No.219759

 真・恋姫†無双 萌将伝 甘寧列伝 ほんとのキスをお返しに

YTAさん

 どうも皆さま、YTA(わいた)と申します。
普段は、『真・恋姫†無双異聞 皇龍剣風譚』と言う、特撮風味の連載物を書かせて頂いております。
 今回は祭りと言う事で、去年の公式企画に参加出来なかった鬱憤を晴らすべく、参加させて頂きました。
 ちなみに、この作品では、一刀と蓮華の子である孫登ちゃんは、まだ産まれていない事にさせて頂きました。
 萌将伝では居る事になっているものの、その扱いたるや、テキストに一度出て来ただけ、イベントどころか立ち絵すらなく、これでは、一刀と蓮華が、産むだけ産んでほったらかしのダメ親状態なので、ストーリーとして触れにくい為です。その旨、御理解下さい。

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2011-05-31 04:09:59 投稿 / 全20ページ    総閲覧数:14103   閲覧ユーザー数:11756

                           真・恋姫†無双 萌将伝

 

                          甘寧列伝 ほんとのキスをお返しに

 

 

 

 

 

 

 孫呉の王、孫権こと蓮華は、いつもの様に隣に寄り添っている側近であり、無二の盟友、甘寧こと思春を、そっと横目で見遣った。今日は、三国同盟の盟主であり、彼女の(そして恐らく、思春にとっても)想い人である北郷一刀を見習って、気晴らしを兼ねた警邏に赴いている最中なのである。

 しかし、目下の所、蓮華の目的は気晴らしでは無く、彼女の隣で青い顔をして脂汗を掻いている“護衛役の監視”と言う、奇妙な事になっていた。

 

「ねぇ、思春。やっぱり何処かで休んだ方が良いわ。酷い顔色だし、それに汗も……」

 蓮華はそう言うと、主としてではなく友として、思春の二の腕をそっと掴んだ。蓮華の心配も、無理からぬ話だった。季節は初夏を迎え、陽射しはまだ“暖かい”と言う言葉の範疇に収まってはいたものの、それでも何時“暑い”の側に寝返ってもおかしくない程には強かったし、何より、普段、感情を顔に出さないこの友人が、唇を噛み締めながら脂汗を垂らしている様子は、蓮華に言い知れぬ不安を催させるには十分であった。

 

 しかし、そんな蓮華の忠告を受けても、思春は尚も首を縦に振ろうとはしない。

「いいえ、蓮華様。どうかお気遣いなく……ここ最近、どうにも食欲がありませんでしたので、少し頭が痛いだけです。情けない話ですが、大方、暑気当たりの類で―――!すみません!!」

 思春は、誰も信じはしないであろう苦しい言い訳を最後まで口にする前に、蓮華を押し退ける様にして、民家の隙間に出来た細い裏路地に駆け込んだ。

 

「思春!!?」

 蓮華は、“思春が自分を押し退けた”と言うその一事で、思春の身体の異変が尋常なものでない事を悟り、彼女を追って、慌てて裏路地に入った。

 思春は、路地に入ってすぐの場所で、民家の壁に向かって蹲っていた。後ろからでも、その肩が激しく上下しているのが分かる。

 

 

「思春、大丈夫なの……あっ!?」

 思春の肩越しに顔を覗き込んだ蓮華は、一瞬、言葉を失った。何故なら、鈴の甘寧と謳われ、自分が最も頼みとする友人が、服の裾を吐しゃ物に汚しながら、その切れ長の凛々しい目に涙を溜めて、弱々しく息をしていたからだ。

「いけません、蓮華様……お召物が……汚れてしまいます……私は、大丈夫ですから……どうか……」

「莫迦を言わないで!どう見たって大丈夫な訳ないでしょう!!」

 

 蓮華は、我に返って思春を叱りつけると、彼女の肩を抱く様に身を寄せて、大きく上下する背中を優しく摩った。

「蓮華様、いけません。汚らわしゅうございます。本当に―――」

「思春。それ以上言うと、本当に怒るわよ……ね?」

 蓮華は、背中を摩る優しい手の動きはそのままに、有無を言わさぬ口調で思春を諫めた。思春は、小さく「恐れ入ります」と呟くと、漸く蓮華に身を任せ、暫く荒い呼吸を繰り返していた。

 蓮華は、そんな思春を抱き締めながら、華佗の診療所がこの近くだった事を思い出し、例え思春がどれほど渋ろうとも、彼女をそこに連れて行く決意を固めていた―――。

 

 

 

 

 

 

「ふむ……大凡(おおよそ)、三ヶ月と言った所だな」

 蓮華と思春は、華佗のその言葉を、ただ目を皿の様にして黙って聴いていた―――そして。

「「えぇぇぇぇぇぇ!!?」」

 数瞬の後、簡素な作りの診療所が軋みを上げる程の大音量の叫び声を上げたのだった。

 

「はぁ……まったく。まだ耳がキーンとしてるぞ……」

 華佗が、二人が座っている応接用の長椅子の向かいに腰を下ろしながらそう言うと、未だ硬直の解けていない思春に代わって、華佗に尋ねた。

「ごめんなさい。あまりに驚いてしまったものだから―――それで華佗……間違いないの?」

「うん?もちろんだとも。何百人も子供を取り上げて来た俺が言うんだから、間違いないさ!」

 

 蓮華は、華佗のそのやたらと爽やかな口調で語られた言葉を吟味する様に暫く俯いていたが、不意に顔を上げて思春の方を向き、彼女を力一杯抱きしめた。

「思春……思春!おめでとう!!貴女、お母さんになるのよ―――一刀の子のお母さんになるの!!」

 

 

 

 

 

 

 

 数刻後。思春は、自室で、空を真っ赤に染める夏の夕日を呆然と眺めながら、その短い生の間、一心に恋を詠う蝉たちの声に耳を傾けていた。診療所から帰ったあと、呉の屋敷は、てんやわんやの大騒ぎに陥った。まず、お腹の子の父親である北郷一刀と三国の首脳達に甘寧将軍懐妊の報が伝えられ、それと同時に、思春は一時的に全ての役と仕事を免じられて、『何かあっては大変』と、自室に押し込められた。

