No.172990

星の夢

はじめて、まともに書いた短編小説とでも言いましょうか。 この長さで短編ではないと思われそうですが、ここに投稿している分で完結しています。
童話的ファンタジーの話になっていて、誰でも気軽に読む事ができると思います。

2010-09-17 06:57:31 投稿 / 全7ページ    総閲覧数:424   閲覧ユーザー数:379

 ぼくは、お母さんとお父さんという言葉は知っていた。だけれども、ぼくにお母さんとお父さんが

いるなんて、夢にも思った事が無かった。

 だって、そんな人達、生まれて一度も会った事が無かったし、ぼくを産んでくれた人達だったら、

何でぼくの前からいなくなってしまったのか、分からなかったんだから。

 お母さんとお父さんという言葉を、ぼくはセドリックから教えられた。セドリックは、ぼくより一つ年

上の子で、何て言うのか、ぼく達のリーダーだった。

 チームは10人くらいずつに分かれて、街中に広がっていた。セドリックはそのチームのリーダ

ーの中の一人だった。チームは、大体、ぼくと同い年か、少し年上か年下の子達だけで出来上が

っていて、街の裏路地や、港なんかを根城にしていた。

 ぼく達のほとんどは、お母さんやお父さんがいなかったから、食べ物は自分達で集めるしかな

かった。

 盗みが悪い事って言うのはセドリックが言っていた。だけれども、必要なものを盗むのは悪い事

じゃあない。食べ物を与えない大人が悪いんだってセドリックは言っていた。

 そんなぼく達は基地に集って、毎日毎日、食べ物を探しに行っていた。基地は、港の空き地の

中にあって、そこは昔、倉庫として使われていた場所だった。港にいる人達は、臭くでカビだらけ

の場所。と言っていたけれども、ぼく達にとって、そこは雨風を凌げる場所だったし、集めてきた

食べ物も沢山置いてあった。基地はぼく達の大切な家だった。

 家って、何だろう? ぼくは、気が付いてみたら倉庫、つまり基地の中で生活していて、気が付

いたら街の中へと食べ物を探しに出かけていた。

 ぼくの周りにいる子達も、基地の中で育った子達だったから、家なんて言うものは知らなかっ

た。ただ、セドリックは言っていた。家って言うのは、お父さんとお母さんがいて、屋根があって、

雨風を凌いでくれる壁もあって、あったかい暖炉って言うものもあって、ふかふかの、木箱の上や

床なんかよりも、もっと柔らかいベッドというものがあるんだって言っていた。

 セドリックはどうして家って言うものを知っているんだろう?

 彼は、こう言っていた。僕は、家で育ったんだ。僕には、お父さんとお母さんがいて、僕を育てて

くれた。お前達が港の倉庫で暮らせるのも、お父さんが、港の荷物監督なんだからだぞって。

 ニモツカントクって言うのは、港の中でもえらい人らしい。

 そう言えば、お父さんとお母さんがいる事以外にも、セドリックは、ぼくらとは違う所が幾つもあ

った。彼は、よくぼくらに沢山の食べ物を持ってきてくれた。ぼくらが食べ物を集めに街に出かけ

ても、ろくな食べ物が手に入らない時もある。それで基地にいる10人もの子達の体を満たす事

はできない。だからセドリックはそんな時、食べ物を沢山持ってきてくれた。パンだったり果物だっ

たり。ぼくらはセドリックに感謝しなければならなかった。

 あと、セドリックには、家と言うものがあるらしかった。彼は朝から夕方までぼくらと一緒に暮らし

ている。朝は、倉庫にぼくらを起こしに来てくれるし、夜、ぼくらが寝付くまで一緒にいてくれる。

 だけれども、夜中は一緒にいなかった。時々は夜も基地に泊まりに来てくれるけれども、夜は、

家に帰っているらしい。

 セドリックには、家がある。家ってどんな所だろう?

 

 

 

 ある時、ぼくらの基地の女の子の具合が悪くなった。

 セドリックは言っていた。あまり古い食べ物を食べてしまうと、体を壊してしまうんだって、ぼくら

はその子もそれが原因なんじゃあないかと思った。

 でも違った。その女の子の体には、変な腫れ物ができていた。風邪なんかじゃあない。病気だ

った。それをセドリックに伝えると、彼はすぐにその女の子を自分の家に連れて行くと行って、基

地から出て行ってしまった。

 その女の子は、ぼくらの基地に戻って来る事は無かった。

 セドリックが言っていた。病気というものがあるんだと。その女の子は、病気になったから、僕ら

と離さなければならないらしかった。そうしないと、病気は人から人へとどんどん移るという話だっ

た。

 病気には色々あって、すぐ治るようなものもあるけれども、今流行っているのは、一度かかった

ら助からない病気だと彼は言っていた。今月も、街で多くの人がその病気にかかって死んでい

た。

 ぼくの生まれた時から、その病気はあったそうだけれども、今が一番酷いそうなのだ。そう言え

ば、ぼくらが街へと食べ物を探しに行くとき、日増しに人の姿が減っているような気がしていた。

 皆、どこへ行ってしまったんだろう? セドリックは答えた。

「皆な、教会って所にお祈りしに行っているのさ。そうする事で、病気にかかった人は治るって言

われているし、かかってない人は、病気にかからないで済むんだ」

「じゃあ、ぼくらも病気にならないように、お祈りしに行こう!」

 とぼくはセドリックに言ってみたが、彼は呆れたように言った。

「今の教会の中には、人が多すぎて、とてもお祈りなんかできないぜ。それに、入り口で追い払わ

れる。ぼくらは人から物を盗むだろ? 罪深きイタンジは、このシンセイな建物の中には入れない

って言われてな」

 イタンジも、シンセイも、ぼくらには分からない言葉だったけれども、どうやら教会という所で使

われている言葉らしい。

 とにかく、ぼくらは病気になっても、お祈りができないから、助からないという事だった。助からな

いって言っても、助からなかったらどうなるんだろう? 病気になったら、熱にうなされて、どんどん

心がばらばらになって行くという話だった。

 心がばらばらになったら、どうなってしまうんだろう?

 病気にかかった女の子がセドリックに連れて行かれてからというもの、ぼくらの基地からは、半

分の子達が同じ病気にかかった。セドリックは、この基地の中には、人を病気にさせる悪い悪魔

がいるから、もういてはいけないと言い、さっさとぼくらを外に追い出した。

 病気にかかった子達の姿は、ぼくはもう二度と見る事は無かった。

 最初に女の子が病気になってからというもの、街中の人の姿はどんどん少なくなっていた。ほん

の一月もしてしまえば、人の数は半分くらいまで減ってしまっていた。

 皆、教会に行ってしまっているんだろうとぼくは思った。あと、病気が怖くて街から逃げ出してし

まったんだろう、と。

 そうそう、あと、センソウというものが起こるから、それで多くの人達が、参加しなければならなく

て、それで人が街に人がいなくなってしまったんだと、セドリックは言っていた。

 センソウって何? とぼくが尋ねると、セドリックは答えた。

「食べ物を手に入れる為に、僕らは良く向かいの通りの連中と喧嘩をするだろ? あんな感じの

事さ。あれを大人がやるんだ。もっと大勢で」

「食べ物を手に入れる為に?」

「いいや、食べ物じゃあない。土地さ。僕らは、少ない土地で、多くの人達が生活しているから、食

べ物を作る土地が少ないし、もう無いんだ。だけれども、もっと広い世界に行けば土地が一杯あ

る。だから、僕らの国の偉い人達はセンソウをさせて、沢山の土地を手に入れようとしているん

だ。食べ物が一杯あれば、病気にもかからないで済むんだ」

 もっと多くの大人の人達が喧嘩をするって、ぼくらにはちょっと想像がつかなかった。よく、港外

れのお酒を飲む店の前で、大人の人達が喧嘩をしているけれども、あれを大勢の人達がやるっ

て事なのだろうか。

 それで、ぼくらの食べ物がもっと沢山手に入るって、ちょっと想像が付かなかったけれども、セ

ンソウで、食べ物も沢山あって、病気も無くなるんだったら、ぼくもセンソウへ行った人達の事を

応援しよう。

 でも、誰かが言っていた。センソウへ行った人達って、2度と戻れないって。何で戻れないのって

僕は、またセドリックに聞いた。

「それは、大勢の人が死んでしまうからさ」

「シヌって何?」

「病気にかかった仲間が何人かいるだろ? それと同じように、戻れなくなっちゃうんだ。テンゴク

って言う所に皆行く」

 また、ぼくの知らない言葉が出てきた。セドリックは、本当に良く言葉を沢山知っている。

「テンゴクってどこにあるの? ぼくもそこに行けるの?」

「ああ、行けるとも。ただ、気をつけろよ。一度行ったら、もう戻って来れないんだ。僕の両親が言

うには、テンゴクって言うのは、北の山の更に向こうにあるそうなんだ」

 北の山って、ぼくは街の中から外へ出た事も無いから良く知らないけれども、遠い所にあるんだ

なって事は想像がついた。

「セドリックはテンゴクへ行きたい?」

「いいや。僕はテンゴクに行っても会いたい人なんていない。僕のお父さんもお母さんも、まだこ

の街にいるんだ」

 と、自信ありげにセドリックは答えた。

 だけれども、やがてそのセドリックの自信は、覆されてしまった。

 彼のお父さんとお母さんが、テンゴクって言う場所に行ってしまったんだ。

 

 ぼくは夜眠る時、ある星を見るようになった。それは、みんなが夕暮れと呼ぶ時に、強い光を放

ち、輝く綺麗な星だった。

 最初、ぼくは何気なくその星を見ていたけれども、やがて、その星を見るたびに、不思議な気分

になっていた。

 星って、何なんだろう? 星って、何で空に浮かんでいて、輝いているんだろう?

