第18話 終幕にはまだ早い
コンコン——。
部屋の扉が叩かれた。
遥は手を止めてノートパソコンの時刻表示に目を向ける。まもなく二十二時だ。扉の叩き方や足音からすると七海に違いない。腰を上げかけたものの立たずに座り直し、一呼吸おいてから返事をする。
「開いてるよ、入って」
「うん……」
戸惑いがちな声が聞こえて、静かに扉が開く。
おそらくあれからずっと武蔵と過ごしていたのだろう。七海はまだ制服を着ていた。いつもなら何の遠慮もなく中まで入ってくるのに、今日は扉に手を掛けたまま不安そうに立ちつくしている。
「座って」
窓際のティーテーブルを示しながらそう言うと、七海はこくりと頷いてようやく部屋に入ってきた。遥はノートパソコンを閉じて立ち上がり、ベッドサイドの内線電話に手を伸ばす。
「ノンカフェインのお茶でいい?」
「あ、お茶はいいや」
七海はきごちない笑みを浮かべて断り、椅子に座った。
長居をするつもりはないという意思表示だろうか。あるいはここにいたくないという深層心理だろうか。遥は受話器を戻し、何もないティーテーブルを挟んで向かいに腰を下ろす。
「ごめん、お仕事の邪魔して」
「構わないよ」
胸がざわつくのを感じながらも表情には出さず、さらりと応じる。
だが、七海はこの部屋に来たときから緊張を隠せていない。話さなければならないことがあるのだろう。どうやって切り出そうか悩んでいる様子が見てとれた。
「あの、プレゼントありがとう」
「ああ……気に入ってくれた?」
「うん、大切に使うよ」
七海への誕生日プレゼントは執事の櫻井から渡してもらった。中身は財布だ。なるべく彼女の好みに合うものを選んだつもりである。二年半も付き合ってきたのだから外しはしない。
「それとさ……その……」
ここからが本題のようだ。七海は言いにくそうに言葉を詰まらせてうつむいた。膝の上にのせた手をギュッと強く握りしめる。表情だけでなく全身がこわばっているのがわかった。
重い沈黙が続く。
気の遠くなるようなとてつもなく長い時間に思えたが、実際はそうでもない。無意識に息を詰めていたことを自覚したそのとき——七海が顔を上げ、強い意志を秘めたまなざしでしっかりと遥を見据えて言う。
「僕と、別れてほしい」
冷たい手で心臓を鷲掴みにされたように感じた。
覚悟はしていたつもりだった。武蔵が帰ってくると聞いたときからこうなる予感はしていた。そして七海が部屋に入ってきたときの様子を見て確信した。それでも現実の衝撃は耐えがたい。
小さく呼吸をして、遠のきそうになった意識をどうにか繋ぎ止める。黒一色に塗りつぶされていた視界も戻ってきた。最初に映ったのは、表情をこわばらせてじっと返事を待つ七海だった。
「やっぱり僕より武蔵が好きなんだね」
「ごめん……遥のことはちゃんと好きだった。すごく大事にしてもらったし、楽しかったし、付き合ってよかったと思ってる。でも武蔵と会った瞬間、心の奥から気持ちが逆流してきたみたいに感じて……自分じゃどうしようもなくて……」
その話に嘘はないと思う。
要するに心の奥底ではずっと武蔵を求めていたということだ。二度と会えないと聞いていたから無意識に抑え込んでいただけで。再会してあらためて自覚した気持ちは無視できないだろう。
「自分でもひどいと思うけど、こんな気持ちのまま遥と付き合えない」
彼女の声は涙まじりでかすかに震えているように聞こえた。目も潤んでいるが、涙をこぼさないよう必死にこらえているのがわかる。そんな彼女を、遥は眉ひとつ動かすことなく見つめていた。
「僕と別れて、武蔵と付き合うつもり?」
責めたつもりはないが、そう捉えられても仕方のない口調になってしまった。七海はビクリとして、その顔に冷や汗をにじませながらうつむいていく。
「そういうつもりは……っていうか……」
「多分、武蔵のほうに恋愛感情はないよ」
「わかってる」
その反応からすると、遥が言うまでもなく一応の理解はしていたようだ。武蔵と暮らしていたころの七海はまだ小さな子供だったので、冷静に考えればあたりまえではあるのだが。
「それでも僕の気持ちは伝えたい」
「そう……じゃあ、ふられたら戻っておいでよ」
「そんな都合のいいことできるわけないじゃん」
「僕はむしろ戻ってほしいと思ってるんだけど」
「無理だよ……そんなの僕が許せない……」
「……わかった」
戻らないというのは彼女なりのけじめだろう。ふられてもないうちから言い合っても仕方がないので、とりあえず彼女の意思を尊重する姿勢を見せたが、あきらめる気はさらさらない。
「でも、保護者としてはこれまでどおりだから」
「あ……」
七海は小さな声を落とした。そこまで考えが及んでいなかったらしく、きまり悪そうに目を泳がせながら逡巡したあと、遠慮がちに尋ねる。
「遥はそれでいいの?」
「ふられたからって途中で投げ出したりしないよ。七海が成人するまで僕が面倒を見ることになってるからね。きちんと務めを果たすだけの責任感はあるつもりだから、心配しなくていい」
答えたことに嘘はないが、責任感よりも役目を誰にも譲りたくない気持ちのほうが大きい。恋人でなくてもせめて保護者でいたいというのが正直なところだ。だからこそ彼女の心情は無視できない。
「もし七海が嫌ならじいさんに相談するけど」
「僕は……別に、嫌だなんて思ってない……」
「それならよかった」
戸惑いながらも受け入れてくれた七海に、遥はほんのりと笑みを浮かべて応じ、腰を上げる。
「さ、そろそろ寝ないと」
「うん……」
明日は平日なので学校に行かなければならない。七海は渋々ながらも頷いて椅子から立ち上がった。それでもまだ物言いたげな様子を見せていたが、遥は気付かないふりをして扉のほうへ促す。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ……」
扉を開けると、彼女はチラチラとこちらを気にしながらも、結局は何も言うことなく隣の自室へと戻っていく。それを見届けてから、遥は音を立てないようゆっくりと扉を閉めた。
はぁ——。
扉を背にして寄りかかり、思いきり息を吐き出しながらうなだれた。緊張の糸がぷっつりと切れてしまったらしく、一気に疲労感に襲われて、そのままずるずると崩れるように座りこむ。
七海と別れた。
こんなことになるなんて思いもしなかった。武蔵が帰ってくると知らされたあの日までは。平穏に付き合い続けて、七海が大学を卒業するころに結婚する。漠然とそう考えていたのに。
だが、まだ終わったわけではない。
武蔵が七海の告白を受け入れることはないはずだ。七海を恋愛対象と見ていないというのもあるが、そもそも他に好きなひとがいる。もう可能性は微塵もないのに忘れられない相手が。
勝負は七海がふられてからだ。すぐには難しいだろうが必ずわからせてみせる。叶わなかった幼い憧れにいつまでもしがみついているより、遥といたほうが幸せになれるということを。
それを実現するにはどうすればいい——蛍光灯の白い光が満ちた部屋の中、遥はゆっくりと顔を上げて前を見据え、冷静に思案をめぐらせ始めた。
第19話 因果応報
「くっ……そ……!」
うつぶせに倒して瞬時に背中側で腕を拘束し、動きを封じると、七海はくやしそうに上気した顔をしかめて呻く。多少、痛みもあるのかもしれない。すぐに掴んでいた腕を放して彼女の体の上からどいた。
「教えたことが全然できてなかったよ」
「うん、いまのは完全に失敗だった」
七海は体を起こしつつ、反省しきりといった面持ちでそう応じた。遥が手を差し伸べると、ためらいなくその手を取って立ち上がり、両手を腰に当てて疲れたように溜息をつく。
「予想外の動きをされるとほんとダメだなぁ」
「落ち着いてさえいれば対処はわかるよね?」
「でも頭がまっしろになるんだ」
その表情がどうすればいいかわからないと訴えている。何日も失敗が続いているせいか彼女にしてはめずらしく弱気だ。しかし、そう簡単にできるようになるなら誰も苦労はしない。
「こういう訓練やイメージトレーニングを続けていくしかないね。その積み重ねで応用力がついてくるし、そうしたら落ち着いて対処できるようになってくるはずだよ」
「わかった」
七海は神妙に表情を引きしめて頷いた。
武蔵がこの屋敷に来てから三週間が過ぎた。
七海とは別れたままだ。それでも保護者としてはいままでどおり接しているし、家族としても変わりなく過ごしている。違いといえば、互いの身体に触れなくなったことくらいだろうか。
