No.1011703

恋姫†夢想 李傕伝 12

李傕伝とか書いてるけど西涼伝の方が良かった気がする。
鄧艾の年齢を勝手に弄ってるのは許してください。意味はあります。明確には出てないけど黄忠さんとか厳顔さんほどの年齢。おば―――お姉さん。
もう一人の主人公的な感じになっちゃいます。李傕君要らない説ある。

2019-12-01 20:09:21 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:1083   閲覧ユーザー数:1065

『馬岱さん』

 

 

 

 

 

 

 

高幹軍と袁紹軍は今だ布陣し続けている。そんな報告を受け、一番表情を変えたのは郭嘉であった。軍師と呼ばれる存在は、最低限孫氏の兵法を学んでいる。そこからさらに様々な先人達の残した知識や、己の知恵を合わせて思考する。

 要するに一般論というものが下地にあるのだ。

 戦いを有利に運ぶ方法が存在し、それを選択する。

 奇策と呼ばれる少々逸脱した考え方も、一般論よりもそちらが上であると判断されたが故の物。

 何故今だに布陣するという下策を選択し続けるのかと、不思議に思うのだ。

 

「天才と何とやらは紙一重と言いますが、こうも予想を超えてくる動きをされると少々自信が失われます」

 

 高幹軍による迎撃の被害はそこそこであったが、二千の被害で相手の手の内が見れたというのは十分な結果であった。

 しかし郭嘉も程昱もこの長槍兵に対し、そこまで興味を抱いていなかった。良い戦い方だったと素直に相手を称賛し、それで終わる。

 袁紹軍の被害は二千どころではなく、全体の戦況は西涼軍が圧倒的優位にある。長槍兵による迎撃は一度きりのもの。手の内が知れたら対策は容易であるし、それを相手も分かっているだろうと思っていた。

 が、その考えは間違いだった。軍師の考えを容易に飛び越えた相手の斜め上の思考は、郭嘉や程昱を以てしても見抜けなかった。

 

「今回の戦いを見ていた限り、あの迎撃を行う場合の高幹軍は移動をしません。それ故、高幹軍を見ればどのように戦うかがわかるでしょう」

 

 動きを止めていれば前回同様長槍の迎撃がある。手に武器を持っていて動いていたらただの兵と同じ。それだけの事だった。

 

「流石にもう下がると思っていたのですけれどねー。当てが外れました」

 

 戦いにおける絶対ともいえる下地。兵の数。数が多ければ優位である。

 しかし兵の質や兵科によりその優位性は変動する。歩兵が一万で相手は騎兵が五千。正面からぶつかるなら圧倒的に騎兵が優位に立つ。

 兵の数を活かすならば、今回に限って言うならばやはり籠城が最適。袁紹も流石にそろそろ行動に移すだろうと彼女達は思っていた。

 

「あくまでもここで雌雄を決するつもりのようです。その方が我々としても嬉しい限りではありますが」

 

 袁紹が連れてきた軍の数は七万。それは幷州を手に入れ、次に冀州と相対するはずだった袁紹の兵である。ここでそれを徹底的に打ち破れば、冀州はもう取ったも同然。余計な手間が省けたが、想定を超えた袁紹の考えに苦笑する。

 少しばかり悔しさもあった。高幹と袁紹は次に籠城するであるだろうと考え、その対策を練っていた。そんな彼女の考えをあざ笑うかのように別の行動を取る袁紹に。その考えを見通しきれなかった事に。

 

「たまには少し馬鹿になるのも悪くねぇって事だな。オレとか姉妹みたいにな!」

 

「あら、私はそっち側に行きたくないから一つ古事を用いるわ。鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いん、とね」

 

 韓遂の言葉により、暗に自分と同じくらい頭が残念だろうと言われた馬騰は、片目を閉じ、微笑みながらこれ見よがしに古事を引用して、はしごを外した。

 鶏割牛刀―――牛刀とは牛を解体するための大きな刃物である。そんな大きなものを使って、鶏を捌く必要はない。

 要するに、小さな出来事を解決するのに大掛かりな事をする必要が無いという事である。

 鶏は袁紹。牛刀は郭嘉と程昱。

 今回鶏を捌くに適した得物は、韓遂が言う様に頭の悪い戦い方をする者達。深く考える必要も無く、戦って打ち破れば良い。二人の言葉はそういう事だった。

 

「おっしゃる通りですね。私も、まだまだのようです」

 

 郭嘉は二人の言葉に笑った。

 励ましの言葉でもあり、周囲の笑いを誘う会話。馬騰や、あの韓遂もやはり年上であり、そういう気配りは上手いようだった。

 

「つまりあれか、とりあえず突撃すれば良いのか」

 

「その発言は頭が悪すぎないか?」

 

「ふふ。そうしましょう。あれこれ考えるのも、やめました」

 

 突然の頭の悪い華雄の言葉に李傕はつっこみを入れたが、郭嘉は笑顔のままで答えた。軍師としてその言葉はどうなのかという所ではあるが、その気持ちも察せられよう。

 軍議の場は笑顔で溢れた。

 

「注意するべきは高幹軍のみ。騎兵の突撃でもって袁紹軍をここで打ち破り、幷州から幽州まで手に入れるとしましょう」

 

