第10話 対峙
「なぜ呼ばれたかはわかっているな?」
「はい」
七海と体を重ねた翌日、遥は橘財閥会長である祖父の剛三に呼び出された。
ベッドに残る痕跡に使用人が気付かないはずもなく、剛三に報告する旨を執事の櫻井からあらかじめ伝えられていたため、心の準備はできていた。もとより隠すつもりはなかったので手間が省けたともいえる。
たじろぐことなくまっすぐ背筋を伸ばして立ったまま、冷静に見つめ返す。剛三は執務机で両手を組み合わせて難しい顔をしていたかと思うと、疲れたように溜息をついて口を開いた。
「おまえを信頼していたのだがな」
「七海とは双方合意の上で付き合っています」
「保護者の立場で許されると思っているのか」
「役目は疎かにしませんし、誰にも譲りません」
恋人として付き合うことも、保護者として面倒を見ることも、どちらもあきらめる気はない。相手が誰であっても絶対に譲らない。いっそう表情を引きしめて自らの覚悟を伝える。
「僕は七海と結婚するつもりでいます」
「本人は了承しているのか」
「そこまではまだ話していません」
さすがに結婚のことを考えさせるには年齢的にも心情的にも早いだろう。しかしいずれ了承してもらうために努力を続けていくつもりだ。そしてありとあらゆる障害は取り除く心構えでいる。
「認めない、なんて言いませんよね」
言外に含ませたのは遥の父親のことだ。天涯孤独となった十歳くらいの少女に一目惚れし、いずれ妻にするつもりで、しかしそのことを隠したまま引き取って手なずけた。剛三も共犯である。
それが許されるなら、七海との結婚も許されてしかるべきではないか。保護者の役割を任されているだけで父親ではないし、年齢はあと何年か待てばいいだけのこと。反対する理由はどこにもない。
言わんとすることを察したらしく、剛三は渋い顔になった。
「自分にも他人にも興味を持てなかったおまえが、誰かを好きになったことは素直に嬉しく思う。七海さえ了承すれば結婚に反対するつもりもない。保護者の立場を悪用したのでなければ、付き合うことには目をつむってもいい。ただな、十三歳の子に手を出すのは早すぎるだろう。何を焦っておるのだ」
「問題があるとは思いません」
遥は強気に言いきる。年齢的に早すぎるというのは正論だろうし、指摘されたとおり焦る気持ちも確かにある。それでも彼の前で認めるわけにはいかない。付け入る隙を与えてしまう。
一歩も引かない姿勢に、剛三は困惑したように眉をひそめた。
「何を言っても無駄か……どうもおまえの執着には狂気じみたものを感じるな。大地と血の繋がりはないのに、どうしてこう似なくていいところが似てしまったのか……」
「僕は父さんのようにはならない。絶対に」
父親と血の繋がりがないことを知ったのは数年前である。赤の他人だったことにせいせいしているのに、似ているなどと言われては不本意きわまりない。あの男は唾棄すべきクズなのだ。
彼は異常な手段で妻を手に入れ、そのくせ生体実験として他の男性の子供を産ませ、あげく妻が亡くなると面影を求めて娘を犯した。遥にも執着はあるが、彼のように歪んだものではないと断言できる。
揺るぎない強い意志を伝えるように視線を送ると、剛三は奥底まで探るように見つめ返してきた。互いに無言のまま身じろぎもせず対峙していたが、やがて剛三が大きく息を吐いた。
「まあよかろう。反対したら家を出て行きかねんからな」
「……ありがとうございます」
祖父としてはたったひとりの後継者を失うわけにはいかない。戯れに手を出したのならさすがに許さなかったと思うが、遥が真剣で、七海との合意もあるということで譲歩したのだろう。
「ただし家の外では自重するのだぞ」
気が緩んだところでさらりと釘を刺された。
もとより言い訳のつかないところに連れ込むつもりはない。失礼しますと素知らぬ顔で一礼して執務室を辞そうとした、そのとき——ドンドンドンとひどく慌てたように扉が叩かれた。
「七海です!」
向こう側から切羽詰まった声が聞こえる。
遥は思わずハッと息を飲んでその扉を見つめた。一方、剛三は面白がるように口もとを上げ、入りなさいと張りのある声で応じる。すぐに扉が開き、七海が上気した必死な顔で飛び込んできた。
「ごめんなさい!」
遥の前に立ち、執務机の剛三に向かって勢いよく頭を下げる。
「その、いけないことだなんて知らなくて……もう二度としないって約束するし、出ていけって言うなら出ていくから、遥は勘当しないで!」
「ほう」
剛三は意味深長な声で相槌を打ち、ニヤリとした。
遥もすでにだいたいの状況は掴めている。このまま剛三を放っておくと何を言い出すかわからない。冷ややかに牽制の一瞥を送ると、いまだ深々と頭を下げたままの七海に後ろから声を掛けた。
「勘当なんて話はないよ」
「えっ?」
「それ、誰に聞いたの?」
「櫻井さん」
予想どおりの答えである。勘当されてしまうかもしれないと純粋に心配していたのか、七海を焚きつけるために大仰に言ったのかはわからないが、どちらにしても彼に悪意はないはずだ。
「じいさんに呼び出されはしたけど、七海と付き合うことにしたってきちんと報告しただけだよ。もう認めてくれてるし、そもそも七海は何も悪いことをしてないんだから謝らなくていい」
「……本当?」
彼女は半信半疑でおずおずと剛三を窺う。
彼も心得ているようで、今度はからかうような素振りもなくしっかりと頷いてくれた。ほんの数分前まで反対していたことなどおくびにも出さずに。
「よかったぁ」
七海はへにゃりと膝から崩れてその場に座りこんだ。
遥のことにここまで必死になってくれた彼女を見ていると、つい頬が緩みそうになる。だが剛三の前でそんな顔をさらすわけにはいかない。取り澄ました表情で手を差し伸べて彼女を立たせる。
「それでは、失礼します」
「末永く仲良くな」
思わせぶりな笑みを浮かべる剛三を見て、七海はきょとんとした。
余計なことを——遥は苦々しく思いながらも無表情のまま一礼し、やわらかい手を引いて執務室をあとにする。ようやく二人だけになり、ほっと安堵の息をついて隣に目を向けると、彼女もこちらに目を向けてほっとしたようにはにかんだ。
