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Blue-Crystal Vol'07 第一章 ~代理戦争~

C96発表のオリジナルファンタジー小説「Blue-Crystal Vol'07 ~White Knight of the Holy war~」のうち、 第一章を全文公開いたします。

2019-07-30 21:38:20 投稿 / 全5ページ    総閲覧数:1049   閲覧ユーザー数:1049

 

<1>

 

 そこは数多なる『無』によって支配された空間であった。

 第一に、そこには光がなかった。

 辺りを照らす灯火もなければ、灯りをもたらす陽光もない。

 天を仰いでも、地へと視線を落としても、或いは前後や左右を眺めても、視界に入るのは濃も淡もなき均一なる黒。

 まさしく真にして不変なる闇。朝を奪われた世界。

 第二に、そこには音がなかった。

 人気のない夜の山中とて、耳をすませば風に揺れる木々の騒めきや、虫の鳴く声、巣穴に籠って眠りにつく動物の微かな寝息など、様々な音が聞こえてこようもの。

 だが、ここにはそのような音すらない。

 風も吹かず、虫も鳴かず、動物の呼気の音すらもない。

 ──そう。第三に、そこには命がなかったのだ。

 何も見えず、何も聞こえず、他者の気配を察知することもない。ただ無限に広がる『無』の空間。

 もし、このような場所に人の類が足を踏み入れようものならば、その者の精神は忽ちのうちに変調をきたしてしまうことだろう。

 しかし、この闇と静寂の世界は今、一人の来訪者を迎えていた。

 ゆるりとした足音と、荒い呼気の音を伴いながら。

 その者は時折、身震いを起こす。

 陽光なき世界ゆえであろうか。この空間はまるで氷雨が降りしきった後のような、強烈な冷気を帯びていたがゆえに。

 にも関わらず、この来訪者は闇を照らす灯りの類も、この寒さをしのぐための装束も一切身につけず、唯一その身に纏っているのは周囲の闇に溶け込むかの如き黒く染め上げられた衣服のみ。

 その者は終始無言。この遥か遠くまで続く『無』の世界のなかを、あてもなく彷徨い続けている。

 前髪の隙間から覗く両目は瞬きを忘れたかのように見開かれ、その前方を見据えていた。

 だが、双眸の奥に宿る光は虚ろ。まるで夢現の狭間にいるかのように、遥か遠くまで続く闇を眺め、歩むその足取りはどこか覚束ない。

 その様はまるで死してもなお現世を彷徨う屍人のよう。

 ただ漫然と、ただ呆然と。

 ここはどこなのか?

 どうして今、自分がこうして彷徨い歩かねばならないのか?

 どこを目指しているのか?

 そして、目指す先で自分が何をしようとしているのか?

 常人ならば咄嗟に思いつくであろうこれらの疑問の数々──だがそれは、この者の脳に一切宿ることはなく、何らかの『理由』によって、このような正常なる思考の類は悉く洗い流されているかのようであった。

 そして事実、その『理由』は存在していた。

 その『理由』とは──『祈り』

 この者の頭の中に巡り続けている『祈り』の言葉であった。

 神へ救いを求める、信仰ゆえのものではない。

 数多なる怨嗟や後悔、嫉妬や羨望。多種多様からなる負の感情によって構成された歪にして強き思い。

 その性質は限りなく呪詛に近く、その圧倒的な存在感を有した思いは、放浪者の正常なる思考を掻き乱すには十分にして余りあり、やがて、その精神は強烈に侵すほどに至っていた。

 幾度となく繰り返される『祈り』の言葉は、かならずこの一文より始まっていた。

 ──どうして、こうなってしまったのだろうか?

 青年とおぼしき男の声。

 一切の抑揚すらない無機質めいた声。だが、それゆえに狂気の色彩が一層際って強く感じられる。そんな類の声であった。

「全てが順風満帆に行くはずだったんだ……」

 青年は暗黒の虚空へと向けて呪詛の言葉を吐き続けていた。

「大きな失敗をすることもなく、何事にも不自由することなく、ただ平穏に生き続けられるはずだった」

 烈火のごとき怒りと、汚泥のごとき悔しさの念が青年の感情を昂らせる。

 声が震え、涙が入り混じる。

「どうして、僕ばかりがこんな目に……」

 次なる言葉を口にしかけた刹那、この暗黒の空間に僅かな変化が生じた。

 涙に濡れた澱みし眼に、光が宿ったのである。

 真白く輝く強き光。闇の中を歩む彼の前方より突如差し込まれた光が反射しただけであった。

 古来より人間の手によって拓かれた文明、その開祖は炎であると言われている。

 獣を避け、身を守るため。

 耐え難き厳冬の寒さによって冷えた身体を癒すため。

 加熱調理という概念を生み、日々の食事に大きな変化の幅をもたらした。

 そして何よりも、炎がもたらす『灯り』は人の目の届かぬ夜の闇を照らし、活動の時間と範囲を大きく拡大させた。

 そう。本来『光』というものは人間にとって長く慣れ親しんだもの。その種族の根幹に存在する盟友と称しても過言ではない。

「──やめろ! どうして僕の邪魔をする!」

 しかし、青年はその長年の盟友に向け、強い憎悪の思いを込めて睨み付けていた。

「元はと言えば、お前が──」

 遮られるかのように、彼は言葉を止めた。

 誰かに横槍を入れられたわけではない。誰からも口を挟まれたわけではない。

 当然である。この命なき闇の中で存在するのは唯一、この青年のみであるのだから。

 そう。傍目には──

 事実、この場に存在していたのだ。彼の言葉を遮るかのように横槍を入れ、昏き『祈り』に口を挟む者が。

 その者は不可視。その声は不可聴。その存在とは彼の脳の中に在り、その声は彼の脳裏にのみ響き渡っていた。

 だが、彼は本能的に覚っていた。声はあの光より発せられていることを。

 ゆえに、青年は光に向かって叫ぶ。

 やめろ、と。

 今すぐ僕を非難する声を止めろ、と。

 だが、頭の中に響き渡る声は従わぬ。そればかりか、彼が声を荒げれば荒げるほど、怒れば怒るほど声は大きくなっていく。

 やがてその声は、まるで確固たる意志を持っているかのように強くなっていき、青年の心を掻き乱していく。

 嘲笑めいた笑いとともに。

『今更何を言っているの? 全ては自分が蒔いた種じゃない』

「──違う!」

『どうして違うと言い切れるの?』

 声に笑い声が伴う。嘲笑めいた笑い声が。

『人としての禁を破って魔物と契約を交わしたのも貴方。その瑕疵によって自分の身を滅ぼしただけのことじゃない。滅ぶべき正当な理由があったにも関わらず、貴方はそれを認めようとはしなかった。大人しく消滅したままでいれば良かったものを性懲りもなく現世に舞い戻って罪を重ね、今もまたこうして追い詰められているんじゃない』

「僕は追い詰められてなんかいない! 騎士団は僕の力によって滅ぼされ、北部の主要な街は壊滅し、いまだ復興していないじゃないか。聞くところによると宮廷は近く、この北部の統治を放棄するのだそうだ。街もなく、騎士団もなく、国が統治を放棄したんだぞ。何を根拠に僕が追い詰められているというんだ!」

 青年は声の限りに叫んだ。だが、その声は虚しく闇の中へと響き渡り──やがて消えていく。

『追い詰められていない──ですって? いいえ、貴方は着実に追い詰められている』

 だが、その声は遥か遠くの光へと届いていた。

 距離を超え、彼の脳内へと届けられた声は嘲りの笑いを伴って発せられた。

『忘れたとは言わせないわよ──貴方が率いている『聖皇庁』の拠点であるエインゼルク地方が何者かの勢力によって制圧されたことを』

「そ……それは……」

『しかも、制圧された原因はシーインの街にある廃墟に納められていた構成員の『聖書』──それらが全て焼やされたことによるものだそうじゃない? そういえば貴方だったわね。廃墟の地下に隠されていた文書の数々を衆目に晒されないようにするため、その前室に『聖書』を敷き詰めることを考案したのは』

 青年は押し黙った。

 名案のつもりだったのだ。あれだけの膨大な文書──教団の暗部に関わる数々の証拠。配下の信者の目に触れようものならば、その信仰心は瞬く間に瓦解するに違いなく、また教団と無関係の人間を雇おうものならば僅かに残存していた信心は悉く吹き飛ばされ、教団に対する敵愾心を煽る結果となってしまうことだろう。

 ゆえに、文書の処分は教団の暗部を知る、ごく限られた者達の手のみで行わねばならぬ。その状況下で一切の人目に触れることなく外へと持ち出し、処分することなど現実的な話ではなかったのだ。

 万一、シーインが敵の手に落ちたとしても、『魔孔』との契約者以外が触れればその者に危害が及ぶ『聖書』をあれだけ敷き詰めれば、その奥に存在する文書の発掘など不可能。

 ましてや、前室にあの殺人人形を配置し、更なる防衛能力の強化を図ったのだ。まさに水一滴すら漏らさぬほどの防衛態勢と自負できる。

 ──そのはずだった。

 タイラー高司祭の奇襲によって危険性の最たるものである『白書』の奪還こそ成功したものの、廃墟は悉く調べ尽くされ、多くの文書が衆目に晒される結果となってしまったのだ。

 恐らく『聖書』の焼却は、廃墟内の文書発掘が全て終わったことで執り行われたことだろう。それによる影響を最大限に生かすため、謎の勢力はその時期を見計らってエインゼルク地方の攻略に打って出たのだろう。

「では、その勢力とは一体……」

 吹き飛ばしたはずの騎士団に生き残りがいて、シーインなどの被害の少ない地域に駐留している騎士隊と合流したのだろうか?

