No.202225

生まれ変われた日(前編)

小市民さん

社会では学歴、職権こそが第一義とする秘書室係長の西尾さかえは、まるで真逆の考えで生きる総務課主任の宇井 認(うい みとめ)は目障りでした。こうした二人にも別れが訪れますが……皆さんお久しぶり、小市民の短編小説をお楽しみ下さい。後編もお楽しみに!

2011-02-18 10:50:25 投稿 / 全2ページ    総閲覧数:396   閲覧ユーザー数:376

 変わった男、という印象を受けた。

 西尾さかえにとって、宇井 認(うい みとめ)はどうにも肌に合わない。目障りと言ってもいい存在だった。

 さかえは東京都新宿区新宿六丁目の明治通りに面して本社ビルを構えたガイア建設の秘書室の係長に就き、認は総務課の主任を務めている。

 さかえは直属の上司の秘書室長よりも勤務年数が長く、こと仕事に関しては社長は勿論、本社内の役員、全国十二支店の支店長からも一目置かれている存在、という自負があった。また、社内の女子社員からは、『お局さま』と陰口こそたたかれているものの、ものを言える者などいない。

 『社長直結』という長年の認識が社内にある。

 しかし、認は違った。ある日、社長が個人として現金書留を発送することになり、さかえに任された。

 さかえは銀行での振込が一般化している時代に、現金書留の手続きを調べるのが煩わしく、業務として郵便物を扱っている総務課に、まず内線電話をかけ、日常、殆どない特殊取扱を命じようとすると、たまたま認が受話器を取り、

「現金書留の郵便料金の算出は複雑で、総務課では取り扱っておりません。それぞれの部署で対応を図って下さい」

 にべもなく断った。本支店の役員ですら、かしずくがごとくの物腰で接するさかえは自尊心を傷つけられた思いで、

「差出人が社長の郵便物だって言ったでしょ。あんた、社長にも同じこと言えんの?」

 社長秘書という立場で高圧的に質したが、通話相手になっている認は淡々とした口調を改めることなく、

「社内の取り決めを率先して遵守するのが、総務課の仕事です。それに、今、西尾係長のお話を聞いた限りでは、社長個人の郵便物だということでしたね。それなら、社長ご自身で郵便局に行っていただくか、どうしても郵送料を会社の費用としたいのなら、社長の交際接待費の中から出金して下さい。それこそ秘書室の仕事です」

 受話器を置いた。認の言うことは全くの正論で、さかえは一言として言い返せず、自分で郵便局へ行き、手続きを一から学んだのだった。

 さかえは二十九歳で、水道橋の丘の上にある著名な女子大学を卒業しての入社で、在職七年になるが、認は中途採用の三年目で、おまけに高卒であったから、所詮、東証二部のガイア建設では先など知れていたが、時折、垣間見せる言動は妙に役員に受けがいい。

 ガイア建設の管理部門と呼ばれる経理、財務、人事、総務などの事務方は、朝礼の際、当番表にしたがって社員から専務までが例外なく三分間スピーチを行う。

 この三分間スピーチで、認が話す内容とは、好きな史実を日常に生かす知恵として説くのだった。

 ずらりと事務方の社員、主任、係長がフロアに整列し、対峙して課長以上が並び、その中央にぴしりとしたスーツ姿で立った認は、話し慣れた物腰で、一同をゆっくりと見渡しながら、

「鎌倉時代初めの承久二年(一二一九)閏二月十五日、大和の名刹・長谷寺が燃えてしまいました。これは、草創以来、六度目の火災ということです。

 この罹災により、本尊の十一面観音像も頂上仏を除いて惜しくも灰燼と帰してしまいました。この本尊の再興に快慶という仏師、即ち仏像彫刻師が起用されたのでした。

 こうした記録を現在に伝える長谷寺再興縁起に快慶を評し、同時代の人から、彼が類い希な名匠として、その技を高く評価されていたことを記し、また彼の仏教、特に浄土教への関心と帰依は、常人の域を超え、敬虔な求道者の立場を持していた、とも伝えています。

 そもそも寺院の縁起書とは、寺院に起きた大きな寺歴のみを記すものであって、いかに本尊の造像責任者であっても、個人の技量や信仰を伝えることは極めて希なこと、と聞いています。

