No.216852

義帝暗殺の真相を探る その3

若生わこさん

続きです。

2011-05-15 13:40:12 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:1150   閲覧ユーザー数:1138

【呉芮の分析】

 呉芮は先ほども述べたように、漢帝国成立後に長沙王に封建される異姓七王の一人である。だがこれ以前より、項羽による分封で衡山王の座についていた。では以上のことを踏まえた上で筆者による分析を見ていただこうと思う。

 

 まず他の異姓諸侯王と比べてみるに、彼は燕王臧荼と同様に、『史記』のなかに列伝が立てられていない。韓信、英布、張耳、彭越、韓王信らは皆が皆独立した伝というわけではないが、列伝が存在する。『史記』太史公自序に表記される、彼らが列伝になった理由をかいつまんで説明してみよう。韓信は趙と魏を攻め落とし燕と斉を平らげた、英布は楚から漢につき楚の大司馬周殷を味方につけた、張耳は楚を弱め漢の信義を明らかにした、彭越は梁を荒らして項羽を苦しめた、韓王信は潁川の地を制圧した、とあり、それぞれの功績が評価されて列伝が立てられている。

 そもそもこの楚漢戦争期に漢において功績が大きければ列伝が立てられて然るべきであり、諸侯王に封建されるほどの功績があるものが列伝にならないのはおかしい話である。さて項羽によって封建された燕王臧荼が漢帝国成立後にも異姓七王の一人として封建されるまでの経緯を振り返ってみると「韓信の勧告により漢に帰順しており、そのままその地位を保つことに成功した」という内容だ。つまり彼には直接的に軍功を上げる必要がなかった。ということは同じく列伝がない呉芮も同様ではないかと筆者は考えるのである。

 また彼が封建される理由を高祖本紀に見るに

 

「徙衡山王呉芮為長沙王都臨湘番君之将梅鋗有功従入武関故徳番君(衡山王呉芮を徙して長沙王と為し、臨湘に都せしむ。番君の将梅鋗功有り、従いて武関に入る。故に番君を徳す)」(『史記』高祖本紀)

 

とある。番君とは呉芮を指す。つまり呉芮の将軍である梅鋗が劉邦に従って武関にはいったことを功績としているわけだ。これが楚漢戦争終了時の封建の理由として扱われるのは実に奇妙である。なぜならこれは秦楚戦争の際の功績だと考えられるからだ。

 

「還攻胡陽遇番君別将梅鋗与皆降析酈(還りて胡陽を攻む。番君の別将梅鋗に遇う。与に皆析酈降す)」(『史記』高祖本紀)

 

このように劉邦が秦楚戦争にて西進する途中でこの梅鋗と出会う。次に

 

「乃用張良計使酈生陸賈往説秦将啗以利因襲攻武関破之(乃ち張良の計を用い、酈生、陸賈をして往きて秦将に説かしめ、啗わすに利を以てし、因て襲いて武関を攻め之を破る)」(『史記』高祖本紀)

 

との記述があり、このまま梅鋗を伴って武関を破ったと思われる。梅鋗を連れていたという内容は書かれていないのだが

 

「番君将梅鋗功多故封十万戸侯(番君の将梅鋗功多し。故に十万戸侯に封ず)」(『史記』項羽本紀)

 

とあり、項羽の分封の際に諸侯王となるわけでもなく、陳余のように列伝があるわけでもないのにわざわざ一筆書き添えられている。しかも梅鋗の名前はこの後、呉芮が長沙王に再封建されるまで出現せず、全く以って重要人物ではないと推し量られる。以上の点からこの梅鋗の功績は敢えて特筆すべきものであったと見なせる。それはどういうことかというと、後に呉芮が長沙王に封建されるときの理由となる為にここで目立つように書いておこうという意図があったのではないかと推察するのだ。ちなみに楚漢戦争の東進の際にも漢軍は武関を通過するのだが、このときは薛欧、王吸に命じてとあるのでこの場に梅鋗がいたとは考えにくい。更にいえばこの武関突入は秦楚之際月表によれば義帝暗殺前のことなので、義帝暗殺時に項羽の手足として働いた呉芮の配下である梅鋗が漢軍に従っていた可能性は極めて低いだろう。やはり西進時のことを指している。

 これらの点から考えるに筆者は呉芮封建の功績は秦楚戦争から来るものと扱う。なぜ秦楚戦争の功績によって諸侯王となるのか、それはやはり臧荼と同じく呉芮が実際には対楚戦に大きな功績がないということを示しているのではないだろうか。こういう理由でこの両者は異姓諸侯王にまでなりながら列伝が存在しないのだろう。

 筆者としては以上の点から呉芮は臧荼と同様に本来封建されていた衡山王の地位についたまま劉邦側につき、長沙王になり、王位を保ち続けたとしたいのだが、楯身智志氏によれば

 

「項羽によって領土を「侵奪」された元衡山王の呉芮も、詳しい経緯は不明なものの、やはり同じように王への復位を期待して漢に服属していたのではないか」3

 

とする。筆者はこの意見には反対であり、呉芮は王位を保ち続けており、項羽による侵奪もなかったと考えている。詳細は次の項目にて述べるとしよう。

 

 

3)楯身智志 「漢初における郡国制の形成と展開」『古代文化』第62号-1 古代学協会 2010年 p6

 


 
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