 いや、宮廷が北部の統治を放棄する意向を示した以上、それは考えにくい。王家や宮廷の飼い犬に過ぎぬ騎士団ならば、その意向を忖度し、境界線以北の隊は撤退のための準備へと取り掛かるはず。

 では、最近宮廷に横槍を入れ始めた諸外国の勢力か?

 宮廷が放棄の意向を示したとならば、北部は空白地も同然。放棄された領土が目前にあるのならば、その領有権を主張し、支配に乗り出すのはまさに各々の国益にかなった行為である。

 だがそれは、領有することによる利益が、支配に乗り出すために必要な負担を上回っている場合ならばという前提がある。このラムド北部は絶えず『魔孔』が見下ろす焦土も同然の地帯。開拓するにせよ開墾するにせよ、隆盛を極める魔物の脅威と隣り合わせで行わねばならぬのだ。そのような場所を領有する利点など皆無。

 事実、この国は五百年前に諸外国より侵攻を受けた際、旧北王家が『魔孔』を召喚したことによって侵略軍を撤退へと追い込むことに成功を果たした経験がある。支配する利のない土地を支配することがいかに虚しく、無駄極まりないことか骨の髄まで熟知している。

 そう。この北の地は放置されて然るべき場所なのだ。

 世間から放置され、何者からも干渉されぬ世界。

 批判されることもなければ、非難されることもない。

『努力』を強要されることもない。

 彼にとってこの場所こそが『楽園』。

 この場所こそが、まさに『理想郷』──

「──!」

 青年は気付いた。

 この『楽園』を脅かそうとしている謎の勢力。そこに深く関与しているであろう者の存在を。

 心当たりがあった。この『理想郷』に否を突きつけ、唾棄した者の存在に。

 だが、その者は既に死んでいるはずであった。

『魔孔』内に蓄積した魔力の炸裂──あの絶大なる威力を誇る『閃光』を間近、真正面より受け、弾き飛ばされたのだから。

 助かろうはずがない。仮に助かったとしても、その五体が満足であろうはずがない。

 万一、命も五体も満足であったとしても、『閃光』発動後、急激に膨張を始めた『魔孔』に取り込まれることは避けられぬはず。

 その肉体を魔物の餌とされてしまうか、『魔孔』の魔力にあてられ肉体が奇形してしまうか、精神を腐敗させ廃人或いは狂人と化すに違いない。

 無論、そうなれば再起は不能。一群を率いて再攻撃を行うことなでできようはずがない。

「──いや、違う!」

 青年は我に返ったかのように天を仰ぎ、その甘い考察を否定した。

「奴らは無事だ。無事だからこそエインゼルクは制圧されたのだ。だからこそ──」

 この光は──僕を挑発しに来たのではないのか?

 そう。この光こそが『魔孔』に取り込まれた奴らを無事に逃がした張本人なのだから。

 いつの間にか『声』は止んでいた。

 顔中に汗の雫が浮かぶなか、青年が浮かべたのは──笑み。

 凄惨めいた豺狼の笑みであった。

「貴様ら──奴らに託したな? 奴らが再び力をつけ、自分の無念を果たしてくれる──そんな一縷の望みを」

 荒く息を吐き、青年は現状の意味を理解した。

「なるほど、まるで信仰だな。存在することのない神に縋り全身全霊で祈りを捧げるように、貴様らもまた勝算のない博打に打って出たというわけか」

 だが、その博打は今、僅かに勝ちの目ができはじめていた。

 ゆえに彼ら──あの光は挑発し、揺さぶりをかけにきたのだろう。

 僅かでもその勝率を上げるために。

 意識は不意に途切れ、闇の世界へと落ちていくなか青年は高らかに宣言した。

「いいだろう。貴様らの託宣、この僕が打ち砕いてみせよう。この楽園を──理想郷を守るために」

 

 何かが弾けるような感触とともに青年──ベルゼは覚醒した。

 ルインベルグ大聖堂内にある彼の私室。その奥にある絢爛な椅子に座した姿勢のまま、彼は眠っていたのだった。

 大量の寝汗によって衣服が肌に張り付く感触は不快。だが、先刻の鮮烈なる夢から解放されたことによる安堵感のほうが強かったのだろう。深く息をつき、背もたれに身体を預けた。

「また、この夢か──」

『魔孔』内にて魂の再生の途上にあるタイラー高司祭の後を継ぎ、大聖堂の幹部となってからであろうか、それともエインゼルク地方にある『聖皇庁』の拠点が潰された一報を耳にしたからであろうか。

 ベルゼは同じ夢を見るようになっていた。

「ここ最近、その頻度が増えた気がする。やはりエインゼルクが落とされたことが、知らぬ間に心の重圧になっているのだろうか?」

 事実上、空白地となっている北ラムド地方の覇権を得ることを目論む諸外国勢力によってエインゼルク地方が制圧されてから一年。『聖皇庁』の力が著しく低下したことにより、生贄とする女性の獲得──『魔孔』へ魔力を提供する手段を失っていた。

 ルインベルグ大聖堂が有する戦力の殆どは『魔孔』より現れた魔物の軍勢と、これらと契約を交わして転生の魔力を得た僧兵たち。

『魔孔』の向こうよりいくらでも供給することが可能な魔物も、その単体で見れば、殆どが手当たり次第に暴れ回ることしか能がなく、言葉も通じぬゆえに統率など不可能。

 また、転生の魔力を備えた僧兵たちも、死してもいくらでも再生、やり直しが可能であるという特殊な境遇ゆえ、武装集団に不相応なほどの甘えが生じていた。往々にして練度が低く、南より押し寄せる武装勢力を跳ね返すほどの戦力を有しているわけではない。

 ゆえに、教団にとっての頼みの綱は『閃光』──それによる抑止力に頼らざるを得ぬ状況。

 だが、『魔孔』に魔力を蓄えるために必要な生贄供給部隊である『聖皇庁』の拠点が叩かれた今、それすら十分に行えぬ。

 生贄の供給体制を再構築し、一刻も早く、この先細りの状況を打破せねばならぬ。

 まず、ベルゼら教団幹部は『聖皇庁』の再結成を提唱し、僧兵らのなかより新たな構成員を募った。

 だが、敵は彼ら転生者の弱点が『魔孔』との契約の証である『聖書』の焼却であることを熟知している。そんな者達が目を光らせるなか目立つ行動をとるということは、それだけ自らの『消滅』の危険性が高まることに等しい。

 それはまさに、安易な死と再生を求めて転生者となった彼らの利益と相反するものである。当然、ベルゼらの提唱に応じる者は皆無。教団内における求心力の低下を恐れた幹部たちは提唱の取り下げを余儀なくされた。

 ならば、教団勢力圏内に残された女性たちに生贄となる者を産ませようと目論むも、適齢期の女性の殆どが既に生贄に捧げられているため既にこの世になく、残った者も動きを事前に察知した敵対勢力によって保護された後であることが発覚。

 ならば奴隷制度のある一部の諸外国に食指を伸ばすため密輸団を結成するも、ラムド国の代表的な港は全て教団勢力圏以南、全て諸外国勢力の影響下にある。常時臨戦態勢にあるがゆえ、これら港湾に入出港する船舶に対する監視や規制が強化されていた。

 このラムド国には教団の息がかかった商会がいくつか存在している。いくら教団が密輸団結成の協力呼びかけようとも、彼らは割に合わぬと悟っているのか芳しくない返答に終始するのみ。

 ある商会は言葉を濁し、またある商会ははぐらかしを続け、また別のある商会は、最初から呼びかけなどなかったかの如く、無視と沈黙を決め込んだ。

 エインゼルク地方にある『聖皇庁』の拠点を失った影響を補うための抜本的な解決策が何一つ構築できぬ──これが現在、ベルゼら教団の状況であった。

 まさに八方塞がりに等しい状況。

 このような苦悩に苛まれるがゆえ、ベルゼはこのような悪夢にうなされるのであろうか?