 応という声が天幕の中に響き、それぞれが己の兵の元へ向かっていく。

 最後まで残ったのは郭嘉と程昱の二人だった。

 

「風達が牛刀とは高く評価されてしまいましたねー」

 

「であれば、牛はどこにいると思いますか?」

 

「おやおや、それを聞いてしまいますか?」

 

 二人は向かい合って笑った。

 頭の中から袁紹の存在はもう消えており、牛の解体方法を模索し始めるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 二日目。

 西涼軍は前日と同じように騎兵を前面に出しており、このまま戦いが始まれば再び多大な被害がもたらされることは明白だった。

 

「うーん……うーん……」

 

 顔良はその光景を見ながらどうしたものかと唸っていた。

 高幹は長槍兵を、前日とは違い歩兵として動かしている。つまりあの突撃を防げる者は居ない。

 

―――文ちゃんは……。

 

 左右を見回し、文醜を視界の中に捕らえると、体全体で溜息をついているかのように前傾姿勢で馬に乗っている姿が見て取れた。

 戦うのが好きな彼女でさえこの状態。敗北はもう目の前にある。

 

―――何とか麗羽様と高幹様だけでも逃げられるようにしないと……。

 

 どの程度被害がでるかによって、逃げ落ちる先も変わってくる。太原に逃げるとなれば籠城をしなければならないので、それなりに兵を引き連れて向かわなければならない。しかし、相手は騎兵ばかりであるのに、逃げ切れるだろうか。

 馬に乗っている袁紹はおそらく逃げ切れるだろう。しかし兵が少なければ太原に向かう必要も無い。

 

―――冀州まで……いやでも、追撃次第では……。

 

 冀州への道は長い。西涼軍は幷州を手にすれば統治の為に一旦足を止めるだろう。しかしその後冀州へと侵攻してくる。いかに袁家の名のもとに兵が集まるとしても、数は万全とは言い切れない。

 袁家の繁栄、ひいては袁紹の幸せは顔良や文醜の望むところである。しかしこの戦乱の世にて、袁紹がこれ以上大きな勢力となり、大陸を手に入れる様な未来は見えない。西涼軍の侵攻を仮に防いだとしても、その後いずれかの勢力が攻めてくるのは明白。いつか終わりの時はやって来る。

 ならばせめて命だけでも、そう考えていた。

 しかし何処へ。

 豫洲の曹操は袁紹と腐れ縁ともいえる。頼めばおそらく保護をしてくれるだろうが、おそらく袁紹本人が認めないであろうことはわかり切っていた。

 また揚州を治める異母妹袁術の元へも、向かうことは出来ない。袁術もおそらく曹操同様に受け入れはしてくれるだろう。しかしこれもまた、袁紹本人が認めないだろう。

 となれば行先は一つ。そこでは市井の民としての質素な暮らしにはなるだろうが、命には代えられない。

 顔良は文醜の元へと向かった。

 

「文ちゃん。耳を貸して!」

 

「へ?」

 

 馬を隣に並べ、文醜へ手を招いて頭を寄せさせる。

 兵士達に聞こえる様な大きな声では決して言えないのだ。

 

「麗羽様と高幹様を連れて洛陽へ逃げて」

 

「洛―――」

 

「しっ! 他の人に聞こえたら駄目だから、静かに聞いて」

 

 思わず声を出しそうになった文醜の口を手でふさぎ、顔良は続ける。

 

「戦が始まる前に二人の所へ行って、無理やりにでも連れ出して」

 

 文醜の顔は驚愕に満ちていく。

 彼女は声を発さず顔良を指さし、口をぱくぱくと動かした。

 

『斗詩はどうするんだ』

 

 彼女の口はそう動いた。

 

「私は殿をして、後から合流するから。先に洛陽まで逃げて」

 

 誰かがやらなければならない役目―――殿。

 敵の追撃を限界まで抑える者達が居なければ、敵の剣は袁紹の元へと容易く伸ばされる。

 文醜は何かを言おうとして表情をめぐらせた後、いつになく真剣な表情で顔良を見据えた。そして小指を一本立てて前に出した。

 顔良はそれをみて、同じように小指を立て、文醜の小指に絡めた。

 必ず逃げ落ち、洛陽で合流するという約束。

 小指は何度か上下に振られた後、どちらからともなく離れた。

 文醜は名残惜しそうに顔良を少しの間見つめた後、顔良と共に馬を並べて袁紹と高幹の元へと馬を走らせた。

 

 

 

 

 二人の元へたどり着いた文醜と顔良は、どう説明したものかと言い淀んだ。

 

「どうしたんですの猪々子さん、斗詩さん? 兵の指揮は?」

 

「いやぁ、そのぉ、姫……ええと、何といえば……」

 

 顔良を置いて逃げる。そう口に出せば袁紹はおそらく意固地になって留まると言いかねない。それだけ袁紹は顔良と文醜の二人を思っているが、二人の思いは袁紹その人へ向けられている。

 

「麗羽お姉さま。殿は私が行います。どうか顔良さんと文醜さんを連れてお逃げ下さい」

 

 顔良と文醜がここへ来たことで察したであろう高幹が口を開いた。

 何を言い出すのかと袁紹が驚くも、高幹は笑顔で言う。

 

