No.185909

メクセトと魔女 (ラダムストンの解釈による)

その都市国家には滅亡の刻が迫っていた。
それは従属民族の走狗にしか過ぎなかった一人の男によってもたらされようとしていた。
その男は都市国家の従属民族による連合軍も正規軍をも易々と滅ぼし、都市国家に迫っていた。いかなる謀も軍略も、男の前では無力だった。
男は魔王だった。
故に、都市国家は目には目を、魔には魔をと最後の手段をとったのだが……

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2010-11-22 02:07:50 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:921   閲覧ユーザー数:915

1.

「嘘……こんなことありえない」

土煙舞う中、少女は大きく目を見開いて呟いた。

それはあり得ない出来事のはずだった……そんなことはあってはならないはずだった。

だが、彼女の目の前の出来事は紛れもなく真実だ。

「何で……どうして?」

「ふん、お前、『魔女』か」

彼女の目の前で、次第に晴れていく土煙の中、一つの人影が姿を現そうとしていた。

それは逞しい体つきの、長く伸ばしたざんばらの髪型をした、鋭い目が特徴的な背の高い男の姿だった。

軽く左手を挙げた男は、人々から恐れられる存在である「魔女」も彼にとっては大した存在ではない、とでも言わんばかりに不敵に口元を歪めた。

その笑みが彼女には限りなく邪悪なものに見え、彼女は思わず後ずさった。

恐怖、という彼女にはあってはならない感情が彼女の中でゆっくりと鎌首をあげる。

「面白い手品だ、もう一度やって見せろ」

その言葉に彼女は絶叫し、もう一度同じことを……彼女の知る限りの最強の攻撃魔法による力の塊を男にぶつけた。

だが、結果は同じだった。

まるで同じ刻が繰り返されたかのように男は再び軽く左手を挙げ、力の塊は脆い何かが砕かれたように四散して大気の中へと消えていく。あとには消滅しきれなかった力が地面にぶつかり砂埃だけが派手に舞うのみだった。

「嘘……嘘……こんなわけ、ない」

それは彼女の渾身の力のはずだった。

これに直撃されて地上に存在する物質があるはずはないのである。

だというのに、目の前の男は傷一つなく、それどころか着衣一つ乱れた様子もなく彼女の前に立ちはだかっていた。

「やれやれ興醒めだな。栄華を誇りし、『ハイダル・マリクの切り札』がこの程度とはな」

男は肩を竦め、彼女はその場に思わず座り込みそうになる。

「何者なのよ……何なのよ、貴方?」

「余の名前なら既に知っておろう」まるで彼女を見下すように笑みを浮かべながら男は言う。「余の名はメクセト。これより全てを統べる者だ」

彼女は恐怖に再び絶叫し、そして知る限りの、ありったけの魔法を男に叩き込んだ。

 

 

全ての栄華に終わりがあるように、その都市国家にも終わりの刻が迫っていた。

それは従属民族の走狗にしか過ぎなかったはずの一人の男によってもたらされようとしていた。

その男の統べる叛徒は、従属民族によって構成された傭兵部隊の大軍を打ち倒し、虎の子の正規軍をも易々と打ち倒した。

あらゆる力も、魔法も、知略も全てはその男の前では無力だった。

男は正に『魔人』だった。

故に、毒には毒を、魔には魔をと都市国家は最期の手段を講じたのだが……

 

 

白亜と宝玉に彩られた宮殿の中、人々はその美しい少女に溜息をついた。

少女はその豊かな黒髪を無造作に紅い紐で結わえ、服装は質素な白服の上から色数の乏しい幾何模様のマントといういでたちだったが、その美しさは決してこの都市国家の後宮の寵妃達にも劣るものではなかった。むしろ、その誰よりも美しいと言っても過言ではなかった。

だが、彼らのそれは決して少女の美しさに嘆息したわけではない。

それは落胆の溜息だった。

「おぉ、何ということだ」軍政官の男は呟くように、そして絶望したように言う。「人類を裏切る行為だと知りながら、かかる行為に及んだというのに……」

「遂に栄華を誇りしハイダル・マリクも終焉ということか……」

少女は暫くざわめく群臣を眺め回していたが、やがて、ふんと小馬鹿にするように鼻を鳴らした。

「人類の至宝なんて言われているぐらいだから、どんな所かと思って来たら、とんだ名前倒れも良い所ね」

突然の少女の言葉に、一同はあっけに取られたが、やがて「何を言うか、小娘!」と文政官の一人が抗議する。

「そうだ、畏れおおくも陛下の御前なるぞ!」

彼らは口々に少女の無礼を責め立てたが、少女は怯むことなく「下が下なら上も上ね」と小馬鹿にした口調で言った。

その視線は、群臣達の後ろの金色の玉座に腰を下ろした男に向けられていた。

「貴方達が同盟を求めるからわざわざ姉妹の代表として来たというのに、こんな無礼な態度をとる臣下を責めもしないなんてね」

「この娘の言う通りである」玉座の金と翡翠で作られた獅子の仮面の王は、静かな口調で彼女に答えて言う。「娘よ、臣下に代わり、非礼を詫びよう」

「陛下……」

王の言葉に驚いて、文政官が何かを言おうとしたが、「良いのだ」と男はそれを制止した。

そして男は玉座から立ち上がり、少女の前まで歩み寄るとその足元に跪く。

「陛下、なりませぬぞ、この小娘は……」

王の行動に驚いて、その文政官は彼の行動を止めさせようとしたが、「良いのだ!」と彼は一喝し、「ハイダル・マリクが王である。援軍に感謝する」と跪いたまま言った。

その王の態度に、少女は体を逸らしたまま、「ま、及第点という所ね」と、屈辱に身を震わせて耐える群臣を悪戯っぽい流し目で見回しながら言った。明らかに彼女は群臣の態度を見て楽しんでいた。

本来ならば、これは立派な不敬罪に当たる行為のはずだったが、今の彼らはそれに言及できる立場になかった。

「それじゃ本題、まず私達姉妹は貴方達人間とは同盟を結びません」

「ふざけるな!」

少女の言葉に、軍政官の一人が身を乗り出して叫んだ。

「かかる屈辱に耐え、『人類の裏切り者』の汚名を後世まで被る覚悟で同盟を結ぼうという我々の申し出を、お前達は無下に断るというのか?」

「まっ、当然よね。貴方達が私達姉妹にした迫害の数々を考えれば、そんな申し出受けるわけないじゃないの」

軍政官の抗議をさらり流すようにして言う少女の言葉に、宮廷内は絶望と憤怒に彩られた。

実際は彼女の言うとおりだった。彼らは彼女達姉妹を『忌むべきもの』として迫害してきたし、蔑んできた。非道な振る舞いすら辞さなかったし、それらに対して恥ずる所もなかった。だからこの期に及んで同盟の話を持ちかけるなど彼女達からすれば「虫の良い」話以外の何物でもなかったのだが、そういった客観的視点に立って物事を見る余裕など既に彼らには無かったのだ。

少女はその場の雰囲気に呑まれることなく平然とした様子で憤る彼らを見ていたが、やがて「人の話は最期まで聞きなさいよね」と話を切り出した。

「ただし、今回だけは貴方達に助力します。条件は一つ、以後私達姉妹に干渉しないこと。同盟を結ぼうとまで言った貴方達なんだから、このぐらいの条件は呑むでしょ」

沈黙が宮廷を支配する。

彼女達に干渉しないということは、ある意味同盟を結ぶよりも取り返しのつかない結末になるかもしれないことだった。

別に彼らも、理由が無く彼女達姉妹を迫害してきたわけではなかったのだ。それにはそれなりの理由があってのことだった。彼女達の跳梁を許せば自分達の繁栄、しいては自身の存続に関わるからだ。

だが、もし今、彼女達の助力がなければ、この都市国家に待ち受ける運命は確実な滅亡である。

「……願ってもいない条件。この王、しかと受け止めよう」

沈黙を破り、少女に跪いたままの王が口を開いた。

既にして、彼女達に同盟を申し入れたこと自体が『人類を裏切る』行為なのだ。これ以上、何の汚名を恐れる必要があろうか?。汚れるというのならば、どこまでも汚れてでも生き延びてやろうではないか。未来永劫、子々孫々に至るまで罵られてみせようではないか。その覚悟がこの王にはあった。

その王の心を分かっているのか分かっていないのか、「感心、感心」と少女は相も代わらず小馬鹿にした態度で言う。

「それでこそ、援軍に来た甲斐もあるってものね」

「一つ質問して良いかね?」年老いた軍政官が、恐る恐る口を開いた。「援軍というのは君一人なのかね?」

「えぇ、そうよ」

当たり前のことのように少女は答えた。

「……それで勝てるのかね、あの男、メクセトに」

わずかな沈黙の間をおいて軍政官は少女に尋ねる。

「愚問ね」

少女は鼻を鳴らして言う。

「信頼していいのだな?」

「それも愚問だわ」

自信ありげに少女は答えた。

群臣たちは互いに顔を合わせ、ひそひそと何かを囁きあっていたが、やがて群臣の中から一人の男が彼女の目の前に現れ、王と同じように少女に跪いて言った。

「私からも頼む、この国を、ハイダル・マリクを是非貴方の力で救っていただきたい」

「私からもお願いします」

「私からも……」

どうやら、この男はかなりの有力者だったらしく、群臣達は次々に少女に跪いた。

「頼まれる間でもないわ、私を誰だと思っているわけ?。『キュトスの姉妹』の一人なんだから」

少女はそう言って胸を反らした。

一つの神より分かれ、その異形と卓越した異能ゆえに人々から忌み嫌われる『キュトスの姉妹』。だが、その一員であることは彼女にとっては誇らしいことであるようだった。

「そう言えば……」と王は頭を上げて、少女に聞く。

「余はお前に名を尋ねていなかったな?。名はなんと申す」

「あぁ、それは答えられないわ。私が名前を教えるのは、私が心を許す相手だけなんだからね」

そう言って、少女は身を翻して王宮を後にしようとする。

彼女が目指すは、今回の敵にして、ハイダル・マリクの敵、メクセト。

「まぁ、大船に乗った気持ちで待ってなさい。そのメクセトとやらを見事退治してくるから」

それが数時間前の出来事……

 

 

もはや、それは魔法にすらなっていなかった。

出鱈目な呪文の詠唱と、出鱈目な力の解放。

しかし、それでも尚、その力は濛々たる土埃をあげ、地を抉った。

それは確実に地上のあらゆる物質を破壊するに足りるはずの力だった。

だというのに、土煙の晴れた後、男はそこで何事もなかったかのように悠然と腕を組んだまま立っていた。

その体にはもちろん着衣にすら傷一つない。

「それで終わりか、手品師」

「手品師」と言われて彼女は恐怖にその顔を引きつらせながらも何かをぶつぶつと呟いた。

「聞こえぬぞ。言いたいことがあれば余に聞こえるように言え」

「私は……私は……末妹とは言え『キュトスの姉妹』」少女は震える手を握り締めながら、しかし次の魔法を用意しながら言う。「神より分かれた者。神に等しき力を持つもの。貴方達人間とは違うの!。貴方達人間に負けるはずはないの!。こんなことあっちゃいけないの!!」