 今にでも自ら命を絶って別の肉体へと転生し、この立場から降りたいという衝動に駆られる。だがしかし、今の彼がこの地位を得ることができたのは『聖皇庁』の一員としての努力の成果であったのだ。

 二百余年もの間、数度の転生を経て初めて自分というものを評価をしてくれたこの教団こそが自分にとって唯一の居場所。

 抜け出すことなど、どうしてできようか?

「──くそっ。忌々しい!」

 数度の転生を経て得た美しい肉体、その端正な顔が悪鬼の如く歪む。

 その時、部屋の扉をノックする音が聞こえた。

「入れ!」

「失礼いたします」

 不機嫌な声に一切怯むことなく、入室したのは二人の美女。

 二人の名はリーゼとローラ。

 ベルゼによって『魔孔』と契約を交わされ、二百年もの間、数度の転生を経てもなお情婦としての立場を強要され続けている哀れな女、その成れの果ての姿であった。

「ご機嫌を損ねているとお察しいたしましたがゆえに」

「愛しき貴方の御心を癒すため、たまらず飛んでまいりましたわ」

 そう言い、二人は微笑みかけた。

 傍目には最愛の恋人へと向けられた女の笑みそのもの。だが、その潤んだ瞳の奥に微かに宿る澱んだ色彩が、彼女らの真意を物語っていた。

 ──それは虚無感。

『魔孔』との契約によって自我を封印され、ベルゼを嫌悪することも拒絶することも許されず、転生の魔力を付与されたことにより死による終焉の道も閉ざされ、二百年にわたり情婦としての立場を強要され続けてきたのだ。

 今、彼女たちの魂、真の自我がどれほどの苦しみを受けているのだろうか。常人には到底、理解することなどできないだろう。

 しかし、今のベルゼにとって、その血の通わぬ愛の言葉、恣意的に造られた笑顔こそが唯一の癒しであった。彼は僅かに顔をほころばせ、愛しき肉人形の来訪を心より歓迎する。

 すり寄ってくる二人の肩を抱き寄せ、その頬に口づけをする。

「心配をかけたな」

 その顔に真顔の仮面を装い、落ち着き払った声音で言った。

「少し悪い夢を見ていたようでな。それで不機嫌なように見えたのだろう」

「まあ」ローラは驚いた素振りを見せる。「それはお可哀想に」

「やはりエインゼルク地方が敵の手に落ちたことがベルゼ様にご心労を与えているのでしょう。ですが、ご安心下さいませ。ベルゼ様の敵はこのリーゼが全て倒してご覧に入れましょう!」

「落ち着いてよ、リーゼ」いきり立つリーゼをローラが宥める。

「貴女がここを離れたら、誰がベルゼ様をお守りするの?」

「そう……だったわね」

 騎士であったリーゼが怒り、僧侶であるローラが宥める。

 二百年余りもの間、何度このやりとりを見たことだろう。

 一度たりとも変わることのないこのやりとりを。

 これもまた契約によって彼女らの真なる自我を封殺された影響。

 しかし、その契約を強要した張本人たるベルゼは、既に脚本が存在しているこの情婦たちのやりとりを、まるで演者本心からの言葉であるかのように受け止めていた。

 ゆえに、顔が綻ぶ。心が癒される。

 この回復の速さこそが彼の才能。見え透いた甘やかしを、おのれの癒しのため最大限に活かすこと。

 二百年もの時間、分不相応なまでの誇大妄想に駆られ続けてきたからこそ、このように嘘で塗り固められた言葉を真に受けることを可能としていた。

 その様はまさに醜怪なる魔物。承認欲求に餓えた哀れな餓鬼そのものであった。

「……ありがとう。二人のおかげで立ち直ることができたよ」

 精一杯の格好をつけ、ベルゼは作られた言葉を紡ぐだけの人形と化した二人に心からの感謝の言葉を述べた。

「要件はこれだけじゃないのだろう? 君たちも『聖皇庁』の一員としての任務に多忙を極めている身、僕を気遣うためだけにわざわざ時間を割いてくれるとは……」

「そんなことはございませんわ!」

 僧侶のローラが心外だと言わんがばかりに目を丸くする。

「私たちはいつでも貴方様のおそばに居たいという思いに駆られ続けてございます。今の事情が事情ゆえに三人の時間が満足にとれず、私たちは常々身が裂かれるほどの辛さを味わっておりますわ。先程のリーゼではございませんが今すぐにでもこの大聖堂を飛び出して、その原因である諸外国勢力を倒してしまいたいと思ってしまうほどに」

「……ですが、この度に関しましてはそのご明瞭──さすがは我々が心より敬愛するベルゼ様と言わざるを得ませんね」

 感情的に振る舞うローラに代わり、リーゼが武人らしい落ち着き払った声音で言った。

「本日は、ベルゼ様との面会を希望するかたをここまでご案内いたしました次第」

「面会だと?」

 想定外の理由に、ベルゼは怪訝めいた表情を浮かべる。

「また街の人間が性懲りもなく窮状を訴えにきたのか? そういった手合いはその場で始末しろと番兵に命令していたはずだが?」

「いいえ。違いますわ」

 リーゼは穏やかな微笑を浮かべ、ベルゼの言葉を柔らかく否定する。

「アルトリア宮廷からの使者とのこと」

「──宮廷からの使者だと?」

 情婦よりもたらされた情報に驚き、ベルゼは思わず目を瞠る。

「本物なのか?」

「アルトリア宮廷保守派を表す封蝋が施された密書を携えておりますがゆえ、本物に間違いございません」

「そうか……」

 ベルゼは押し黙り、思考に耽った。

『閃光』発動によって、アルトリア宮廷はなおも大聖堂との敵対関係を維持しようとする王家を議会より放逐し、北教区の統治を放棄する方針を打ち出したのではなかったのか?

 そんな宮廷の連中が、どうして今更このルインベルグを訪れる必要があるというのだろうぁ?

 既に無関係の関係となった自分に、今更どんな話を持ちかけ、何を求めるというのだろうか?

 皆目、見当がつかない。

 だが、興味があった。保守派──宮廷の一派が、この大聖堂を訪れたという事実と、その理由に。

「宮廷内も一枚岩ではないということかも知れないな」

「そうでしょうね」リーゼも彼に同意する。

「ラムド国は五百年もの間、このルインベルグが主導してきた巫女制度によって『魔孔』との適度な関係性を保ち、平和を維持してきたという確固たる実績がございます。効果のわからぬ革新的な方法よりも、歴史に裏打ちされた確実な方法を重視する保守思想を持つ者にとって巫女制度は今も魅力的なものに他ならず、そう簡単に捨てきれるものではございませんでしょう」

「いかがなさいましょう?」

「ふむ。なるほど……」

 再び黙し、思案に耽る。

 そんな静かな時間が流れること数瞬、ローラが小首をかしげ、面会の許否を問う。

「いかがなさいましょう?」

 だが、既にその時には、ベルゼの意志は固まっていた。

 リーゼが、そんな彼の心の動きを察し、外に待機していたものに命じる。

「──使者の方の入室を許可する。入ってもらえ!」

 

 <2>

 

 現れた宮廷の使者とは、痩せた中年の男であった。

 長旅ゆえか、あるいは過酷な北の環境によるものか、その顔色に浮かぶ疲労の色彩は濃い。

 だが、その表情は毅然としたもの。自称した身分に相応しい風格を備えていた。

 彼はロナンと名乗った。

 王都議会に属する議員にして侯爵位にある貴族。南教区南部を管轄する氏族の当主であると。

 交渉の卓についたロナンは開口一番、此度の訪問の目的を、このような言葉を用いて告げた。

「私は宮廷の保守一派の代表として、貴殿の支援のために馳せ参じた次第」──と。

「支援?」

 ベルゼの後ろに控えていたリーゼが怪訝めいた表情を浮かべた。

「貴方は宮廷の人間なのでしょう? ベルゼ様がご発動なされた『閃光』の事は十分にご覧になられたはずです。宮廷の人間にとってみれば、我々はによって国土の北半分を焦土へと変えた破壊者も同然なはず。貴方たちに何の利益があって、そんな我々に支援を申し出てきたというのでしょうか?」

 声にこそ出さなかったが、ベルゼも彼女と同じ疑問を抱いていた。

『閃光』の発動によって、『巫女』制度廃止のため圧力を加えにきた騎士団を壊滅状態に追いやり、その結果、騎士団本来の役割たる街や集落の守衛、治安維持と管理の機能を不全に陥らせ、それが宮廷議会の意志を北教区の放棄へと大きく偏らせていったのだ。

