No.1092988

それでは会議を始めます

籠目さん

※2020/07/12にPixivへ投稿した作品をTINAMIへ移行したものです

ワンライなどで書いた小話まとめ

目次↓

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2022-05-29 17:06:15 投稿 / 全7ページ    総閲覧数:197   閲覧ユーザー数:197

 

恋する連想ゲーム

 

 ある一つの要素をきっかけとして、連想ゲームのように様々なことを思い出すというのは、ままあることだ。例えば自分でいえば魚というと付き合いの関係もあってウツボが出てくるし、そこから連想してあの二人のことも思い出される。あの二人を思い出すとラウンジのことや、学園のこと、故郷の海のことなど、とにかく色々な記憶に紐づいていて、それらが芋づる式にずるずると付随して思い出される。

 だから、決して間違ったことも、やましいこともしていない。出先で青い口紅をたまたま見かけて、そこから連想される人がいて、つい手に取って、つい買って帰ってきてしまったとして、それは全然、やましいことなどではないのだ。そしてその口紅を持ったままモストロ・ラウンジのVIPルームに来てしまい、せっかく買ったから、物は試しだと塗ってしまったとして、そこに丁度件の人物が現れたとして、決して、決して間違ったことはしていない。

 

「……あの」

「ちょっと黙っててください」

「あんまりにも理不尽」

 

 すん、とした顔で、イデアさんは床に正座をした。名誉のために言っておけば、僕の指示などではない。あくまで本人が、自主的に、床に正座をしたのだ。

 

「なぜノックをしないんです」

「いやしましたけど……アズール氏返事がないから、一応様子見ようかと」

「……それは」

 

 それはそうだ。大変正しい行為だ。僕だってそうするし、なんだかんだと面倒見の良い彼であればなおのこと。

 

「ありがとうございます」

「いや体調崩してるとかじゃなくてよかったよ」

「後日改めていただいても?」

「それはちょっとよろしくないでござるな……」

「そうですよね」

 

 ぼんやりと燃えるように発光する髪を、悔し紛れに睨み付ける。彼相手に、ゲーム以外ではちょっと珍しいくらい劣勢だ。大体、会う約束を取り付けたのは僕の方で、イデアさんはただ約束通りにラウンジのVIPルームに訪れただけだ。

 

「新しいセキュリティシステムを盛り込みたいとかなんとかでしたっけ?アズール氏の要望」

「そう、そうなんですけどね」

「なに」

「なんでそう平然と話を進めようとしてるんです?」

「えっそこ突っ込む?スルーした方がいいかと思って必死にスルースキル行使している拙者の気持ちは無視?なんでくちびる青いのとか聞いていい感じですか?」

「いや……」

 

 ほら、とイデアさんが、珍しく心底呆れたような顔をした。ホログラムディスプレイの青い光の向こう側で、ふ、と青いくちびるがため息を吐きだす。その光景を見て、今は僕も同じくちびるの色をしているのだな、と思い出してしまったのが駄目だった。

 じわじわとこみ上げるもので、顔が熱くなっていく。この距離ではごまかしようがないのなんて分かっているけれど、悪あがきとして顔を覆った。手袋に口紅がつくと落とすのが大変だから、とどこか冷静な自分が、しっかりくちびるだけは触れないようにしているのだから余計にみじめだ。

 

「あー、アズール氏、あの……だ、大丈夫です?」

「おきになさらず」

「いや気にするでしょ」

「そうですよね……」

 

 もう今日は駄目だ。まず混乱して何も口にできなかったのが最悪だった。その後だって、開き直って似合っているかどうかを訊ねるくらいしてしまえば、いつも通りの自分を演出できたのだ。ここまで動揺を表に出してしまっては、リカバリも難しい。

 

「すみませんイデアさん。折角お呼びしたのに申し訳ないんですが、あと五分だけ待っていただけますか」

「あ、はい」

「それまでにちょっと……いろいろ整理をつけるので」

「大変ですな」

 

 まあいいよ、と妙にやわらかい声で返事をされて心底いたたまれない。いつも通りに煽ってくれればいいのに、そうもしないでおとなしくしているのだから余計に調子が狂うのだ。そう考えるとイデアさんも悪いのでは?と責任転嫁してしまいそうになるけれど、彼は悪くない。というか、別に誰も悪いことはしていない。

 ふう、と肺の中に溜まりに溜まったよどんだ空気を吐き出して、ポケットティッシュを取り出した。

 

「え」

「え?」

「あ、いやなんでもないです」

「なんでもないことないでしょう」

「いや本当になんでもないんだって、あの、どうぞ」

 

 さあどうぞと言われると、なんだかやりづらくなってしまう。結局ティッシュは一旦机の上に、目を逸らして冷や汗をかいたまま固まってしまったイデアさんを、じっくり、圧力をかけるように眺める。

 

「イデアさん」

「ヒイ」

「なにかコメントがあるなら今、どうぞ」

「だって触れてほしくないんでしょ……」

「もう大丈夫です。整理しましたので」

「なんてやつだ」

「なんとでも」

 

 ふん、と鼻を鳴らして、彼の動きを待つ。僕よりも大きい図体をしておいて、どうしてこうも小動物のごとくぷるぷると震えていられるのだろうか。惚れた欲目か、だんだん本当に小動物に見えてくるのでやめてほしい。

 

「……あの、さあ」

「はい」

「アズール氏が、青つけてるの良いなって、似合うなっていうか……あの、嬉しくなっちゃって」

「うれしい」

 

 こくりと小さく頷いた口元が、機嫌よさげに歪む。

 