「お前の目の前にある余が真実だ。認めるがいい」

男の一言は、少女の世界に取り返しのつかない罅を入れた。

その罅は、少女の世界という形に瞬時に致命的な傷を与え、砕いていく。

「認めない。こんなの認めない!」

しかし、彼女は砕けかけた世界にすがろうとして、目に涙を浮かべながら再び力を解放しようとした。

残った全ての力を、その命すらも、出鱈目な呪文の詠唱に載せて少女は己が世界を繋ぎ止めようとする。しかし……

「もう、その手品は飽きたぞ」

男は少女の目の前へ歩み寄り、そして彼女の手を掴んで呪文の詠唱を止めた。

眼前にその顔を近づけられて少女は息を呑み、そして体中の力が抜けたように座り込んだ。

「どうした、もう終わりか?」

男の言葉に少女は言葉にならない泣き声で嗚咽した。

少女の世界は、今、音を立てて崩壊したのだ。

その少女の腕を掴んだまま男は彼女を見下ろしていたが、やがて開いている方の手を使って少女の顎を掴み、自分の方に無理矢理その顔を向かせた。涙で顔をくしゃくしゃにしながらも美しい顔がそこにはあった。

「ふぅむ……」

その顔を値踏みするように眺めていた男は、やがて「従事官!」と自分の背後に下がらせていた軍勢の中から一人の男を大声で呼んだ。男の声に「ただ今!」と軍勢の中から、一人の若い男が馬を走らせて姿を現せる。

「従事官、余は今宵のうちにハイダル・マリクを焼く」

さも大したことではないかのように、静かな口調で男はそう宣言した。

従事官も男の性格を分かっているのだろうか、「御意に」と当たり前の指令を受けたかのように頭を下げる。

「西門のみを残し他の門に兵を遍く配置せよ。未だハイダル・マリクに残る民や生き延びたい生存者は西門から逃がす。だが、西門以外からは蟻一匹逃すな」

「しかし、それでは……」

王は西門より逃げてしまうのではないか?ということを従事官は心配した。

「安心しろ。あの王は都と運命を共にするであろう。そういう人物だ、あれは」

「しかし、臣下の中には王を無理矢理連れ出すものがいるかもしれません」

「ならば西門に弓兵を伏せておけ」と男は指示を出す。

「いくら身をやつせども、その姿は遠目からでも分かろう。王の姿を見たと思うたのならば迷わず弓を射て、それを殺せ。それより……」

男は、その時になって、ようやく掴んでいた少女の腕を離した。

恐怖に怯え、少女は座り込んだまま男から後ずさった。

しかし、その足を、その腕を、目に見えない鎖のような何かが縛り付けて少女の動きを拘束した。

「ハイダル・マリクを焼き払った後、余はそこに余の宮殿を造るぞ。余の後宮に部屋を一つ用意しておけ」

「……!!」

少女は声にならない絶望の悲鳴をあげた。

それは、男が彼女を蹂躙することを高らかに宣言したということを意味した。

「喜べ、魔女。お前を女として扱ってやる」

「こ、殺しなさい!」

恐怖に怯えながらも、少女はそう言って男に最期の抵抗を試みる。

「人間に好きにされるぐらいなら、私は死を選ぶわ」

「余は勝者なるぞ。敗者に自らの運命を選ぶ権利などない」

にべも無くそう言って、男は、少女を舐めるように見回しながら「楽しみだ」とその顔に邪な笑顔を浮かべて言った。

「散らされた経験の無い乙女の蕾を、いかなる女という花に開花させるか……それが魔女ともなれば、考えるだけでも楽しみだ」

「く……ぅっ」

少女は顔を背け、自らの不運を呪う。

人間ならば、己が誇りを守るために舌を噛んで死を選ぶことも可能だろう。だが、彼女は『キュトスの魔女』である。そのようなことでは死ねぬし、傷口もすぐに癒える。癒えない傷は心の痕だけだ。

「それまで、この魔女は余の幕舎に置いておけ。兵には指一本触れさせるな」

「御意に、メクセト閣下」

 

 

2.

終わらぬ栄華などなく、また散らぬ花などない。

滅びぬ世界もまたあり得ない。

ハイダル・マリクと呼ばれたその都市は一夜にして焼き落とされ、王は自ら命を絶った。

後には何も残らなかった。

ハイダル・マリクは文字通り地上から姿を消したのだ。

そして、メクセトは宣言通りその都市の跡に自らの宮殿を建てた。

まるで何かを馬鹿にするかのように壮麗な宮殿。

そして、その宮殿の後宮に少女の姿はあった。

 

 

僅かに蒼を含んだ白銀の月の光が宮殿内を照らしていた。

その白銀の光の中、少女はその美しい裸体を褥にうつ伏せに横たえていた。

「……」

少女のすすり泣く小さな声が、風に混じって宮殿内のどこかへと消えていく。

それは幾度繰り返された夜の光景だろうか?

「悔しい……私は……」

その後の言葉を彼女は続けることができない。

彼女を彼女たらしめていたその世界は既に砕け散ったからだ。

いや、既に踏みにじられ影すら残っていないのだ。

あの事件の後、メクセトは宣言の通りハイダル・マリクを焼くと、その跡に自らの宮殿を建て、宮殿の中に自らの後宮を作った。彼女にはそのうちの、決して粗末ではない、むしろ豪奢ですらある部屋が一室与えられ、そして宣言通りメクセトは彼女を『女』として扱った。

圧倒的な力の前に蹂躙される夜が幾晩続いたのだろう?

蕾は散らされ、いつしか、自ら望まぬことだというのに女としての悦びに咲こうとしている自分がいる。

砕け散った世界の後に訪れようとしている、それが現実だった。

最近では、もう全てが遠い過去のことなのではないか、いや『キュトスの姉妹』であったことすら夢だったのではないだろうか、とまで彼女は錯覚するようになっていた。

「私は……私は……」

そう呟いてみても、やはり言葉を続けることができず、返って己が現実をさらに理解するだけだ。

ふと、自分を呼ぶ声に気づいて、彼女は顔を上げる。

涙に濡れた、焦点の定まらぬ視線のその先には彼女にとって懐かしい女性の姿があった。

「お姉さま?」

幻覚なのだろうか?とふと彼女は自分の目の前の世界を疑った。

しかし、黒衣に身を包んだそれは、おぼろげな輪郭をしながらも、決して彼女の生み出した幻覚でも妄想でも無かった。確かにそれは……

「ヘリステラお姉さま!」

彼女は寝台より身を起こし、その足元に擦り寄る。

「可愛い妹よ、可愛そうに……」それは日跪いて彼女にそう優しく声をかけた。「君を今すぐにでもここから助け出したい。もうこれ以上辛い目に遭わせたくない。この胸に抱いてやりたい。だが、私がこの通り自らの影を送ってしか君の目の前に姿を現すことができない事からも分かるだろう?。あの男の魔術は強力だ。こと、この後宮にかけられた魔術に関しては、私の力をもってしても実体はもちろん物質すら送り込むことができないぐらいだ。すまない」

それの言う通り後宮には強力な魔法による結界がかけられていた。その中では外部からの魔法はもちろん、内部からの魔法も、ただ一人メクセトの魔法を除いて全てが無力化される。魔法の使えない今の彼女は、外見の通りただの無力な少女にしか過ぎないのだ。

「いいえ、お姉さまの謝ることではありません」彼女は俯いて答えた。「全ては私の失態のせいです」

「それは違う」それは彼女の言葉を優しく諭すようにして否定して言った。「君は私が命令した通りに行動した。一撃で、知る限り最強の魔法を使って渾身の力で倒せ、という命令を忠実に実行した。だが、我々姉妹の誰しもがあの男の実力を見誤った。失態があったとすれば私のほうだ」

「お姉さま……」

少女はそれの足元に泣き崩れる。

それは、このような時に優しく彼女を抱きとめることも、その肩に手を置いてやることもできない不甲斐なさに唇を噛んだ。

「あの男は予想外の存在だ。おそらく『人間』という種が幾億の世代を経て一人産まれるか産まれないかの存在だろう。しかし、その実力が『キュトスの姉妹』を凌駕するなどとは考えてもいなかった。改めて人間という種が恐ろしくなった」

それは言った言葉は、決して冗談から口にした言葉ではなかった。

今まで取るに足らなかった、その気になればいつでも滅ぼせると考えていた『人間』という種族は、今や確実に彼女達の脅威へと変化したのだ。

「あの男をこのまま生かしておくことは、我々『キュトスの姉妹』にとって、いや世界にとって脅威になりかねない。いかなる手段をもってもあれを殲滅しなければならない」

「はい」

少女は答えたが、それは決して姉の心や考えを理解しての言葉と言うより、姉への絶対の忠誠心と信頼から出た言葉だった。

それほどまでに少女は姉に対して絶対の忠誠心と信頼をもっていた。

「もし直接的な力で滅ぼせない場合には暗殺という方法も考える」

「……」

だというのに、なぜか少女には姉が「暗殺」という言葉を口にしたときにそれに対して肯定の言葉を返すことが出来なかった。

メクセトの死……それは彼女の望むところのはず……なのに……

なのに、「暗殺」という方法を用いてのメクセトの死を彼女は何故か受け入れることが出来なかった。何故なのかは分からない。だが、それは間違えている気が彼女にはした。

「どうした?」

少女の迷いに気づいたのか、それは彼女に声をかける。

「いえ……」

彼女は軽く頭を振り、自分の中に湧き上がったその考えを消そうとした。

どのような方法を用いようと、メクセトの死は自分の望むことのはずなのだ。それに姉の思慮は絶対のはずではないか……

「今後の行動は追って伝える。必ず君を救い出してみせる。だから、それまで可哀想だが耐えておくれ、愛しい妹よ」

そういうと、それの姿は夜の闇へと紛れるようにして消えていった。

「メクセトの死……暗殺による死……」

少女は、呆然とそれの消えた後を眺めながら、そう呟いた。

 

 

