No.161888

政治少年サトシ

うーたんさん

川原サトシは政治少年だ! 今日もクラスを掌握するためにサトシは政治的に活動を続けるのであった。

でも、伝奇もの。

2010-07-30 17:48:15 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:602   閲覧ユーザー数:599

 

 僕は川原サトシ、三十年後総理大臣になり、日本の政界を掌握する予定の男子だ。

 だが、今の僕は小学五年生なので参政権がない。

 したがって、今の僕の仕事は自分のクラス五年三組を政治力でまとめあげる事だ。学校のクラスのような小さな票田を取りまとめられないような人間が政界に打って出ることなど出来ないだろう。

 現在の僕のクラスの最大の問題は、渡田の女子派閥のイジメ問題だ。

 我が町が田舎だとはいえ、今はインターネット時代だ。都会の悪習がケーブルを伝って美しい地方共同体の絆を汚染してくるのだ。

 わがクラスのイジメ問題を解決しなければ、学級委員選挙で僕を支持してくれた有権者のみなさんに申し訳が立たない。

 僕は女子学級委員の花巻に根回しして問題解決を急いでいる。だが、花巻は事態を軽く見ているのか、はかばかしい効果が上がらない。

「花巻は、渡田派閥に子飼いの生徒を潜り込ませていないのか?」

「いないよ、というか、そんな鶏を割くのに牛刀を使うような事をしてるのはサトシ君ぐらいだよ」

「なんて事だ、お前は花巻派の長としての自覚はないのか」

「渡田ちゃんのアレは、まー、カッパの川流れみたいなもので、ほっとけばおさまるよ」

「そんな事なかれ主義では、いざ事があった時に大変な問題になるぞ。大事なのは問題を解決することではなくて、問題が小さいうちにつみ取る事なんだよ」

「大山鳴動してねずみ一匹とも言うしね。あ、あたしヨッちゃんに定規返さなきゃ、サトシ君またねー」

 花巻は得意のことわざで切り返すと、適当な口実で逃げ出した。

 花巻は綺麗な子で、家は金持ちでおっとりして、人当たりも良いのだが、政治家としての迫力にかけるな。と僕は思った。

 いまいち腹芸も下手だ。

 時計を見ると八時十五分、八時半の授業開始まで時間はあるが、どうすべきか。

 僕は自分の席で考えをまとめることにした。

 渡田本人に直接注意するのは下の下の手だと言わざるを得まい。男子が女子になにを言っても聞いてはくれないものだ。イジメ問題は暴力が隠蔽されている所に難しい問題がある。できれば渡田の顔も立てて、かつ、被害女子への攻撃も止めねばならない。

 渡田悦子の家は結構金持ちで、綺麗な女子だ。だけど、性格が粗暴ですぐかんしゃくを起こす。

 被害女子は鹿島麻美だ、貧乏な家の子で、おどおどした態度の女子だ。ちょっと可愛いんだけど、気が弱いんだ。渡田派閥の末席にいて、渡田によく怒鳴られている。

 イジメが起こってると確信したのは、僕が現場を目撃したからだ。

 昨日の放課後、裏庭の焼却炉の所に渡田派の女子が数名集まっていた。なにかなと思って物陰に潜んで観察していたら、渡田の忠臣ゴリ子が麻美のお腹を蹴飛ばしていた。渡田は輪の奥でニヤニヤしながらそれを見ていた。

 とっさに近くにいた先生にウサギが死にそうだと嘘を付き、焼却炉の近くに派兵してイジメの輪を散らした。

 僕の政治的直感がそうとうヤバイ所へ渡田が動いている事を感じさせた。

 ゴリ子と言うのは道場で柔道を習っている体育会系大女だ、名を金山東子と言う。先月花巻派から渡辺派に席を移した。ゴリ子の凶暴性が渡田の粗暴さとが結びついた時にどうなるか懸念していたのだが、それが当たったようだ。これを放っておくと、暴力が暴力を呼び取り返しのつかない問題が発生する恐れがある。渡田は暴力の甘い味に捕らわれつつある、と、僕は判断した。

 仕方がない、政敵に協力をもとめるか。僕はそう考えた。

 

 僕は席を立ち、四つ前の片瀬の席に向かった。

 片瀬一郎は僕の政敵だ。だが、本当にヤバイもめ事があったときには、協力して動いてくれる。僕も片瀬も政治理念上の対決があるだけで、相手の事は嫌いではない。お互い一個の学級政治家として認め合っている。

「片瀬、あのさ」

「なんですか、カーラ君」

 片瀬は美少年だ。政治的には左より。カールマルクスを読み、チェゲバラを尊敬する赤色政治少年だ。

「渡田派問題には気が付いてるか?」

「……ふう。やっかいな問題を持ち込みますね、カーラ君も」

「こっちでも対応策を考えてるんだが、どーも川原派は女子ルートが弱い、片瀬の方で介入できるか?」

「うーん、難しいですねえ。私のグループはわりと女子には強いのですが、ピンポイントの力なので」

 片瀬派は彼女持ちの男子が多い。単数で対応する問題には強いが、派閥全体に介入する動きは苦手だ。

「そう言うわけで、少し様子見なんですよ。そちらこそ花巻さんルートで介入は?」

「どーも花巻は事態を甘くみてるようだ」

「彼女、理想家ですからねえ。そこが魅力でもあるんですが」

 現在五年三組は、男子二派、女子二派の四派構造になっている。男子では我が川原派、女子では花巻派が過半数を握っている。派閥に属さない一匹型の生徒も何人かいる。

 それぞれ派閥には特徴があって、我が川原派は運動が得意で馬鹿っぽいノリの男子が多い。片瀬派はお勉強ができる生徒や、一風変わった芸術系の生徒が多い。花巻派はおっとりのんびりの文系女子生徒、渡田派は派手目の女生徒や運動系の女子が多い。

「片瀬派はしばらく静観?」

「他に手はないですねえ、とりあえず何かあったら協力します。イジメ問題は根が深いですから、カーラ君、期待してますよ」

 政敵は何の役にも立たずだ。

「あ、そうだ、カーラ君、今日転校生がくるようですよ」

「へー、こんな時期に珍しいね」

 片瀬派には情報通がいるのでニュースが結構早い。

 おっと、先生が来た。

「じゃあ、また、片瀬」

 片瀬の席を離れ、自分の席に着く。

 キリツ、レイ。のかけ声と共にみんながたちあがり、礼をする。

 ドサドサドサとみんなが腰をかける音がする。

「よーし、みんな、今日は朝の会の前に新しい友だちを紹介する、八重垣君だ」

 うおお、とみんながどよめいた。

 なんだか、もの凄い可愛いお人形のような女の子がそこには居た。

 女の子はチョークを取って黒板に”八重垣稲子”と書いた。

「か、可愛いけど、おばあちゃんみたいな名前だな」

 前の席の四郎が呟いた。

「八重垣いぬ……、稲子です。横浜から来ました」

 おー、ヨコハマとまたどよめいた。

 ヨコハマ、それはあこがれの港町、あそこから来る親戚のお土産はいつもキヨウケンのシュウマイだ。人形の醤油入れをいつも弟と取り合うのだ。

「えーと、席はと。川原、後ろから予備の机を八重垣君に出してあげなさい。場所は川原の隣りで」

「はいっ! 先生っ!」

 やったあ、都会から来た綺麗な女の子が隣だっ! 僕は教室の後ろに行って、予備の机と椅子を運んだ。

 ふと渡田の方をみると、ゴリ子とヒソヒソと話をしていた。どうも嫌な予感がする。

 八重垣は机の間を通って、こちらに接近してきた。

 何だかフリルの多い服を着て、すごくあか抜けた感じだ。八重垣に比べれば、渡田も花巻もジャガイモだよ。

「ど、どうぞ」

 なんとなく僕は外国のジェントルマンのように八重垣の椅子を引き案内してしまった。

「ぷっ、ありがと」

 八重垣はちょと吹き出して、にっこり笑った。

「い、いえ」

 そう言って、僕は席に着いた。

「よーし、しずかにしろー」

 三条先生が手を叩いた。三条先生は眼鏡をかけた若い先生で、結構生徒に人気がある。

「最近街で子供が行方不明になる事件が起きてるのは知ってるな?

 噂では、水天宮のお化けがさらったとか言われているが、先生はたぶん違うと思う、人さらいはたぶん人間だ。だからってお化けより怖くないわけじゃないんだぞ、人間のだった方が何十倍も先生は怖いと思う。

 とりあえず、知らない大人に付いていかない、知らない大人の車にのらない、友だちが知らない大人と一緒だったら声をかける、これを守ってくれ。

 あと、知らない大人にむりやり引っぱって行かれそうになったり、抱きしめられたりした時は、大声を出すんだ。怖いかもしれないけれど大声が出せなかったら、もっともっと怖い目に合うかもしれないぞ」

 クラス中がヒソヒソと囁き声で満たされた。

 我が町、蒲田市では、今月に入って三件も行方不明事件が起きている。そのうち一件はうちの学校に通う中学の三年生だ。

 僕は棟続きになっている中学部の建物の方に目をやった。あそこにいた中三のお姉さんが煙のように十日前消えてしまったのだ。他にも別の地区の小学二年の女子、四年の男子が行方不明になっている。連日のように山狩り、川攫いを消防団と警察が共同で行ったが全く手掛かりがなかった。

 キリツ、レイの声がかかり朝の会が終わった。

 

2

 

 八重垣の方へ女子がわらわらと群れて来て、質問攻めにした。

 八重垣はニコニコ対応していた。わりと人当たりがいい。綺麗で金持ちそうだし、一ヶ月もすると八重垣派ができるかもしれないなと僕は考えていた。

 小学生のグループのリーダーは加算性で最高点を取った者がなることが多い。加算点は金持ち、可愛い、ハキハキしている、面倒見が良い、頭が良い、運動ができる、等だ。一番重視される加算点が面倒見がよいだったりする。なんだかんだ言っても渡田は金をもっていて、派閥の者におごったりしてるし、花巻は親身になって相談にのってくれる。僕は政治力があるし、片瀬は美少年で喋っていて楽しい。

 渡田が、ゴリ子とツネ子を連れて、女王さまのように八重垣の席に近づいた。

「ねえ、八重垣さん、さっき自己紹介のとき、自分の事イヌコって言おうとしたわね」

 渡田がニヤニヤ笑いながらそう言った。クラス中がシンとした。いきなり宣戦布告なのかっ!