 そう。ベルゼは国土の半分を失った今のラムド国の凋落、その直接的な原因。国賊も同然の存在と言えよう。

 この国の人間ならば、絶対に相入れることのできないはず。

 平和的な解決を望むことなど絶対に許されぬ間柄。

 にも関わらず、このロナンという王都の貴族──そんな不倶戴天の敵であるはずの自分に、事もあろうか『支援』を申し出てきたのだ。

 その目的、皆目見当がつかぬ。

「貴方も転生の秘術を授かりにきたというのですか?」

 もう一人の情婦、ローラが問いを発した。

 まるで、彼の意志を汲む真心ある女、以心伝心の間柄であるかのように。

 無論、これも演出。

 全てはベルゼが最も喜ぶ反応を、適切な時機にさせるため。

 彼女の脳は、契約によって常にベルゼの意志が流れ込むように仕組まれているのだ。

 そんな演出によって紡がれた問いの言葉を、眼前の貴人は一笑に付し、否定する。

「おのれの死を前提とした秘術に身を委ねる勇気など、臆病な私には無縁のもの。所詮、おのれの地位を死守することで精一杯な俗物なのですよ」

「なるほど」ベルゼは答えを得た。「つまり、貴殿らの地位を守るために僕の力が必要である、と?」

「……さすがはベルゼ殿。察しが良い」

 ロナンは不敵な笑みを浮かべ、ベルゼを褒めちぎった。

「今、我が国は危機に瀕している。国の中枢を担う宮廷や王家──本来、その国の自主性によって保たれねばならぬはずのこれらが、諸外国勢力による侵食によって、その権威が失墜しようとしている。今、この北教区を進行し、貴殿の存在を脅かそうとしている勢力、それと根を同じくしている連中よ。奴らの中心にはあの大国──鷲獅子国がおり、それゆえに規模は巨大。騎士団なきラムドはこれに抗う術はない」

 まさに侵略行為だ──そう、貴人は吐き捨てた。

「このままでは我が国は奴らに乗っ取られてしまう。それを防ぐには絶大な力を持った救世主が必要だ。外患を取り除く英雄──志あるラムド人の存在が」

「……」

 押し黙るベルゼに、ロナンは更に畳み掛ける。

 まるで王か神にでも拝するかのごとく、恭しく頭を垂れながら。

「宮廷の一派を代表し、恥を忍んで頼み申し上げる──今、この国を蝕まんとする他国勢力を排除し、侵略より守るための『英雄』となってはくれぬか?」

「英雄……だと?」

 ベルゼの瞳に疑念の色が宿る。

 俄かには信じられぬ言葉であった。

 当然であろう。この二百年もの間、自分という人間がもつ能力、その底の浅さというものを自覚していたのだから。

 ゆえに、努力というものに価値を見出せなかった。

 自分は何者にもなれず、浅薄な理由で自死と転生を繰り返しては、ただ漫然と怠惰と快楽を貪り続けていた。

 事もあろうかこの眼前の男は、そんな自分に英雄になれと言っているのだ。

 国土の半分近くを破壊せしめた、この自分を。

 これが、ラムド国の執政を担わんとする者の言葉だと言うのか?

 筋の通らぬ話である。裏があると見るのが妥当。

 考えれば当然の話。ベルゼの勝利とは即ち、諸外国勢力によるルインベルグ制圧の失敗と同義。そして眼前のこの男は、その失敗によって得をする立場にあるということ。

 北教区は広大な平原によって大半が占められる土地。『魔孔』の脅威さえなければ、商業的・経済的な伸びしろは大きい。

 そんな恩恵の大きい場所を諸外国の連中が我が物顔で闊歩することなど、保守的・国粋主義的な彼らにとってあまりにも屈辱的。許しがたいことと言えよう。

 極論、そのような屈辱に甘んじるくらいならば『魔孔』が健在のまま、北教区が焦土同然の状況であったほうが望ましいとすら考えていてもおかしくはない。

 つまり、彼らにとって『魔孔』の存在を維持することを目的とした自分達──生粋のラムド人のみで占められたルインベルグ大聖堂の存在は諸外国勢力による北教区の支配を防ぐための、言わば最後の砦。

 無論、彼らとて為政者である。人々の生命を危険に晒す『魔孔』の存在を心から歓迎しているわけではないだろう。

 そう。彼らも追い詰められている。こんな自分達に縋らなければならないほどに。

 欲しているのだ。『魔孔』消滅への最後の手段として諸外国勢力を招き入れた対立派閥への攻撃材料を。

 諸外国勢力が敗北し、対立派閥の間違いが証明されれば、必然とロナンら保守派の立場は強くなり、宮廷内の形勢が逆転するのだ。

 ベルゼは得心した。

 彼らの真の目的とは、このルインベルグを舞台として、宮廷内において分裂した派閥の──言わば代理戦争を繰り広げることであろうと。宮廷内保守派の代理として、自分を利用しようとしているのだろうと。

 ──まっぴら御免だ。

 だが、次の瞬間、彼の口を突いて出た言葉は、そんな自身の意志とは真逆のものであったのだ。

「──どんな協力をしてくれる?」

 利用されるだけとはわかっていた。

 敗色が濃くなれば、この差し伸べた協力の手は簡単に切れる──そんな薄情なものであるのはわかっていた。

 この男が何の地位も背景もない、凡百な人間ならば、ここまで心動かされることはなかっただろう。

 だが、このロナンという男は爵位を有したれっきとした貴人。かつての自分のような田舎貴族ではない。王都に一定の勢力を持つ大派閥の一員。言うなれば成功者である。そんな成功者が自分を英雄と称えているのだ。

 二百年余りもの間、飢餓同然に陥った承認欲求を拗らせ続けてきたベルゼにとって、そんな自分を英雄と称したロナンの言葉はあまりにも甘美だった。

 些末な不信を簡単に凌駕するほどの強烈な魅力を備えていたのだった。

 ベルゼの返答を受け、ロナンは口元に笑みを浮かべた。

 交渉の成功を確信した、そんな笑みを。

「必要なものを言え。金でも物資でも、宮廷保守派の誇りにかけて貴様に提供しよう。無論、今の南教区は他国勢力の連中の目がある以上、限界はあるがな」

「それが──『魔孔』に捧げる生贄の女でも?」

 ベルゼは問うた。

「察してはいようが今、我々の旗色は悪い。『魔孔』の存在と、奴らの脳に刻み込まれた『閃光』の記憶が牽制となって、これ以上の侵攻を防いでいるだけのこと。これを機に『魔孔』へ大量の生贄を捧げて、再び『閃光』の発動を可能とさせるほどの魔力を蓄積させねばならないんだ。これこそが僕にとって唯一の勝利の手段なのだが──頼みの綱である『聖皇庁』は壊滅。八方塞がりとなっていたところだったのさ」

 水面下とはいえ手を組むのだ。

 ならば、同じ罪を背負ってもらわなければならない。

 利用されるのはわかっていた。

 だが、利用されるにしても都合の良い捨て駒になるつもりはなど毛頭ない。

 ゆえに彼は眼前の貴人に、その覚悟を問いかけていた。

 自分と同じ下衆に成り下がる覚悟を──

「無論だ。それが、貴殿の勝利に寄与するのならば」

 だが、ロナンは僅かたりとも間を置かずにそれに応えた。

 一切の狼狽えも、言葉の詰まりもみせず。

 まるで、ベルゼの思惑も看破していたかのように。

「──可能なのか?」

「ああ。生贄を調達するに適した場所に少々心当たりがある」

 ベルゼからの更なる問いに、貴人は小さく頷いて見せる。

「無論、人間が相手となる荒事だ。我々とて危ない橋を渡ることとなるだろう。だが、このまま貴殿らと手を組まずにいたとて、いずれ我が派閥は宮廷にいられなくなる。そんな愚を犯すくらいならば──という総意により、此度こうして私は貴殿のもとを訪れている」

「……なるほど」

 ベルゼの声が思わず上擦る。

 槍の穂先のごとき鋭いロナンの視線に胸を射貫かれて。

「我々の要求はただ一つ──『勝て』」

 そんな彼の動揺──心の間隙を突くかのように、ロナンは言った。

「貴殿さえ勝てば、宮廷を実質支配している他国勢力、奴らを支えている『正しさ』という根拠が崩れる。同時にそれは我々にとって強烈な追い風。身を任せれば間もなく議会はひっくり返る。政権さえ握ってしまえば生贄調達の疑惑を揉み消すなど至極簡単なことなのだから」

 ベルゼは背中に冷たい汗が流れるのを感じていた。

 同時に直感する。

 この男、自分とは方向性こそ異なるものの想像以上の下衆だ、と。

 動揺するなか、そんな彼が浮かべたのは──笑み。

 豺狼めいた笑みであった。

 この男ロナンに『運命』めいたものを感じずにはいられなかった。

 利害の一致だけではない何か──同じ性質の人間同士の惹かれあいめいたものを。

 ゆえに彼は信じた。同じ人種であるこの男を。

 同じ下衆である、このロナンという男を。

「もし、俺が勝てば、お前達は俺に何をしてくれる?」

「我が派閥の顧問になって頂こうと思っている。政権を担う派閥の顧問ともなれば、貴殿の意見は国政に大きな影響をもたらすことであろう。現王家が諸外国勢力を招いた革新派の走狗に成り下がって失脚した以上、その立場こそが実質ラムドの王に等しき地位と言っても過言ではない。救国の英雄となった貴殿が顧問となって頂ければ政権の基盤、ひいては貴殿の地位もより盤石となることだろう」

