No.219775

【加筆修正版】Two-Knights Vol'05 第一章「衰廃の翼」

全8巻で構成される長編ファンタジー小説
"Two-Knights"第5巻の第一章を公開いたします。

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2011-05-31 09:07:58 投稿 / 全4ページ    総閲覧数:618   閲覧ユーザー数:616

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 ──この街は、二ヵ月前に死んだ。

 雑然と荒らされた石畳の道の両脇に立ち並ぶは、焼け崩れ、朽ち果てた家屋の数々。そして、地面に横たわるは多くから成る人間の死骸と白骨。

 放置された死骸を温床として蛆や蠅が湧き、これら腐肉を好餌として多くの鼠が群れる様は、街が街たる機能を全く果たしていない確固たる証。まさに死せる集落の惨状。

 この命なき街──その名はグリフォン・フェザー。

 聖獣グリフォンの翼の力により、清浄なる空を与えられた奇跡の街。かつては人が集い、そこでは豊穣なる生命の芳烈に酷似した生活の営みが育まれていた。

 だが今、その清浄なる空は、死を直感する朽ちた臭気を伴った黒き澱みの如き瘴気によって支配されており、無論、街からは生気の類は一切感じられぬ。

 そんな荒廃の果てにある街に訪れた雲の無き夜。僅かに欠けた月が天空の円屋根を飾り、地上の荒廃を黄金の光にて照らし出していた。

 街中を流れる河、水面は宵闇の暗色に染まり、そこにもう一つの月が輝いたかと思うと、流れに映る金色が二つ、三つと数を増し、遂には十を超えたかに見えた。

 松明を掲げながら、河に架けられた橋の上を駆ける一団であった。これらの正体はグリフォン・フェザーの住人の男達であり、皆、武具を携えていた。武具は粗悪なものばかり、大半は狩猟用として作られた手製の代物である。

 じきに一団は、街の外れにある家屋の前で足を止めた。

 今まさに、目当ての地に立った事を知って、男達は各々の武具を構えた、剣を、手斧を、そして槍を。

 その目に浮かぶ感情は狂気にも似た輝きに満ち、また同時に悲壮な覚悟を抱いた捨身ゆえの無感情さすら窺える。

 彼等の襲撃の理由は、この街が死した理由に直結していた。

 この街の荒廃は、錬金術師によってもたらされた。「一部の」錬金術師とその支援者らによって。

 錬金術とは、発端は化学的手段を用いて卑金属から貴金属に精錬する、その手段を模索することに始まる。

 現在に至っては、金属に限らず様々な物質を練成し、新たな技術を発見・開発をすることによって、生活においての利便性向上を図り、それにより最終的には国に富をもたらす為の術として、人々に受け入れられている技術である。

 事実、これらの品・技術の開発により、世にもたらされた恩恵は大きなものであり、その恩恵の大きさから、錬金術を行使する錬金術師が畏怖と畏敬をもって迎え入れられている地域も存在していた。

 だが数ヶ月前、非合法な人体実験を繰り返し、グリフォン・フェザーの街を恐怖の底へと陥れた果てに、二人の騎士と一人の神官によって捕縛された、ある錬金術師がいた。

 その錬金術師の名は、レーヴェンデ=アンクレッド。

 錬金術の一分野である生体研究の第一人者であり、同時に公爵位を持ち、議会に対して多大なる影響力を持つ有力者の捕縛は、当時、グリフォン・フェザーの街に激震が走った。

 これを発端に民衆らの間に錬金術師を嫌悪する風潮が急速に広まったのは言うまでもない。

 その数週間後、このレーヴェンデを捕縛した三人によって、彼が他の街で犯した罪が暴かれた。

 無論、グリフォン・フェザーの街中に追訴を求める声が広まり、その世論に後押しされるかのようにレーヴェンデに対する追訴の議会が召集され──希代の天才錬金術師は処刑台の露と消えた。

 議会に費やされた時間は、僅か三時間。重罪人と言えど、人の生死を決める議論の場にとって、それは決して十分な時間とは言えぬ。

 識者からも、議会に対する痛切な皮肉や、辛辣な意見・指摘が飛び交う中、一際怒りを見せたのは、レーヴェンデの派閥に属する革新派の貴族達であった。

 その怒りの捌け口として向けられたのは、グリフォン・フェザーの街。おのが配下たる私兵らに暴動を起こすよう指令を下すという暴挙に出たのだ。

 これにより、騎士隊の一小隊にも匹敵するほどの武装集団が暴徒と化した。

 街を守衛するはずの騎士隊も、西方地域での起こった騒乱に対応せよとの勅命のもと、その派兵の為に半数以上の騎士が街を空けており、残った数少ない騎兵のみでは、本来の機能を十分に果たす事が出来ず、王都騎士隊の応援を待たずして、これら暴徒の鎮圧は不可能であった。

 故に鎮圧に至るまで必要以上に時間を要し、その間に街は徹底的に破壊され、残されたのは数少ない生存者と、瓦礫と死体の山のみといった惨状。

 混乱に乗じ、暴動の主犯たる有力議員らは、どこかへ雲隠れをし、生き残った騎士隊の者達も満身創痍の中、首謀者の追跡に躍起となっているという現状において、本来、街と弱者を守るべき騎士達に、この死した街を蘇らせるような余力など、残されてはいなかった。

 故に、このグリフォン・フェザーには「錬金術師の手によって街は殺された」という事実だけが残り、生き残った数少ない住民らの怒り、その矛先は街に住まう錬金術師らに向けられた。こうして、己の狂気に弄ばれたグリフォン・フェザーの住民は、各々の武器を構えて街を駆け、今宵新たな獲物──錬金術師を狩らんとしているのだった。

 だが、それは予想された襲撃であった。

 二ヵ月前に起こった暴動を発端に、このグリフォン・フェザーの民の手による錬金術師狩りが頻発。彼等の手による私的制裁に遭い、何人の錬金術師が傷つき、または命を落としているのだ。

 無論、その事実は錬金術師らの間で伝えられている故に。

 我が身の危険を回避する為、多くの裕福な錬金術師は街を離れ、比較的治安の安定している地域に逃亡を図っているという。

 しかし今宵、暴徒の標的となった錬金術師は、逃亡すら叶わぬ貧しき錬金術師であった。

 

 襲撃者の立ちはだかる家屋の敷地内、その片隅にある納屋の隅で、一人の少女を強く抱きしめながら蹲っている男がいた。

 彼と少女の耳朶を打つのは、多数の人間らから発せられていると思しき怒声と荒々しき足音。

 男は声と足音の主を知っていた。そして、彼らの目的も。

「父さま」

 腕の内の少女は泣いた。

 父と呼ばれた男は、少女を抱く腕に少しだけ力を込める。

「私が何をしたと言うのだ」男は、下唇を強く噛み、恐怖と怒りを必死に押し殺していた。「ただ、錬金術師であるというだけで」

 男の名はクラウス。このグリフォン・フェザーの街に住む薬師。錬金術の知識を活用し、薬草と薬品の調合による新薬を開発し、怪我人や病人の治療を施しては頂く礼金によって生計を立てている。