「いぬいぬ」

 ゴリ子がうほうほ笑った。

「あなたのことこれから犬子さんて呼んでもいいかしら」

 な、なんて酷い名前で呼ぶつもりだー! 渡田悦子、ゆるさんぞーっ!

 僕は立ち上がった。

 八重垣の肩が震えていた。あまりにも可哀想だ、断固糾弾せねばなるまい。

 と、思ったら、八重垣が爆笑した。机を叩いてゲラゲラ笑った。

「いいよー、ヨコハマでも犬子って呼ばれてたの、犬好きだから。ビックリしちゃった、あだ名って同じのが付くのねー」

 い、犬子って呼ばれてたのか、ヨ、ヨコハマの人は可愛いあだ名をつけるじゃないか。

 みんなが笑った、笑ってないのは渡田だけだった。眉間の皺を隠そうともせず八重垣を睨んでいた。

 僕はホッとして席に着こうとした、前を見たら片瀬も席につこうとしてるところで、目があった。片瀬は気まずそうに頬をポリポリかいた。僕はしかめっつらを片瀬に返した。

 教室の隅にいた先生が立って、一時間目の社会の授業が始まった。

 八重垣が鞄をひっくり返して教科書を探していた。

「教科書ないの?」

「時間割を昨日と間違えたみたい、見せてくれる?」

「い、いいよ。机つけなよ、八重垣さん」

「犬子でいいよ」

「犬子さん」

「犬子」

「犬子でいいの?」

「オーケーだよん」

 犬子が机をずらして僕の机にくっつけた。

 みんなの視線が僕に集まったが、気にしない、スタンドプレイは政治家の特権だ。

 犬子はクチナシの花のような良い匂いがした。ふと斜め前を見ると花巻と目があって、花巻がつんと横を向いた。何を怒っているのだ?

 

 五時限目、六時限目、掃除、終わりの会と時間は進んでいった。

 犬子はすっかりクラスに溶けこんだようだ。

 綺麗でお嬢さんぽいが、結構元気な奴のようだ。花巻派が取り込み工作に積極的に動いている。渡田派の方は犬子を完全無視のようだ。

 犬子に目を奪われて、渡田のイジメが止まれば良いのだが。逆に犬子が目をつけられたら大変だな。

 犬子のように目立って元気の良い子は、底意地の悪い奴に足を掬われて失脚させられる事が多い。駄目だ駄目だ。犬子の脳天気なほがらかさが無くなり、鹿島みたいに卑屈になった場面を想像して僕はゾッとした。何としても守ってあげねばならないだろう!

 などと、放課後、席に座って色々考えていたら、犬子が僕の席の隣りに立って黙って僕を見ていた。

「ななな、なんでございましょう」

 僕はロボットのように固まってしまって、犬子の方も見ないでギクシャクとそう言った。

「川原って政治家なんだって?」

 花巻がぱたぱたと寄ってきた。あっちいけ花巻。

「そーなのよ、サトシ君、片瀬君と一緒に政治家ごっこしてるのよ。駿河の富士と一里塚よねえ」

くそう、ちなみに駿河の富士と一里塚とは、形は似ているが比べ物にならないという意味だ。

「あはは、面白いね」

「ごっことは何だよ、花巻、お前学級政治家としての自覚が足りないぞ。あと片瀬の悪口を言うな、政治理念こそ相容れないが奴は立派な政治家だ」

 片瀬が自分の名前を聞いて、なになにと寄ってきた。来るな来るな、政敵。

「片瀬君は川原が好きだから調子合わせてるのよね。まったく知らぬが仏だわ」

 えっ? 片瀬が僕に調子を合わせてる?

「な、何を言うんだマッキー!! 取り消したまえ、い、今の発言に峻烈たる自己批判を要求するよっ!!」

 政敵赤くなるな、冷静に冷静に! ちなみにマッキーは片瀬が花巻につけた愛称だ。すぐ片瀬は他人を外人ぽい名前で呼ぶんだ。

「このふたりオモロイね」

「イヌコビッチも失礼ではないかっ!」

「いぬこびっちって誰だよ、片瀬」

 犬子が外人ぽく呼びにくいからってさ。

「だいたい、クラスを四つの派閥に分けて考えるだなんて、四角い座敷を丸く掃くみたいなもので、実際とあってないわよ。あたしたちは結構仲がいいけど、派閥じゃないじゃない」

「それは、ちがうが」

「派閥といわれてるグループは教室限定でそう見えるだけで、駅前の新栄塾に通ってるグループは渡田ちゃんグループと私のグループを横断してるし、そんなの鍵の穴から天を覗くような物よ」

「時と場合でグループが変化するんだね、面白いなあ」

「た、確かに放課後にグループが変化したりすることはあるが、生徒の本分である教室内派閥は確実にあるし、また力関係の観察は有益だぞ」

「そうだとも、社会的な人間の集まりのダイナミズムこそが、明日の革命勝利の元なのだよ」

「万事がこの調子なの。なに言っても糠に釘って感じ」

「うん、でもおもしろいなあ」

 犬子が笑った。花が咲いたようだった。

「もう、帰ろう。い、犬子は帰りどっちの方?」

「駅前のセンタータワーマンションだよ」

 犬子を覗いた全員がゲッという顔をした。センタータワーと言えば別名バブルタワーと呼ばれる超高級マンションではないか。

「じゃあ、駅まで一緒だね。一緒に帰ろうか」

「そうね、先生もみんなで固まって帰りなさいと言ってたし。小人閑居して不善を為す言うからさっさと帰りましょう」

 政治家を捕まえて小人とはなんだ、花巻。

 僕たちは一群となって階段を下りた。一階から渡り廊下で下駄箱のある西棟へ渡る。

 ……。

 また渡田派が焼却炉で群れてる。僕は派兵の為の先生を捜した。片瀬も花巻も渡田派の群れに気が付いた。ゴリコの蹴りが鹿島のお腹に入ったのが一瞬見えた。

 花巻が動こうとした横を脱兎のように犬子が走って行った。

 渡田派の輪の中を割って犬子が真ん中に立つ。ゴリコが気付いて鹿島を放した。

「なにやってんの?」

 怒りを含んだ声で犬子が渡田に言った。

 渡田派の構成員の表情が一斉にガラスのように硬くなった。

「遊んでたのよ、ねえ、麻美」

 渡田が鹿島に糖蜜のような粘っこい声をかけた。

「そ、そうです、遊んでいただけなの……」

 渡田派の群れがけらけらと笑った。

「睨まないでよ、犬子さん、怖いわ」

 僕たち三人が近づいて来るのに気が付き、渡田は舌打ちをした。

「さ、帰ろう。都会の人はコワイコワイ」

 そう言って、渡田派はぞろぞろと正門の方に向かった。鹿島が大丈夫だよと言いたげに気弱な笑みを浮かべ、こちらをチラチラと見ていた。

 僕たち四人は黙り込んで立っていた。

「あれは……、まずいわね確かに」

 花巻の得意のことわざも出てこないようだ。

「渡田嬢とゴリコ嬢が良くない組み合わせになったようですね」

「先生に言う」

 犬子がそう言った。

「先生は万能のカードじゃない。言って収まるならもう言ってるよ」

「だったらどうするの?」

「僕たちで対策を練るよ、犬子も気をつけて、さっきので完全に渡田に宣戦布告したことになるから」

「渡田って、あのリーダーの子? 直接言って、やめるように説得したらどうかな」

「イジメってステルスだからさ、直接的な方法では駄目なんだよ。渡田だって面と向かってやめるように言われると面子がつぶれて意地になるだろ、表向きそう言う事はやってないと言ってるんだし」

「やっかいなのね、じゃあどうするの? ほっとくの?」

「放置しておいて大きな問題になったら、渡田も不幸だしなあ」

「……? どうして虐めてる方の事をそんなに考えるの? 普通、虐められてる方優先じゃない?」

「犬ちゃん、渡田ちゃんもこれから半年ずっと同じクラスに居るんだよ。犬も朋輩鷹も朋輩だよ」

「あ、ガーンとやっつけて懲らしめる訳にもいかないのか。うわー、むずかしいね」

「ゴリ子さんはガーンとやっつけられませんよ。渡田嬢は何かあったのですか? 二学期に入って随分荒れていますが?」

「……うん、なんか、お父さんとお母さんが仲良くないらしいのよ。角を矯めて牛を殺すような事はやめようと思ったんだけど、あれは凄くまずいね」

 犬子がうふふと笑った。

「君たちは本当に政治家みたいだね。すごいや、ヨコハマにもそんな子は居なかったよ」

 三人の政治家は一斉に顔を赤らめた。

 犬子のマンションまで四人一緒に歩いた。派閥の長たちが問題の深刻さを理解したのは成果だったが、はかばかしい善後策は出なかった。

「それじゃ、また明日、ばいばい」

 犬子はバブルタワーに駆け込んでいった。

 後ろ姿に見とれていたら、花巻が鞄を掴んで僕を引きずった。

 