「お前は化粧もせぬのだな」

ある日の後宮の昼下がり、幾人もの美女を侍らせ、従事官……いや、今や大臣となった男にさせている報告を聞きながら、メクセトは少女に唐突にそう言った。

「必要ないですから」

女達の隅の方で、体を小さくしながら座っていた少女はメクセトの問いに体を小さくして顔を背けながらそう答えた。

この後宮に来てから、少女はその唇に紅を差すことも無ければ、白粉を塗ることもなく、着ているものといえば初めて会ったときのあの質素な服のままだった。豊かな美しい黒髪も特に梳くことも無ければ櫛を差すこともなく、無造作に紅い紐で結わえているだけだった。さすがに湯浴みぐらいはするようであったが、逆に言えば自分の身だしなみにそれ以外に気を使っている様子もない。

「ふぅむ」とメクセトは呟き、暫く自分に顔を背けている少女の姿を眺めていたが、やがて立ち上がると、クイと親指で少女の顎を上げさせ自分の方を向けさせた。少女はメクセトのその唐突な行動に、思わず目線を逸らす。

「確かにお前は美しい。これからももっと美しくなっていくだろう。だからといってその努力を怠って良いと言う訳ではないぞ」

「よ、余計なお世話よ」

そう言って、少女は顔を背けようとしたが、メクセトはそれを許さず、「女達よ」と他の女達の方を向いて言った。

「この娘に化粧を施してやれ」

「だから余計なお世話って……」

そう抗議しようとする少女を女達は押さえ込み、口に紅を塗り、その髪を解いて漉き始める。

その様子を見ながら、「余は大臣よりの報告を聞きに暫くこの場を離れる」とメクセトは言う。

「戻って来た時、お前がいかように美しくなっているか楽しみだな」

「だから余計なお世話だって!。ちょっと、離してよ!離しなさいよ!」

少女は暴れたが、魔力の無い今の彼女はただの少女にしか過ぎない。だからいくら暴れても、無駄な抵抗でしかなかった。彼女を押さえ込んだ女達は、嬌声と共に化粧を施し始める。

その様子を横目に、いつものように高笑いをしながらメクセトは部屋を後にした。

 

 

「これが私?」

少女は鏡の中の自分に一瞬魅入った。

『キュトスの姉妹』に容姿など必要ない、と今まで化粧を初めとする女の嗜みに頑固なまでに無頓着な彼女だったが、自分の予想以上の変容ぶりにさすがに動揺を隠せないようだった。

その少女の姿を見て微笑ましいと感じたのだろう、「ほら、やっぱり化粧をするとさらに美人じゃない」と女の一人が声をかけた。

「元が良いから、化粧が映えるのよね」

「もう、嫉妬しちゃうわ」

確かに、元の美しさも手伝って、少女の美しさは一層引き立つものになっていた。

「きっと、メクセト陛下も貴方の美しさに釘付けね」

女達の一人の言った言葉に我に返った彼女は、「誰があんな奴……」と鏡から顔を背ける。

彼女のその態度に一瞬女達は目を丸くしたが、やがて何を勘違いしたのかケラケラと笑い始めた。

「もう、笑わないでよ!。私は本当にあんな奴……」

「ほう、何やら賑やかだな」

女達が声の方向を向くと、そこには大臣を従えたメクセトの姿があった。

メクセトは美しく化粧された少女の姿に「ほぅ」と嘆息すると、少女の前に歩み寄る。

「これは美しい。予想以上だ」

そう言って彼は、また親指を少女の顎の下において無理矢理少女の顔を自分に向けた。

「今、余がお前の代償に手に入れた富を全て手放せと言われても、喜んでそうするだろう」

メクセトのその言葉に、少女はせめてもの抵抗にと視線を彼から外したが、その頬には女達の化粧による頬紅によるものとは違う赤みがさしていた。

「何を、何を言うのよ……そんな言葉なんて、私は……嬉しくなんか……」

不意に彼女の言葉を遮るように、メクセトは彼女の唇を奪った。

それは今までも幾度となく彼女に対して行われた行為だったが、今日の彼女はメクセトのその行為に怯えて目を閉じるのではなく、驚いたように目を見開いていた。

しばらくそうした後に彼女から唇を離すと、「だというのにお前とくれば」とメクセトは苦笑しながら言う。

「こういう時は自分から唇を開くものだという事を、余が何度教えても何時まで経っても覚えてくれぬ」

「当たり前でしょ。私は貴方に心まで許したわけじゃないわ」

彼女はメクセトから目を背け続けながら言う。

今、メクセトに目を合わせてしまったのならば、自分の中で何かが変わってしまいそうだった。

彼女の中で何かが確実に揺らぎ始めていたのだ。

「ほぅ、お前は余の手元にありながらも手折られていない花と申すか」

そんな彼女の姿を見ながら、メクセトはいつものいやらしい笑みを浮かべながら言う。

「ならば何時の日か手折ってやろう。そして、その時に余の物になったお前が余の手元でいかなるように輝くか、今から楽しみでならぬわ」

高笑いのメクセトを見て、「いつか殺す」と彼女は誓いを新たにした。

ただ……

 

 

「メクセトの暗殺を待ってほしいと?」

少女の部屋に現れたヘリステラの影は、彼女の言葉に眉を顰めた。

「はい」と少女は姉であるそれに対して言う。

「あの男は私の手で必ず殺します。ただ、暗殺のような手段ではなく、正々堂々と勝負を挑んでそれを成したいのです」

「……だが」

「私をここまで辱めたあの男をこの手にかけずにはキュトスの姉妹には戻れません」と彼女は強い口調で言う。

「それに勝ち目はあります。あの男は私に自分の魔法を教え始めてくれたのです」

彼女の言う通り、メクセトは『折角魔女だというのに、使えるのが手品だけではつまらなかろう』と言って自分の魔術を少しづつ彼女に教え始めていた。勝者の驕りなのかもしれないが、彼女はその驕りを利用して彼から最大限にその魔法を引き出して習得することにしたのだった。

「私はあの男から全てを引き出し、あの男を倒します。もしあの男を暗殺するというのでしたら、あの男に私が破れ殺されたときにしてください」

「……あの男の魔法を引き出してくれるというのならば、長い目で見れば我々キュトスの姉妹の利益になる。だからそれは構わないが、その分君が辛い目に遭うぞ」

「耐えます」と少女は言った。

「耐えて、耐えて、必ずあの男を倒します。そして、あの男から引き出した魔法と、あの男の首を手土産に星見の塔に戻ります」

「……分かった」

少女の目を見て何かに気づいたのか、遂にそれは折れた。

「メクセトの暗殺計画は中止しよう。あの男が我々に直接仇なす行為をしない限りその討伐は君に一任する。だが、君を心配する姉から一ついらぬ忠告をしておこう」

「『女』になるなよ」とそれは呟き、また少女の前から姿を消す。

姉の言葉の意味が分からず、首をかしげたまま少女はその場に立ち竦んだ。

 

 

3.

勝者の影には必ず敗者がいる。

人が人である限り、この運命は変えられないのか?

そして、敗者は勝者の存在とその勝利、そして自らの敗北を認めるというわけではない。

故に戦いは戦いを呼び、怨磋の鎖は断ち切れることなくその連鎖を続ける。

そして、この鎖は人を縛り続け開放することはない。

例え、それが愚かしい理由であろうと。

 

 

「あの、寵妃様?」

廊下を歩いていた少女を呼び止める声に振り返ると、そこには彼女と同じ年頃で褐色の肌の、見覚えの無い娘がいた。

……あぁ、またあの男はどこかで拾ってきたわけだ

少女は察した。メクセトが巡視やら戦争やらで出かける度に後宮の女達の数が増えるのはいつものことだ。そしてメクセトが巡視と称して都から巡視に出たのは二週間前の事で、帰ってきたのはつい昨日のこと。だから、彼女は今回の巡視の途中で拾ってきた娘だろう。

「それにしても、早速、しかも来たばかりの新人に、その名前で呼ばれるとは思わなかったわ」

『寵妃様』というのは少女が他の妃達から付けられたばかりのあだ名だった。彼女がいつまでも本名を名乗らなかったので、「そうだ、一番メクセト陛下に気に入られているから『寵妃様』にしましょう」と誰とも無く言い始め、「それが良い、それが良い」とその場の雰囲気で勝手に決められてしまったのだ。冗談じゃない、と抗議した彼女だったが、本名を名乗らない以上は結局受け入れるしかなかった。

「ごめんなさい、気分を害されましたか?でも、私、他に貴方の名前を知らなくて……」

「……良いわよ、『寵妃様』で」他の妃に整えてもらったばかりの頭を掻きながら彼女は言った。「まぁ、単なるあだ名だし、偉いわけでも何でもないけどね。それで私に何の用?」

「はい、私、この度メクセト陛下に後宮に迎えていただきました者でシノアと申します。他の皆様にご挨拶をと思いまして」

にこやかな笑顔を浮かべる彼女に、何だってこの娘はまた嬉しそうに……と少女は溜息をついた。

メクセトとの戦いに敗れ、この後宮に連れてこられてから一年近い歳月が経っていたが彼女はそのことを嬉しいと思ったことはない……つもりだった。確かに日々の生活は辛いものではないし、新しい魔術をはじめとする色々な見聞を深めることもできた。他の妃達のことも嫌いではない。でも、自分は誇り高き『キュトスの姉妹』の一人なのだ。人間ごときに恣にされる日々を喜ぶ筈はないではないか。他人に恣にされないことこそが誇りというもののはずだ。だというのに、この娘はどうして……

「寵妃様?」

「あぁ、何でもないわ。ただ考え事をしていただけ」

「そうですか。安心しました。私、あまり良い産まれではないので、てっきり寵妃様に何か失礼でもあったのかと思いました」

はにかんだ仕草でそういうシノアに、「気遣いは無用よ。私だって、それほど良い生まれじゃないんだから」と彼女は答えた。

確かに少女は他の妃達に比べれば「良い生まれ」などではなかったし、人生の半ば以上を幸せとは程遠い人生を送っていた。そう、人生を変えたあの日が来るまでは……

「でも、私なんかで本当に良かったのかと……正直、私なんかではこんな場所にお召しいただくのが場違いだとしか……」

「気にしない、気にしない。人生なんて、どんな転機が訪れるか分からないものよ」

本当は、メクセトが気にするのは美人かどうかだけよ、と教えてやりたかったが、なぜか彼女はそう答えていた。シノアの表情に見え隠れするメクセトに対する慕情に傷を付けるのが躊躇われたのかもしれない。

それに自身が言ったとおり、人生や運命がどこでどう転ぶかなど、それこそ『神』ですら分からないことに違いないのだ。

「まぁ、だからせいぜいあの男に気に入られなさい。そして引き出せる限りのものを引き出してやることね」

それが彼女がしてやれる、シノアへの先輩としての精一杯の助言だった。

 

 

後宮には一箇所だけ魔力の結界の力が薄められた場所がある。

メクセトが少女に魔術を教えるために作らせた場所だ。

無論、魔力が薄められているからとはいえこの場所において全ての魔法が使えるわけではない。だが、それはメクセトが彼女に教えた魔法を試し、鍛錬するには十分な場所だった。