 薬とは、錬金術師がもたらした賜物。薬草の調合次第で、色々な怪我や病に効果があるといわれている。

 しかし、多くの錬金術師は、王族や有力貴族に囲われ、身分を過剰に保護されている。そんな状況下において、その錬金術師がもたらす恩恵が末端の人々まで行き届いているとは言い難い。

 故に、このグリフォン・フェザーを含む一帯の地域では、怪我や病に見舞われた者は、総じて神殿が運営する施療院に身を寄せるのが常。無論、そこで施される医療の水準は低い。

 だが、このクラウスという男、これら特権階級の者の飼い犬に成り下がる事をよしとせず、この街に診療院を開き、富める者も貧しき者も一切の差別をせず、薬を用いた治療を施してきた。

 いわば、錬金術師の中でも、稀に見る異端児であるとも言えよう。

 錬金術師の中には、彼のように社会の利益の為に知識を活用する者も少なくはない。だが、錬金術師の代名詞と名高きレーヴェンデの非人道的な行いが明るみとなった今、錬金術師全体に対する失墜した評価のみが一人歩きしているのが現状。

 クラウスはそれが悔しくて堪らなかった。

「これが俺に対する──人の為と思い、連日連夜に亘って治療薬の研究と、人々の治療に心血を注いで来た人間に対する仕打ちか」

 薬師の男は泣いた。現実の理不尽さを呪った。

 その時、扉が荒々しく開け放たれ、街の住民と思しき男達が数人、中に入ってきた。

 手には剣や槍、鉈や棍棒など多種多様な凶器が握られている。

「──錬金術師だな」

 先頭に立つ男が、静かに問う。

 一見、平静を装っているようにも見える。だが、その男の眼は血走り、興奮状態のそれであるのは明らか。

 その差異に、クラウスは戦慄を覚え、反射的に懐に仕込んでいた短剣の存在を確かめる。

 数えれば眼前にいる男の数は、十を超えていた。入口を塞がれた今、薬師の男は、まさに袋の鼠。 

 クラウスは死を覚悟した。一度、愛娘を力強く抱きしめる。

「俺が死んだら」そう言い、懐から取り出した短剣を、娘の手にしかと握らせると、立ち上がり、侵入者にして襲撃者たる男達と対峙する。「その短剣で身を守り、逃げるのだ」

 そして、傍らに捨てられてあった木の棒を手に取り、腕が千切れんばかりに棒を振り回しては襲撃者に躍りかかった。

 運良く、初撃が先頭の男の右側頭に当たり、その衝撃で男は床に倒れ、後続の男達が一瞬怯む。

 だが、所詮は多勢に無勢。しかも、クラウスの本職は薬師であり、このような喧嘩や戦いの類に関しては全くの素人である。無論、この程度で優勢になろう謂れはない。

 仲間がやられたことにより、怯んでいた襲撃者であったが、すぐに立ち直り、一斉に反撃を仕掛けた。

 こうなっては、最早クラウスに生きてこの納屋を出る術は残されてはいなかった。

 一人の男によって繰り出された槍の石突きで胸を突かれ、壁に押し付けられると、また別の男が薬師の太腿に剣の刃を埋め込んだ。

 また、別の男が棍棒にて頭や腹を幾度に渡って殴りつけ、そしてまた更に別の男が、手にした鉈で胸を斜めに切り裂く。

 熱き激痛に襲われ、クラウスは堪らず叫び声を上げた。

 痛みに耐えかね、手にした唯一の武器を床に落とす。

 クラウスは、既に戦意を失っていた。己の無力さを心底より呪い、そして、そんな自分に絶望していた。

 最早、彼に抵抗の意思さえ残されていなかった。

 それを自覚するや、足の裏から地面に向かい、全身の力が抜け落ちていくような錯覚を覚える。

 荒波に攫われる小舟の如く、眼前の男らより発せられる筋違いな怒りの奔流に飲み込まれ、今まさに、その命を絶たれようとしていた。

「すまん──」

 納屋の隅で蹲り、涙し、震える娘を一瞥し、涙声で謝る。苦痛の悲鳴を押し殺し、残り僅かとなった己の命──その全てを、愛娘に対する謝罪に費やそうと心に誓った。

「悪しき錬金術師よ、地獄に落ちるといい」

 鉈の男がそう言うと、再びおのれの得物を振り上げた。

 狙うは錬金術師にして薬師の頭部。

 だが、クラウスは鉈の動きを目で追おうとはしなかった。

 その場に座り込み、力なく項垂れては床の一点を呆然と見つめ、ただ只管に、娘に対する謝罪の言葉と、己に対する無力さを呪う言葉を、頭の中で繰り返すのみ。

 数瞬の後、クラウスの視界が紅く染まった。床や衣服に、鮮血と思しき液体が飛沫いた。

 今、頭を叩き割られたのだろうか──?

 一切の痛みは無かった。それが救いだった。

 あとは、すぐに訪れるであろう死の闇に、その身を委ねればいい。

 ──すまん。

 最後に一度だけ、娘に対する謝罪の言葉を呟いて、目を閉じ、死の眠りが訪れる瞬間を待つ。

 だが、幾ら待てども死は訪れぬ。

 全身を濡らす鮮血の温もりが、おのれの生命がまだこの現身の中に存在していることを体感させている。

 恐る恐る、クラウスは上へと視線を運んだ。

 鉈は振り下ろされる事はなく、クラウスの頭上で静止したままであった。

 そして、クラウスが次に視界の中に認めたのは──鉈を振り上げた姿勢のまま、死んでいる男の姿であった。背中を剣によって刺し貫かれ、切っ先が露となった左胸の傷口より大量の血を噴き出して。

 見れば、鉈の男の後ろに控えていた暴漢らも、一人残らず斬り倒されている。

 誰が? いつの間に?

 様々な疑問が、薬師の脳裏をよぎる。

 その疑問に対する答えは、力尽きた鉈の男が、床に崩れ落ちた事によって示された。

 現れたのは、右手に剣を握る一人の若者。全身を血に染めた手負いの男であった。

 左肩と右脇腹に深い傷を負い、だらりと下がった腕を伝い、または腰を経て右足を伝い滴り落ちる血液は、納屋の床に小さな血溜まりをつくっていた。

 壮絶な戦いを経てきたのだろうか?

