No.19946

闇の聖女 (第一部・第一章・1~3)

みいさん

人間に<魔物の森>と呼ばれる深い森に、ある日幼い少女が、実の母親によって再婚に邪魔だという理由で捨てられた。
少女の名はアシェン。まだ、たったの四歳だった。
その夜、この森の奥の館の主であるサークシーズとアシェンは出会った。
サークシーズは魔族の最高位<ティグニフィードラ>の一族――吸血妖魔だった。
しかし、アシェンの幼いながらの、まるで月の光のような美しさに惹かれ、サークシーズはアシェンを館に連れ帰り、養うことにしてしまった。

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2008-07-18 16:31:56 投稿 / 全3ページ    総閲覧数:635   閲覧ユーザー数:607

1.月の娘

 

 

 抜けるような青空の、爽やかな朝だった。幼い少女は家から飛び出し、澄んだ空を見上げて灰色の円らな瞳を輝かせた。昨日から今日のこんな空を願っていた。今日は母親と森へ苺を摘みに行く約束になっているからだった。

 家の中から香ばしいパンの匂いが漂ってきた。それを胸いっぱいに吸い込みながら、少女は今日という日の素晴らしさを予感した。淡い金の髪を透かす春の穏やかな陽光を浴びて幸福感に満たされ、少女は母親の愛が待つはずの我が家へ駆け戻った。

 まだ四歳にしかならない少女は知らなかった。森へ行く本当の理由も、母親の愛などとうに失われているということも。母親の愛は少し前から、恋人にのみ向けられていた。夫が病死して二年が過ぎた今、まだ若い母親にとって我が子は、恋人と結ばれるにあたっては邪魔者でしかなかったのだ。

 だが、そんな事情など少女に分かるはずがなかった。愛してくれていると信じていた。それが裏切られることなど、考えたこともなかった……。

 

 

 少女の生まれ育った街ポウジーは大きな森から小一時間のところにある。そのため日々の糧を得る場所として、街の人々はよくこの森に入る。しかし決して必要以上に奥へ踏み込む者はいないし、日暮れともなれば近付く者すらいなかった。

 魔物の森――この森がそう呼ばれているからだった。 そんな場所でも、生まれて初めて行く森に、幼い少女は大喜びだった。苺を入れるための籠を大事そうにギュッと抱き締め、鞠が跳ねるようにはしゃいでいる。

 春の森は瑞々しい青葉の香りがした。木々の隙間から差し込む陽の光の暖かな匂いもする。とても魔物の森とは思えない。だからこそポウジーの街の人々も、この森に生活の糧を求めることができるのだった。

 やがて母娘の目の前に木苺の茂みが現れた。清楚な白い花と共に真っ赤な実がたわわに実っている。その一粒一粒が宝石のように輝いて。

「わあっ……!」

 感嘆の声をあげて、少女は木苺に駆け寄った。灰色の瞳を輝かせて、真紅の小さな実を見つめる。それからパッと母親を振り返った。

「ママーっ、いっぱいー! ほらーっ!」

「ホントだ。凄いね」

 愛していない我が子に笑みを見せながら、母親は今一度その姿を見つめた。彼女に似て美しい子だった。こうして森にいると妖精のようだ。森はこの子を傷つけはしないかもしれない――そう思えてしまう程に。しかし、ここは魔物の森。昼間ならばともかく、夜になってしまえば……。<br> 母親は頭を振った。今更憐れむわけにはいかない。もう決めたことなのだ。彼女は覚悟を固め、我が子に呼びかけた。

「ねえ、アシェン」

「なあに?」

「ママ、もう少しあっちも探してみるわ。だから、ね、ちょっとここで待ってて」

 少女――アシェンはほんの少しの間逡巡したが、すぐに素直に頷いた。

「はーい」

 疑うことなど知らない子だった。母親はアシェンの笑顔に後ろめたさを覚えたが、それを振り切った。

「いい子ね、アシェン。じゃあ、どっちが沢山採れるか競争よ」

 そう言って、母親はきっぱりと我が子に背を向けた。その背に元気に頷く声がする。<br> しかし、彼女は振り返らずに歩み去った。アシェンは何の疑いも抱かずに、それを見送った。それが最後に見る母の姿だとは、夢にも思わずに。そして機嫌良く、小さな手で苺を摘み始めたのだった。

 

 

 どっちが沢山採れるか競争よ、という母親の言葉に張り切っていたアシェンの籠の中は、すぐにキラキラと輝く小さな赤い実でいっぱいになった。しかし、まだ母親が戻らない。アシェンは少しでも多く採って母親に勝とうと、少しずつ、もう入らない籠に木苺を積み上げていった。