「逃げる先は冀州ですか? それとも、洛陽ですか?」

 

「洛陽へ。そこならば今までのような生活は出来ませんが、少なくとも生き延びられると思います」

 

「わかりました。では麗羽お姉さま。しばしのお別れです。この高幹。見事殿の役目を果たし、洛陽で再会するとしましょう」

 

「ななな、なにを言っていますの艶羽さん! そんなの認められるわけ―――」

 

「誰かがやらなければなりません。でなければ全員がここで討ち取られてしまいます」

 

「殿は私がやります! 高幹様も麗羽様と一緒にお逃げ下さい!」

 

 顔良がそう言うも、高幹は頭を振った。

 

「幷州は私の土地なのです。私が、麗羽お姉さまから統治を任せられた、私の土地なのです。この地を護る事こそが私の使命。逃げる事は出来ません」

 

「そんな―――」

 

「麗羽お姉さまにはお二人が必要でしょう? 市井の暮らしは決して楽ではありません。傍で支えてくれる人の存在は、なくてはならないものです」

 

「お待ちなさい! 私達はまだ負けたわけではありませんのよ!?」

 

「麗羽お姉さま……申し訳ありません。この戦はもう負けなのです。西涼軍の強さを見誤り、麗羽お姉さまを巻き込んでしまったことを本当に後悔しているのです」

 

 高幹は当初、袁紹の援軍があれば容易く西涼軍を退けられると思っていた。しかし袁紹の指示のもと平地で戦い、その強さを実感していた。匈奴や鮮卑とは違う強さ。迎撃を早々に使ってしまったのも正直悔いがあった。

 もっと相手に多大な被害が出せる場面まで、取っておくことができればまた違ったのかもしれない、と。

 

「麗羽お姉さまが生き延びていらっしゃれば、いずれどこかで再起を図ることもできます」

 

 袁紹は珍しく目元に涙を浮かべていた。

 いつも明るく喧しく、不幸なことがあって怒りに顔を歪めることはあっても涙を見せない彼女が、うっすらと涙をたたえていた。

 

「……必ず、必ず洛陽で再会しますわよ!」

 

「ええ。それまでしばしのお別れです麗羽お姉さま。おっほっほっほっほ!」

 

 手を反らし、口元に沿えて不慣れな高笑いをしながら高幹は三人を残して兵の元へ向かっていった。

 

「斗詩さん。冀州へ戻ることは、出来ないのですね?」

 

 袁紹は高幹を見送り、拳を握りながら言った。

 顔良はその言葉に頷いた。

 

「一時的な延命にしかすぎません。ここでせっかく逃げることが出来たのに、冀州で再び戦うことになれば、その後どうなるかは……」

 

 顔良の言葉を聞いて、袁紹はその後何も言葉を発さなかった。

 三人は馬に乗り、すぐに出立した。何度も背後を振り返る袁紹の行動を止めることなど、出来ようはずも無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつの間にか指揮官が不在となり、さほど精強でもない袁紹軍はいとも簡単に瓦解した。多少奮戦した高幹軍ではあったが、その長槍を活かすことは出来ず、高幹本人も容易く捕虜となってしまった。

 今李傕の目の前には、縄でぐるぐる巻きにされた高幹だと名乗る少女が座っていた。

 

「とっとと殺せば良いのです! 私は十銭なんて値段でも貴方と床を共にするのはお断りです! この破廉恥檄文李傕!」

 

「……」

 

「ふはっ! はっはっはっはっは!」

 

 黒歴史をほじくり返されるような気持であった。

 隣では華雄が高らかに笑っているし、郭嘉の視線がまた鋭く冷たい。

 

「袁紹はどこに?」

 

「……はっ! まさか本当にお姉さまと一晩を共にしたくて!? 不潔です! 破廉恥不潔李傕!」

 

 尋問は特にするつもりはなかった。

 質問をすればするだけ、李傕は心に傷を負っていく。

 

「縄を解いて、逃がしてやれ」

 

「はっ」

 

 李傕の指示に楽進は背後に回り、その縄を解いた。

 高幹はあっけにとられ、李傕を見つめていた。

 

「何故殺さないのですか? いえ、無理やり手籠めにしないのですか?」

 

「……そういう発言は頼むからやめてくれ。生きた心地がしないんだ」

 

 李傕はこの場に居ない治無戴が、いつの間にか背後に現れていないか気になっていた。ちらちらと何度も背後を気にして振り返るたびに、華雄は笑い声をあげる。

 

「……」

 

「おい、もっと煽ってやれ。そして周りに言いふらせ。李傕がとんだ助平だとな」

 

「華雄! 本当にやめろ! 本当に洒落にならん!」

 

 縄が解かれると高幹はすくと立ち上がった。

 彼女を解放することを予想していたのか、馬騰が馬を一頭連れて来た。

 

「意味の無い殺しはしない。とっとと行け。俺の心が折れる前にな」

 

「破廉恥不潔李傕は優しいなぁ」

 

 華雄が李傕を煽りに煽り、李傕は押し黙ってしまった。どうしたものかと高幹が思っていると、馬騰が馬の手綱を渡してきた。

 