ただトレーニング中は別である。指導のときにはどうしても触れざるを得ないのだ。あくまで指導なので互いに意識する素振りはない。だが、すくなくとも遥は何も感じていないわけではなかった。
こんな形でも触れられるだけありがたいのだろうが、こんな形でしか触れられないことがせつない。早く恋人関係に戻りたいと気は急いているものの、いまだ何の行動も起こせずにいた。
勝負は七海がふられてから——そう考えているが、二人がどうなっているか現状が掴めないのである。だからといって尋ねるのも憚られる。もどかしいが様子を窺いながら待つしかなかった。
「今日はここまでにしよう」
掛け時計を見上げると、もうすぐ終了時間になろうとしていた。
七海は素直に頷き、いつものように棚に積んである白いタオルを手に取った。けれどもいつもと違ってなかなかジムを出ようとしない。汗を拭いながら、チラチラと物言いたげなまなざしを遥に向けてくる。
「どうかした?」
「うん……」
そう言いながら、口元に白いタオルを押し当ててうつむき加減になった。しばらくすると観念したかのようにそっと顔を上げる。緊張しているのか思いつめているのか、その表情は硬い。
「僕、武蔵と付き合うことになったから」
「……えっ?」
一瞬、彼女が何を言っているのか理解できなかった。
思考が追いつくにつれて鼓動が速く強くなっていく。心臓だけでなく体中が脈動しているかのようにうるさい。付き合うって、まさか——カラカラに乾いた喉からどうにか声を絞り出す。
「恋人として?」
「うん……武蔵と再会した翌日に気持ちを伝えたんだ。最初は断られたけど、あきらめないで何度もお願いしてたら、きのう付き合おうって言ってくれて。一応、遥には言っておこうと思ってさ」
こころなしか浮き立った語調。
その話がまぎれもない事実なのだと否応なく思い知らされる。信じたくないのに信じざるを得ない。冷たい手で心臓を鷲掴みにされたように感じながらも、うっすらと微笑んでみせる。
「そう、よかったね」
「ありがとう」
七海もつられるように安堵の笑みを浮かべた。
息は荒く、顔からは汗が滴り落ちる。
遥はひとりジムに残っていた。朝食もとらず、汗だくになりながらひたすらエアロバイクを漕ぎ続けている。休憩すらしていない。何かしら体を動かしていないと気がおかしくなりそうだった。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。二人が付き合うなんて思いもしなかった。武蔵が断るものと当然のように考えていた。まだ澪のことを想い続けているのではなかったのか。
息がうまくできないし、心臓が苦しいし、膝にも痛みが出てきた。いつまで漕ぎ続けるつもりなのか自分でもわからない。いっそのこといますぐ意識を失えたらいいのに。そう思っていると——。
「おっ、遥、まだいたのか」
ジムに入ってきたのは、遥がいま世界でいちばん会いたくない男だった。護衛係という名目の監視役も二人同行している。気付けば、エアロバイクに跨がったまま呆然と凍りついていた。
「汗だくだな。頑張りすぎじゃないのか?」
「…………」
その男——武蔵が親しげに近づいてきて、遥の顔はこわばる。
彼が空き時間にこのジムを使っていることは聞いていた。ただ、遥たちが使っている早朝の時間帯を避けていたのか、これまで一度も鉢合わせたことがなかったため、その可能性を失念していた。
よりによってこんなタイミングで来なくてもいいのに。遥がいることに気付いたのなら遠慮してくれてもいいのに。身勝手に苛立ちながら、黒の長袖ジャージを着ている彼をじとりと横目で睨む。
「なんだ、言いたいことがあるなら言えよ」
「……七海と恋人として付き合うって聞いた」
「ああ」
武蔵は隣のエアロバイクに跨がり、ハンドルを掴んでゆっくりと静かに漕ぎ始めた。鮮やかな金髪が動きに合わせてさらりと揺れる。その横顔には何の表情も浮かんでいなかった。
「澪に未練があると思ってたけど」
「まあな」
遥の追及にも動じず、変わらない速度で漕ぎつづけながら平然と答える。だがその真意が判然としない。いたずらに人を傷つける男ではないはずなのに、どうして——。
「いいかげんな気持ちなら手を引いて」
「真面目に考えてるぜ」
武蔵は足を止め、ハンドルから手を放して上体を起こした。誰もいない真正面を向いたまま遠い目になる。
「七海のことは好きだけど、さすがに恋愛感情ではなかったし最初は断った。望みはないが忘れられないひとがいるってことも話した。それでも七海はあきらめなくてな。そのひとのことを忘れられるかどうか僕で試せばいい、なんて……そんなセリフどこで覚えてくるんだろうな」
そう言い、おかしそうにハハッと笑う。
僕で試せばいい——それはかつて遥が七海に投げかけた言葉だ。可能性のない相手を想い続けるつらさにつけ込んで、自分のものにするために。まさか七海がその言葉を利用していたなんて。
だが、武蔵はそれを知っていたわけではないのだろう。さきほどの言葉に揶揄するような気配はなかった。ただ浮かべた笑みをおぼろげに残したまま、物思いに耽るような顔になる。
「おまえの言うように、七海はもう小さな子供じゃなかった。結婚もできる年齢だっていうし、いまの七海なら恋人として付き合うのも問題ない。俺自身いつまでも澪に未練を残すのはどうかと思ってるしな。いい機会かもしれない」
それって——。
遥はじわじわと頭に血がのぼっていくのを感じた。太腿の上にのせていた左手をグッと握りしめて、暴走しそうになる自分を必死に抑えると、横目で武蔵を睨みながら唸るように言う。
「つまり七海を利用するってこと?」
「お互い納得のうえだ」
「保護者の僕が納得していない!」
思わずエアロバイクから飛び降り、武蔵の胸ぐらを掴んでこちらに向かせた。
彼はサドルからずり落ちかけたもののハンドルを掴んでこらえた。壁際で待機していた護衛係の二人があわてて駆け出すが、それを片手で制し、蔑むような冷ややかな目を遥に向ける。
「おまえ、七海と付き合ってたんだってな」
背筋がゾクリとした。
すでに知られているのかもしれない。保護者の立場でありながら恋心を向けたことも、心の隙に付け込んで口説き落としたことも、当時まだ中学一年生だった彼女を抱いたことも——そんなおまえが保護者面をする資格はないと、その目が語っている。
遥としては間違ったことはしていないつもりだ。それでも七海を任せられると信頼して託してくれた武蔵の心情を思えば、多少のうしろめたさは感じる。すくなくとも恋愛ごとに関してはあまり保護者面をするわけにはいかない。
もちろん七海が騙されているのならそうも言っていられないが、すべて承知のうえで武蔵との交際を望んでいるというのだから、反対する理由はない。彼の胸ぐらを掴んでいた手から力が抜けていく。
「……もう終わったことだ」
「そうはいっても未練タラタラに見えるぜ」
「いまさらどうこうしようって気はない」
「じゃあ七海と付き合ってもいいんだな?」
「僕の許可なんて何の意味もないだろう」
「おまえの立ち位置を明確にしたいだけだ」
「邪魔はしない」
恋人でなくなっても七海の味方でいようと決めている。自分の感情だけで二人の仲を裂くようなことはしない。でも——彼の胸ぐらをグッと力をこめて掴み直し、その目を見据える。
「でも、七海を悲しませるようなことをしたら許さないから」
「恩人の娘なんだ。言われなくても大事にするさ」
武蔵は煩わしげにそう言うと、胸ぐらの手を払いのけてエアロバイクに座り直し、再び表情を消してゆっくりと漕ぎ始めた。もうこちらを見ようともしない。だが、遥はその横顔をじっと眉を寄せて睨んでいた。
武蔵はかつて七海の父親に命を賭して助けられている。恩を感じるのはわかるが、それに報いるために七海を大事にするというのだろうか。もしかしたら七海と付き合うことを決めたのも——。
たとえそうだとしても交際を反対する理由にはならない。非難もできない。振り切るように勢いよく背を向けると、棚から白いタオルを引っ掴み、壁際の護衛係に目礼してジムをあとにした。
第20話 今夜だけは
「ごめん、僕から誘ったのに遅れて」
遥が店員に案内されて間接照明のともる個室に入ると、富田は振り向いて気にするなと笑った。暇つぶしなのかその手には携帯電話が握られている。スーツの上着は脱ぎ、ビジネスバッグとともに隣の椅子に置かれていた。
