No.919905

ひとつ屋根の下 Part.5【完】

瑞原唯子さん

橘財閥の御曹司である遥は、両親のせいで孤児となった少女を引き取った。
純粋に責任を感じてのことだったが、いつしか彼女に惹かれていき——。

2017-08-25 20:53:35 投稿 / 全4ページ    総閲覧数:1160   閲覧ユーザー数:1160

第31話 最後の秘密

 

「わざわざ武蔵に報告する必要あるのかなぁ」

 二人で武蔵の部屋に向かう途中、七海があからさまに気乗りしない様子でぼやいた。彼女にしてはめずらしく沈鬱な顔をしている。遥もできることなら部屋に帰してやりたいのだが、そうできない事情がある。

「じいさんの命令だから仕方ないよ」

「わかってるけど」

 二人の結婚を認めるにあたり、遥は剛三からふたつのことを命じられていた。そのうちのひとつが武蔵に報告することである。それも七海と二人で。これを機に和解しなさいということだろう。

 殴り合いの喧嘩をして以来、武蔵とは顔を合わせたら挨拶するくらいで、まともに話をしていなかった。七海もそうだろう。二人は武蔵に対し、武蔵は二人に対し、それぞれ複雑な思いを抱えている。

 だからといって、ひとつ屋根の下にいながらこのままというのも気詰まりだ。昔と同じというわけにはいかないだろうが、自然に会話できるくらいの関係になれたらとは思っている。

 もっとも七海にはそこまで求めない。報告の場に同席さえしてくれれば剛三の命令を遂行したことになる。それで十分だ。身勝手に自分を捨てた相手なんかと無理に仲良くする必要はない。

「終わったらケーキでも食べようか」

「イチゴショートがいいな」

 七海は気を取り直したようにニコッと笑った。

 やはり彼女を元気づけるには食べ物に限る。もちろん憂いの元凶がなくなったわけではないが、このあとに甘いご褒美が待っていると思えば、多少なりとも気持ちが軽くなるだろう。

 

「久しぶりだな」

 扉を叩くと、武蔵自らが待ち構えていたかのように出迎えてくれた。

 この時間に訪問することは執事の櫻井を通して伝えてあった。楽しみにしているという返事は社交辞令だと思っていたが、本当に歓迎してくれているように見えて、遥はすこし当惑した。

 武蔵に促されて、扉付近で控えている護衛係二人のまえを通り過ぎ、奥のほうに置かれた応接用ソファに座る。武蔵の向かいに遥と七海が並ぶかたちだ。隣の彼女からは緊張が伝わってきた。

 ちょうどそのとき執事の櫻井がワゴンを押してやってきた。一礼して手際よく紅茶とケーキを並べると、すぐにワゴンを押して出て行く。ケーキは七海が食べたがっていたイチゴショートだ。

「七海、きのう誕生日だっただろう」

「あ、うん……ありがとう」

 七海は曖昧な笑みを浮かべた。

 その横顔を窺いつつ、遥は表情を動かすことなく内心でひそかに嘆息した。意図的ではないにしても、武蔵はどうしてこういつも遥の邪魔をするのだろう。過去の出来事まで思い出してしまい苦い気持ちになる。

 だからといって大人げない態度をとるつもりはない。武蔵に勧められると、遥は素直にフォークを手にとりケーキを口に運ぶ。それを見て、七海もほっとしたように表情をゆるめて食べ始めた。

 

「俺に話があるって聞いたけど」

 武蔵は紅茶を飲み、ケーキにフォークを入れながら緊張ぎみに切り出した。

 わだかまりのある相手から話があるなどと言われれば、気がかりなのは当然である。一瞬、もったいつけてやろうかと意地の悪い考えが頭をもたげたが、むしろ早く義務を果たして出て行くほうがいいだろうと思い直した。

「七海と結婚することになった」

 いっそ投げやりなくらい端的に報告する。

 武蔵は中途半端にケーキを切りかけたまま手を止めて、ゆっくりと顔を上げた。驚いているというより、どこか信じきれないような疑わしげな面持ちである。

「おまえらいつのまにより戻したんだ?」

「きのうだよ。同時に婚約したってこと」

「…………」

 形のいい眉がますます怪訝にひそめられた。手にしていたフォークを皿に置き、七海に目を向ける。

「七海はちゃんと納得してるのか? 流されてないか? 無理強いされてないか?」

 心配そうに問い詰めるさまは、まるで保護者だ。

 実際、一時期は保護者に近い立場だったこともあるので、いまでもその気持ちが抜けきっていないのかもしれない。そういえば、七海と恋人関係を解消したのもそれが理由だったはずだ。

 それまで紅茶を飲みながら心配そうになりゆきを見守っていた七海は、なぜか闘志に火がついたような面持ちになった。ティーカップを置き、すっと背筋を伸ばして武蔵と向かい合う。

「僕が自分の意思で決めたことだよ」

「ヤケを起こしてんじゃないよな?」

「遥が好きなんだ」

 一点の曇りもない瞳で見つめ返し、そう断言した。

「武蔵にふられたからってヤケになったわけじゃない。だいたいそんなのもうとっくの昔にふっきれてるし。まあ、ヤケとか妥協とか思われても仕方ない状況だけどさ……そうじゃないって証明もできないし……」