「さぁ、お行きなさい。このまま見ていても、御館様が煽られ続けるだけですから」

 

「はぁ……」

 

 促されるままに高幹は馬の手綱を取り、馬の背に跨った。

 そして一度も振り返ることなく、その場を後にしていく。

 

「これで良かったのか?」

 

 その後ろ姿を見送りながら、李傕は程昱に聞く。

 

「ええ。距離を開けて密偵が後をつけていきます。おそらくその先に袁紹さんが居るでしょうからー」

 

 なるほどなぁと李傕は感心した。

 高幹が生き残ったとしても、再び再起を図るのは難しい。しかし袁紹は別。袁紹が立つとなればそれに同調する者も多く居るだろう。

 そのためどこへ逃げたのか。どのような動きを取るのか。それを知るために高幹を逃がしたのだ。

 

「さて、先に進むとしましょう。破廉恥不潔おにいさん」

 

「……頼むから治無戴が居るときに言わないでくれよ」

 

「ぐぅ……」

 

「……」

 

 袁紹との戦いは終わった。

 西涼軍は太原へと足を進める。

 その先は冀州。そして幽州。

 曹操の治める豫洲は、もう隣に迫ってきていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼女は荊州で生まれ、豫洲の末端文官として仕官していた。

 在任期間は長かったが、昇進することも無く、特に重要な仕事を任されるでもなく、量も少なく、無意味に日々を過ごしているように思っていた。

 彼女の趣味は、山や川といった自然を測量する事だった。

 目の前にある山はどれくらいの大きさで、布陣するならどれくらいの兵が丁度良いか。あるいは敵が布陣したならどのように攻めるべきか。

 目の前にある川の速さはどうか。水計として利用できるような水嵩であるか。流れの速さはどうか。あるいは水害の可能性があるので新しく川を引いた方が良いか。等々。

 それは一人遊びだった。他人と意見を交換し合うわけでもなく、自分一人で完結してしまう。出来る事なら上司に、それももっと上の人に献策したかった。自分が高い役職にあれば、もっと豫洲を豊かに出来るのに。少々傲慢な考え方ではあるが、彼女はそう思っていた。

 だが、それは決して叶わない。

 彼女は自身が絶対に昇進することが出来ないと知っていた。さらに結婚することも出来ないということも。

 鄧艾。字を士載。真名を莉莉(りーりー)

 彼女は女性としての魅力を持った熟れた年頃でありながらも独身。

 昇進することが出来ないのも、結婚することが出来ないのもたった一つの身体的特徴がある故であった。

 吃音である。

 彼女は他者におはようございます、と言おうとしても

 

『お、お、おはようございます』

 

 と最初の言葉に詰まってしまう。

 この時代、手足の欠損や、何らかの理由で動かない等、あるいは眼球の喪失等も全てが人括りで障害という枠に当てはまり、差別の対象となる。彼女の吃音もまた、その中に入っている。

 まともにしゃべることが出来ないという烙印。

 それでも文官として仕官できたのは、ひとえに彼女が優秀であったからに他ならない。

 しかし彼女は生まれ落ちて言葉が喋れるようになったその時から吃音であり、両親は彼女をいともたやすく捨ててしまった。

 同年代の子供たちは彼女に悲痛な言葉を投げかけて差別をし、両親からも捨てられた彼女を叔父が憐れみを持って育ててくれたが、その憐れみは彼女の自尊心を大きく傷つけた。

 いずれ自分を馬鹿にした人々を見返すほどに偉くなってやる、と意気込んだ彼女は文官への道を進んだが、そこでもやはり差別は間逃れず、いつかはきっとと思いながらも今の年齢まで歳を重ねてしまった。

 そんなときであった。

 今時をかける西涼という一大勢力の存在を彼女は知った。

 その本拠地である元雍州の天水や元涼州の金城では、異民族である羌と氐の部族が出入りしており、特に文官が不足しており大々的に募集しているとのこと。

 五胡と呼ばれる異民族は、漢民族から人ならざる者達と差別されてきた。皇帝の権威に従わぬ、まつろわぬ民。古くから差別されていた彼等を受け入れる西涼という国に、彼女は興味を抱いた。

 自分という存在を受け入れてくれるのではないか、と。

 彼女は豫洲の文官としての仕事を辞め、天水へ向かうことにした。

 年齢も年齢であり、このまま豫洲で仕官し続けていても末端文官で終わる。ならばせめて一旗あげられる可能性のある土地へ赴こうと思うのは、おかしいことでは無かった。

 中立地帯である司隷を経由し、彼女が足を踏み入れた元雍州の地は、自然あふれる豊かな地であった。

 悪く言えば田舎という事なのであるが、測量が好きな彼女に取ってはある種宝の山。

 多少の寄り道は仕方の無い事と己に言い聞かせながら、元雍州の山や川の測量を行っていた。

 そんな時であった。

 

「あのー。お姉さん何をしてるです?」

 

 鄧艾は今まさに山を測量している最中で、突然の背後の声に振り返った。

 身長は鄧艾の腰くらいである。顔立ちも幼い。鄧艾からすれば二回りは年下であろうか。

 髪は栗毛色で長く、どこか良いところのお嬢様なのかもしれないと鄧艾は思った。

 

「え、え、えと、や、山を測量してる」

 