第11話 本物と偽物
冬休み最後の日、遥は友人の富田を自宅に呼んだ。
子供のころにも何度か呼んだことがあるが、彼はいつもそわそわと落ち着きのない様子を見せていた。それは大人になったいまでもあまり変わらないようだ。背筋を伸ばして応接ソファにおさまりながらも目は泳いでいる。
「そんなに緊張しないでよ」
「そう言われてもな」
富田は困ったように苦笑した。
アンティークな調度品が並んだ重厚感あふれる応接室は、確かに普通の大学生には馴染みのない空間だろう。真面目な話がしたかったので応接室に通したのだが、遥の自室にしたほうがよかったかもしれない。
ほどなくして執事の櫻井がコーヒーを運んできた。ほかの使用人は近づけないよう申しつけてあるので、彼自ら運んできたのだ。手慣れた所作でコーヒーカップやミルクを並べ、一礼して退出する。
遥が勧めると、富田はブラックのまま口をつけてほっと息を吐いた。それで幾分か緊張もほぐれたようだ。ソファの背もたれに軽く身を預け、物言いたげなまなざしを遥に向けておもむろに切り出す。
「で、何か話があるんだろう?」
「まあね」
冬休み最後の日にわざわざ家に呼んだのは、外ではできない話があるからだ。富田もそのくらいは察しているのだろうが、内容までは見当がつかないようで、不安そうな顔をしていた。
遥はそんな彼を見ながらゆったりとコーヒーを飲み、本題に入る。
「彼女ができた」
「誰に?」
「僕に」
「…………」
富田はぽかんと口を半開きにして固まった。
好きなひとなんていない、恋愛なんかどうでもいい、女子が寄ってきても煩わしいとしか思わない——そういう遥の様子を幼いころからずっと見てきたのだから、驚くのも無理はない。
「マジで?」
「マジで」
そう返してクスッと笑う。
富田は細く息を吐き、ようやくすこし冷静さを取り戻したようだが、それでもやはりすぐには信じがたいのだろう。神妙な顔で何か葛藤するような様子を見せていた。
「その彼女って俺の知ってる子なのか?」
「七海だよ。富田も一度会ってるよね」
「……ちょっと待て」
開いた左手を遥に向けると、思いきり難儀そうな顔をしながらゆっくりとうつむいた。そのまま気持ちを落ち着けるように小さく呼吸をしたあと、そろりと視線を上げて尋ねる。
「七海って、おまえが面倒見てるあのちっちゃい子?」
「そう、もう中学生だしだいぶ大きくなってるけど」
「いやいやいや」
中学生でも十分まずいと思っていることは明らかである。だが言葉にはせず、ただ困惑と動揺が入りまじったような微妙な顔をしていた。そのまましばらくじっと動きを止めていたが、ふいにハッとして言葉を継ぐ。
「いくらなんでもまだ手は出してないよな?」
「……合意の上でならそういう行為はしたけど」
「マジか……」
彼は常識人なのだ。にわかに受け入れてくれないだろうとは思っていた。だからといってむやみに否定しないだろうとも思っていた。現時点ではそれ以上のことを望むつもりはない。
空調のかすかな音だけが聞こえる。
遥は富田の様子を眺めながらコーヒーに手を伸ばした。彼もつられるようにコーヒーに手を伸ばす。互いに無言のままカップに口をつけていると、カチャリと扉の開く音が響いた。
「櫻井さんに言われて来たんだけど」
「うん、入って」
姿を現したのは七海である。
もともと富田が来たときに連れて行くつもりだったが、部屋にいなかった。しかしながら家のどこかにいることはわかっていたので、見つけたら連れてくるよう執事の櫻井に頼んでおいたのだ。
彼女は股下くらいまであるVネックの白いニットに、デニムのショートパンツ、短いルームソックスという格好をしていた。当然ながら脚は露わになっている。おまけにシャワーを浴びていたのか髪が生乾きだ。
その無防備な姿を自分以外の男にさらしているという現状に、ひどく落ち着かない気持ちになる。こんなことなら身なりを整えてくるよう言っておけばよかった。いまさらではどうしようもない。
「七海ちゃん……なのか……?」
駆けてきた七海をまじまじと見つめながら、富田は唖然とつぶやいた。
七海は観察するようなまなざしを向けて軽く会釈する。
「えっと、遥のお友達の富田さんですよね」
「ああ……本当に大きくなったな……」
富田の視線は、無遠慮にも七海の胸元に注がれていた。
脛を蹴りつけたい衝動に駆られたものの、残念ながらテーブルが邪魔で物理的に不可能だった。代わりにじとりと冷ややかな視線を送る。それに気付くと富田はきまり悪そうに目を伏せた。
彼が驚いたのも無理からぬことだとは思う。前に会ったのは二年以上前で、そのときから身長は二十センチほど伸びているし、平らだった胸も成長している。ニットを着ていてもはっきりとわかるくらいには。
「七海、座って」
「うん」
七海は促されるまま遥の隣に腰を下ろした。
なぜこの場に呼ばれたのかもう察しがついているのだろう。斜め向かいの富田の手元をちらちらと窺い見ていた。その薬指には遥とのペアリングがはめられている。
「あ……そうか、もうコレいらないんだな」
「待って」
七海の視線でペアリングの存在を思い出した富田が、こころなしか寂しげにつぶやいて外そうとしたが、遥がそれを止めた。
「できれば継続してほしいんだけど」
「いや、でも七海ちゃんがいるのに」
「まだ公表するつもりはないからさ」
「ああ、そういうことか……」
遥の考えは富田にも伝わったようだ。
年齢的に批判的な目で見られることは十分自覚している。遥は何を言われても動じないが、攻撃の矛先が七海に向くことだけは阻止したい。そのためにはこの関係を秘密にしておくしかないのだ。
「俺のところにもいまだに来るもんな。あなたじゃ橘くんを幸せにできない、別れて、っていうようなのが……男の俺だからこのくらいですんでるけど、女で年下の七海ちゃんならもっとひどいことをされるかもしれない」
淡々と語られたその話を聞いて遥は驚いた。まさか富田がいまだにそんな目に遭っていたとは——最初のころはそういう話も何度か聞いたが、もうなくなったものとばかり思っていた。