「……ぼくのこと思い出して塗ってくれたのかなって思ったら、そりゃ悪い気はしないでしょ」

「そ、……うですか」

「そうですよ。……はいこの話終わり。アズール氏もう口拭いていいよごめんね、なんかもうほんと、あの、いたたまれないんでさっくりお話ししよう。そして今日は早急に帰らせてほしい……いやまって本当に恥ずかしくなってきたちょっと拙者にも五分ください」

「だめです」

「あんまりにも理不尽」

 

 口ではだめだと言いながら、わっと顔を覆ったイデアさんの手を無理やりどけるようなことはしなかった。自分だって放っておいてもらったのだからお互い様だ。ただ、髪の先が羞恥に赤く燃え盛るのは隠さなくていいんだろうか、とぼんやり思いながら、指摘もせずにしばらくその姿を見つめていた。

 

口実なんてなくても

 

「イデアさん」

「だ、」

 

 だれ、と上げそうになった声は、喉から飛び出す寸前でなんとか留めることができた。

 起きたころには涼しいくらいだった寮内の気温は、いまやすっかり灼熱だ。学園内の空調を司っていた魔法石が盗まれたのだという情報のもたらされた寮長会議の最中でさえ、僕はとにかく寮内に置かれた機械類全てがオーバーヒートを起こさないように、寮生に指示を飛ばしまくっていた。こんなに働くのはいつぶりだろうか。

 本当ならコンピューター全てを一旦停止させた方がいいのだろうけれど、そうすると今度は生活に支障が出る。どうしようもなくなって、寮生に氷魔法と風魔法を組み合わせてクーラーのようにしてもらい、なんとかしのいでいるような状態だ。

 

「アズール氏、寮は?」

「とりあえず水ためてどうにかしてます」

「なるほど……」

 

 相変わらず頭のいい子だな、と素直に思った。学業も優秀なのは知っているけれど、既存の魔法を組み合わせたり、急場の対応がうまかったり、応用の効く頭の良さだ。世間に出てもきっとうまくやっていくだろう、僕と違って。

 

「それで、なんでわざわざこんな暑いところに」

「そうでもないですよ。思っていたより涼しいです」

「ありがと」

 

 アズールはブレザーもベストも身にまとっていなかった。普段ぴっちりと首元までとじられているボタンはふたつ外され、ネクタイも緩んでいる。袖もすっかりまくり上げてしまっているから、いつもは見えない白い腕がやけに眩しい。

 

「これ、おとどけものです」

「おとどけ」

「どうせお昼も夜も食事せずに対応に駆け回っているかと思いまして。ラウンジの料理を配達に参りました」

「あっえっ、アズール氏天才か?」

「ありがとうございます。秀才です」

「知ってた……」

 

 上品な仕草で持ち上げられた何の変哲もない紙袋が、今は光輝いて見えた。

 アズール氏の予想どおり、僕は昼から経口補水液か水くらいしか口にしていなかった。暑さで食欲が失われていたのもあるし、そもそも食事自体、普段からそこまで関心のある方じゃない。今日はもう駄菓子とか、ゼリー飲料でも流し込んでしまおうと思っていたところだった。

 それが、なんと夕食のお届けである。

 モストロ・ラウンジの食事が美味しいことは知っていた。商談のため、半ば無理やり呼び出されるVIPルームで供される軽食やドリンクは、いつだってマジカメの中でしか見たことがないような色彩と、値段相応の素晴らしい味をしていたから。

 

「ありがと、ほんとに助かる。アズール氏天使、いや神」

「はいはい。で、僕の分も持ってきてしまったんですが一緒に食べませんか」

「ワア」

「なにがワアですか。食べるんですか?食べないんですか?」

「食べる、食べるよ食べます。ただその見ての通り今部屋の中メチャクチャなんですわ。どこで食べようかなって」

「ああ」

 

 まるで今気付きました、というような白々しさで、アズールはぼんやりとした声を出した。あるいは、本当に今気が付いたのかもしれない。オクタヴィネル寮だって大変なことになっているらしいから、彼が消耗している可能性は十分にある。

 

「あ」

「どうしました」

「や、談話室、とか、どうかなって……あそこ多分、寮内で一番涼しくなってる、はず」

「いいんですか?」

「まあ背に腹は代えられないといいますか、ここまで来ておいてもらって、クソ暑いとこでご飯食べさすのもさ」

 

 そういうわけだから行こうか、と自分の気が変わらないうちに動き出す。アズールがちょっと驚いたような顔で慌ててついてきたから、手の中の紙袋も取り上げてしまう。今のは恋人ポイントが高かったんじゃないだろうか。

 

「意外ですね」

「……なにが」

「いやイデアさん、人の沢山いるところ苦手でしょう。自分のところだからって、談話室そうそう行かないらしいじゃないですか」

「まあ、今の時間だってそう多いわけじゃないし、必要になれば行くよ」

「会議はタブレット参加なのに?」

「それを言われるとぐうの音も出ませんなあ」

 

 二人してのそのそと談話室に入り込むと、涼しいとは言えないまでも、部屋よりは随分と温度の低い空気がふわりと首筋をかすめた。汗の滲んだ皮膚が冷やされて、つかの間の清涼感がある。

 あちらこちらにぐったりと伸びた様なイグニハイド生を横目に、僕らは空いている机を陣取った。紙袋のなかから、サンドイッチとスープ、飲み物のカップまで出てくる。

 

「空間拡張してる……」

「せっかくなので。持った感じも重くなかったでしょう?」

「やっぱアズール氏優秀だね」

「どうも。優秀ついでにひとつお話が」

「おや?」

 

 善意で食事を持ってきてくれたのかと思ったら、どうやらそれだけではなかったらしい。無念。そりゃあ二人で食事がしたかったから、などと宣うような殊勝なタイプではないけれど、少しばかり期待はしていた。

 