5

 

 次の日、僕は花巻に頼んで、鹿島に我々が見ている事と、何かあったら援助の手はどの派閥からも出る事を伝えてもらった。

 花巻は変な表情をして、帰ってきた。

「鹿島ちゃん、喜んでいたよ。ありがとう、嬉しい、だって。そのあと、ちょっと泣いちゃって。『私は罰せられなければいけないんです、そんなことしてもらえる人間じゃないんです』ですって。晴天の霹靂よね」

「渡田の問題だけじゃなくて、鹿島の問題も組み合わさっているのか。うわ、困ったな」

「どうしてって聞いたら、何にも言わなかったわ。八幡の八幡知らず状態ね」

 八幡の八幡知らずとは薮の中に入ったように物事が解らなくなったという意味だ。

「うーん、とりあえず花巻は派閥員にたまり場になりそうなところにうろうろしてもらって、イジメの機会の方をつぶしてくれ」

 花巻は頷いて、僕の席を離れた。本気になった花巻はかなり頼りになる。

 ふう、と息を付いてノートを揃えていると、犬子の視線に気が付いた。なに? と視線をやると、犬子が近づいてきて、僕の耳に「色んな手をつかうんだね、カッコイイよ川原」と耳打ちをした。

 って、うわあああ、教室内で何をしますかこの子は。教室内がドワーとどよめいた。犬子はしまったと言う顔をして、頬を赤らめ、席に戻った。

「男女間の耳打ちは、せ、政治的に間違ってます」

「ゴメンナサイ」

 ハマっ子はやることがちがうぜと前の席の四郎が呟いた。

 

6

 

 二三日は対策が効いたのか、平穏な日々が続いた。

 犬子はもうすっかりクラスに溶けこんでいた。噂では犬子はもの凄く運動ができるらしい。

 また、行方不明の子供が出た。隣町の小学校の五年生の女の子だった。街はまた騒然とした空気に包まれた。

 朝、登校したら昇降口で犬子に会った、僕は政治家なので普段は結構早く来るのだが、今日は朝ご飯に手間取ってちょっと遅れた。

「あ、川原おっはよー」

「おはよう、犬子」

 下駄箱で上履きに履き替えてると、犬子が「つっ」と言った。犬子の方をみると、足を上げて踵に刺さった画鋲を抜いている所だった。

「だ、大丈夫か、誰だこんな事をっ!」

「古典的だなあ」

 犬子はにこりと笑った。犬子は画鋲を鼻に持って行くとスンと匂いを嗅いだ。

「誰かの匂いがするのっ?」

「真鍮の臭い……」

 それはするだろうなあ。というか、犬子は可愛いけど……天然ボケするよなあ。

 犬子は親指で画鋲の針をピキッと折った。針は僕らの教室の方を向いていた。

「足大丈夫?」

「へーきだよ川原」

 犬子と一緒に教室に向かった。

「保健室いったほうが」

「へーきへーき」

 犬子は階段を駆け上がった。

 教室にはいると、犬子はつかつかと机の間を歩き、佐川良江の机の上へ画鋲をぴしりと置くとそのまま自分の席に向かった。

 佐川は音を立てて立ち上がった。顔が真っ青になった。

「私っ! やってないわっ!!」

 犬子は佐川の方を見ようともせずに鞄を机に掛けた。

「私じゃないんですっ!! 私そんな陰険な事しませんっ!! 言いがかりですっ!!」

 佐川が盛大に自爆して、教室は海の底のようにシーンとなった。

 犬子が椅子を引いて、席に着いた。

 ツネ子が立ち上がった。

「あ、あんたは佐川さんが上履きに画鋲を入れたって濡れ衣を着せるのっ!!」

 ツネ子は馬鹿だと思っていたが、本当の馬鹿だった。これで命令系統も推理できる。渡田>ツネ子>佐川だ。

 自爆連鎖は面白いが、これ以上破裂すると、佐川もツネ子も教室に居づらくなる。つっこみを入れてやろう。

「犬子は上履きに画鋲入れられたなんて一言もいってないよ」

 二人とも自分が何をしたか悟って硬直した。花巻が佐川に近寄って小声で何か言った。ツネ子にも手招きして何かを言っている。

 しばらくして二人は悄然として犬子の席の前に立った。

「ゴメンナサイ」

「ゴメンナサイ」

 犬子は目を笑わせて佐川の頭を軽く撫で、ツネ子の頭に軽くチョップを入れた。

「な、なんでわたしはぶたれるのよう」

 ツネ子は悪巧みが好きな謀略家なのでクラス内で憎まれそうなものだが、あんまり馬鹿なので妙な面白味が出てしまい、結局憎まれきれずに苦笑いされながらクラスに受け入れられている。謀略はたいてい失敗するしね。

「ん、なんとなく」

「な、なんとなくなのか」

 ツネ子の顔がほころんだ、そしてウハウハ笑い出した。犬子も釣られて笑い。クラス中が笑いに包まれた。佐川までクスクス笑っていた。よしよし。

 ドカンと音を立てて渡田が立ち上がった。犬子を睨みつけている。そしてきびすを返して後ろのドアから出て行った。ゴリ子が後を追い、ツネ子が慌てて後を追い、渡田派の女子の席が空になった。

 佐川は実は花巻派だ。ツネ子と佐川は放課後に同じ栄進塾に通ってるつながりで謀略が発生したのだろう。佐川は花巻に何か言われてシュンとなっていた。

 

7

 

 そろそろ渡田イジメ問題に対し抜本的解決を図らなければなるまい。

 現況を整理してみよう。

・渡田がイライラしている。これが発端だ。

・ゴリ子という武力が簡単につかえる。これは手段だ。

・鹿島がオドオドしている。これは情況だ。

 重要なファクターはこの三つだ。

 情況を変える意味で、鹿島を渡田派から花巻派に移籍させる手がある。だが、この手は抜本的な解決にはならない、他の子にイジメが転移する可能性が高そうだ。情況は再生産されるものだ。

 手段としての武力のゴリ子を排除する手もあるが、このクラス一の戦力を持つゴリ子にぶつける武力がない。川原派全員で掛かればなんとかゴリ子を泣かす事ができるかもしれないが、それでは渡田のやってる事と大差がない。

 やはり、発端である渡田をなんとかする以外方法はなさそうだ。

 僕は四時間目が終わったあと、花巻に話しかけた。

「給食たべたら、図書室来てくれない、大事な話があるんだ」

「!! え、あ、はいっ! か、堅い石から火が出るだね」

「えと、意味は?」

「いつもはあまり口や手が出ない人が、ときどき思い切った事をするって意味だよ、サトシ君」

「うん、そうだ。まさにそのとおり」

 ? 犬子やら片瀬やらが、なんだか猫缶の前の猫のような目をして僕を見ているのは何だ?

 花巻はなんでこんなに嬉しそうなんだ? 

 僕は給食を急いで食べて図書室に向かった。

 ……なんで、こっちを見る花巻の目が潤んでますか?

 図書室で星の図鑑を眺めていると、花巻が来た。

 なんかモジモジしている。

「花巻、渡田の家について解ってることを教えて欲しい」

 あれ、急に不機嫌な顔になったぞ。

「せ、政治の話だったのっ!」

「そ、そうだけど、なんで?」

 花巻は頬を膨らませてそっぽを向いた。なんだなんだ?

「サトシ君に期待した私が馬鹿だったよ、うりのつるになすびはならぬだわっ」

「な、なに、怒ってるんだよ」

「なんでもないよっ」

 花巻は椅子を荒々しく引いて座った。

「渡田に直接介入しようと思うんだ、そのためには情報が欲しい」

「薮をつついて蛇がでてこなければいいのだけど」

 犬子と片瀬が図書室に入ってきて、わざとらしく書架の方へ向かった。ちょうど良い。

「片瀬、犬子、こっちきなよ」

 僕は二人を呼んだ。二人はビックリした目で僕をみて、おずおずとこちらに来た。

「あのー、おじゃまでは?」

「いいのよ、政治の話なんですから。馬脚を現すとはこの事ね」

「政治」

「政治」

「そうそう、渡田に直接介入する事にしたんだ、それで花巻に情報を……」

 犬子と片瀬が同時にふああと溜息をついた。なんでだ?

「いや、まあ、カーラ君はカーラ君ですからね」

「びっくりしたよ」

 なんか片瀬がにやけてるな、良いことでもあったのか?