「信じるよ」

 拗ねたような困ったような面持ちで口をとがらせていた七海は、その一言ではじかれたように顔を上げた。彼女の視線はうっすらと笑みを浮かべる武蔵を捉えている。

「おめでとう、七海」

「ありがとう」

 ふわりと花がほころぶように破顔した。

 この表情を見れば、無理強いでないことは疑う余地もないだろう。嘘や欺瞞でこんな笑顔ができる子ではない。武蔵もそれでようやく確信を得られたようで、そっと安堵の息をついた。

「これで俊輔の墓参りに行けそうだ」

「ん? 行けなかったの?」

 七海がきょとんとして尋ねると、彼はきまり悪そうに肩をすくめて苦笑する。

「この国に戻ってきたときは行くつもりでいたんだけどな、あー……その、七海といろいろあったせいで後ろめたくて……顔向けができなかったっていうか、会いに行く勇気がなかったっていうか」

「行ってあげて。お父さんきっと喜ぶよ」

 七海はくすりと笑って応じた。

 そこには彼女の父親を介した二人だけの絆があった。彼のことを知らない遥には立ち入ることができない——気持ちを落ち着けるように、ゆったりと背もたれに身を預けて紅茶を飲んだ。

 

「ついでだから俺も二人に報告しておく」

 暫しの沈黙のあと、武蔵がひどく真面目な声でそう切り出した。

 報告するようなことが何かあっただろうか。仕事関係の話とは思えないので、彼自身の今後についてだろうか。遥は心当たりを探りながら静かにティーカップを置き、武蔵を見つめる。隣の七海もくりくりした目でじっと見つめている。二人の視線に促されて、彼はめずらしく緊張を露わにしつつ口を開いた。

「恋人ができた」

「……は?」

 思わず間の抜けた声を上げてしまったが、致し方ないだろう。あんなに追い込まれた顔をして何を言い出すのかと思えば——そこまで考えて、ふとあることに気がついて眉をひそめる。

 武蔵は自由に出歩くことが許されていないのだ。

 墓参りくらいなら護衛付きで許されるだろうが、決められた人間以外との交流は禁じられている。そのような状況でどうやって恋人を作るというのだろう。いや、可能性があるとすれば。

「それって、誰?」

「メルローズだ」

 やはり、と得心する。

 武蔵が比較的自由に会える女性は二人だけである。七海でないのだからメルローズしかいないだろう。しかし、七海はそこまで考えが至っていなかったらしく、うそ、と微かな声でつぶやいたきり呆然としている。

「いつから付き合ってるわけ?」

「きのうからだな」

「じいさんには報告したの?」

「あー……まだ……」

 きのうからなら、遥に伝わっていなかったのも理解できる。

 それでも剛三ならすでに把握しているかもしれない。この家での出来事はほとんど彼に筒抜けなのだ。未成年であるメルローズの養父という立場上、賛成反対どちらにしても武蔵を呼び出すことになるだろう。

 遥としては、このままメルローズと付き合ってくれたほうがありがたい。七海を信用していても、元恋人がひとつ屋根の下にいればやはり気になってしまう。しかし、彼に決まった相手がいるのなら幾分か安心できるはずだ。

「あれ、メルって武蔵の姪だったよね」

 ふと七海が思い出したようにつぶやいた。

 それはこの屋敷の人間なら誰もが知っている事実だ。答えを求めているわけではないだろうと思いつつ、そうだよと返事をすると、不安そうな顔をしてちらりと横目を向けてきた。

「叔父と姪ってダメじゃなかった?」

「日本の法律では結婚できないね」

 七海が何を懸念しているかは察しがついていたので、補足しながら肯定した。あえてそうしたのは武蔵に聞かせるためでもある。

「そうなのか?」

 案の定、彼は目をぱちくりさせて聞き返してきた。

 おそらく武蔵の故郷では禁止されていないのだろう。日本も戦前までは近親婚を禁止する法律などなかった。こういう制度は国や時代によって異なるので、何も不思議なことではない。

「まあね。でも家族としか思えないとか言ってメルを捨てるかもしれないし、そのまえにメルに愛想を尽かされて捨てられるかもしれないし、結婚のことを考えるのはまだ早いんじゃない?」

「おまえなぁ」

 武蔵は苦虫をかみつぶしたような顔をしているが、このくらいの嫌味を言わせてもらっても罰は当たらないだろう。別に本気で喧嘩をふっかけているわけではない。ただほんのすこし意趣返しをしたくなっただけである。

「安心して。書類上、メルローズとは他人ということになってるし、このままいけば問題なく結婚できると思うよ。まあ武蔵が日本国籍を取得してからの話だけど」

「ん……ああ……」

 遥の肯定的な態度がよほど意外だったらしい。武蔵は戸惑いがちに真意を探るような視線をよこしたが、遥が素知らぬ顔をして紅茶を飲むと、あきらめたように苦笑して食べかけのケーキを口に運んだ。

 

「なあ、おまえら結婚式はするのか?」

 フォークを置きながら、武蔵がふと思いついたように問いかけてきた。

 そのあたりの話はまだ誰ともしていないが、橘財閥の次期後継者という立場上、結婚式と披露宴をしないという選択肢はない。遥個人としても、披露宴はあまり気が進まないものの、結婚式はきちんとしたいと思っている。