「前から言ってるけど、富田が嫌なら終わりにするよ。無理はしなくていい」
「いや、聞き流せばいいだけだからな。本当に付き合ってるわけじゃないし」
そう言いつつも、彼の表情はどこかぎこちなかった。
彼が本当に無理をしていないのかはわからない。いや、やはり多少は無理をしていると見るのが自然だろう。それでも継続してくれるというのであれば、遥としてはそれに甘えたい。
「わかった。またごはんでも食べに行こう」
「おう」
富田は白い歯を見せて応じてくれた。
彼には報酬を払っていない。一緒にお茶や食事をするときにおごるくらいである。何年も偽装恋人として縛っているので、それに見合う報酬を払いたいと思っているが、いらないと言われてしまうのだ。
金銭以外で何か礼ができればいいが思いつかない。彼が何を求めているのかがわからない、というより見返りを求めていない気がする。そういう彼だからこそ友人でいられるのかもしれない。
じっと見つめていると、彼はかすかに頬を赤くしてふいと目をそらしたが、直後にハッと何かを思い出したように真顔になった。ペアリングに触れながら窺うような視線を七海に向ける。
「七海ちゃんは、遥と俺が付き合うふりを続けてもいいのか?」
「うん、全然構わないよ」
七海は即答した。
二人の関係を秘密にするために富田と偽装恋人を続けたい——その意向はあらかじめ彼女に伝えてあった。もっともそのときもすぐに賛成してくれたので、説得の必要はなかったのだが。
「もともと僕も学校では秘密にしようと思ってたからさ。遥と付き合ってるなんて知られたら、いろいろ面倒なことになりそうだもん。富田さんに押しつけるみたいで申し訳ないけど」
「いや、たいしたことじゃないから」
富田は左手を軽く上げて恐縮したように応じた。そしてふと思い出したように自身の腕時計を確認すると、おずおずと遥に切り出す。
「悪い、そろそろ帰らないと……」
家族で出かける用事があるので、あまり時間がとれないということは聞いていた。それでもいいからと出かける前に来てもらったのである。話すべきことは話したのでちょうどいいタイミングだろう。
「うん、忙しいのに無理言ってごめん」
「こっちこそ慌ただしくて悪いな」
「車で送らせようか?」
「いや、今日は自転車で来てるんだ」
富田は残りのコーヒーを飲み干して立ち上がった。急いでいることはその様子から見てとれる。遥はできるかぎりの早足で玄関まで案内すると、扉を開けて見送る。
「じゃ、あした学校でね」
「ああ……よかったな」
富田はうっすらと笑みを浮かべてそう言うと、返事を待たずに身を翻し、軽く左手を上げて軽やかに走り去っていく。その薬指のペアリングが、降りそそぐ陽射しを受けてきらりと白く輝いた。
第12話 墓参り
「お墓参り?」
冬休みが終わってまもない金曜日の夜。
遥は自分の部屋に七海を呼び、紅茶を飲みながら学校の話を一通り聞いたあと、明日お父さんのお墓参りに行こうと切り出した。彼女はティーカップを持ったまま不思議そうな顔になる。
「別にいいけど……命日でもお彼岸でもお盆でもないのに、なんで?」
「お父さんに報告することがあるからね。七海もあるんじゃないの?」
「ああ……うん……」
遥の言わんとすることを理解したのだろう。七海は曖昧に頷いてティーカップをそっと戻した。あまり気が進まないように見えるのは、まだ武蔵のことをあきらめていないからかもしれない。
「無理強いはしないけど」
「ううん、行くよ」
彼女は気を取り直したように笑顔になった。
いまのように武蔵に思いを馳せているのが見え隠れするとき、胸が痛まないといえば嘘になる。それでもいちいち落ち込んでなどいられない。武蔵のことが過去になるよう努力するしかないのだから。
翌日、七海の部屋をノックすると、待ち構えていたかのように扉が開いた。
彼女はざっくりとしたセーターに、デニムのショートパンツ、黒のオーバーニーソックスという、普段と変わらないカジュアルな格好をしている。小脇に抱えているのはダッフルコートだろう。
執事の櫻井に見送られながら二人で玄関を出た。ときどき強く吹きつける風は冷たいものの、水色の空は穏やかに晴れわたっており、墓参りには悪くない天候だ。のんびりとした足取りで車庫に向かう。
「あれ、こんな車あったっけ?」
シャッターが開くと、七海はそこにあった赤いスポーツセダンを目にして声を上げた。ぐるりとまわってあちらこちらから眺めたり、窓越しに運転席や助手席を覗き込んだり、興味津々の様子である。
「気に入った?」
「うん、何かかっこいいね」
橘が所有している乗用車はどれも乗り心地重視である。すくなくとも若者受けするデザインとはいえない。色もほとんどが黒か白という地味なものだ。それゆえ赤というだけでもかなり新鮮に映るのだろう。
「これどうしたの?」
「僕が買ったんだ」
「へぇ」
きのう納車されたばかりの新車である。七海と二人で出かけたいがために買ったようなものだ。橘所有の車はいつでも運転手付きで出してもらえるが、遥が運転することは許されていない。
「乗って」
そう言いながら助手席側の扉を開いて促すと、七海はきょとんとした。いつもは二人で後部座席に座っているからだろう。白い手袋をした運転手がいないということには、おそらくまだ気付いていない。
「助手席に座るの?」
「そう、僕は運転席」
それでようやく理解したようだが、にわかには信じられなかったのか、大きな目をぱちくりとさせて疑問を口にする。
「遥、運転できたの?」
「免許は持ってるよ」
「えー……なんか怖い」
七海は疑わしげな顔になる。
遥に運転しているイメージがないからだろう。実際、免許を取ってから一度も運転していないのだ。しかし遥自身はそれほど不安を感じていない。
「教習所では上手いって言われたけどね」
「ほんとかなぁ」
「ちゃんと安全運転するからさ」
開いた扉に手をかけたまま微笑を浮かべてそう言うと、七海は胡乱なまなざしを送りながらも助手席に乗り込んだ。遥はその扉を閉め、反対側から運転席に乗り込んでエンジンをかけた。