 私も社歴に名を残すほどの存在とまでなれずとも、ご縁あって同じ職場で働く皆さんには、常に誠実であり続けたいと願っています。以上です」

 知識のひけらかしと歯の浮くような締めくくりとも取れるスピーチであったが、年配の役員にとっては気に入られ、事務方を統括する専務が解散しながら、

「いやいや、宇井君のスピーチはいつもうんちくに富んでいて面白いね」

 世辞半分に総務部長に言うと、総務部長もまんざらでもなさそうに、

「宇井君は日本史に興味があるんですよ、そうかと思えば、クラシック音楽も好きらしい。変わった若者ですね」

 応えると、認は威儀を正し、専務と総務部長に対し、「恐れ入ります」と言い、一礼した。

 こうして、上席者に対して認はへつらいが達者なのかと、さかえが一部始終を横目で見ていると、翌朝、地方の大学を出たての新入社員が朝礼でスピーチ当番に当たっているにも関わらず遅刻し、司会に当たっていた経理の女子社員が為す術もなく、事務方一同の面前で泣き出してしまう、と言う出来事が起きた。

 新入社員が臆面もなく事務机に向かおうとすると、認は新入社員の肩を引っ掴み、

「お前、今日は朝礼当番だと伝えておいただろう。お前の遅刻のせいで、経理の新井さんは何も出来ず、満座で赤っ恥をかかされたんだぞ。さっさと新井さんに謝ってこい、それから、明日は絶対に遅刻するな!」

 厳しく叱りつけ、巧みに認自身が悪役を買って出て、新入社員と経理の女子社員にやり直しの機会をもたせたのだった。

 こうして、三十をわずかに出たばかりの認が、妙に機知に富んでいるにも関わらず、さかえが常に旨とする学歴、学閥、人脈、職位といった肩書きにまるで興味を示さない生き方は、理解できなかった。

 しかし、まるで対照的なさかえと認の別れは早かった。

 二年後の初夏、ガイア建設は会社更生法の適用を申請し、受理されたのだった。会社更生法の適用を受ければ、事実上の倒産ではあったが、再建の見込みがあり、事業の維持更生がはかられるものの、それまでの殆どの役員が追われ、多くの社員も依願退職を迫られる。

 同じ頃、さかえも東京六大学に名を連ねる慶翔大学出身で、国土交通省に勤める男性と見合いし、婚約した。

 多くの役員の入れ替えが行われる中、さかえは退職の手続きを済ませ、戦々恐々とする社内の雰囲気を尻目に、自分の人生は勝ち組、という思いで、帰宅のために秘書室がある九階から一人でエレベーターに乗ると、総務課がある八階から、認と総務課の男性社員が乗ってきた。

 男性社員が認に、

「宇井さんまで、依願退職するなんて。宇井さんは上からの評価もよかったのに、本当に残念です」

 退職願を提出した認に唇を噛みしめてうつむくと、認は、

「この会社はもう死に体だ、俺が辞めることで、残れる人が一人でも増えれば、俺も誰かの役に立ったことになる。それに、俺は今まで尽くした会社に追われる、なんて感じてないんだ。俺の中でガイアとのつき合いは満了した、と納得している。だから心残りはないよ」

 相変わらず淡々とした口調で言った。

 さかえにとって、その認の受け答えは、まるで悟りを開いた聖者気取りで、長引く不況の中で在籍の順を譲ることなど、生活の順を譲ることにもふさわしく、どうにも腹に据えかねた。

 エレベーターが一階につき、明治通りに面した広々としたロビーに出ると、さかえは認に一言ぐらい言ってやろうか、と考えたそのとき、認の方から、

「西岡係長」

 思いもかけず声をかけてきた。さかえは心の中を見透かされたような思いに驚き、足を止めると、認は、

「今の西岡係長の生き方は自分自身を不幸にしています。一日も早く、不幸の根源に気付いて下さい。僕は出会った誰もが幸福になってほしいと願っています」

 さかえを真っ直ぐに見つめ、真摯に言った。さかえは社内の誰もが、さかえは社長と直結、という立場を煙たがり、正面切って目を合わせて話しをする者など誰一人としていなかっただけに、凝然として認を見つめた。

 認はにこりと笑うと、社屋を出て行った。さかえは、聖者気取りのバカ野郎、と一言ぐらい言ってやろうと常々、思っていた相手から、まさか生涯のしあわせを願っている、と伝えられては、認の後ろ姿を黙って見送るほかなかった。

 


 
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