「もちろんするつもりだよ」

「じゃあ、俺も呼んでくれよ」

「…………」

 きっと悪気は微塵もない。そのくらい見ればわかる。ただ好奇心から行きたいと思っただけではないだろうか。七海を祝いたいという気持ちもあるのかもしれない。だからといって容認できるかは別問題だ。

「あのさ、自分が新婦の元カレだってわかってる?」

「一応、おまえの父親でもあるんだけどな」

 武蔵は口をとがらせて文句を言った。

 その瞬間、遥は静かに息をのんで表情を変えずに凍りつく。聞き逃してくれていればいいけど——おそるおそる隣に視線を向けると、七海は動きを止めてはたりと目を瞬かせていた。

「父親って……え……?」

 武蔵と遥を交互に見やりながら当惑の声を上げる。混乱しているのか、瞳を揺らしておろおろしたまま二の句が継げないようだ。武蔵はそんな彼女の様子から何となく悟ったらしく、胡乱な目を遥に向ける。

「おまえ、もしかしてまだ話してなかったのか?」

「このあときちんと話すつもりだったよ」

「いや、結婚を決めるまえに話しておくべきだろう」

「それは、そうなんだけど」

 家族以外には話すなと剛三に厳命されていたため、結婚が決まってからでないと話せなかった。せめて決まったらすぐに話すべきだったと思うが、きっかけがつかめずここまできてしまった。

 正直なところ、あまり言いたくないという気持ちはあった。それでもこのあときちんと話すつもりでいたのは本当である。それが、結婚を認めるにあたり剛三が命じたことのひとつなのだから。

「ねえ、遥の本当のお父さんって武蔵なの?」

「生物学的な意味ではね」

 半信半疑な様子で問いかけてきた七海に、遥は肯定を返す。

「僕が研究の実験体として作られたって話はしたよね。武蔵は知らないうちにそれに利用されていたってわけ。いわゆる人工授精かな。利用されたっていう自覚さえなかったみたいだし、完全に被害者だよ」

 内容が内容なだけに、当事者である武蔵をまえにして具体的な話をするのは憚られた。もちろん七海が求めるのであれば隠さずに答えるつもりでいる。しかし、彼女は実験のことより親子という事実にショックを受けたようだ。

「じゃあ、僕は遥のお父さんとも付き合ってたことになるんだ……うわぁ……知らなかったとはいえ最悪なことしてたんだな、ごめん……ほんといたたまれない……」

「別に気にしなくていいよ」

 耳まで赤くして両手で顔を覆った彼女に、遥は苦笑する。

 確かに武蔵とは七海をめぐっていろいろとあったが、親子だからどうこうということはない。少なくとも遥はそういう視点で考えていなかった。そもそも武蔵のことをあまり父親だと思っていないのだ。

 しかし、七海の過剰なまでの動揺を見ていると、なんだかこちらまで気恥ずかしくなってくる。武蔵も同じような気持ちだったのかもしれない。ふと目が合うと、互いにうっすらときまり悪そうな笑みを浮かべた。

「あっ」

 ふいに七海は何かに気付いたような声を出して、パッと顔を上げる。まだ紅潮していて熱はあまり引いていないようだが、さきほどまでとは違い、その表情には抑えきれない嬉しさがあふれていた。

「じゃあ、武蔵は僕にとっても父親じゃん!」

「……は?」

 またしても間の抜けた声を上げてしまった。

 理屈としてはわかる。遥の父親なら、妻の七海にとっては義父ということになる。しかし、そもそも武蔵は書類上も事実上も他人である。遥の父親というべき存在はほかにいるのだ。

「それはちょっと違うんじゃないかな……」

「僕が勝手に思うだけなら別にいいだろ?」

「俺は構わないぜ」

 向かいから投げかけられた面白がるような声。振り向くと、武蔵がにんまりと口元を上げてなりゆきを見守っていた。恨めしく思いながらも、これしきのことを反対するのも狭量な気はする。

「まあ、二人がそう言うなら……」

 渋々ながら了承すると、七海は満足そうにニッコリと満面の笑みを浮かべた。

 彼女がなぜこんなことを言い出したのかは定かでないが、もしかしたら二人の関係を上書きしたかったのかもしれない。元恋人から親子に。そうやって彼女なりに決着を付けようとしたとも考えられる。

 ただ、武蔵が遥の父親であることは秘密にしなければならないので、七海の義父だということも公言できない。そのあたりはきちんと釘を刺しておく必要がある。七海はもちろん武蔵にも。

 結局、結婚式に呼ぶことになりそうだな——。

 楽しそうに冗談めかしたやりとりを始めた二人を見ながら、遥はぬるい紅茶に口をつける。面倒なことが増えたはずなのに、確かに面倒だとは思っているのに、それでも無意識のうちに口元が上がっていた。

 

第32話 プラチナ

 

 あれは——。

 むわりと熱がわだかまり、息苦しささえ感じる薄暮の雑踏の中、遥は行き交う人々のあいだからチラリと見えた人影に目をとめた。軽やかな足取りで縫うように進んでその背中を捉えると、飛びついて肩を抱く。