 彼の全身を纏っている甲冑は朽ち果て、残されたのは右の肩当てと胴鎧、そして右の籠手と左の脛当てのみといった有様。

 血で汚れた胸当てに刻まれているのは、鳥類の翼を模った紋章。

 頭と翼は鷲、胴は獅子の形をした獣──この地方で、聖獣として崇められている、グリフォンの翼を模したもの。

 それは明らかに、このグリフォン・フェザーに駐留し、街を守衛する騎士隊──グリフォン・フェザー騎士隊に所属している者が身に纏う、騎士の鎧であった。

「本来、騎士は──」肩で息をし、時折咳込みながら騎士の男は言った。「民に向かって刃を振るう事は許されてはいない。だが、私とて満身創痍で余力なき身。暴徒と化した貴様達の被害を最小限で食い止めるには──これしか方法がなかった。許せ」

「貴様、騎士──なのか?」クラウスは眼前の男に問うた。「グリフォン・フェザー騎士隊は、二ヵ月前に起こった暴動の首謀者を探す為に、全ての勢力を向けていると聞く。このような街中の小競り合いに干渉出来るほどの人員など、残されていない筈であろう?」

「それは、事実だ」

 暫くの沈黙の後、騎士は答えた。傷が痛むのだろうか、発声の度に騎士の顔は苦悶に満ち、血の滴る剣を杖代わりとして立ちながらも発せられる声は、力無く、か細いものであった。

「大丈夫ですか?」安全を確信したのか、クラウスの娘が騎士のもとへと寄り、心配そうな表情で騎士の顔を見つめる。「すみません。ここには十分な道具も薬もありませんので、十分な治療は出来ないのですが」

「貴方達は薬師か?」

 騎士はクラウスと娘の顔を交互に見ながら、そう尋ねた。

「そうだ。錬金術を用いて、病や怪我の治療薬を調合し、口の糊をしている」

「──それで、暴徒の標的となったのか」

 騎士は納得し、頷いた。そして、まだ動く右手で腰を探り、ベルトより一本の短剣を抜くと、それを傍らに跪くクラウスの娘に手渡した。

 柄の部分に、グリフォン・フェザー騎士隊の紋様が彫刻された凝った造りの品である。

「この短剣を持って王都を目指すのだ。王都には今、西より帰還した『双翼の騎士』と呼ばれる二人の騎士が滞在しているはず。彼らにこの短剣を見せ、このグリフォン・フェザーの惨状を説明するのだ」

「『双翼の騎士』──」

 クラウスは、その名に聞き覚えがあった。

 かつて、この街に駐在する騎士隊──グリフォン・フェザー騎士隊に所属し、数ヶ月前、非合法な人体実験を繰り返し、街を恐怖の底へと陥れた錬金術師レーヴェンデ=アンクレッド公爵を捕縛した二人の若き騎士の尊称である。

 レーヴェンデ=アンクレッドは、錬金術の大いなる一分野である生体研究の第一人者であり、国内に点在する錬金術師らの指導者的な立場にあった。それ故に、このグリフォン・フェザーにおいても他地域の例に漏れず、錬金術師らの殆どが、有力貴族らの直属の配下として囲われ、身分を過剰に保護されていた。

 本来、錬金術とは新たな技術を発見・開発をすることによって、生活においての利便性向上を図り、それにより最終的には国に富をもたらす為の術であり、その恩恵は万人にもたらされねばならぬ。

 そう信じる異端児クラウスにとって、多くの同胞が特権階級の犬と成り下がっているという現状は、大変不愉快極まりない事であった。そんな中で起こったレーヴェンデの失脚は、彼にとって愉快にして痛快な話であり、これで貴族ども飼い犬となり、頭の呆けた連中も目が覚めるだろう──

 かつてはそう思い、クラウスは『双翼の騎士』の功績を、陰で祝福したものである。

 だが、皮肉にもそれが民衆の錬金術師に対する敵愾心に火をつけるという望まぬ結果をもたらし、その結果が具現化した今、クラウスが『双翼の騎士』に抱く感情は極めて複雑なものであった。

「『双翼の騎士』とは、現騎士団長シェティリーゼ卿の一人娘と、その相棒である学者の家に生まれた騎士を差す尊称だ。前人未到の領域に達した剣技と豊かな知識を兼ね備え、様々な難局を乗り越える事によって立てた様々な武勲により、その名を国内に轟かせているという」

 騎士の男は傷の痛みに耐えながら語り出した。だが、その顔はどこか誇らしげのように見えた。

「聞くところによると、『双翼の騎士』はグリフォン・フェザー騎士隊の出身であるそうだ。そんな彼らがこの街の惨状を看過するはずがない。必ずや何か良い対策を施してくれるだろう──」

 そう言い残し、手負いの騎士は錬金術師親子に背を向けると、剣を杖代わりにして己の身体を支えながら、ふらふらとした足取りで出口へと向かって歩き出した。

「騎士様、せめて止血だけでも──」

「すまぬが、私には時間がない」騎士は力強い口調でそう言い、傷の手当を申し出る娘を制した。「この荒廃した街では、貴方達のように暴徒の被害に悩まされている者も多い。故に私は騎士として、彼らを助けねばならない」

「騎士様!」クラウスの娘は、慌てて騎士を呼び止めた。「どうして、私達を助けて下さったのですか? 錬金術師の父と、その娘であるこの私を──」

 かつてのレーヴェンデの事件以降、騎士団と錬金術師達の間に一種の緊張関係が生まれたとも言われている。故にまさかその騎士団の一員が錬金術師を救助するとは、到底考えられなかったからだ。

「簡単だ」騎士は即答した。「制裁を加えたのが誰であろうと、理由や相手がどうであろうと、私は騎士として私刑を見過ごすわけにはいかなかった、それに──」

「それに?」

「私は、一部の錬金術師が如何に非道な行いをしてきたか……それを嫌というほど見聞きしてきた。だが、それを知っているからと言って、全ての錬金術師を同一視するほど愚かでもない──つまりは、そういうことだ」

 そう言い残し、騎士は出口の向こうへと消えた。

 去り際に見せた誇らしげな笑顔が、錬金術師親子にとって堪らない程に悲しく、そして切なかった。

 この荒廃したグリフォン・フェザーを支配しているのは、暴徒と化した民衆による暴力である。今もどこかで血と涙が流れされていることだろう。

 武勇の代名詞として名を馳せている騎士ですら、あのような手負いの憂き目に遭うほどの惨状である。その凄惨さは想像を絶する。

 あの騎士の命も、数日のうちに失われるであろう。

 親子は、知らぬ間に涙を流していた。

「──王都へ、向かう」

 涙で霞む視界の中、クラウスはそう誓った。

 自分と娘を、このような理不尽な目に遭わせた者に対する復讐の誓いでもあった。

 

 <2>

 

 豪華な調度品が整然と立ち並ぶ部屋の中、四人の男女がいた。

 ここは王都グリフォン・ハート。死せる街グリフォン・フェザーより馬車で一日ほど北上した位置に存在する、国内最大の都市にして首都。その南側の一角──高級邸宅街にある一際広大な屋敷。

 国内全ての騎士らを統御する騎士団長・シェティリーゼ卿の邸宅、その敷地内にある建物の一室であった。

 その室内、柔らかく弾力のきいた椅子に深く腰を下ろしているのは赤い髪の若き女。先刻より視線を落としたまま微動だにせず、神妙な面持ちで俯く様は、悲壮な決意めいた意志さえ窺えた。

 そんな彼女と卓を挟み、向かい合うように座するは、黒髪の若き男。困惑に満ちた表情を浮かべ、腕を組み、静かに何かを思案しているようであった。

 エリスとレヴィン──『双翼の騎士』と称される二人の騎士の姿である。

 二人は一様に無口。長く重い沈黙であった。

 室内で、その沈黙を静かに見守る者が二人。

 一人は、エリスの隣に座り、二人の騎士の顔を交互に見つめては、心配そうな視線を投げかける金色の長い髪の女。白と青を基調とした神官衣を身に纏い、首からは巡礼の僧らが好んで身につける略式の聖印が下げられていた。