「それは確かに魅力的な条件ではあるが、僕はどうも恵まれた星のもとに生まれたわけではないみたいでね。国という大きなものを任せられても困る」

「ならば、故郷のリュートに戻り、再び領主生活に返り咲くのもまた一興。リュート守衛隊の連中は先のルインベルグ派兵によって大部分を失っており、貴殿の醜聞は今や耳聡い一部の市民による風評で語られるのみ。武力で脅すなり金を握らせるなりすれば、簡単に雪ぐことができるだろう。貴殿が帰郷を望むのならば、そのために必要な手練手管は我々が担っても良い」

「──!」

 その言葉にベルゼの胸中は大きく揺れた。

 そんな彼の思いを代弁するかのごとく、そばに控えていたリーゼとローラの表情が、まるで花が開いたかのような笑みに彩られる。

 リュートの街。ベルゼの故郷にして、三百年以上続く彼の家名に因んで名付けられた街。

 あの街で家の名を耳にすれば、畏敬せぬ者は皆無。往来を歩けば誰もが自分に敬意を払い、その素行に口を挟まれることもなかった。

「……帰れるのか」

 感慨深げに漏らす。

 当時のリュートの街は、まさに楽園だった。

 だが今、その名声も三年前に暴露された醜聞によって地に落ちている。

 事実、領主であるリュート家は地位を剥奪され、それに倣う形で協力者であったリーゼの家とローラの家もまた貴人の序列より排除されており、取り決めによってそれは永久に回復せぬものと定められている。

 彼らにとっての楽園は今や単なる徒花。

 いくら望んでも、帰ることは許されぬ。

 あの楽しかった日々は、もう戻ることはない。

 だが、その大前提は今、このロナンの手によって大きく覆された。

 今後、押し寄せてくるであろう諸外国勢力に勝つことができれば、再びあの輝かしい日々が返ってくるのだと。

「嘘はないのだな?」興奮冷めやらぬといった様子で、ベルゼが問いかける。「再び領主として、貴人としてあの日々を返してくれるのだな?」

「貴殿が結果を出し、その見返りとしてそれを強く望むというのならば、一日も早くその環境を整えることに全力を挙げることを約束しよう──このロナンの名に誓って」

「そうか……」

 ベルゼは椅子に座り直し、眼前の貴人を正面より見据えた。

 意志は決まった。

 宮廷の覇権をめぐる代理戦争と化したこの戦い。その最前線に送り込まれることを、遂に彼は承諾したのだ。

 利用されているということは百も承知であった。気に食わぬという感情がないと言えば嘘になる。

 だが、それに相応しい対価が貰えるのならば、断る理由などない。

 自分もロナンと同じであったのだ。

『白書』をはじめとした『魔孔』に関する資料のほとんど全てが敵の手に渡っている以上、このまま手をこまねいていては、あの諸外国勢力に何かしらの方法で『魔孔』への対策が施され、自分はきっと敗北を喫してしまうのだから。

 こうして今、二人の狂人が手を取りあったのだ。

 待っているだけでは敗北を待つばかりの──後のない狂人たちが。

 数瞬の間を置き、ベルゼは新たな同盟者に最初の要望を出した。

「今から言うものを用意してほしい。可及的速やかに」

「わかった」

 ロナンの目つきが一層鋭いものへと変じ、その眼光がベルゼの胸を貫いた。

「さあ、話せ──」

「ああ。では──」

 

 <3>

 

 南教区最南端の街ラズリカ。

 北教区の最北端ルインベルグ、王都アルトリアに次ぐ第三の宗教的拠点であるこの街に聳え立つ聖堂は、前者二つに勝るとも劣らぬほどの威容を誇っている。

 隣にある広大な敷地は聖堂が管理する墓地となっており、古くより高名な僧や、宗教的な偉業を為した偉人のほか、教義の保護に積極的な政策を敷いた為政者や貴族たちが眠っている。

 そんな聖者が眠る墓地に半年前、先のルインベルグへの派兵にて命を落とした騎士達を祀る大きな碑が建てられた。

 多くの僧や宗教関係者が彼らを逆賊と位置付けるなか、ラズリカの聖堂だけが彼らを擁護し、聖人として扱うに至ったのは、その犠牲者のなかにオルク卿が存在していたという事情が起因していた。

 現在、ラズリカ聖堂における最大の支援者はシグルという子爵。オルクの盟友にして、クオレの実父。

 かつてオルクを経由して、教団の実情を聞かされていた子爵は聖堂にその情報を提供。支援者という立場と、知己の間柄であったラーラ司祭の協力のもと、ラズリカ聖堂は教団中枢と距離を取ることに成功を収め、そういった事情が、聖堂に一連の巫女制度を巡る騒動を客観的、かつ冷静な目で見る知性を養わせた。

 その結果、犠牲となった騎士団を『教団の正常化に身を捧げた功労者』という正当な評価を下させるに至ったのである。

 そんな友情の証とも言える碑の傍らには立派な墓があり、今日、その墓は四人の来客を静かに迎えていた。

 彼らは墓を前に静かに祈りを捧げている。

 墓碑には騎士団副官オルクの名が、生前の活躍を称える詩とともに刻まれていた。

 祈りを捧げているのは、この聖地に慰霊碑を建てることを可能とさせた功労者である司祭ラーラ。

 そして、彼女の後方、数歩ほどの距離に立ち、同じく祈りを捧げている三人の若者。

 アイザックとアイリ、そしてクオレ。

 一年前、宮廷議会の意向に反して継戦の意向を示したがゆえに国を追われた者たち。本来ならば、この南教区に存在できるはずのない姿がそこにはあった。 

 今日、彼らが養父の墓を訪れることができたのは、魔物出没の源泉たる『魔孔』の消滅のため日夜奔走する彼らを陰に日向に支援するエルシェたち──周辺諸国勢力の計らいによるものであった。

 この世界には、万国に共通した絶対なる法が存在する。

 人間が魔物と手を組み、利益を享受することを禁し、反した場合、一切の例外なくその者は死罪に処されるというもの。

 ラムド国は長い間、邪法によって『魔孔』と契約を交わされた『巫女』によって長い間『平和』という利益を享受してきた者達である。

 この状況を照らし合わせると、当然ラムド国民はみな有罪となる。

 もし、法を厳密に適用した場合、ラムドの国民は一人残らず刑に処されることとなる。人間社会の秩序維持を大義名分として、他国が武力介入し戦争を仕掛けるには十分すぎるほどの理由となる。

 だが、国家規模──民衆一人ひとりに至るまでの違反は世界広しと言えども例はなく、刑の執行は即ち、ラムド国全土での虐殺をもって行わねば完遂できぬ。

 たとえ正義の名のもとであったとしても、それはあまりにも非人道的にして非現実的な行為である。

 無論、この厳密な刑の執行を主張する国は皆無。ゆえに、その代替案としてラムド国議会を、鷲獅子国を主体とした周辺諸国諸侯の監視下に置くという方法が用いられた。

 彼らの指導のもと『魔孔』対策の陣頭指揮にラムド王を据え、その王を領袖とし、ルインベルグとの継戦を主張する革新派を暫定政権の指導役として任じられた。

 今やこのラムド国は事実上の傀儡国家へと成り下がったのだ。

 これを温情と見る者、各国による領土拡大の野心を修飾するための欺瞞と見做す者、ラムド国民のなかでも意見は多様。

 だが、今まで巫女に依存し、国家として『魔孔』対策に全力を挙げてこなかったのも事実。

 シーインの廃墟より発見された資料により、巫女となった彼女らの犠牲が如何に理不尽にして非人道的なものなのかが明らかになるにつれ、人々はこの国の──国家としての能力の欠如を今更ながらに思い知ったのである。

 それでもなお盲目的に巫女制度を強く支持する者も少なくはない。だが、そういった者達も、沸き起こった機運と同調圧力に屈し、或いは社会的な信用失墜を恐れて、次第に持論を封印していった。

 そういった民意の動き、周辺諸国からの強烈な牽制によってアイザックたちは再び故郷の土を踏むことを可能としていたのだ。

 そう。アイザックらが今、こうして養父の墓前で祈りを捧げているという事実は、この激動の一年間の末に起こった奇跡であると同時に、先頭に立って『魔孔』と戦い続けるという意志を貫き通した──そんな、おのれの努力が結実した成果であったのだ。