遥は空いていた奥側の長椅子に腰掛けて、彼と向かい合った。駅から小走りで来たせいですこし汗ばんでいる。スーツの上着を脱いで軽くネクタイを緩めながら、ふうと息をついた。
テーブルの上を見ると、水の入ったグラスとおしぼりしかなかった。
「先に飲んでてって言ったのに」
「ひとりじゃつまらないからな」
富田は携帯電話をしまいながら苦笑する。
そうはいってもさすがに三十分は長いだろう。遥が遅刻したことへの当てつけなどではなく、ただ単に律儀に待っていただけなのだろうが、だからこそ余計に申し訳なく感じてしまう。
すぐに店員がおしぼりと水を持ってきた。遥は熱いおしぼりで手を拭くと、気を取り直してドリンクメニューを広げた。富田が一ページずつゆっくりとめくっていき、二人で眺める。
「遥、おまえ何にする?」
「スパークリングワイン」
「じゃあ、俺も」
つきあいならビールも飲むが、好きなのは発泡性ワインとそれをベースにしたカクテルである。ただ普段はアルコール自体ほとんど飲まない。富田とのプライベートか会社関係で必要に迫られたときくらいだろう。
富田は冷えたビールが一番だと言っていたが、ワインも好んで飲むようだ。遥といるときはたいてい遥と同じものを頼んでいる。いつもビールばかりなのでたまにはということらしい。
店員を呼んでスパークリングワインをグラスでふたつ注文すると、そう時間をおかずに運ばれてきた。ついでにいくつか料理を注文してから乾杯する。渇いた喉に、辛口スパークリングワインのシュワッとした刺激が心地いい。
「今日は急に誘ってごめん」
「いや、どうせ暇だったし」
先約はなくても夕食など何かしら予定はあっただろう。それでも快諾して来てくれたのだから感謝しかない。今日はどうしても富田と一緒に飲みたい気分だったのだ。
「仕事はどう?」
「あー……いっぱいいっぱいだな」
「最初は覚えることも多いしね」
「おまえは余裕だろ?」
「後継者教育もあるし結構大変だよ」
「もうそんなことまでやってるのか」
「まあね」
それぞれ就職して約四ヶ月、互いの会社や仕事のことなど話は尽きない。そのうち注文した料理が運ばれてきた。大皿のサラダとパスタを適当に取り分けていると、富田が思い出したように言う。
「そういや、何か話があるんじゃなかったのか?」
「ああ、うん……」
それが今日誘った理由のひとつだ。
気は重いが、いつまでも富田に黙っているわけにはいかない。七海との関係を隠すために、何年も偽装恋人を続けてもらっているのだから。取り分けた皿を手渡しながらさらりと告げる。
「七海と別れた。ふられたんだ」
「えっ……」
富田は目を丸くして絶句した。
遥はうっすらと自嘲まじりの笑みを浮かべると、順を追って話していく。七海は昔からずっと武蔵に恋心を抱いていたこと、遥はそれを承知のうえで告白して付き合ったこと、帰ってこないはずの武蔵が帰ってきたこと、七海から別れを切り出されて受け入れたこと、今朝武蔵と付き合うことになったと報告されたこと——守秘義務に抵触する部分はぼかしたが、七海とのあいだに何があったかは伝わっただろう。
「ひどいな……自分さえ良ければいいのかよ……」
富田はテーブルの上でこぶしを震わせて呻くように言う。その眉間には深い皺が刻まれていた。まさかこれほどまで七海への怒りを露わにするとは思わず、驚くと同時に、板挟みになったような複雑な気持ちになる。
「仕方ないよ。武蔵が帰ってくるなんて誰も思ってなかったんだから」
「それにしても二年半も付き合ってたってのに、好きなひとが帰ってきた途端にほいほい乗り換えかよ。普通なら躊躇するだろ」
事実だけを追えば、そういう印象になるのかもしれない。
確かに決断は早かった。だからといって悩んでいないことにはならない。あのときの涙に震えた声は、決して演技ではなかったと断言できる。彼女なりに罪悪感で苦しんでいたはずだ。それでも——。
「自分の気持ちに嘘がつけなかったんだよ」
遥はそう言うと、グラスに手を伸ばしてスパークリングワインを飲んだ。勢いよく流し込んだせいか喉の奥がカッと熱くなる。グラスを戻して、細かな泡がはじけるのを眺めつつ静かに吐息を落とす。
「無理して付き合いつづけてもお互いつらいだけだし、これで良かったんだと思う。仕方ないよね。誰を好きになるかなんて自分でもコントロールできないんだから」
「それは……まあ……」
そのあたりは富田にも思い当たることがあるはずだ。眉を寄せてうつむき、テーブルの上にのせた左手をぐっと握り込んでいく。そのときキャンドルに照らされてプラチナの指輪がきらりと輝いた。
「ペアリングは今日で終わりにしようか。僕はこれからも女避けのために何か嵌めておくけど、富田に嵌めてもらう意味はもうあんまりないからさ。会社が別々で普段ほとんど一緒にいないし」
「いや、やめないほうがいい」
富田は真顔で反論する。
「相手がいないと説得力がないから俺が協力してるんだ。それに大学時代のことを知ってるヤツは結構いるし、俺だけ外してるのを知られたらマズいと思う。別れたのかとか詮索されるのも面倒だし」
そんなことは言われるまでもなく承知していた。
それでも終わりにしようと言ったのは、彼をいつまでも縛り続けるわけにはいかないと考えてのこと。だがこれまでと同じようにやはり引き留められてしまった。遥としてはありがたいのでついつい甘えてしまうのだが。
「富田はさ、もっと自分を大切にしたほうがいいよ」
「別に彼女がほしいとか思ってないから心配するな」
「それって、まだ澪が好きだってこと?」
「……そんなんじゃない」
じっと覗き込んで尋ねると、富田は目をそらしてムッとしたように言い捨てる。しかし頬の紅潮は隠せていない。澪を意識するような素振りはなくなっていたし、子供ができたと聞いても平然としていたので、もうふっきれたものとばかり思っていたのに。
いつまで想い続けるんだろう——。
難儀だなと思うが、遥もいずれ同じ道をたどりそうな気がしている。七海のことを忘れて他の女性を好きになるなんて、とてもじゃないができる気がしない。数えきれないほどの思い出があるからなおさらだ。
「食べよう。もうだいぶ冷めてるけど」
「ああ」
富田は気を取り直したように笑顔で頷いた。
冷めたパスタを完食したあと、今度はあたたかいうちに食べようとピザを注文する。それからは再び仕事のことを話したり、とりとめのない話で笑い合ったり、楽しい時間を過ごした。
「思ったより元気そうで安心した」
最後にひとりでデザートを食べる遥を見ながら、富田は安堵まじりに言う。
確かに自分でも意外なくらい笑うことができていたが、それは富田のおかげだ。自分ひとりでいたらひたすら沈んでいたかもしれない。もっとも傷が癒えたわけでもふっきれたわけでもないのだが。
「まあ、本当につらいのはこれからかもね。付き合ってるふたりを、ひとつ屋根の下で見守らないといけないわけだし。考えただけで頭がどうにかなりそうだよ。何の罰ゲームなんだろうね」
そう冗談めかして言うと、エスプレッソのかかったアイスクリームを口に運んだ。その冷たさがほろよいの体にしみわたる。本当はパフェを食べたかったが残念ながらメニューになかった。
カランと音が聞こえて視線を上げると、富田が氷水の入ったグラスに手を掛けて難しい顔をしていた。
「なあ、おまえあの家を出て一人暮らししたほうがよくないか?」
「そういうわけにはいかない。僕はまだ七海の保護者なんだから」
「そうか……」
七海が二十歳になるまでは論外だし、それ以降も橘の後継者という立場では難しいはずだ。もっとも武蔵と七海のほうが居を移すかもしれないが、それまではふたりを見守る覚悟でいる。
「でも、今夜だけは帰りたくないな」
情けない本音が口をついた。
だいぶ酔いがまわっているという自覚はある。すこし失敗したなと思いながらも表情には出さず、黙々とアイスクリームをすくって口に運んでいると、ふいに正面の富田が口を開いた。
「じゃあ、俺んちに来るか?」
遥はきょとんとして手を止めた。富田はグラスに手を掛けたままうつむいていたが、気恥ずかしそうにそろりと視線を上げて言い添える。
「そんなに広くないけどな」
「知ってる」
思わず遥はくすりと笑った。
富田は実家暮らしだ。子供のころに何度か遊びに行ったことがあるが、広くないというのは橘の屋敷と比べてのことで、一般的にいえばむしろ広い。そのくらいのことは理解している。
今日は金曜日か——。
富田の言葉に甘えて一晩だけ泊めてもらおうか。そうしたらあしたからきっとまた頑張れるはず。ふわふわした頭でそう考えると、スプーンを手にしたまま無防備な笑みを彼に向けた。