 花巻はなんか怒りながらも渡田の現状を話してくれた。

 渡田家は駅前のスーパーを経営している金持ちなんだが、どうも夫婦仲が怪しいらしい。浮気だ離婚だ愛人だと家の中がごたごたしているそうだ。その家庭内のトラブルがストレスとなり、学校でのイジメに転嫁されたのではないかと花巻は推理をのべた。

「そうすると、対策は渡田夫婦の関係を改善することか」

「カーラ君。大人の結婚生活に小学生が口だしできるものではありませんよ」

「そ、そうか。そういえば、渡田は悩み事があったら派閥の誰に相談してるのかな」

 渡田派の構成員は我が川原派にも似て、馬鹿ばっかだった。真面目な相談出来る子はいなさそうだな。

「あまりいないよ、ドングリの背比べだよ」

 何か問題があって、誰にも相談できなかったら、それは孤独だろうなあと僕は渡田の心境を思いちょっと同情した。

「渡田夫婦に介入出来ないとしたら、残る手は渡田本人に介入か、説教してもだめだろうなあ」

「たぶん馬耳東風だよ」

「彼氏とか出来たらイジメとかやってる暇なくなるんじゃない?」

 なんですか、このヨコハマから来たおませさんはっ!

「渡田って彼氏の方は?」

「四年の時居たけど、大喧嘩して別れたみたい」

「今は居ないのか、彼氏で気を引いておいて、その隙に鹿島を花巻派へ移籍させるかな」

「きっと彼が出来たら派閥活動もイジメも停止して、メロメロになっちゃいまさ~」

 犬子がおどけた口調で断言した。

「そういうもんかね」

「わ、わたしに彼氏が出来たら、たぶん、朝も昼も夜もその子の事を思って、五里霧中、三界に家無しでメロメロになっちゃうと思う」

 ……。いや、なんで俺の顔見て言うわけ? 花巻は。

「わ、私も好きな人ができたらですね。ずっとずっとその人の事ばかり思うことだろうと革命的に断言できますよ」

 ……。片瀬もなんで俺の顔をみて言うわけ?

 僕も、犬子が彼女になってくれたら、ぼーっと一日中犬子の事を考えて過ごすのかな。うーん。どうかなあ。

「とりあえず、渡田に彼氏が出来れば、イライラも減るし、悲しいことがあっても相談したりする人ができるから安定するかな」

「その可能性は高いわね。少なくともイジメは無くなると思うよ。女の子は好きな人の前では猫をかぶるから」

「渡田の好きな男の子のタイプは?」

「結構面食いだよ。あとお話が面白い人かなあ」

 あ、顔が良くて話が面白いのならここにいるな。ちょっと左翼がかってるけど。

「じゃあ、片瀬が渡田の彼氏になってくんないかな。片瀬彼女いないだろ」

 何で、片瀬が落雷にあったような顔するんだよ。花巻も犬子も同情に堪えないって顔してるし。

「カーラ君! 君はなんて残酷な男なんだーーっ!!」

「え? 残酷? なんで?」

「うう、片瀬君可哀想。世の中は気の毒の入れ物だわ」

「川原ってさあ、絶対思春期来てないよね」

 なんだよ、その、先に大人の階段を三歩昇った上から声をかけるようなコメントは。

「いいでしょう! 私はやりますよ。クラスの平和の為です。ええ、革命的な恋愛テクニックを駆使して渡田嬢とラブラブ、ラブ関係になってやりますともっ!」

「おお、そうか、さすが僕の政敵だけはある。がんばってくれ」

「うわ、片瀬君やけくそ。お便所が火災」

 花巻、それ、ことわざじゃない。

「政治とはつねに誰かの犠牲を踏み越えて動いていくんだなあ」

 犠牲って犬子、大げさな。

「あと、犬子は花巻派に入るの?」

「え、あー、まあとりあえずそんな感じかなあ」

「一時的に渡田派に入る気はない?」

「へ、だって、渡田さん、あたし嫌いじゃんよ」

「うん、だけど、ラブ作戦を決行したあと、渡田派の結束が少しゆるむと思うんだ。渡田派はやんちゃな奴が多いから犬子に入ってもらって重しになってもらいたいんだよ」

「わあ、なんだか十重二十重に対策をうつんだね。わかった、スポーツ好きな渡田派も面白そうだし、いいよ」

「わたしとしてはちょっと寂しいけど、適材適所と言うしね。渡田ちゃんの相談相手になってもらえると一石二鳥だね」

「ラブ作戦、犬子参入でぱたぱたしてる間に鹿島を花巻派に移籍させてくれ」

「わかったわ。合点承知の助よ」

 花巻、それもことわざじゃない。

「あとは、ゴリ子の道場の先生に五組の前原経由でチクろう」

 五組の前原は柔道少年だ。四年生の時の友だちだから、伝言を伝えてくれるだろう。

 

 その後、情況は一気に変わった。

 片瀬が渡田に水天宮公園の大銀杏の下で告白し、渡田が真っ赤になって頷いた。赤くなって笑う渡田はなんだかいつもより十倍ぐらい可愛かった。片瀬は渡田の事をリダと呼んだ。だれだよそれは。

 片瀬もまんざらではないようで、リダの家は大変だよとか、カーラ君リダが泣くのだがどうしたらいいのだろうかとか色々相談してきた。とりあえず相談事は全部花巻に回した。

 クラス内の人間関係がドミノ倒しのように変わっていく。

 ツネ子経由で犬子が渡田派に入った。渡田はしばらくムッとした顔で犬子に接していたが、話したり一緒に給食を食べたりするようになるまで、さほど時間は掛からなかった。なにしろ犬子は魅力的だから。いつの間にやら犬子は渡田の親友になっていた。反発しあう間柄ほど仲良しになると深いものだなと思った。

 ゴリ子はある日を境にすっかりおとなしくなった。柔道の師匠に怒られたのだろう。

 ツネ子は相変わらず馬鹿だったが、それはしかたがない。

 一拍おいて、鹿島を花巻派へ引き抜く工作がおこなわれ、平和理にそれは完了した。

 こうしてクラスの懸念だった渡田派のいじめ問題は解決したのだった。鹿島は相変わらずおどおどしていたが、イジメはなくなった。クラスに平和が戻った。

 ほぼ満点の政治的決着だったが、一点だけ解決していない問題があった。

 鹿島になにか問題があるのなら、やはり学級政治家として何とかしてやりたいと僕は思ったのだ。

 

8

 

 土曜日、僕は鹿島の家の回りでうろうろしていた。

 学級女子探偵御影幸子にアイスバー一本で鹿島の調査を依頼したところ、色々な事が解った。

 鹿島の家は二年前お父さんとお母さんが行方不明になった。一時期叔父さんが家に居たが、今は居ないらしい。現在は中二のお姉さんと中一のお兄さんと麻美の三人で暮らしているそうだ。新聞配達を三人でやってるらしい。新聞配達所の仕事というのは朝早くて辛いが、朝ご飯も出るし、わりと良いらしい。

 子供が三人で暮らすのは大変そうだが、それについては意外にも僕の母、弓枝から情報が入った。

 我が母、弓枝は地域のボランティアをやっていて、鹿島家の現状を行政サービスにより改善しようとしたそうだ。だが、鹿島家のお姉さん康子さんが意固地に行政の助けは受けないと断っているそうだ。

 色々政治的に複雑な情況だなと僕は思った。

 とりあえず、麻美の様子を見に僕は町はずれの鹿島家の前でうろうろしていた。麻美が顔を出したらそれとなく色々と聞こうと思ったのだが……。

 すごい家だ。平屋建ての一軒家なのだが、庭は草に覆われ、ガラスはセロテープで修理してあるし、絵に描いたようなお化け屋敷だ。何だか獣臭い妙な匂いが周囲にただよっていた。

 三、四周、鹿島の家の前を往復したが、鹿島は出てこなかった。帰ろうかな、と思ったら鹿島家の戸口にいつのまにか鹿島のお姉さんが立っていた。

 鹿島のお姉さんの康子さんは、ショートカットで運動が出来そうなキリっとした人だ。Tシャツにだらんとしたジーンズをはいて戸口の柱にもたれかかって僕を見ていた。

「何?」

 鼻に掛かったざらついた声で康子さんは僕にそう問いかけた。

 背中の奥の方に軽い震えのような物が走った。

 普通のお姉さんだ。中学生の。

 まったく普通なのに、僕の両肩に墓石が乗ったような、重くて怖い雰囲気が漂っていた。

「い、いえ、僕はただの旅の者です」

 康子さんは喉の奥でくくくと笑った。僕はライオンとかの肉食獣の笑顔を思い浮かべた。

「面白い子ね、麻美の友だち? 家の中に入って待たない?」

「いー、いえ、た、旅を続けねばなりませんから」

 何となく、何となくだが、家の中に入ったら出てこれないような、そんな気がした。

 運動の後のように心臓がバクンバクンいっていた。

 僕の心の底のなんか丸っこくてスベスベな人が大声で『ヤベエ、ヤベエヨ』と叫んでいた。

 康子さんが僕の顔を見て目を細めた。

「可愛いわね、君。ねえ……」

 女の子の裸とか興味ない? と康子さんは息だけの小声で僕の耳にささやきかけた。

 はだ、裸に興味がないわけではありませんが、その、す、スキャンダルはまっぴらごめんと言いますか、何と言いますか。この家の中に入ったら一巻の終わりと僕の中のスベスベな人が恐怖の表情で絶叫していますし。いや、だめですって、手を、僕の手をお姉さんの胸にその、柔らかいうわ柔らかくて。いや政治的に間違った部分がカチンコチンになりましてですね。