 セドリックに聞いたけれども、あの星の一つ一つは、神様の遣いであるそうで、きれいな星は、

それだけ神様に近いつかいだそうである。

 綺麗な星を見る事のできる人間は、テンゴクへ行けるんだと、セドリックは言っていた。じゃあ、

ぼくもテンゴクへ行けるのかもしれない。

 ぼくは、初めてその話を聞いた時は、かなり疑ってしまった。だけれども、やがてそれは、確か

な事であると知った。

 夜、眠る前に、ぼくは、その星を必ず見るようになった。日が経つにつれ、空に現れるその星の

位置は少しずつ変わって行ってしまったけれども、ぼくは必ずその星を見つける事ができた。

 皆、晴れた日にしか星は見れないと言っていた。だけれども、僕は曇った日や、雨降りの日で

も、その星だけなら見る事ができた。

 だって、ぼくは夢の中でも、その星を見る事ができたのだから。

 いつからだったか、その星は、ぼくの夢の中でも現れるようになった。

 不思議だった。起きている時は、とても遠い空の彼方に見えるような星だったけれども、夢の中

では、凄く近くで、大きくその星は輝いて見えていた。

 金色の光を放つ、大きな玉であるような星だった。それはとてもきれいで、まるで黄金を見てい

るかのようだった。

 その金色の星は、ぼくに何かを言って来ているかのようだったけれども、ぼくには何を言ってい

るのか分からなかった。

 ただ、起きている時も眠っている時も、ぼくはただその金色の星にじっと目を向け、静かに佇ん

でいた。お祈りも無く、会話も無く。ただ、言葉の無い会話をしているかのように。

 ぼくと星は、夢の中で2人きりだった。

 

 

 

 セドリックのお父さんとお母さんがテンゴクに行ってしまったという事は、セドリックに直接聞いた

んじゃあない。港で働いている人達の噂話を、たまたまぼくは耳にしたのだ。

 セドリックのお父さんとお母さんは、どうやら、病気にかかったらしい。それで、他の病気にかか

った人や、それにかかる事を怖がっている人達と同じように、教会に行ってお祈りをしたけれど

も、逆にもっと悪くなって死んでしまったらしい。

 そう言えば、ぼくらはここ何週間か、セドリックの姿を時々しか見なかった。彼は、お父さんの仕

事が忙しくなったから手伝っていると言っていたが、どうやら違ったようだった。

 その噂話を聞いてからと言うもの、ぼくらはセドリックに会わなくなってしまった。

 ぼくらの基地は、ほとんどセドリックがいたから、生活できていたようなものだった。彼が食べ物

を持って来てくれる事もあったし、彼のお父さんが、ぼくらに食べ物をくれる事もあったし、毛布も

くれていたのだ。

 だが、それが突然、無くなってしまっていたのだ。

 街を歩けば、人はどんどん減っているようだった。セドリックに会えなくなってしまったから、ぼく

らはひもじくなった。食べ物を盗むか、奪うかでしか手に入れられなくなってしまった。

 何も食べられない日も何日か続いた。セドリックがいなくなった事で、ぼくらは、港の向かいの通

りの連中から食べ物を奪おうとして、こてんぱんにやられてしまった。

 でも、彼らも、ぼくらを追い返しただけで、喧嘩まではして来なかった。そう言えば、病気が流行

ってからというもの、街中の人達は、どこか、元気が無さそうだった。ぼくらがお店から物を盗んで

も、どこまでも追って来ようとする主人はいなかった。せいぜい、1つ通りを越えてしまえばそれで

逃げ切れた。

 街が静かになり、どんどん荒れて行っていた。港にやって来る船は少なくなったし、働いている

人もどんどん減っていっていた。

 ぼくらの仲間の一人が言っていた。

「皆、テンゴクへ行っちゃったんだよ! ぼくのお父さんもお母さんもテンゴクへ行っちゃったん

だ! お母さんが言っていたよ。ぼくらも、きみも、みーんな、もうすぐテンゴクへ行けるんだって

さ!」

 じゃあ、ぼくもテンゴクへ行けるのだろうか? もしかして、セドリックももうテンゴクへ行ってしま

ったのだろうか?