「おわっ!」

 そんな声を上げて前につんのめったのは、富田だ。

 彼は怪訝に振り向き、至近距離で遥と目が合うと小さく息をのんだ。その一瞬で傍目にもわかるくらい顔が紅潮するが、すぐに気持ちを静めるようにそっと呼吸をして、口をとがらせる。

「おまえな、こんなところで何するんだよ」

「富田の背中を見たら驚かせたくなって」

 遥はふふっと笑う。

 こんなふうに後ろから自然に富田の肩を抱くことなど、昔はできなかった。精神的な話ではなく物理的な話である。富田より背が低く、十センチほど差をつけられたときもあったのだ。

 だが、あきらめかけた高校三年生のときに成長期が訪れた。男子にしては低めの身長をひそかに気にしていたので、富田はともかく、男子の平均身長を超えたことは率直に嬉しかった。

 それまではずっと双子の妹である澪と同じくらいだった。男女の違いがあるのに、顔だけでなく背格好までよく似ていたのだ。富田がいまでも二人を重ねて見ているのはそのせいである。

「じゃ、行こうか」

 遥はぽんと背中を叩いた。

 まんまと驚かされてしまったことがくやしいのだろう。富田はじとりと恨めしげに横目で睨んでいたが、それでも遥に促されると素直に歩き出す。その頬はまだほんのりと熱を帯びているように見えた。

 

 二人が向かう先は同じである。

 仕事のあといつもの店で飲もうと約束していたのだ。予約時間ちょうどに着くと、落ち着いた雰囲気をまとった壮年の男性店員に、あたりまえのようにいつもの個室へと案内された。

 都心の夜景が見渡せる二人がけのソファに並んで座り、メニューに目を通す。この個室には間接照明しかないため、近づかないと読みづらく、必然的に寄り添うようなかたちになる。

「ねえ、シャンパンをボトルで頼んでいいかな。富田と一緒に飲みたいんだけど」

「俺は何でもいいぜ」

 過去の経験上、聞くまでもなく彼がそう答えることはわかっていた。店員を呼び、先日ホテルで七海と飲んだシャンパンの銘柄を告げる。ついでに料理もいくつか適当に頼んでおいた。

「何かいいことあったのか?」

 店員が出て行くと、富田が不思議そうに問いかけてきた。

 シャンパンのボトルを頼んだことは何度かあるが、いずれも誕生日や就職祝いなど何かしらの名目があったので、今回もそうだと考えたのだろう。まあね、と遥はふっと微笑を浮かべて肯定する。

「実は、七海と結婚することになったんだ」

「えっ?」

 驚くのも当然である。数年にわたって七海にふられ続けたあげく、完全にあきらめざるを得ない状況に追い込まれたことを、彼は知っているのだ。我にかえると心配そうにおずおずと尋ねてくる。

「無理強いしたわけじゃないよな?」

「もちろんだよ」

 先日、武蔵にもほとんど同じことを言われたなと、遥はひそかに苦笑する。この急転直下では疑われるのも仕方がないだろう。ただ、富田はその返事を聞くなり素直に信じたらしく、安堵の息をついていた。

 

「乾杯」

 冷えたシャンパンを二つのグラスに注ぎ、富田と乾杯する。

 芳醇で濃厚な香りを楽しみながらグラスを傾けると、喉の奥がカッと熱くなるのを感じた。今日は酔いつぶれるわけにはいかないので、飲み過ぎないよう気をつけなければと思う。

「で、どうやって七海ちゃんを説得したんだ?」

「ああ……」

 もともと隠す気はなかったので正直に話していく。もちろん拉致事件に関しては全面的に伏せたし、七海を強引に抱いたことも割愛したが、話し合いの要点はおおまかに伝えたつもりだ。

 聞き終わると、富田はゆっくりとソファにもたれて息をつく。

「お互いに言葉が足りなかったってことか」

「何年もすれ違ってたかと思うとくやしいよ」

「……でも、よかったな」

 寄り添うような優しい声だった。

 遥はきらめく都心の夜景に目を向けたまま、つられるように、安堵するように、ふっと表情を緩めてありがとうと応じた。そして一呼吸おくと、すこし真面目な顔になって言葉を継ぐ。

「富田には本当に感謝してる」

「俺は別に何もしてないけど」

「協力してくれただろう?」

 掲げた左手の薬指には、すっかり馴染んだシンプルなプラチナリングが輝いていた。そして富田の左手にも——彼はそこに目を落とし、その存在を確かめるようにそっと右手の親指で触れた。

「俺はただ指輪をはめてただけでしかないけど、おまえが一途に想いつづけた相手と結婚できるなら、この八年が報われたような気がするよ」

 そう、八年だ。

 大学入学後、女子にまとわりつかれてうんざりしていた遥に、澪が思いつきで突飛な提案したのが始まりである。それを聞いて、遥は嫌がる富田に面白半分で協力させてしまった。まさか八年も続けることになるとは夢にも思わずに。

「やっぱり本当はつらかったよね?」

「いや、そうじゃないけど……」

「人生のいい時期が台無しになったし」

「俺はそんなこと思ってないからな」

 あわてて訴える彼に、遥は横目で淡く微笑んでシャンパンに口をつける。

 自由恋愛する権利を奪われたうえ、同性愛者だと陰口をたたかれたり、遥と別れてほしいと詰め寄られたり、ときには不条理な暴力をふるわれたりと、偽装恋人など彼にはデメリットしかない。