第21話 激情
僕の願いは——。
願ってはならないことを願いそうになる自分を戒めながら、遥は賽銭箱の前で手を合わせる。そうなるともう他に願いたいことなんて思い浮かばない。それがいまの自分ということだ。
そっと隣に目を向けると、着物姿の七海がおしとやかに両手を合わせて拝んでいた。その横顔はいつになく大人びて見える。武蔵に関することを何か願っているのかもしれない。
「行こうか」
「うん」
七海がそっと目を開けたのを見計らって声をかけると、彼女は笑顔で振り向いた。吐く息はかすかに白い。薄曇りの早朝、ちらほらと初詣客が来ている小さな神社を、二人並んであとにした。
七海が武蔵と付き合い始めてから五か月が過ぎた。
保護者としてはいままでと変わらず接しているが、それ以外では若干距離を置くようになっていた。朝のトレーニングも武蔵に任せている。未練があるからこそ近くにはいられなかった。
それでも二人の動向はどうしても気になってしまう。見たくもないくせに親しげな様子を目で追い、聞きたくもないくせに隣の部屋に聞き耳を立て、ときどき使用人にも報告させる始末だ。
二人が恋人として過ごしているのは主に武蔵の居室だが、七海の部屋のときもある。いずれにしても護衛係が声の届くところで待機しているので、最初のうちは二人とも落ち着かなかったらしい。
しかし次第に慣れ、いつしか意識することなく過ごせるようになっていた。体を寄せ合いながらおしゃべりをして、お茶をして、笑い合って——遥のときよりもよほど恋人らしくしている。
ただ、二人で遊びに出かけたことはこれまで一度もない。武蔵が自由な外出を制限されているからだ。七海としては寂しく思うこともあるだろうが、何も言わず素直に聞き分けている。
初詣に誘ったのはそういう事情があったからだ。毎年楽しみにしていたので連れて行ってやりたい。それは保護者としての思いといってもいいだろう。もちろんおかしな下心はない。
七海はすこし驚いていたものの笑顔で頷いてくれた。そしてこの元日、そろって和服を着て近所の小さな神社へ出かけたのだ。メルローズも誘ったが友達と先約があるとのことで、二人きりである。
「今日はじいさん居間にいるはずだから、そのまま挨拶してきなよ」
寄り道せずに帰り、あたたかい玄関でほっと息をつくと、外套を脱ぎながら七海に告げる。そのままというのは着物のままという意味だ。毎年のことなので勝手はわかっているだろう。
「遥は一緒に行かないの?」
「あとで行くよ」
初詣に行ったあとはいつも一緒に挨拶をしていた。だから一人で行かせることを不思議に思ったのだろう。怪訝な顔をしている七海をそこに残して、遥はひとり先に廊下を進んでいった。
「え、なんで着物なんか着てるんだ?」
遥がひとりで向かったのは武蔵の居室である。扉を開けてくれた護衛係二人に会釈して中に入ると、武蔵はソファに座ったまま目を見張り、驚いたように紺色の着物と羽織を眺めてそう言った。
「正月だからだよ」
「ああ……」
着飾ることに興味がないのは武蔵も知っている。公の場では必要に応じてそれなりのものを身に着けているが、あくまで身だしなみでしかない。初詣で和服を着るようになったのは七海にせがまれてのことだ。
武蔵に促されて二人向かい合う形でソファに座る。そのとき執事の櫻井が二人分の紅茶と菓子を運んできた。手際よくローテーブルに並べて退出するのを見届けると、遥は静かに切り出す。
「ちゃんと話すのは久しぶりだね」
「ああ、あのとき以来か」
あのとき——七海と付き合い始めたのを知ってジムで話をしたときだ。話というより口論だったかもしれない。喧嘩別れのようにジムをあとにしてからというもの、没交渉が続いていた。
今日は話があるからこの居室にいてほしいと遥のほうから頼んだ。そのときは使用人を通していたので直に話していない。あらためて向かい合って言葉を交わすとやはりすこし緊張する。
武蔵も同じなのだろう。沈黙が続くにつれて表情がこわばっていくのがわかる。しかし目を伏せたままごくりと唾を飲み下すと、遥の顔色を窺うようにちらりと視線を上げ、口を開く。
「俺を非難しに来たんだろう?」
「もうそんな気はないよ。いつまでも気まずいままでいたくなかっただけ。七海が幸せにしているなら何も言うことはないし、それが続くよう支援もしたい。何があっても七海の味方でいようって決めたから」
虚勢もあるが、言ったことに嘘はない。
武蔵にとっても悪い話ではないだろう。七海との将来に手続上あるいは外交上の問題があることくらい、彼ならわかっているはずだ。しかし何が不満なのか当惑したように眉をひそめた。
「もしかして聞いてないのか?」
「何を?」
聞き返すと、固く口を引きむすんでうつむいてしまった。しばらくそのままの姿勢で何か考え込んでいたが、やがて背筋を伸ばし、意を決したようにまっすぐ遥を見つめて告げる。
「おととい七海と別れた」
「……は?」
何を言っているのかにわかに理解できなかった。
武蔵は考えながら慎重に言葉を継いでいく。
「七海のことはいまでも好きだ。でもそれはあくまで家族や仲間みたいな感覚で、恋人としてじゃなかった。付き合ううちに馴染んでくるかと思ってたけど、どうしても違和感が拭えなくて……それで別れた」
その説明を聞くうちに、遥はだんだんと鼓動がうるさくなるのを自覚した。そのうち息もできないくらい苦しくなり、じわりと汗がにじみ、腿の上で震えんばかりにこぶしを握りしめる。
「つまり、武蔵が捨てたってこと?」
「俺から別れてくれと言った」
そう答えた武蔵をグッと歯噛みして睨めつけると、地を這うような声を絞り出す。
「やることやっておいて、いまさら……」
「抱いて初めてわかったんだから仕方ないだろう。話してるだけのときは普通に楽しかったし、こんな違和感を感じるなんて思いもしなかった。澪には感じたこともなかったのにな」
瞬間、全身の血が沸騰したかのように感じた。
気付けばローテーブルに飛び乗り、武蔵の頬に力いっぱいこぶしを叩き込んでいた。護衛係のひとりにあわてて羽交い締めにされる。蹴散らしたティーセットは床にまで派手に飛び散っていた。
武蔵は顔をしかめながら殴られた頬に手を当て、体を起こした。こちらには目も向けずに放してやれと護衛係に告げる。護衛係はすこし迷っていたようだが、言われるまま拘束を解いた。
遥はジンジンと疼くこぶしをきつく握りしめ、奥歯を食いしばった。
「最悪だ。何で帰ってきたんだ……武蔵さえいなければ……」
「七海の心を掴めなかったのはおまえ自身だろうが」
カッとして再び武蔵に殴りかかる。
だが片手で軽くこぶしを受け流されたかと思うと、逆に頬を殴りつけられた。勢いよく吹っ飛ばされて床に転がり、小さく呻く。焼けるような頬の痛みとひどい目眩で、すぐには起き上がれない。その無様な姿を、武蔵がソファに座って冷ややかに見下ろしていた。
「殴られてやるのは一度だけだ」
「……もう顔も見たくない」
目の奥がじわりと熱くなり視界がぼやける。頭がグラグラするの感じつつもどうにか立ち上がり、手を貸そうとする護衛係を払いのけると、何度もよろけながらフラフラと部屋をあとにした。
「え……ちょっと、それどうしたんだよ!」
廊下の角を曲がったところで七海と出くわした。剛三や他の家族への挨拶をすませて部屋に戻るところだろうか。まだ着物姿のままである。遥の有りさまを目にするとギョッとしていた。
あらためて意識すると確かにひどい状態だ。着物は着崩れているうえ裾に紅茶までかかっているし、遥自身は立つのがやっとだし、何より殴られた頬が腫れてじくじくと熱を持っている。
どうにか姿勢を正して、たいしたことはないかのように取り繕うが、頬がこれではあまり説得力がないかもしれない。七海のひどく心配そうなまなざしから逃れるように、そっと目をそらす。
「おととい武蔵と別れたって聞いたけど」
「……まさか、それで殴り合い?」
いきなり核心を突かれるとは思わず、絶句した。
それが肯定を意味することくらい誰にでもわかる。七海は泣きそうになるのをこらえるように眉を寄せた。だが遥がじっと見つめていることに気付くと、ぎこちなく笑みを浮かべてごまかす。
「何やってんだよもう。手当てしてもらおう?」
笑い飛ばすように言うと、手を引いて連れて行こうとするが、遥はギュッと手を握り返して引き留めた。
「七海……戻っておいでよ」
「え?」