 そして、もう一人は部屋の壁側に備えられた椅子に静かに腰をかける妙齢の女。

 長く伸ばされた赤い髪を、髪留めを用いて後ろに束ね上げ、身に纏うは、まるで砂漠の国の貴婦人の如き衣装。胸を純白の布で覆い、腰を覆うは腰布のみという薄着。比較的温暖なこの地方で暮らすにしても、やや不向きとも思われた。だが、この薄着は、己が霊術士であるという事を表す印──両の腕と脚、そして腹部に刻まれた刺青を周囲に示すという意味が込められた、言わば伝統的な衣装であるという。

 神官セティと、霊術士リリアであった。

 沈黙の発端は、エリスがレヴィンに騎士団長である父の跡を継いでほしいという思いを伝えた為であった。

 それは二ヵ月ほど前、西の地グリフォン・ブラッドにて彼女の父・騎士団長シェティリーゼ卿が彼に示唆した内容である。

 かつては大陸一の剣士として名を馳せたシェティリーゼ卿も既に齢五十を過ぎ、肉体に発現した衰えは顕著。レヴィンらが西の戦線を離れる時に面会した際も風邪を拗らせる始末。

 後継者の選別は急務であった。そう、新たな指導者である。

 だが、そのグリフォン・ブラッドがソレイアの侵攻に遭い、街の防衛を指揮していたシェティリーゼ卿は、戦いの中で行方不明となり、その生死すら杳として知れず。

 主を失い、そして先の西での騒乱により、急速に勢力と求心力を失いつつある騎士団を立て直すための手立てを打たねばならなかった。

 三ヶ月前、シェティリーゼ卿が派兵部隊を伴って西へと赴く際、側近の者達に対して「自分に万一の事があったら、後の事は娘達に託す」という旨の発言が為されていたという。

『双翼の騎士』として国中に名声と武功を轟かせているレヴィンとエリスに騎士団の後継を望む者は多く、また武勇の象徴として徹底した実力主義を採る騎士団は、その反動か、世襲、またはそれを匂わせる人事を嫌う性質がある。

 故に有力な候補として上げられたのがレヴィンであった。

 シェティリーゼ卿の弟子にして、その型に縛られぬ剣の腕は、同じ男を師に持ち名実ともに剣技の天才と称されるエリスと並ぶ程の実力を誇り、また学者の家に生まれ、幼少の頃より学問に努めたことによって貯えた豊富な知識と明晰な頭脳によって導き出される大局的な見地は、幾多の難局を打破してきた。

 その実力と実績は、騎士団を統べる人間の素養としては、十分にして余りあると評される故の推挙であった。

 だが、当のレヴィンはこの推挙に関し、一貫して慎重な姿勢をとり続けており、また、今日もそれが揺らぐ様子はなかった。

「まだ、亡くなられたと決まったわけではない。まずは騎士団長の捜索を優先するべきだ」

 確証なき事実を根拠に行動を起こすのは得策ではない──それが、彼の主張であった。

 セティは、二人の真剣な口論を初めて見たように思う。日常的な口喧嘩でさえ、大抵は面倒事を嫌うエリスが一方的に話を打ち切る事が殆どであったからだ。

「言いたいことはわかるわ。でも……」応じるエリスの声には、レヴィンに負けぬ程の強固なる意志に満ちていた。「考えたくないけど、父さんはきっと死んでいるわ──これは理屈なんかじゃない。シェティリーゼ家の血が、私にそれを知らせているの」

 それは、彼女なりの確信であった。

 シェティリーゼ家とは、千年前に騎士団創設の礎を築き、その初代総帥に就任したウェイン=シェティリーゼを祖先に持ち、代々に亘って騎士団の長や、国王の近衛兵長など、この国の武を担う優秀な人材を輩出してきた──まさに由緒正しき武の家系。

 即ちエリスの祖先は、この国の長きに亘る歴史の中で勃発した数々の有事に直面し、戦というものの光と影を見続けている家系であるとも言える。

 これら太古の歴史の中で語られる物語も、エリスにとって──いや、エリスの家系・シェティリーゼ家の者にとっては紛れもなき現実に他ならず、その記憶は血脈の中にしかと刻まれ、脈々と受け継がれている。

 歴代の祖先らの中には、政敵や魔物に敗戦の将として捕らえられ、悲惨な末路を辿った者も存在しているのだ。

 その武の血脈としての記憶が、エリスに父の死を直感させている。

「西への派兵の失敗。それに、グリフォン・フェザーで勃発した暴動に対し、騎士隊が何の対応もとれなかったという事が、民衆の失望を呼んでいるわ」

 悲しみに満ちた声であった。リリアは、エリスの声にこれほど悲しみを帯びさせて発せられているのを、初めて聞いた。普段は明るく溌剌とした声で話す女性なのだ。

「その上、今の騎士団は総帥である父さんを──求心力を失い、その勢力は急速に衰えを見せているわ。そんな今だからこそ、新しい求心力が必要なの。それは私だけじゃなく、他の騎士達──主に父さんの側近であった重鎮たちもそれを望んでいる。レヴィンが決起してくれれば、老練な者達が中心となって動かされてきた騎士団も若返り、聖都奪還の失敗により失った民衆の希望を取り戻す契機になるんだと思うわ」

「まだ、その時ではない──それを繰り返し言っているだろう」

 答えるレヴィンの声からも、エリスの負けぬ程の意思が込められていた。

「確かに俺を新たな総帥に据えようという気運が日増しに強くなっているという感はある。だが、俺は騎士団に入団して三年にも満たぬ未熟な騎士だ。騎士団の根幹を支えているとは言い難い。今が非常な事態であるとはいえ、俺を総帥に据えた場合、生涯をかけて騎士団を──この国を守ってきた事を自負する多くの騎士達が黙ってはいない。騎士団は分裂の危険に晒される事は明白。即ち、西での失敗と同じ轍を踏むだけさ」

 西での失敗──それは、西の最果てに位置する宗教都市グリフォン・テイルが、乱心した悪しき尼僧ソレイアによって蹂躙されたことに端を発する。

 高山都市にして教団の総本山であり、また同時に国の民にとって心の拠り所でもある聖都の大事に、事態を重く見た騎士団、教団、及び王都議会の三勢力は西に騎兵を派遣することを決定し、聖都の東──聖都の存在する高山の麓に存在するグリフォン・ブラッド、フラム、グリフォン・リブの三拠点を用いてソレイアに対する包囲網を築くことにより、土地が痩せ、農作物の実りが期待できぬ聖都に圧力をかける事を模索していた。

 だが、ソレイアの狡猾さを見誤ってしまったことにより、三拠点の一つ、フラムの裏切りに気付くのが遅れ、水面下でのソレイアの計略を看過してしまう。また、敵に加担したフラム領主の処遇を巡り、元来一枚岩の団結が為されていなかった派遣部隊内に存在していた亀裂の表面化を誘発し、そして騎士団と教団の名誉失墜を目論んだ革新派議員に操られ、西に送られていたウェムゾン侯爵と、その内縁の妻であり騎士団派兵部隊を指揮していた女騎士ラエルの手によって部隊は分裂。その間隙を突き、ソレイアは、ゴブリン兵団を三拠点の一つであり、比較的手薄となっていたグリフォン・ブラッドを攻略。その際、自ら騎兵を率いてグリフォン・ブラッドの防衛を指揮していた騎士団長・シェティリーゼ卿は行方不明となる。