 だが、いくら終わりにしようと提案しても受け入れようとしなかった。それどころか逆に続けようと説得してくる始末である。遥はその自己犠牲的な優しさにただひたすら甘えてきたのだ。

「ほんと富田ってお人好しすぎるよね」

「別に、おまえが思うほどじゃない」

「八年も付き合ってくれたのに?」

「……俺がそうしたかったってだけだ」

「そういうことにしておく」

 遥が軽く笑うと、富田はどこかきまり悪そうな面持ちで目をそらし、グラスに残っていたシャンパンを一気にあおった。遥はワインクーラーに冷やしてあったボトルを取り、空のグラスに注ぎながら言う。

「富田は何か困ってることない?」

「ん、今のところは特にないけど」

「何かあったら遠慮なく言って」

「ああ」

 富田は曖昧にはにかんで答えた。

 彼の捧げてくれた八年は決して安くない。本当は相応の対価を支払うべきだと思っているのだが、彼はどうしても受け取ろうとしない。友情を金で買われるようで抵抗があるのだろう。

 だから彼と同じような方法で返すしかないのだ。頼まれたらどんなことでも可能な限りきくつもりでいる。ただ彼の性格上、あまり遥に迷惑をかけるようなことは望みそうにない。

 彼の八年に見合うだけのものはなかなか返しきれないだろう。それでも親友としてのつきあいを続けていくなかで、自己満足でしかないが、すこしずつでも返していけたらと思っている。

 注ぎ終わると、ボトルをワインクーラーに戻してソファに座り直す。それを待ち構えていたかのようなタイミングで、富田は無造作にテーブルに手を置いたまま、ちらりと横目を向けて尋ねてきた。

「指輪、外さないといけないんだろ?」

「そうだね」

 七海と婚約したからといって勝手に外すのも失礼なので、今日、富田に報告してから外そうと思っていた。当然ながら富田にも外してもらう必要があるのだが——。

「僕が外すよ」

「えっ?」

 信用していないわけではない。

 外してと頼むだけなどあまりにも薄情な気がしたのだ。自分のわがままで八年も嵌めさせた指輪を、自分のわがままで外してもらうのだから、自分が関わるのが筋だろうと結論づけた。

 彼の左手を取り、様子を窺いながらそっと自分のほうへ引き寄せる。明らかに戸惑っているが抵抗する気はないようだ。薬指の指輪をつまみ、すこしずつずらしながら慎重に引き抜いていく。

 外れた——関節で若干もたついたものの、さほど苦労することなくきれいに抜くことができた。そのプラチナの指輪を夜景にかざすように眺めてから、シャンパングラスの足下に置く。

 そうして一息つくと、今度は自らの左手をすっと彼のまえに差し出した。

 その意図を理解したのだろう。彼はごくりと唾を飲み、壊れ物でも扱うかのように優しく手を添えると、プラチナの指輪を丁寧に引き抜いた。それをもうひとつの指輪にそっと寄りかからせる。

 繊細な泡のはじけるシャンパンの下で、一対の指輪はろうそくの灯りを受けてやわらかく輝いた。とても偽装とは思えない雰囲気だ。説得力を求めてプラチナにしたことが功を奏している。

「ふたつとも富田にあげるよ」

「えっ?」

 虚を突かれたように、彼は目をぱちくりさせて振り向いた。

 遥はくすりと笑うと、当惑している彼の左手をもういちど掴み寄せて、外したばかりの二つの指輪をその手のひらに落とした。カチン、とプラチナがぶつかりあって硬質な音を立てる。

「持っててもいいし、捨ててもいいし、売ってもいいし、好きにしてくれて構わない。売ればお小遣いくらいにはなると思う」

「…………」

 黙って話を聞いたあと、富田はゆっくりと手の中にある指輪に目を落とし、そのまま固まったように動かなくなってしまった。

「富田?」

 怪訝に思い、声をかけて覗き込もうとする。

 その動きを察知してか、彼は何でもないのだとアピールするかのように、どことなくぎこちない笑みを浮かべて顔を上げた。手のひらに置かれていた二つの指輪を握り、その手を軽く掲げる。

「もらっとくな」

 そう言い、ごそごそとスラックスのポケットにしまった。

 感傷的になってるのかな——遥はシャンパンに口をつけながら横目を向けて、思案をめぐらせる。八年も続いたことが終わるのだからわからないでもない。片時も外さなかった指輪にも愛着を感じているように見えた。もしかしたら友情の証のように捉えているのだろうか。

「指輪がなくても僕たちは変わらないよ」

「……ああ」

 目が合うと、富田はうっすらと笑みを浮かべて頷いた。

 二人はあらためてシャンパングラスを掲げて乾杯する。いつまでも変わらない友情を誓って。そのどちらの手にもくっきりと残っている指輪の跡が、消えてなくなってしまっても。

 

第33話 二人で歩む道(最終話)

 

 一年の婚約期間を経て、遥と七海は結婚する——。

 今日の結婚式は身内と友人のみが参列する小さなものだ。式のあとにはささやかなガーデンパーティを催す予定である。幸い、空はどこまでも青く澄みわたっており雨の心配はない。