 四人は祈りを終え、ゆっくりと頭をあげて大恩のある養父の墓を、改めてまっすぐに見据えた。

「ラムド国は、アイザック殿たちが必ずや蘇らせて下さることでしょう。偉大なる騎士オルクよ、どうか天よりご照覧あれ」

 ラーラは祈りの語句の最後に、そう言葉を添える。

 そんな彼女に向かい、アイリは深く頭を下げた。

「司祭様。ありがとうございます。司祭様自ら、このような場を設けて頂きましたことを天国の養父に成り代わり御礼申し上げます」

「気になさらないでください。これは私自身の罪ほろぼしでもあるのですから」

 ラーラは困惑した表情を浮かべ、僅かに俯いた。

「あの時、旅立とうとするクオレの母君を止めることができていればと、当時の自身の愚かしさを呪わずにはいられません。子爵様より巫女の真実を知るにつれ、私もまた、この国に悲劇を引き起こした当事者の一人であるのだと強く自覚するようになっております」

「……ラーラ様だけのせいではありません」

 俯く聖者の背にクオレがそっと慰めの言葉をかける。

 だが、ラーラは静かに首を横に振る。

 そして、数瞬の間を置き、彼女は告げた。

「私も当時より薄々とは疑問に感じていたのです。この長いラムドの歴史のなか、何人も巫女を送り込んでいたにも関わらず、どうして『魔孔』が完全に消えないのだろうと。もしかしたら『巫女』とは何の解決にもならない無駄な犠牲なのかも知れないのだと。そして──どうしてこの国の人々はこれらに何の疑問も抱かず、さも当然のように受け入れているのだろうと」

 声に強い後悔の念を滲ませながら。

「いえ、本当はわかっているのです。一度『魔孔』が封印されたら数十年は休眠期に入ります。よほどの長寿なかたでなければ、二度とあの忌まわしき孔の姿を見ることはない。そう──一度『魔孔』を退けた世代はこれ以上考える必要がなくなるのです。この国全体が本来直面すべきは果たして何であるのか、という根本的な問題について」

「今にして思えば、これ以上にないほどに無責任な話ですね。結局のところ、後の世代の人たちに全てを丸投げしているだけなのですから」

 クオレが厳しい指摘の声をあげた。

 まるで極寒地の氷柱のように冷たく──そして鋭く。

 無論、それはラーラ個人へ向けられたものではない。

 長年、詐術と欺瞞によって造られた『巫女』という犠牲の上で安穏と平和を貪り続けてきた、過去のラムド国民全てに向けられた言葉の箭であった。

 元巫女の娘は、小さく溜息を吐く。

 その様は、自嘲にも嘲笑とも解釈できる、行き場のない怒りが込められていた。

「……いくらでも時間があったはずじゃないですか。資料を片っ端から解読して『魔孔』の仕組みを研究して対策を練る時間だって。ルインベルグ大聖堂を徹底的に糾弾、宗教的中枢から放逐して教団を再建する時間だって十分に」

 そうしてさえいれば、母さんや私が今こうして辛い思いをしなくて済んだはずなのに──

 クオレは虚空を睨み付け、一筋の涙を流した。

「──本当に馬鹿馬鹿しい。この国の人間であることが恥ずかしく思うわ」

 そんな彼女に同意するようアイリが一度頷き、そして俯いた。

「活動期には考えた人はいたでしょうけどね。でもそんな連中も封印の成功で浮かれ、結局は考えなくなってしまった。巫女という姑息な犠牲についても、時代の生贄という名目で家族を喪った関係者の悲しみについてもも、『魔孔』というものが果たして何であるかという原理原則についても」

「──巫女制度も政治的には正しいだろうさ。日々街に押し寄せる魔物と戦っては騎士や兵士たちの亡骸を目の当たりにさせるより、全ての責任と悲しみを巫女だけに押し付け、人知れず事を成してくれたほうが混乱は少ないだろうからね。少ない犠牲で大きな利を得る、まさに効率的な手段というやつなのだろう」

 そう言ったのは、アイリの隣に立つアイザックだった。

 だが、そんな冷めた言葉とは裏腹、その表情はあまりにも険しい。

「だが、そんな正しさには反吐が出る気分だがな」

 ラムド国は長年にわたり巫女という犠牲を垂れ流し続けてきた。

 理不尽に憤慨したヘクターらによって事実が流布され、諸外国からの苛烈な非難と、武力的な干渉を招いた。

 そう。その正しさを貫き続けた結果、この惨憺たる状況が生まれたのだ。

 数奇な運命の悪戯ゆえに今、その不甲斐ない国に成り代わり、自分達が先頭となって戦っている。不甲斐ない王や貴族の不始末に、貴族でも騎士でもない一介の平民に過ぎぬ自分達が落とし前をつけている格好。

 諸外国勢力の盟主エルシェの協力のもと彼らの手を借り、ラムド国の国土より『魔孔』の汚穢と取り除こうとしているのだ。

 だが、そんなアイザック達の努力に対し、ラムドの権力者の反応は冷たい。

 ある者は無駄な努力であると冷笑し、ある者は正義の暴走と揶揄し、またある者は売国行為であると酷評する。

 そんな悪評を直接、あるいは伝聞で耳にするたび、自分が何のために戦っているのかわからなくなってくる。

 この状況に不平を覚えぬほうが無理な話と言えよう。

 だが、止めるわけにはいかなかった。

 幼き頃、故郷の頭上に顕現し、悲劇をもって自分やアイリの運命を歪めた『魔孔』の姿。

 三年前、ルインベルグの地で知った巫女制度の真実。その犠牲になりかけ、腕のなかで力なく倒れているクオレの姿。

 アイザックの意識下に存在する画廊には、この二つの悲劇を克明に描いた絵画が今も威容を誇っている。

 心の真相に深く根付いた『現実』は彼に逃避を許さなかった。

 目を背けることを許さなかった。

 

 

 だからこそアイザックは戦うことを選んだ。

 巫女制度がもつ犠牲の少なさという利点、政治的な正しさ。それを覆してでも『魔孔』の消滅への可能性に賭けようとする自分を冷笑する心なき外野の言葉。

 全てを些事と切って捨てることを選んだのだ。

 戦いの最前線に身を置き、おのれの正義を貫く覚悟を示し続けることによって。

「……これからすぐに前線へ?」

 祭器の片づけを終えたラーラがアイザックに問いかける。

「もし、お時間があるのでしたら今晩はここにお泊りください。ここには真実を教えてくれる契機となった貴方達に礼を言いたい者達が数多くおりますがゆえ、どうか彼らにも元気な姿を見せていただければと」

「数日の滞在が可能な程度の暇は頂いているのですが」

 アイザックはそう前置きし、ラーラの誘いを丁重に断った。

「この後、シグル子爵のところへ向かうことになっておりますので」

「──え?」

 ラーラは驚いて思わず声を上げた。その弾みで手にしていた祭器を落としそうになる。

「俺たちが今日、養父の墓を参ることができたのはシグル子爵のお陰ですから。その礼を言いに」

「それと、じゃじゃ馬な主導者さまが、病床のあの人にこれ以上の無理をさせたりはしないかと心配になっておりましてね」

 理由は十分に納得のゆくものであった。

 だが、二人の戦士よりもたらされた答は、彼女の驚きに対するそれではなかった。

 ラーラはクオレのほうへと視線を向けた。

 シグル子爵はクオレにとって実の父。平民の女との間に娘を作ったという不義により、引き離された過去がある。

 クオレが旅立つ前、一度だけ父娘は顔を合わせた。だが、その時は互いが持つ事情の複雑性ゆえ、その面会はあまりにもぎくしゃくしたもの。

 ──その二人をまた会わせて良いのだろうか?

 ラーラの心のなかに浮かんだ疑問。視線を向けられたクオレは、彼女の憂慮を即座に察し、それに対する明確な答えを与えた。

「あの人には、私の口から直接語らければなりません。母さんを取り戻せなかったことを」

「……」

 ラーラは何も言えなかった。

 現在において、巫女儀式の真実はこのラムド全土に広く流布された情報である。

 それをシグルが知らぬはずもない。貴人である彼ならば宮廷以外にも信用できる情報源をいくつも有しており、誰よりも早く、正確な情報を仕入れることは容易であった。

 彼が唯一愛した女性──先代巫女であるクオレの母が如何なる最期を遂げたのかも。

 そう。先代巫女の不帰は、シグルにとっては既知の情報である。

 それを今更、自身の口を介して話さなければならない理由、それはただ一つ。

 彼女なりの『けじめ』である。

 あの面会のとき、巫女となって母を連れ戻すことを宣言し、旅立ちの許しを得たのだ。

 当然、その結果を自らの口で報告するのが筋というもの。

 そして、それを語ることによって自身の心に何らかの整理がつくことだろう。

 それは恐らく、今臨まんとしている戦いに良い意味での踏ん切りをつけることにも繋がるはず。

 それならば、部外者がこれ以上、口を挟んだり憂慮したりするのは野暮というものであろう。

「大丈夫ですよ。あの人に対するわだかまりは、今はもうほとんど意識しておりません──正確には、それを強く意識できなくなるほど、今の自分が成さんとしていることが大きすぎるだけなのかも知れませんが」