 やがて、その子は、病気にかかった。体に腫れ物が出来て、高い熱が出たのだ。

 ぼくらは、その子に対して、どうしたら良いのか、全く分からなかった。助けてくれる大人も、どこ

にもいなかった。

 放っておいても、その子の病気が治るような気配は全く無かった。ぼくらはもう、初めに住んで

いた倉庫には住んでいられなくなってしまっていたから、雨風のさらされる、港の空き地で寝泊り

するしかなかった。

 その子が病気になったまま、雨風に打たれているのは、あまりに可愛そうだった。

 やがて痺れを切らせて、別の子が言った。

「そうだ、教会に行こう。教会に行けば病気の人を助けてくれるって、セドリックが言っていた」

「教会に連れて行ってあげよう!」

 ぼくらはその子を連れて、教会へと向った。港の近くには教会があって、船で海へ出る人が、出

港の前によくお祈りをしていったりする。神様が船を守ってくれるという話だった。

 病気にかかった子は、もう自分の力では歩けなくなっていた。ぼくらがその子の体を担いで連れ

て行くと、その子はしきりに、

「お父さん…、お母さん…」

 と言っていた。この子にも、お父さんとお母さんがいるみたいだった。

 何だか。話を聞いていると、ここの子達には、皆、お父さんとお母さんがいるようだった。

 ぼくらが、教会の見える道に差し掛かると、良く見覚えのある子が、ぼくらの前に立ち塞がっ

た。

 それはセドリックだった。

「セドリックッ!」

 一人の男の子が、とても驚いたように彼に言った。だけれども、再会を喜ぶような間もなく、セド

リックはぼくらに、意外な事を言った。

「おい、君たち。その子を教会に連れて行くのかい? 教会に行ったって同じさ。病気を治してな

んてもらえないよ」

 一人の女の子が血相を変えた。

「どうして? だって、皆、教会に行けば治るって…」

「治らないんだよ! 僕のお父さんもお母さんも、病気にかかっているって分かったから、教会に

行ったんだ。でも、治らなかったんだ! 顔も分からなくなるほど、ウミが溜まってしまって、とても

苦しそうだった。でも、教会の人達は、神様のご加護があるから、テンゴクに行けるって、それば

っかりだった。

 他の人達も皆そうだった。皆、テンゴクへ行ってしまっているんだよ。言っておくけどね。教会に

は、同じように病気でかかった人で一杯さ。君たちも教会に入ったりしてみろ。すぐに同じ病気に

かかってしまう」

「そ、そんなぁ…」

「じゃあ、この子はどうなってしまうの?」

 みんなが口々に言った。

「テンゴクに行くだけさ…。その病気にかかったら、もうテンゴクに行くしかない」

 セドリックは、ぶっきらぼうにみんなに対して言った。

「テンゴク…、嫌だ…。ぼく、まだテンゴクに行きたくない…」

 うなされているかのように、病気にかかっている子が声を漏らした。

「嫌だッ! ぼくは、テンゴクになんて行かないからなッ!」

 一人の男の子がそうセドリックに向って叫び、どこかへと走って行ってしまう。

「あたしもッ!」

 そう言って、別の女の子も、走っていってしまった。

「じゃあ、あとは任せたからな!」

 更に、病気にかかった子をぼくへと投げ渡すかのように渡し、ここまで抱えてきてあげた男の子

たちも走って行ってしまうではないか。

 みんな、まるで何かから恐れているかのように、走り去って行ってしまった。

 教会前の通りに残されたのは、ぼくと、病気にかかった子と、セドリックだけだった。

 セドリックはため息を付くと、ぼくに向って言った。

「この子を、教会まで連れて行く。手伝ってくれよ。こんな道の真ん中に放っておくわけにはいかな

いだろ?」

 そう言って、彼は病気にかかった子を背中におぶった。

「う、うん…」

 そして、僕らは並んで教会までの道を歩き出した。

「本当は、教会に行っても、病気が治るわけじゃあないんだ。もう、ベッドも一杯で、皆、床に転が

っている始末さ」

「そ、そうなの…?」

「皆、助けてもくれないのに、神様助けて下さいって言っている。この街だけじゃあないんだ。どこ

の街に行っても、病気にかかった人で一杯さ…。僕らもいつ、病気にかかってしまうか分からない

…」

「病気にかかったら、テンゴクに行って、そうしたら、セドリックも、お父さんとお母さんに会える

ね?」

 すると、セドリックは少し怒ったようだった。

「馬鹿言わないでくれ。テンゴクに行くっていう事は、死ぬって事だよ。お父さんとお母さんに会うっ

て言っても、死ぬんだったら、僕は絶対に嫌だ。君は、お父さんとお母さんに会う為に死にたいっ

て言うのかい?」

「セドリックのお父さんとお母さんには良くしてもらったからね。でも、テンゴクにまで行って会いた

いかなあ…、もう戻って来れないんじゃあ…」

 すると、セドリックは少し吹き出したようだった。

「待ってくれよ。僕のお父さんとお母さんの事じゃあない。君のお父さんとお母さんの事を言ってい

るんだ」

「えッ…? ぼくの…?」

 ぼくには、セドリックの言った言葉が、すぐにはよく分からなかった。

「君も、お父さんとお母さんに会いたいんだったら、テンゴクに行って見たいかい?」

「ぼくにも、お父さんとお母さんがいるの?」

 ぼくは、慌ててセドリックに聞き返していた。

「当たり前だろ? 君にも僕にも、誰にでも、お父さんとお母さんはいるんだ。いなかったら、どう

やって僕らは生まれるって言うんだ? 但し、いた、だけれどもな。君のも僕のも、お父さんとお母

さんは死んでしまった。つまり、テンゴクへ行ってしまったんだよ」

 ぼくは、セドリックと並んで歩きながら考えた。

 ぼくにも、お父さんとお母さんがいただって? いなければ、ぼくは生まれていなかった。お父さ

んとお母さんがいたなんて、ぼくは今まで夢にも思わなかったし、だから会いたいと思った事も無

かった。

 それに、既にテンゴクに行ってしまっているんだったら、どうやって会うと言うのだろう。

「おい、大丈夫か?」

 しきりに頭で考えを巡らせるぼくに、セドリックが呼びかけて来た。

「あ、うん。大丈夫だよ」

「安心していい。僕もお父さんとお母さんに会いたい。だから、良い方法をお父さん達から聞いて

いたんだ。とっておきの方法さ」

「とっておきの方法って?」

 ぼくが尋ねると、セドリックは得意げに話し始めた。

「テンゴクにいるお父さんとお母さんに会いに行く方法だよ。お父さんはちゃんと、テンゴクの場所

を僕に教えてくれていたんだ」

「ど、どこにあるの?」

「北の山だよ。北の山の更に向こう側にテンゴクはあるんだって、お父さんは言っていた。だから

僕は北の山を目指すんだ。君も一緒に来るかい?」

 

 セドリックはぼくを誘ってくれたけれども、ぼくは北の山の更に向こう側にある、テンゴクという場

所を目指す事が、少し恐ろしい事のように思えていた。

 そこに行ってしまえば、もう二度と帰る事はできないと聞いていた。いくらテンゴクに行ってしまっ

た人達に会えると言っても、二度と戻って来れないんじゃあ、行くのは怖い。

 テンゴクって言うのは、とても良い所だと僕は聞いていた。食べ物も、寝る所も幾らでもあって、

もちろん病気なんて言うものもどこにも無い。喧嘩や盗みをしなくても、食べ物が手に入って、皆

平和に暮らしているそうだ。

 セドリックは、お父さんとお母さんだけテンゴクに行ってしまい、自分だけこっちの世界に取り残

されてしまったと言う。だから、僕もすぐに後を追わなくちゃあならない。という事らしかった。

 セドリックはテンゴクへ行くつもりなのだ。

「だけれども、僕は、病気にかかったり、海に身を投げたりして、死んでテンゴクに行くのは嫌だ

からな。この脚で、直接テンゴクへと行くんだ」

 教会へと病気へかかった子を連れて行った帰りに、セドリックは自信満々にぼくに言って来た。

 病気にかかって、治らなくなって、とても苦しい思いをしている人達を救う為、神様が現れてテン

ゴクへと連れて行ってくれる。

 ぼくは幾らテンゴクに行けるからと言って、教会で見た人達のように、苦しい思いをしてテンゴク

に行くのは嫌だった。

 神様に連れて行ってもらう事を、セドリックや皆は、シヌって言う言葉を使っていたけれども、シ

ヌって言うのは、皆怖がっていたし、ぼく自身もシヌって言うのは何だかとても恐ろしい事のように

思えた。

「でも…、本当に北の山へ行けば、テンゴクへと繋がっているのかなあ? だって、テンゴクって、

神様が連れて行ってくれるところなんでしょ…?」

 ぼくが半信半疑にセドリックに尋ねる。すると、

「僕のお父さんが言っていた事なんだ。間違いない。本にもちゃんとそう書いてあったんだ。北へ

と行けばテンゴクがあるんだ!」

 セドリックは、まるで自分に言い聞かせるみたいにそう言っていた。彼自身がそう信じてしまい

たいかのようだった。

「テンゴクに行けば、ぼくも、ぼくを産んでくれた、お父さんやお母さんに会えるの…?」

「もちろんさ。だけれども、頭の中にちゃんとお父さんとお母さんの顔を思い浮かべとかなくちゃあ

駄目だ。向こうに行っても、誰が君のお父さんとお母さんか、分からなくなるからな」

 と、セドリックに言われてしまったが、ぼくは頭の中に、どんな人達を想像したら良いのか、見当

もつかなかった。だって、ぼくのお父さんとお母さんなんて、どんな人なのか会った事も無かった

んだから。

「僕は、明日の朝にこの街を出発するよ。君も良かったら付いてきな。街の北門で、朝、教会の

鐘が7回鳴る時まで待っている。付いてきたかったらそれまでに来ておくれよ。僕も一人で行くよ

りは、仲間が一緒の方が良いんだ」

 それだけ言って、セドリックはぼくよりも先に、駆け足でどこかへ行ってしまった。

 

 

 

 ぼくは、どうしたら良いか分からなかった。テンゴクに行けば、会った事も無い、お父さんとお母

さんに会う事ができる。でも、戻って来る事ができないかもしれない。セドリックの言うように、本当

に北の山の向こうにテンゴクがあるかどうかも分からなかった。

 だけれども、セドリックが一人で行ってしまうのも、どこか心配だった。北の山は、ぼく達の足で

は少し遠すぎる。何日もかけて行かなければならないかもしれなかった。

 大体、ぼくはお父さんとお母さんの顔を知らない。多分、向こうだってぼくの顔なんか知らないは

ずだ。テンゴクに行っても、会えるかどうかなんて、分かったもんじゃあない。

 街の中をうろつきながら、考えている内に日が沈んで来てしまった。今日もまた夜になろうとして

いる。

 何だか考えている内に疲れてしまったので、ぼくは、通りの中で寝れそうな場所を見つけてその

場で横になってしまった。港にいる仲間達の所には、また明日、戻って行けばいいだろう。

 ぼくと同じように、通りで横になっている人は、他にも大勢いた。

中にはもう動かなくなっている人もいた。

 

 

 

 夢の中には、沢山楽しい事がある。ぼくは夢の中で空を飛んだ事もあるし、海の深くに潜った事

もある。食べ物を、これ以上食べられないほど食べた事もあった。

 起きている時と、夢を見ている時、一体、どっちが本当なんだろう?