「ドローン作れませんか?」

「えーっと、何用?」

「中継用です。潜入の様子を中継できないかと」

「作んなくてもあるよ」

「なんでですか?」

「いや趣味でちょっと……」

 

 後で引っ張り出すね、と約束をして、とりあえず目の前のサンドイッチにかぶりつく。シンプルなBLTサンドなのに、どうしてこうも美味しいんだろう。ここまで運ぶのにパンがトマトの水分をすってべしょべしょになるようなこともないのは、きっと料理の腕がいいのだろう。

 

「で、対価なんですが」

「なにがいいかなあ」

「この食事でどうです?」

「食べたあとに言う?まあいいよ。折角アズール氏とふたり……ふたり?ですし」

「では、契約成立、ということで」

「……うん?」

「なんです」

「なんでも」

 

 にっこりと微笑んだアズール氏の、耳の縁がほんのりと赤いことに気が付いてしまって、正直に言えば内心めちゃくちゃに盛り上がっていた。この反応、きっとドローンの方がついでだったのだろう。かわいいなあ、と思うけれど、素直に口に出すと怒られそうな気がしたのでスープと一緒に飲み込んでしまった。

 ジャガイモの冷製スープがひんやりと喉を通るのが快い。さて、商談も終わってしまったけれど、食事のあとも彼を引き留めるためには何をすればいいのだろうか。ラウンジのマークの入ったプラスチックのカップを抱え込む。食事の感想を述べながら、頭の中ではそのことばかりを考えていた。

 

掴み損ねたタイミングのこと

 

 付き合う前から換算すれば、大体二桁に乗ろうかという回数は重ねている自負があった。

 デートの話だ。

 部活も抜きに待ち合わせ、イデアさんの部屋でゲームをするというこれは、いわゆる世間一般で言う所のお家デート、というやつではないだろうか。自惚れではない。勘違いでもない。彼は確実に僕のことを意識していたし、出不精どころか引きこもりと言っていい彼が、わざわざ寮を出るところまで見送ってくれるのだ。これをデートと呼ばずして何と呼ぶのか。

 そう、だから、考えたのだ。付き合い始めた今、そろそろ恋人の段階というものを、ひとつステップアップしてもいいのではないかと。

 机に置かれた目標を確認する。白い肌、長い指先。爪周りは乾燥で少々荒れてはいるが、僕の勧めでハンドクリームを塗りだした今は、大分整っているといってもいいだろう。手汗が、と逃げをうたれて繋いだことこそないものの、ごくまれに触れる肌はひんやりと冷たく、心地の良い温度をしていた。

 下調べも万全だ。まず手を繋ぐタイミング。調べたところ、付き合う前なら二、三回目のデートで、付き合い始めたのならば最初のデートで手を繋ぐのがいいとあった。勿論個人差も考慮済みだ。イデアさんは大変奥手であるからして、付き合い始めてからも少し間を置いた方がいいだろう。今日は付き合い始めた後、部屋に招かれてから三度目。タイミングとしては完璧ではなかろうか。

 そもそもなぜ手を繋ぐのか、勿論、理由についても考えてある。リラックス効果がある、動物学的にも触れたいと思うのは自然なことだ、あなたに心を許しているからこそ触れたくなるんですよ、等々。勿論中には触れたい、という欲求そのものがない人もいるだろうが、イデアさんに限って言えば欲求自体は備わっていることを確認済みだ。どう確認したのかについては企業秘密とする。

 とにかく、そんな風に言い訳を準備して、タイミングを見計らって、けれど僕は一向に彼の手に触れることができないでいた。

 

「アズール氏」

「はい」

「さっきから上の空ですが大丈夫です……?体調不良なら、その、拙者のベッド使ってもいいですし、それとも寮まで送ろうか」

「いえ、すみません。体調不良では」

「そう?」

 

 ううん、と悩んだイデアさんが、目の前に並んだカードを眺める。二組のトランプを利用した神経衰弱。何かの拍子にお互いの記憶力が良いの悪いのという話になって、じゃあちょっとやってみようか、と白熱した流れのままに始めてしまったのだ。

 

「えーと、これ、と……」

 

 ゆらゆらと視線がカードの上をさまよう。煽るような笑みも、怯えような表情も浮かべていない、本当の意味で真剣な顔をしているイデアさんというのは、なかなかに貴重だ。鋭いクロムイエローは鉱物めいた冷たさで、黙っていると迫力がある。個人的にはちょっと不機嫌そうな顔が一番似合っていると考えている。

 

「これ?あ、」

「残念ですね。こちら、と、こちらです」

「ああー……」

「上の空だなんて、イデアさんの方が調子が悪いのでは?」

「ぐう」

 

 目当てのカードを一組揃え、僕のターンは続く。ぺらりと当てもなく捲り、出てきたのはスペードのキングだ。まだ恐らく、一度も裏返されていない絵柄だった。勘に頼ってもう一枚捲り、ハートの5が出てきたので裏向きに戻した。これだけ枚数があると、覚えようが覚えなかろうがゲーム自体を終えるのが一苦労だ。

 

「次イデアさん、どうぞ」

「ん……」

「イデアさん?」

「は?!あ、はい、うん、僕の番ね。うん」

 

 ごめん、と小さく謝って、イデアさんは俯いてしまった。ぼんやりと何かを考え込んでいるかのような表情。この分では僕の捲ったカードも見ていないに違いない。

 

「上の空なのはどっちですか……。もしかして、イデアさんが体調悪いのですか?」

「いやいやいや、日付変わるころには寝たし、陽キャにも絡まれてないし、すこぶる快調ですぞ」

「絡まれたら駄目なんですか」

「体力使い果たしちゃうから……」

「もう少し体力付けた方がいいのでは?」

「善処します。……ああやっぱダメだあ、はいアズール氏どうぞ」

 