 そう言うと、クオレはラーラに笑顔を向ける。

 どこか影のあるものの、おおよそ年相応の少女のそれ。

 ラーラの憂慮を払拭するには十分すぎるほどの、とても明るい笑顔であった。

 

 <4>

 

 アイザックらが養父の墓前に祈りを捧げている、ちょうど同時刻。

 領主オルク家に変わって現在、このラズリカの管轄を担っているシグルは今、一人の来客を迎えていた。

 邸宅の最上階。窓からはラズリカの街を一望できる部屋。

 部屋の主は傍らに控えた使用人の男に支えられながら、ゆっくりと寝台より身を起こすと、訪れた客人の姿を正面より見据えた。

「病床の身ゆえ、このような形の面会となり誠に申し訳ない。異国の客人よ」

 その両目に、銀色の光が宿る。

 陽光の銀色ではない。それは此度現れた客人が放つ色彩であった。

「貴殿の病状は十分に承知の上の訪問ゆえ、お気遣いは無用にございます。むしろ私のほうこそ、そのような無理を押してお会いして下さったことに感謝をいたします」

「……娘の恩人と聞いておる。そのような御方の申し出を無下にするわけにはいきますまい」

「御言葉ですがシグル閣下」

 銀色の女──エルシェは優しげな笑みを浮かべ、応じる。

「私自身、クオレに恩を売った覚えなどございません。自身の正義を貫かんとする彼女を心から応援し、その努力の成果を発揮するために必要な環境を整えてあげただけのこと」

「それで充分。その恩義に報いるためならば、此度の面会に応じる程度、安いものよ」

 シグルは柔和な笑みを浮かべた。

 病ゆえ、実年齢以上に老け込んだ顔であるにも関わらず、不思議と釣りあう、どこか穏やかな笑みであった。

「──恐れ入ります」

 エルシェは姿勢を正し、一礼する。

 彼の誠実さと、その親心に敬意を表しての行動であった。

 シグルに付き添う使用人の男ですら思わず安堵の笑みを浮かべるほど、穏やかな雰囲気が室内を支配する。

 だがそれも、エルシェが次の話題に踏み込むまでのことであった。

 

「議会の動きはいかがなものでしょう?」

「貴殿らの頼み通り、議会で孤立しかけている国王を支援しているのだが──予断を許さぬのが現状よ」

 ラムド国はこの五百年もの間、魔物との戦いを放棄し、契約を交わすことによって平和という利を得てきた。

 当然、それは魔物と手を結ぶことを禁じる世界共通の法に反する大罪である。その事実が露見した今、世界中がラムド国に求めたのは、その悪しき慣習より脱却し、国自身としての自浄作用を示すこと。

 即ち、ルインベルグ大聖堂に巫女制度を放棄させ、新たな『魔孔』対策を国全体で講じることであった。

 世界が注視するなか、当初はその方向へ注力するも『閃光』の発動によって、その目論見は呆気なく瓦解。

 騎士団の半分以上を失う損害を受ける、まさに致命的な失敗。

 その失敗によって自信を喪失した議会が提示したのは、北教区の放棄と、そこに住まう民の棄民化であった。

 国境線を南北境界線へと引き直し、巫女制度を主導してきたルインベルグ大聖堂擁する北教区を国の勢力下より除外することによって『魔孔』関連の全責任を国家より引き離し、その無謬化を図らんとしたのだ。

 無論、そのような姑息的な手段など世界が許しはしなかった。

 国の決定に反旗を翻し、なおも継戦を続ける意思を示すアイザックらを駆逐するため、刺客を送り込んだことを契機に、エルシェはやむなく禁じ手とも言うべき切り札を出すことを決意する。

 それこそが、諸外国勢力を介入させ、ラムド国議会をその監視下に置くこと。

 そして、騎士団に成り代わる実行部隊となった諸外国勢力への支援を打ち出した王家と、これを支持する革新派の後ろ盾となること。

 ──事実上の傀儡政権を誕生させることであった。

 それが、一年前のことである。

「北教区に住む民の保護とルインベルグの打倒を目指すアイザック殿らを支援する決定を引き出せたものの、結局それは特権を付与された少数派による無理矢理なものに過ぎない。保守派も監視の目があるゆえ表立った反発こそしてこないものの多数派なのは彼ら。数に物を言わせて何らかの手を打ってくる可能性もあるわ」

「我がシグル家は今後も、貴殿らに情報を提供することを約束いたしましょう」

「ありがとうございます」

 エルシェはそう言い、再び笑みを浮かべた。

 だが、その笑みはどこか力のない、憔悴を取り繕うためのそれのように見えた。

「エルシェ殿下」

 その気配を鋭く察したシグルは、そんな彼女に声をかけた。

「確かに貴殿の行ったことは、国威を誇示して小国に過ぎぬこの国の名誉と主体性を蹂躙する許されざる行為にございます。あの日の出来事は将来の両国において、簡単に消し去ることのできぬ大きな溝となることでしょう」

 だが、と彼は続けた。

「今のラムドは、もはや国としての体を成していなかったこともまた事実。このまま我々に任せていたら、北教区に取り残された数千、数万の民は一人残らず魔物や『聖皇庁』の餌食となっていたことでしょう。残された南教区の者達も、毎日を次の『閃光』に怯えながら暮らし続けなければならなかったことでしょう。その恐怖から逃れるため一人、また一人と国を去り、そう近くない将来──ラムドは崩壊の憂き目に遭っていたはず」

「……」

 慰めの言葉を受けてもなお、エルシェの表情は晴れぬ。

 シグルの言葉の通りであった。

 彼女の行動がなければエインゼルク地方制圧の目途など一向に立たなかっただろう。

 野放しにされた『聖皇庁』は女を、少女を、幼き娘を浚い続け、『魔孔』への生贄に捧げ続けたことだろう。

 北教区に取り残された者達の命運は一刻も争う。僅かな遅延すらも致命的と言える状況下において、その最悪の事態を回避したのは紛れもなき事実である。

 だが、その代償はあまりに大きい。

 当初、友好関係にあったはずの両国間の関係に大きな亀裂が発生。対立が明確化した。

 この溝は、たとえラムド国より『魔孔』が取り除かれ、平和が訪れたとしても、その禍根は必ずや残存し続けることだろう。

 自分はまさに、その禍根を作り出した張本人であるのだ。

 エルシェはおのれの短慮を、未熟さを痛感していた。

「……ところで、今日の訪問は状況確認のためですかな?」

「ええ、そうでした」

 シグルに促されたエルシェは我に返ったかのように顔を上げ、今のおのれの役目を思い出す。

「王家の支援をしていただいている最中で大変申し訳ありませんが──もう一件、お願いしたいことがございます」

「何ですかな?」

「……ロナン侯爵の動向にはどうかご注意ください」

「ロナン侯爵と言えば数ある保守派の重鎮の一人。当然、その動きは注視しておりますが……」

 その名を聞いたシグルの目つきが鋭いものへと変じた。

「なぜ、彼を殊更に?」

「ここ一月ほど王都で彼の姿を見受けられなかったこと、そしてシーインに滞在している隊の者から、ロナン侯爵と思しき人物の姿を見かけたという報告がありまして、これらの状況より、侯爵は北教区に立ち寄ったものと考えられます」

「ロナン侯爵が北教区に?」

 小声でこそあるものの、シグルは驚きの声をあげた。

「北教区は貴殿ら諸外国勢力が軍を展開しているのだろう? 一体、何を目的に?」

「わかりません。ですが、保守派は我々に勝たれては困る立場の者達。その重鎮である彼が我々にとっての敵地である北教区に立ち寄る理由と言えば限られるでしょう」

「ルインベルグ大聖堂──」

 シグルは奥歯を噛んだ。

「エインゼルク地方の攻略によって『聖皇庁』が壊滅状態にある今、諸外国勢力の敗北を切望する侯爵が赴かんとする場所とは、そこ以外にあるまい」

「その可能性が高いと私も考えております」

 エルシェは頷き、シグルに同意する。

「彼が会った人物とは恐らく、現在の聖堂長」

「……転生者ベルゼ」

 シグルの声音は忌々しげな声で言った。

 まるで悪魔の名を語るかのごとく。

 南教区の片田舎リュートの街の元領主家の長子。

 長く続くリュート家より時折輩出される『神童』として持て囃されたものの、その正体は実妹を生贄に『魔孔』と契約を交わし転生の魔力を手に入れた男。

 彼はその魔力を利用して『神童』神話を造り上げ、生まれながらにして名声がもたらす甘美な恩恵を余すことなく味わい、成年となり、その名声に相応しき実績を求められはじめた辺りを見計らって自死。後代の領主家の嫡子に生まれ変わり続けることによって、二百年もの間、一切の労苦から逃れ続けることに成功を果たしていた。