途中で花を買い、七海の亡くなった父親が埋葬されている墓地に向かう。遥もこれまで何度か来ているので場所はわかっている。墓地からほど近い駐車場に車を入れるとエンジンを止めた。
「運転どうだった?」
「まあまあかな」
「それならよかった」
久しぶりの運転だが特に危ういところはなかったはずだ。七海もすっかり安心したようで無邪気な顔を見せている。この様子なら、これからも遥の運転する車に乗ってくれるだろう。
花と線香は七海に持たせ、遥は途中で手桶と掃除用具を借りて水を汲んだ。たくさんの墓石が整然と並んだそのあいだの通路を、目的地に向かって歩いていく。
「あれ?」
七海がふいに声を上げた。
視線のさきにある父親の墓には、彩り鮮やかな花が供えられ、線香の煙が立ち上っていた。誰かが墓参りに来たのだろう。彼には七海以外に家族も親戚もいないのだから、思い当たる人物はひとりしかいない。
「拓海かな」
「だろうね」
真壁拓海——彼女の父親である坂崎俊輔の親友であり、同僚であり、そして刺殺した男だ。この墓を建てたのも彼である。かつては命日に七海と墓参りをしていたそうだが、いまも贖罪の気持ちは忘れていないらしい。
しかしながらこれまで一度も鉢合わせることはなかったし、痕跡もなかった。彼自身が悟られたくないのか、七海に配慮してかはわからないが、命日、盆、彼岸の時期は避けているのだろう。
それなのに偶然にも同じ日に来てしまうとは。七海には彼の痕跡すら見せたくなかったが、鉢合わせるよりはよかった。七海が望まないかぎり二度と会わせないと決めている。そのためにはこちらも気をつけなければならない。
「お花、どうしようか?」
「七海が捨てたいなら捨てるけど」
「まだ萎れてないしもったいないよ」
「じゃ、窮屈だけど一緒に供えよう」
遥としては拓海の供えたものなど捨ててしまいたかったが、七海がそう言うのであれば従うしかない。決める権利があるのは彼女だけだ。この墓石に名前を刻まれた人物の遺族であり、本人でもあるのだから。
七海 享年六才——遥はちらりと墓石の横側に目を向けて眉を寄せる。彼女の名前までもが刻まれているのは、父親と一緒に死んだことにされていたからだ。もちろん拓海の仕業である。
遥は消したかったが、七海がそのままにしておきたいと譲らなかった。これも生きた証だと思っているのだろう。さすがに本人の意向を無視するわけにはいかず、仕方なく残してあるのだ。
「お花を供えるまえに掃除だね」
「その必要はないよ」
墓は隅々まですっかりきれいに掃除されていた。墓石の上からひしゃくで水をかけたあと、持ってきた花を供える。すでに花が供えてある花立に無理に押し込めたため、不格好になったが致し方ない。
線香はそれぞれ一本ずつマッチで火をつけて立てる。だいぶ短くなった線香の煙と、新たな二本の煙がゆらりと絡み合うように上がるのを見て、遥と七海は静かに両手を合わせて目を閉じた。
遥は死後の世界や霊魂など信じていない。
それでもここに来ることはけじめとして必要だと考えた。七海を必ず幸せにすると、大切にすると、父親の墓前で誓うこと自体に意味がある。その決意を強固なものにするためにも。
隣を見ると、彼女はまだ目をつむったまま両手を合わせていた。やがて目を開き、凛としたまなざしで正面の墓を見つめつつ、合わせていた手をゆっくりと下ろしていく。肩まで伸びた黒髪がさらりと冷たい風に揺れた。
「もういい?」
「うん」
七海はにっこりとして答えた。
墓前で何を思ったのかは互いに尋ねようとしない。遥が秘密にしておきたいと考えているように、七海も踏み込まれたくないと感じているのだろう。それは決して悪いことではないはずだ。
二人とも無言のまま、乾燥した風に吹かれながら人影のない墓地を歩いて戻る。いつのまにか薄曇りになり、そのせいかいっそう風が冷たくなったように感じる。七海の吐く息がほんのりと白い。
「七海、寒くない?」
「ちょっとね」
「どこか寄ってく?」
「今日は帰りたいな」
「わかった」
ほんのりと感傷的な様子を見せる七海に、そっと微笑みかける。
彼女はひとりになりたい気分なのかもしれないが、遥にそのつもりはない。家に帰ったらあたたかい紅茶を飲んで抱きしめよう。父親のことも、拓海のことも、武蔵のことも、何も考えられなくなるまで——。
第13話 高校受験
七海と付き合い始めてから二年が過ぎた。
別れの危機はこれまで一度もない。七海が口をとがらせることはあるが、せいぜいその程度で、喧嘩といえるまでには発展しないのだ。彼女のさっぱりした性格のおかげといえるだろう。
遥と七海の関係を知っているのは、祖父とその秘書、友人の富田、妹夫婦、それに使用人くらいである。メルローズにはまだ言っていない。嫉妬をされて面倒なことになりかねないし、口止めも難しいと判断した。
関係は秘密だが、憚ることなく二人であちらこちらと出かけている。表向きは家族なのだ。普通にしていれば一緒にいても何もおかしくない。手をつなぐなど、疑われそうな行動だけはしないよう心がけている。
大学の同級生や他大学の女子などが街で目撃して、富田や妹に探りを入れてきたことは何度かあったが、二人とも心得ているので余計なことは言わない。あの子は橘の里子とだけ答えている。
ただ、付き合っているのかと直球で尋ねてくる相手には、明確に否定してくれた。あの品行方正な遥が中学生と付き合うわけがないと。血の繋がりがないことで疑惑の目を向けていた人も、それで納得するようだ。
遥としては、その押しつけがましい言いように思うところはあるが、実際にそれで助けられているのだから文句は言えない。だが、その方法が使えるのもあとすこしのあいだである——。
「高校、どこにするかもう決めた?」
冬休み最後の日、七海を自室に呼んでそう切り出した。
夏頃から何度か志望校についての話し合いをして、彼女がかなり悩んでいることも知っていたが、いつまでもこのままというわけにはいかない。そろそろ決めなければならない時期なのだ。
「今週中には聞かせてほしいんだけど」
「……有栖川学園にしようと思う」
彼女は飲みかけのティーカップを戻して答えた。