 それが山盛りになって、こぼさずには持ち運べない程になっても、やはり母親は戻ってこない。さすがに心配になってきてはいたアシェンだが、彼女は辛抱強くその場に座り込み、母を待ち続けた。

 どのくらい待ったのだろうか。周囲の木々の表情が、変貌を始めた。

 遅すぎる。

 ザアッという梢のざわめきに驚いて立ち上がり、アシェンは怯えたように辺りを見回した。誰もいない。不安にあどけない顔が強張る。

 母の姿を求めてアシェンは駆け出した。そんな少女をやがて闇が取り巻き、迷わせる。

「ママーっ!」

 もう、ここがどこかも分からない。それでもアシェンは母を呼びながら、今ではすっかり魔の領域となった夜の森を彷徨い続けた。

 木々の警告に気付くことなく……。

2.夜の公子

 

 

 同じ森の中を、ひとりの青年が散歩していた。長い黒髪に黒い瞳。端正な顔は白いが、ひ弱な印象を全く与えない。それどころか、はかり知れない力がその身のうちから輝き出しているような、そんな雰囲気を漂わせていた。彼はこの森の奥に建つ館に住む者、名をサークシーズという。

 人々がこの森を『魔物の森』と呼んできたのは、故ないことではなかったのだ。サークシーズはまさにその魔物、魔族の一員なのだった。

 森自体がサークシーズに敬意を表している。それをそよ風のように心地よく感じながら、サークシーズは己が領域たるこの森を悠然と歩んでいた。その姿はまさに夜の公子、気品と力に溢れていた。

 数刻が過ぎた頃、不意にサークシーズは足を止めた。どこかから声がする。その方向を探って、目を向ける。闇の中でも視力の利く彼は、遠くにひとりの人間の子供の姿を認めた。

 このような場所に……?

 サークシーズは眉根を寄せた。こんなにこの森の奥まで入ってくる人間などいない。たとえ昼間でも、だ。皆、自分の命が惜しいから。勿論、過去には来た者も僅かながらいた。魔族を葬り去ろうとする神官たちだ。しかし、彼らはこの森の中でとうに朽ち果てた。仲間を次々に失った神官たちは、いつしかこの森には現れなくなっていた。

 立ち止まって様子を見ているサークシーズに、子供はだんだんと近付いてきていた。それは、まだ幼い少女だった。少女は目の前に誰かがいることに気付いたらしく、サークシーズの手前でぴたりと立ち止まった。暗くてよく見えないのだろう、灰色の目をじっと凝らしている。<br> そのとき、不意に雲間から覗いた月の光が木々の透き間から差し込み、サークシーズの姿を照らし出した。

 サークシーズの黒い目と少女の灰色の目が合った。少女は少しの間不思議そうにサークシーズを見上げていたが、やがてそっと口を開いた。

「ママ……しらない?」

 サークシーズの正体を知らないからだろう。あどけない顔は心細さと疲れに曇っているが、彼を恐れている様子はない。少女はじっと、ただすがるように彼を見上げている。しかし、サークシーズは淡々と、こう言うだけだった。

「知らぬな。親とはぐれたのなら、どこかに身を隠すがよいぞ。夜の森は人間のものではない」

 少女が成人だったなら、サークシーズは自分の領域を侵した罪を命を以って償わせていただろう。その者の血を自分の<食事>にして。しかし、子供は襲わない。それが彼の主義だった。子供は成長して新たな子を為し、<食事>の提供者を増やしてくれる。人間がサークシーズに<食事>を提供するのは、それからで充分なのだ。

 サークシーズが今この少女を見逃しても、少女は今夜死んでしまうかもしれない。しかし、主義は主義だ。サークシーズは自分の主義を簡単に曲げたりはしない。だから、サークシーズはもう少女には構わずに、その横をさっと通り過ぎた。

 少女は……アシェンは小さな頭を巡らせて、サークシーズを目で追った。そして、遠ざかって行く無表情な後姿を見つめていた。それはやがて闇に没してしまった。

 今アシェンの周りにあるのは闇だけになっていた。月も再び雲に隠されている。アシェンはどうしようもない孤独感に襲われた。ここには何もない。パンのいい匂いもない。遊び友達の人形もない。昼間一生懸命に摘んだ苺もない。そして……母親もいない。大好きなものが何一つ残されていない。

 寂しくて、心細くて……。

 アシェンは恐る恐るサークシーズの後を追った。

 サークシーズは気配で少女がついて来たことに気付いた。不機嫌そうに眉をひそめ、立ち止まる。後ろを振り返ると、闇の中を懸命に歩く少女がいた。

 アシェンはサークシーズの黒い目を見ると、びくっと立ち止まった。サークシーズはたった一言、冷たく言った。

「ついて来るな」

 途端にアシェンの灰色の目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。折しも再び現れていた月の光を受け、涙は星の雫のように光って砕けた。淡い金の髪が、降り注ぐ月光さながらに静かに輝く。灰色だった瞳が銀の星になる。