 これにより事実上、騎士団らが計画していた包囲網計画は頓挫、ソレイアに攻略を許すという最悪の結果を残してしまうだけではなく、フラムとグリフォン・リブの守衛を余儀なくされた司教ウェズバルドが指揮する神官戦士団・約千騎ほどが西で孤立してしまったのだ。

 そんな状況を打破すべく、レヴィンら四人は西での派兵部隊より離れて一時東へと帰還し、分裂・疲弊した部隊を立て直すべく、王都へ救援を要請するという使命を授かっていた。

 だが、東でも錬金術師レーヴェンデが処刑された事に対し、不満を持つ革新派議員の一部とその配下である私兵団による暴動が発生。グリフォン・フェザーの街が一夜にして徹底的に破壊され、現在は廃墟に等しき状態にあり、東の主要都市の惨状を前に、貴重な騎兵を割く訳にはいかぬという現状のなか、議会の場においてレヴィンとエリスは、先の派兵失敗の真相を公表することにより、孤立した神官戦士団に対する援軍の追加派兵に猛反発する革新派議員に対し、徹底抗戦の構えをとった。

『双翼の騎士』の名声と民衆からの圧倒的な人気を後ろ盾に持つ者に、思わぬ醜聞の種を掴まされたとあっては、流石の老練の弁士も押し黙る他なく、結果、八千騎ほどの一師団の派遣を可決させる事に成功させた。

 それが一月程前の事である。

 しかし、その半月後、既に西の地に到達している筈の師団より早馬が送られた。

 使者の報によると、師団は大陸中央部にある都市グリフォン・クラヴィスで原因不明の足止めを食らっているという。

 理由は明白。八千にも及ぶ一師団に対し、一時なれど街が寝食を提供するという事にある。

 今は有事であり、街は国防の為に赴く騎士団に対し、これらを無償で提供せねばならぬと法に定められてあるからだ。

 無論、その際に発生する街への経済的打撃は計り知れぬ。それを領主らが厭う故であろう。

「今、騎士団が成すべき事は、新たな人事編成などではない。グリフォン・クラヴィスで足止めを食らっている師団を支援し、西で孤立している司教様を助ける事。そして、行方不明となったシェティリーゼ卿を捜索し、その果てにソレイアを打倒し、聖都を取り戻す事だ」

 全てはその後だ。そう、最後に言い添えた。

「それはそうだけど……じゃあ、聖都を取り戻すまで、騎士団は誰がまとめるというの?」痺れを切らし、エリスは机を荒く叩いた。「今、代行の副団長をはじめ騎士団の重鎮らは、みな御歳を召されていて、戦場に立てる状態ではないのよ? それとも『聖都を取り戻す』という大義名分だけを旗印に騎士団を牽引出来るとでも思っているの?」

 まるで机上の空論じゃない──そう、エリスは言い捨てた。

「そうとは思わん。だが、今ここで総帥を選抜せんと動き出すと、騎士団内は荒れ、混乱は必至。無論、混乱に乗じソレイアが仕掛けてくるに違いない。それに一度失敗し、民衆の心が離れかけている今、組織内部の揉め事に興じる時間的猶予があるとも思えん」

 激しい剣幕の相棒に対し、レヴィンの表情は冷静にして口調は淡々としていた。

 決して、エリスを軽くあしらっている訳ではない。彼女が不器用ながらも真剣に意見を述べているからこそ、彼は真正面より受け止め、議論を戦わせているのだ。

 それは、巷で交わされているような議論とは名ばかりの醜い口喧嘩の類ではなく、そこには明らかに相手に対する敬意が垣間見えた。

「そのような危険を冒すくらいなら、情勢が安定するまで総帥の椅子を一時空席にしておいたほうがいいと考えているだけだ。それに戦の総大将が、常に前線に立って戦う必要はない。前線は俺達のような若い人材に任せ、老齢の騎士は後方から指令に徹すればいい。経験によって培われた明晰な頭脳というものは、そういう環境下でこそ真価を発揮するものだからな」

「でも、やはり隊の指導者たる者、前線に立って戦うべきだと思うわ。隊の士気に関わるもの……」

「士気?」

「ええ。かつて父さんは戦いの度に、そうやって部下を鼓舞しては勝ち続けて来たのよ」

「──俺は、シェティリーゼ卿のようにはなれない」

「なってもらわなければ困るわ。騎士としての名誉──騎士団の根幹を支えているのは、何よりも民衆からの支持と信頼があってこそ。でも、暴動が起こり、その肝心な信頼が揺らぎつつある今──」

 不意に、エリスの言葉が止まった。

 その突然の出来事に、セティとリリアが動揺する。だが、目配せするセティは気付いた。何故に女騎士が言葉を止めたのか、を。

 エリスの言葉を止めたのは、笑み。

 不意に浮かべたレヴィンの──曰くありげな笑みであった。

「そう。グリフォン・フェザーで起こった暴動──」レヴィンは唐突な言葉を発した。「俺は、あの暴動が偶発的に発生したものとは考えていない」

「──え?」

「西で起こった、一連の事を思い出して欲しい」エリスとセティの視線、そしてリリアの聴覚が自分に向けられたと認識し、レヴィンはそう前置きする。

 そして、続けた。

「あの時、我々派兵部隊は様々な問題を抱えてはいたものの、ある時点までは一定の団結が保たれていたはずなんだ」

「ある時点──とは、グリフォン・フェザーで暴動が発生したという知らせが入った時、ですね」

 リリアが問うた。無論、それは確認の為の問い。

 レヴィンは頷き、更に続けた。

「その時点まで、騎士団の主たるシェティリーゼ卿の意向は徹頭徹尾ソレイアの打倒と定めており、配下の騎士達も──内心、不満を抱いていたとはいえ──従っていた。だが、暴動が発生したことにより、今まで首尾が一貫していた団長の意志が始めて『ぶれ』た」

 その言葉にセティが息を飲んだ。そして黙したまま、言葉の続きを待つ。

「その時、様々な情報が錯綜して混乱に陥った騎士達は、同時に意志の定まらぬ騎士団の主に痺れを切らし、日々募らせていた不満が遂に噴出しつつあったのだろう。そんな事実を知らず、団長は──事態の収拾をラエル先輩に委ねてしまった」

 そう、後に騎士団を裏切り、革新派に操られた侯爵と手を組み、また自分も操られている事を明かす事となるラエルに。

 この荒れた派兵部隊の内情こそ、ラエルの策略を成功させるには十分にして余りある要素であったのだろう。そして事実、ラエルの扇動は成功。二千騎ほどの騎兵が離反し、派兵部隊に壊滅的な打撃を与えたのだ。

「──余りにも、よく出来た筋書きだとは思わないか?」

 事の経緯を咀嚼し戸惑いを覚えるエリスらに、レヴィンは聡明な問いを発した。

 何故、今まさにソレイアとの戦いに臨まんとする時に?

 何故、騎士団からの派遣された者の大半が、裏切り者ラエルが所属するグリフォン・フェザー騎士隊より送られたのか?

 何故、それにより手薄となったグリフォン・フェザーにて、暴動が発生したのか?