「お前は元から『魔女』というわけではないのだな」

ある日、その場所で、メクセトが唐突に彼女に言った。

「なっ、突然何を言い出すかと思えば。私はね……」

「魔法自体、覚えたのは最近のことであろう?」しかし、メクセトはその抗議の言葉を遮るようにして言った。「見れば分かる。お前は自分の力にどこかで恐れを持っている。魔力を開放する際に腰が引けているからな。躊躇いも見える。それでは実力があっても発揮はできまい。初心者にはありがちなことだ」

「……」

メクセトの言葉に彼女は思わず拳を握って俯いた。

実はメクセトの指摘は間違いではない。彼の指摘したとおり、彼女が魔法を覚えたのは一年と半前、自分が『キュトスの姉妹』の一員だと教えられ、今までの人生を迷わず捨て、星見の塔に赴いて後のことだ。それまでは、魔法などというものは天上に輝く星々と同様に彼女にとっては縁遠いものだったのだ。

だが、彼女は悔しかった。姉達から教えられた魔法を全て「手品」呼ばわりされ、そのあげく「初心者」と言われては……

「私の過去なんてどうでも良いじゃない!」

だから彼女は反発する。

「次からは躊躇わないわ!、魔力の行使も恐れない!。それで良いんでしょう!?」

「その通りだ」

あっさりとメクセトが言い、自分に微笑みかけたので、彼女は一瞬呆気にとられた。

その彼女にメクセトは一歩近づき、いつもの様に親指を彼女の顎の下にやり、自分の顔を近づけながら言う。

「ところで、魔女、いや我が寵妃よ。余は長い巡見から帰ってきたばかりだ。正直、心身の疲れを癒したい。余の心身を癒せるのはお前の唇、お前の瞳、お前の声、そしてお前の肌だけだ」

「嫌よ」

メクセトの言わんとしている言葉の意味に気付き、彼女は顔を赤らめてプイと横を向く。

その気になれば、メクセトがこの場において彼女を力づくで蹂躙することも容易なことだということは知っていた。それに、今更彼を拒んでみたところで幾度もその身体をメクセトに弄ばれた自分がもはや純潔の乙女などではないことは分かっている。だが、抵抗も見せずにそれを許してしまうことは彼女のプライドが許さなかったのだ。

「だいたい、私じゃなくっても、あのシノアって女の子に相手してもらえば?。慣れない後宮にオドオドしてたみたいだから、行って安心させてやるのも『陛下のお仕事』ってやつなんじゃないの」

うん?、と彼女の言葉に彼は怪訝そうな顔をした。

「そんなことをしてお前は嫉妬せぬのか?」

「誰が、あんたなんかに嫉妬するもんですか!」彼女は自分でも気付かないうちに顔を赤くしながら言った。「さっさと行きなさいよ、『陛下』!」

「後で後悔してもしらぬぞ」

悪戯っぽく口元を歪めるメクセトに、「五月蝿い!」と彼女は魔力を力に集約して投げつけたが、それは彼に届かず大気に四散して消えた。例え躊躇わずに、恐れなくても彼女がメクセトに追いつくのはまだまだ遥か未来の話のようだった。

 

 

月の透き通るように蒼い光に照らされて、後宮の彼女の部屋は静寂が耳に痛い程に静まり返っていた。その中で、彼女は何度も意味のない寝返りをうちながら、眠れない夜を過ごしていた。

今頃、あのシノアとかいう娘はメクセトの腕の中で眠りに落ちているのだろうか?

意識しないように努めてみても、彼女はついついそう考えてしまう。普段ならば巡視や戦場から帰った彼の逞しい腕の中で眠るのは彼女だった。誰が決めたというわけではなかったが、自然とそうなっていたのだ。

そして、彼女もいつしかそれが当たり前の事だと受け入れるようになっていた。

なのに、そのメクセトは今宵隣にいない。彼女の褥を暖めるのは彼女一人の体温だった。

……馬鹿馬鹿しい、何を考えているんだろう、私は

彼女はもう一度無意味な寝返りを打つ。

……そんなことをしてお前は嫉妬せぬのか?

ふと思い出したメクセトの言葉に、「誰が!」と一人呟いてしまう。

……私は誇り高い「キュトスの姉妹」の一人よ。何で人間ごときに……

そこまで思い、「人間ごとき……か」と彼女は一瞬自虐的な笑みを浮かべた。

……お前は最初から『魔女』だったわけではないのだろう?

昼間にメクセトに言われた事は本当だった。彼女には自分がただの人間だと……いや、ただの人間以下だと思っていた時期があった。

痩せた土地を耕し一生を終えるだけの農奴の娘。それが当時の彼女だった。

痩せた土地を耕し、ようやく得た少ない食糧は、その殆どが領主の使いの役人達に持って行かれるか稀に集落にやって来る盗賊か夷狄に持って行かれる。彼女達に残されるのは、彼等が「ご慈悲」で残した僅かな糧食。それでようやく生を繋ぐのが彼女達の定めだった。そしてその定めから解き放たれる方法はただ一つ……

「お前は上の姉達と違って器量が良いからねぇ」父だった人は何時も彼女の頭を撫でながら言ったものだ。「きっと領主や役人達、あるいは盗賊達の目にとまる。そしたらここから連れ出してもらって可愛がってもらい。きっと此処よりは良い生活ができるはずだから……幸せになれるはずだから」

父は嫌いではなかった。しかし、彼女は父の言葉が嫌いだった。父の言う『幸せ』が嫌いだった。それを受け入れるしかない自分の人生が嫌いだった。

だから、あの時、集落に訪れた黒衣の「キュトスの姉妹」が自分を「妹」と呼んでその手を差し出し誘ってくれた時、彼女は迷わずその手を取った。例え全ての人類から忌み嫌われ、蔑まれようとも、他人に自分の運命を弄ばれない生き方をしたかったのだ。

……でも、今の私は

父の言った通りの「幸せ」になっているのかもしれなかった。今の彼女はメクセトに負けて魔力も封じられたただの少女にしかすぎない。メクセトを倒すという目的があるにせよ、ただ弄ばれ恣にされ他人に所有される存在だ。そもそも、メクセトを倒せる日というのも今のままではいつの事になるのか分からない。

……父さんの言ったこと、結局正しかったのかな?

そういう考えが頭を過ぎる時もある。でも、それは彼女にとって認めたくない、認めてはいけないことだ。だから、他の妃達やシノアのようなメクセトから寵愛を受けようとする行為が認められないのかもしれなかった。

……止めよう、こんな考え

今は眠りに落ちよう、と彼女はもう一度寝返りを打った。

その時だった、窓の外から明るい物が見え、誰かが大声で火事の発生を告げたのは。

「火事?、いや後宮に賊が入り込んで火をつけた?」

彼女は寝台より跳ね起き、壁にかけていた肩掛けを掴んで羽織った。

この火が不始末ではなく放火によるもので、最初に騒ぎ立てたのが賊の一味であることをすぐに悟ったのだ。おそらく、賊の一味は後宮内の誰かで、その目的はメクセトの暗殺に違いなかった。

……ヘリステラお姉さまの手の者?……いや、お姉さまだったら、こんな下手な暗殺方法はとらない……ということは後宮内の妃の誰か……まさか?

彼女の脳裏に一人の人物の姿が思い浮かぶ。

少なくともこの数日の間後宮内を動き回って怪しまれず、また今現在メクセトの傍にいる人物。それは……

「シノア!?」

部屋の扉を開け、彼女は駆け出していた。

嘘だと、自分の考えが間違いだと、彼女は信じたかった。

その焦りが、シノアに与えられた部屋と自分の部屋の間の短い距離を長いものに感じさせた。

そして、駆けていった先で彼女が見たのは、地面に倒れている賊たちの姿と、そして震える手で小刀を構えるシノアの姿だった。

「娘、この後宮内に賊を手引きし、火をつけて混乱を煽った手腕については誉めてやろう。だが、そのような小手先の知恵では、そなたには余は倒せぬぞ」

「分かって……分かっています。でも、私は『黒銅の民』の族長の最後の娘。部族の栄誉にかけて、貴方を倒します」

その声は震えていた。素手ではありながら、腕を組み、彼女を見下すようにして立っているメクセトに、シノアが気迫からして負けていることは誰の目からも明らかだった。

「止めて、シノア!」彼女は叫んでいた。「剣を引いて。あなたにはその男は倒せない!。お願いだから止めて!」

「あ、あぁああああ!!」

しかし、彼女の叫びもむなしく、シノアは精一杯の声を張り上げながらメクセトに小刀を構えて突入していく。

気がつけば、彼女は二人の激突を制止しようと駆け出していたが、結局それは間に合いそうに無かった。どちらが勝って、どちらが地面に伏せられるのか、それは誰の目にも明らかなことだ。

「お願い、止めて、メクセト!。シノアを、その娘を殺さないで!」

だから、彼女は何故そんなことを口にしたのか、自身にも分からないうちにそう叫んでいた。

「良かろう」

静かな口調でメクセトは答え、パチンと指を一度鳴らすと、その音と共にシノアの手に握られた小刀はまるで蒸発するように消え、シノアはその場に崩れるように座り込んだ。

三人の背後で後宮に放たれた火は鎮火されつつあった。

全ては終わったのだ。

「シノア、もう終わったのよ。貴方は……」

そう言って、彼女がシノアの傍に寄ろうとした丁度その時、地面に座り込んで俯く彼女の背を突然飛来した二本の矢が貫いた。

それはメクセトにとっても、彼女にとっても、そして射られたシノア自身にとっても、予想外の出来事だった。

シノアは大きく目を見開いて、僅かに開いた唇から吐血すると、そのまま地面に前のめりに倒れこんだ。

「痴れ者!余が何時射ろと命じた!」

そうメクセトの言った先には、弓を構えたまま呆然と立ちすくむ後宮武官が二人いた。さすがのメクセトも、彼らのことを忘れていたらしい。

「しかし、陛下、その女は……」

そう口を開いた後宮武官をメクセトは睨み付けたが、やがて「そうだな、お前達は自分の任務を果たしただけだ」と呟くように言った。

「後宮にかけた結界は魔法にのみ有効だからな。それが災いになったか……」

「シノア、ねぇシノア!」

彼女は、シノアの傍らに座り込み、その頬を叩いて意識の蘇生を試みる。魔力を失い、ただの少女になった彼女にできるのは、ただそれだけのことだった。

「……あぁ、『寵妃様』?」

虚ろに半開きの目でシノアは、息も絶え絶えの状態で彼女に答えた。

「しっかりしてよ、気を確かに持って。もうすぐ医者が来るはずだから」

「ごめんなさい……もう……無理です、『寵妃様』」

そう言ったシノアの頬を涙が一筋伝って落ちる。

「私、馬鹿だから……本当はとても嬉しかったのに……愛されたかったのに……『寵妃様』とももっと仲良くなりたかったのに……」

「えぇ、仲良くなりましょう。だから……」

彼女は声を詰まらせながらシノアの手を握って言った。だが、その手からは少しづつ体温が消え去ろうとしていた。

「私、幼い時に他の部族人質に出されたんです……その部族は『黒銅の民』を快く思っていないから、私、すぐに奴隷にされて……辛い日々で、私、自分が『黒銅の民』の族長の娘だということだけを支えにして生きていたんです。でも、その『黒銅の民』もメクセト陛下に負けて滅ぼされて……私、自分が分からなくなって……」