 サークシース゛の目に、それがいかに儚く美しく映ったことだろう。彼は思わず、我を忘れて少女に見入った。夜の種族が何よりも愛でる月の光と星の光。それらが目の前でこの人間の幼い少女を形作っているようだった。

 このままここに放っていけば、少女は生き延びられないだろう。こんな幼い人間の子供など、夜の森は簡単に食ってしまう。だが、この美しいものが壊れてしまうのは……偲びない。

「名は?」

 サークシーズが尋ねると、アシエンは泣き顔のまま答える。

「……アシェン」

 サークシーズは溜め息をついた。自分の行動に我ながら呆れてしまう。主人が人間の子供などを連れ帰ったら、館の者たちはどんな顔をするだろう。

「おいで」

 サークシーズは手を差し出した。アシェンは目を真ん丸くして、サークシーズを見た。そして、差し出された手を。その手にそろっと小さな手が触れる。

 サークシーズは微笑んで、アシェンの小さな身体を抱き上げた。アシェンはサークシーズの胸にぐっと顔を摺り寄せ、しっかりと彼の衣を握り締めた。

3.一夜の小さな客

 

 

「サ……サークシーズ様! 何なんです、それはっ!?」

 サークシーズの思ったとおり、彼の第一側近である魔狼の若者が、顔を引きつらせて声をあげた。一見したところは人間だが、尖った耳が狼の毛に覆われている。その毛を逆立てる彼とは対照的に、サークシーズは平然と答えた。

「何って、人間の子供だが」

「そんなことは見れば分かります!」 

 魔狼の若者は顔をしかめる。

「でも、まさかあなたの<食事>ってわけではないんでしょうに」

「当然だ。迷子を拾ってきただけだ」

「拾ったって……」

 若者はあからさまに、呆れた、という顔をした。

「人間が犬や猫の子を拾うんじゃないんですよ」

「分かっている。今宵だけだ。わたしは今から街へ行くから、この子を頼む」

 サークシーズは抱いていたアシェンを若者に差し出した。若者が渋々ながらも受け取ると、アシェンは頭を巡らせて不安げにサークシーズを見つめた。

「大丈夫だ」

 サークシーズが一言そう言ってやると、アシェンは今度は、今自分を抱いている若者の衣を握り締めた。それを見て、若者は溜め息をつく。

「今宵だけですよ、サークシーズ様」

「すまぬな、ヴィスト」

 そう言うと、サークシーズは再び館から出て行った。魔狼の若者ヴィストは再び溜め息をついた。彼はサークシーズを主人としてとても慕っているので、言いつけには従うが。

(それに、あのかたに、すまぬな、なんて言われちゃ……な。)

 心の中でそう独りごち、ヴイストはアシェンを抱いたまま館の奥へ歩き出した。

 

 

「きゃーっ、可愛いーっ!」

 いきなり素っ頓狂な声が降ってきた。ヴィストがしかめた顔を上げてみると、玄関ホールの両脇の豪華な階段の上、テラスのようになっている場所に、ひとりの娘がいた。ヴィストと同じようにこの館でサークシーズに仕えている妖狐の娘、キュステだ。キュステは左の階段から嬉しそうに駆け降りてきた。

「うっそー! どーしたの、これ!?」

 キュステは黄色い目を好奇心いっぱいに輝かせ、人型になっているときでも残したままの自慢のフサフサの尻尾を振って騒ぎ立てた。

「サークシーズ様からの預かり物だよ」

 全く面白くなさそうにヴィストは答える。しかし、キュステはとても楽しそうだ。

「そうなの? ねーねー、あたしにも抱かせて!」

「……そら。こんなモン、いつでも持っていけ」

 ヴィストは仏頂面で、抱いていたアシェンをキュステに渡した。キュステは大喜びで、ぬいぐるみのようにアシェンを抱き締める。

「ありがと、ヴィスト!」

 何が何やら分からずきょとんとしているアシェンを抱いて、キュステはウキウキとした足取りで階段を上っていった。

「……おめでたいヤツ……。ま、厄介払いできてこっちも助かったけどな」

 キュステの後姿を呆れ顔で見送りながら、思わず今夜三度めの溜め息をついてしまうヴィストだった。

 

 