 ぼくにとっては夢の中の方が本当であって欲しかった。だって、全然ひもじい思いをしなくていい

し、暖かい所でぼくは横になれる。空だって海の中だって、自由に動き回れるんだ。

 だから、今日の夢も、ぼくにとっては楽しみだった。それにまた、あの綺麗なお星さまと会う事が

できるかもしれない。

 案の定、金色の丸いお星さまは、またぼくの前に姿を現した。

 真っ白な所に、ただ金色のお星さまが輝いている。その場所にいるのは、ぼくと、その星だけ。

 金色のお星さまは、相変わらず真ん丸だった。そして、揺らぐように金色の光を放って来てい

る。その姿は、ぼくに何かを語りかけて来ているかのようだった。

 ぼくは、いつも通り、金色のお星さまを前にして座った。そして、言葉にならない会話をするの

だ。

 ただじっと星を見つめ、お星さまが言おうとしている意味を読み取ろうとする。

 いつもなら、それだけで十分だった。お星さまの言ってくる言葉の意味が分からなくても、それだ

けで不思議とぼくの心は、安らいだ気分になったのだ。

 だが、今日は何かが違っていた。

 お星さまは揺らぎながら、何かを囁いていた。

 それも、意味の無い言葉のようだった。だけれども、いつもの言葉とは何かが違う。まるで、今

日だけは、ぼくに何かを伝えたいかのようだった。

「…、何を…、言いたいの…? お星さま…?」

 ぼくは星に向って、言葉を使って尋ねたが、変わりは無かった。ただお星さまは意味の無い言

葉を続けている。

 ぼくは、お星さまの言いたい言葉を読み取ろうとしたが、良く分からない。

 だがやがて、目の前の星の中に、何か白い影が見えてきたような気がして来た。何だろう。この

白い影は。

 その影は金色の星の中で、だんだんと形を作って行っていた。やがて影は、2つの形を創り上

げていた。

 丁度、2人の人の姿のような形だ。

 ぼくは、お星さまの中に見えた2人の人影に向かって手を伸ばそうとした。掴もうと思えば、掴め

ると思った。

 今まで保っていた星との距離を縮め、ぼくは、お星さまに向って近づいた。近付くにつれ、星の

中に見える影がはっきりとした姿に見えて来る。

 確かに2人の人の姿だった。顔までは伺えなかったけれども、大人の人が2人だという事は分

かった。

 その人達は、お星さまの中からぼくの方へ振り向いてくる。誰なのかは分からない。だが、ぼく

の事をその人達は知っているようだった。

 手を伸ばせば、星に手が届く。今までしてはならない事だと思っていたけれども、ぼくは星に向

って手を伸ばし、触れようとした。

 だが、星にぼくの手が触れるよりも前に、霧の中に消えてしまうかのように、ぼくの目の前から

お星さまは消え去ってしまった。

 

 

 

 気が付くと、ぼくは眼を覚ましていた。

 朝だった。日が昇り始めていて、もう皆が起き出す時間だった。

 辺りを見回す。今は何時くらいだろう? ぼくはどのくらい眠ってしまったのだろうか?

 通りを行き交う人々の様子で、ぼくは大体、今が何時くらいであるかをはかろうとする。セドリッ

クは、教会の鐘が7回鳴った時に出発すると言っていた。今は、何時なのだろう。

 ぼくがのろのろと起き出していると、そんなぼくを追い立てるかのように、後ろの方から教会の

鐘が鳴った。

 1つ、2つ…。もしかしたらセドリックはとうに行ってしまったかもしれない。もちろん、ぼくが彼と

一緒に北の山を目指さないのだったら、待ち合わせ場所に行かなくても構わないのだけれども。

 もう、ぼくには戻りたい所も無かった。仲間達の所に戻っても、皆と一緒に、病気になってひもじ

い思いをしなければならないだけだろう。

 鐘が鳴る。3つ、4つ、5つ。

 ぼくは教会の鐘に後押しされるかのように走り始めていた。昨日は、まだ決心が付いていなか

った。だけれども、今日は違う。ぼくの心を、何かが駆り立てていた。

 セドリックと一緒に北の山を目指しなさい、と。まるで誰かから言われているような気がする。一

体、誰から? 夢の中で見た、金色のお星さまが頭に過ぎる。

 あの時、星の中に見えた光は一体、何だったんだろう?

 6つ目、そして7つ目の鐘が教会で打たれた。そして鳴り止む。今は、セドリックとの待ち合わせ

の時間だった。

 彼と一緒に行くには、すぐにも街の北門に行かなければ。そうじゃあなかったら、セドリックは行

ってしまう。こうなったら、ぼくは北の山の向こうにあると言うテンゴクに、どうしても行って見たか

った。

 港の側を離れてしまうと、街はぼくにとって迷路みたいなものだった。そう。ぼくはまだ、港の側

から大きく離れた事が無い。街の外にだって出た事が無かったのだ。

 この通りを、どちらに行ったら良いのだろうか。ぼくには、街の中でさえ迷ってしまいそうだった。

 こんなぼくが、北の山など目指せるのだろうか。多分、一人では無理だろう。どうしてもセドリッ

クの助けが必要だ。彼と一緒に行かなければ。彼はもう行ってしまう。彼が行ってしまったら、ぼく

はどうしたら良いのだろう?

 人々が、次々に病気になって行くこの街で、また暮らして行かなければならないのか。ひもじい

思いをして、嵐が来ても、雨風を避ける場所も無しに、ただ身を震わせているしかないのか。

 そんなのは、もう嫌だった。何としても、セドリックと一緒に、北の山の向こうの、テンゴクに行き

たい。

 だけれども、その為にはまずこの街を出なければならなかった。

 幾つもの通りをさ迷った。鐘が8つ鳴る時刻になっても、ぼくは街から外へ出る事ができなかっ

た。

 ようやく街の北の門が見えてきた時は、すでにいつも鐘を聞いている教会とは別の教会の鐘が

10も鳴った時だった。

 まだ、セドリックがぼくの事を待っていてくれる。そんな甘い希望も抱いていたが、北の門にいる

のは、だらしない様子で、街に出入りする人々を見張っている門番だけだった。

 セドリックはいない。もう行ってしまった。北の山を目指して、もう3刻も前に街を出てしまってい

るに違いない。

 ぼくはがっくりと肩を落とした。もう、希望も何も無いのだろうか。

 北の門に着くために、街を走り回ったせいか、疲れがどっとやって来て、ぼくは門へと続く通りで

座り込んでしまった。

 ぼくが、もっと早く決心していれば。セドリックが行ってしまうよりも前に、ここに辿り着いていた

かもしれない。ぼくは、何てとろい奴だ。

 もう、このままあのいつもの港に戻るしかないのだろうか。

 後悔と失望が、ぼくの心を満たそうとしていた。ぼくは、所詮、この街から外に出る事さえできや

しない。ただそれだけの、ちっぽけな子どもなんだ。外に出て、テンゴクに行けるのは、セドリック

みたいに、皆に頼りにされている、勇気のある子どもだけなんだ。

 こんなぼくに、一体、何があるというのだろう?

 やがて疲れてしまったぼくは、通りに座り込んだまま、うとうととしてしまっていた。

 また来た道を戻って、あの港に戻るのだと思うと、頭がくらくらとして来そうだった。

 だが、眠りかけているぼくを、無理矢理起こすかのように、ぼくの頭の中に、あの金色のお星さ

まが映った。

 ぼくははっとした。金色のお星さまは、眠りかけているぼくに、何かを囁いているかのようだっ

た。

 ぼくにはそれが、まるで、セドリックを追いなさいと言っている誰かの声に聞えたような気がし

た。

 うとうとしていたぼくだったが、すぐに目を覚まされた。

 まだ、セドリックは、それほど遠くに行っていないのではないのか。走れば追いつく。彼が目指し

た方向は分かっている。北の山だ。

 彼が北へと向ったんだったら、ぼくも北へ向えばセドリックに会える。

 そう。まだ、ぼくは道を閉ざされたわけではないのだ。ぼくが行けば、セドリックに会える。だけ

れども行かなければ、セドリックには会えないし、北の山にも行けない。テンゴクにも行けない。お

父さんとお母さんにも会えない。

 不思議だった。うとうとして、疲れた体が元の元気な体に戻ったのだろうか? ぼくには再びや

る気が現れて来ていた。

 もしかしたら、あの金色の星が、ぼくに力を与えてくれたのかもしれない。

 お星さまは、ぼくに行けと言っている。だったら行ってみよう。

 立ち上がったぼくは、北の門で人の出入りを見張っている門番の隙を見て、いよいよ街から飛

び出して行った。

 