 ぺろ、と捲られたカードはどちらも見覚えのある図柄で、けれど彼はそれにも気が付いていないようだった。何か悩みがあるのか、それとも新しい発明でもあったのか、一度でいいからその頭の中を覗いてみたいものだ。

 

「……悩みであれば、相談にのりますよ」

「エッいやいや、対価に出せるもんないし」

「恋人から対価むしり取る様な血も涙もない男だとお思いで?」

「商売に関してはむしり取れるだけむしり取るような男だとは思ってるよ……」

「チッ」

「こわ」

 

 軽口をたたき合いながらカードを捲り、勝負は僕の勝ちだった。釈然としない思いでカードをまとめているうちに、スマートフォンがアラームを鳴らす。帰り時間を忘れないように、あらかじめ設定しておいたものだ。

 

「帰り?」

「はい」

「その、じゃあ、寮の玄関まで送っていくから」

「お願いします」

 

 二人して立ち上がって、イデアさんの部屋を出た。この寮の外は相変わらず暗く、時間の感覚を忘れそうになる。

 ゲームが白熱してしまったせいで、手は繋げずじまいだった。次の機会は絶対に逃さない、という強い意志を込めて、イデアさんの白い手を見つめていると、ふ、とその手が僕の方へと伸ばされた。

 

「あの、さ」

「はい」

「短い距離なんですが、手、とか、繋いでもよろしいでしょうか」

 

 差し出された指先が小さく震えているのが見えて、それでもう駄目だった。ぐわん、と目眩がするほどに勢いよく、血ののぼった顔が赤くなるのを感じる。耳まで熱く、なんとか深呼吸をして差し出した手は、みっともないほど手汗に濡れていた。

 ぎゅう、と力強く指先が握られて、そのままゆっくりと廊下を進んでいく。他の人がいなくてよかった。もし見られていたならば、さぞかし不振だったことだろう。

 

「さっき、さ、ゲームのとき」

「はい」

「どうやって手つなごうかって、そればっか考えてて、いやほんとに気持ち悪くて申し訳ないんだけど、でももう考えだしたらそればっかりになっちゃって」

「イデアさん」

 

 どんどん早くなっていく言葉を止めたくて、言うことをきかない舌で何とか名前を呼んだ。最初の音がほんの少し裏返ってしまったのなんて、気にしている余裕もない。

 

「僕も、同じこと考えていましたので」

「へァ」

 

 奇妙な鳴き声を上げた彼の髪の先が、ちり、と赤く染まる。

 本当に、誰もいなくてよかった。

 ほう、と息を吐き出して、僕の方からも手を握り返す。いつもなら長いくらいに感じる廊下が、今日はやけに短く感じた。

 

疑似的海中遊泳

 

「明かりをね、全部消すんですよ」

「はァ」

「で、バスタブに頭から入って、それでしばらく沈んでます」

「うーん人魚」

「人魚ですから」

 

 部室に集まって、いざ戦いをと思ったところだった。アズールがものすごく厳めしい顔をしながら、仕事が終わっていないんです、と言い出して、迫力負けをした僕は彼がパソコンを開くのを許してしまった。休んだっていいのに、律儀な子だなあと感想を口にしたら、じっとりと恨みがましい目で睨み付けられたので、慌てて口を閉じた。

 そうして仕事がひと段落ついたアズールに、たまたま、思い出したようにストレスの解消法、なんてものを聞いてみたら、返ってきた答えは到底人間の真似できるものではなかった。

 

「それってさあ、なんか、海の模倣?というやつなんです?」

「蛸壺の概念です」

「蛸壺の概念」

「狭くて暗くて、あと冷たくて。ひとりだし、落ち着くんですよ」

「へえ……」

 

 前から思っていたけれど、この子の属性はちょっと僕に近いものを感じる。みんなでワイワイ、よりはひとりで静かに、の方が好きだし、アウトドアより圧倒的にインドア。集中すると案外、そればかりが目に入るタイプ。なんかの拍子にオンラインゲームにはまったりなんかしたら、比喩でもなんでもなく、本当に一日中のめり込んでいそうだ。

 

「蛸壺って外見えるの?」

「海底に置いてるので見えるのは水の中だけですね。時々頭出してみて、地上から海底まで光が差してくるところとか……綺麗でしたよ。光がね、筋になって降ってくるんです。それがゆらゆら揺れていて」

「説明だけだとすごい幻想的だね」

「まさしくそうです。そのあたりの再現性は求めだすとキリがないので……結局のところ、海が恋しいということなんでしょう」

「ふうん」

 

 結局、アズールからストレス解消法の話を聞いているだけで、部活は終わった。お互いふらふらと寮に帰り、僕はそのままラボに籠った。最低限の水分と食料を機械に触れないところに置いて、作業を始める。次のボードゲーム部の活動は二日後だから、それまでには完成させたかった。

 

 

 

「これ」

「はあ」

「今度さ、お風呂に潜るとき、それバスタブに投げてみて」

「えっなんですこれ」

「ひみつ」

 

 黒くて丸い、一見するとただの半透明のプラスチックボールだ。よく見ると中には映像を投影する機械が入っているのがわかるんだけれど、アズールの知識ではそこまでたどり着けないはずだ。

 

「危険なものではないんですよね」

「アズール氏、拙者がそんなことするような人間だとお思いか?ていうか危害加えたら犯人丸わかりなんだよなあ」

「それもそうですね……イデアさんが万一僕に攻撃しようと考えたら、もっと陰湿な手を使ってくるでしょうし」

「だから攻撃しないって」

「人生何があるかわかりませんよ」

 

 ふんふんと機嫌よさげに、アズールは件のボール状の機械を眺めている。詳しい説明を求められるだろうと思って部活に来たから、今の中途半端な説明で納得してくれているのが不思議な気分だった。