 披露宴は、後日、親族や会社関係者を招いて盛大に行うことが決まっている。こちらは橘財閥の後継者としての義務でしかないが、七海は嫌がりもせずあたりまえのように受け入れてくれた。

 ただ、大伯母はこの結婚に強く反対していた。七海の両親がともに出自不明である点がどうしても許容できないらしい。平たく言えば、どこの馬の骨ともわからない女を橘に嫁がせたくないということだ。

 けれども剛三は取り合わなかった。他家に嫁いだ人間に口出しする権利はないと。そう言われたところで彼女が納得するはずもないが、理解はしているらしい。最近は嫌味くらいにとどまっている。

 もちろん一族の中にも異を唱えるものは少なからずいた。だが最終的にはみな剛三に説得されて受け入れることにしたようだ。表向き、一族の総意として賛成ということになっている。

 遥も七海も自分の置かれた立場はよくわかっていた。この結婚を間違いだと言わせないためには、行動と結果で示していくしかない。少なくとも付け入る隙を与えるわけにはいかない。

 面倒なものを背負わせてしまった七海には申し訳なく思うが、彼女はいつだって笑顔で頑張ろうと言ってくれる。そのたびに実感するのだ。彼女とならどんな道でも手を取り合って歩んでいけると——。

 

「はーい、開いてるよー」

 七海の支度が終わったとスタッフから聞いて控え室へ向かい、扉を叩くと、結婚式直前の新婦とは思えない緊張感のない声が返ってきた。あまりにもいつもどおりなので逆に不安になる。

 扉を開くと、七海はウェディングドレスを身につけて椅子に座っていた。

 ウエストラインからふんわりと流れるように広がるシルエット、デコルテと背中を覆った透け感のある繊細なレースなど、クラシカルで品がありつつ華やかさも感じられるデザインである。

 ドレスに合わせて、メイクも上品でいて華やかな仕上がりになっていた。別人のように変わったわけではなく、素材の良さをうまく引き立てている感じだ。文句の付けようもない出来である。

 ただ、傍らに立つブラックスーツの男性が気にくわなかった。まるで新郎のような顔をして彼女に寄り添っている。そんな彼に挑発的なまなざしを向けながら腕を組み、冷ややかに告げる。

「花嫁と密室で二人きりなんて感心しないな」

「ついさっきまでスタッフもいたからさ」

 男性が答えるより早く、七海が肩をすくめて苦笑しながらそう弁明した。男性をかばうというより遥をなだめているのだろう。だが、男性のほうは不快感を隠しもせず睨み返している。

 彼は二階堂——七海のたったひとりの友人といえる存在である。中学、高校、そして現在の大学に至るまで同じ学校に在籍し、学部は違うが、いまでも一緒にお昼を食べたりしているらしい。

 ただ、彼には友情だけでなく下心もあったはずだ。中学のときから七海に恋愛感情を抱いていたのである。一度告白を断られたものの、友人の立場からひそかに狙いつづけていたに違いない。

 もっとも七海のほうは友人としか見ていない。彼と付き合うのは無理とまで言い放ったのだ。それでも友人としては大切に思っているのだろう。遥との婚約を公表前に報告するくらいには。

 友人だから自分の口から伝えておきたい、過去のことも正直に話したい——そう七海に懇願されて、いまさら何もかも暴露するのはどうかと思いつつも、最終的には彼女の意思を尊重して承諾した。

 過去というのは、中学一年生のときに遥と付き合い始めたこと、二年半で別れて初恋の相手と付き合ったこと、けれど半年も経たずにふられてしまったこと、それから遥に何度も告白されたことなどだ。

 案の定、二階堂はそれを聞いて遥を軽蔑したらしい。保護者という立場を利用して中学一年生の子に手を出すなど、男としてクズでしかないと。七海に結婚を思いとどまるよう何度も訴えたと聞いている。

 もしかしたら、ここに来てもまだあきらめていないのかもしれない。すくなくとも祝福してはいないのだろう。七海の隣に立ったまま、あからさまに挑発するような口調で言い返してきた。

「随分と余裕がないみたいですね」

「常識の話をしているだけだ」

「あなたが常識を語るなんて驚きだ」

 切れ味はなかなか鋭かった。

 中学生の七海と恋人関係になったことが間違いだとは思わないが、常識的にはアウトだろう。それを自覚しているだけに分が悪かった。返す言葉もなくじとりと彼を睨むことしかできない。

「もう、二人ともやめろよ!」

 七海は両手を広げて二人を押しとどめるような仕草をしながら、強めの声を上げた。そしてあらためて隣に立つ二階堂を見上げると、人差し指をまっすぐ彼の鼻先に突きつけつつ、口をとがらせる。

「結婚式をぶちこわしたら絶交だからな」

「わかってるよ……」

 不服そうな顔をしながらも、叱られた子供のようにしゅんとおとなしくなる。この様子なら結婚式で暴挙に出るようなことはないだろう。そもそも彼にそこまでの度胸があるとも思えなかった。

 

「結婚おめでとー!」

 ふいに能天気な声が聞こえて振り向くと、双子の妹である澪が、笑顔をふりまきながら控え室に入ってきたところだった。綾乃、真子、富田がそのあとに続く。遥も含めたこの五人は初等部から高等部までの同級生である。