「……もう喋らなくて良いから!」

「そんな時に陛下にお声をかけていただいて……私、複雑な気分で……でも他に、もう生きる方法がなくて陛下におすがりしたのに、他に生き延びた『黒銅の民』に唆されて……私、馬鹿だった。一緒に旅をしている間にメクセト陛下に情が移っていたのに……『寵妃様』とお会いできて、初めて仲良く喋ってくれる人ができたのに……幸せになりたかったのに……つまらないプライドが邪魔して……」

「……お願い、もう喋らないで!」

彼女は涙で声を掠れさせながら、懇願するように言った。

失いたくない、と彼女は切に思っていた。この娘は自分だ、と彼女は気付いたのだ。

もしシノアがこのまま生き続けてくれれば、きっと分かるに違いないと彼女は考えていた。自分が本当は何を願っているのか、何を望んでいるのか?。

「……ごめんなさい『寵妃様』」

なのに握ったその手は、次の瞬間にはまるで人形のように彼女の手から力なく滑り降りていった。その体からはゆっくりと暖かさも消えていく。

「シノア!」

もう一度、彼女はその名前を呼んだが、今度は何も返事はない。その体を揺さぶってみても、もう何の反応も返さない。彼女にとっての、もう一人の自分はこうして消えたのだった。

「馬鹿よ、あなた馬鹿よ……それが幸せと分かっているなら、愛されて、幸せになれば良かったじゃない」

「魔女よ、人間とは素直には生きられぬものなのだ」

振り向くとそこには無表情なままのメクセトの顔があった。

その顔には悲嘆も無ければ、憐憫も無く、また愛情も後悔も無かった。

だから、その顔に腹が立って仕方なくて彼女はその頬を張った。後宮中にメクセトの頬を張る音が響き渡る。

だが、メクセトは表情一つ変えない。

「何で、どうしてよ!?」彼女は涙混じりの声で聞く。「どうして顔色一つ変えないのよ、貴方は!?」

「余が王だからだ」静かな口調でメクセトは答える。「王は全てを受け入れなければならぬ。全ての責務を受け入れなければならぬ。それが出来て全てを恣にできるのだ」

「だから悲しくないの?何とも思わないの?」

「悲しくないのではない、そう思ってはいけないのだ。王に与えられるのは良かれ悪しかれ結果だけだ。その結果に感情を持ってはいけないのだ」

しばらくの沈黙の後に「不憫な人ね、貴方」と皮肉交じりに彼女は言った。「そうだな」と彼女から顔を逸らせてメクセトは答える。

「王とは不憫で孤独なものなのかもしれぬな」

その言葉には僅かなりとも、彼の感情が篭っていたように彼女には感じられた。

「それにしても、今のは痛かったぞ、魔女よ。感謝するぞ」

メクセトはその頬をさすりながら口元に笑みを浮かべて言った。

こんな時に何を?、と思った彼女だったが、次の瞬間彼がそう言ったその心内を察することができた。

……本当はこの人も心が痛いのだ……けれど、それを心の痛みとして感じてはいけないと思っているから、体の痛みで誤魔化そうとしているんだ……

「もう、夜も更けた。後の始末は余がしておく。早く休め、魔女よ」

「待って」

そう言って彼女は、身を翻したメクセトを呼び止めた。

しかし、「うん?」と怪訝そうに彼女に振り返ったメクセトに、彼女は次の言葉を続けることができない。

「どうした?。言いたいことがあれば、はっきりと申せ」

「……何でもない」

「おかしな奴だ」とメクセトは再び身を翻してその場を後にした。

白銀の月光に照らされたその背中を、彼女はその場に立ったまま見つめ続けた。

その背中は広く、力強く、そしてどこか孤独であるように彼女には感じられた。

 

 

4.

栄華も権力も、それが例え絶対に見えても崩れ去るのは一瞬のことだ。

全ては砂上の楼閣にしかすぎぬ。

例外などない。

千年続いた帝国とて、滅ぶ時は一瞬なのだ。

そして終わりという観念がある以上、遍くそれ瞬間は訪れる。

天を自由に羽ばたく鳥とて、何時の日か力尽きて地に落ちるのだ。

全ては移ろい、変わり、そして終わりを告げる。

地上の民族全てを統べ、空前の人類国家を作り上げたメクセトにとってもそれは例外ではなかった。

 

 

「随分と外が騒がしいわね」

少女は、後宮女官にその唇に紅を差させ、髪を梳かせながら言った。

「はい、メクセト陛下が諸国から兵を集めてらっしゃるのです、寵妃様」

「寵妃様」という名前で呼ばれることに最初は抵抗を感じていた彼女だったが、何時の間にか、彼女自身でも気付かぬうちにその抵抗は消え失せていた。

「そう……でも、もう陛下に戦争を挑む民などないでしょうに」

「『神』に戦争を挑むのだそうです」

「『神』に……」と少女は窓の外へちらりと視線を走らせる。

窓の外のはるか地平に、地から生え蒼天へと消える「天の階段」の白い軌跡が見えた。

メクセトが作り上げた神の世界への侵攻のための天へと繋がる階段だ。

「『被創造物が、創造主から独立する時が来たのだ』とメクセト陛下はおっしゃっておりまして、それに賛同する英雄の皆様が世界の各地より集まっているようですよ。メクセト陛下はその中から1032人の英雄を選抜していると、街ではもっぱらの話題ですわ」

興奮したような口調で女官は言う。

宮廷女官である彼女がこのようなのだから、後宮の外の民衆はどれだけこの「『神』を倒す」という行為に熱狂していることだろう?。

「何時でも強い敵を求めて、無茶ばかり。あの人は、幾つになっても代わらないのね」

ふ、と彼女は自ら意識しないうちに笑みをこぼしていた。

あれから3年、世の中は変わった。

彼女に「全てを統べる者」と宣言した通り、彼は地上の全てを短期間で掌握した。その支配の下に多少の諍いこそあるものの、民族同士の大規模な争いは消え、今ではハイダル・マリクのような都市が世界の各地に作られているという。

後宮のある王宮のまわりにも大きな街が広がり、聞きなれない様々な異国の言葉による喧騒が彼女の耳元にも聞こえてくる。その喧騒に眠りから覚まされる朝も珍しいことではない。

そして自分もすっかり変わってしまった、と彼女は思う。

永遠に歳をとらないというキュトスの姉妹だったというのに、魔法の効かないこの後宮の中ではその理すら無効化されたらしく、彼女はその過ごした時間にふさわしく歳をとっていた。もう、少女と呼ばれる時代もせいぜいあと1年ぐらいだろう。

その間に後宮は彼女が知っているものより遥かに大きなものになり、そこに住む女達も増えた。それに比例して、メクセトが彼女の元を訪れる機会も減った。

……そして、あの人の気を引くためにあれだけ嫌がっていた化粧をする私がいる。目的のための手段とはいえ、全ては時間とともに変わっていく

今更、永遠などありえない、という何処かで誰かが言った言葉を彼女は思い出す。

全ては季節と共に移ろい変わるに違いないのだ。

「それじゃ、またあの人は後宮には寄り付かないわね」

「そうですね。寂しい事ですね」

「そうね」と自らがふとこぼした溜息に彼女は気づいた。

……私は、いつの間にかこんな溜息をこぼすようになってしまった

今更ながら彼女は愕然とした。

 

 

「遂に、あの男は『神』に宣戦を布告したよ」

それ、ヘリステラの影は、夜陰の中で溜息混じりに言った。

「これで晴れて人は神の脅威へと、そして敵対者になることを選んだわけだ」

「そうなりますね」

少女は、それの言葉にそう頷いたが、それは首を傾げながら「君、他人事のようだな」と聞いた。

「いえ、そんなことはありませんわ、お姉さま」少女は慌てて首を振る。「私は一日だって自分が『キュトスの姉妹』だということを忘れたことはありませんし、あの男を倒すことを忘れたことはありません」

その言葉に少なくとも嘘はなかった。

確かに、彼女はこの3年、メクセトからあらゆる魔術を引き出した。その為にはかつての自分の嫌がった行為を行うことも厭わなかった。熱心だったとも言える。

「その割にはこの3年、何の行動もおこさなかったようだが?」

だが、それの言葉に、思わず視線を背けてしまうのも事実だ。

だというのに、彼女は彼を倒そうという行動も策謀を施すことも何もしてはいないからだった。

「今の君だったら、この後宮を覆う結界だって破れるのではないかと私は思うのだがね?」

「それは……」

確かにそれの言う通りだった。

『檻より解き放った鳥が大空に羽ばたいて逃げるのみと考えるのは愚者の考えだ。余にはお前が逃げない自信がある』と言って、この後宮に仕掛けられた結界について教えてくれたのは既に2年前の話だ。3年前の彼女ならまだしも、魔力も、覚えた魔法の数も段違いの今の彼女にはこの後宮を抜けることなど決して難しいことではない。

なのに、自分でも理由は分からないが、この後宮を抜けることが彼女には何故か出来なかった。

何故、ここから逃げ出さないのだろう?、この男の腕に抱かれて眠ることに、そのぬくもりに安心を感じる時があるのだろう?、と彼女は偶に自問するが、何かが彼女の中で揺らいでしまったのだろうか?、どうしてもその答えが分からない。

「いえ、まだその方法は分かっておりません」

そして、いつしか彼女は姉に対して嘘を言うようになっていた。

妹の嘘を見抜いているのかいないのか、「まぁ、良い」とヘリステラは腕を組んだまま言った。

「結論だけ言う。我々『キュトスの姉妹』はこの戦いにおいて神々にも人間にも組しない。結末まで看過する」

「看過ですか……」

そうだ、と影は頷き、「何故だか分かるか?」と聞いた。

「いいえ……」

「怖いからだよ、あの男がね」

それは彼女にとって姉から聞くとは思ってもいなかった言葉だった。

「人間など、取るに足らぬ存在。かつての我々はそう思っていた。だが、あの男が、メクセトがその認識を変えてしまった。今では、主神アルセスに勝つことすら絵空事ではないのではないか、と思うときがある」