何のことを言っているかわからなかったのだろう。彼女はきょとんと不思議そうな顔をして振り向いた。遥はしっかりと繋ぎ止めるように手を握りしめたまま、その目を見つめて明確に告げる。
「もう一度、僕と付き合おう」
七海は息を飲んだ。暫しの沈黙のあと、微妙に目を伏せて自嘲を浮かべる。
「そんな虫のいい話ないよ」
「僕がいいって言ってるんだ」
「遥にひどいことしたのに」
「七海は何も悪くない」
「でも自分が許せないんだ」
「僕が許すよ」
真剣な気持ちを伝えようと握る手に力をこめながら、みっともないくらい必死に言いつのる。けれど七海は応じようとしない。困ったように目をそらして逡巡したあと、きまり悪そうに言う。
「ごめん、まだ武蔵のことが好きだからさ」
「…………」
もどかしく思うものの、一方的に別れを告げられたばかりなのだから、気持ちの整理がつかないのも無理はない。それでもいつかは遥のもとへ戻ってきてくれる。そう信じたいが——。
彼女を掴んでいた手から無意識に力が抜けていく。しかし離れかけた瞬間、彼女のほうからしっかりと強く握りなおしてきた。ハッとする遥に、気まずさをにじませながら曖昧に微笑みかける。
「手当てしに行こう?」
「ああ……」
今度は手を引かれるまま素直に歩いた。
つないだ手がやけに熱く感じる。熱を持っているのは七海なのか、遥なのか、あるいはどちらともなのか——ぼんやりとそんなことを考えながら、ただ黙ってそのぬくもりに甘えていた。
第22話 名前のない関係
「おまえもただの男というわけか」
剛三は正月ということで身に着けていた羽織袴のまま、革張りの椅子にゆったりと身を預けて溜息をついた。その表情は渋い。正面で背筋を伸ばして立つ遥にあきれたような視線を送る。
「激情にまかせて殴りつけるなど愚の骨頂だ。今回は罪に問われないが、おまえのしたことは十分傷害罪になりえるのだぞ。目撃者が二人もいるのだから言い逃れはできない。復讐したいのなら頭を使って上手くやるのだな」
「申し訳ありません」
遥は素直に頭を下げた。
今朝の諍いについては原因も含めて剛三に報告されている。この屋敷で彼に隠しごとをするのは不可能だといっていい。半年前に遥と七海が別れたことも、そのあと七海と武蔵が交際を始めたことも、当然のように把握されていた。
剛三が危惧しているのは、直情的な行動により足をすくわれることである。些細な過ちが命取りになりかねない立場なのだ。どこで誰が手ぐすねを引いているかわからない以上、常に冷静に対処しなければならない。
だが今回にかぎってはそういう心配はないだろう。武蔵の存在自体が秘匿されているため表沙汰にできないのだ。そこまで計算して殴りかかったわけではないが、頭のどこかで承知していたのかもしれない。
遥としては何より殴り返されたことが不覚だった。頬はすこし腫れが引いたもののまだジンジンと疼いている。武蔵のほうが身のこなしも腕力も上ではあるが、落ち着いていればあのくらい防げたはずだ。
「良かったではないか」
つらつらと考えごとをしながら頭を下げていた遥に、予想外の言葉が降った。怪訝に顔を上げると、剛三は椅子にもたれたまま鷹揚に腕を組み、意味ありげな笑みを口元にのせていた。
「まだあきらめておらんのだろう?」
「……あきらめたくはありません」
「それならば早くよりを戻すのだな」
「努力します」
遥は抑揚のない声でそう答えたあと、わずかに目を伏せた。
言われるまでもなくそうしたいと考えてはいたが、簡単なことではない。七海は離れても振られても一途に武蔵を想い続けている。事実、まだ武蔵が好きだからとすでに一度断られているのだ。
年末年始の休暇が終わるころには、頬の内出血はほぼ消えていた。
長期休暇中だったのは不幸中の幸いである。殴られた痕跡を残したまま会社に行けば、後継者という立場ゆえにあることないこと騒がれ、おかしな噂を立てられていたかもしれない。
武蔵とは顔を合わすことさえ滅多になくなった。これまでは話をしないまでも出くわすことは度々あったが、いまは食事も自室ですませ、仕事へ向かうときくらいしか出歩いていないようだ。
そして七海とは——。
「週末、映画に付き合ってくれない?」
七海の冬休み最後の日、彼女に請われて数学の問題を教えたあと、緊張を押し隠してさらりとそう切り出した。彼女は問題集とノートを閉じようとした手を止め、微妙に困惑の表情を浮かべる。
「何の映画?」
「これ」
遥がそう言いながら机のひきだしから取り出したのは、アメリカのミステリ小説を原作とした映画の前売り券である。日本での公開は今週末だが、本国では二か月前に公開されて高い評価を受けているらしい。
「あ……ちょっと行きたいかも」
「じゃあ行こうよ」
控えめに興味を示す七海に、遥は焦燥感を悟られないよう注意しながら後押しする。それでも彼女はまだすこし迷っているようだったが、しばらくすると曖昧にはにかんで頷いた。
「うー……なんかもやもやするっていうか、腹立つっていうか」
土曜日の昼すぎ、約束したとおり二人で例のミステリ映画を観た。しかし上映が終わるなり、七海は思いきり眉を寄せてそんなことをつぶやく。遥は座ったまま隣の彼女に視線を流してくすりと笑った。
「確かに後味は悪いよね」
「あのラストはなぁ」
ミステリ・サスペンスという分類になっているものの、重厚な人間ドラマに重きが置かれており、事件を解決して大団円という類の話ではなかった。遥としては現実の理不尽さを突きつけるこの結末も悪くないと思うが、七海の好みではないだろう。
「今度はもっと楽しそうなのにしようか」
「……うん」
今度があるとは考えてもいなかったのだろう。七海はきょとんとして流されたように返事をする。驚いてはいるものの嫌がってるようには見えない。遥はひそかに胸をなで下ろした。
しばらくして退出の人混みがまばらになってきたころ、二人は席を立った。
「坂崎?」
シネコン直結のエレベーターで一階に下りて、エントランスを歩いていたとき、雑踏にまぎれてふいにそんな声が聞こえた。七海の名字は坂崎だ。七海も遥もつられるように振り向く。
「え、二階堂?!」
七海が甲高い声を上げた。
そこには彼女が中学時代から親しくしている男子がいた。休日なのでダウンジャケットにジーンズという私服姿だ。半年前に見かけたときよりも背が伸びている。もう遥の身長を超しているかもしれない。
「こんなところで坂崎に会うなんて驚いた」
「僕もだよ」
二人はそう笑い合った。通行の邪魔にならないよう端に寄りつつ話を続ける。
「遊びにきたのか?」
「うん、映画を観てきたところ」
「俺はスパイクを買いに来た」
彼はスポーツ用品店の手提げ袋を軽く掲げて見せる。部活で使うものだろう。高校でも野球部に入り、一年生ながらレギュラーに選ばれているらしい。前回の身辺調査報告書にそう記載があった。
「七海の友達?」
「あ、うん……同じ高校の二階堂」
背後から白々しく声をかけると、七海は当惑して気まずそうに二階堂を紹介した。彼は遥の存在に気付いていなかったらしく、無言のまま驚いたように顔をこわばらせたが、すぐに我にかえって会釈する。
「こんにちは」
「橘です」
遥はよそいきの顔で微笑んだ。それが相手に与える影響を十分に承知した上で。案の定、二階堂は逃げるようにわずかに視線をそらした。その微妙な空気を感じ取ったのか七海はおろおろする。
「えっと、僕がお世話になってる家の人でさ」
「知ってる」
中学のときは、入学式や卒業式の他にも三者面談などで何度か学校を訪れている。そのたびに騒がれていたので七海の友人なら当然知っているだろう。七海の誕生日に高校まで迎えに行ったときも遠くから見ていたはずだ。
「あの」
ふいに二階堂が切り出した。その目は思いつめたように遥を見据えている。しかし半開きの唇はなかなか続きを紡ごうとしない。「何?」と遥が促すと、緊張をにじませながらも意を決したように口を開く。
「あなたと坂崎さんはどういう関係なんですか?」
「簡単に答えられるような関係ではないね」
「それは、保護者だけじゃないってことですか?」
「厳密にいえば七海の保護者は僕ではなく祖父だ」
望んだ答えが得られなかったのだろう。二階堂は傍目にもわかるくらい不満そうな顔になった。
「君は何を聞きたいの?」
見当はついているが、わざわざ意を汲んで答えてやる義理はない。聞きたいことがあるならはっきりと言えばいい。そう挑発するように冷ややかな声音で聞き返すと、二階堂は顔をしかめて遥を睨んだ。