 

 それから、呉の諸将達が次々に見舞に訪れ、散々に冷やかされて、気がついたらもう夕刻になっていたのだった。そして、漸く静かな時間を手にした思春の頭を埋め尽くしているのは、先程、蓮華に抱きつかれて我に返った後の、華佗との会話だった。

「二人とも……慶事に水を差す様で申し訳ないんだが、俺が診断を下した以上、五斗米道の掟に従って、訊いておかねばならない事があるんだ」

 

 二人は、いつもの快活な笑顔を引っ込め、真剣な目でそう言った華佗の態度を見て、背筋を伸ばした。

「どう言った事だ?」

 思春がそう問うと、華佗は大きく一つ息をして口を開いた。

「まず、覚えておいて欲しいのは、俺の所属する五斗米道は、主に貧しい人々に医術を施す事を目的としている、と言う事だ。つまり、この場合は、子供を養う経済力が無い人や、もう既に子供がいて、これ以上は養えないと言う人達に―――な」

 

 華佗は、自分のここまでの話を聴いていた二人の表情から、二人がこれから尋ねられる質問の内容を大方、察しているのを悟って、少しだけ肩の力を抜き、再び口を開いた。

「で、だな―――もし、子供を産む事に不安があったり、育て上げる自信が無い、と言うのであれば、今の内なら、お腹の子を元の魂に“還して”やる事が出来る。俺は君の口から、自分がお腹の子をどうしたいのか……それを聞かなくちゃいけない」

 

 この時代の出産は、正に命がけであった。出産方法は自然分娩一択、しかも、止血剤だの輸血なども存在しない為、出血が酷ければ死に直結するし、経済的な問題で十分な栄養を取れなければ産後の肥立ちが悪くなり、これもまた死と同意義となる。それは家庭によっては、精神的な苦痛の他に、重要な働き手を失うと言う物理的に甚大な被害を与える事でもあった。

 時に、母親と産まれて来る子供は、家族全体に取って天秤に掛ける事すら許されない場合も、当然存在したのである。

 

 

 『魂に還す』―――それはきっと、五斗米道の医師達が、腹に宿った我が子を諦めねばならなかった哀しい母親達の為に作り上げた、優しい嘘であり、免罪符なのだろう。この時代、一般の、それも社会の最下層に生きる人々にとって、医学と魔術の存在の境界は、極めて曖昧なものであった。まして、生命の根源に関わる事となれば尚の事である。

 

 蓮華と思春は『支配する側』の人間として、その事を良く知っていた。だから、五斗米道の医師達が、どんな気持ちでこの哀しい“掟”を、数多の母親達に問うて来たのかも、十分に理解していた。

 思春は右手で、自分の下腹部を摩ってみた。少なくとも今はまだ、そこに新しい命が宿っているなどと、実感出来はしなかったが。

 

「私は―――」

 思春は、蓮華がじっと見守る中、下腹部に落としていた視線を上げて真っ直ぐに華佗の目を見返すと、静かに言った。

「私は、この子の母になる」と―――。

 

 

 

 

 

 

 

 不意に西日が目を掠め、物思いから我に返った思春は、診療所から帰って来た後、何度となくそうした様に、自分の下腹部を右手で摩ってみた。

「妙な心持ちだな。自分の腹に、稚児(ややこ)が居ると言うものは……」

 思春が、微笑みながらそうひとりごちた時、部屋の戸を叩く音が、背後から聴こえた。

 

「誰だ?」

 思春が、いつもの無愛想な顔に戻り、扉にそう問いかけると、扉の向こうから「一刀だけど」と言う答えが帰って来た。

 思春は、何故か慌てて「ちょっと待て!」と言うと、着物の襟を直してみたり、髪の毛を整えてみたりしてから、漸く「いいぞ、鍵は開いている」と言って、一刀を招き入れた。

 最も、思春自身、どうしてそんな手間をかけたのか、自分でもよく分かってはいなかったのだが。

 

 

「やぁ、思春。調子はどうかな?」

 一刀は、両手になにやら包みを抱えながら、どこかおずおずとした様子で部屋に入って来ると、思春に向かってそう尋ねた。

「どう、と言われてもな。別段、どうという事もない。普段通りだ」

 思春は、自分の言葉に「そっか。なら良かった……のかな?」とはにかんで答える一刀を見ながら、内心で「(この嘘つきめ)」と自分をなじった。

 

 先程まで、あんなに不思議な気持ちでいたのに。それをどうして、この男……その気持ちを自分に与えた男に隠さねばならない?それに、わざわざ見舞に来てくれたのが分かっているのに、私はどうしてこんな硬い声で喋っているのだ?

『分からない』。それは今だけではなく、この北郷一刀と言う男と関わっている時の自分に対する思春の、普遍的と言っていい自身の態度への答えだった。

 

『少なくとも嫌いではないのだろう』と、思春は思う。主である蓮華様の考えが背後にあったとは言え、純潔をくれてやっても良いと思ったのだから。その後も、求められて嫌悪を抱いた事は無いし、自分の腹にこの男の稚児が宿っている事だって―――。

だが結局、思春の自問自答に答えは出ない。いつもと同じに。『ならば』と思春は考える。

「(詰まるところ、いつもと同じにしていれば良い)」と。

 

「それは、なんだ?」

 思春が、顎をしゃくって一刀の持って来た包みを指すと、一刀は照れ臭そうに笑いながら、思春の座っている椅子と揃いで設(しつら)えてある質素な卓に、それを置いた。

「えっと、文旦(ぶんたん)だよ」

 