「そんな……」

大袈裟なとは言えないのも事実だ。

今の飛ぶ鳥を落とす勢いのメクセトならば、それすら可能なのかもしれない。

「ともかく、元は一の神たる我々は、自らに不利益にならない限り不干渉を貫く。最悪の場合、最後の神になるためだ」

「……」

無言のままの妹を見て、「結局君は私のいらぬ忠告は聞いてくれなかったようだな」とそれは言った。

「そんな、私は……」

「違うというのならば、それは君が気づいていないだけだ」

それの言葉を完全に否定することが出来ず、彼女は俯く。そんな彼女の姿を見て、「随分と可愛くなったものだ、君は……」と皮肉混じりにそれは言った。

「あの男を暗殺する方法を、実際幾つも考えたのだよ。だが、今の君を見ているとそれすら実行しなくて正解だったと思う時がある。可愛い妹の涙はみたくないからね」

「お姉さま、私は……」

「だが、一つだけ覚えておきたまえ。どんなに強い力と魔力を持とうとも、あれは結局の所は人だ。いずれ終わりは来る」

 

 

「喜べ、魔女、お前が解放される日が来るぞ」

ある晩、前触れもなく彼女の部屋を訪れたメクセトが開口一番に言った言葉がそれだった。

その言葉の意味する所が判らず、唖然とする彼女を横目に、メクセトは彼女の部屋の寝台に体を投げ出すように横たえた。

「どういうことなの?」

そう聞く彼女に、天井を見つめたまま「次の戦で余は出陣するからだ」とメクセトは答えた。

「そして二度とここには戻って来るまい」

「……?。言っていることが分からないわ」

メクセトはフンと自嘲気味に鼻を鳴らすと、「余が負けるからだ」と半ば投げやりな口調で彼女に言った。

「全く……余もとんでもない過ちを犯したものだ。神の数を誤るとはな」

「そんな……」

そう呟く彼女の脳裏に「いずれ終わりは来る」という姉の言葉が思い出される。

その言葉の意味は分かっていたし、それは望んでいたことのはずだった。

なのに、いざ、その日を前にしてみると、彼女に出来ることは困惑することだけだ。

「だったら……そんな戦い、止めちゃえば良いじゃない」

半ば答えは分かっているというのに、彼女はメクセトに言ったが、「無理だ」と案の定、にべもなくメクセトは答えた。

「どうして?宣戦布告をしちゃったから?『神』が今更戦いの終わりを認めないから?」

「どれも違う」不機嫌そうにメクセトは答えた。「余は王だからだ。余が宣言し、民がそれを渇望し、それを余が行う以上、余は王としての責務を果たさねばならぬ。今更取り消しはできぬ」

「そんなの……そんなのおかしいじゃない!」

彼女は叫ぶようにして言った。

何故、そんなことをしたのか彼女にも分からない。あれだけ憎んでいた相手が自滅しようというのに……終わりを迎えようというのに……なのに彼女には叫ばずにはいれらなかった。

「貴方、王なんでしょ!。地上の全てを統べているんでしょ!。好きに出来ないものはないんでしょ!。だったら……」

彼女が言わんとしていることを察したのか、「それをやったら、余は王ではなくなる」とメクセトは彼女の言葉を遮るようにして言う。

「全てを統べるということは、全ての責務を受け止めるということだ。それが出来て初めて全てを恣にできるのだ。それが余の選んだ生き方だ」

「そんなの嫌!」

気付けば、彼女の両の瞳から涙がとめどなく溢れていた。

……この人がいなくなる……私の目の前からいなくなる……私は、それを望んでいた……でも、嫌だ!……それは嫌だ!

そして彼女は上半身を起こしたメクセトの胸に飛び込み、その胸を力一杯叩く。

「勝手すぎるわ。そんなの勝手すぎる!」

「お前は魔女だ」メクセトは、そんな彼女の体を優しく抱きとめながら言った。「いかなる傷とて癒すことが可能であろう?。ならば乙女に戻ることも可能なはずだ。余がいなくなり、無事にその身が解放されたのならば、余がお前に刻んだ全ての傷を癒して乙女に戻り、余のことは忘れることだ」

「勝手なこと言わないでよ」

精一杯大声で言ったはずの彼女のその声は、涙で掠れていて、自分でも聞き取れないほどの小声になっていた。

その体を震わせながら、彼女は今まで真っ直ぐに見ることの出来なかったメクセトの目を見て叫ぶ。

「私、乙女になんて戻らない!。貴方に会う前の自分になんて戻らない!絶対、貴方のことを忘れない!」

そして彼女はメクセトの胸の中で嗚咽した。

もう崩れ去って跡形もないはずの彼女の世界が再び崩壊を始め、ありったけの感情が痛覚になって彼女の胸を苛んでいた。

そんな彼女を呆気にとられた表情で見つめていたメクセトは、ふと微笑をその顔に浮かべると、いつものように親指でクイと彼女の顎を上げさせると、その唇に自分の唇を重ねた。

「ようやく覚えたな」しばらくの間を置いて、メクセトが唇を離して言う。「こういう時は自分から唇を開くことを……」

「天駆ける蒼い馬……よ」

不意に彼女が言った。

「うん?」と怪訝そうに首を傾げるメクセトに、「……私の名前よ」と恥ずかしそうに顔を背けながら彼女は言う。

「……ムランカ、か」

「そう……それが、私の名前」

メクセトの言葉に、彼女は答えた。

それは伝説上の生き物の名前で、彼女の父が自分達とは違って自由へと羽ばたいていけるようにと付けた名前だった。

「私はね、この名前が嫌い。全然、女の子らしくないもの。まるで男の名前みたい。それに、魔女らしくもないし……他のお姉さまのような、もっと女の子らしい綺麗な名前が欲しかった」

「余も自分の名前が嫌いだぞ」

彼女の耳元に、囁きかけるようにメクセトは言った。

「……軍政官だ」

「?」

「ハイダル・マリクでは軍政官を『メクセス』と呼んだのだ。余の父は軍政官だった。だからようやくできた男子に、自分の後を継ぐようにと『メクセス』をもじってメクセトという名前を付けたのだ。少しも偉そうではない、下僕の名前だ。余も、もっと王に相応しい名前が欲しかった」

そう言って、メクセトはいつものように高笑いをする。

かつては癇に障っていた、恐れたこともあったその高笑いが、今は何より愛しく彼女には感じられるようになっていた。

「……で、でも……でもね、わたし、貴方の名前が……」

続けようとするのに、吃音症でもあるように、彼女はその後の言葉を続けることができない。

そうしているうちに、「余はお前の名前が気に入ったぞ。とても好きだ」とメクセトの方が先に言ってしまった。

「冥府黄泉に抱えていくのならば、こういう名前が良い」

また新しい涙が彼女の目から溢れて頬を伝う。

嬉しかったから……あれだけ嫌っていた、他人に、姉達にですら語ることを疎んでいた名前を口にされることが今は何より誇らしかったから……

「私を御傍に置いて下さい」

だから彼女は、気付けばその言葉を自然と口にしていた。

それが何を意味するかは分かっている。

今まで味方だった全てに叛くことも分かっている。

何もかもを失うことも分かっている。

結末、いや末路も分かっている。

一時の感情に流されてそう言っているのかもしれないことだって分かっている。

けれど、後悔だけはしたくなかった。

「戦場で貴方の隣にいさせてください。きっと、どのあなたの将兵よりも良い活躍をして見せます」

「それは出来ぬ」

だが、その申し出をメクセトはあっけなく断った。

「どうして?」と聞く彼女の瞳を見つめてメクセトは言う。

「余は言ったはずだ。お前を『女』として扱う、と。自分の『女』を戦場に立たせることなど余には出来ぬ」

「馬鹿!」彼女はもう一度彼の胸を叩きながら、そして泣きながら言った。「馬鹿!、馬鹿!、馬鹿!」

「そうだな、余は愚者であるに違いない」

そう言ってメクセトは彼女の唇を自分の唇で再び塞ぎ、優しく彼女の体を寝台に横たえた。

……あぁ、そうか。

今更彼女は気付いた。

……もっと早く自分の心に気付くべきだった……私はずっと前からこの人のことを……ゆっくりと……

彼の腕に抱かれるぬくもりを感じながら、この刻がいつまでも続けば良いのに、と彼女は思った。

 

 

5.

人は振り子。

暁と黄昏を、そして栄華と衰退を行き来する振り子。

全てを支配するのはラプラスの竜か、それともシュレディンガーの猫か?

確かなことは、その後の物語は歴史や伝承の語るとおりだということ。

圧倒的な力を誇る神々との戦いにメクセトは敗れ、そして捕らえられた。

形ばかりの裁判による判決は処刑による死。

敗者は運命を選べない、とかつて彼は自ら嘯いたが、それは自身も例外ではなかった。

 

 

かつてその地にはハイダル・マリクと呼ばれた都市国家があり、メクセトという男の宮殿があった。

だが、今、更地になったその場所にあるのは広大な処刑場だった。

そこで処刑されるのはただ一人、かつて地上を統べた男……そして神に叛いた男。

刑場に集まった群衆の王であった男だった。

勝者のみが敗者を裁くことが許されるというのなら、その罪は突き詰めれば戦いに敗れたこと……そしてその罰は同じ人間の手による処刑。

刑場に集まった群衆は、かつて自らもその戦いに熱狂したというのにそれを忘れたかのように、否、そうすることで自らの行為を忘れようとするかのごとく、罪人が姿を現す前から口々に男を詰った。

それは王であった男にとって限りなく惨めなことのはずだった。

だが、刑場に引き出された男は俯くことなく堂々と真正面を見据えて、そしてその顔には薄笑いすら浮かべていた。

堂々たる体躯の隅々に再生防止のための魔術刺青をされ、腕には幾重もの呪術縄が巻き付いて食い込み、その肌には体を弱らせるための拷問の跡が生々しく残り、未だ鮮血を滲ませていた。

だというのに、その顔には苦痛の表情はなく、口々に自らを罵る群衆にも怯む態度を見せず、目の前に迫る確実なる死の運命にも恐怖すら見せていなかった。この期に及んでも尚、彼は王だったのだ。

だが、それを認めないようにするためか、人々はそんな男に罵声を浴びせ、石もて投げ打つ。

石つぶての雨は容赦なく彼を打ち据えたが、彼はまるでそれらを雨粒程にしか感じていないのかその表情を変えない。

やがて、彼は処刑台に跪かされ、処刑吏は彼に末期の水を勧めたが「いらぬ」と彼は答えた。

神官が現れ、彼に改悛を求めたが「せぬ」と彼は答える。

神官はその言葉に眉を顰め、「最期の言葉は?」と聞いたが「ない」と彼は言った。

やがて処刑は始まった。

足の小指から始まり、両手の指、両の瞳と、処刑は彼が苦しむように行われたが、彼は呻き声一つあげず、また表情一つ変えない。その顔には全てを嘲笑するかのごとく笑みがあった。