 声を出して彼女は後悔した。いつものように吃音がおこり、初対面の相手でも次にどのような顔をするかを彼女は知っていたからだ。顔を顰め、嫌なものを見たという様に避けてどこかへ行ってしまうのだ。

 

「それは何の為なのです?」

 

「の、の、農業の役に立てたり、い、い、戦の時に活用できないかなと」

 

「という事はお姉さんは雍州のお偉いさんです!?」

 

「い、い、いえ。こ、こ、これから天水へ行って登用してもらえないかな、と」

 

「じゃあ私と一緒です! 私は杜預。字は元凱と言いうです!」

 

「と、と、鄧艾。あ、あ、字は士載」

 

「天水に着くまでご一緒しても良いです?」

 

「あ、あ、あの、き、き、気味悪がらないんですか?」

 

「何がです?」

 

「わ、わ、私の吃音に……」

 

 彼女は鄧艾の吃音を何度も聞いているだろうに、何の反応も示さなかった。それが不思議で仕方が無かった。

 

「何か問題があるです? 異民族と交流の深い雍州ではこんな言葉を聞いたです! 言葉の通じる異民族より言葉の通じない漢の賊の方が手に負えない、と。お姉さんは言葉がちゃんと通じる人です。何の問題も無いです!」

 

 鄧艾は思わず目元が熱くなるのを感じた。

 自分の周りにこんな言葉を言ってくれる人が一人でも居れば、何かが変わったのではないか。

 

「ささ、私の事は気にしないで良いです! 測量をしますです!」

 

 花の咲くような笑顔でそう告げる彼女に鄧艾も思わず笑顔がこぼれた。これは天が与えてくれた出会いなのだ。そう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 鄧艾があちこちを測量という寄り道をしながらも、二人は天水へと辿り着いた。そこは確かに異民族である人々が街中を歩いており、初めて見る二人には驚きで一杯であった。

 

「警笛の音がしたら何があろうと道の端に避けろと門番さんが言っていたですが……面白い制度です!」

 

 天水へ入城する際、門番から大まかな規則を説明されていた。

 最も重要なのは、警笛の音が鳴り響いたら騎馬が通るので道の中央を開ける事。開けない場合は踏みつぶされても文句は言えないという絶対の決まり事であった。

 

「じ、じ、事件の現場への急行や、び、び、病人や怪我人をいち早く治療するために。す、す、すごい面白いやり方だと思う」

 

 天水の居城へ向かう前に、二人は街中を見て回っていた。

 特筆するべき事と言えば、この天水では絹の値段が余りにも低かった。捨て値と言えるのではないかという程の値段である。

 人通りは多く、商店もにぎわっている。とても良い街であるという印象を二人は受けていた。

 

「そろそろ居城へ向かうです?」

 

「う、う、うん。い、い、行こう」

 

 親子程年齢の離れた二人は、手を繋いで居城へと向かった。

 居城の入り口で文官志望であるという旨を伝えると、二人は簡単に中へと通されてしまった。一般的には登用試験というものが一定周期で行われており、それに合格した者が文官になれるのだが、二人は即座に登用という形でもって受け入れられた。

 

「お主らが新しい文官か? 拙者は陳泰。字は玄伯。さ、こっちへ」

 

 二人の前に突然現れたのは、見るからに武官の女性であった。年齢は鄧艾よりも一回り下であり、杜預よりも一回り上。杜預を幼女というならば彼女は少女。鄧艾は女性というのが適切であろう。

 腰に奇妙な形の、細身で曲線を僅かに描いている不思議な剣を佩き、鎧に身を纏った人物が名を名乗るなり二人を先導した。

 

「拙者は武官でござるが、文官が足りずこちらの仕事を任されているのでござるよ」

 

 二人が何かを言う前に、彼女は独り言のように言いながら早足で二人連れて歩く。

 そしてたどり着いた扉を開くと、そこには竹簡が山盛りになって積まれており、彼女はそれを指さした。

 

「とりあえず二人は拙者の部下としてこの仕事をしてもらうでござる。判断できない物は残しておいてくれれば、後は拙者が処理するでござるよ。では」

 

 言うだけ言ったとばかりに彼女は足早にその場を後にしてしまった。

 目の前には悍ましい数の竹簡があり、見るからに人々のやる気を削ぐものである。

 

「と、と、とりあえず手を付けようか」

 

「です……」

 

 二人は部屋の中に入り、竹簡を手に取った。

 そこにあった竹簡は様々な事柄が書いてある。

 民衆からの嘆願であったり、雍州の税収に関するものであったり、国営の競馬や絹織物の売り上げに関するものであったり、仕分けもされていない様々な報告であった。

 そのため鄧艾は幾つかの分類に仕分けすることにした。

 自分達で判断できるものか否かでまず大まかに二つに鄧艾が仕分け、杜預がそこから細かく分類ごとに仕分けていく。

 かなりの時間をかけて仕分けが終わった後、自分達で判断できるであろう竹簡だけをひたすらに処理していく。

 

「文官が足りないというのは本当だったのです……」

 

「そ、そ、そう言えばどうして西涼へ?」

 

 鄧艾がそう聞くと、杜預は目を竹簡から離さず、手を一切止めずに答えた。

 