 外の世界が、ぼくを待っていた。

 ぼくは高い塀で囲まれた街から外へ出る事は初めてで、とにかくわくわくしていた。少し、不安も

あったかもしれない。だけれども、塀を潜り抜けた時から、ぼくのそんな不安はどこかへと行って

しまった。

 流れる気持ちの良い風。見渡す限りに広がっている平原が、塀の外には広がっていた。

 外の世界がこんなに広いという事を、ぼくは知らなかった。

 外の世界には、街の陰鬱な空気も、ひもじい思いをしている子ども達も、病気も何もなかった。

ただ、平原が広がっているだけだ。

 ぼくは、思わず走り出したくなり、街をどんどん離れていった。離れて行けば行くほど、どんどん

空気は澄んで、目の前の景色も広がった。

 このままこの平原に住みたい。ここで毎日走り回って暮らしたい。ずっと塀の中の街にいたぼく

はそう思った。

 ここにはもちろん塀も無いし、人も誰もいなかった。

 そう。ぼくは自由だった。

 セドリックも今、ぼくと同じようにこの外の世界を味わっているのだろうか? そうだ。浮かれても

いられない。ぼくはセドリックに追いつかなくてはならないのだった。

 彼は北の方へ向うと言っていた。そう、北だ。だだっ広い平原の中では、自分がどの方向を目

指しているのかも忘れてしまいそうになる。だが、北は山のある方向だと聞いていた。だから、ぼ

くの目指す方向は決まっていた。

 北。それは平原の彼方に山々が連なっている方向だ。ぼくは、道も無い平原を、ただその方向

に向って走り出していた。

 走っていけば、やがてセドリックにも追い付くだろう。

 ぼくは、日中一杯、この何もかもが自由な感覚に身を任せながら、まるで風にでもなったかのよ

うに平原を走って行っていた。

 こんなに速くぼくは走れたなんて。夢にも思わなかった。今まで、狭い路地や硬い道の上を走っ

ていたぼくだったから、こんなに広い所を走るのは初めてだった。

 だが、セドリックには追い付けない。彼はどの辺りにまで行ってしまったんだろう? 目を遠くに

向けても、平原がただただ広がっているだけで、セドリックの姿などは見つける事ができなかっ

た。

 彼は、もっと速く走っているのだろうか…。だんだんとお日様が傾いて夕日になって行くにつれ、

ぼくは不安になっていた。

 

 

 

 ずっと走り回っていたお陰で、何だかぼく自身もとても疲れて来てしまっていた。遠くに見える北

の山も、少し近付いて見えるようになったばかりだった。それに、何だか、とてもお腹も空いてきて

いた。

 よく考えたら、着の身着のままで街を飛び出して来たのだ。

 食べ物も、ろくに持ってきていなかった。ポケットの中に、木の実を手に握れるくらい持ってきた

だけだった。

 初めは走っていたぼくも、今ではのろのろとした足取りでしか歩く事ができないでいる。

 ただ、だだっ広い平原に、風だけが流れていた。遠くの彼方では、お日様がオレンジ色になって

沈んで行っている。そして、この広い平原の中にいるのは、ぼくだけだった。

 前を眺めても、後ろを振り向いても、この平原にいるのは、ぼくしかいない。

 広い。あまりに広い所に、ぼく一人だけが取り残されている。後ろを向いても、やって来た街は

もう、見る事もできなかった。

 どこをどう行けば戻る事ができるのかも、さっぱり分からなかった。

 夕日はどんどん沈んでいく。ぼくの影はどんどん長くなっていく。このあまりに広い平原の中で、

ぼくはただ一人、孤独だった。

 昼間はそんな事を感じなかったのに。今、この夕焼けの平原が見せている風景が、ぼくにそう

思わせているのだろうか。

 どこを見回しても続いている平原の中で、ぼくはあまりにもちっぽけな存在で、あまりにも孤独

だった。

 幾ら歩いても、北の山には辿り着けない、まるでぼくの歩いているという行為が、馬鹿馬鹿しい

事であるかのように。

 一日中歩き続けたぼくを襲ってきたのは、孤独と疲れだった。こんなに歩いた事は、今までぼく

には無かった。一体、どのくらいの距離を歩いて来たのだろう。

 もう、世界の果てまでやって来てしまったかのような気分だった。

 今日は、セドリックには追いつけない。そう思ったぼくは、平原にぽつんと立っていた木の下で

休む事にした。

 木を背にし、ぼくは草の絨毯の上に座り込む。まるで、重い荷物を置いたかのような気分だ。そ

して、ポケットの中に入れていた木の実を取り出し、半ば潰れかけているそれを食べ始めた。

 ぼくは、遠い彼方に沈んで行くお日様へと目を向けながら、街からあまりに離れた場所に来て

いる事を、どうしても体に覚えこませる事ができないでいた。

 ここは、街から遠く離れた見知らぬ大地。ここは、ぼく一人だけ、取り残されてしまった世界。そ

してここは世界の果て。

 詩でも出来ていくかのように、ぼくの心に言葉が思い浮かぶ。そして、ぼくは木を背にして、だん

だんうとうととなりかけていた。

 明日はセドリックに会えるだろうか? そして、北の山に辿り着く事ができるだろうか?

 ぼくは、新しい世界と、これから起こる向う場所に不安を抱きつつも、眠りに落ちた。

 

 

 

 それは、とても深い眠りだったような気がする。

 ぼくは意識を失ってしまったかのように、ぐっすりと眠りについていた。だけれども、案の定、ぼく

の夢の中には、再び金色のお星さまが現れていた。

 深い眠りは黒く塗りつぶされたような場所に、ぼくを誘いこんでいた。ぼくはその中をさ迷いなが

ら、金色の星を見つけたのだ。

 それは、今までと特に変わる事も無く、ぼくを待っていたかのように静かに佇んでいた。

 ぼくは、久しぶりに見かけた友人にでも近付くかのように、抵抗無く星へと近付いた。

「やあ、金色のお星さま」

 ぼくは、星に話しかけ、そのすぐ側に、星と同じように佇んだ。星の方は何も答えようとはしな

い。ただ、佇み、光を揺らがせているだけに過ぎない。

「…、ぼく…、街を飛び出して来ちゃった…。もう…、どうやって帰るのかも分からないよ…」

 ぼくの不安をよそに、金色のお星さまは、変わらぬ輝きを見せる。それは、ぼくに、大丈夫だと

囁いているのだろうか。

「北の山へと行って…、ぼくはセドリックに会って…、それから、ぼくのお父さんとお母さんに会うん

だ。できるかな…? ぼくに。ぼくは、テンゴクに行って、お父さんとお母さんに会えるかな…?」

 ぼくは、不安にかられつつも、星に呟く。すると、星は、再びぼくに白い光を見せ出した。

 昨日見たのと同じ、人影のような光だった。その光が、人の形をしているのはぼくにも分かる。

だけれども、一体、誰だというのだろう?

 何も言わない星は、ぼくに一体、何を見せようとしているのだろう?

「お星さまが、何を言いたいのか、ぼくには分からないよ…」

 でも、そう言うぼくをよそに、白い光はぼくへと近付いてきていた。それは、ぼくの思っていたより

もずっと大きな光だった。

 今までは手の中に納まってしまうくらいの光にしか見えなかったが、今となっては、ぼくよりもず

っと大きい2つの光となって、ぼくの目の前に立っていた。

 この光は、一体何なんだろう? 星は、ぼくに何を見せたいのだろう?

 ぼくは、その光に向って手を伸ばそうとした。手を伸ばせば、光に手が届くと思ったのだ。

 だが、星が見せる白い光は、だんだんとその大きさと明るさを増し、ぼくの見るところ全てを覆っ

て行ってしまう。

 星も、周りも、何もかも、白い光に包まれた。

 眩しい。あまりに眩し過ぎて、目を開いていられない。

 その眩しさに目を閉じたぼくが、次に目を開いた時、ぼくが見ていたのは、平原の彼方から登り

だそうとしているお日様だった。

 いつの間にか、朝になっていた。

 

 その日も、ぼくは歩き続けた。眠った事で、幾分か楽になったけれども、どこまでも続く平原は、

果てしなかった。まるで、世界の果てまで平原が広がっているのではないのかと思ってしまう。

 セドリックも、同じように、ぼくと同じ道を歩んで行ったのだろうか。もしかしたら、もう追い抜いて

しまっているのだろうか? そう思って、ぼくは来た道を振り返ったが、セドリックの姿はどこにも

無かった。

 まさか。セドリックがぼくより遅れるなんて事、あるわけがない。彼は、ぼくよりも足が速いだけ

だ。ぼくよりずっと先に行ってしまっているだけだ。

 ぼくは先を急いだ。今日だったら、セドリックに追いつけるだろう。

 昼ごろになって、ぼくは、北に見えていた山へと辿り着いた。そこは木が沢山立っている、森と

いう所だった。

 森に覆われた山が、ぼくの前に立ちはだかる。これが、北の山なのだろうか? ぼくの前に

高々と立ちはだかっていた。

 そう言えば、心なしか肌寒い。ぼくも大分北へと来てしまっていたようだ。だけれども、この山を

どう越えていったら良いのだろう?