 富田とはずっと親しくしているが、大学が分かれた綾乃や真子とは疎遠になり、会うのも久々である。もっとも澪はいまでも二人と交流があるので、彼女を通じて近況などは聞いていた。

「わー、七海ちゃんすごくきれい!」

「こんなにかわいい子だったんだね」

「遥にはもったいないよな」

 遥には目もくれず、女性陣はやいのやいの言いながら七海を取り囲んだ。その勢いに圧倒されて、二階堂ははじかれるように一歩二歩と後ずさり、ひとりぽつんと立ちつくす状態になった。それを見て遥はひそかに溜飲を下げる。

「いよいよ結婚だな」

「ようやくだよ」

 富田だけが遥に声をかけてきた。

 互いの左手薬指から指輪がなくなってもう一年だ。遥は今日から別の指輪をはめることになるが、富田にはまだそういう予定はないらしい。見合いも恋愛もあまり気乗りしないと言っている。澪への未練をいまだに断ち切れていないのだろう。

「おまえやっぱそういう格好が似合うよな」

「そう?」

 遥が着ているのは新郎用の白いタキシードである。いわゆるブラックタイとして着用するものとはかけ離れているが、日本の結婚式においては、こういうものを一般的にタキシードと呼称するらしい。

 白を希望したのは七海である。遥は無難に黒かグレーがいいのではないかと思ったが、絶対に白がいいと彼女に力説されてそうしたのだ。色以外のデザインにも彼女の意見を取り入れている。

 ファッションに疎いので、本当に似合っているのかどうかはよくわからない。富田にしてもお世辞で言っただけかもしれない。だが、七海が喜んでくれればそれでいいと開き直っている。

「富田もそれ似合ってるよ」

 そう返すと、彼は反応に困ったように曖昧な笑みを浮かべた。

 

「しっかし、まさかあの遥が恋愛結婚とはねぇ」

 七海を取り囲んでいた女性陣のひとりである綾乃が、腕を組みながらそう言うと、信じがたいものを見るような胡乱な目を遥に向けた。真子と澪もつられるように振り向いて小さく笑う。

「私もちょっとビックリしちゃった」

「あの変わりようには驚くよね」

 昔から遥を知っているひとなら誰でもそう思うだろう。

 かつて遥は、恋愛に興ずる妹や知人たちを冷めた目で見ていた。きっと自分は一生誰も好きになれないと思っていた。橘の後継者として二十代で見合い結婚するのだと、当然のように考えていた。

「でもさ、遥が心から好きだと思える人と出会えて、その人と結ばれて、本当によかったなって思うよ……義務感だけで結婚するんじゃ寂しすぎるもん。私、遥にも幸せになってほしかったから」

 そう言って、澪はうっすらと瞳を潤ませて微笑んだ。

 昔から彼女はそうだった。中高生のころは遥が誰も好きにならないことを心配していたし、七海を好きになってからは一貫して応援してくれていた。正直、余計なお世話だと煩わしく感じることも少なくなかったが、それでも気持ちはありがたい。

「幸せになるよ」

「うん」

 澪は嬉しそうに頷いた。

「ま、これで富田も報われるよな」

 すこし湿っぽくなった空気を払拭するかのように、綾乃は両手を腰に当ててからかいまじりにそう言い、いたずらっぽく笑う。名指しされた富田はなぜかうろたえていたので、遥が応じた。

「ペアリングの話だよね。澪から聞いた?」

「遥の婚約を教えてもらったときにね」

 偽装ペアリングの件は、共通の友人である綾乃と真子にも秘密にしていた。澪はそのことを当初から心苦しいと言っていたので、解禁したらまず彼女たちに話すだろうなと予想はしていた。

「大学のときに噂を聞いて心配してたんだよ」

「あのころは澪もわからないって言うしさぁ」

「ほんとごめんね」

 澪は申し訳なさそうに両手を合わせるが、真子も綾乃も別に責めるつもりはなかったのだろう。事情はわかってるよ、気にしてないからさ、と二人してあっけらかんと笑い飛ばした。

「それより、私、遥くんのプロポーズが気になるなぁ」

「私も気になるなぁ」

 真子がキラキラと目を輝かせて夢見がちに言うと、綾乃もニヤニヤとして同調する。その様子から、ロマンチックなものを期待しているわけでなく、単に遥をからかいたいだけということは一目瞭然だ。

「こんなすました顔してるけど、七海ちゃんにはメロメロになってるって話だし、金にものを言わせてすごいことしたんじゃない? 高級ホテルのスイートルームでシャンパン飲んでるときに、赤いバラの花束と指輪を渡して、キザったらしい情熱的な言葉でプロポーズ、とかさ」

「内緒だよ」

 ところどころかすっていたのでドキリとしたものの、遥は素知らぬ顔でさらりと受け流した。それでも綾乃はあきらめようとしない。

「じゃ、七海ちゃん教えてよ」

「内緒です」

 七海は困惑ぎみに愛想笑いを浮かべながら、そう答えた。

 口止めはしていないが、さすがにこんなところで話すわけにはいかないだろう。無理やり抱かれたあと、ベッドの上で全裸のまま言いくるめられ、結婚を承諾してしまっただなんて——。

 あれが間違いだとは思っていない。ただ、あんなプロポーズになってしまったことは申し訳なく思う。婚約指輪を贈るときにやり直せばよかったのかもしれない。いまごろ気付いてもあとの祭だが。