やがて、手足も切り落とされ、芋虫のようになった彼はついにその首を切り落とされることになった。

その時になり、彼は突然顔を上げた。

そしてその口には歯もなく、既に舌も切り落とされたというのに、人々は確かに聞いたのだ、あの高笑いを……

それはメクセトを知る人ならば誰もが知る、彼の高笑いに他ならなかった。

「最高だ、お前ら!」

続いて聞こえたその声に人々は驚愕する。

「余はお前らを愛しているぞ!」

そして、その首は斬り落とされた。

この目的だけのために神より授かった【神々の斧】によって……それで切られた物は何人の手をもってすら再生できない、その神具によって……

メクセトの首は宙を舞い、そして地を跳ね、それきり動かなくなった。

 

 

群衆の中から一人の少女が飛び出したのはその時だった。

彼女は刑場の柵を超え、静止する兵士たちを押しのけ、そして地面に転がったメクセトの首をその手に抱え上げた。

彼女が覗き込んだその顔には既に双眸は無く、鼻も無く、唇すら削がれていた。だというのに、その顔は笑っていた。彼女の記憶に残る、あの日と同じ笑顔がそこにはあった。

「馬鹿よ……馬鹿よ、貴方」

少女は自分の声が震えていることに気付いた。

……あれだけ憎んでいたのに……あれだけ「殺してやる」と誓っていたのに……あれだけ死を願っていたのに……今はただこの人の死が心に痛い……この人が私を変えてしまったから……

「馬鹿!、馬鹿!、馬鹿ァ!」

彼女はメクセトの首を抱いて泣きじゃくった。

もう人目も何も関係がなかった。

ただ感情の赴くままに泣いた。

「おい、娘」その彼女に処刑吏は横柄な口調で咎める様に言う。「その首をこちらによこせ」

「嫌よ」

少女は俯き、メクセトの首をその胸に抱いたまま答える。その声には怒りすら篭っていた。

不幸にも処刑吏はそのことに気付かなかった。

「絶対に嫌」

「もう一度言うぞ、痛い目に遭う前に……」

「煩い!」

怒ったように少女が手をかざすと、鋭い閃光が一瞬煌き、次の瞬間には処刑吏は灰になって消し飛んだ。

「『魔女』だ!」

その光景に呆然としていた群衆の一人が叫んだ。

「メクセトの囲っていた『魔女』だ!」

「噂は本当だったのか!?」

「恐ろしい……忌まわしい」

人々は口々に囁き合い、やがてそのうちの一人が「忌まわしい『キュトスの姉妹』め!」とその手にした石を彼女に投げた。

石は彼女の額に当たり、彼女の額から一筋の赤い血が流れた。

やがて、一人、また一人と人々はその手に石を取り、彼女に向けて投げ始める。

石つぶての雨の中、「何よ、貴方達……」と少女は呟くように言った。

「貴方達だって熱狂したじゃない……『被創造物が創造主より解き放たれるのだ』という言葉に酔いしれたじゃない……この人を二度と引けない所まで追い詰めたじゃない!」

彼女の言葉に恥じ入るところがあったからか、一瞬群衆は黙った。

「貴方達だって同罪じゃない!この人を責める権利なんてないじゃない!」

「黙れ『魔女』!」

再び石つぶての雨が降る。

「お前達が俺達を唆したんだ!。騙したんだ!。裏切らせたんだ!」

「そうだ、そうだ」と人々は彼女に罵声と石つぶてを浴びせた。

もちろん彼女の言うところも少しは分かっていたに違いない。だが、己が罪を認めぬようにするためには、そうするしかなかったのだ。しかし、その人の脆さが彼女には分からなかった。

「許せない……貴方達許せない」

彼女はゆっくりとその俯けていた顔を上げる。

美しい顔を怒りに歪め、血塗れのその顔は正に彼らが心の中に思い描き、恐れていた『キュトスの姉妹』に他ならなかった。

「無くなればいいのよ……こんな世界、無くなれば良いのよ!」

彼女はゆっくりとその右手を上げた。

突然、空が曇り、地面がゆっくりと、しかし確実に震え始めた。

人々には何が起きたか分からなかった。だが、恐ろしいことがこれから起きるのだ、ということは察することができた。

もし、かなり高度な魔力を持った人間がいたのならば、空から、いやもっと高い場所から純粋な破壊の力が、まるで滴り落ちるように地面を目指して迫っていることに気付いたはずだ。

それは世界を滅ぼすに、いや掻き消してしまうに足りる力だった。

メクセトが生前彼女に教えた魔法……『きっとお前は使わない』と自信を持って言った魔法……彼自身、例えその身が敗北に繋がろうとも決して使わなかった魔法……全てを台無しにしてしまう魔法。

しかし、彼女は一時の感情に任せてそれを使おうとしていた。

「無くなっちゃえ!。全部無くなっちゃえ!」

彼女の叫びと共に、ゆっくりと、だが確実に空が裂け始めていた。

空に現れた、闇より深い漆黒の点。

それはゆっくりとその数を増やし、やがて点が線になり、面となってその領域を増やそうとしていた。

そして、その闇の最中から、明らかに禍々しい何かが、滴り落ちる樹液のように地面を目指して降下しようとしている。

だが、人々はその空の変化に気付かなかった。否、正確にはその変化を見ることが出来なかったのだ。

なぜなら空の変化と共に地面の揺れは一層激しいものとなり、人々はその場に立っていられなくなっていたからだ。

だが、群衆に紛れていた、黒衣を纏った幾つかの人影はその揺れをものともせず、天上を見上げていた。

それら……いや、彼女達には天から滴り落ちようとしている『それ』の正体と、これから起きる事態が分かっていたのだ。

『それ』は、力へと具象化する前の、巨大な魔力の塊、この世界を構成する一つだった。

「いかん、ダーシェンカ!」

彼女達の一人、ヘリステラが慌てた様に傍らにいる同じ格好をした女に言った。

「分かっています!。カタルマリーナ!、サンズ!」

女が言うと、同じように群衆の中に立っていた二つの人影が、刑場で何かを受け止めようとするように右手を上げる少女に跳躍し、そして懐から何かを取り出すと、それを彼女に目掛けて投げつけた。

それは拘束紐と彼女達から呼ばれる縄だった。

正確には物質ではなく幾重もの魔法を練り上げて作られたそれは、素早く彼女を包み込んで拘束し、呪詛に似た声で詠唱される彼女の呪文を止める。だが、空から滴り落ちようとする『それ』を止める事はできない。

「駄目か!?。妹達、力を貸してくれ!」

ヘリステラは妹達から魔力を集め、それを力に練り上げて『それ』にぶつける。

力と力の衝突の末、『それ』は僅かに消耗したが、地上への落下を止めようとはしなかった。

「駄目ですわ。やっぱり消えない」

蒼い顔をして、天を見上げたままダーシェンカは言う。

今や、『それ』は大気を震わせながら地へと接触しようとしていた。『それ』が地に触れ、力へと具現化した時、世界は掻き消されるのだ。

「いや、今『発動』しなければ良い!。サンズ、『扉』だ、ムランカとあれを『扉』で飛ばせ」

「はい、それで目的地はどこに?」

サンズと呼ばれた黒衣の女がヘリステラに聞くと、ヘリステラは天上を見上げたまま言った。

「星見の塔の【虚空の間】、この前作った部屋だ!」

「あの部屋……ですか?」

それの意味する所を知っているサンズは一瞬躊躇する。

「そうだ、他に方法はない。早く!」

慌てたようにサンズが呪文を詠唱すると、ムランカの足元の空間に僅かな歪が発生し、それは目に見える歪みになって彼女と、そしてそれを飲み込んだ。

やがて地面の震えが止まり、空は何事も無かったようにその蒼さを取り戻す。

「間に合ったようですわね」

「そうだな……」

群衆と処刑吏達が大地の震えが収まったことに気付き、恐る恐る顔を上げた時、そこにはあの『キュトスの姉妹』である少女の姿はなく、ただ処刑されたばかりのメクセトのバラバラになった身体だけがあった。

しかし、処刑吏達がいくら探しても、その頭部だけは見つけることができなかった。

 

 

6.

かくしてメクセトという男についての伝承は終わりを告げる。

全ての伝承には終わりがあり、歴史にも区切りという名の終わりがある。

だが、伝承と歴史の違いは、そこに語られてこそいないものの、時代と時代を繋ぐ事実という名の物語が確実に存在するということである。

その事実を、歴史はいつの日にか語られることを待つかのように紡ぎ続ける。

伝承を作り上げるのは、いつの世も人。

だから、これも、歴史に紡がれた一つの語られざる物語である。

 

 

『星見の塔』という名に相応しく、そのドーム状の天上部分の真上には、満天の星空が広がっていた。

その星空にたゆたっているような錯覚に身を任せながら、「それで、ムランカはどうしている?」とヘリステラは傍らに立つダーシェンカに聞いた。

「【虚空の間】に幽閉中です。元に戻るにはしばらく時間がかかるとの見通しです」

「しばらく……か?」

「はい」とダーシェンカはヘリステラの言葉に答えて言う。

「一週間なのか、一月なのか、それとも一年か……何にせよ、いかにその場にいるだけで魔力を急激に消耗する部屋とは言え、あれだけの魔力を無にするには時間がかかります」

「いくら我々が『キュトスの姉妹』とは言え、大丈夫なのか?」

「多少の後遺症は残るかもしれません」と落ち着いた口調でダーシェンカは言う。

「しかし、あの子が召喚しようとしたものを考えますと……」

「世界を具現化している『力』の一部か」ヘリステラは溜息を吐く。「具現化できるということは破壊できるということ。大事に至らなくてなによりだったよ」

もしそうなっていればこの星空も、その星空を見る彼女達自身も今頃は既に掻き消されていたことだろう。

世界は根源の無たる白に還っていたはずなのだ。

「しかし皮肉だな。あれはメクセトがこの星見の塔に攻めて来た時の奥の手だったのだが、よもや自分の妹に使う羽目になろうとはな……」

「えぇ、皮肉な結果です」

そうして二人は、しばらく星空を見上げ続けた。

「やはり、我々『守護の九姉』の一人が行くべきだったのかね」

暫くの沈黙の後に、不意にヘリステラが口を開いた。

「そうすれば、勝てない相手と分かれば少なくとも引くという考え方ができたはずだ。しかし、『キュトスの姉妹』として見出されたばかりの彼女にはそれができなかった。いや、そうすることは自分にとって取り返しのつかない何かを失うことだと彼女は勘違いしたのだろうね。『キュトスの姉妹』とは言え、我々は所詮魔女にしか過ぎない。だが、ムランカにとってはそれ以上の意味があったのだろうね」