「立場を利用して交際を強要してませんか?」
「仮にそうだとして、素直に認めると思う?」
「…………」
彼はおそらく七海の誕生日に校門前で目撃していたのだ。遥が七海の頬に手を伸ばそうとして拒否されたところを。そしてそのあと彼女が仕方なしに車の助手席に乗ったところを。それしか知らなければ強要していると思うのも無理はない。もちろんいくら騒ぎ立てたところで何の証拠もないのだから、心配はしていないが——。
「ちょっと待てよ!」
重い空気を破ったのは七海だった。その頬は紅潮している。
「遥がなんか思わせぶりなこと言ってんだけどさ、強要も何もそもそも付き合ってないからな。何度もそう言ってるのに何で信じてくれないんだよ。そんなに信用ない?」
「あ、いや……ごめん」
二階堂はきまり悪そうに詫びるが、付き合っていないと信じて納得したわけではないはずだ。しかし当の七海にここまで強く言われてしまった以上、もう追及はできないだろう。すくなくとも彼女の前では。
二人は二階堂と別れ、チョコレートショップの二階に併設されたカフェに入った。
これまでにも何度となく七海と訪れていたところである。チョコレートの名店だけあってチョコレートパフェが絶品なのだ。ただ、ひとりでは来ていなかったのでおよそ半年ぶりである。
窓際の席に案内され、二人でメニューを見ながらデザートとドリンクを注文する。遥はチョコレートパフェ、七海はブリュッセルワッフルだ。どちらにも名物のチョコレートアイスがふんだんに使われている。
「ごめん、なんか二階堂が暴走して」
エアコンの暖房が効きすぎるくらい効いたなか、七海は冷たいグラスの水を飲んで一息つくと、そう切り出した。
「でも否定しなかった遥もどうかしてる」
「過去に交際していたのは事実だからね」
「強要はされてないけど?」
「立場だけで強要になることもあるから」
「うーん……」
立場的に優位な者からの要求は断りづらい。たとえば里親と里子の関係であれば、断ったら家を追い出されるかもしれない、生きていけないかもしれない、そう考えて意に沿わない承諾をすることはありうる。
二階堂もおそらくそのあたりのことを心配していたのだろう。彼に悪気があったわけではない。七海が好きだからこそ黙っていられなかっただけである。そのくらいは七海もわかっていると思うが——。
「なんだよ」
無遠慮な遥の視線に、七海は居心地悪そうに眉をひそめる。
遥はグラスの水を飲んでゆったりと椅子にもたれた。意図的に表情を消してポーカーフェイスを作ったまま、ちらりと七海に目を向けて言う。
「二階堂君にずいぶん好かれてるみたいだね」
「……中学のときに告白されたことはあるけど」
「へえ、それでどうしたの?」
「遥と付き合ってたし断るに決まってんじゃん」
「じゃ、いまあらためて告白されたらどうする?」
「二階堂と付き合うとか考えられない。無理」
「そう」
それなりに親しくしているのに無理とまで言われてしまった彼には、男として同情を禁じ得ない。ただ遥としては安堵した。自分はかつて付き合っていたのだから無理ということはないだろうし、望みは十分にあるはずだ。
「なら、僕と付き合うことを考えてみてほしい」
「……まだ武蔵のことが好きだって言ったけど」
「それでも構わない」
七海の目を見つめて真剣に告げると、その瞳が揺らいだ。すかさず付け入るように畳みかける。
「そもそも僕らはそこから始まったんだからさ、またそこからやり直せばいい。これからまた二人ですこしずつ積み上げていこうよ。何なら僕を利用するくらいの気持ちでも構わない」
「……ごめん」
七海はうつむき、どうにかそれだけ絞り出すように答えた。
ちょうどそのとき注文したものが運ばれてきた。遥の前にはチョコレートパフェとコーヒーが、七海の前にはブリュッセルワッフルと紅茶が並べられる。ワッフルはチョコレートアイス、バニラアイス、生クリームが添えられた豪華なものだ。
「食べようか」
遥は何事もなかったかのように声をかけた。
先に食べ始めると、続いて七海もフォークとナイフを手に取った。最初こそ気まずそうな顔をして下ばかり向いていたが、食べているうちにすっかり元気を取り戻したらしく、笑顔で声をはずませる。
「やっぱチョコレートアイスはここのがいちばんおいしいよな」
「じゃあまた来ようよ。映画やカフェなら付き合ってくれる?」
「……うん」
一瞬の戸惑いは見えたが、それでもはにかみながら頷いてくれた。
いまはこれでいい。望みがあるということは十分に感じられた。二人で楽しい時間を過ごしていれば、いずれ頑なな気持ちも氷解するだろう——このときはまだ、二人の関係についてそのくらい楽観的に考えていた。
第23話 断ち切れない想い
「もう脈はないんじゃないか?」
そう言われて、遥は思わず隣の富田を睨みつけた。
暖色の間接照明が灯る中、彼はきまり悪そうにスパークリングワインを口に運ぶ。この二年のあいだに九回告白してすべて断られたと聞けば、そう思うのも仕方がないかもしれない。けれど。
「誘えば一緒に遊びに行ってくれるし普通に仲はいいよ。いまは高三で受験生だから部屋で勉強を見ることが多いけど。付き合ってたときとあんまり変わらない感じかな。身体に触れないだけで」
「だからそこが問題なんだろ。その、あー……言いにくいんだけどな……遥のことは人として嫌いじゃないけど、そういうことはしたくない。つまり恋愛対象じゃないってことにならないか?」
「あのさ、僕ら二年半も付き合ってたんだけど」
遥はあきれた視線を流して言う。
付き合っているときにはさんざんそういうこともしてきたが、七海が嫌がったことは一度もない。もしそうならもっと早く別れを切り出されていたはずだ。恋愛対象でないという見解には無理がある。
「でもあのころの七海ちゃんはまだ子供だったし、流されるまま何となく付き合ってただけで、離れて気付いたこともあるかもしれないだろう。やっぱり遥のことは保護者としか思えないとか」
痛いところをつかれた。
遥に流されるような形で付き合い始めたのは事実だし、中学生だから未熟だったと言われると反論のしようがないが、それでもきちんと恋人として好きになってくれたと信じている。
遥はすこしだけ残っていたスパークリングワインを飲み干すと、二人掛けソファにゆったりと身を預けた。正面の窓ガラス越しにきらめく夜景をぼんやりと眺めながら、口を開く。
「単に武蔵に未練があるだけだよ」
「七海ちゃんがそう言ったのか?」
「そのくらい見てればわかるから」
最初はまだ武蔵のことが好きだからと言っていたが、そのうち理由を訊いても教えてくれなくなった。だが未練があるのは間違いない。彼の話題を出すだけで狼狽した様子を見せるのだ。
しかし、彼にその気がないならいつかはあきらめなければならない。いつになるかはわからないが、そのときそばにいればきっと自分を選んでくれると信じている。脈がないとは考えたくない。
「どうだろうな。おまえ案外ニブいし」
「は?」
地を這うような声で聞き返しながら振り向く。富田はあからさまにしまったという顔になり、逃げるように目をそらすが、このまま聞かなかったことにはできない。
「どういうこと? そんなのいままで誰にも言われたことないんだけど。むしろ他人の気持ちには敏感なほうだと思ってるけど。僕のどういうところが鈍いっていうわけ?」
「あ、いや……何となく……」
ぐいっと詰め寄ると、富田は身体をのけぞらせてしどろもどろで答えた。声からも表情からもうろたえていることが窺える。それだけでなく、間接照明でもわかるくらい頬が赤くなっていた。
おそらくまだ澪のことが好きなのだ。ずいぶん前からそういう素振りは見せなくなっていたが、双子の遥が顔を近づけたときだけは別である。もう瓜二つとはいえないものの面影はあるのだろう。
自分だって脈はないのに——。
わずかに目を細めると、元のところに座りなおして小さく吐息を落とした。スパークリングワインに手を伸ばしかけたが、さきほど飲み干してしまったことに気付き、隣のナッツをつまむ。
「もし本当に富田の言うとおりだとしてもさ、僕はまだあきらめられない。可能性はゼロじゃないんだ。状況の許すかぎり希望は捨てないつもり。ごめん、心配してくれてるのはわかってるんだけど」
「……ああ」
うつむく富田の顔はまだほんのりと紅潮していた。無意識なのか、落ち着かない様子で左手薬指のプラチナリングに触れている。遥もつられて自分のプラチナリングに目を落とした。