「文旦?」

 思春がオウム返しに問い掛けると、一刀は包みの中から、大人の拳ほどの黄緑色の球体を取り出して、思春の手に乗せた。それは、柑橘の実であった。

「ちょうど、旬だからさ。行商が売ってたんだよ―――ほら、“妊婦さんは酸っぱい物が欲しくなる”って、聞いた事あったから。その……悪阻(つわり)で食欲も無いって聞いて……これなら、食べられるかな、なんて」

 

 思春は、妙に饒舌な一刀の口上を聞きながら、「そうか、気を遣わせてすまなかったな」と短く言って、文旦を顔に近づけてみた。すると、甘酸っぱく爽やかな夏の果実の香りが、ふんわりと鼻腔をくすぐって来て、思春は、朝食を吐き出してしまって以来、今日、自分が何も腹に入れていないことに初めて気が付いた。

 

 

 文旦から視線を戻した思春は、何故か一刀が自分をジッと見つめている事に気が付いて、片眉を上げた。

「なんだ。私に顔に、何か付いているのか?」

「いや、違うよ!そうじゃなくて、その……服、替えたんだな」

 思春は、一刀の言葉を聞き、その視線を追って初めて、一刀が自分の下半身……、ゆったりとした丈の、女物の着物に注がれているのを知った。

 

「あぁ。祭様が、『身重の女子がそんな格好でどうする』と仰られて、持って下さったのだ。だが、どうにも動きにくいし、そもそも私には似合わんだろう?」

 思春が呆れた様にそう言うと、一刀はブンブンと首を振った。

「そんな事ないよ!凄く素敵だし、凄くその―――綺麗だ」

「そ、そうか……」

 思春のその呟きを最後に、沈黙が、西日で赤く染まった彼女の部屋を支配した。

 

「あの、さ……」

 そう言って先に沈黙を破ったのは、一刀だった。

「なんだ?」

「いや、あの―――実は、お礼が言いたくて来たんだ」

「礼、だと?」

 思春が怪訝そうに眉をひそめると、一刀は、どことなく緊張した様子で頷いた。

 

「うん。その―――蓮華から聞いたんだ。思春が華佗に、はっきり俺の……“俺達”の子の母親になるって、言ってくれたって……だから俺、嬉しくて!どうしても、思春にお礼が言いたかったんだよ……その、ありがとう、思春」

 思春は、一刀のその言葉で、頬がカッと赤くなるのを感じた。幸い、一刀が頭を下げているのと夕日のお陰で、それを悟られる事はないだろうが。

 

 『嬉しい』と、思春は、確かにそう思った。北郷一刀が、自分との間に子供が出来た事を喜んでいる―――その事が嬉しいと。だから、思春は言ってしまった。嬉しかったが故に、誇らしかったが故に、それを、北郷一刀に悟られたくなくて。

 いつも通りに、彼女の免罪符を口にしてしまったのだ。

 

「ふん。別に、礼を言われる筋合いなどない」

 一刀が、下げていた頭を上げて、驚いた様な顔で思春を見ると、思春は極めて“いつも通り”に、いつもの台詞を口にした。

「我が孫呉に胤を入れるのは、お前の使命だろう。私は孫呉の女の使命として、お前の子を産む。それだけだ。礼など、余計な事だ」

 

 

 そう言い終わった瞬間、思春は、一刀の回りの刻が、ふっと止まった様な気がした。本当に一瞬、それこそ、瞬(まばた)きにも満たない様な間だったが。しかし、一刀はすぐにいつもの笑顔を浮かべると、「そうだよね」と言って、はははと笑った。

「でも―――それでも、ありがとう。思春」

 一刀はそう言って、改めて思春に頭を下げると、踵を返して扉の近くまで行き、取っ手に手をかけた。

 

「じゃあ、思春も疲れてるだろうし、あんまり長居しても悪いから―――明日また来るよ」

 一刀がそう言って振り返ると、思春は、「あぁ」とだけ言って、窓辺に顔を向けた。万が一にも、一刀に自分が頬を染めている事を勘付かれたくなかったのだ。

 一刀は、「それじゃ、また明日」と言って、後ろ手に扉を閉めた―――。

 

 

 

 

 

 

 

 それから暫くして、思春は、夕闇の色が濃くなった屋敷の庭を、一人ぶらぶらと散策していた。思春に取って、何の目的も無く屋敷の中庭をうろつくなど、(それこそ、呉の本国に居た時を含めてさえ)初めての事であった。思春は、一刀が帰ってからすぐ、彼が持って来てくれた文旦を食べようかとも思ったのだが、何だかもったいない様な気がして、一先ず取って置く事にした。

 

 それで、手に持っていた文旦を卓に戻したのだが、すると今度は、先程の一刀の様子が妙に気になり出し、そもそも部屋でジッとしていられる様な性分ではない事も手伝って、庭でも歩きながら考えてみようと思ったのである。

 そんなこんなで、四半刻ほど庭をぶらついていた思春が東屋の近くを通りかかると、その東屋の方から、聞き慣れた陽気な声が、思春の名を呼んだ。

 

 思春が声のした東屋を見遣ると、そこには果たして、卓の上に酒瓶を置き、片手に持った杯をこちらに掲げている先代君主、孫策こと雪蓮の姿があった。それだけなら差して珍しくもないのだが、今日は意外な事に、呉の大都督にして美周郎の誉れも高き大軍師、周瑜こと冥琳の姿もある。

 思春が会釈をして近づいて行くと、卓の上にある行燈の油の匂いの他に、虫よけの香の芳醇な香りが漂っていた。

 

 

「ヒューヒュー!今日の主役の登場だ~♪ね~、冥琳、私の言った通りでしょ?ここで飲んでれば、必ず思春が来るって」

 

 

 雪蓮は冥琳に向かって杯を掲げながらそう言うと、そのまま満たされていた白酒をクイっと飲み干した。

 冥琳は、やれやれと言う様に肩を竦めると、右手で思春に椅子を進めながら、当惑顔の思春に説明を始めた。

 

「我が主殿が、どうしてもお前の慶事に杯を捧げたいと仰せでな。そう言われては、私も断る訳にも行かぬので、いつもの如く雪蓮の“勘”に従って、この東屋で待ち伏せていた、とまぁ、そんな訳さ」