 

「じゃあ今日あたり早速使ってみますね」

「今日?なんかストレスがおありで?」

「いや別に。ただ気になるじゃないですか。それにいざバスタブに引きこもろうって時に、わざわざ思い出せないと思うんですよね」

「ああー……」

「でも使ってみていいものであれば、覚えておけるかなと思いまして」

 

 そうやってちょっと照れたような顔をするもんだから、なぜか僕まで照れてしまった。いやなぜか、ではないのだけれど。理由なら、とうに分かり切っているのだけれど。とにかく、二人して向かい合って照れているうちに、部室の空気は妙な具合になってしまった。

 

「え、ええと、なんか、あの、ゲームします?」

「そう、そうですね!単純なものがしたい気分です」

「じゃあマジカルライフゲーム」

「単純の基準がおかしい」

 

 まあまあまあ、となだめながら、久しぶりに取り出すので、うっすらとほこりを被ってしまったマジカルライフゲームの箱を、なんとか棚から引っ張り出した。ゲーム用のシートを開き、駒をセットし、諸々の小道具を準備する。本当は複数人でやるゲームなんだけど、アズールはまだ僕としかプレイしたことはない。それがいつだって、小さな優越感を生んでいた。

 

「じゃあやりますか」

「今回こそは負けません。……いや、あなたに大差をつけて勝ってみせます」

「ふうん?できるもんならやってみてくださいなアズール氏ィ。ま、無理だと思うけど!」

 

 我ながら台詞が三下だ。けれどアズールは、それでも充分に煽られてくれた。ぎ、と音がしそうなほど歯を食いしばって、ぎろんと睨み付けてくる。獰猛な顔だ。僕以外だと、精々あの双子くらいしか見たことのないような。

 ゲームは結局、僕が負けた。運に見放されたに違いない。アズールは分かり辛いけれどめちゃくちゃに喜んでいて、喜色満面の顔で寮へ帰っていった。ゲームの勝敗とは別に、彼が嬉しいと自動的に僕も少しだけ嬉しくなってしまうので、僕もそれなりに気分よく、寮に帰ることができた。

 

 

 

 夜のことだ。

 久しぶりにバスタブいっぱいに湯を溜めた僕は、アズールに渡したのとまったく同じボールを手にして、浴室の明かりを消していた。ボールの沈んでいく、とぷん、という音がいつもより反響しているように聞こえる。ボールを追いかけるようにして、僕もバスタブにつかる。息を目一杯吸い込んで、そのまま湯の中に沈み込んだ。

 世界の何もかもが、遠かった。水の中には音もなく、見るもの全てが歪んでいた。

 傍らのボールが、ぶうんと低く唸り、光り始めた。幾筋もの柔らかな光が水面を越して、天井にまで届く。ゆらん、と水の揺れるのに合わせて、光も踊るように揺れた。ほう、と水中にいることも忘れて、僕は息を吐き出してしまった。当たり前に苦しくなって、慌ててバスタブの縁を掴み、体を持ち上げた。

 何度か咳き込み、少し呼吸の落ち着いたところで、もう一度潜って、今度は苦しくなる前に顔を上げた。アズールが言っていた海の中の光景とは大分違うだろうけれど、少しでも海に近づけばいいと作ったアイテムは、製作者ながらに中々上出来だ。

 今日の夜早速、と言っていた彼は、果たして使ってくれただろうか。果たして、僕は同じ景色を見ることができているだろうか。自分の手元に予備を残していたのは、そういう理由からだった。

 自己満足の塊みたいなものを押し付けておきながらこの想像、面倒くさい上に気持ち悪いな、と自嘲する。

 生きている間に一度くらいは本物を見てみたいな、と柄にもないことを考えながら、僕は最後に一度、と冷め始めた湯の中に潜った。

 

傘の内側、二人の世界

 

「イデアさん知ってますか」

 

 部活の後輩がこう切り出すとき、それは大概の場合、どこから仕入れてきたのかもわからない雑学を披露したがっているときだ。

 窓の外にはざぶざぶと雨が降っている。たたきつけるような強さはないけれど、外の景色は白く煙っている。外廊下はもしかすると、雨が降り込んでしまって通れないかもしれない。

 

「なに」

「人の声がいちばんきれいに聞こえるシチュエーション」

 

 僕はちょっと考えて、それから首を横に振った。決して得意げな顔のアズールがちょっとかわいい、いや面白いから、などという理由でなく、本当に僕の脳内に該当情報が無かったのだ。均等に、左右対称に上げられた口角をもっと上げて、すっかりあくどい笑顔を作ったアズールが、チェスの駒をひとつ動かした。

 

「知らないっすわ。ていうかそれ聞いて使う場面もないし」

「残念な人ですねえ。こういう雑学って、あなたのような人こそ詳しいのかと思ってました」

「オタクはみんな雑学が好きだから……。でも別に、拙者の人生でそういうの、活かせるタイミングもないし、脳の容量の無駄なので」

「ロマンがない人だな」

 

 ち、と舌打ちを零したアズールの目の前で、ポーンをひとつさらっていった。いつもなら犯さないような凡ミスを、今日に限っては連発している。手ごたえのないゲームだ。かといって、調子が悪いのかというと、どうもそうではないようだ。レンズ越しの瞳は、続きを話したくて仕方がないように爛々と輝いている。

 

「ロマン……はまあ、理解しないわけじゃないけど、だって工学のどこで使うのさ?」

「なにがどう作用するか分からないのが知識じゃないですか」

「オルトにその機能でも搭載する?」

「それはそれでありでは。あなたの弟さん、ずいぶんと可愛らしい声をしていらっしゃいますし」

 