 もしこのプロポーズのことを二階堂に知られたら、ますます軽蔑されるだろう。七海の後方にいるのをいいことに、思いきり仏頂面をしている彼を見ながら、遥はひっそりと苦笑した。

 

 コンコン——。

 開いたままの扉を軽く叩いて入ってきたのは、武蔵とメルローズだった。その後ろからは護衛が二人ついてきている。武蔵は軽く手を上げて遥に笑いかけたが、メルローズは一目散に七海のほうへ駆け寄っていく。

「七海ちゃん、おめでとう!」

「ありがとう」

 メルローズは座ったままの七海と手を取り合い、はしゃいでいる。

 一時期は気まずかった二人だが、もうすっかりわだかまりがなくなっているらしく、この一年はしょっちゅう一緒にお茶を飲んでいた。外見は似ていないものの仲睦まじい姉妹のようだ。

「すごくきれい……いいなぁ……」

「メルだってそのうち着るんだろ?」

「ふふっ」

 メルローズは白い肌をほんのりと染めて、幸せそうに笑った。

 武蔵もそれを遠巻きに見ながらひどく甘い顔をしている。やっぱり家族としか思えないなどといつか言い出すのでは、と心配していたが、こんな顔を見せられては案ずるのもバカらしくなる。

「ん、何だ?」

「別に」

 視線に気付いた彼に不思議そうに尋ねられたが、遥はそっけなく受け流す。自分の結婚式のまえにする話ではないだろう。表情を動かすことなく静かに腕を組むと、隣でふっと笑う気配がした。

「呼んでくれてありがとな」

「メルと外でデートできてよかったね」

「おまえたちを祝いたかったんだよ」

 遥の憎まれ口に、彼は思いのほか優しい声で返してきた。

「嬉しいんだ。俺にとって家族みたいな二人が結ばれるんだからな。おまえには幸せになってほしいし、七海を幸せにしてやってほしい」

 急にそんなことを言われて、気恥ずかしさと苛立ちがないまぜになり、次第に顔が熱を帯びていくのを自覚した。不自然にならない程度に顔をそむけつつ、非難めいた口調でぼそりと言う。

「こんなときだけ父親面するんだ」

「こんなときしかできないだろう」

 そう応じた武蔵の声に、揶揄するような色は微塵も感じられなかった。反論の言葉が思い浮かばなかったわけではないが、遥は何も言わず、うつむき加減のまま口元だけをかすかに緩めた。

 

「そろそろ時間だよ?」

 真子がそう告げると、澪たちも武蔵たちもそろって控え室をあとにした。二階堂もあからさまに未練がましい様子で出て行く。賑やかだったその部屋には遥と七海だけが残された。

「騒がしくて疲れたんじゃない?」

「ちょっとだけ」

 座ったまま肩をすくめて苦笑する七海を見て、遥は軽く微笑み、空いていた椅子を彼女のそばに移動させて腰を下ろした。

 彼女はあまり人付き合いが得意でない。さほど親しくないのに親しげに接してこられるのが苦手なのだ。たとえ相手に他意がなくても。一対一でもそうなのに複数のひとに囲まれたらなおさらである。

 ただ、それでは本家の人間として差し障りがあるので、克服すべく努力していた。現にさきほども表情や態度に出すことはなかった。きっと、これからはもっとうまく振る舞えるようになるだろう。

 彼女には強い意志と根性があるのだ。

 ただ、悪く言い換えれば強情ということにもなる。間違ったほうに突き進んでしまったときがやっかいだ。遥でさえ説得がままならない。これまでいったいどれだけ振り回されてきたことか——。

「ねえ、もしかして緊張してる?」

「そんなことはないよ」

 遥は思わずふっと笑みをこぼす。

 黙りこくっていたのでそう思われたのかもしれないが、単に過去に思いを馳せていただけである。楽しかったことも、嬉しかったことも、つらかったことも、苦しかったことも、いまとなってはどれも大切な思い出だ。

「そろそろお時間ですよ」

 女性スタッフ数人が控え室に入ってきた。引きずるほど長いドレスの裾を丁寧にさばきながら七海を立たせ、軽くメイクやベールを整えて、不備がないか真剣な目つきでチェックしていく。

 それが終わると、七海にいくつか確認をしてからせわしなく離れていく。ひとり残された七海は、気持ちを落ち着けるように呼吸をしたかと思うと、まぶしいくらいの笑顔でパッと遥に振り向いた。

「行こう」

 純白の手が、まっすぐ目の前に差し出される。

 遥は虚を突かれてきょとんとしたが、すぐ我にかえり、その手を取って椅子から腰を上げた。そしてあらためてしっかりと手をつなぎ直すと、互いに目を見合わせてくすりと笑う。

「緊張はしてなさそうだね」

「これでも結構してるよ」

「そうは見えないけど」

「遥と一緒にいるからかな」

 七海はいたずらっぽくそう言い、肩をすくめた。

 キィ——両開きの扉がスタッフたちの手によって開かれていく。その音に反応して二人は前に向き直る。扉の向こうの回廊には、青空から降りそそぐ白い光があふれんばかりに満ちていた。

 

 

http://celest.serio.jp/celest/novel_campanella.html

 

 


 
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