「決まってるです! 鶏口牛後。文官が足りないとなれば私も重用されると思って来たです!」

 

 人が多く、文官の数が足りている地では己の才を発揮するのは中々に難しい。しかし西涼のように文官が足りていないという地であれば、己が重用されるかもしれない。そう考えて杜預はこの地へ訪れたようだった。

 鄧艾も殆ど同じである。

 

「読みは当たっていたです。まさか試験も無くいきなりこれだけの仕事を任されるなんて……」

 

 鄧艾は豫洲での自身の仕事を思い出す。山積みになった竹簡などどこにもなく、片手で数えるくらいの竹簡を処理して終わる簡単な仕事。それもほとんどが上司の確認が必要なもので、自分で処理するものはなかった。

 それだけ信用されていないという事である。

 しかしこの天水においてはこれだけの量を、さらに自分達で判断できるものが多くある。

 

「た、た、確かに」

 

「ちゃちゃっと終わらせて陳泰さんに私達が有能であることを示してしまうです! そうすれば、もしかしたら昇進も待ったなしなのです!」

 

 鄧艾はちらちらと杜預に視線を向けたが、彼女は一切視線を竹簡からそらさず、次々に処理していく。

 負けてはいられない。そう思い、鄧艾も躍起になって竹簡を処理していった。

 竹簡の処理に没頭していると、どぉんどぉんという銅鑼か何かの音が鳴り響いていた。何の音だろうかと少しは気になったが、気にせず仕事を続ける二人の元へ、陳泰がやってきた。

 

「昼の鐘が鳴ったでござるよ。昼飯の時間でござる」

 

「お昼です? もうそんな時間です?」

 

 杜預も鄧艾も、時が経つのが早く感じられた。

 手に持っていた竹簡を置いて立ち上がると、二人共足の関節や腰などからばき、という音が鳴った。ずいぶんと長く同じ姿勢をとっていた証である。

 

「む。もしかしてこっちに積まれているのは処理し終えた物でござるか?」

 

「は、は、はい。こ、こ、こっちが終ったもの。こ、こ、こっちがこれから処理するものです」

 

 鄧艾が陳泰に説明する。

 今になってようやく陳泰の顔をまじまじと見た鄧艾であったが、彼女の表情は眉間に皺が寄っていて、両目はやや釣り目。顔立ちは整っており、美少女と呼べるものであるが険しい表情をしている。

 おそらく機嫌が悪いという事では無いのだろうが、その見た目はどこか近寄りがたい。

 

「うむ。良い人材が来てくれて助かるでござる。拙者はもう竹簡なんて見たくないでござるよ」

 

 陳泰が居城の食堂へと案内してくれるというので、二人はその後ろに続いた。

 長い廊下は人が常に忙しなく歩いており、人手不足というのが如実に見て取れた。

 

「陳泰さんは武官なのに文官の仕事を割り振られているです?」

 

「うむ。好意で少し文官達の手伝いをしたところ、馬岱様に見つかってしまい……以降武官として兵士の調練をしながら、竹簡をちまちまと処理していたでござるよ」

 

「そ、そ、そう言えば今雍州の代表は馬岱様なんですね」

 

「西涼の主君は李傕様でござるが、留守を任されているのが馬岱様でござる。特に今、新しく雇用されている文官達―――二人もいわば馬岱様の部下と言ったところでござる」

 

 文武両道で、雍州を任されるだけの人物。噂によると今目の前にいる陳泰程の少女であると鄧艾は聞き及んでいたが、一体どんな人物なのだろうか。

 そんなことを思っていると、突然陳泰はうげ、と小さく声を漏らした。

 

「二人共壁際によるでござる」

 

「何故です?」

 

「良いから! 壁際によって、拙者が良いと言うまで絶対に口を開いてはいけないでござる!」

 

 突然慌てだした陳泰がそう促すので、鄧艾は黙って従った。

 すると周囲に居た文官達も、慌てて壁際によって動かなくなった。

 陳泰は今向かっていた方向をじっと見ていたので、その視線を追った。何やら人の列が、向かってきていた。

 その先頭を歩いているのは、幽鬼であった。

 中華における鬼とは、頭に角が生えていて、虎柄の腰巻を付けている化け物のことでは無く、亡霊の事を指す。

 

「―――寝ても起きても量が減らないし遊びにも行けないし寝る時間も無いしたんぽぽが何をしたって言うのお姉さまも叔母様も戦場で生き生きしてるだろうにたんぽぽだけ城の中で毎日毎日竹簡だとか書簡だとか処理しなきゃいけないのていうかいつになったら終わるの―――」

 

 聞こえてきたのは、呪詛のようであった。

 ふらふらとおぼつかない足取りで歩いており、目の下には大きな隈を作り、黒く濁った虚ろな瞳をしている。前傾に腰が曲がっていて、右手には印を持っていた。

 

―――という事はあの方が?