「ねえちゃん、ひっぱりこもうぜ」

 いつのまにか、鹿島兄の猛さん(中一)が僕の後ろに立っていて、その一言で僕は背中に棒を入れられたようになって。

 がしっと猛さんが僕の服の肩の部分を握っていて、微動だにしなくて、鼻の奥がツーンとなって、ああ、僕は泣いてしまいそうだと思って。

「あ、あのやめ、やめて」

 先生が『やばくなったら大声を出しなさい』とか言っていたけど、本当にやばいときはもうどうにもできなくてその、鹿島家は町はずれで近くに人家も無いし、畑ばっかりで。僕は嘘だろうという感じで口を馬鹿みたいにパクパクさせるしかなくて。

「やめてえええええっ!!」

 大声を出したのは僕ではなくて、鹿島麻美だった。スーパーの包みを放りだして鹿島は駆け寄ってきた。包みから豆腐だの牛乳だのがころげだすのを僕は見た。

「だめっ!! おねえちゃん、おにいちゃん、この人はだめっ!!!」

 麻美は猛さんにむしゃぶりついて、僕を捕まえていた手を外した。

 麻美は僕を平手打ちした。衝撃で耳がキーンとした。

「でしゃばりっ!! 何にも出来ないのに出しゃばらないでっ!!」

 さらに鹿島は僕をドンと突き飛ばした。僕は尻餅をついて鹿島を見つめた。

「帰れっ!! 二度と来るなっ!!」

 麻美は教室では一度も見せたことがない、もの凄い剣幕で僕を追い立てた。

 猛さんはニヤニヤ笑いながら麻美の顔をぼこっと殴った。麻美の鼻から鼻血がビュッと道路に落ちた。康子さんは麻美の髪を乱暴に引っぱって家の中に連れていった。麻美は一度こっちを見ると無表情に早く行けというようにアゴを振った。

 鹿島家の硝子戸がぴしゃりと閉まった。

 止めたかった。麻美への暴力を止めたかった。だけど止められなかった。怖かったからだ。麻美が勇気を出して僕を救ってくれたみたいなのに、僕は猛さんにも康子さんにも一言も言えなかった。

 ただ、背中を丸めて逃げた。

 泣きながら逃げた。手がブルブル震えていた。

 怖かった、凄く怖かった。

 悔しかった。何も出来ない自分が悔しかった。何が政治家だ。何が学級委員だっ!

 鹿島家が小さくなった。住宅街に入って、僕は金網にもたれかかって一息付いた。

 鹿島家は、なんだか解らないけど凄く不吉な場所だ。僕はそう思った。

 ふと振り返った。

 鹿島家の方向に人影があった。坊主頭。Tシャツ。バミューダパンツ。鹿島猛さんがいた。

 僕は駅の方に歩いた。振り返ると猛さんも同じ距離を保って常に後ろに居た。

 追いかけてくる……。どうして?

 僕は駆け足で道を走った。猛さんも駆ける。

 ぼ、僕の家をつきとめるつもりかっ!!

 絶望が僕の全身を貫いた。

 怖い、怖い、怖い、怖い。

 僕は駅前通りを横切って走った。だれか、先生、お巡りさん。だめだだめだ、猛さんは別に何をした訳じゃない。『え? なにもしてませんよ』と言われれば返す言葉がない。

「あ、カーラ君どうしました、血相をかえて」

 本屋の前で片瀬が声を掛けてきたが、無視して走る。駄目だ、被害を拡大してどうする。

 逃げる、逃げる、逃げる。

 駅前通を横切り僕の家の方へ。だめだ。僕は道を横にそれた。アレを家族の居る家に連れて帰ったらいけない!

 僕は水天宮公園の中に入った。

 後ろを見る、さっきよりも猛さんは近寄っていた。ニヤニヤ笑いが見える。鬼ごっこはお終いかい? というように笑っていた。

 庭園を突っ切って、噴水脇を走った。体が熱い。

「おーい、川原ー」

 犬子の明るい声がした。

 僕のいる庭園の端の金網の向こうが水堀になっていて、また金網があり、その奥が野球の出来る広場になっていた。

 犬子は笑って手を振っていた。野球帽にグローブをしていた。奥の広場で誰かとキャッチボールをしていたようだ。

 僕は金網を目で追った。奥の広場とここの庭園は蓮の生えている水堀で隔てられていて、向こうまで行くのはぐるっと公園を半周しなければならないようだ。

「どうしたの、血相かえて、お化けに追われてたみたいじゃん」

 金網の向こうで犬子が笑った。

 その笑顔を見て、僕は決心した。

「犬子、今から大事な事をいうから良く聞いて」

「うんうん」

「僕は初めて会った時から犬子が好きだ」

「へ? あ、ええっ!?」

 犬子が目を丸くして、赤くなった。

 よし、もうなにも思い残す事はない。死んでも大丈夫だ。

「僕が死んだり、行方不明になったら、鹿島家の人を調べるように大人の人に言ってくれっ!!」

 犬子がきっと奥を睨んだ。

 僕は後ろをみた、五十メートルぐらい向こうで猛さんが立っていた。

「ああ。なるほど。あー、びっくりした」

 犬子はそう言うと、グローブを投げ捨てガシャガシャと金網をよじ登った。

「犬子、何をするつもりだっ!!」

 ガチャーーーンと音を立てて犬子は広場側の金網の天辺からジャンプした。

 五メートルはある水堀をとびこして庭園側の金網にガチャンととりついた。

「おーい、犬、俺はそんな事できねーぞ」

 なんだか凄くカッコイイ大学生ぐらいのお兄さんが犬子に声を掛けた。

「兄ぃは帰れ、情況によっては処理するから」

「おっけー、坊主、犬をよろしくなー」

 お兄さんはグローブを拾うと広場の奥へ歩いていった。

 犬子はガシャガシャと庭園の境の金網をのぼり、金網の天辺から庭園へ飛び降りた。

「犬子、だめだよ、君は生きろ!!」

 犬子はぷっと吹き出して僕の頭を撫でた。

「川原の告白、ちょっと嬉しかったよ。あたしの言うことを聞いてくれるかな?」

 金網越しだったから思い切って告白できただけで、犬子と面と向かうと恥ずかしさで死んでしまいそうだ。

「うん、なに?」

「政治的には微妙だろうけど、あたしにおぶさって、良いと言うまで絶対目をあけない事」

「な、なんで?」

「なんででも、約束して!」

「わ、わかったよ」

 僕は恐る恐る犬子におぶさった。猛さんは五十メーターの位置にたったまま、腕組みをしている。

「目つぶって」

「つ、つぶったよ」

 目の前が真っ暗になった。犬子の髪から良い匂いがしてた。犬子は僕の手の位置を直し、僕の足を犬子の体の前で組み合わせた。

「しっかり捕まってててね」

 バンといきなり後ろに引っぱられるような感じがした。

 ダダダという犬子の足音がして、頬に風と長い髪の感触がした。もの凄い速度で走っているような気がする。

 後ろの方からタタタと軽い音が近づいてきて、ブンと何かが振られる音がした。

 僕が身をすくませると、犬子が大丈夫という感じに膝を軽くたたいた。

 犬子の姿勢が前に屈んだと思ったら、バンと音がしていきなり重力が無くなり、重力がふいに戻るとガサガサガサと木の葉がうるさく鳴り、ギチと枝がなるような音がして、また重力が無くなった。

 えーと、ジャンプして、木の枝に乗って、更に高くジャンプかっ? まさか、そんなっ?

 今度の無重力は大分長く、うわうわ、落ちてる落ちてると目を開きそうになったが、我慢してぎゅっとつぶっていた。

 ドンと背骨に衝撃が走ったと思ったら、またザザザザザッと足音と風が僕を包んだ。

 足の間で凄く躍動してる感じの犬子の腰があって、細かく重心が変わって、僕は荒馬に乗ってっいるような気がした。

 落ち葉の匂い、土の匂いで森の中を疾走しているのが解った。犬子は細かく重心を変えてジグザグに動いていた。木を避けているのか?

 華奢な女の子が僕を背負える事自体が驚異だが、犬子は頬に風が当たるぐらいの速度で走り、飛んでいた。

 ズザザザザと音がして、僕の体は半回転に振り回され、犬子の背から落ちそうになった。犬子の両手が僕の太ももをがっしり握りしょい直してくれた。

「大声を出す。ビックリしないでね」

「う、うん、だけどどうして」

「どうしても」

 犬子が笑いを含んだ声で返答した。

 犬子が息をすうと吸い込む音がした。

 グァアアアアアアアアアアアアアアアア

 犬子は猛獣が吠えるようなもの凄い大声を出した。犬子の腰に当たっている僕の一部がビリビリ震えた。耳がキーンとなった。

 アアアアアアアアアアアアィイイイイイイイイイイイイイ

 犬子は声を切らない、音階をゆっくりと昇っていく遠吠えだ。

 イイイイイイイイイイイイリイイイイリイイイイイイリイイ

 透明で澄んだ声、凶暴で血が騒いでそれでいて悲しげな遠吠え。

 遠吠えが止まると、森の中はシーンとして、葉をざわめかす風の音も遠い。

「おいてけ」

 結構近くから男の子の声がしたので、僕はビックリして目を開けそうになった。

 なにかがもう一つ、上の方の梢を移動しているような音がしていた。

 犬子は僕の足の間で微動だにしない。太ももから伝わる犬子の腹筋はまるで針金を束ねたみたいな感触がした。

「二対一だぞガキの癖に勝てるつもりか」

 妙にくぐもった発音だった。動きながら聞こえる。

 草を分ける音が高速で近づいた、と思ったら、犬子の腰からもの凄く複雑な動きが伝わって、振り落とされないようにするのが精一杯になった。重心が上に下に動き、その間にカキンカキンと金属をはじく音がした。

 僕は恐怖で気が狂いそうになっていたが、犬子の匂いが、犬子の息づかいが、この子にしがみついて居れば安心だという確信をくれていた。

 複雑に動く、飛ぶ、走る、一度などはたぶんトンボを切ったのだろうと思うが重力が逆さにもなった。

 犬子が腰を鋭く半回転させると、犬子の体にゴンという感じの衝撃が前から後ろに突き抜け、右の方から湿ったドスッっという音がして、重そうな物が森にザクっと落ちた。ザアアアアアと森に雨が降るような音がした。

 女の何かが悲鳴を上げた。狂った鳥が鳴くような悲鳴。

「目をあけちゃだめだよ、怖いから」

 僕がつばを飲み込むと、犬子は反転してザザザと加速して走った。悲鳴がどんどん遠くなる。

「身を隠したい、どこか洞窟みたいな場所ない?」

「い、今どこ?」

「えーと、池の近く、赤い社のある」

 水天宮の裏の亀池だ、そんなところまで来ていたのか!

