それは、「悲」であった。
――悲か。
お互いに同じ文字を選ぶとは婆ちゃんにも内心驚きであった。
一刀の瞳には「悲」に相応しいものが時折うつしだされており、その評価にも納得できる部分があった。
しかし、劉協は皇帝陛下という最高の官職に飾られており、その容貌とあわせて華麗な印象をうけとるのが当然であろうと思っていた。
「これはなんでしょうか」
と、その文字と思い描いた心象とのつながりについて一刀に問いかけた。
問われた一刀は何と答えればよいか考えている風でもあり、問い詰められれば泣き出しそうにも見えた。
「いいんですよ」
と、劉協はやさしくいった。
一刀はほっとしたような表情になった。
(きっと一は、あの話を思い浮かべたにちがいない)
と、劉協はおもう。
あの話とは、新帝待望論のことである。
この時期、朝野を問わず新帝待望論で世間は沸騰しており、劉協や華琳はその渦中の人である。
とはいえ、劉協や華琳はその渦をまきおこした張本人ではなく、周りの近衛将校らが
「漢王朝征すべし」
と、沸騰しているにすぎない。
この今後の世間を大混乱に陥れる新帝待望論というのは、ごく単純な事情からでた。
傍から見れば、魏という国は奇妙である。
ほんのこのあいだまで天下に覇を布くというスローガンを掲げて呉蜀その他の勢力を突き上げていたはずなのに、呉蜀を破り天下を制すると思いきや、掌をひるがえしたように停戦をやってのけ、さらには、
――今後は三国で天下を治める。
という奇術的な外交を行ったのである。
これにより華琳の覇道がかげを薄め、変わって新帝待望論が登場してきたのである。
劉協自身は口にこそ出さないが、
――先の争いは誰のためのものだったのか。
ということを、声を枯らさんばかりに叫びたい思いがある。
「いまを見るとひとえに公ではなく私のための戦いだったのであり、天下に対し、戦死者に対し面目ない」
と、劉協はしきりに涙をこぼしたという話が漏れ伝わっている。
「先の戦いは革命ではなく、単なる権力交代である」という世間の見方は、一面的なものかもしれないが、ある意味真に迫っているともいえる。
一刀は、劉協の悲しみはここにあるとおもう。
劉協は皇帝陛下という最高の地位にありながら、供も連れずこのようなあばら家を訪れ、狩場を軽装で走り回っているようでは、その日常の存在そのものが政権に対する痛烈な批判であるといえる。
(しかし、だからといって)
と、一刀はおもうのである。
接した時間は短いが、劉協の人となりもその思想もよく理解できる。
だが、一刀は平和を愛し秩序を好んでいる。
3年前もその思いで華琳の世を見るために微力ながら力を尽くしてきた。
秩序というものは破壊よりも多分に俗なものであるということを知っている。
劉協が皇帝陛下である以上、それにふさわしい俗な装飾に身を置いてくれているほうが、秩序の維持に大切だとおもう。
(しかしこの人は栄誉ある地位に居続けるよりも、つねにそれを捨てようと構えているふしがある)
このままの行動を続ければ政権を二分してしまうような国家的不安の基に成りかねない。
「劉協さまは廟堂で私腹を肥やしている高官どもや、威張ることしか能のない役人どもとはまるでちがう」
ということが、不平不満のたまった民衆のあいだでうわさとなって伝わっており、一刀のこの不安は多少の現実感を伴っていた。
劉協の行動には別の側面がある。
このような行動をとっているのは、実はある人物のさしがねでもあった。
(すべては三国会議が始まってからのことです。
それまでは沈黙がもっともいいのです。)
この点に関して、劉協のやり方は徹底している。
沈黙は、劉協にとって巨大な政治行為であった。
その沈黙を徹底させるためにも洛陽を離れようとした。
洛陽にいては誰かが訪ねてくる。
会わざるを得ない者であれば、多少なりとも意見を言わなければならないかもしれない。
そうすれば、その意見が拡大歪曲されて世間に聞こえ、新帝待望派に無用の刺激を与えかねない。
そのための名目が「鹿狩り」なのである。
鹿狩りは公認の行為である。
要するにこの時期「陛下は鹿狩り中」という札を掲げることによって、各勢力からの政策案が上程されることをふせぎ、政局が動くことを止めていたのである。
この間、魏に対する蜀の参謀たる人物についてふれておかなければならない。
――大国はつねに武力解決しようとする。
――小国はつねにあわれである。
――どんな約束も小国を守ってはくれない。
と、雛里はおもう。
このとき、主君である桃香のことを考えていた。
雛里は桃香からさんざん聞かされていたことだが、桃香は約束というものの信者である。
桃香は苦しむ人々の世を救いたいという想いから立ち上がった。
しかし想いに力が届かず、魏や諸侯に振り回されひどく苦しんだが、三国同盟を結ぶにおよんで
「自分の信じるものがみんなにとどいた」
と大いによろこび、この約束がみんなを守ってくれると信じている。
「小国がみずからを守ろうとするには、ひたすらその実力を培うしかないのです」
と、雛里は考える。
雛里は軍政面における比類なき実務家であり、議論よりもつねに実務的な意見をもっている。
蜀にまで新帝待望論が伝わってくると、「魏に行き、風を訪ねたい」とおもったが、遠慮して言い出せなかった。
なぜ風かといえば、それは彼女のかんである。
しかしながら、この問題で魏において誰が鍵を握っているかということをかんで知っていた。
そしてこの夜、風からの使いが直接自分にきたことにやや驚き、ついに訪ねることを決意したのである。
夜が更けた。
「今夜は泊まっていきますか」
と、婆ちゃんが優しくいった。
一刀が初めて会った時もそうだが、愛情のような優しい感情が部屋じゅうを満たすような感覚にとらわれた。
劉協はすでにまどろんでおり、この一言で陶酔したかのように小さくうなずいた。
他方、この狭い部屋で3人寝るということに一刀の心中は多少穏やかではない。
すでに婆ちゃんは寝る支度を始めている。
その時一刀は頭の中になにかの気配を感じる。
華琳がにらんでいた。
「あなたは――」
と、冷笑した。
一刀はこの想像で死を覚悟した――
結局一睡もできず、明朝顔面蒼白になっているのが見つかり、少しだけ笑われた。
……つづく
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続きです。
ほんの少しでも楽しんでいただければ幸いです。