 

「馬岱様! 御裁可を!」

 

 彼女の背後には大勢の人が二列になり、それぞれが書簡や竹簡を手にして後をついていた。すると二列のうち右側の人が馬岱と呼んだ少女の隣に立ち、書簡を差し出した。

 馬岱は恐ろしい勢いで瞳を動かして書簡を一読すると、右手に持っていた印を上に上げた。

 書簡を差し出していた人物は待っていましたとばかりに小さな木箱を差し出した。そこにはどうやら墨をしみこませた布が入っているらしく、馬岱は書簡以外には一瞥もくれず箱の中に印を入れ、書簡に押した。

 その人物は一例をして足早にその場を後にし、今度は列の左側の人が前に出て同じように書簡を差し出した。

 

「計算が違う。やり直し」

 

「っ! 申し訳ございません!!」

 

 それはもうこの世の終わりと言わんばかりの頭の下げようだった。文官というより、兵士のそれに近いのではないだろうか。

 

「遊びに行きたい馬に乗ってどこかに逃げたいこんな仕事辞めて自由になりたい鳥になりたい馬になってどこまでも走っていきたい競馬もしたい溜まったお金を一気に使って豪遊したい美味しいもの食べながら街を歩きたい―――」

 

 馬岱は必要最低限の会話以外は呪詛を吐き続けているらしい。

 これは異常な光景だと冷や汗を流しながら鄧艾ら一行がその列を見ていると、突然その列はぴたりと止まった。

 そこは厠であった。

 馬岱が中へ入り、ついてきていた一団は時が止まったかのようにその場で固まる。

 そして再び馬岱が出てくると彼等はまた動き出し、書簡を突き出していた。

 しばらくその光景を見ていた鄧艾達。完全にその一団が視界から消えると陳泰が口を開いた。

 

「あれが馬岱様でござる。食事や厠等、廊下を歩く際はああやって文官達が裁可を求めて並ぶのでござるよ」

 

「……」

 

「因みに拙者もあの列にたびたび並ぶでござるよ。あの若さで政務の全てを任されるとはすごいお方でござる」

 

 陳泰が感心しながらそんなことを言うが、鄧艾からしてみればその本人は随分と辟易としているようだった。

 

「一応あそこに並ぶのは馬岱様の判断が必要な書類がある場合でござるが、人が少ない時は献策も許されているでござる」

 

「け、け、献策?」

 

「うむ。雍州や涼州の改革……とまではいかないでござるが、有益と判断されれば実行してもらえるでござるよ。もっとも、竹簡か書簡にその案を纏めて、ああやって見てもらわなければならないので、ちと面倒でござるが」

 

 鄧艾は内心小躍りする程喜んでいた。

 今まで彼女が測量をして一人考えていたような案を、政務の責任者に直接見てもらえるのだ。それに、会話をする必要も無さそうである。

 もしかしたら自分の考えた案をそのまま使ってもらえるかもしれない。そう思うととてつもなく嬉しいのだ。

 

「さて、食堂に行くとするでござる」

 

 陳泰は再び歩き出し、二人はその後を追った。

 

 

 

 

 兵士達は基本的に支給される食事が決まっており、文官達は街の中で食事をとると言うのが一般的であったが、ここ天水の居城には食堂があり、居城で働いている者達は無料で食事が出来るという。

 鄧艾は試しに炒飯を頼んだが、本当に料金を支払わずにそれが手渡された。

 杜預は拉麺。陳泰は餃子や小籠包等色々な物を盆に入れて持ってきた。

 

「ところで、どうして天水はこんなに忙しいです?」

 

「拙者が天水に仕官した時は、そこまででもなかったのだが……まぁ絹織物産業が大きくなり、一気に雍州が豊かになったあたりから忙しくなってきたでござる」

 

 しかし、と陳泰は続ける。

 

「転機となったのは金城の龐徳殿でござろうなぁ」

 

「そ、そ、その方が何か?」

 

「あの方は涼州の政務を韓遂様より任されているらしいのでござるが、自分は武官で政務が出来ないと言って、馬岱様に涼州の政務を全て押し付けたのでござるよ」

 

 酷い話もあったものだと鄧艾と杜預は馬岱に同情した。

 しかし鄧艾はあれ、と気づく。

 

「で、で、でも金城で行う政務を雍州に引き継がせるというのは、む、む、難しい事じゃ?」

 

「要するに龐徳殿は政務が出来る優秀な方である、ということでござるよ。楽をするために馬岱様へ政務を押し付けるよう手配したのでござる」

 

 姿を見たことも無い龐徳という人物は、随分と狡猾な人であるらしい。

 

「今までは韓遂様がいらっしゃったので大人しくしていたらしいでござるが、今は毎日競馬で遊び惚けているらしいでござるよ」

 

「酷い人もいるものなのです……」

 

 談笑をしながら食事を終えた一行は、再び竹簡と向き合うことになった。

 天水では朝、昼、夕にそれぞれ鐘が鳴らされるらしい。

 朝の一回鳴らされる鐘は登城の合図でもあり、仕事の始まりを告げる鐘。

 昼の二回鳴らされる鐘は昼休憩の合図。

 夕の三回鳴らされる鐘は仕事の終わりを告げる鐘の音らしい。

 その日、鄧艾と杜預の二人は山のように積んであった竹簡を全て処理し終え、仕事を終えた。

 

 

 

 

 

 