「池に流れこんでいる川をさかのぼると広い地下用水路の出口があるよ」

「最適だね」

 犬子は時に飛び上がり走りつづけた。

 ガチャチャチャチャと金属音がしたと思ったら、また空中の無重力が続き、どすんと着地の衝撃が僕の体をつらぬいた。

 フェンスを駆け上がって、ジャンプ? なのか?

 速度が落ちて、犬子が歩き出すと、回りの空気がひんやりして暗くなった。も、もう着いたのか自転車でも結構かかるのに。

 犬子が僕を下ろした、僕は腰が砕けて尻餅を付いた。目を開けようとしたら犬子の手がやんわりとそれを押し留めた。

「もうちょっと目を閉じていて」

 犬子の足音が少しして、チャプチャプと何かを洗う音がした。

「水もあるし、良いところだね」

 ジャバジャバと水をかき回す音がした。

「まだ開けちゃ駄目?」

「だーめ」

 犬子がピコピコ音を立てて何か電子機器をいじっていた。携帯電話? 小学生なのに? ヨコハマはというか、犬子は忍者とかそんな感じの存在だからか?

 犬子はボソボソと喋っていた。犬子のふうと息をつく声がして何かの機器がたたまれる音がした。

 犬子の足音が近づいて来た。

「目、開けていいよ」

 目を開けると、犬子の笑顔が目の前にあった。頬が赤い。なんだかちょっとトロンとした目をしていた。用水路に差し込む光がまぶしい。

「兄ぃを呼んだ、車で近くまで迎えに来てくれるってさ」

 犬子は僕の隣りに座り込んだ。

「犬子って、何者なの?」

「ごめん、川原、それは、えーと、政治的に微妙なので言えない」

「に、忍者?」

「うーん、そんなもんかな」

「森の中で闘ってた奴は……、あの、その。死んだ?」

「ノーコメント」

「はあ、そ、そうですか」

 こ、殺したんだ。僕はぶるっと震えた。

「ごめんねえ、詳しいことは言えないんだ」

「い、犬子は、一種の、こ、殺し屋なの?」

「前はそういう部署だったけど、いまは行政サービスというか、警察というか。あはは、駄目だよあまり言えないんだって」

「麻美も殺すの?」

「たぶん麻美ちゃんは大丈夫。姉の方は……情況しだいだよ」

 僕は鹿島家で起こった体験を犬子に話した。

「そうかー、川原は偉いなあ、でももう政治の出る幕じゃないから、近寄ったらだめだよ」

「もう、紛争が始まってるのか」

「そう、一ヶ月も前からね。巻き込んでごめんね」

「わざわざ巻き込まれにいったのは僕だから犬子が謝ることじゃないよ」

「もうすぐ終わるよ。そしたら……、さよならだ」

 僕の胸がキュウキュウ痛んだ。

「行っちゃうの犬子」

「巡回行政サービスだからね」

「せっかく仲良くなれたのに……」

「好きって言ってもらって嬉しかったよ」

 犬子が顔を僕に寄せてきて、目をつぶった。こ、これは!!

 僕は唇をアヒルのようにして犬子の唇に……。

 ガチン!

 犬子が口を手で押さえた。

 僕も口を手で押さえた。前歯に激痛が走っていた。

「川原、そんな前に首出しちゃだめっ!」

 犬子が僕の顔を両手で挟んで、僕の唇に自分の唇をそっと合わせた。

 僕のファーストキスだった。

 

 パッパーとクラクションが鳴ったので、用水路出口を出た。

 用水路の上の道路に車が止まっていて、カッコイイ大学生風のお兄さんが窓から顔を出して手を振った。

 僕たちはお兄さんの運転する車で街に戻った。

 

8

 

 それからしばらくは平穏な日々が続いた。

 鹿島家の猛さんが行方不明児童のリストに載り、その後は何日も行方不明児童は出なかった。

 僕と犬子の関係も特に進展もなく、かといって離れるわけでもなく続いていた。

 麻美も相変わらずオドオドしていたけど花巻派に移り、優しい少女達に支えられて少し笑顔も見せるようになった。

 

 おしまいはいつも突然やってくる

 三時間目の体育の時間だった。

 僕らは男女一緒にグランドで陸上をやっていた。グランドは中等部と小学部の二つが隣接していて、境目はちょっとした段になっていた。

 僕がふと、目を上げると中等部のグランドから槍投げの槍がビュウウンと飛んで来た。放物線を描いた銀の槍は小学部のグランドを目指して飛び、女子が幅跳びをしている辺りに。いかん、誰かに当たるぞっ!!

 棒立ちになった花巻めがけて槍は落ちてきて、花巻あぶないっ! と叫ぼうと思ったら、犬子が槍の先をつかみ取っていた。

 先生がだれだー! と怒って中学のグランドに向かおうとしたら、槍が何本もこちらに向かって飛来してきた。

 犬子が手に持った槍で飛来してきた槍を全てはじき飛ばした。

 中学のグランドから女生徒がゆっくりゆっくり小学のグランドに階段を降りてきた。

「君か! 危ないじゃないか、なっ!」

 女生徒はいきなり先生を殴りつけた。先生は十メートルほど吹っ飛び動かなくなった。先生の眼鏡が割れて、グランドに転がった。

 みんな棒立ちだった。金縛りにあったように動けなかった。

 女生徒は鹿島のお姉さん、康子さんだった。目が、まるで光っているようにギラギラしていた。

「ずっとずっと見張ってやがって、うるさいんだよ、中央の犬め」

「我慢できなくなったの?」

 犬子が平然と言葉を返した。

「人を食ったら何で悪いんだよっ!! あたしもお前も化け物じゃないかっ!!」

「今時、人食いなんて流行らないんだよ」

「私たちは人の上に立つ存在なんだっ!! この土地は私たちの物なんだ!! 私たちは人を食べる権利があるんだっ!!」

「あたしたちは人間にお目こぼしされて生きてるだけだよ。思い上がっちゃだめ」

「お前を殺して、中央から来た奴らも皆殺しだっ!!」

「放課後にしない? ここでは思い切り戦えないよ」

「くくく、だよねえ、犬子ちゃん、麻美に聞いたよ、お友達多いんだってね、それじゃ恥ずかしくて変態できないでしょ」

 僕は麻美の方を見た、麻美は僕の視線に気が付くと、違うというように首を横に振った。

「お友達に醜い怪物の姿を見られるのはいやだよね。でも、私は変態出来るよ、猛みたいな部分変態じゃなくてさああ、完全な体にねえっ!!」

 康子さんの体がぐねぐねと波打った。

 一瞬の変化だった、康子さんの小柄な体は一瞬にして、両腕が鎌の大きくて細長い四つ足の獣に変化した。康子さんは鎌になった手で体操服をビリビリに破いた。

 クラスのみんなが悲鳴を上げた。

「な、なんなのですかアレはっ!! う、宇宙怪獣?!」

 片瀬がビビリ声を出した。

 怪物の康子さんの鎌がもの凄いスピードで犬子を襲った。犬子はそれを手に持った槍ではじいた。

 耳障りな金属音と火花がグランドに散った。

 犬子はとびすさりながら、ブルマを脱いだ。下着を脱いだ。靴を脱ぎ。靴下を捨てた。体育着の上はバリバリと破った。

 犬子が全裸になった。

「おあいにくさま、羞恥心とか、世間体とか、あまり気にしないのよあたし」

 犬子の体が真っ黒になった、ざわざわと獣毛が体を覆う。体の輪郭が蜃気楼のように揺らめくと、犬子の体は体積を増やし、大きな大きな狼男みたいなモノになった。

 素晴らしい筋肉だった。凶暴な犬の頭部だった。腕にかぎ爪。口元に牙。ふさふさとした尻尾。

 戦慄するほど凶悪で、そして美しかった。

 空に向かって犬子は吠えた。下腹にびりびり来るほどの声量だ。対面の校舎に吠え声が反射してこだまとなって唸った。

 ふと気が付くと、校舎から生徒が鈴なりになってグランドを見ていた。

 化け物の康子さんがひるむ、犬子は見えないぐらい速いパンチを繰り出した。

「い、犬子ちゃん……。ば、化けた」

「こ、こわい」

「い、イヌコビッチはワーウルフなんですかああっ!」

 もの凄い闘いだった。速度が速すぎて何をやってるのかちっともわからない。それでも康子さんの方が押されているのは解った。犬子はむちゃくちゃ怖い姿だけあって、むちゃくちゃ強かった。

 犬子の拳が、蹴りが、体当たりが、牙が、康子さんを襲う、化け物の康子さんは両手の鎌を振り回す、速度だけは犬子の二倍ぐらい速いが動きが洗練されていないのが解った。僕の目から見てもプロと素人ぐらいの違いがみてとれた。

「ガアッ!!」

 康子さんが麻美に声を掛けた。

 はっと、僕が横をみると、麻美の手には刃をいっぱいに出したカッターナイフが光っていた。その前には花巻がいた。

 麻美は花巻の首にカッターナイフを突きつけた。

「犬子さん止まってぇっ!!」

 犬子は一声唸ると、攻撃を止めた。

 康子さんは顔を歪ませニヤリと笑った。

 康子さんが犬子に鎌の斬撃を放った。犬子はそれを避ける。

 犬子が僕の目を見た。

 わかった良いだろう、僕の政治の手腕をみろっ!

