの茂みに視線を巡らせる。

 俺もヒップホルスターからハンドガンを引き抜き、セーフティを外した。

「どこにいる?」

「二時の方向……速い。来るぞっ!」

 俺が声を張り上げた瞬間、茂みの中から銀色の巨影が飛び出した。まさに瞬速。輪郭さえ捉えることのできない速度で俺達の頭上へと躍り出た銀影に、俺は即座に反応し腕を振り上げて引き金を引く。

 同時に響き渡る銃声。しかし捉えきれるはずがなく、銃弾は虚空へとただ昇っていくのみ。

 流星のように駆け抜けた影は太い木の幹を蹴って、跳ねるように俺へと飛び掛かってくる。

 即応し、俺と影の間にクロームが割り込み、抜き打ちの一撃を叩き込む。

 一見すれば細身の簡単に折れてしまいそうな剣であるが、生憎あの剣は特別製だ。そう簡単に折れはしない。

 しかし耳を劈いたのは鉄と鉄をぶつかり合わせる冷たい悲鳴。クロームの一撃をもってしても肉を裂くまでには至らないか。

 追撃を避けるために影は素早く飛び下がり、四肢で地面を滑るようにして自身の速度を殺す。その速さ故にすぐには止まりきれず、細く引き締まった四肢の先は地面を僅かに抉り、轍を作っていた。

 尋常ではない。

 それは白い狼であった。

 全長は三メートル程度。大きさ以外に、普通の狼と大した違いはないものの、牙はより鋭利になり、四肢の爪は本来の物よりも長大だ。

 爛々と輝く金色の目が俺達を睨み細められる。剥き出しの牙からは涎と獰猛な唸りが漏れていた。

 これ、絶対俺達が餌に見えてんだろうな。

「随分とでけぇな……」

「ふん、いい的だ。斬り抜くぞっ!」

 そのサイズに尻込みする俺に反してクロームは好戦的に唇の端を吊り上げ、跳ねるように疾駆して狼へと斬りかかる。

 時を縮めたかのような音速の肉薄。クロームは速度を乗せて獣へと剣を振り抜く。

 初撃は振り上げられた獣の前足の爪に弾かれた。しかし即座に体勢を取り直し、浮き上がった前足の裏側へと剣を振り上げた。

 迸る鮮血。紅い雨が降り注ぎ、クロームの白い体を深紅が穢す。

 噎せるような血の香りに臆することもなく、あいつは笑っていた。

 クロームは矢継ぎ早に飛び上がり、痛みに怯んだ狼の横っ面へと剣を振るう。

 一閃、翻して二閃、さらに剣を振り上げ三閃。狼の頬に三角を刻み、最後の一撃は狼の左眼さえも斬り抜いた。

 さらなる激痛に、狼が悲鳴なような甲高い鳴き声を上げ、大きく仰け反った。

 痛みを逃がすように狼が頭を大きく振るい、顎先が、宙に舞ったクロームへと迫る。

「クロームッ!」

 俺の呼びかけなどなくともクロームだって、そんなことは分かりきっている。それでも反応できるはずがない。反応できたところで、あの状態では何も対処などできるはずもない。

 目を瞠ったクロームは何とか剣を体の前に翳し受け止めるが、無我夢中の動きに力加減などあるはずもなく、クロームの体は簡単に弾き飛ばされてしまう。

 細い体が無骨な木の幹へと叩きつけられた。衝撃の木の幹が撓み、頭上から木の葉がひらりひらりと落ちていく。クロームの口の端からは微かに呻きが漏れる。

 くそっ!

 俺は獣の気を引こうと数発、獣に向かって銃弾を放つ。しかし弾丸は金属のように硬い体毛に阻まれて、一切のダメージを与えることが出来ない。

 白狼も全く意に介さず、クロームへと静かに近付いていく。先程前肢の左脚を斬られたせいか、その動作は緩慢だ。それでもクロームは、背中を随分と強めにぶつけたらしく、未だに起き上がることができないでいる。

 体毛のある場所を狙ったところで効果はなしか。

 なら狙う場所は限られてくるな……。

 獣がクロームとの距離を次第に狭めていく。俺はまだ動かない。動くわけにはいかない。

 無意味に弾を使うわけにはいかない。

 ただ、今は意識を研ぎ澄まされる。瞬間を一瞬を須臾を瞬息を弾指を刹那を見極めるために。

 俺の考えていることが読み取れたのか、クロームはこの事態にありながら、地面に突き立てた剣を支えにして立ち上がろうとしている。

 その双眼は今も真っ向から狼を見据えている。逃げるためではなく、戦い続けるために、あいつは今抗っていた。

 獣が右前肢を浮かせる。木漏れ日を受けて五条の刃が輝いた。瞋恚の炎を宿した獣の眼は、ただクロームだけを見ている。

 ――今だ!

 タイミングを見計らい、俺は地面を蹴って走り出す。狼の前方へと回り込みながら、体毛の生えていない狼の前脚の裏に向けて引き金を二度引く。

 遊底が後退し、空薬夾が排出される。反動が腕にかかり、手の平に手応えを感じた。ただの弾丸程度では当然致命傷は与えられない。それでもこいつを怯ませるのは十分だ。

 分速三六五メートルで駆け抜けた弾丸が、獣の足の裏の剥き出しになった肉を貫く。

 狼が再び甲高い悲鳴をあげる。獣は危険を察して、俺達から引き下がった。

 それだけで十分な時間稼ぎである。

「クローム!」

 名を呼んで、顧みる。クロームは剣を支えに立ち上がり、地面から引き抜いた剣をすでに構え直していた。銀色の細身の剣は月光のような輝きを宿し、クロームの髪は強い風が吹いているわけでもないのに、ふわりと舞い上がっている。

 周囲には光の粒子が蛍のように浮かび上がり、仄かな光を放つ。クロームの周囲を不規則な軌道を描きながら、飛び交う無数の光の群れは、やがて収束し、束ねられていく。

 銀色の髪が翻り、クロームの双眸が狼を射抜くように睥睨し、毅然とした態度で狼と対峙した。剣に寄りかかることもなく、背中の痛みも失せていないはずだというのにその背筋は真っ直ぐで、巍然とした姿は狼よりも巨大なものに感じられた。

「デュランダル――起動……!」

 静かな、それでも内に力強い感情を込めた声と共にクロームは剣を振り上げる。

「過去を複製せよ、未来を再現せよ――因果律を逆行し蘇れ――【旧い剣(アカシックブレイド)】!」

 そうして、澄み渡った空の下に広がる深い森に、幾千幾億もの銀の雨が降り注いだ。

 

 
このエントリーをはてなブックマークに追加
 
 
0
0

コメントの閲覧と書き込みにはログインが必要です。

この作品について報告する

追加するフォルダを選択