 その夜明け前、サークシーズは一夜の小さな客を連れて森の外れの空き地に跳んだ。

 朝になれば親が捜しにくるだろう。彼はアシェンをナナカマドの木の前に下ろし、淡い金の髪を撫でてやった。そして、一方を指差しながら言った。

「街はあちらだ。そのうち人間に会えるだろう。早く見つけてもらえ」

 東の空がほんのりと紅に染まる。サークシーズは急いで立ち去った。魔族にとって太陽は致命的だ。陽の昇るまでに館に戻らなければならない。

 その場で忽然と姿を消したサークシーズの立っていた場所を、アシェンはただ黙って見つめていた。

 やがて朝日が昇った。しかしアシェンはサークシーズに教わった方向へ歩こうとはせず、ナナカマドの根元に座り込んだ。木々の透き間から射し込む陽光に、少女の淡い金の髪が溶ける。陽光の下では月の光が溶けてしまうように。

 探しに来てくれる人など、いるはずがない。事態をよく飲み込めていなかったアシェンにも、だんだんと分かってきた。自分は母に愛されていない。愛されていると、ずっと信じていたのに……。

 今アシェンは、母親よりもサークシーズを待っていた。なぜかは分からなかったが、彼なら来てくれるような気がした。

 だから、じっと待っていた。お腹もすいたし、心細かったが。じっと待っていた。サークシーズに置かれたままの場所で、ずっと。

 

 

 サークシーズは陽が沈んだ直後に目覚めた。豪華な天蓋寝台の垂れ幕を寄せて、寝台を降りる。窓に掛かる日よけの分厚いカーテンを開けて空を見ると、陽は落ちたとはいえ、まだわりと明るい。

 緩く一つに編んであった長い黒髪をほどき身支度を整えながら、夜明け前に森の外れに置いてきた少女のことが妙に気に掛かっていた。よもや、まだあそこにいるわけはあるまい。そうは思ったが。

 偽善かもしれない。いや、そもそも魔族たる自分に善の観念などあるのか? とにかく、いくら命を救ってやったところで、所詮将来は自分の<食事>になるだけかもしれないというのに。

 サークシーズは苦笑した。両開きの扉へ向かいかけて、ふと、足を止める。

(ヴィストに捕まると厄介だな。)

 こんなに早くからどちらにいらっしゃるんですか、と問い詰められるに違いない。サークシーズは踵を返し、窓を開けた。そして、そこから軽々と身を躍らせた。

 魔族は次元の狭間を通って、知っている場所へならどこへでも一瞬で跳べる。しかし、毎夜自分の森の中を歩くのは、サークシーズの日課だった。サークシーズの足は、まっすぐに森の外れに向かっていた。アシェンを置いてきた、ナナカマドの木のある空き地へ。もうそこに少女がいないことを願いながらも、心のどこかではいることも期待している。そんな、奇妙な気持ちだった。

 数刻後、目的の場所に辿り着いたサークシーズは、我が目を疑った。

 少女はまだいる。もうすっかり暗いというのに、彼の置いた場所から一歩も動かずに。

「アシェン……!」

 思わずサークシーズは少女の名を呼んでいた。

 アシェンはパッと顔を上げた。そして、サークシーズの姿を認めると、嬉しそうに駆け寄っていった。かがんでやったサークシーズの胸に、そのまま飛び込む。

「まだいたのか」

 サークシーズは言った。

「誰も来なかったのか?」

 嬉しさに輝いていたアシェンの笑顔が、急に泣き出しそうに歪んだ。それが返事だった。

「そうか……捨てられたのだな」

 憐れみが心に沸き起こる。今まで、人間を憐れんだことなどないというのに。サークシーズは腕の中の少女を、幼いが美しく儚げな少女を、そっと抱き締めた。アシェンが小さな身体を震わせて泣いているのが感じられる。

 時として、人間は魔族よりずっと残酷だ。こんな森の中に幼い子供を置き去りにすればその子がどうなるか、知らないはずはない。幸い、本当に幸いにもアシェンは無事だったが。しかし、これは稀なこと。森はひどく危険な場所なのだ。殊更に夜は。捨てるなら捨てるで、他に場所はなかったのか。

 サークシーズはアシェンの髪を撫で、言った。

「人間がおまえを受け入れぬのなら、わたしと来るがいい。どうだアシェン、わたしと来るか?」

 心からの憐れみだろうか。それとも一時の酔狂だろうか。それはサークシーズ自身にも分からなかった。しかし、どちらにせよアシェンには関係なかった。母親は来なかった。サークシーズは来てくれた。ただ、それだけだ。そして、それだけで充分だった。

「いく……いくから……だからアシェン、おいてかないで」

 サークシーズはアシェンの小さな頭を自分の胸に押し当てて微笑んだ。ひどく愛しそうに。そして、そんな表情をした彼を見たことがある者は、今までに誰もいなかった。

 

 

(闇の聖女(第一部・第一章・4~6)に続きます)


 
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