 僕は麻美に近づいた。

「こ、来ないでっ!!」

 麻美が花巻の喉にカッターを近づけた。花巻はあわあわと動転している。

「麻美やめるんだ、花巻を放せっ! 僕が代わりに人質になるっ!」

 犬子がグアンと言って首を横に振った。

 うるさいっ、軍人はだまっとれっ!

「お、おねえちゃんを殺されたくないの」

 麻美の顔が歪んだ。

「花巻を離すんだ。お姉さん達の仲間なのか君は」

「ちがうの、ちがうの、人殺しは嫌なの。でも、でも、あれはお姉ちゃんなの」

 麻美はボロボロと泣いた。

「お姉さんが生きていれば良いのか? 捕まるのは死ぬよりもつらいかもしれないぞ」

 僕らのネゴシエーションの後ろで、康子さんはブンブン鎌を振り回し、犬子は避けまくっていた。

「でも、一人は嫌なのーっ!!」

 麻美はカッターを取り落として泣き崩れた。

 花巻が振り返って麻美を胸に抱いた。よしよしという感じで頭を抱いた。

「犬子、命令だっ!! 鹿島姉を殺さずに捕まえろっ!!」

 僕は犬子に命令を下した。

 犬子はヤレヤレというジェスチャーをした。

 犬子が康子さんの元に疾走した。犬子は鎌の内懐に入り込み見えないパンチ放った。拳は一度に何発も命中して康子さんの胴体を宙に浮かせた。パパパーンと突き抜けた音がした。

「い、イヌコビッチがんばれーっ!」

「犬ちゃんがんばれー」

 いつのまにか級友たちが声援を送りだした。僕も夢中で応援していた。でっかくて怖いけど、あれは犬子なんだ。

 犬子は照れ笑いのような表情を犬の頭に浮かべて、康子さんの片方の鎌の関節を砕いた。首の部分に蹴りを入れる。犬子の動きは本当にほれぼれするほど美しい。

 康子さんの両手両足を砕き、犬子は完勝した。

 いつのまにやら、全校生徒がわあわあと声援を送り、拍手を送っていた。

 犬子が僕たちの方に近寄ってきた。うう、近くで見るとすごい威圧感があるな。

 輪郭が歪んだと思ったら、全裸の犬子がグランドに立っていて、頬を真っ赤に染めていた。

「き、きみら、恥ずかしいよ」

 ちょっと怒ったように犬子は僕らに言った。

 

10 

 

 花巻の号令で三組女子の人垣が出来て、犬子はそこの中で服を着た。渡田が上ジャージを貸し、ドキドキするような全裸の犬子ではなくなった。

 校庭に黒塗りの車が何台も入ってきて来た。黒服サングラスの女が車から駆け出してきて、犬子の頭をはたいた。

「あんたはー! 隠蔽班を過労で殺すつもりかっ!」

「だってさー、しょーがないじゃんよう」

 犬子が口を尖らせた。

 犬子が車から出てきたカッコイイ大学生風の兄さんに手を引かれて校門の方へ向かっていた。

「犬子、どこ行くのっ!」

 僕は慌てて犬子に聞いた。

「あ、ちょっと野暮用、血をみちゃったんで」

 犬子は顔を赤らめた。

「すぐに帰ってくるよ、あとでねー」

 犬子は兄さんに手を引かれて行ってしまった。

 

 学校はその後、黒服達に完全に掌握されてしまった。全校生徒を一度校舎に戻し、体育館で何かやっている模様だ。

 包帯を巻いた先生が来て、色々な話を僕らにした。でも、先生自体あまりよく解っていないみたいだった。先生の割れた眼鏡がちょと可哀想だ。

『二年四組の生徒は係の者に従って体育館へ移動してください』

 一年生から順にクラス単位で呼び出されている。

 先生が廊下の黒服と喋っている。

「給食はどうしたらいいのですか?」

「いつも通りにしてください、敷地内から出るのは困りますが、それ以外はご自由に」

 なんか、黒服黒めがねで悪漢っぽいが、物腰は丁寧だった。

 給食当番が給食を持ってきて、お昼になった。

 犬子はまだ帰ってきていない。

 五時間目の理科の授業をやることになって、しばらく授業を受けていた。

『五年三組の生徒は係の者に従って体育館へ移動してください』とアナウンスがあった。

 僕たちは列を組んでぞろぞろと体育館に向かった。

 

 体育館は番号の付いた衝立で幾つものブースに区切られていた。入口で順番に並び、番号が付いたプラスチックの札をもらった。これと同じ番号のブースに入れば良いようだ。僕は11番だった。

 予防注射みてーだなー、と四郎が呟いた。

 僕の番号のブースから生徒が出て行って、黒服の人が11番の札の生徒はこちらにきてくださいーと呼んでいた。

 ブースの中には、さっき犬子をはたいた女の人がいた。

 黒めがねを丸い眼鏡に取り替えていて、目がキョロっとしていて綺麗な人だったが、目のしたにくっきり隈が浮かんでいて、げっそりした雰囲気だった。

「いらっしゃい、気を楽にしてね、危ないことはないから」

「あ、あの、これはなんなんですか? 何が起こってるんですか?」

「あーはは。あのねえ、これからお姉さん、まだまだ仕事しなければならないの、忙しいんで質問はやめてね」

「で、でも、そのっ!」

「簡単に言うとね、小中の全校生徒の記憶を消すのよ、あの子が学校なんかで暴れるから、前代未聞だわよ」

「記憶を消すっ!! 全員を廃人にっ!! い、いやだよっ」

 お姉さんはあははと笑った。

「面白いね君、えーと、川原君か。あ、君が政治家君かあ! 犬っちに聞いて一度会いたかったんだよ」

 ヨロシクヨロシクといって、お姉さんは僕と握手した。

「記憶を消すっていっても、今日の一日だけよ、全員の記憶を『今日は特に何もない普通の日でした』という感じに変えるだけ」

「一体、何があったんですか、犬子はバイオ技術で改造された日本政府の秘密兵器なんですかっ!」

「あははは、説明してあげたいんだけどさー、どうせ記憶消しちゃうしね、だまって処理されなさいな。おねえさん忙しいんだよ」

 何も解らないうちに記憶を消されてしまうのかっ!

 眼鏡のお姉さんの胸元から携帯の着信音がした。

「はいはーい、うん、うん、ええっ、御館様がヘルプに来るって? うん、うん、水天宮に準備しろか、了解、誰か行かせるよ、うん、助かるよー、もー半分ぐらい処置したんだけどさ、死にそう。おけおけ」

 眼鏡のお姉さんはベターっと机につっぷした。

「やー、助かったわさ」

「仕事片づいたんですか?」

「うーん、大分減った感じかな。うしし、どうせ記憶消しちゃうのだけど、時間できたから質問をしてもいいよん」

「何が起こってたんですか?」

「貧困による犯罪が起こってたのよ」

「犯罪って、鹿島のお姉さんが化け物になって、犬子も凄い姿で」

「魔物に裏で支配されている土地と言うのがあってね。ここ蒲田市もその一つだったわけよ、鹿島家の人たちみたいなカマイタチが治めてたのね」

 カマイタチ、僕は怪物になった康子さんの体を思い浮かべた。イタチのような細長い体で鎌の手をした獣。

「東京に中央って名前の魔物の任意団体があるのね。中央は基本的に魔物に人食いをやめさせて、普通の人間と共に明るい未来をあゆんで行きましょうー、という、なんか偽善的でうさんくさいスローガンを掲げてる団体なのね」

「はあ」

「二年前に蒲田市に我々中央が侵攻作戦をして、この地を制圧したのよ。幾多のカマイタチが死に、こっちの損害も馬鹿にならなかったそうだよ」

「へ、平和なスローガンの団体なのに、人死にがでるんですか」

「あはは、看板に偽り有りなんだけど、とりあえず戦争して制圧しちゃったわけ。蒲田家のご両親もその時戦死」

「じゃあ、蒲田のお姉さんはそれを恨んでレジスタンス活動を」

「やー、そうだったらもっと後味がいいんだけどねえ、本当に単なる貧困による犯罪なんだ」

「はあ」

「一族から出た戦死した見舞金とか、中央から出た補償金とかあって、鹿島家は子供三人が成人するまでぐらいのお金はあったんだ、占領政策ってやつだね。これをだね鹿島の親戚の叔父さんが盗んで逃げたんだ」