そう言ってヘリステラは、ムランカに初めて会った日のことを思い出す。

土風吹きすさぶ貧しい辺境開拓地、そこで荒野を耕す農奴達。その中の一人、とりわけまだ幼い少女の前に近づくと、手を差し伸べながら彼女は言ったのだ。

「やぁ、我が愛しい妹よ。私は君を迎えに来た」

その時の彼女が何を思ったのかは知らない。だが、確かなことは、少女は他の農奴達とは違い、目の前に現れた『キュトスの姉妹』に恐れおののくことなく、笑顔すらその顔に浮かべてその手を掴んだのだった。

それが二人の出会いだった。

「そのムランカについてなのですが……」ヘリステラは表情を曇らせながら、重々しい口調で躊躇いがちに言った。「お姉さま、我々はムランカの『削除』を要請します」

 

「『削除』とは穏やかじゃないね」ヘリステラはダーシェンカの言葉に眉を顰めて言った。「まがりなりにも大切な妹だぞ」

「削除が適わないのでしたら、肉体と意識を消去することを要請します」

「……理由を聞こうじゃないか」

ヘリステラは傍らにある彼女専用の椅子に腰を下ろしながら聞いた。

「彼女は危険だからです。今やただの『キュトスの姉妹』ではありません。世界をいつでも滅ぼせる力を手にしたのです。今回は事なきを得ました。しかし次回同じこと、いえ別の方法で似たような事態があった場合にそれを阻止できるとは限りません」

確かに彼女の言うとおりで、メクセトよりムランカが引き出した魔法は他にも世界を滅ぼせる力をもつものがあるかもしれないのだ。彼女達には、この3年間、ムランカがメクセトから何を教わったのかについて知る術はなかったのだから。

「君の言うことは分かる。しかしだね……」

「お姉さま、何を躊躇うことがあるのです。もともとムランカ……いえ、今はそう呼ばれているキュトスの欠片にはもともと意思などは存在しないのですよ」

ダーシェンカは言った。

彼女の言うとおり、ムランカは元々肉体や意思を持った『キュトスの姉妹』ではない。

「彼女は精神体です。今までは人間以外の生物に潜り込んで、その本能の赴くままに生物の記憶をその精神内に取り込んでいました。しかし、今から10と余年前に人間、ムランカという少女に潜り込み、何の気まぐれを起こしたのか、その意識を自らの主意識としたのです。おかげで我々は存在は知ってこそいましたが接触したことの無い妹と接触して姉妹に取り入れることに成功しました。意識なんて彼女にとって後付の要素にしか過ぎないんです」

不意に、冷たい夜風が吹いて二人の頬を撫でた。

ヘリステラは椅子に腰掛けたまま、暫くダーシェンカの顔を見ていたが、やがて「君の言いたいことは分かった」といつものように冷静な口調で口を開いた。

「だが、彼女は『削除』しない。その肉体も意識も『削除』しない」

「どうして……」

驚き、絶句するダーシェンカに、ヘリステラは「使えない『力』は脅威ではないからだ」と答えた。

「おそらく彼女は二度とあの『力』を使うまい。彼女の中の記憶が、あの男の記憶がそれをさせまい。あれは『女』になってしまったのだから」

「皮肉なことだ……」とヘリステラは呟き、腰を下ろしていた椅子から立ち上がって再びその視線を星空に戻した。

彼女の考えが正しければ、メクセトという神を滅ぼそうとした男が……永遠に叛徒として、絶対の『悪』として語り継がれる男が、永遠に、少なくとも彼女達が一に戻るか、消え去るかするまでこの世界を守り続けるのだ。

……人間という種が幾億の世代を経て一人産まれるか産まれないかの存在か

それはどれだけの奇跡なのだろう、と彼女はふと思いをめぐらせる。

彼女達の頭上で、輝く悠久に輝く星々は地の営みなど大したことではないとばかりに彼女達を照らしていた。

 

 

何もかもが溶けてしまいそうな漆黒の闇の中で、石畳の上に彼女は横たわっていた。

この部屋で意識を取り戻してから長い、長い時間が経っていた。

その身体は特に拘束されていたというわけではないが、虚脱感のあまりに彼女は身動きひとつできないままだった。

「もう、全ては過去のことなのね」

力なく彼女は呟き、自分がその胸に抱いている物へと視線を走らせる。

彼女の胸には、その肉も腐り落ち、既に白骨化したメクセトの首があった。

「ねぇ、こんなの嘘でしょう?」

そう彼女は呟いたが、首はもう何も語り掛けてはくれない……彼女を幾度もムッとさせたからかうようなあの軽口も、最初は恐れいつの間にか愛しいと思ったあの高笑いも、囁かれる度に耳まで真っ赤になった愛の言葉も、もうその口からは発せられない。

「悪い夢よね?……きっと私、夢を見ているのよね?」

目を覚ませばメクセトが隣にいて、いつものように寝顔を覗き込んでいて、彼女はそれに対していつもの強がりを言いながらその腕の温もりを感じるのだ。

だが、いくら彼女が否定してみても、もう彼はいない。

彼女の記憶に、まるで夏の日差しのように鮮烈な思い出を残して去ってしまったのだ。

あとは腐り、やがて無に還るメクセトの首だけが残されただけだ。

目を閉じて耳を澄ませば、今でも彼女の心の中にはあの高笑いが響いているのに……。

「結局の所は人だ。いずれ終わりは来る」

姉の言ったとおりだった。終わりは唐突に訪れて、何もかも奪い去ってしまった。

気付いたときには全ては手遅れになっていたのだ。

「……世界は貴方に手の平を返したのに……」

不意に、彼の最期の言葉が彼女の記憶の中で蘇る。

……最高だ、お前ら!……余はお前らを愛しているぞ!

あの言葉はきっと本心からの言葉だったのだろう。

彼はこの世の全てを、例えそれが綺麗なものでも、そうでないものでも、全てを受け入れてそう言ったのだ。

彼女が破壊しようとしたものですら受け入れたのだ。

分かった上で全てを愛したのだ。

「ずるいわ……貴方」

彼女は、じっと両腕に抱えたメクセトの首を見つめる。

メクセトはもういない。

あるのはかつてメクセトだった物の一部だ。

なのに、メクセトの体のその感触だけは、消せない感覚としてその手に残っていた。

「世界を滅ぼせても……滅ぼすことができないじゃない」

彼女の両の頬を涙が伝ってメクセトの骸骨を濡らす。

「あなたが、世界で一番嫌い……」

その頭蓋骨を抱きしめながら、嗚咽混じりの声で彼女は言う。

「でも……世界で一番貴方のことが……」

全てを無くしたメクセトには、その次の言葉を聞くことはもうできない。

 

 

7.

時は回転木馬、そして走馬灯。

全ては過ぎ去り、移ろい、変わっていく。

歳々年々同じように花は咲き、年々歳々人は変わると古の詩人は詠った。

けれど、長い時の流れの中で、本当は花ですら歳々年々同じようには咲かないのだ。

普遍は人の憧れ、人の幻想、実在はしないもの。

だから、メクセトという人物が存在した時間から千年の長い時間が経って今……

 

 

かつてその土地は無人の土地だった。

火山性の列島という地理的な条件もあり、その土地には草木すら生えななかった。

しかし、千年の時の流れはこの土地を緑豊かな土地に変え、いつしかそこに人が住むようになっていた。

住人達はその土地を、泡良と呼ぶ。

そして、その泡良の獣すら拒む険しい山奥の一角に女の姿はあった。

「あぁ、すっかりこの辺りも変わっちまったねぇ」

青い月下の中で、美しい女が一人空を見上げながら言った。

彼女が初めてこの土地を訪れたとき、そこは一面の荒野だった。

誰も知らない静かな場所で彼を眠らせたいと考えて、彼女が世界中を旅して探し出した場所がそこだったのだ。

しかし、今はそこは一面の野生の花畑に変わっていた。

「でも、あんたの墓にはこういうのがふさわしいかねぇ」

そう言って、その金髪の女は、優しい目をして地面を見下ろした。

長い年月の間に、墓石代わりにした岩も無くなってしまったが、彼女には分かっていた。彼女の見つめるその先の地面の下には、彼が今も尚眠り続けるのだ。

「この場所も変わっちまったけど、世間もみんな変わっちまったよ。あんたのことなんて誰も覚えていない。そして、あたしも変わったろう?すぐにあたしが誰だか分かったかい?」

そう言って、女はクルッとその地面の前で、軽くステップを踏みながら、舞うようにして回ってみせる。

「まぁ代替わりしたんじゃ、分からないだろうけどね」

代替わりというのは魔女のその肉体が朽ちる時に、別の肉体に移り変わることだ。

千年の月日の中で、彼女は様々な肉体に移り変わっていたが、その肉体は必ず美しい女性だった。

「あんた美女が好きだったからねぇ。やっぱり毎年墓を訪れてくれるのは美女の方が良いだろう?」

まるで彼女の言葉に応えるかのように、少し強い風が吹き、春の香りに乗せて花びらがそれに舞った。

……あぁ、懐かしい

彼女は思った。

それはもう遠い昔の話で、男と過ごした期間は短いものだったが、こんな風に花びら舞い散る春風を、男の腕に抱かれながら見たことをまるで昨日のことのように彼女は覚えていた。そして、それはきっとこれからも彼女の中で色褪せることなく残り続けるだろう。

「やっぱり世界は美しいねぇ。そうじゃないものもあるけど、だからこそ世界は美しいよ」

今の彼女は知っている。だからこそ全てを受け止め、愛することができるのだ。

それがこの千年で彼女が世界を見て学んだことだ。

「……やっぱり、あんたのことが世界で一番大嫌いだよ」

やさしい口調で、口元に軽い笑みを浮かべながら彼女は言う。

天上で静かに月が翳った。

その夜陰に紛れるようにして彼女は続けた。

「そして、あんたの事を、今でも世界で一番愛してるよ」

月が雲の中から姿を現すまでにはまだ僅かの間だけ時間があった。

だから彼女はその間、思い出の中で少女時代に戻っていた。

あの高笑いも、彼女を抱きしめる逞しい腕の温もりも、それらは確かにそこにはあった。

「……これまでも、これからもずっと……あんたが世界で一番好き」

それはもうどこにも届かない言葉のはずだった。

けれども再び姿を現した月の、全てを冷たい銀色で照らし出す光の中、彼女は確かにあの高笑いを聞いたのだ。

「馬鹿だねぇ、あんた。本当に馬鹿だよ……」

そう言った彼女、ムランカの頬を一筋の涙が伝っていた。

 

 

全ては誰も知らない、月と天の星々だけが知る物語。


 
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