「はぁ。それは恐れ多い事です」

 思春が、そう言いながら頭を下げると、雪蓮は不思議そうに片眉を吊り上げた。

 

「まぁ、我が孫呉にも、漸く『天の遣い』の血が入った訳だしね~♪でも、私はてっきり、思春は一刀と一緒に来るんだと思ったんだけどな~」

「はぁ。北郷と、ですか?」

 思春が訝しげにそう問うと、杯を傾けている最中だった雪蓮に代わって、冥琳が答える。

 

「あぁ。先刻、お前の所に見舞に行くと言う北郷と会ったのだがな、それはもう、見ているこちらが恥ずかしくなる程の浮かれ様でなぁ。『思春が良いと言うなら、今晩はずっと一緒に居るつもりだ』と、大惚気を吐かれたので、私も雪蓮も、すっかりお前達が二人で夜風に当たりに来るのだろうと思っていたのさ」

 思春は、冥琳の言葉を聞いて頬が赤くなるのを感じながらも、先程の一刀の態度に、益々強く疑問を感じていた。

 

 そんな思春の様子を目聡く察知した雪蓮が、思春に向かって悪戯っぽい笑顔を向ける。

「あらあら~♪まさか、御懐妊発覚も早々に、もう痴話喧嘩しちゃったの?」

「い、いえ!その様な事は……北郷は、長居しては悪いから、と、普通に帰って行きました」

「ふむ。それはまた妙な話だな。私達が北郷に会ったのは、お前の部屋の並びの廊下だったから、他に誰かに会って気が変わった訳ではあるまい。それならば、私達も気付いていた筈だ。となると、北郷の気が変わったのは、お前と話している間と言う事になるな―――心当たりはないのか、思春?」

 

 思春は、冥琳の言葉を受けて逡巡すると、「少し、気になる事があります」と言った。

「ふむ。では、簡単にでいいから、順を追って話して見てくれ」

 思春が冥琳の言葉に頷いて話し始めると、一刀の礼をいつも通りに返した、と言う下りで、雪蓮と冥琳の眉が、盛大に釣り上った。

「待て、思春。お前、その『いつも通り』と言うのは、具体的にはどう言う内容なのだ?」

 

 

「はぁ。北郷の奴が、いつも迫って来る時に言っている様な事、です。その、『我が孫呉に胤を入れるのがお前の使命で、私は孫呉の女としてお前の子を産むのが使命なのだから、礼は不要だ』と―――!?」

 

 思春がそう言い終わらぬ内、彼女の顔に、凄まじい風切り音を伴った何かが迫り、その直前でピタリと静止した。思春が驚いてそれに目を遣ると、それは雪蓮の左手であり、手首には、黒い長手袋に包まれた冥琳の美しい指が食い込んでいた。

 雪蓮は、不意に思春を睨んで吊り上げていた眉を緩め、不思議な物でも観る様な目つきで、冥琳に掴まれている左手を見つめた。

 

 冥琳がその手を離すと、雪蓮は「ありがと、冥琳。危なかったわ」と呟いて、杯を煽った。

「雪蓮様、私は何か、雪蓮様の御怒りを買う様な事を……?」

 思春が当惑してそう言うと、雪蓮はもう一度キッと思春を睨みつけてから、プイと横を向いた。

「冥琳、後はお願い。私、今の思春と話してたら、また無意識に手が出ちゃいそうだから」

 

 冥琳は、疲れた様な顔で眼鏡を押し上げると、改めて思春に向き直った。

「さて、そうだな……思春。お前が、北郷と逆の立場だったらと想像してみてくれ」

「はぁ……逆、ですか」

 まだ冥琳の言葉をよく理解していない様子の思春が、戸惑いながらそう言うと、冥琳は小さく頷いた。

 

「そうだ―――つまりな。お前が北郷に、懐妊の報告に“行った”としよう。お前がその旨を北郷に告げると、北郷はお前にこう言った―――『そうか。だが、お前に胤を与えるのが俺の使命だし、お前が俺の胤を受けるのもお前の使命なのだから、別に一々知らせたりしなくて結構だ』さぁ、お前はそこで、どんな気持ちになる?」

 

 どんな気持ちどころの騒ぎではなかった。思春には、冥琳の例えの途中で、確かに女性の声で発せられたその言葉に、一刀の声が重なって聴こえた。あの時の自分と同じ、硬く、冷たい声色で。

 一瞬、怒りと屈辱が雷鳴の様に心を貫き、次に、胸を引き裂かれる様な苦しみが襲ってきた。思春は思った。肌を重ねる度に囁いてくれたあの言葉は嘘だったのかと、可愛いと、好きだと言ってくれたあの言葉は全て、ただの戯言だったのか、と。

 

 気がつくと、冥琳が四角く畳んだ手巾を、思春の目の前に差し出していてくれた。思春はそこで初めて、自分が泣いている事を知った。

「女は身籠ると、感情の起伏が激しくなる事があると言うが、どうやらそれは、お前も例外では無い様だな、思春」

 バツが悪そうにそう言う冥琳の横で、黙って事の成り行きを見ていた雪蓮が、口を開いた。

 

 

 

「まぁね。男と女じゃ色々違うでしょうし、胤を上げるのと貰うのとじゃ、そりゃあ全然違うでしょうよ。まして女は、身体の中でそれを育てるんだから。だけどね、思春、一刀は、今の貴女より、もっと辛かったと思うわよ。だって、本人に面と向かって言われたんだもん―――『仕事だから、アンタの子を産んでやる』って」

 

 雪蓮は、そこで言葉を切ると、杯を煽って、冥琳の手巾を握りしめながら俯いている思春を一瞥した。

「でも、あの子は貴女に言ったのよね?『それでも、ありがとう』って。あの子、どんな気持ちでそう言ったと思う?」

 思春の目に、また彼女の意思とは関係なく、涙が溢れて来た。分かってしまったのだ。自分が、口ではどれほど建前を振りかざしても、一刀と肌を重ねる度に彼が囁いてくれた「可愛いよ」と、「好きだ」と、言う言葉を信じていた事に。それを、求めていた事に。