「うわあ」

「中央から来てる委員も駄目駄目でさ、鹿島家の方に目が回らなかったらしい。お金が無くなった鹿島姉はそれでもバイトとか色々して頑張るわけだ、これは本当に中央としてすまなかったと思うよ」

「鹿島家の人達は新聞配達とかやってました」

「そうそう、でもね、生活費ってのはどんどん家計を圧迫するんだわさ、おねえさんも一人暮らし始めたからよくわかるよ、うんうん。鹿島のお姉さんとしては親の敵の中央に頼るのは嫌だし、中央の息の掛かった行政サービスも受けたくないと頑張るわけだ」

「そうだったんですか」

「最初の殺人は突発的な物だったみたい、金持ちの女の子に嫌な事言われたのか、もしくはその子の財布目当てだったのか、わからないけど、とりあえずばっさりやっちゃったみたいで」

 お姉さんは指で自分の喉を掻き切る真似をした。

「それでね、カマイタチは食人の風習があって、どうも、食べちゃったと言う感じで」

「食人? 人を食べるんですか」

「魔物だからねえ、人を食べたがる奴は結構多いよ。その行為自体が魔力発生させるんだわね。水天宮の近くでは昔ちょくちょく神隠しがあったでしょ」

「は、はい、昔からときどき子供がいなくなるって聞いてます」

「魔物が支配地域を持つのは大抵人食の為なんだよ。で、鹿島のお姉さんは気が付いたわけさ、無理して働いて食べ物買わなくても、只でしかもお金持ってるかもしれない食品がこの街にはいっぱいだってね」

「行方不明の子供たちはみんな……」

 眼鏡のお姉さんは黙って頷いた。

 人食い、あの家で、康子さんと猛さんが……、麻美はどんなに怖かっただろうか……。

「犬子が僕のクラスに来たのは、麻美を監視するため?」

「そうそう、クラスで変態して暴れ狂ったら大変だってんでね。鹿島家の三姉弟のクラスに一人ずつ職員を転校させたのだよ」

「そうだったんですか」

「特に麻美ちゃんは、まだ初変態をすませてないし、こちらの切り札を置いてみたんだ。犬っちは感動してたよ、なんかクラスに良い子が多くて、あたしやることないやって」

「いや、そんなことは」

「ご謙遜には及びませんよ、川原センセ。あなたたちが居たから、麻美ちゃんの変態が避けられたと言っても過言じゃないよ。初変態は感情の高ぶりで発現する事が多くて、往々にしてその手の発現事件は血を見るんだよ。麻美ちゃんだけじゃなくて、君たちは虐めてた子の命も救ったんだ、これは誇りに思って良いことだよ」

 僕は誉められて何だか照れくさくなった。嬉しいの半分、もう半分はそうじゃないんだ、そう言うつもりでやっていたわけじゃないんだという違和感だったが、眼鏡のお姉さんに弁解しても意味がないので黙っていた。

「鹿島は……、どうなりますか?」

「こっちで引き取って何とかするわ」

「……犬子みたいな存在に?」

「いやあ、麻美ちゃんは気が弱いから荒事よりも事務のお手伝いかな、仕事は結構あるのよ」

「それは、とてもいいですね」

 心からそう思った。

「お姉さんの康子さんはどうなりますか?」

「うーん、本当はねえ、あそこで死んでくれた方が手が掛からなくてよかったんだ、中央には監獄とか無いしねえ」

「勝手な政治決着をつけて申し訳ない」

 お姉さんは吹き出して声を出して笑った。な、なんか、可笑しい事言ったかな、僕は。

「もー、川原君最高。康子さんの事もなんとかするわ、大丈夫、安心してね」

 なんとかみんな政治的に安定した場所に落ち着きそうな気配だ。

「そういうわけで、記憶を消すよ、良いかな」

「解りました」

「さ、気を楽にして、すぐすむよ」

 眼鏡のお姉さんは僕の額に手を置いた。

 ふわっとからだが浮くような浮遊感がして、それで……。

 

11

 

 僕は学校から家に帰った、今日は特に何もなかったな、と思った。

 いや、健康関係の全校調査を体育館でやったな。係のお姉さんが綺麗だった。

 冷蔵庫からアイスを出して、ベランダに座って食べた。

 団地の五階にある僕の家から、バブルタワーが見えた。犬子は今何をしてるのかな、と思った。

 なんだか犬子に凄く会いたくなった。

 何だか胸の中にぽっかり穴が空いたような気がして、僕は泣きそうになった。なにか大事な物を無くしたような、どこかへ置いて行かれたような、そんな悲しい気持ちが湧いてきて。

 アイスの上に涙がぽたぽたと落ちた。

 

12

 

 犬子が転校すると聞いたのは次の日だった。

 お兄さんのお仕事の関係で仕方がないのだそうだ。

 クラス全体がしょぼーんとしていた。

 鹿島も親戚の家に引き取られるそうで、僕のクラスから生徒が二人もいなくなる事になる。

 鹿島は今日は休んで親戚に会っているらしい。

「犬子ちゃんが居なくなると寂しくなるなあ、陽炎稲妻水の月だわ」

「それはどういう意味なんですか、マッキー」

「どれも捕まえる事ができないって意味よ」

「あたしもずっと居たいんだけどね。このクラス凄く楽しかったよ」

「カーラ君悩んでますね」

「サトシ君は悩むの好きだから。案ずるより生むが易しって言葉を知らないのよ」

「あ、先生来た」

 

 放課後、僕は水天宮公園に行った。

 水天宮公園の小高い丘の上に大きな木が立っている。僕は鞄を木の根本に置いて、うんせうんせと木に登った。真ん中あたりの太い枝が僕のお気に入りだ。ここからだと僕の街が一望出来る。

 街は夕焼けに染まって赤かった。バブルタワーだけがにょっきりと天をついて立っている。

「おーい、川原ー」

 下を見たら犬子が居た。いつぞやの野球帽姿だ。

「そこ、行っていい?」

「え、いいけど、あぶないよ」

 いや、犬子は忍者かなんかだから平気か。

 犬子はわしわしと猿のように僕のいる枝まで昇ってきた。

「おお、ここ見晴らし良いね」

「うん、僕のお気に入りの場所なんだ」

 しばらく黙って二人で街を見ていた。

 風が僕のシャツの襟を震わせて通っていった。

 言うまいと思っていた言葉が唇からこぼれ落ちた。

「いっちゃだめだ、ずっとこの街に居てくれ」

「……」

「みんなで一緒に水天宮のお祭りにいったり、スケートに行ったりしよう」

「……」

「一緒に中学に行って、高校にいって、ずっと一緒に友だちでいようよ」

「……いいなあ。そういうの」

 犬子はまぶしそうに目を細めた。

「修学旅行とか、遠足とか、運動会とか、た、楽しいことを、一緒に一緒に……」

 僕の声が裏返った。

「いつか、また会えるから、泣くな川原」

「いつかっていつだよっ!」

「川原が総理大臣になる頃かな」

「そんなの、遠すぎるよ」

「でもね、会えないよりはずっといいよ」

 犬子は遠くを見ていた。僕も遠くを見ていた。

 夕焼け雲がゆっくりと東に向かってなびいていた。

 

13

 

 犬子と鹿島が引っ越す日が来た。

 前日にお別れ会があった。

 駅で僕と犬子と花巻と片瀬の四人で東京に行く鹿島の見送りをした。

 渡田とゴリ子とツネ子もやって来て鹿島にプレゼントを渡していた。鹿島は泣いた。

「ちゃんと謝った?」

 僕は小声で渡田に聞いた。渡田は無言で頷いて、ぽろりと涙を流した。

 鹿島は小さな鞄を抱くようにもって、何度も何度も僕たちにお辞儀をしていた。電車はピイと汽笛を鳴らして、走り出した。鹿島はドアの向こうでまだお辞儀を繰り返していた。

 そのままみんな妙に黙ってバブルタワーに向かった。

 バブルタワーの地下駐車場に大きなトラックがあって、カッコイイ大学生風の兄さんが荷物を積んでいた。

「犬、手伝えよ」

「ああ、わかった兄ぃ」

「僕らも手伝いますよ」

 積む荷物はそんなに残っていなかったので、すぐ終わった。

「川原君、犬が世話になったね」

「い、いえこちらこそ」

「あはは。犬がもう、今日は川原君がどうしたって、毎日うるせーんだわ」

「兄ぃっ!!」

 犬子が赤くなってお兄さんの背中にキックを入れた。みんなが笑った。僕は赤くなった。

 みんなが想い出の品を犬子にプレゼントしていた。僕も座右の書のマキャベリの『君主論』をプレゼントした。気に入ってくれるといいんだが。

 渡田がワーっと泣きだして、犬子の胸に飛び込んだ。ゴリ子もツネ子も泣いてた。犬子は優しい目をして渡田の頭を撫でていた。

「それじゃ、みんなバイバイ。すっごく楽しかったよ」

 犬子の乗ったトラックが、ブルンと音を立てて地下駐車場を出発した。

 僕らはトラックを追いかけた。

 道路に出て、ずっとトラックを目で追っていた。遠く高速に入るまでずっと見ていた。

 ポンと肩に手が乗った。

「元気出しなさいよ、サトシ君。縁と月日の末を待てって言うじゃない」

「うん」

「きっとどこかでまた会えますよ、カーラ君」

「うん」

 良く晴れた日曜日、僕のとても短い初恋は終わった。

 そして僕たちは日常へ帰っていった。

 


 
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