 そして、これらの騒乱によって一番得をする人間とは?

 レヴィンの言葉──その真意に気付き、聴衆たる三人は慄然とし、震えた。

「俺はグリフォン・フェザーを調べるつもりだ」レヴィンは、震える女達に告げた。「グリフォン・フェザーで起こった暴動が、ソレイアの手によって作為的に起こされたものである証拠を探すために」

 万一、その事実が明らかとなれば、暴動に怒る民衆の決起を促すには十分な効果をもたらし、同時に各地に点在していると思われるソレイア側に与する貴族や豪族らに対する牽制ともなり得る。

 無論、打倒ソレイアを掲げる騎士団にとって絶大な追い風となるのは言うまでもない。

「でも、どうやって探すのですか?」壁際で、今までのやり取りを聞き届けてきた霊術士が問うた。「荒廃した街から、そのようなものが見つかるとは、到底──」

「あの街に、生存者がいる限り可能性はあると思っている」

 彼の確信めいた自信は揺るがない。

 次いでレヴィンは、その根拠を述べた。

「あのソレイアが、なかなか派手に布石を打ってくれたからな……」暗い声で呟いた。「……暴動への直接の引き金となった──俺とエリスの名を勝手に騙り、作り上げた『詩』がな」

「──!」

 エリスが絶句する。

 その詩の名は──『瞳の街の悲劇』。

 錬金術の魔力に狂ったグリフォン・アイ領主と、その妻──術の犠牲となりつつも生き延び、夫が正気になる日を待ち続ける中で狂い、やがて『双翼の騎士』と呼ばれる英雄の刃にかかり、非業の死を遂げた女の──実話を題材とした詩。

 三ヵ月ほど前に東方地域に現れたとされる謎の吟遊詩人によって奏でられたそれは、人々より高い評価を得て、瞬く間に流行となったのだという。

 流行となった要因は明白。

 その詩に登場する『双翼の騎士』こそ、東方地域の主要都市たるグリフォン・フェザー騎士隊に所属していた、レヴィンとエリスであったからだ。

 その詩が、地元を愛する平民らの感情を昂らせ、流行へと発展していったのは容易に想像できる。

 だが、『瞳の街の悲劇』がもたらした流行は、やがて社会現象と称すべき事態へと発展し、その内容ゆえに人々の錬金術師に対する敵愾心を大いに煽り、やがて議会をも動かし、錬金術師レーヴェンデを処刑へと至らせた契機となった。

 それを不服とした一部の貴族らが怒り狂った事により、グリフォン・フェザーは暴動の炎に包まれるという皮肉な結果を生んだのだ。

「あの詩の秘密を暴く。ソレイアによってもたらされた、悪意の英雄譚を」

 レヴィンは憎々しげに奥歯を噛んだ。

 そして、彼は最後に付け加えた。

 ──その鍵は、セティとリリアが握る、と。

「え?」

 名指しされた二人が素っ頓狂な声を上げた。無論、彼の意図は皆目見当がつかない。

 だが、彼の知性が導き出した確信を、信じようと心に決めた。

 そう、現段階では、可能性の話に過ぎない。だが、調べてみる価値は十二分にあるようにも思えた。

「──札遊びにおいて、それが如何なる策士であっても、自らの計画の内に切り捨てた札には、なかなか興味を示さないもの。その捨て札の山に、勝利の札が存在しているのならば──それを人知れず拾い上げ、利用すればいい」

 賢者たる騎士は呟いた。

「無論、札遊びにおいては、その行為は反則だ。しかし、これはソレイアとの戦であり札遊びではない──だが『自らの計画の内に切り捨てた札に興味を示さぬ』という心理に関しては、不思議な事に共通している」

 ──その虚をつく。策を弄し、非人道的な方法をもって聖都を蹂躙し、君主を僭称するまでに至った希代の悪女の、たった一つの虚を。

 敵の手より放たれた捨て札の山より逆転の札を探し、我が物にする。まさに如何様じみた発想であった。だが、如何様とは相手の虚を突いて行わねば成功し得ぬもの。

 それは敵にとって全くの想定外なる領域からの攻撃であるとも言えよう。

 あのソレイアを──聖都で、西の三拠点で苦汁を飲まされ続けたあの女の鼻を明かす事が出来る。

 反撃の狼煙をあげるには、これほど絶好にして爽快な方法はない。

 色々な思いが交錯したような表情を暫く浮かべた後、エリスは意を決し、頷いた。

「行こう。グリフォン・フェザーへ」

 そして、彼女を遠い目をする。正面に座るレヴィンの顔を眺めて。いや、正しくはエリスから見て真正面、グリフォン・フェザーの街が存在する方角を見やっていた。何を考えているのだろう、とセティはその表情を読み取ろうと、顔を覗き込む。

 その穏やかな様子を、視覚を除いた幾つかの感覚にて感じ取ったリリアは、部屋の壁際で静かに微笑んだ。

 可憐な純白の花が、静かに咲き開くかのように。

 

 <3>

 

 クラウス親子は、吹きすさぶ強風の中を歩いていた。

 この地方では、珍しい荒れた天候であった。

 今は乾季の只中にあり、乾ききった土砂は風によって巻き上げられて砂塵と化していた。それは暴徒によって痛めつけられ、碌な手当ても出来ぬクラウスの創傷を刻々と悪化させ、また、そんな父を引き擦る十三の娘にとっても過酷な行軍であった。しかし、生存への意志は一時たりとも萎える事なく、徘徊する魔物と遭遇すれば、娘は父より手渡された短剣を、またクラウスは騎士より譲り受けた短剣を手に、傷口に激痛が走るのを無視し、或いは困憊する肉体に鞭打ち、ただ愛する父を、愛する娘を守るため、親子は人の限界を超えた強さを発揮した。

 昼は吹き荒れる向かい風に悩まされ、また夜は魔物の襲撃に苦しめられた。故に昼夜通しての前進を余儀なくされ、夕刻となり、一時的に吹き荒れる風が弱くなり、魔物どもがまだ寝惚け眼な一刻に限り、束の間の休息をとる。

 そして、死せる街からの逃走より数えて三度目の夜、親子は揃って王都の地を踏んだ。

 宿屋はすぐに見つかった。

 主人は立派な髭を蓄えた老人で、暴徒に襲われたという事情を知るとひどく憐れみ、親子が金目のものを持たぬにも関わらず、無料で泊まる場所を提供してくれた。

「だが、離れの小屋に過ぎぬ。あいにく今晩は全ての部屋が客で埋まっている故。それでも寒さや雨風をしのぐには十分であるし、寝床は貴方達の疲れた体を休め、明日への活力を与えてくれよう」

 そう言って、主人は親子を離れの小屋に案内し、更に宿の住み込みである小姓に施しの食事を運ばせた。話を聞きつけた宿泊者のうち、心得のある者が親子の怪我を検分し、傷口の洗浄や血止めといった適正な応急処置を施した。また、身銭を切って少額ながらも心のこもった施しを与える者まで現れた。