 

 確かに思春は、一刀に面と向かって睦言を囁いた事は無い。だが、彼に貫かれる度、彼に導かれる度、一体どれ程の数、彼の唇を求めたろう?彼の身体に爪を立てたろう?彼の体温を求めて、しがみ付いたろう?いくら口に出さなくとも。

 

 もう、建前に逃げ込んでいい段階ではなかったのに。一刀の胤を受け入れると言う事は、北郷一刀と言う男と、北郷一刀と言う男を想っている自分自身の居場所を、心の中にきちんと作ると言う事だと、気付かなかった。

 そして、とっくに有効期限の切れた免罪符を、まるでそれが、自分の当然の権利だと言わんばかりに、彼に突き付けたのだ。

 

「雪蓮様、冥琳様。私……私はどうすれば……」

 雪蓮と冥琳は、視線を交わし合うと、少し肩の力を抜いて口調を和らげた。

「なに、簡単な事だ。まず屋敷の正門まで行き、北郷が帰ったかどうか確認するがいい。そして、もし帰ったと言われたら、遣いをやって足止めをし、お前はあとから追い着くのだ。くれぐれも、自分が身重である事を忘れるなよ。帰っていないと言われたら、門番に甘寧が探していた旨を伝えてもらうよう言い含め、下手に動かず自分の部屋に居ろ。それで、北郷はお前に会いに行くだろうさ」

 

「来る、でしょうか?」

「あら、行くわよ。だって、一刀だもの♪」

 不安げな顔で冥琳に問い返す思春に、雪蓮はそう言って微笑んだ。

 

「やれやれ、少し膿出しをしてやるだけの筈が、とんだ大手術になってしまったな」

 思春が去った東屋で、冥琳はそう言って微苦笑をしてから、漸く自分の杯に手を付けた。

「ホント、世話が焼けるわね~。大体、蓮華もツメが甘いのよ。思春みたいな筋金入りは、もっとしっかり振り回して柔らかくしてあげなきゃ」

 

 

「なにやら、人の事を話されている気がしないな―――しかし、子を身籠るとは、何とも奇妙なものだな。あの思春が、少し突いただけであそこまで感情を昂らせるとは……」

 雪蓮の言葉に苦笑いを浮かべた冥琳がそう言うと、雪蓮はうんうんと頷く。

「まぁ、普段があんなだから、余計に敏感になってるのかもね。今までは、妊娠を意識してなかったら押し込めてられたんでしょうけど、意識したから一気にキタのかも。私達も、いざという時は気を付けましょ♪」

 

 陽気にそう言ってアハハと笑う雪蓮を見て、冥琳は悪戯っぽく微笑んだ。

「私はどちらかと言うと、お前が突然ブチギレて、北郷の首を叩き落とさないかと言う方が心配だな」

 すると、雪蓮も負けずに不敵な笑みを浮かべる。

「あら、私としては、突如ぶっ飛んじゃった冥琳が一刀をビシバシ鞭で打って、真性の変態に調教しちゃわないかって方が心配ね♪」

二人は、そんな(極一部の人間に取って)物騒な事を言い合いながら、改めて同時に杯を掲げた―――。

 

 

 

 

 

 

 呉の宿将、黄蓋こと祭は、広大な呉の屋敷の一角にある離れに、酒瓶を抱えながら向かっている所だった。稀に、身内の食事会に利用される時くらいしか(見回りの兵士は別として)滅多に人の来ない其処で酒を呑む気になったのは、彼女のちょっとした感傷の様なものだ。

 思春の腹に子が宿った、と聞いた時、祭は、柄にもなく目頭が熱くなってしまった。

 

 先々代の孫文台と共に剣を取り、乱の大海原に漕ぎ出してより幾星霜。自身と文台の娘達、そして、我が子同様に愛し、鍛えて来た呉の将達の活躍で、天下は漸く定まった。祭が文台と語り合った様な形でではなかったが、文台ならば、『人生なんてそんなもんでしょ』と笑い飛ばしていただろう。

 そんな中、平和の象徴である天の遣いの血を受けた子が、呉の柱の一角である思春の腹に宿った。

 

 素晴らしい事だ。と祭は思う。無論、子が産まれると言う事は、どんな時、どんな時代であろうと素晴らしい事には違いない。

 しかし、思春の腹に宿った子は、孫呉の旗揚げ以来、初めて手にした平和な時代に、初めて呉を中心で支えてきた者に授かる子なのである。それは、長く孫呉を支え、その歴史の全てを見て来たと言っても過言でない祭にとってすら、初めて経験する喜びであった。

 

 

 そんな訳で、今日はゆっくりと月でも眺めながら酒を呑みたい気分になり、遥々この離れまで足を運んで来たのだった。祭が、口ずさむ鼻歌も軽やかに離れの庭先に回ると、そこには意外な先客が居て、庭に設えられた椅子に腰かけ、月を眺めていた。

「なんじゃ、北郷ではないか」

 

 一刀が祭のその声に振り向くと、祭は酒瓶を掲げて微笑んで見せた。

「どうしたのじゃ、身重の女を放っぽり出して、こんな所で―――父親になるのが恐ろしゅうて、怖気づきでもしたのかの?」

 一刀は祭の悪戯っぽい言葉に「そんなんじゃないよ」と苦笑いで答えると、再び、夏の夜空に座する上弦の月に視線を戻した。

 

「月が綺麗だったから。ちょっと……考え事さ」

「ふむ。そうか」

 祭は、一刀の答えに小さく頷くと、酒瓶を卓に置いて一刀の隣に腰を下ろし、杯に並々と酒を注いで、月に向かってそれを掲げてから一息に飲み干した。

 