 それは確かに、兄弟ながらにオルトの音声は中々いいものを用意できたと思っている。柔らかな高い声は反感も買いづらく、この学園の生徒に広く受け入れられているようだ。時々僕が驚くような相手と親睦を深めていたりするので、誇らしいような、面白くないような、微妙な気持ちになる。

 

「で、」

 

 ポーンをもうひとつ取って、アズールはようやくゲームに集中したようだった。まだ序盤とはいえ、ここからリカバリするのは難易度が高くないだろうか。

 

「その、人の声がいちばんきれいに聞こえるシチュエーション、とやらは、どこなの」

「おや気になるので」

「そりゃまあ……君があんなドヤ顔で話したがってることだし……」

「ふふふ」

 

 アズールは笑って、自分の駒を動かした。先ほどまでの集中を欠いたプレイとは違う、鮮烈な一手だ。どうぞ、と促されるとおりに、僕も駒を動かす。

 

「どうしましょうかね」

「ええ……」

「だってイデアさん、必要ないんでしょう?」

「えっもしかして根に持ってらっしゃる」

「そりゃあもう」

 

 にっこり、という擬音が今にも見えてきそうな顔で、アズールは笑っている。表面だけだ。内側には、づぐらぐら煮え立つような苛立ちを感じているに違いない。完全に僕のせいとはいえ、難儀な性分をしているなあと他人事のような感想がうかぶ。

 

「どうしても、というのなら教えてあげます」

 

 得意げに眼鏡を上げて、足を組んで、僕だからいいけれど、他の三年生や四年生にやったら顰蹙を買いそうな仕草だ。僕個人の感想で言えば、似合っているなあというぐらいのものだ。

 

「どうしてもアズール氏が話したい、の間違いでは?」

「そうとも言えます」

「おや素直」

「正直に言えば話し出すタイミングを失ってしまったので何かとっかかりが無いかなと思いまして」

「なにしてんの」

 

 アズールらしくない発言だ。もしかして、気が付いていないだけで体調がよくないのだろうか。ぐ、と身を乗り出して顔色を確かめると、心底慌てたように体を仰け反らせて逃げられてしまった。

 

「なんです?!」

「ごめ、ごめん。ちょっと体調悪いのかと思って。アズール氏らしくないミスはするし、そんな素直な発言するし……いや本当に大丈夫?今日この辺にしとく?」

「あ、ああ、そういう……いや、大丈夫ですよ。集中を欠いていたのは申し訳ありません。体調もこの通り、特に問題はありません」

「ならいいんだけどさあ」

 

 あんまり問い詰めてしまうと、アズール氏の機嫌はどん底まで落ちてしまう。教師の前ではあんなにいい子ぶっちゃってるくせに、僕の前では被る猫のひとつもないらしい。ただ僕は実のところ、それがちょっと嬉しい、とも思っている。アズールに気を許してもらえているみたいで、何とも気分が良いのだ。

 

「で、さっきの話ですが」

「続けるんだ」

「続けます。人の声がいちばんきれいに聞こえるシチュエーション、なんでも相合傘の中、らしいですよ」

「……あ、そう」

 

 ざんざんと降る雨の音が、一層強くなった気がした。

それを僕に言って一体どうするつもりだったんだろうか。今後の人生で相合傘なんかする予定があるはずもない。やっぱり脳の容量の無駄だった。くさくさした気分で、最初に取ったポーンを手の中で回す。

 

「でもねえイデアさん」

「はあ」

「実践してみない事には本当かどうかなんてわからないじゃないですか」

「……はあ」

 

 落ち着きなく目を逸らすその仕草は、随分と珍しい。部室に流れる空気が、妙な甘さをはらんでいる気がする。

 

「だからね、イデアさん。僕と実践、してみてくれませんか」

 

 ざん、と窓の外で、一際大きく雨の音がした。しんと静まり返った空気に、時計の秒針が動く音ばかりが大きく響いている。じわじわと赤く染まるアズールの頬を見つめているうちに、僕はようやく、今言われた言葉を理解した。

 

「……エッそれが言いたくてここまで集中できなかったの」

「うるさいないいじゃないですか。なんです、嫌なら嫌と言ってくれませんか」

「いや、あの、……ああこのいやはアズール氏との相合傘が嫌なのではなく」

「答えは簡潔に」

「よろしくお願いします」

 

 即座に机スレスレまで下げた頭に、小さな笑い声が降ってくる。雨みたいだ、なんて詩的な表現は、流石に恥ずかしくて口に出さないけれど。

 

「しかしアズール氏あれだね」

「なんです」

「難儀な性分してるね」

「余計なお世話ですよ」

 

 ふん、とそらした横顔の、耳の縁まで真っ赤に染まっている。本当に難儀な性分だ。それがまたかわいいとかそういう話は、全部まとめて帰り道の傘の中でしたって、きっと許されるはずだ。

 

雨が呼ぶ

※ほんのりホラー

 

 雨が降っている。

 校舎の外、窓ガラスに打ち付けるように、雨が降っている。

 アズールは一足早く着いた部室で、もう三十分もイデアを待ち続けていた。機械類に強いイデアには珍しく、アズールのスマートフォンにはなんの連絡も入っていない。メッセージを送っても既読にはならず、電話にも出ない。余程の緊急事態だろうかとも思ったが、そうであれば噂話のひとつくらいアズールの耳に入っているはずだった。

 ざんざんと降りしきる雨は、校舎の影も、中庭の木も、全てを白く煙らせて、まるでこの教室がただひとつ、世界から隔離されてしまったような錯覚をもたらした。分厚い硝子や石造りの壁に阻まれているから、雨音は随分とくぐもって聞こえる。