私立東陵学園の中等部ではほとんどの生徒が内部進学するが、遥は有栖川学園を薦めていた。遥自身の出身校だ。初等部、中等部、高等部と十二年も在籍していたので、校風もよく知っている。
東陵学園は名家の子女が通う由緒正しい学校だが、内部進学する生徒が多いためか受験勉強には力を入れていない。一方、有栖川学園は国内屈指の進学校なので取り組みも熱心なのだ。
七海は興味を示しつつも決めきれずにいた。東陵学園に思い入れはなさそうだが、それなりに馴染んだ環境を捨てるには勇気がいるのだろう。新しい学校でまたひとりぼっちになってしまうのだから。
ただ、七海には有栖川学園のほうが合うのではないかと思う。華やかな御令嬢や御令息がそこら中にいる東陵学園と違い、地味で真面目な人が多く、遥の知るかぎり陰湿ないじめが起こったことはない。
そのあたりのことも遥の見解として伝えてある。だが言いなりならず、自分自身でしっかりと熟慮して決めてほしいのだ。どちらを選んでも、望みどおりの道を進めるよう支援するつもりである。
「僕が薦めたからって無理はしなくていいよ?」
「僕なりにどっちがいいか考えたんだ。有栖川のほうが進学に有利みたいだし、校風も良さそうだし、うちから徒歩で通えるのもいいなって。知らない人ばかりのところへ行くのはちょっと怖いけど、いつまでもそんなこと言ってられないし」
七海は慎重ながらも明確にそう答えると、吐息を落とす。
「受かるかどうかが問題なんだけど」
「七海の成績なら余裕で受かるよ」
「そう言われると逆に不安になるよ」
気休めではなく、事実として十分すぎるくらいの成績である。ただ彼女の不安もわからなくはない。試験当日に何か大きな失敗をしてしまえば、内申点が良くても不合格になることはありうる。
「ま、落ちたら東陵の高等部に行けばいいんだし、神経質にならなくていいよ」
「うん……そうだよね」
七海は気持ちをごまかすようにはにかんだ。
いくら前向きでもそう簡単に不安は拭えないだろう。どうにかしてやりたいが、言葉を尽くしても逆に追いつめてしまいかねない。遥はぬるくなった紅茶のティーカップに手を伸ばし、静かに思案をめぐらせた。
その日から、ふたりで出かけることも夜を過ごすこともなくなった。そういう気分になれないと七海に言われたからだ。そこまで思いつめて大丈夫なのかと心配にはなったが、無理強いもできない。
それでも家族としては普段と変わりなく過ごしている。毎朝のトレーニングは継続していたし、時間さえ合えば食事も一緒にしていたし、たびたび学校や勉強についての話を聞いていた。
保護者としても出来るかぎりのことはしているつもりだ。夜ふかしをしないよう言いつけたり、ときどきお茶に誘って休憩させたりと、根を詰めすぎることのないよう見守っていた。
そして受験当日。
雨や雪が降ることもなく空は穏やかに晴れわたっていた。七海は若干緊張ぎみながらも体調にはまったく問題ないようで、元気に受験会場へ出かけていった。下見にも行ったので迷いはしないだろう。
彼女を見送ったあと、遥は大学の図書館で卒業論文発表の準備をした。家でもできなくはないが、彼女の受験が気になって落ち着かないので、集中するためにあえて大学まで出向いたのだ。
「おかえり!」
日が沈みかけたころに帰宅すると、廊下を歩く足音を聞きつけたのか、七海が元気よく部屋から飛び出してきた。遥は緊張を感じつつ、それでも逸る心をおさえて笑みを浮かべる。
「ただいま。入学試験はどうだった?」
「うん、問題は解けたと思うけど……」
「何かあった?」
「ううん、何となく心配なだけ」
きまり悪そうに苦笑している七海を見て、遥は表情を緩めた。久しぶりにその手を取り、無言のまま彼女の部屋に連れ込んで抱きしめる。扉は閉めたので誰にも見られることはない。にもかかわらず彼女は身を預けようとしない。
「どうした?」
「これお疲れさまってこと?」
「僕がこうしたかっただけ」
そう答えると、こわばったその体から力が抜けるのがわかった。表情を窺おうとするが胸元に顔をうずめられてしまう。彼女はそのまま遠慮がちに遥の背中に手をまわし、ぼそりと言う。
「あのさ……夜、そっちにいっていい?」
「もちろん」
冷静に答えたものの、内心驚いた。
これまで遥から誘うばかりで彼女からは初めてなのだ。しばらく触れていなかったので寂しかっただけかもしれない。でも、もしかしたら——武蔵への想いがもう消えたのではないか。そう期待して、苦しくなるほど心臓が早鐘を打つのを感じた。
入学試験から数日が過ぎ、合格発表の日がやってきた。
七海は朝からそわそわしていた。合格発表までにはずいぶん時間があるが、待ちきれないのかすっかり準備を整えている。
「じっとしていられないからもう行くよ」
「だいぶ待つことになるけどいいの?」
「うん、うちでじっとしてるよりはマシ」
そう言うと、大学へ向かう遥とともに家を出た。
途中までは同じ道なので並んで歩く。まもなく三月になろうというのに随分と寒い。雪こそ降っていないものの、今朝は霜が降りるほど冷え込んでいた。いまも吐く息はまっしろである。
「ごめんね、一緒に行けなくて」
「遥がいたらよけい緊張するよ」
七海は明るく冗談めかして答える。
遥としては、行けるものなら一緒に行きたかった。受験番号を探して一緒に喜びたかった。だが卒業論文発表会と重なってしまったのだ。さすがにこればかりは休むわけにもいかない。
「あとで電話する」
「うん、じゃあね」
二人は十字路で手を振って別れる。遠ざかる七海の後ろ姿を眺めてから、遥は駅のほうへ足を進めた。
卒業論文発表会は、朝から夕方まで二日間にわたる。今日は二日目である。
ひとりひとりの持ち時間はそれほど長くないものの、人数が多いのだ。もっとも他学生の発表を聞かなければならないという決まりはなく、自分の発表さえ終わればさっさと帰る人も多い。
ただ、遥を含めた数人はすべての発表を聞くことになっていた。所属する研究室の方針である。恨めしくは思うが仕方がない。昼休みになると、すぐさま講義室を飛び出して七海に電話をかけた。
『はい、遥?』