「ふむ。中々に佳い酒じゃ。どうじゃ、北郷。お主も?」

 一刀は、そう言って祭が差し出した杯に向かって、やんわりと首を振った。一刀自身、酒を持って来る事を考えないでもなかったのだが、今夜は悪い酒になってしまう様な気がしたので、結局持って来なかったのある。

 

「なんじゃ、付き合いが悪いのぅ……はぁん。さては、これから思春の所に行って、酒の匂いに顔をしかめられるのが嫌なのじゃな?」

「!?―――あ、うん。そんなとこかな」

 一刀はそう答えながらも、祭の目がスッと細まったのを見て、内心「(失敗した……)」と、思った。彼女が話しかけて来た段階で、思春の話題になる事は明らかだったのに。心の準備を怠っていたせいで、思春の名前に思わず過剰に反応して、言葉を詰まらせてしまった。

 

 一見、豪放磊落に見えて観察眼の鋭い祭が、一刀のそんな不審な態度を見逃す筈はないのだ。

「北郷、思春と何かあったのか?」

「いや、何もないよ。本当に」

 一刀は笑って首を振ったが、祭は、杯を新たな酒で満たしながらも、一刀の顔から視線を逸らそうとはしない。一刀が、どうしたものかと考えながら祭が視線を外している杯に目を遣ると、注がれ続けている酒が表面張力で盛り上がり、あわや決壊、と言う一歩手前で、ピタリと止まった。

 

 

 祭は、尚も一刀の顔に視線を注いだまま杯を手に取り、ぐいと飲み干して、「はぁ」と溜め息を吐く。

 

「相変わらず、嘘が下手じゃのぅ―――北郷」

 一刀は、祭の言葉に思わず俯いてしまいそうになってから、ハッとして顔を上げた。しかし、時既に遅く、その様子を見ていた祭は、苦笑いを浮かべながら、黙って再び杯を煽るだけだ。一刀は、益々、自分が情けなくなって、今度こそ俯いてしまった。

 

「まぁ、おかしいとは思ったのじゃよ」

 祭は、そう言って酒を注ぎ足すと、今度はすぐ口には運ばずに、手の中で杯を弄んだ。

「自分の女が身籠ったと聞いた男が、同僚と祝杯を上げに行くでも、女の傍に張り付いているでもなく、こんな所で月なんぞ眺めておるんじゃからな」

 

「もしかしたら、祭さんがさっき言ったみたいに、逃げ出してきたのかも知れないよ?怖くなってさ」

 一刀がそう言うと、祭はニヤリと笑って、首を振った。

「あれは、冗談じゃよ―――儂は、そんな腰抜けに惚れたりはせん。そんな男に抱かれねばならん位なら、舌噛んで死んでおるわ」

 そう言って豪快に笑う祭を前に、一刀は顔を赤くして頭を掻くしかなかった。

 

「敵わないよなぁ、祭さんには」

「当たり前じゃ。伊達に歳は取っておらんわ―――さぁ、話してしまえ」

「でも……」

 尚も食い下がる一刀に、祭は優しい口調で話しかけた。

「いいから、話してしまえ。話すだけでも、楽になる事はある」

 

「じゃあ、ここだけの話にして、誰にも言わないでくれる?その、特に思春には……」

 祭が頷くのを確認すると、一刀は、絞り出す様な声で話し始めた。

「思春にさ、お礼を言いに言ったんだけど、その時にね、言われちゃったんだ。『お前の子を産むのは使命なんだから、礼なんか言われる筋合いじゃない』って……」

 

 一刀は、呆然とした様な顔で自分を見つめる祭にむかって苦笑いを向けると、今度は自嘲を浮かべて頭を掻いた。

「流石にね。いざ本当に子供が出来てから、面と向かってはっきりそう言われちゃうと、結構切ないっていうか、さ。まぁ、それだけの事なんだけど」

 一刀の言葉を最後まで黙って聞いていた祭は、やおら杯を飲み干すと、それを叩きつける様に置いてから、すっくと立ち上がり、大股に歩きだした。

 

 

「ちょっと、祭さん。どこ行くの?」

 一刀が慌ててそう尋ねると、祭は振り向きもせずに言う。

「決まっておろう、思春のところじゃ」

「え!?いや、駄目だよ!誰にも言わないって約束だろ!?」

 

 祭は、そう言って後ろから追いすがる一刀に目もくれず、ズンズンと歩きながら怒鳴り返した。

「そんな訳に行くか!あの小娘、事もあろうに、懐妊と聞いて、喜び勇んで駆けつけて来た己が腹の子の父親に向かって、何と言う言い草じゃ!朴念仁だとは思っておったが、まさか此処までのうつけ者とは思わなんだ!お主が良くても、儂の気が納まらん!!」

 

「祭さん……!」

「止めるな、北郷!」

「だから、良いんだって!!!」

 掴まれた腕を振り解こうとした祭は、今までに聞いた事のない一刀の必死の怒鳴り声と、自分の腕を掴む力の思わぬ強さに、足を止めて振り返った。

 

「良いんだよ、祭さん……そんなの、分かってた事なんだから」

「ほん、ごう?」

 祭は、一刀の言葉の意味が理解出来ず、ただ一刀を見返す事しか出来ずにいた。

「最初から、分かってたんだ。思春にとって一番大切なのは、呉と孫家の皆を守る事だって……」

 

「北郷、お主は……」

「だけど、俺はそんな思春が好きで……だから抱いたんだ。例え、思春が俺をどう思ってても―――俺は、思春が俺の子を産むって言ってくれただけで、それだけで幸せだから。だから……思春は悪くないんだよ、祭さん。思春は……悪くないんだ。頼むから、思春を責めたりしないでよ……」

 

「……お主は、とんだ大馬鹿者じゃな……」

 祭は、呆れた様にそう言うと、卓まで戻って酒瓶に蓋をしてから、一刀の方を振り返った。

「今日はもう帰るのじゃろう?儂が送って行ってやる―――事情を知らん奴に、あれこれ詮索されるよりは良かろうよ」

 

 