 アズールはもう一度、手の中の端末を確認し、それから部室の扉に視線をやった。イデアからのアクションは、まだ何もない。

 あと十分待って何も反応が内容であれば、今日はもう帰ってしまおう。そう決めて目を閉じた。

 雨が降っている。

 校舎の外、窓ガラスに打ち付けるように、雨が降っている。

 雨音に紛れて、誰かが名前を呼んだ気がした。

 

 

 

 外廊下を通ったのは気まぐれだ。屋根がついているから雨が降り込むこと自体はないが、やはり気分的には室内を通りたい。そもそも鏡舎へ向かうのには通る必要のない場所だ。それでも訪れたのは、本当に気まぐれ、としか言いようがなかった。

 もしかしたら、虫の知らせ、だったのかもしれないと今ならば思う。

 アズールの数メートル先に、炎が青く燃えていた。来ない来ないと思っていたら、こんなところにいたらしい。ぼんやりと中庭の方をながめて、なにをするでもなく突っ立っている。

 

「イデアさん」

 

 当たり前のように名前を呼んだ。事情を聞いて、文句のひとつでも言って、対価になにをもらおうか、なんてことまで考えていた。

 けれど、イデアは振り返らなかった。

 まるで聞こえていないように、微動だにせずに中庭を見つめている。豪雨の描く白い筋のような軌跡以外、何も見えないはずの景色を、ただただ見つめている。

 

「……イデアさん?」

 

 一歩近づいて、もう一度名前を呼ぶ。それでもイデアは振り返らない。

 べっとりと、湿気た空気がアズールの首筋を撫でた。衣服の隙間から入り込み、じとりと肌を湿らせていく。うざったく張り付いたシャツを肌から引きはがして、少しでも冷たい空気を取り入れようと仰ぐように動かす。

 

「これ、ちょっとまずいやつですかね」

 

 雨が降っている。

 中庭の土の上に、石造りの壁に、叩き付けるように雨が降っている。

 雨音に紛れて、誰かが名前を呼んでいる。

 遮るもののない雨音は、ざんざんと勢いも激しくアズールの鼓膜を揺らす。傾斜のついた屋根の上を、滝のように流れる雨がざぶざぶと音を立てる。

 アズールは、ひとつため息をついてイデアに近づいた。水と土と、濡れた草花とが混じったにおいの中、どうしてかそこだけ清廉な、水仙の香りがした。

 

「イデアさん」

 

 勢いをつけて、パーカーの厚い布地に包まれたイデアの背を叩いた。骨っぽい感触。まるで温度のない肌が、ひんやりと青白く血の気が失せているのを想像してしまって、アズールは顔をしかめた。ただでさえ不健康な顔色をしているのだから、もう少し自分の体を気遣ってほしいものだ。

 イデアはしばらくぼんやりとしたのち、ゆっくりとアズールの方を振り向いた。その瞳の、人工物めいた冷たい光に、アズールの背がかすかに震える。ぱち、ぱち、と二度ほど瞬き、それから驚いたようにまるく見開かれた。

 

「え、あ、アズール氏?」

「ええそうですアズールですよ。あなたがいつまでたっても部活に来ないからお迎えに来たんです。僕からの電話もメッセージも無視してこんなところに突っ立ってるなんて、本当にいい度胸をしてますね?」

「ホァア」

 

 ある意味いつも通りに奇声を上げたイデアが、ポケットから慌ててスマートフォンを取り出した。ロック画面に表示されている数件の通知を見て、ひ、と息を呑む。

 

「ご、ごめん。気付かなくて」

「いつも数秒で返信を行うイデアさんが、気付かなかった、と」

「返す言葉もございません……」

 

 がっくりとうなだれたイデアのつむじを見ているうち、アズールはいつの間にか体がこわばっていたことに気が付いた。意識して力を抜き、パフォーマンスのためにおおきくため息をつく。

 

「仕方ありませんね。ほら、まだ部活の時間内なんですから部室に行きますよ」

「え、えと、……ご迷惑おかけしました」

「では特別料金を」

「それもう詐欺じゃん」

 

 うう、と顔をしかめたイデアの、だらりとしたパーカーの首元を掴む。ひい、と小さく上がった悲鳴はこの際、聞かない振りだ。青く彩られた唇に口づけて、数秒。離れるころには、アズールの唇にも青が移っていた。

 

「ひょ」

「ほら、行きますよ」

「はひ」

 

 踵を返し、もと来た道をたどる。アズールの革靴の硬い足音に続き、スニーカーの底をするような足音が着いていく。

 

「……誰が渡すものか」

 

 怒りを滲ませた低い声は、ざんざんと降りしきる雨の中に消えていく。

 

「え?」

「あんまり雨ばっかり見てると嫉妬してしまいますよ、と言ったんです」

「アズール氏そんな可愛いこと言うキャラか……?」

「そういう気分のときもあるんですよ」

 

 ふうん、と呟いたイデアが、言葉とは裏腹に機嫌よく、アズールのとなりに並んだ。きっと何のゲームをしようか考えているのだろう。それでいい。関心を逸らすことができれば、なんだって。

 

 雨が降っている。

 中庭の土の上に、石造りの壁に、叩き付けるように雨が降っている。

 雨音に紛れて、イデアの名前を呼んでいた誰かの声は、もうすっかり聞こえなくなっていた。

 

それでは会議を始めます

 

「それではお手元の資料をご覧ください」

「いや待って?」

 

 壁が薄い紫に光っている。ホログラムディスプレイだ。きっちりと整頓された、可読性の高いレイアウト。まごうことなきプレゼン資料のタイトルは、アズール・アーシェングロットと婚姻関係を結んだ際に想定されるメリットとデメリット、だった。

 

 

 

 イデアの自室に辿り着くなり、アズールはいやに厳粛な面持ちで分厚い紙の束を渡してきた。

 