 山は、ぼくにとって、余りにも巨大に立ちはだかっていた。

 どうしようかと迷っている内に、ぼくは、山の中の森に、小屋があるのを見つけた。小さな小屋

だった。それに、何年もほったらかしにされてしまっているらしく、人の気配が無かった。

 ぼくは、小屋の中に入った。確かに誰も中にはいない。所々にくもの巣が張っていて、空気が埃

っぽかった。

 でも、ぼくは、その小屋の中に、食べかけの果物があるのを見つけた。良く見れば、食べた後

の木の実や、種が幾つも落ちている。

 全部足し合わせても、大人が食べるような多さではない。これは子供が食べた量だ。

 セドリック。ぼくはすぐに思い付いた。ここにいたのは、間違いなくセドリックだ。この小屋に、セ

ドリックが来ていたのだ。他にない。

 セドリックは北の山を目指し、ここまでやって来ていた。木の実の新鮮さを見ると、おそらく、来

ていたのは昨日ぐらいだろう。

 そして、セドリックが食べ切れなかった分の木の実が、まだそこには残されていた。

 ぼくの為に残しておいてくれたのかは分からないが、ぼくは残っていた木の実を食べられるだけ

食べ、残りは、ポケットに突っ込んで持っていく事にした。

 小屋では少しの時間休んだだけで、ぼくはすぐに出発した。

 セドリックと同じ道をぼくは来ている。彼も北を目指して来ている。

 小屋を出たぼくは、山を登り始めた。山は木々が立っていて思うように進みなかった。平原とは

違って、ここでは、見通しが良くない。それに、道が急な坂になっていて、ぼくは何度も足を取られ

た。

 セドリックも、この道を歩いて登っていっているのだろうか? 少しでも道を誤れば、すぐに迷っ

てしまいそうだった。

 何時間、山の中の森を進んでいっただろうか。北の山は、ぼくにとっては、果てしなく長い坂だっ

た。これを越えれば、天国へと辿り着くことができるのだろうか。

 

 

 

 頂上まで来ると、見晴らしが良かった。ぼくの歩いてきた平原が、ずっと遠くまで見通すことが出

来る。

 しかし、山を越えても、テンゴクらしき場所はどこにも無かった。ただずっと、下りの山の森が続

いているだけだった。

 そして、見渡す限り延々ずっとずっと、同じような山が連なって行っていた。

 ここにテンゴクなんてどこにも無い。それに、セドリックもどこにもいない。彼は、北の山を越え

れば、テンゴクに辿り着けると言っていたのに。だからぼくは、ここまで足を棒のようにしながら歩

いてきたのに。

 遠くの方でまた日が沈んでいく。橙色の光になったお日様の光が、木々の間を縫って差し込ん

で来ている。ぼくは何だか、もう帰りたくなって来ていた。

 セドリックにも出会えない。北の山を越えてもテンゴクには辿り着けない。これでは、ぼくは何の

為にここまでやって来たのだろう?

 ぼくはがっくりと膝を落とし、地面に座り込んでいた。もうこれ以上、歩く気にはなれなかった。

 すると、ぼくの肩に手を載せる誰かがいた。はっとして振り返る。するとそこにはセドリックが立

っていた。

 

 

 

「ばっかだな~。北の山を越えるって言うのは、この丘だけを越えれば良いってわけじゃあないん

だ。ずっと連なっている北の山脈を越えて行かなきゃあならないのさ。この丘だけ越えるんで済む

んだったら、皆簡単にテンゴクへと行けてしまうよ」

 ぼくがここまでの事情をセドリックに話すと、彼は笑いながら答えた。ぼくら2人は、セドリックの

言うには、丘の頂上で座って休みながら話していた。

「じゃあ、まだまだ、先は長いって事?」

「長い長い。たった1日や2日で辿り着けるようなところじゃあないって、お父さんは言っていた。だ

から2人で行こうって言っていたのに。どうせ来るんなら、最初から2人で行きたかったよ」

「ご、ごめん…」

「いいのさ、お互い、街を飛び出してきた仲なんだし、テンゴクへはまだまだ長い。仲良くやらなく

ちゃあね」

 再会したセドリックは、どこかしら明るい表情と声で答えていた。ぼくなんて、もう脚も棒のように

なり、疲れ切っているというのに。

 まるでセドリックは、テンゴクという所に行きたくて行きたくてしょうがない。そんな感じだった。

「テンゴクに行って、おとうさんとおかあさんに会えたら、君は真っ先に何をしたい?」

 セドリックは、わくわくしながらぼくに尋ねてきた。だが、その答えにぼくは困った。

 何しろ、ぼくは、おとうさんとおかあさんの顔も知らないのだから、何をしたいと言われても、答え

られなかった。

 だが、ぼくが一つだけ知りたい事と言ったら…、

「…、まず、おとうさんとおかあさんが、ぼくの事を覚えてくれているかどうか…、それを聞きたいな

…。もしかしたら、ぼくの事なんて知らないで、ぼくも知らないから、会う事なんてできないかもしれ

ないけれど…」

 しかし、セドリックは、

「大丈夫だって。君のおとうさんとおかあさんは、必ず君の事を覚えていてくれるさ。親っていうの

は、産んだ自分の子供の顔は、絶対に分かるものなんだよ」

「そ、そうかなあ…」

 とは言っても、ぼくが自分のおとうさんとおかあさんの顔を思い浮かべる事はとてもできそうにな

かった。

「僕はね…、おとうさんとおかあさんに会ったら、まず、暖かい家に行って、おかあさんの作ってく

れた料理を食べて、暖かいベッドの中でぐっすりと休むんだ。テンゴクまで行って、多分凄く疲れ

ているだろうから。それが、ずっと、毎日繰り返して行ってくれたらいいな。と思っている。夢なん

かじゃあなく、本当にテンゴクではできるっておとうさんが言っていた」

 セドリックの言う事は、ぼくにとっても、幸せで一杯になりそうな事だった。そう、ぼくが夢の中で

も感じた事がないほど幸せな事。

「今日は、ゆっくり休んでおきなよ。明日からは、山を幾つも越えるんだ。テンゴクまでは、まだま

だかかるだろうから」

 ぼくはセドリックの言葉に従った。ぼくらの前には幾つも幾つも山が連なっている。その彼方に

テンゴクがあるのだ。

 ぼくはもう後戻りする事はできなかった。

 それに、何より一度で良いから、おとうさんとおかあさんに会いたかった。

 