この時間ならもう家に帰っているだろうと思ったが、電話に出た七海の背後はすこし騒がしかった。学校というより街中のようだ。引っかかりはしたものの、それよりもまず聞かなければならないことある。
「結果はどうだった?」
『うん、合格してた』
彼女の声には安堵がにじんでいた。
間違いなく合格するだろうとは思っていたが、事実として確定するとやはり遥も安堵する。よかったと吐息まじりにつぶやいたあと、おめでとう、とあらためて心からの言葉を伝える。
そのとき——坂崎、と電話の向こうから七海を呼ぶ声が聞こえてきた。間違いなく男性のものだ。七海はちょっと待っててと応じてから電話口に戻る。
『合格発表のところでクラスメイトと会って、いま一緒にいるんだ。それでお昼を食べようって話になったんだけど……いい?』
「構わないよ。家にも連絡しておいて」
『もう櫻井さんに電話で言ったよ』
「そう。あまり遅くならないようにね」
『わかった』
電話を切ると、遥はその携帯電話を握りしめた。
七海の言うように相手はただのクラスメイトだろう。友達付き合いも許さないほど狭量な男にはなりたくない。他の子たちと同じように、彼女にも学生時代を楽しむ権利はあるのだから。
ただ、彼女と付き合っているのは自分である。おおっぴらにすることはまだできないものの、それでもこの場所だけは絶対に誰にも譲らない。同級生にも、友人にも、そして武蔵にも——。
「遥、何かあったのか?」
「何でもないよ」
よほど難しい顔をしていたのか、あとから来た富田に心配そうに声をかけられたが、軽く受け流した。触れてほしくないという気持ちを察してくれたのだろう。気にするような素振りを見せつつも追及はしてこない。
「じゃあメシ行こうぜ」
「うん」
遥は携帯電話を内ポケットにしまいながらにっこりと笑顔で答え、富田と並んで食堂へ向かう。二人の左手には相変わらずプラチナのペアリングが輝いていた。
第14話 卒業
「七海のセーラー服も今日で見納めだね」
遥はベッドに腰掛け、隣の七海を無遠慮に眺めながら言う。
彼女は中学の制服であるセーラー服を身に着けて、ベッドで紺の靴下をはこうとしているところだったが、戸惑ったような顔をして口をとがらせた。
「そういう感傷的なこと言うのやめろよな」
「今日くらいはいいだろう?」
遥が笑顔を見せると、彼女はムッとしてはきかけていた靴下を引き上げる。感情を露わにしたような乱雑な手つきで。しかしその横顔はほんのりと薄紅色に染まっていた。
今日、七海は中学校を卒業する。
入学からあっというまにこの日を迎えた気がする。しかし、保護者として果たしてきた役割、様々な面における七海の成長など、あらためて思い返すと三年という月日の重みを実感した。
そして、その三年をともにしたセーラー服も卒業となる。似合っていただけにすこし寂しい。彼女が元気いっぱいに跳ねて、セーラーカラーが大きくひらめくさまがとても好きだった。
ただブレザーも悪くない。先日、高校の制服を注文するときに試着していたが、女子にしては高めの身長、すらりと伸びた脚、まっすぐな背筋によく似合い、セーラー服のときより幾分か大人びて見えた。
「じゃあ、僕はそろそろ行くね」
「玄関まで見送るよ」
学生鞄を持って立ち上がった七海とともに、玄関に向かう。
遥も卒業式に出席するが、保護者は開式に間に合えばいいようなので、もうすこしあとで出かける予定にしている。いまはシャツだけでスーツの上着は着ていないし、ネクタイも締めていない。
「じゃ、またあとで……あんま目立つなよ?」
「目立とうとしたことはないけどね」
扉を開けようとした七海に念押しされ、遥は苦笑した。
衣服などは時と場所に応じたものを選んでいるし、遥自身も目立つような行動はしていない。それでも中学生の保護者にしては若いからか、橘財閥の後継者だからか、どうしても注目されてしまうのだ。
ヤキモチなら嬉しいが、単純に自分に面倒が及ぶのを嫌がっているだけである。遥について根掘り葉掘り尋ねられたり、非常識なことを頼まれたり、対応に窮することも少なくないらしい。
手に余るようならこちらで対処するとは言ってあるが、頼ってきたことはない。気を使っているというより、自分に降りかかった問題は自分で対処するのだと、あたりまえのように考えているのだろう。
七海が軽く手を上げながら玄関を出た。
白線の入ったセーラーカラーが風をはらんでひらりと舞う。それも今日で最後だ。しっかりと目に焼き付けておかなければ——遠ざかる後ろ姿を、遥は瞬きも忘れるくらいひたむきに見つめ続けた。
卒業式はきわめて伝統的なものだった。
卒業証書授与は生徒のひとりひとりが名前を呼ばれて起立し、クラスの代表が受け取るという形だ。人数の関係だろう。七海は代表を辞退しているので受け取りはしなかったものの、それでも十分に感慨深い。
卒業生は退場すると教室に戻ることになっている。最後のホームルームがあり、そこで担任からひとりひとり卒業証書を受け取るのだ。四十人ほどいるのでそこそこ時間がかかるに違いない。
そのあいだに遥は理事長室に行くことにした。入学時に世話になったので挨拶しなければならないし、先方からも誘われている。保護者でなく、橘財閥の後継者としての遥と話をしたいのだろう。
案の定、今後も橘財閥と関わりを持ちたがっていることが、理事長の言葉の端々から感じられた。当たり障りのない受け答えでお茶を濁していると、ふいに内ポケットの携帯電話が振動した。
見るまでもなく七海からだと思う。ホームルームが終わったら電話をするように言ってあった。卒業祝いとして二人で食事に行く予定になっているのだ。理事長に断りを入れてから電話に出る。
『ごめん、ホームルームは終わったんだけど、ちょっといろいろあってさ。もうすこしだけ待っててくれないかな。十分くらい……そんなには遅くならないと思う。また電話するよ』
「わかった」
遥はこの電話を利用することにした。電話の向こうの声は理事長に聞こえていないはずなので、七海を待たせているからともっともらしい嘘の理由を告げて、角が立たないように理事長室を辞した。
桜——?