 この宿は、神殿によって運営されている巡礼者向けの安宿であった。主人も敬虔な僧であり、常日頃より旅の巡礼者と接し、彼自身も今の荒れた世相に心を痛めていたという事情も手伝ってか、旅人や異邦人、そして現在、迫害の憂き目に遭いながらも逃れる術のなき貧しき錬金術師の類には極めて慈悲深くあったのだ。

 親子は礼の言葉を述べ、深々と何度も何度も頭を下げた。

「礼などいらん。それよりも養生を第一と考えることですな。見たところ、娘さんは多感な年頃と見える。暴漢に襲われた事によって受けた心の傷はなんと深き事か──それを乗り越えられるよう導いてあげる事が、親たる貴方に与えられた役目であるのですからな」

 主人はそう言って、立ち去った。

 二人は施しの食事をとった、量こそ僅かであったが、料理は宿泊客に出される晩餐と同じ品で、二日間を何も口にせず過ごした身にとって最上の馳走。更に親切にも温め直されており、神の信徒たる者達の好意と慈悲に、親子は再び胸を打たれた。

 錬金術師は、その性質上、学徒の多くは無神論者であり、神殿勢力に属する者はおろか、主人のような善僧とですら接触を拒む者が多い。

 クラウスも表立って反抗的な態度を取る事などなかったものの、胸中では僧と呼ばれる者に対して胡散臭さを感じていたのは事実。だが、彼は今この瞬間をもって己の狭量を自覚し、偏見を修正した。

 食事が済むと寝床を作り、娘と寄り添って横になった。すると人心地ついたのか、あの過酷な道程の緊張が緩み、幼い娘は堪らず父の胸元に顔を埋め、咽び泣いた。

「この都で、戦いを始めねばならん」

 涙する娘の頭を優しく撫で、父は言った。

「まだ、本当の敵が誰かはわからない。だが、平和であった世を荒らし、私のような錬金術師の地位と名誉を地の底に叩き落とした張本人が絶対にいるはず。俺は、その者に復讐を果たさねばならない。お前をこんな目に遭わせた者に。そして万人の為を思う、志ある錬金術師が我々と同じ目に遭う事のない──そんな世の中にせねばならない」

 すると娘は涙を止め、「はい」と気丈に答えた。また、今後とも父を手助けし、知識を身につけ、父の尊い意志を継ぐ錬金術師になる事を誓った。そうして、二日間の疲労がもたらす泥のような深い眠りに落ちていった。

 父もすぐに後に続いた。

 

 しかし、運命とは限りなく非情にして残酷であった。

 もしも、小屋を見張る者がいたのなら、見たであろう。日の出の二刻ほど前、夜の闇に乗じて宿屋の敷地に侵入し、小屋に忍び寄る一団を。

 その先頭は若き男。日がな一日、街の端グリフォン・フェザー側に開かれた関門を見続け、来訪者を監視していた者であった。彼もまた、死せる街グリフォン・フェザーの住人と同様、日々高まる錬金術師に対する風潮に煽られ、己の見識を偏らせ、事もあろうか、それを正義と置き換えてしまった救えぬ愚か者。

 錬金術師に対する粛清が多発するグリフォン・フェザーより流れてくる者は全て、難を逃れた錬金術師、または錬金術師に肩入れする者であると狂信し、虎視淡々と己の狂気を充足させる為の捌け口、獲物を待ち続けていた。

 そして、遂に獲物は現れた。父と娘と思しき、二人組の男女。

 見たところ、男は手負いであった。

 魔物によって手傷を負わされたのだろうか?

 ──いや、違う。

 男の胸にしかと刻まれた、刃による傷と、殴打されたものと思しき顔面に出来た痣を視認し、狂信者たる若き男は、そう直感した。

 この辺りに生息している魔物は、ゴブリンやコボルトといった小型のものが殆どであり、この魔物どもが人間を襲う際、まず両脚を幾度となく徹底的に傷めつけ、倒れたところを仕留めるのが常。

 だが、眼前の男の足に刻まれた傷は、右足の一刺しのみ。

 これら創傷を見て、魔物に襲われた傷にしては奇妙であり、人の手によってつけられた傷──即ち、グリフォン・フェザーで猛威を振るう粛清の手より逃れた動かぬ証拠であると考えるのが自然。

 そう、男は判断した。

 後をつけ、親子が近くの安宿に身を寄せ、主人に何かを説明した後、離れの小屋に案内されたのを見て、男は己の判断が正しい事を直感した。

 何故、普通の部屋に案内されずに、あのような粗末な小屋に通されたのか。それは全て、あの親子が錬金術師であると仮定すれば、全てに合点がゆく。

 追手の存在に怯える故に、事情を主人に説明し、体を休めると同時に匿う場所の提供を依頼したのだろう。

 男は、この考え至った結論に対する十分な検証を行わぬまま、隠れ家へと戻り、そこで居を共にする同じく愚かな思想を抱く仲間に密告した。

 こうして襲撃は計画されたのである。

 宿屋は神殿直営の巡礼者向きの安宿であるという性質上、夜盗の標的になり難く、故に夜間の警備は皆無であった。

 さすがは街の住民。その事情を知りつくし、仲間を率いた多人数にも関わらず、人知れず小屋の前まで辿り着いた。後ろに従えたのは同じく襲撃を計画した者ども。首尾よく事は運んだと、顔を見合わせて不敵に笑い、早速獲物を仕留めんと、小屋へ襲撃を開始した。

 もしも、小屋を見張る者がいたのなら、聞いたであろう。たちまち小屋の中より湧きあがった叫喚。剣戟の響きと喚き交わす絶叫と絶叫、そして少女の悲鳴を。その悲鳴に続いた、狂気を帯びた男の叫びを。

 そして、見たであろう。襲撃より一刻が経っても、誰一人として生きて小屋を出てくる者がいなかった事を。

 明け方、ようやく東の空が白みはじめた頃、夢現の中で聞いた物音に不審を覚え、床より這い出た宿屋の主人が小姓を従え、調べにやってきた。入口より小屋の中を覗き込み、彼らの両眼に映った凄惨なる光景に、二人揃って悲鳴をあげた。

 

 <4>

 

 神殿の朝は早い。

 神は魂の創造者。即ち、魔物を除いた全ての生命は、神の手によって作り出されていると説く故に。

 太陽とは、その生命の根幹を担う至高なる産物にして、魔物どもが怖れ慄く神の威光を具現化したものであり、信者たちは皆、神聖なる輝きが天空を照らすのを静かに待ち、その訪れを祝うとともに一日の平和と安寧を願い、祈りを捧げる為である。

 セティは、東の空に曙光が差し込む前に目覚め、沐浴して身滌を済ませた後、聖なる静寂が支配する礼拝堂に赴き、神像の前に片膝を付き、頭を垂れ、祈りを捧げていた。

 それは、神殿に身を置く聖職者達が毎朝欠かさず行う祈りの儀である。

 グリフォン・ハート王城に隣接する大聖堂──その礼拝堂の壮麗さは、かつての聖都グリフォン・テイル大聖堂にも勝るとも劣らぬほど。彫刻群に囲まれたそこはまさに神の御園と称すべき荘厳なる空間を成していた。

 この森厳なる礼拝堂にて、敬虔な神官であるセティは、ただ一人長い祈りを捧げていた。

 祈ることは、心を落ち着かせる精神修養の一環を兼ねており、戦士として素養を養うという意味も含まれていた。

 瞑想する中で彼女の心は天、または地との一体化に限りなく近き境地へと達していた。

 それは名立たる高僧であっても、至るのは困難と言われている境地。

 彼女は一人、穏やかでありながらも、一種の緊張感に満ちた時間を幾刻か過ごした後、静かに目を開き、祈りを終えた。

 そして、深く一呼吸する。

 神との対話を終えた彼女の瞳は虚心に澄んでいた。喩えるならば、心の汚穢を残らず洗い流された聖者の眼。

「──行って参ります」

 神像を見上げ、神官はそう小さく呟く。

 その時、鐘楼より夜明けの刻を伝える鐘が、暖かな音色を奏でた。.