「富田はさ、将来的に結婚する気はあるの?」
「え……そんなこと考えるのはまだ早いだろ」
「僕はちらほら話が出てるよ」
すでに方々から見合いの打診があると聞いている。
いまは遥の気持ちを知っている祖父が断っているが、七海と結婚する目処が立たないようであれば、他の女性と見合い結婚ということになるだろう。現時点ではまだはっきりと期限を区切られていないが——。
「数年のうちに誰かと結婚することになると思う」
「そうか……」
遥には、その誰かが七海になるよう手を尽くすことしかできない。
隣では富田が思いつめたような顔をしてうつむいていた。結婚について真剣に考えたことがなかったのだろう。しかしすぐに気を取り直したように表情を明るくすると、左手薬指のペアリングを掲げて冗談めかす。
「じゃあ、それまでは俺がおまえの恋人だな」
「心強いよ」
遥は軽く笑いながら応じた。
思えばずいぶんと長いあいだ富田を縛り付けてしまった。彼を解放するためにも早く結婚すべきなのかもしれない。それまでにせめて何か——スパークリングワインを飲んでいる彼を見つめて、わずかに目を細める。
「お礼になんでもひとつ言うことを聞こうか?」
「……おまえな、そういうこと軽率に言うなよ」
「どうして?」
そう聞き返すと、富田はグラスを置いてあきれたように溜息をついた。
「自分がめちゃくちゃモテるって自覚あるのか?」
「あるから富田とペアリングしてるんだけど」
「キスしてとか言われる可能性だってあるんだぞ」
「そのくらいなら全然構わないよ」
「は?」
きょとんとした富田に考える隙も与えないまま、遥は唇を重ねた。しばらくほのかなぬくもりとやわらかさを感じたあと、ゆっくりと顔を離し、彼を見つめてうっすらと唇に笑みをのせる。
富田はぶわっと火を噴きそうなほど真っ赤になった。
「な……んで……」
「だからお礼だよ」
「お礼……え……」
「足りなかった?」
「そうじゃない!」
あわてて言い返し、顔を赤らめたまま混乱ぎみに眉を寄せる。
「ちょっと待て、おまえ何か思いっきり誤解してるぞ。どこぞの女に迫られたら困るだろうって話で、俺にしてほしいって言ったわけじゃない。いくらなんでもおまえにそんなこと頼むかよ」
どうやら行き違いがあったらしい。
富田はときどき澪と遥を重ねて見ている節があるので、澪では叶えられないことを遥に求めたのかと思ったが、確かにそんなことはひとことも言っていなかった気がする。しかし——。
「そんなに嫌だった?」
「そういうわけじゃ……」
「ならよかった」
遥はすこしだけ残っていた富田のスパークリングワインを飲み干し、グラスを持ったままにっこりと笑う。
富田はうぐっと言葉を詰まらせてテーブルに突っ伏した。タチ悪りぃ、酔っ払いが、などひとりぼそぼそと文句を言っている。顔が隠れているので表情はわからないものの、その耳はゆでだこのように赤かった。
第24話 一生の枷
「僕の学費とか生活費とか遥が出してるって本当?!」
七海が切羽詰まったように扉を叩いて遥を呼ぶので、どうしたのかと扉を開けると、何の前置きもなくいきなりそう詰め寄ってきた。体が触れそうなほど近い。そのうえ答えを催促するようにじっと目を見つめてくる。
「とりあえず入って」
「うん……」
動揺を見せることなく無表情のまま部屋に招き入れると、うつむき加減になった彼女の白いうなじを目で追いながら、ひそかに溜息をついた。
日に日に春めいていく三月下旬。
七海は第一志望である国立大学に合格し、先日入学手続きを終えた。この家から通えるので下宿先を探す必要もなく、また高校の卒業式も終わったので、のんびりと羽を伸ばしているところである。
昨日は肩胛骨あたりまで伸びていた髪をばっさりと切ってきた。出会ったころよりすこし長めの女性的なショートボブである。特にこれという理由があってのことではなく、気分的なものらしい。
今日は中学からの友人である二階堂とランチブッフェに出かけた。二人は同じ大学の別学部に進学する。ようやく受験から解放されたので、パーッと何か食べに行こうという話になったようだ。
決して対抗しているわけではないのだが、遥は忙しいなか定時で仕事を切り上げて帰宅し、七海と夕食をともにした。そのとき剛三がいつ帰ってくるかを気にしていたので、おそらくは——。
「で、その話は誰に聞いたの?」
「剛三さん」
ティーテーブルの用意が調うと、遥はひとまず熱い紅茶で一息ついてから尋ねた。向かいから返ってきたのは予想どおりの答えだ。余計なことを、と内心舌打ちしつつも表情は動かさない。
「七海を引き取りたいと言ったのは僕なんだ。じいさんは責任を持って面倒を見るならと名前を貸してくれただけ。だから僕が七海の保護者として金銭の負担もしている。それだけのことだよ」
「それだけ……」
七海はぽつりとつぶやいて微妙な面持ちになった。そのまま無言で何か思案をめぐらせていたかと思うと、ふいに強い意志を感じさせるまなざしを遥に向け、凛然と言う。
「僕にいくらかかったか教えて」
「そんなこと聞いてどうするの」
「返済計画を立てるんだ」
ティーテーブルの上でこぶしを握り、そう意気込む。
そんなことだろうと思っていたので驚きはしなかった。ただ七海は頑固だ。自分でこうだと決めたことはなかなか譲ろうとしない。だが、こちらとしてもそればかりは聞けない話である。
「返してなんかいらないからね」
「そういうわけにはいかない」
案の定、強く食いぎみに言い返してきた。ティーテーブルの上でこぶしに力がこめられたせいか、彼女のミルクティーはこぼれそうなほど水面が揺れている。
遥はゆったりと椅子にもたれて腕を組んだ。
「普通は返済するものじゃないよ」
「普通なんて関係ないじゃん」
「僕が返していらないと言っている」
「僕は返したいんだ」
七海は一歩も引かない。しかし、何かに気付いたようにあっと小さな声を上げると、急にあたふたとして落ち着きなく弁解を始める。
「別に遥だから返すってわけじゃないよ。最初は剛三さんに返すつもりだったし。さっきその話をするために剛三さんのところへ行ったら、お金を出してるのは遥だって教えてくれて……だから……」
剛三は軽率に口を滑らせたわけではなかったようだ。そういう状況であれば言わざるを得ない。それについて対処するのは当然ながら遥の役割である。
「ねえ、七海」
おもむろに呼びかけて腕組みを解き、腿に手を置く。
「僕は正直言って金銭的に何も不自由していない。七海に使ったお金なんて僕にとってははした金だ。返してもらったところで意味がないんだよ」
「遥に意味があってもなくても関係ない。僕が返したいんだ」
七海は前のめりで訴える。
これではいつまでたっても平行線のままだ。こちらの意見には聞く耳を持たず、ただ返したいの一点張りなのだから。遥はあたたかい紅茶を飲んで気持ちを整えると、七海を見つめて問いかける。
「どうしてそんなに返すことにこだわるの?」
「こだわるっていうか……」
七海は曖昧に目を伏せて考えながら、言葉を継ぐ。
「僕は親がいないのに恵まれすぎなくらい恵まれてる。何もかも橘の家に甘えてさ。だから返せるものだけでも返したいって思うんだ。そうじゃなきゃこれから自立して生きられない気がする」
「……わかった」
気持ちの問題である以上、完全に説得することはほぼ不可能だと言っていい。もちろん遥が受け取らなければ返済できないのだから、強硬に突っぱねてしまうこともできなくはないが——。
「七海が就職したら月一万ずつ返してもらう」
「月一万……うーん、それじゃ少なくない?」
「さあ、どうかな」
感情を隠したまま白々しくとぼけて、間をおかずに続ける。
「でも返していらないのに無理やり返そうっていうんだから、返済方法くらいはこちらに従うべきだと思うよ。それが気に入らないのなら一円たりとも受け取らない」
「なんだよそれ」
七海は思いきりむくれた。それでも自分のほうが折れるしかないと悟ったのか、あきらめたように投げやりな溜息をつく。
「わかったよ」
「さっきも言ったけど、返済は七海が就職して社会人になってからだ。学生のうちは働かないでしっかり勉学に励んでほしい。約束だよ」
奨学金でも在学中の返済はたいてい猶予されるのだから、おかしな話ではない。むしろきわめて一般的な配慮といっていいだろう。しかし、七海はなぜか眉をひそめて困惑を露わにする。
「でも、バイトしないとひとりで生活できないんだけど」
ひとりで生活——?