どこで待っていようかと考えながら階段を下りていると、ふと風に揺れる満開の桜がガラス窓の向こうに見えた。時季にはいささか早いので、ソメイヨシノでなく別の品種ではないかと思う。
踊り場に下りて、窓から下方の桜を眺めた。
それは校舎脇に一本だけひっそりと立っていた。奥まった理事長室の近くという立地ゆえだろうか。あたりに人影はない。風が吹くたびに薄紅色の花々がきらめき、花びらがひらひらと舞う。
「なあ、どこまで行くんだよ」
ふいに外から聞こえてきたその声にドキリとする。窓から身を隠してこっそりと声のほうを窺うと、やはりそこには七海がいた。学生服を着た男子と並んでこちらへと歩いてくる。
「あんまり時間ないんだけど……あれ、桜?」
「そう、坂崎にも見せたくてな」
一緒にいるがっちりとした体格の男子には見覚えがある。七海がいじめで体操服を汚されたときに、予備の体操服を貸してくれた野球部のクラスメイトだ。七海は恩を感じて何度か大会の応援に出かけていた。
先日、合格発表のときに一緒にいたのも彼だろう。調べたところ、この学園から有栖川学園を受験したのは、七海と彼の二人しかいなかったのだ。彼がどういう基準で進学先を選んだのかはわからないが、おそらく——。
「もう咲いてるなんて早いよな」
「早咲きの桜らしい」
「へえ、そんなのがあるんだ」
七海は顔を上げたまま、大きな目をくりくりとさせて興味深げに眺めていた。楽しんでいるというより観察しているような感じだ。しかし、ふと思い出したように隣に振り向いて尋ねる。
「そういえば話があるんじゃなかった?」
「あ……ああ……」
彼は口ごもり、曖昧に目をそらしながらうつむき加減になる。だが、しばらくすると意を決したように七海と向き合った。緊張していることがありありとわかる硬い表情で、ごくりと唾を飲む。
「いままで勇気がなくて言えなかったけど、今日は言おうと決めてきた。俺、坂崎のことが好きなんだ。一年のときからずっと好きだった。だから俺と付き合ってほしい」
「…………」
いまのいままで気付いていなかったのだろうか。あるいは告白されると思っていなかったのだろうか。七海は思考が停止したように唖然としていたが、それでもどうにか言葉を絞り出す。
「ごめん、二階堂とは付き合えない」
「まだ好きじゃなくてもいいんだ。だから」
「悪いけど、僕にも好きな人がいるからさ」
予想外だったのか、彼はショックを受けたように目を見開いて硬直した。そして体の横でひそかにグッとこぶしを握りしめていく。
「もしかして噂の保護者か?」
「そんなわけないじゃん」
「じゃあこの学校の生徒か?」
「二階堂の知らない人だよ」
執拗な追及に、七海はふっと寂しげに微笑んでそう答えた。
遥との関係は秘密なのだから言うわけにはいかない。それゆえ単にごまかしているだけかもしれないが、もし特定の誰かを思い浮かべているのだとすれば、心当たりはひとりしかいない——。
「そいつと付き合ってるのか?」
「それは、付き合ってない、けど……」
「だったら俺にも可能性はあるよな?」
「ごめん、無責任なことは言えない」
「…………」
ひどく思いつめた様子を見せていた彼が、そこで息を吐いた。
「困らせることばかり言って悪かった。忘れてくれ、っていうのも勝手だし無理だよな。でも、このことで気まずくなりたくないんだ。坂崎が嫌じゃなければ、高校へ行ってもいままでどおり友達でいたい」
「うん、それはもちろん」
七海はほっとしたように答える。
二人はまだ桜の花びらが舞う中で話を続けていたが、遥は目をそむけ、音を立てないようそっと窓から離れて階段を下りた。聞いてしまったことをすこし後悔しながら——。
玄関の外は卒業生であふれていた。
友達とはしゃいだり、写真を撮ったり、みな思い思いに楽しんでいるようだ。雰囲気が明るいのは大半が内部進学だからだろう。しかし、涙ながらに別れを惜しむ子たちも少数ながらいる。
遥はその様子を隅のほうで遠目に眺めていたが、目ざとい女子生徒たちに見つかり囲まれた。遠慮のない質問や誘いを適当にあしらっていると、ようやく七海から電話がかかってきた。
『ごめん、だいぶ遅くなって』
「もういいの?」
『うん、どこに行けばいい?』
「校門で待ち合わせよう」
『わかった』
通話を切り、もう帰るからと彼女たちに告げて校門へ向かう。
そう、七海と付き合っているのは僕なんだ——現実として彼女はここにいて遥の気持ちに応えてくれている。たとえ心のどこかに武蔵への想いを残していたとしても、もう会うことさえできない。だから。
校門脇で足を止め、穏やかに晴れた空に目を向ける。
まもなく校舎から歩いてくる七海の姿を視界に捉えた。彼女もこちらに気付き、はじけるようにパッと顔をかがやかせて駆けてくる。そのとき、白線の入ったセーラーカラーも軽やかにひらめいた。
第15話 二度とないはずの
プルルルル、プルルルル——。
眠っていた遥の意識にうっすらと内線の着信音が届く。
煩わしさに眉をひそめながら寝返りを打ち、どうにか薄目を開いて気怠い体を起こすと、鳴り続けている電話の受話器を取った。
「はい」
『なんだ、もう寝ておったのか?』
「寝ていてもおかしくない時間です」
祖父の剛三に開口一番あきれたように言われ、ムッとして言い返す。まもなく日付が変わろうかという時間だ。寝ていたところで非難されるいわれはない。しかし、その反論は見事なまでに無視された。
『話がある。執務室に来てくれ』
「いまからですか?」
『都合が悪ければ明日でもいい』
「行きます」
緊急というわけではなさそうだが、こんな時間に呼び出すくらいだから、それなりに重要な話なのだろう。仕事関係だと思うが心当たりはない。遥は溜息をつきながら受話器を置いた。
そのとき、隣で寝ていた七海がもぞりと身じろぎした。
「ん……でんわ……?」
「そう、じいさんに呼び出されたんだ。ちょっと行ってくるよ」