 礼拝堂から出たセティを、既に旅装束を纏い、出立の準備を終えた三人の仲間が出迎えた。

「別れの挨拶は終わったか?」

「別れではありません」セティはそう言い、エリスから受け取った旅用のガウンを羽織り、荷袋を肩に掛けた。「神は、常に天上の御園にて、我々を照覧されておりますから」

「なるほど」レヴィンは苦笑し、神官の敬虔さに心底感服する。「これは愚問だったな」

 この篤き信仰こそが彼女の意志、強さの根底を支えているのだ。

 その強さがなければ、一国の主たるソレイアを出し抜かんと考えるレヴィンらと肩を並べて戦う事など出来ぬ。

 レヴィンらに仲間として迎え入れられた事──それは、セティの強さと確固たる意志に対する仲間からの最大級の賛辞であった。

「さぁ、行こう!」

 エリスが、セティの背中を叩いた。この二人を先頭に、その後ろにはリリアの手を取ったレヴィンが続いた。

 こうして、四人は神聖の空間を後にし、礼拝所から出て、神殿の出口に至る回廊を歩く。

 リリアの手を引きながら歩くレヴィンは、神殿の敷地内を眺め遣った。壮麗な彫刻群に取り囲まれた神の御園を支配するは、透明感に満ちた空気。外界のそれとは異質の純度によって満たされているようであった。

 神殿の出口には小僧が控えていた。何者かが現れるのを待っているかのようでありながらも、時には何かに怯えるかの震え、またある時には、そわそわしく辺りを右往左往している様は、余りにも異様。

「貴方は──」セティは、この小僧に見覚えがあった。この神殿が運営する巡礼者向けの宿で小姓を務める少年であった。「どうしたのです? こんな朝早く」

「セティ様、皆様」小僧の声は震えていた。「早く、神殿長様に報告を──」

 その声の調子に、四人は表情を固くした。

「宿で何があったのです?」

「小屋で殺傷沙汰が──」

「──なんですって?」

 一瞬の逡巡の後に発せられた驚くべき内容に、四人は一瞬にして青褪めた。

 全視線が、旅の統率者であるレヴィンに集まる。

「すぐに行こう」

 騎士は即答し、駆けだした。小僧には神殿長と騎士団に報告した後、追って来るよう言い残して。

 

 小僧より知らせを受けたレヴィンらは、宿屋を訪れるや否や、主人に案内させ、自ら先に立って小屋の中へと足を踏み入れた。

 そこは、まさしく修羅場の跡であった。息ある者は皆無、血に濡れておらぬ屍もまた皆無であった。首と胴、腕と肩、脚と腰の切り離された死体も多数。侵入者のみならず、小屋にいた親子が倒れていた。娘と思しき少女は逃げようとしたところを背後から襲われ、父親と思しき男は、地面に広がる血溜まりにうつ伏せに沈んでいた。

 セティは吐気を堪え、惨状に嘆息する。

「なんという有様。どこもかしこも血の海ではないですか」

 宿の主人がこれに答えた。

「この親子は、グリフォン・フェザーの街で細々と薬師を営んでいる錬金術師であると聞きました。昨今、かの街に蔓延する『錬金術師狩り』に襲われ、這う這うの体で逃げ出してきたとか。恐らく、侵入者もまた同様の思想を抱いた地下集団によるものかと思われます」

 エリスは歯軋りをした。倒れた男に歩み寄り、その右手に握られた剣を目にする。

 あまりにも粗雑な剣であった。刃は半ばより折れて、断たれた先端はどこかに失われていた。

「彼もまた、私達の戦いの犠牲者なのかも知れない──」

 そう言い、項垂れた。

 今まさに、騎士団が目指しているのは、多数の錬金術師と魔物を配下に抱え、様々な非合法な実験を行わせては私腹を肥やし、また軍事力の増強に成功させたソレイアの打倒である。

 騎士とて、全ての錬金術師を否定している訳ではない。百年以上前まで錬金術師を弾圧していた教団とて、今では社会に害をなさぬ限り、錬金術の行使や研究を容認している。

 だが、その姿勢とは裏腹、世論の大多数はこれを騎士団と教団勢力の連合と、錬金術師らの間の抗争と置き換えて評価し、論じられているのが現状。

 その偏った世論が、主にグリフォン・フェザーを中心に蔓延している『錬金術師狩り』を誘発させ、また、それによって荒れた街から逃れ、難民が多く流れているというこの王都においても、このような錬金術師を狙った凶悪な事件を発生させる引金となっているのだろう。

 四人にとって、眼前の現実が余りにも悲しかった。

「……こんな理不尽な理由で命を落としたというの」

 と、それまで見えていなかった光、明けの薄闇に消されていた光が、不意にエリスの目に届いた。その出所といえば、紛れもなく倒れた男の左手の中で輝く短剣の刀身であった。

 真新しい短剣であった。

 柄の部分に、グリフォン・フェザー騎士隊の紋様が彫刻された凝った造りの品である。

 それを視認した瞬間、エリスの目が驚きの為に見開かれた。

「これは──騎士の短剣」

 騎士は自分の所有する武具に、所属する騎士隊の紋様を彫刻することを好む。それは、己が誉ある騎士団の一員であるという事を誇ると同時に、国の為、民の為に剣を振るう騎士が、その圧倒的な権威と武力を私利私欲の為に濫用せぬよう、戒めの意味を込めるからである。

 そのような意匠の短剣を、何故錬金術師が持っているのか?

 事の次第に気付いたレヴィンも倒れた男のもとに歩み寄り、手より短剣を引き剥がすため、既に冷たくなっている筈のそれに触れた。

 その時、今度はレヴィンの目が驚きの為に見開かれた。

「──生きている」

 レヴィンの手に伝わってきたのは、確かなる人の温もり。それは温かい血の流れる生者の感触に他ならなかった。

 彼はエリスと共に、男の体をそっと仰向けに転がすと、微かに胸が上下しているのが視認出来た。

 己からの流血と、侵入者の返り血に汚れた身体には、無数の刀傷で痛めつけられていたものの、男はその命を繋ぎ止めんと、必死に呼吸を行っていた。

 地獄と称すべき惨状の中、たった一人であっても生存者が──しかも被害者側に存在していたという事実に、一同は胸を撫で下ろした。

 セティは、その生への執念に心を貫かれ、周囲にこう告げた。

「施療院に運び込み、即刻手当てを施さねばなりません。そして少女の亡骸は、後日、私の名において貴人として丁重に弔います」


 
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