 ゆえに、彼が領主として残して実績は皆無。

 遺したのは、彼が妻や妾との間に作った生まれたばかりに子供のみといった有様。

 無論、王都はそれを看過するわけにはいかぬ。その子らが成人し、街の統治を担うことができるようになるまでの教育係を兼ねた代理領主の派遣を余儀なくされた。

 限定された期間とはいえ、一つの街を統治するのだ。充分に実績ある者がそれを担わねばならぬ。

 本来ならば王都周辺のような枢要な都市を任せねなならぬ有能な人物を、リュートのような片田舎の街に十年以上も派遣することは当然、ラムド国にとっても大きな痛手。

 また、代理として派遣される者にとっても、出世のために実績を重ねるべき大事な十年を、さほど評価されぬ仕事に費やさねばならぬ。リュート赴任は、まさに貧乏籤であると言えよう。

 ──だが、経歴を傷つける覚悟で臨んだ代理役に待ち受けていた運命は更に過酷なものであった。

『神童』神話によって目が眩んでいたがゆえ、街の民はこの代理役を支持しなかったのである。

 打ち出す政策に悉く反発を受け、老朽化した橋ひとつ修繕するにも、無駄な時間、無駄な議論を要した。

 民やリュート家寄りの議員は、事あるごとに『神童』の血を引く幼子を担ぎ上げ、一日も早く、この幼子に全権を委譲するよう、この代理役──延いては王都に求めたのだ。

 そんな政治が安定期を迎えるには、この代理役が育てたベルゼの子供たちが成人し、正式に領主として着任するまで待たねばならなかった。

 だが、ようやく軌道に乗りかけても、ベルゼの子供たちが『神童』を産んだことにより、再び街は混乱へと陥っていく。

 街の民は『神童』神話によって目が眩んでおり遂に気付くことはなかったものの、彼の自死の後の政治的混乱を鑑みると、彼が遺した負の遺産のほうが遥かに凌駕していたのだった。

 シグルらのような歴史ある貴族家の人物にとって、リュート家の名はまさに忌まわしき厄介者の代名詞。

 事の真実が明らかになった今、その張本人であるベルゼの名は国の発展を妨げてきた──まさに唾棄すべき存在として認識されていた。

「なるほど。ロナン侯爵はあの卑劣漢と手を組み、何かを企もうとしているという訳か」

「侯爵ら保守派は議会内の勢力安定のため、ベルゼは自らの存在を脅かす勢力の排除のため、私の敗北が必須という点において利害が一致しております」

「だが、大聖堂は我々に対抗できる規模の武力を有してはいないと聞く。一年前に発動し、北教区に甚大な被害を及ぼした『閃光』の存在が実質的な抑止力となり、貴殿らの足を止めているのだと」

「ですがそれも、クオレによる『白書』の解読によってその抑止力は効果を失いつつあります。『閃光』の正体は過大な数の生贄を短期間に捧げられたことによる魔力の暴走である可能性が濃厚となっております」

「……エインゼルクの制圧によって、生贄の供給源といえる『聖皇庁』が壊滅された今、ベルゼの手札には『閃光』という切り札がない状態にあるわけか」

 シグルは唸った。

「そして侯爵は、一年前にベルゼが使った切り札を、捨て札の山より拾ってくる役目を担おうとしている。つまり侯爵は──」

「──『聖皇庁』の代わりを務めようとしている」

 エルシェは結論を口にした。

 真剣な眼差しで、同時に忌々しげな口調をもって。

「なるほど。此度、貴殿が『侯爵の監視』を願い出た理由、ようやと理解できたよ」

 シグルは得心して頷く。自分が辿り着いた結論が、彼女のそれを同じであることを自覚して。

「だが、監視といえども私とて、どれだけのことができるかわからぬ。ロナン侯爵の勢力は、この南教区の南部──このラズリカを含めた一帯に及んでおり、子爵に過ぎぬ我が家のそれを遥かに凌駕しております。いくらエルシェ殿下の支援を受けた身と言えども……」

「当然、無理はしなくて結構です。私との関連を疑われればオルク卿の遺言によって引き継いだこの街の領主としての任も解かれてしまいかねません。下手をすれば、閣下の身にも危険が……」

「ラムド貴族社会の懐の狭さは痛いほど熟知している。そう簡単に尻尾は掴ませぬさ」

 ──その時だった。

 扉の外より騒めきめいた音が聞こえた。

 次いで微かな振動音を伴い、足音が近づいてくるのが聞こえ、遂には強く扉を叩く音が室内に響き渡った。

 そのただならぬ様子に、シグルは事態の異常性を察したのか、すぐに入室の許可を出すと、そこに現れたのは老年の使用人。

 この家に仕える者のうち、もっとも古株の男であった。

「……客人の前だぞ。一体どうしたというのだ?」

 その慌てた様子に、シグルは軽く叱りながらも発言を促す。

 しかし、老人はエルシェの姿を見て、口を噤んだ。耳打ちをするため、呼吸を整えようとする。

 シグルはそれを穏やかに制した。

「この者は信用できる。そこで報告せよ」

「それならば、では──」

 そう前置きすると、使用人は言った。

「先ほど、正門前の清掃をしている時、保護施設の職員より火急の連絡が入りまして……」

「保護施設?」

『聖皇庁』に拉致されかけた女たちを一時的に保護している場所だ──シグルはそう補足する。

 補足が終わる事を見計らい、その老人は続けた。

「揃いの黒装束を纏った一団の襲撃を受け、保護されていた女性が数名、連れ去られたとのこと」

「──何だと!」

 シグルは驚き、思わず目を瞠った。上げた声は病を忘れたかのように大きなものだった。

「怪我人は?」

「数名の衛兵が傷を負ったとのことにございます。そして、知らせに来てくれた職員も手傷を負っている様子。今、別室で事情を聴きながら傷の手当をさせております」

「……わかった。状況が判明次第、速やかに報告せよ。そして、知らせに来た者には傷が塞がるまで、ここでゆっくりと養生するように伝えよ」

「シグル閣下──私が様子を見て参りましょうか?」

 指示を終えた時機を見計らい、エルシェが言った。

「客人を危険な目に遭わせることはできぬ。それに貴殿は北教区に展開する軍の主導者ではありませんか。もし万一のことがあったとしたら……」

 当然とも言うべきシグルの制止の声を、銀色の女は涼やかな顔で聞き流した。

「こう見えても私は騎士の家系の出身。荒事には慣れておりますわ」

「エルシェ殿下!」

「あの……その事についてなのですが」

 その時、シグルの指示を受けたはずの老使用人が、おずおずとした様子で言った。

「連絡を受けたとき、三人の戦士と思しき若者たちが通りすがったのです。その若者たちは事情を知ると私の制止も聞かずに飛び出して行ってしまいまして……ちょうど今のエルシェ様のように」

「……三人の戦士だと?」

 シグルは驚いたかのような声をあげた。

 二人の貴人はその戦士に心当たりがあったのだ。

 近々、自分のもとを訪れる予定となっていたはずの三人の戦士。

 この戦いの主役とも言うべき存在であり、それゆえに今の自分達と同様、この事件の深刻さを知る人物。

「どうやら、彼らの守役が必要のようですね」

 エルシェは思わず苦笑を浮かべた。だが、どこか小気味の良さそうな思いを込めた、そんな笑みでもあった。

「閣下はラズリカ騎士隊に連絡を。街の門を封鎖し、犯人を逃がさぬよう捜索の手配を」

「……わかった」

 シグルもまた観念したかのように頷く。

「エルシェ殿下、どうか彼らのことを頼みます」

「ええ。わかりましたわ」

 銀の女はその顔に笑みを浮かべると、老使用人の先導のもと、シグルの寝室を後にする。

 だが、浮かべていた笑顔も、シグルの部屋を去るまでのこと。

 すぐに真顔へと変じ、急いで歩を進める。

 ──嫌な予感がする。

 脳裏にそんな考えが浮かぶ。

 しかし、次の瞬間、彼女はその甘い考えを捨て去った。

 予感ではない。予感と呼ぶには、材料が揃いすぎているがゆえに。

 これは敵の仕業であることは明白であった。

 ベルゼと手を組んだ、保守派ロナン侯爵の仕業であると。

「……先手を打たれたようね」

 悔しげにつぶやき、心の中で毒づく。

 同時に認めざるを得なかった。

 彼らは本気であると。

 本気でベルゼと手を組み、同様の外道に堕ちたのだと。

 そして、外道に堕ちてでも政権を奪還する覚悟を決めているのだということを。

 考えねばならぬ。

 この打たれた先手の影響を最低限とし、次なる手で逆転に持っていくための算段を。

 エルシェは強く奥歯を噛む。

 先を越された悔しさと、相手の真剣さと下劣さを見誤った、そんな自分の甘さを悔やむがゆえの所作であった。


 
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