「えっなにこれ」

「まあまあ」

 

 ぐいぐいと押し付けられるままに受け取り、その勢いでベッドに座らされる。アズールは扉近くの壁を陣取り、ぶつぶつと何かつぶやいている。イデアは、その言葉が呪文であることにいち早く気が付いていたし、何を行うためのものなのかも分かっていた。

 

「ほんとになにすんの?ゲーム大会じゃないよね」

「違います」

 

 ぶうん、と鈍い音を立てて、壁一面に大きく薄紫のディスプレイが表示されていた。イデアがアズールにプレゼントしたホログラムのディスプレイだ。さっきまで唱えていたのは、場所と大きさを固定するための呪文。アズールは何やら、イデアの部屋を我が物顔で占領し、何かを行おうとしているらしかった。

 

 そうして実行されたのが、アズール・アーシェングロットと婚姻関係を結んだ際に想定されるメリットとデメリットのプレゼンであった。

 

「いったん落ち着こう」

「いえ、このまま進めさせていただきます」

「いやいやまってまってまってちょっと、一旦ストップ。いやじゃあ質問」

「質疑応答は後程まとめて行います」

「マジのビジネス対応じゃん……」

 

 イデアはちょっと泣いた。何が楽しくてお家デートの当日に、こんなビジネス対応を受けなければいけないのか。普段の行いを省みて、割とよくあることだったな、と思い直した。

 

「いやでも何?婚姻?こんいん……えっ婚姻?!結婚?!」

「はい」

「誰と?」

「僕と」

「誰が?」

「イデアさんが」

 

 何を当たり前のことを、とでも言いたげなアズールの顔。部屋の中には数秒の沈黙が降りた。イデアの優秀な頭脳が、アズールの言葉を理解するためにぐるぐると回り出す。

 けれどどうしたって、彼の脳は恋愛ごとには向いていなかった。結局、絞り出せたのは

 

「な、なにがどうなって……?」

 

の一言だけだった。

 ふう、とこれ見よがしにため息をつかれて、イデアの胸の内の柔らかいところが、刺すように痛む。ことこれに関しては突拍子もない行動をとったアズールにだって非はあるはずだが、自分の理解力のなさばかりが責められているような気がしたのだ。

 

「いいですかイデアさん」

「……なに」

「そんなに不貞腐れないで」

 

 いつの間にか近づいたアズールの手が、イデアの手にそっと重ねられた。渡された資料にしわが寄るほど籠っていた力が、たったそれだけのことですう、と抜けていく。

 

「あのですね、イデアさんここを卒業したらどうなります」

「進路の話……?まあ、順当にいけば、家を継ぐ、ことになると思うけど」

「そうでしょうとも。だからね、時間がないんですよ」

「うん?」

 

 イデアは首をかしげた。それに合わせてアズールの首も傾けられ、お互いがお互いに対し、ちょっとかわいいな、などと脱線した感想を抱いていた。

 

「だって家を継ぐ、ということはねえ、イデアさん。結婚するということでしょう」

「あ、あー……まあ、そう、そうですね」

「学生結婚はされるおつもりがない、ということだったので、そこは安心なんですけどね。だから今のうちに、僕の結婚についてプレゼンしておこうかと」

「まってまって」

「安心してください。嘆きの島での同性婚が合法であることは確認済みです」

「あっうんそうだね……割と最近認められたね……」

 

 アズールの言葉に熱が入るにつれ、手にもどんどん力が込められていった。正直に言って、イデアは少しばかり痛みを感じ始めていた。蛸の人魚であるアズールは、見た目こそいかにもインテリ風だがその実、力は並の人間より余程強い。

 

「えっつまりあれですか、アズール氏はその」

「はい」

「せ、拙者にプロポーズをしようと……して……?」

 

 沈黙。それから、アズールが眼鏡を動かしたかちゃ、というかすかな音がした。

 

「……まあ、そうなりますね」

「ヒョッ」

「なんですその声」

「いやあの、いえ……はい……ちょっとびっくりして……あ痛」

「ああすみません」

 

 ミシッ、とイデアの指の骨の軋む音を最後に、手は離れていった。さっきまでの積極性が嘘のように、アズールは目を逸らし、白皙を耳まで赤く染めている。

 イデアはといえば、口の端をむずむずと動かして、真っ赤に指の跡をつけた手の甲を愛おし気に撫でさすっていた。

 嬉しかったのだ。アズールが、自分との将来をそんな風に本当に、真剣に考えていてくれたことが。自分一人ではどうしようもなく悲観的な未来しか見えていなかったこの先の道に、一筋の光が刺したようだった。

 ぱら、と資料を捲る。いくつもの項目に分かれて、しっかりとメリットとデメリットが記載されている。跡継ぎについて、なんて項目を見つけたイデアは、恥ずかしいやら提案内容が気になるやらで、混乱してぱたん、と資料を閉じた。

 

「あああのさアズール」

「……なんです」

「その……僕も、プレゼン内容考えてくるので、いやもう一人で考えるとめちゃくちゃマイナスなことばっかり出てくるんだけどさあ、でも一応、まあ、頑張ってはみるから……そしたら、提案内容のすり合わせの会議しよ」

 

 言い切って、イデアは自分の膝に顔を埋めた。つむじの辺りに、アズールの視線が突き刺さる。あんまりにもロマンに欠ける言葉だが、けれどこれが、今のイデアにできる最良のプロポーズだった。

 

「……そう、ですね。そうしましょう。一方的な意見を押し付けるだけでは、いい家庭は築けませんからね」

 

 だから、アズールがそう返してくれたとき、イデアは喜びのあまりアズールに抱き着こうとして目測を誤り、盛大な頭突きをかましてしまったのだった。


 
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