 

 

 

 

 

 一刀と祭が、離れをあとにして中庭に差しかかると、東屋に続く階段を下りて来る雪蓮と冥琳にばったりと出くわした。

「やった!本日、二回目の大当たり~♪やっぱり、私の勘て冴えてるわ~。ね、冥琳♪」

 一刀は、そう言って冥琳にウインクを飛ばすなり抱き付いて来た雪蓮を受け止めると、困惑した笑顔を、冥琳に向けた。

 

「ご機嫌だなぁ、雪蓮。酒臭いし―――はいつもの事だけど、一体なにが大当たりなんだ?」

「ぶーぶー!一刀、何で私本人じゃなくて、わざわざ冥琳に聞くのよぅ?」

「それは、お前では話が進まないからだろう?」

 冥琳は、不貞腐れて一刀の頬を突いている雪蓮の首を、猫を捕まえるかの様にして引っ掴むと、一刀に向かって微笑んだ。

 

「何、大した事ではない。先程、思春がお前を探している所に行き会ってな。お前に言伝(ことづて)を頼まれていたので、雪蓮の勘を頼ったと言うだけだ」

 冥琳の言葉に、一刀は首を傾げた。

「思春が?なんだろう……さっき会いに行った時は、わざわざ探してまで言わなきゃならない様な事は無さそうだったけど……」

 

「さぁ?もしかして、『急に西瓜が食べたくなったから買ってこい』とか、そんな事かもよ?」

 雪蓮は、そんな事を言いながら意味深な笑顔を浮かべると、一刀の背中に回ってその背中を押した。

「兎に角、部屋に居るって言ってたから、さっさと行ってきなさいよね、旦那様♪」

「??あ、うん……」

 

 雪蓮に押し出された一刀は、まだ曖昧な笑みを浮かべながらも、祭に「そう言う事らしいから、ごめんね祭さん」と言って詫びると、思春の部屋がある母屋に向かって歩いて行った。

「ふむ―――策殿、冥琳と謀って、どんな策を施されたのですかな?」

 祭が、一刀がの姿が見えなくなってから雪蓮に向かってそう尋ねると、雪蓮は惚けた顔で頭を掻いた。

「さぁね~♪ま、取り合えず、私達は改めて呑み直しましょうか。一刀と思春の幸せを願って、ね」

 祭が、冥琳に視線で問うと、冥琳も微笑んで頷いた。

 

 

「ふむ、何やら、冥琳に酒を止められぬと言うのも気味が悪いが、折角じゃからそうするかのぅ」

 祭がそう言って笑うと、雪蓮はうんうんと頷いて、祭の腕に自分の腕を絡めた。

「そう言えば祭、あなたは一刀と、何の話をしてたの?」

「さて―――何でしょうな。だだ……」

 祭はそこで言葉を切ると、一刀が歩き去った方角を見つめ、「儂も、年甲斐もなく、改めて北郷の子を産んでみたくなりましたぞ」と言って、優しげに微笑んだ。

 祭は、キョトンとした顔で自分を見つめる“娘達”に流し目をくれると、「はっはっは」と豪快に笑ったのだった。

 

 

 

 

 

 

「あの、思春?一刀だけど―――」

 一刀は、思春の部屋の扉を叩きながらそう言って、大きく一つ息を吸った。きちんと、笑わなくては。それでなくても、思春は大変な時期なのだから。変に気を揉まれる様な事があってはいけない。

「あぁ―――入ってくれ」

 一刀は、思春の返事を聞くと、もう一度、深呼吸をして、扉を開けた。

 

「やぁ……」

 一刀が部屋に入ると、思春は、座っていた椅子から立ち上がった。

「俺に用があるって聞いたもんだから……あ、食べてくれたんだね、それ」

 一刀が、卓の上に置いてあった文旦の皮を見つけてそう言うと、思春は、小さく頷いた。

「あぁ、美味かった。甘酸っぱくて……」

 

「そうか、良かった。気に入ってくれて……」

 一刀は、何時になく覇気を感じられない思春の様子を不思議に思いながら、落ち着かない気持ちで思春の部屋を見回した。日が長くなって来た為、まだ外は幾らか明るいが、卓に置いてある行燈の一つには既に灯りが灯っていて、薄暗い部屋を柔らかな光で照らしている。

 何処からか漂う虫よけの香の微かな香りが、一刀の鼻腔をくすぐった。

 

 

「ええと―――それで、用事って何かな、思春?何か食べたい物でもある?それとも―――」

 思春は、どこか慌てた様にそう言う一刀の言葉に首を振ると、つかつかと一刀の前まで歩みより、両手でその襟を掴んだ。一刀は一瞬、投げ飛ばされるか襟を締め上げられるのかと思って身構えたが、当の思春にそんな様子はなく、襟を掴んだ力を緩めて、手の中でそれを弄んでいるだけだ。

 

「私の父はな―――地方の木端役人だったのだ……」

 一刀が、沈黙に耐えかねて口を開こうとした時、思春は俯きながら、そう言ってポツポツと喋り出した。

 思春の父は、武術はそこそこ、読み書きもそこそこの、何処にでもいる様な、ごく普通の役人だった。人と違う所と言えば、多少、狭義心が強い事位である。

 

 彼には、出世欲や野心など皆無だった。自分と若い妻との静かな生活に満足していたし、それを壊すつもりなど毛頭なかったのだ―――だが、ある日、崩壊は突然にやってきた。視察に来た朝廷の使者が、たまたま目にした思春の父の妻―――つまり、未来の思春の母を見染めて、自分の閨に寄こせと要求して来たのである。

 

 思春の父は、思い悩んだ挙句、要望に従う様に強制しようとした上司と朝廷の使者を斬り殺し、妻と共に出奔した。そして、呉郡に流れ着き、持ち前の狭義心で地元の不良を纏め上げ、朝廷の船を襲って日々の糧を得る内、何時しか江賊の統領になっていたのだった。

 