 もう、何日経ってしまったのだろう。もう、幾つの山を越えてきたのだろう。ぼくらは、棒のように

なった脚を引きずるようにして歩きながら、テンゴクを目指していた。

 とにかく、北へ、北へ。北にテンゴクはあるのだ。

 だけれども、歩いても歩いてもテンゴクらしき場所には辿り着けない。それどころか、どんどんお

腹はすいてくるし、眠っても取れないような疲ればかりが溜まって来ていた。

 本当に、北に行けばテンゴクに辿り着けるのだろうか。

「そんなに素晴らしい所なんだ。テンゴクは。だから、そんなに簡単に辿り着けるわけがないんだ

よ!」

 と言って、セドリックはぼくを励ましてくれていた。

 だが、その励ましでも、もうぼくの体はぽっきりと折れてしまいそうだった。

 セドリックと再会してから、もう6日が経つ。その間、ぼくらは歩きっぱなしだった。幾つもの山を

越えて、幾つもの谷を越えた。もう、元いた街への戻り方も分からないくらい遠くにまでやって来て

いたのだ。

 だが、セドリックは諦めようとしなかったし、ぼく自身も彼について行くしかなかった。

「テンゴクに行けば…、テンゴクに行きさえすれば…!」

 セドリックは、まるで自分に言い聞かせるかのようにそう呟き、歩を進めていた。ぼくはそんな彼

に遅れないようにと、必死に脚を進めた。

 やがて雪が降り出した。ぼく達のいた街では、寒い季節にならないと降らない雪だったが、ぼく

らは北へ北へと来ていた。

 年中雪が降っているような場所へ、ぼくらはやって来ていたのだ。

 雪が辺り一面を覆い付くし、景色を真っ白に変えていた。それだけだったら、まだ良いのだけれ

ども、今は急に冷え出していたのだ。

 ぼくらは、ぼろ布のような服しか着ていなかったから、寒くなれば、本当に寒い。雪が降った事

で、空気は針のように冷たくなった。靴を通り抜け、足からも雪はどんどんぼくらの体を冷やして

いた。

 雪に覆われた山を登っていくぼくら。でも、その先には何も見えない。地の果ての果てにまでや

って来てしまったようだ。

 人の気配も何もしない。ただ、雪に覆われた大地が続いているだけ。

 雪に脚を取られているぼくは、どんどんセドリックから遅れていた。体全体が冷たく、もう歩く足

の感覚も無い。

 そんなぼくに気が付いたセドリックが、こちらに戻って来た。

「おとうさんと、おかあさんに会いに行くんだ! そうだろう?」

 セドリックが、ぼくを励まそうとしている。

 だけれども、ぼくには、もうそれ以上歩けそうに無かった。

 ふらふらし、雪の上へとぼくは倒れた。

「おい! しっかりしろ!」

 セドリックは、ぼくの体を抱え上げる。

「テンゴクは、もうすぐだ! この山を越えれば、すぐに辿り着けるはずなんだよ!」

 だがぼくは、

「テ、テンゴクって…、どこ…?」

 と、半分眠ってしまっているかのような言葉で答えるだけだった。

「僕が連れて行ってやる! 一緒に行こう!」

 ぼくはセドリックに抱えられ、彼は山を登り始めていた。

 ぼくにはセドリックの目指している山の頂上が、とても深い闇の奥のように見えていた。

 酷く眠かった。何だか知らないけれども、雪の冷たい感覚も、どんどん失われていく。ぼくはもう

眠りにつこうとしていた。

 セドリックが頑張ってぼくの体を背負い、走っていく。だが、ぼくは…。

 

 

 

 辺りを見回せば、真っ暗だった。

 ぼくは、まるで、深い深い、井戸の底へと落ちてしまったかのようだった。とても、静かで、寂し

かった。

 一体、ここがどこで何かなのかさえ、さっぱり分からない。

 ぼくは、ただ、その場にしゃがみ込んで、佇んでいる事しかできなかった。

 テンゴクへの道は、遠かった。もしかしたら、本当にテンゴクがあるのかさえも、ぼくには分から

なかった。

 セドリックは、無いものを追っている、だけなのかもしれない…。

 ぼくは、もうどこにも行きたくなかった。もう、どこも目指したくなかった。ただ、あまりにも疲れて

いた。

 ぼくは静かに佇んでいる。暗い暗い闇の底で。

 だけれども、そこに、ぼくが見慣れているものがやがて姿を現した。

 それは、あのお星さまだった。

 金色に輝く、綺麗な丸いお星さまが、ぼくの前に現れたのだ。辺りは真っ暗で、ぼくはあまりにも

疲れていたけれども、お星さまは、ぼくの前に、いつもと変わらず姿を現していた。

 やがて、お星さまは、ぼくの方へとゆっくりと近付いてくる。

 だけれども、ぼくはお星さまをいつものように歓迎する気持ちにはなれなかった。

 佇んでいたぼくは、ゆっくりと顔を上げながら言った。

「…、お星さま…、ぼく…、やっぱりテンゴクになんて、行きたくないかもしれない…、何だか、とっ

ても、とっても疲れちゃって…。それに、怖い…」

 お星さまは、ぼくに変わらない姿で佇むだけだ。だけれども、それは、まるでぼく自身がそこに

いるかのようでもあった。

「もし、テンゴクが無かったらって思ったら、とても怖いの…。このまま、深い深い山の中で迷わな

くちゃあならないのかも…」

 ぼくは、不安で一杯だった。お星さまに会えば、ぼくの不安も消えてしまう。またやろうっていう

気が出てくる。そう思っていたのだけれども、

 ぼくはあまりに疲れすぎていた。

 だが、ぼくの前に久しぶりに現れたお星さまは、ゆっくりと揺らぎながら、前と同じように、ぼくの

前へと白い光を見せてくる。

 またこの光。ぼくにはこれが何なのかさっぱり分からなかった。

 お星さまから現れた白い光が、ぼくの前で、ゆっくりと2つの形になって行く。何だろう? その

大きさは、やがてぼくよりも大きくなって行き、やがては人の形になって行こうとする。

「お星さま…。ぼくに何を見せたいの? ぼくに何を言いたいの? ぼく、疲れているんだよ…、す

ごく、すっごく…。ぼく、このまま眠りたいんだよ…」

 そう言うぼくをよそに、目の前に光は、ぼくの前でだんだんはっきりと形を成していく。前は、あ

まりに眩しすぎて、その光を見る事もできなかったというのに。

 ぼくには、その光が何であるか、はっきりと分かるようになった。

「あ…、あ…」

 言葉も口に出来ず、ただ、唖然としているぼくをよそに、光から現れたのは、2人の人間、男の

人と女の人だった。

 この人達が誰であるのか、ぼくにはすぐに分かった。

「お、おとうさん…? おかあさん…?」

 それは、不思議な事に、ぼくには分かっていた。何故、分かったのだろう? 心がそうだと思っ

ているから?

 でも、この目の前に現れたのは、お星さまが見せてくれたのは、ぼくのおとうさんとおかあさん。

それはすぐに分かった。

 だって、おかあさんであろう人は、身を屈めて、ぼくの体を抱きしめてくれたんだから。

 おかあさんの腕の中は、とても暖かかった。それでいて、とても気持ちよい。まるで、ぼくが、も

っと小さかった頃に戻ったかのような気分だった。

 不思議だ。何でだろう? ぼくは、一度も、おとうさんにも、おかあさんにも会った事が無かった

のに。何で、おとうさんとおかあさんだって分かるのだろう?

 でも、ぼくには分かった。

 セドリックの言っていた事は、間違いじゃあない。ここがテンゴクだ。

 ぼくは、テンゴクに辿り着いたんだ。

 

 ぼくはしばらく、おかあさんの温もりの中にいた。

 何て暖かいんだろう。何て気持ち良いんだろう。ぼくが、今まで感じた事がないほど、おかあさ

んの中では、安心する事ができていた。まるで、暖かい水の中にいるかのようだった。ありとあら

ゆる、不安や疲れも消えて、ぼくは、ただただ、安心というものの中にいた。

 おかあさんは、ぼくの事を覚えていてくれた。だから、こうしてぼくを抱きしめてくれている。

 再び会う事ができて嬉しい? いや、ぼくは、ぼくにおかあさんがいるという事など知らなかった

し、会ったことも無かったのだから。はっきりと気持ちを示す事ができないでいた。

 ただ、おかあさんの腕の中は暖かい。それだけが分かる。

 ここは、テンゴクだ。そうに違いない。セドリックの言っていたテンゴクとは、この場所にあったの

だ。

 だけれども、ぼくはいつの間にこんな所へとやって来たのだろう? おとうさんとおかあさんがい

るだけで、ぼくらの周りは真っ暗だった。

 あの雪に覆われた山でも無い。それに、セドリックの姿も無かった。

 ぼくは、しばらくおかあさんの腕の中に包まれていた。どれだけの時間が流れた事だろう。

 ぼくにとって、その時間は長くもあったし、短くもあった。後で思い返せば、とても短い時間だっ

たかもしれない。

 おかあさんは、抱きしめていたぼくを放した。

 ぼくは、おかあさんの腕の中から離れ、自分のおかあさんの顔を見た。

 だけれども、確かめようと思ったおかあさんの顔は、何かぼけてしまっているかのように見えな

かった。

 目を擦って、もう一度おかあさんの顔を見ようとおもったが、変わらなかった。おかあさんの顔

が、霞んでしまって分からない。

 一歩離れた所にいる、おとうさんの顔もそうだった。どんな顔をしているのか、ぼけてしまって見

えないのだ。

 ぼくは、疲れているのだろうか。目が疲れているから、おとうさんの顔も、おかあさんの顔も見る

事ができないのか。

 だけれども、ぼくは、だんだんとおかしいと思い始めていた。何しろ今度は、おとうさんとおかあ

さんの、体さえもぼやけて来てしまったのだから。

 2人の体は、ぼやけるどころか、だんだんと姿が薄れていく。まるで、その姿が霧ででもあるか

のように。

 ぼくは、ただ唖然としてその姿を見ている事しかできなかった。

 さっき、ぼくは確かにおかあさんの腕を感じていたのに、今では、その姿を、霧や靄のようなも

のでしか見る事ができない。

 ぼくは、一体、何に抱きしめられていたのだろう? おとうさんや、おかあさんは、どうなってしま

ったのだろう?

