No.166981

光の浮き橋 三章 炎(1)

小市民さん

小式部は、都に戻ると、藤原摂関家の威信の象徴とも言うべき土御門邸が全焼する大事件が待っていました。
彰子の指示で、小式部は摂関宗家の無事を祈りながら、夜半の都の大路を一条大宮院から土御門邸に走ります。
平安歌人・和泉式部の娘である小式部を視点に据えた恋愛小説の新展開です。


2010-08-20 18:42:42 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:493   閲覧ユーザー数:479

 

 

   三章  炎 

 

 

 土御門殿の寝殿で、道長は、深夜、異常なきな臭さと人のざわめきで目を覚ました。南唐庇まで出ると、西の空が赤々と照らし出され、大規模な火災が起きていることが解った。

 既に南階(みなみのきざはし)では嫡男の賴通が、出仕中の女房や急を聞いて駆けつけてきた家司たちに声を張り上げ、家財の搬出を指示していたが、誰もが恐慌状態で、何の効果も上がっていなかった。

「火は、どこまできている!」

 頼通が状況を確かめると、家司の一人が邸宅の西側を指さしながら、

「はっ、西二対、蔵人所、随身所、車所が既に火の粉を浴び始めております!」

 興奮した声を上げた。頼通はうなずき、

「西側の殿舎は、家財の運び出しを打ち切り、避難を開始させろ」

 命じると、家司は避難命令を伝えるために走り出した。道長は頼通の傍らに立ち、

「頼通、何事だ?」

「父上、西隣の藤原惟憲(これのり)宅から火が出、土御門殿にも火の粉がかかり始めております。邸全体に火が回るのももはや時間の問題です。父上も念のため、南庭に出ていて下さい」

 頼通が道長に経過を説明したとき、道長の側室の明子の子で、次男の頼宗が二人に駆け寄ってくると、

「兄上、父上、邸の西側の殿舎の屋根が燃え始めています!」

 立ちこめた煙の中で言った。道長は、しばし、茫然としたが、頼通に、

「邸は、もういい」

 土御門殿の放棄を指示した。頼通は、広大な邸宅を走り回る女房や家司たちに、

「東対の者は東門から京極大路へ、寝殿の者は南門から近衛御門大路へ、北対と厩の馬を上東門大路に面した北門からそれぞれ待避だ! 頼宗と能信は北側の避難誘導につけ!」

 頼通は、側室腹の弟たちなど、馬の待避でたくさんだと言わんばかりに言ったが、競馬(くらべうま)で走らせる優れた馬一頭でも大変な価値があり、頼宗は能信を探しながら、北門へと走っていった。入れ違いに教通が氏長者の象徴である朱器台盤を運び出してくると、道長に手渡しながら、

「父上、兄上、土御門殿はもはやここまでです、待避後の集合場所を皆に伝えなければなりません」

 嫡流の息子たちはさすがにしっかりしている……道長は心強く思いながら、

「待避後の一時集合場所は一条大宮院とする、彰子に頼るほかあるまい。全員に周知させろ」

 教通は道長の決定を受けると、火事場を走り回り、避難後は太皇太后彰子が里内裏に用いている一条大宮院に集合するよう、叫び続けた。

 

 

 一条大宮院の寝殿から東対へ通じる渡殿では、深夜であるにも関わらず、彰子付きの女房たちが、声を潜めながらもとりとめもない他人の噂話に熱中していた。

 最近、出仕を始めたばかりの女房が、小式部の耳元に口を寄せると、

「そう言えば、土御門殿の若君が、夜ごとに一条大宮院に御車を寄こしては、出仕中の女房の誰かを連れ出しているのだそうですよ。受領階級の娘が、摂関家嫡流の殿方の許へ通えるなど、まあ、どこの幸せ者でしょう、と皆でささやき合っていますの。小式部さまは幸せ者がどなたかご存じですか?」

 小式部は、やはり、教通が毎夜のように車を一条大宮院につけさせていることが、とっくに女房たちの耳目を集めていることにぎくりとしたが、

「いいえ、初めて聞きました」

 作り笑いを浮かべ、平然と空とぼけた。新参の女房が言うとおり、受領階級の娘が摂関家嫡流の若君の許へ毎夜のように通えることは、正に玉の輿であったが、父母が幼いときから別れ、交際をもった二人の親王に揃って死別されている母を見て育った小式部にとって、結婚はあまりに重い問題であった。

 このとき、不意に邸内がざわめき始め、むっとしたきな臭さが辺りに漂った。一体、何事かと顔を見合わせ、小式部ら数人の女房たちが東階(ひがしのきざはし)から南庭に降りてみると、西の空が赤々と照らし出され、白煙がもうもうと夜空に噴き上がっていた。かなり大きな火災であった。小式部が思わず立ち尽くすと、

「土御門殿は全焼だ! 法興(ほこ)院(いん)にも火が入った!」

 どこからか男の怒鳴り声が聞こえた。突然のことに女房たちが茫然としていると、道長の正室で、一条大宮院に服喪中であった倫子が彰子に支えられるようにして女房たちの背後に立った。

「父上と母上からいただいた土御門殿が全焼……御堂殿(道長)は、頼通は、教通は大丈夫なの?」

 倫子が青ざめ、歯を鳴らしながらうわごとのように言うと、彰子は、東対の女房たちに、

「土御門殿からの避難者を受け入れます、全員で準備に取りかかって下さい。小式部は摂関家の各邸宅に詳しい。土御門殿の状況を確認してきて下さい」

 取り乱した母を少しでも落ち着けようと、努めて冷静に言った。女房たちは一斉に散って行き、小式部は不気味に白煙が立ちこめる深夜の一条大路を西へ走った。


 
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