「そうだったんだ……でも、どうして俺にそんな話を?」

 自分の父が江賊になるまでの経緯(いきさつ)を喋り終えた所で言葉を切った思春に、一刀は尋ねた。どうにも、思春の意図が分からない。

「私は、船の中で産まれたのだ―――その時、父が最初に私にくれたのが、私の真名だ」

 

「思春……」

 一刀が呼び掛けると、思春は漸く顔を上げて、一刀を見た。

「父は、朝廷の腐敗ぶりから、じきに世が大きく乱れる事を予見していた。だから、私が育つであろう時代を冬に例えたのだ―――私に、寒く長い冬にあっても、春の暖かさを思い、その到来を信じて強く生きて欲しいと願った。だから、私の名は、『春を思う』と書く……私は、この名が好きだ。母は私に、最初の贈り物としてこの身体をくれたが―――真名は、父が私にくれた、最初の贈り物だから」

 

 一刀が、まだ話が見えずに思春の目を見返していると、思春は、意を決した様に一刀の目を見返した。

「だから、その―――私の……“私達”の子にも、お前に真名を付けて欲しいのだ。身体の方は、私が必ず、立派なものを贈るから―――」

「……ありがとう、思春。凄く嬉しいよ……でも、どうして急にそんな事を?」

 一刀がそう言って、嬉しさと困惑が綯(な)い交ぜになった顔で思春に問い掛けると、思春は、再び目を伏せた。

 

 

「さっきお前が来た時に言った事は―――嘘だ」

「嘘?」

 思春は、小さく頷いてから再び顔を上げて一刀の目を見て、静かに言った。

「良いか、一度しか言わないから、よく聞け―――私は……私は、お前が好きだ、北郷一刀」

「え!!?」

 

「私は、使命だから『天の遣い』の子を産むのではない……女として、好いた男の子供の母になりたい―――“お前”の子が産みたいのだ」

 思春はそう言うと、一刀の襟を引いて、初めて肌を重ねた時と同じ様に、一刀の唇に自分の唇を重ねた―――だがそれは、以前と全く同じキスではなかった。

 

 今度のキスは、興味でも、まして肉欲でもない。互いが互いに引きつけ合う様な、愛情と真心が込められた、二人が初めて交わす、本当のキスだった―――。

 

 

 

 

 

 

 

 それから暫くして、二人は、思春の部屋の寝台でぴったりと寄り添いながら、窓の外をゆらゆらと飛ぶ蛍の姿を眺めていた。

「虫よけの香を消したら、あいつ、この部屋に入って来れるかな?」

 思春を背中から抱きしめていた一刀が、思い付いた様にそう言うと、思春は小さく微笑んだ。

「莫迦か、お前は。そんな事をしたら、明日の朝には身体中を蚊に刺されて悶える事になるぞ?」

 

 その言葉を聞いた一刀は、わざと不機嫌そうな声を出して、思春を抱く手に力を込めた。

「莫迦は酷いな―――さっきまでは、あんなに可愛いかったのに、もういつもの思春に戻っちゃったのか?」

 思春は、寝台の脇に皮を剥いて置いてあった文旦を一つ摘まんで口に入れると、「うるさい」と呟いて、布団を顔まで引き上げた。

 

 思春は今日、最初の時以来、初めて、自分から一刀を寝台の中に誘った。一刀は、その事を言っているのである。

 思春自身、自分がなぜ一刀を誘ったのか解らなかった。キスをした後、静かに抱き合っている内に、どうしても一刀が欲しくて堪らなくなってしまったのだ。

 

 

 あまつさえ、お腹の子の事を案じる一刀に、『華佗も、あまり激しくしたり深くしたりしなければ問題無いと言っていた』と言って、一刀を押し倒す様にして寝台に入ったのである。それに関しては、酷く恥ずかしかった……だが、思春は不思議と後悔してはいなかった。

 

 こうして、背中に一刀の体温を感じ、股の間から垂れて来る彼の精の暖かさを感じ、一緒に果実を食べながら横になっていられる事の安らぎと幸せに比べたら、一時の気恥しさなど、何ほどの事があろうか。

「もっと前から、さっさとこうしていれば良かった」

 思春が、そうぽつりと呟くと、一刀はわざとらしく思春に尋ねた。

 

「ん?何か言ったか、思春?」

「ふん―――聴こえていたくせに」

「ありゃ、バレたか」

 一刀は、思春の指摘に悪びれる事もなくそう言うと、彼女の腕に重ねていた手を、そっとその腹に移した。

 

「なぁ、思春。考えてみんだけど……この子の名前」

「そうか」

「うん―――もし、“こいつ”が男の子だったら……」

 思春は、蛍の光を眼で追いながら、一刀の暖かい吐息と共に耳に入って来る、彼から我が子への、最初の贈り物の響きに優しく微笑んで耳をすました―――。

 

 

 

                                     完

 

 

                                   あとがき

 

 さて、今回のお話、如何でしたか?テーマが『夏』の恋姫同人祭り参加作品と言う事で、夏のある日、一刀と思春に訪れた、二人の関係を大きく変える出来事を書いてみました。

 この作品のアイディアは、去年TINAMIに投稿を始めた当初からあったのですが、一度、書いている途中でデータを消してしまい、それ以来、私の中で燻ぶっていたものです。今回、こうして世に出せて本当に良かったと思っています。

 作中に出て来る『文旦』は、中国南部やインドの方でとれる柑橘系に果実で、日本産もあります。

 個人的に夏のフルーツと言えば、柑橘なイメージなんですよね~。

 あと、蚊取り線香的なものとか、色々と出してみたので、匂いなんかも想像して頂けると、臨場感出るかもです。

 

 ちなみに、今回のサブタイの元ネタは『超獣機神ダンクーガ』第二期OP

 

 ほんとのキスをお返しに/藤原理恵

 

 でした。

 本当は失恋チックな内容で、歌もイマイチな感じなんですが(笑)このタイトルの語感が好きなんです。

 

 では、またお会いしましょう!

 


 
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