 仕官したばかりの鄧艾であったが、彼女はさっそく休日に雍州内を測量したり、村を見て回り、いくつかの案を竹簡に纏めていた。

 特に気になったのは、村の人口である。

 雍州は現在養蚕や絹織物による産業に力を入れており、莫大な富をもたらしている。当然そうなればそれらの工場も規模を大きくし、人手もさらに必要になる。賃金も当然高い。

 そうなってくると、農村の人々が若い者達をそちらに向かわせてしまう事が多く、畑仕事がおろそかになっている現状があった。畑で仕事をするよりも養蚕場などで働いた方が高い賃金を得られるのだ。

 必然的に村の人口は少なくなっていき、農作物の取れ高は余り良くない。

 このまま放置しておくと、寒村が増え、村という存在自体が消えかねない。

 そこで鄧艾は村の人口に比例して税率を下げる制度を提案することにした。今回注目したのは人手が減っていく村と、農耕に切り替えたいと希望する遊牧民達。

 農業のいろはを知らない羌や氐の人々は、当然誰かに教えてもらわなければ農業が行えない。街ではもう当たり前に受け入れられている光景があるが、天水から離れた村は特によそ者へ排他的である現状があった。それは何も異民族に限ったものではなく、他の州からの移住者に対しても同じであった。

 そのため村に課する税を引き上げ、村の人口が多ければ多い程税率を下げる。そうなれば当然村は他所から人を招き入れるだろう。交流は何事も切っ掛けが無ければ始まらない。

 排他的な村の扉は無理やりこじ開けなければ、次へ進むことは出来ないのだ。

 また他にも余っている土地を切り開くため、雍州の兵士達による屯田も同時に提案することにした。

 雍州は現在金銭的に大変余裕がある為、兵士が田畑を耕す必要はない。

 屯田とはそもそも、平時に己が食べる物を生み出せない兵士達に農業を行わせ、雇用の負担を軽減するものなのだから。

 しかし新たに田畑を切り開くと言うのはかなり大変なものである。

 生い茂る木。放置されている大岩。誰も手を付けず硬くなった土。誰かが切って放置された切り株。それらを除去し、土を耕すというのは個人で簡単に出来ることでは無い。

 農耕馬や農耕牛等を多く投入し、土地を切り開かねばならない。さらに川から新しい流れを曳いてこなければならないので、一大工事が必要である。

 そういう大変な作業を兵士達にやらせようと彼女は考えた。平時にある程度田畑としての形にまで持って行ってしまえば、戦が始まっても少ない人出で田畑を管理すれば良いだけの事。

 先ほどの村への強引な移住受け入れの策も、そこで農業のやり方さえ学んでしまえば屯田で切り開いた土地を使って新たに村を興すことも可能だ。

 新たな産業の推進は、得てして従来の産業を衰退させる。

 その改善案を纏め、彼女は馬岱の執務室の外で待機していた。

 

「鄧艾さんも来ていたのです!」

 

 いつ馬岱が出てくるものかと待っていると、なんと杜預もやって来た。手には竹簡を持っており、彼女もまた献策をしに来たのだとわかった。

 

「ど、ど、杜預も?」

 

「はいなのです。どうもここの文官達は仕分けというものがなっていないのです! 分類ごとに最初に分けておけばいいのにやらないとか無駄でしかないのです!」

 

 彼女は頬を膨らませ、ぷりぷりと怒っていた。

 鄧艾は確かにと頷き、日々の仕事を思い出す。仕事の始まりは必ず竹簡を分ける所から始まるのだ。自分達がやれるものか、上司である陳泰に渡すものか等の仕分けから。

 あの仕事を文官全員がやっているのであれば確かに無駄だった。

 

「鄧艾さんは街の外の事です?」

 

「う、う、うん」

 

「内容がかぶらなくて良かったのです」

 

 二人で会話をしていると、やや時間が経ってその扉が開いた。

 

「金金金って龐徳さんなんでお金をせびってくるわけ競馬で負けたって何それふざけてるの私だって競馬やりたいし騎手もやりたいしお金使いたいんだけどもういっそ逃げようかな政務とか楽しくないし人は自由であるべきだし―――」

 

 いつものように呪詛をまき散らすその姿は幽鬼の如く。

 鄧艾は意を決して右側から竹簡を突き出した。

 かなり長く書き込まれたそれであったが、時間は僅か一瞬。

 馬岱が印を上に上げた。

 そこで思わず鄧艾は、あっと声を上げた。墨を入れた小箱を持っていなかったのだ。

 

「これを使ってくださいなのです」

 

 すかさず杜預が小箱を貸してくれ、承認の印が押された。

 と、同時に印を持った手から人差し指が立てられ、鄧艾に向けられた。

 虚ろな目が鄧艾に向けられ、彼女は息を呑んだ。その瞳を覗き続けていたら飲み込まれそうな深い闇がそこにはあった。

 

「貴方が責任者。追って委任状を発行します。報告は順次行ってください」

 

 そう告げられ、鄧艾は身を震わせた。

 きっと採用してくれるという思いはあったが、まさか自分が責任者としてこれほどの仕事を任されるとは思ってもみなかったのだ。

 小躍りしそうな気持を抑えながら、頭を下げた。

 

「ありがとうございます!」

 

 興奮した彼女は珍しく大声を上げた。

 すると何故か、いつもの吃音は出てこなかった。

 


 
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