一瞬、何の話かと怪訝に思ったが、そのあとすぐに気が付いた。
七海は成人したらこの家を出ていくつもりでいるのだ。彼女がこの家に来たころ、保護者として二十歳まで面倒を見るという話をしたので、二十歳で出ていかなければと考えているのだろう。
だが、遥としてはそれ以降も変わらず面倒を見るつもりでいた。ましてや追い出すつもりなど微塵もなかった。むしろずっとそばにいてほしいとさえ思っているのに。祖父も出ていけとは言わないはずだ。
「学生のうちはここにいればいい。学費も出すよ」
「え……でも、それじゃあ……」
「その分もあとで返済してくれるんだろう?」
甘えたくないと頑なになっている七海のためにそう投げかけると、彼女はひとり百面相をしながら考え込み、やがて渋々といった様子ながらもどうにか受け入れてくれた。
「じゃ、僕にいくらかかったか教えてくれる?」
「七海が就職するときに確定額を書面で出すよ」
「現時点でどのくらいか知りたいんだけど」
「返済は月一万って決まったからもういいよね」
返済計画を立てるために教えてほしいといったのは、他でもない七海である。返済計画が決まったのなら教える必要はないはずだ。けれども彼女としては納得がいかなかったらしく、むうっと口をとがらせる。
「でも、やっぱ総額がどのくらいか気になるし」
「面倒な作業だから何度も出したくないんだよ」
「……そっか」
面と向かって面倒だと言われたら引き下がるしかないだろう。伏し目がちにぽつりとつぶやくと、放置していたミルクティーにようやく口をつけ、気を取り直したように小さくほっと息をつく。
「返し終わるまで何年くらいかかるのかなぁ」
「七海も僕もうんと長生きしないといけないね」
「え?」
七海はきょとんとして顔を上げた。
返したいなんて意地を張らなければこんなことにはならなかったのに——遥はひどく身勝手なことを思いながら、彼女の目を見つめてティーテーブルに頬杖をつき、艶めいた笑みを唇にのせる。
「一生、僕から離れられないよ」
「…………」
七海はグッと言葉に詰まり、ほんのりと頬を上気させながら恨めしげに遥を睨んだ。
第25話 タイムリミット
「遥、もう見合いをして結婚しなさい」
祖父の剛三がそう命じるのを、遥は直立したまま表情も変えずに受け止めた。先日、大伯母からも見合い相手を見繕っていると聞かされたし、呼び出された時点でこの話だろうとほぼ確信していたのだ。
執務机にはお見合い写真らしきものが山積みにされている。剛三は若干うんざりした面持ちでそれを見やると、一番上からひとつぞんざいに取り、中の写真に冷ややかな目を向けながら言う。
「大地たちのこともあって、遥にはしかるべき家のお嬢さんをという声が大きい。個人的にはおまえたちを応援していたし、味方になるつもりでいたが、よりを戻せないのでは仕方あるまい」
「僕はまだあきらめていません」
遥は強気に訴える。
しかし剛三が気持ちを動かされた気配はなかった。手にしていたお見合い写真を無造作に元の場所に戻すと、まっすぐに遥を見据え、厳しさすら感じさせる真剣な声音で諭すように告げる。
「現実を見ろ。三年以上ふられつづけているのだぞ。七海の気持ちがおまえに向くことはもうない。そのくらいおまえだってわかっているのだろう。ときにはあきらめるしかないこともある」
「……最後にもうすこしだけ時間をください」
遥は背筋を伸ばし、まじろぎもせずひたむきに見つめ返して訴える。泣いてはいないが泣き落としのようなものだ。剛三は半ばあきれたような目つきになりながら、溜息をついた。
「強要や脅迫は絶対に許さんぞ」
「承知しています」
「七海が成人するまでは待とう」
「ありがとうございます」
遥は静かに答え、深々と一礼して剛三の執務室を辞した。
自室に戻る途中、うららかな陽気に誘われるようにふと足を止める。格子窓のガラス越しに庭のほうへ目を向けると、満開の桜並木が風にそよぎ、薄紅色の花びらがひらひらと舞い落ちるのが見えた。
七海は現在十九歳。成人するまであと約三か月だ。
認めたくはないが剛三の言ったことはもっともだと思う。正直、遥自身も七海とよりを戻すのはもう難しいと感じている。これまで三年三か月、何度告白しても受け入れてもらえなかったのだから。
遥は現在二十七歳。まもなく七海の保護者としての役割にも区切りがつき、結婚を考えるにはちょうどいい頃合いである。いつまでも見込みのない片思いにうつつを抜かしているわけにはいかない。
だが、急に言われてもすぐには気持ちを切り替えられない。せめて悔いの残らないようにもうすこしだけ足掻かせてほしい。そのあとは素直に剛三に従う。七海を好きになるまえの人生設計に戻るだけのこと——。
心臓がギュッと引き絞られるように痛む。
七海と出会わなければこんな気持ちを知ることもなかった。それでも出会わなければよかったと思えないのが憎らしい。小さく吐息を落とすと、その痛みを振り切るように颯爽と足を進めた。
「遥!」
自室の扉を開けようとドアノブに手を伸ばしたとき、足音を聞きつけたのか、隣の部屋から七海があわてた様子で飛び出してきた。その手にはきのう遥が貸したミステリ小説が握られている。
「それ、もう読み終わったの?」
「うん、下巻も貸してくれる?」
「もちろん」
その返事に、七海は嬉しそうな顔を見せる。
そういえば上巻はひどく続きが気になる終わり方をしていた。ラスト数行でぞわりと鳥肌が立ち、混乱し、下巻を読むまで落ち着かないような。七海も同じ気持ちになったのかもしれないと思い、くすりと笑う。
「入って。ちょうどお茶にしようと思ってたところだから、ついでにつきあってくれると嬉しいんだけど」
「うん」
すぐにでも下巻を読みふけりたいところだろうが、笑顔で頷いてくれた。遥は扉を開け、どうぞと彼女を促しながら中に足を進めると、ベッドサイドの内線電話でお茶の用意を頼んだ。
しばらくして使用人が紅茶を運んできた。
レースのカーテンを通したやわらかな陽射しが満ちる中、手際よくティータイムの用意がなされる。二人の前にはそれぞれティーカップが置かれ、中央にはティーポットと籠入りクッキーが並べられた。
さっそくゆらりと湯気の立ちのぼる熱い紅茶を飲みながら、いつものようにとりとめのない話をする。件のミステリ小説については、七海が下巻を読み終わったら語り合おうと約束した。
「じゃあ、僕はそろそろ戻ろうかな」
話が途切れると、七海はカップに半分ほど残っていた紅茶を一気に飲みきって、そう切り出した。いつもはもっとのんびりとティータイムを楽しんでいるのに、今日は明らかに性急である。
「早く下巻が読みたい?」
「ん、まあね」
からかうように尋ねると、彼女は気まずそうに苦笑を浮かべてそう答える。二人で話をしているあいだも、ときどきではあるが手元の下巻に目を向けており、気もそぞろになっていることはわかっていた。
「でも遥も仕事が忙しいみたいだしさ」
「いまはそんなことないけど」
「剛三さんに呼び出されたんだろ?」
「ああ……」
なぜそんなことを知っているのかと不思議に思ったが、遥が自室にいなかったので、執事の櫻井にでも居場所を尋ねたのかもしれない。
「今回は仕事の話じゃないよ」
「あ、そうなんだ」
「そろそろ見合いしろって」
七海は静かに息を飲んだ。しかし驚いた様子を見せたのはその一瞬だけで、そう、とたいして興味がないかのようにつぶやくと、ティーポットから自分のカップに紅茶を注いで一口飲む。
「僕は見合いなんかしたくないんだけど」
「そんなわがまま言える立場じゃないんだろ?」
「……まあね」
遥は目を伏せ、ひそかに奥歯を噛みしめた。
いつからだろう。七海への想いを口にしようとすると、彼女は心を閉ざすようになってしまった。そっけない態度で話をそらしたり、淡々とあしらったりするばかりで、真剣に向き合ってくれないのだ。
いまだに武蔵のことが好きだと知られたくないのだろうか。最初のうちはそれを理由に遥の告白を断っていたのだが、いつしか理由は言わなくなった。尋ねても答えてくれなくなった。そのこととも符合する。
あるいは富田の言うように、もはや遥を恋愛対象として見ていないのかもしれない。気の合う友人ではあるが付き合うつもりはないと。そのことに申し訳なさを感じて隠しているのなら、辻褄は合う。
いずれにしても、遥にできるのは最後にもういちど告白することくらいである。そのために猶予をもらったのだ。きちんと準備をして、どうにか悔いの残らないように気持ちを伝えなければと思う。
それでもきっと答えは変わらない。せめて理由だけでも聞かせてほしいところだが、それも難しいだろう。だから——凪いだ紅茶の水面を見つめつつ、腿に置いた両手をそっと握りしめる。
「ねえ、今度の七海の誕生日にさ」
「ん?」
七海は飲んでいた紅茶のティーカップを置きながら、怪訝な顔をした。急に三か月も先の話を切り出されたのだから無理もない。遥は安心させるようにやわらかく微笑んで続ける。
「一緒にどこか飲みに行こうよ」
「飲みに……って……え、お酒?」
「そう、二十歳のお祝いも兼ねて」
「うん!」
最初こそ面食らっていたが、二十歳のお祝いと聞くと喜んで頷いてくれた。前々からお酒に興味を示していたのだ。未成年のうちは飲まないよう言いつけてあるので、その日が初めてになるだろう。
告白を断られたら、二人きりで飲みに行くのはおそらく最初で最後になる。七海の成人を祝い、一緒にお酒を飲み、それを思い出にしてこの気持ちに区切りをつけよう。遥はひとりひそかに決意を固めた。
Part.4に続く。
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橘財閥の御曹司である遥は、両親のせいで孤児となった少女を引き取った。
純粋に責任を感じてのことだったが、いつしか彼女に惹かれていき——。