 もう一度。もう一度、ぼくはおかあさんに抱きしめられたかった。霞んで消えていってしまおおう

とするおかあさんの体に飛び込んで行き、もう一度。

 だが、ぼくが、おかあさんの体に飛び込んでいくと、まるで、霧の中に飛び込んで行ったかのよ

うに、おかあさんの体、そしておとうさんの体を、通り抜けてしまった。

 ぼくの体は転がった。おとうさんも、おかあさんも、ぼくはその体を感じる事はできなかった。霧

や靄のようなものとして、通り抜けてしまっていた。

 これは、本当の、おとうさんやおかあさんじゃあない。

 ぼくはすぐに思った。

 これは、夢の中だ。ぼくは、夢の中にいるんだ。

 そう思うと、ぼくの頭の上の方から、声が聞えてきた。

「おいッ! 起きろよッ! 起きてくれよ!」

 それは、セドリックの声だった。ぼくは、はっと気が付き、頭の上を見上げた。

 

 

 

 ぼくは、セドリックの背中におぶられていた。そして、どうやら眠ってしまっていたらしい。セドリッ

クは、眠ってしまったぼくの体を運んできてくれていたようだ。

 体が凍えるほど寒い。そして、雪が体に当たってくる。セドリックは、ぼくの体をおぶったまま、

吹雪の中を進んでいたのだ。

 さっき、ぼくが、おとうさんとおかあさんの姿を見た場所は、別の所だった。それは夢の中。で

も、夢の外では、ぼくらは、強い吹雪の中にいた。

 どうやらセドリックはまだ、北の山を登って行っているらしい。こんなに強い吹雪の中だと言うの

に、テンゴクを目指す事を諦めてはいないようだ。

「おいッ! 起きたか? 見てみろよ…! あれだよ…!」

 吹雪に正面から向って行っているというのに、セドリックは、何か楽しそうだった。何か、嬉しい

ものでも見ているかのようだ。

「一体…、どうしたの…? セドリック…?」

 ぼくは彼の背中の上から尋ねる。すると、

「僕のおとうさんと、おかあさんだよ…! あそこにいるんだ…! ほら、あそこだよ…!」

 セドリックは、心なしか足早に進んでいるようだった。吹雪など、少しも気にしていないかのよう

だった。

「えっ? 本当に…?」

「ああ…。嘘なんて言うもんか! ぼくらは、テンゴクに辿り着いたんだよ…!」

「どうして、分かるの…?」

 ぼくはセドリックに尋ねた。

「だって…! ごらんよ! あそこだよ! あの吹雪の向こうに、僕のおとうさんとおかあさんがい

るじゃあないか!」

 セドリックはぼくをおぶったまま、先の方を指差した。そして、まるでその場所に導かれてでもい

るかのように、今では彼は駆け出していた。

 しかし、不思議だった。セドリックには、明らかに何かが見えているだろうと言うのに。彼は、確

かな気持ちを持って、その場所へと駆けて行っているというのに。

 ぼくはその場所に何も見る事はできなかったのだから。

 ただ、吹雪が続いているだけだ。夜の闇に辺りは包まれ、何重にも仕切られた吹雪のカーテン

が、ぼくらの行く手を阻んでいる。

「おとうさん…! おかあさん…! もうすぐだ…! もうすぐ会えるんだよ…!」

 セドリックは、まるで自分とぼくとを同時に励ましているかのようだ。

 だけれども、ぼくはセドリックの目指している場所に、何も見る事ができないでいた。

「君の、おとうさんと、おかあさん…、どこにいるの…? テンゴクってどこ…?」

 ぼくは、セドリックに向って呟く。すると彼は、

「あそこだよ! あの吹雪の先だよ! 見えないのかい? 僕にはあんなにはっきりと見えている

って言うのに!」

 と言って、セドリックはどんどん進んで行く。しかしぼくは、

「ぼくには、何も見えないよ…。君のおとうさんと、おかあさん、どこにいるの…? テンゴクって、

どこ…?」

「何を言っているんだ…! あんなにはっきりと見えているじゃあないか! もうすぐだ! もう少

しで辿り着けるんだ!」

 セドリックに言われ、ぼくは目を凝らして彼の進む方向を見てみる。だが、変わらなかった。ずっ

と、ずっと、闇の彼方まで、吹雪が続いているだけだ。

 それどころか、セドリックの進んで行く先は、どこか恐ろしかった。ずっとずっと闇が続いている

だけで、終わりが何も見えない。まるで底なし沼のように。

 セドリックは、そこへと誘われてしまっているかのようだった。

「ぼく…、怖い…」

 ぼくは、思わずセドリックに呟いていた。

「何を言っているんだ! もう少しで、テンゴクへと辿り着けるんだよ! もう少しで、君のおとうさ

んとおかあさんに会えるんだよ!」

 だけれども、ぼくにとっては、セドリックの目指す先には、闇しか見えていなかったのだ。そう。

恐ろしいまでに深い闇が続いている。セドリックは、その場所へと誘われていんだ。

「ぼ、ぼく…、怖い…」

「おとうさんとおかあさんに、顔も覚えてもらっていないからって、言いたいのかい? 馬鹿だな。

そんな事あるわけないだろ? 自分が産んだ子の顔ぐらい、分かってもらえるよ!」

 と、セドリックはぼくを説得しようとする。だが、ぼくは、

「い、いやだ…。ぼく、これ以上、進みたくない! 怖い!」

 セドリックが目指している所は、あまりにも深い、井戸の底よりも深い闇のようだった。ぼくは、と

ても怖くなってしまっていた。

「何だって! あそこにテンゴクがあるって言うのに! どうして行きたくないんだよ!」

 セドリックは、声を上げつつも、ぼくを背負って進んでいこうとする。

「いやだ!」

 ぼくはセドリックの背中から飛び降りていた。勢いあまって地面へと倒れ込んでしまう。

「何をしているんだ!? すぐそこじゃあないのか? おとうさんと、おかあさんの姿が、君には見

えないのかい!」

 とても信じられないと言った様子で、セドリックは、ぼくに向って言って来る。

「見えないよ! ずっと、ずーっと先まで真っ暗だよ! そんな所に入ったら、二度と戻れなくなっ

ちゃう!」

 だが、セドリックは、

「テンゴクには、一度行ったら、もう戻って来れないんだ。でも、おとうさんとおかあさんに会う事が

できるし、これから幸せ一杯に暮らす事ができるんだよ! ほら! あんなに近くにあるって言う

のに!」

「いやだ! テンゴクなんて、ぼくは、行きたくない! おとうさんもおかあさんも、ぼくは知らない

んだよ!」

 ぼくは、あらん限りに叫んだ。

 吹き荒れている雪が、ぼくと、セドリックの間に、まるで厚いカーテンのように過ぎっている。ぼく

は、セドリックと、ぼくの間の距離が、どんどん広がっているように感じていた。

「じゃあ、君はここにいろよ! 僕は、テンゴクに行くんだ! それで、幸せ一杯に暮らすんだ!」

 そうぼくに言ったセドリックは、ぼくに背を向けると、

「じゃあな」

 と言い残して、真っ直ぐに吹雪の向こうにある闇へと駆けて行った。

「待って! セドリック! 待って!」

 ぼくは、彼を呼び止めようとした。だが、セドリックは一度も振り返る事なく闇の中へと入って行

ってしまう。

 吹雪に阻まれ、闇へと入り、セドリックの後姿は、やがてぼくには見えなくなってしまった。

 彼は、深い深い雪山の、闇の向こうへと消え去って行ってしまったのだ。

 ぼくはただ一人、取り残されてしまった。

 猛烈に吹き荒れる吹雪の中、ぼくはたった一人で、雪山の中に佇んでいるしかなかった。

 

 

 

 それから、どうやって、ぼくは来た道を戻って行ったのか、覚えていない。

 ただ、テンゴクを目指し、北の山を越えて行った時よりも、戻るときはずっとずっと、険しく、長い

道のように思えたのは確かだ。

 ぼくは、あの雪山で、一体、何を見たのだろう? ぼくが夢の中で見たものは、本当に、ぼくの

おとうさんと、おかあさんだったのだろうか?

 セドリックが、闇の中に見たのも、彼のおとうさんとおかあさんだったのだろうか?

 彼は、あのまま、闇の中に飛び込んで行って、テンゴクに行く事ができたのか? ぼくには分か

らなかった。

 しかし、ぼくは、今、はっきりと足に地面を感じ、ずっしりと重い荷物を背負っているかのような

疲れだけれども、自分自身を感じている。

 ぼくがセドリックと共に闇の中へと向っていたら、今のぼくは無かったかもしれない。

 たとえ、テンゴクという所が、あの場所に本当にあったとしても。

 あの金色のお星さまは、ぼくに何を見せたかったのだろうか? ぼくは、金色のお星さまに導か

れるままに、北の山を目指していたのか?

 お星さまは、2度と、ぼくの前に姿を現さなかった―。

 


 
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