遥はそう言い、夢うつつでぼんやりとしている七海の頭に手を置いた。このまま見つめていたいがそういうわけにもいかない。すぐにベッドから下りて着替えると、再び寝息を立て始めた彼女を起こさないよう静かに扉を開けた。
七海が高校生になっておよそ二か月。
高校のブレザーもだいぶ馴染んできた。当初はネクタイが初めてだったので上手く締められず、何度も遥に助けを求めてきたが、もうひとりできっちりと締められるようになっている。
同じ中学校出身の二階堂とはクラスが分かれていた。最初こそひとりぼっちだと不安そうにしていたものの、中学のときのようにいじめられることもなく、いまではそこそこクラスに溶け込んでいるようだ。
一方、遥は橘の関連会社に一社員として入社していた。平行して剛三から後継者としての仕事を学んでいる。忙しい日々ではあるが、七海と過ごす時間だけは確保するよう努めていた。
今日はめずらしく定時で解放されて七海とゆっくり過ごした。剛三が夕方からどこかに出かけていて連絡もつかなかったからだ。内密に仕事の話をしているのではないかと思ったが——。
「実はな、武蔵が帰ってくることになったのだ」
煌々とした蛍光灯の下、遥は執務机の正面に直立したまま息を飲んだ。
三年半前、武蔵は七海をひとり残してはるか遠い故郷に帰ってしまった。彼自身はいつか戻りたいと願っていたようだが、現実的に二度とこの地を踏むことはできないだろうという話だった。なのに——。
「どういう事情ですか」
「かの国と我が国は秘密裏に交渉を続けているのだが、武蔵がその仲立ちをしている。その関係でこちらに来ることになったらしい」
かの国、というのは武蔵の故郷だ。日本領海にありながら、最近まで認知すらされていなかった共同体である。いまも国の最重要機密として秘匿されている。遥たちが知っているのは発見当初から関わりがあるからだ。
武蔵はもともと故郷と日本の橋渡しをするために帰った。双方の国のことをわかっているのも、双方の国の言葉を話せるのも彼しかいない。その仕事の成果でこちらに来られるまでになったのだろう。
彼のことが嫌いなわけではない。帰ってくると聞いて素直に喜べなかったのは、七海がかつて彼に恋愛感情を抱いていたからだ。おそらく、その気持ちはいまもまだ心のどこかで燻っている。
「どうした、難しい顔をして」
「何でもありません」
遥は表情を消して答えた。
この程度でごまかせる相手でないことは百も承知だ。しかし、剛三は物言いたげな視線を送りながらも何も言わなかった。執務机の上で手を組み合わせ、事務的な口調で本題を進める。
「交渉のあいだはこの屋敷に滞在させることに決まった。武蔵には警備をつける必要があるのだが、ホテルでは何かと不都合があるらしい。それで私のほうに打診をしてきたというわけだ」
「随分きなくさい話ですね」
交渉しているのは政府だろうが、警察庁や自衛隊もすくなからず絡んでいるはずで、警備に適した施設くらい用意できるはずである。何もわざわざ民間人に協力を要請する必要はない。だとすれば——。
剛三は口もとを上げ、遥の思考を読んだかのように言葉を継ぐ。
「客人なので監禁するわけにはいかないが自由にもさせたくない。それを実現するためには我々のところが好都合ということだ。武蔵をもてなすという意味ではこれ以上のところはあるまい。そして身内同然である我々の存在は精神的な枷となりうる。もちろん表立って口にはしないだろうが」
「つまるところ人質ですよね」
「心配はいらん。牽制のために我々の存在を利用するくらいで、実際に身柄を拘束したり危害を加えたりするわけではない。よほどの事態になればわからんが、武蔵が我々を裏切るようなことをするとは思えんからな。まあ、あやつらに貸しを作っておくのも悪くなかろう」
剛三はニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。
人質であることもすべて承知しているのであれば、もう止めようがない。確かにこれで警察庁に恩を売れるなら悪くないといえる。武蔵が裏切りさえしなければ何も問題はないのだ。ごく個人的な憂慮を除いては——。
「気が乗らないようだな」
顔には出していないつもりだが、会話が途切れたせいで悟られてしまったのだろう。頭を悩ませていることも、あまり賛成していないことも。それでも動じることなくごまかしの答えを紡ぐ。
「人質にされるなどいい気はしません」
「武蔵とは親しくしていたと思ったが」
「再会については楽しみにしています」
「七海も喜ぶだろうな」
一瞬、ドキリと心臓が跳ねた。
単に思ったことを言っているだけなのか、わかったうえで鎌をかけているのか、彼の表情からは読み取ることができない。そうですね、とこちらも素知らぬ顔をして軽く受け流す。
「いつこの屋敷に来るのですか?」
「七月一日の予定だと聞いている」
「七月三日の午後にしてください」
「理由は何だ」
鋭いまなざしで射抜かれる。唐突に日付まで指定したことを訝しんでいるのだろう。しかしながら剛三が警戒するほどたいそうな理由ではない。遥は目をそらすことなく淡々と答える。
「七海の定期試験です。試験期間中に動揺させたくありません」
「そうだな……わかった、交渉してみよう」
剛三は両手を組み合わせたまま、鷹揚に頷いた。
いまは六月上旬なのでまだ交渉の時間はある。二日遅らせるくらい何とかなるだろう、というのが彼の見解だ。受け入れ態勢など具体的な話は後日ということで、遥は一礼して執務室をあとにした。
暖色の常夜灯のみがついた自室に戻ると、蛍光灯をつけずにクローゼットで着替えて、そっとベッドに入った。上半身を起こしたまま隣に目を向ける。七海は起きる気配もなく静かに寝息を立てていた。
彼女が遥を好きになってくれたことは間違いない。一方で武蔵に想いを残していることも確かだろう。それでも構わない。心の片隅で想うくらい見て見ぬふりをしよう、そう決めたのだ。
ただ、それは二度と会うことがないという前提での話だ。武蔵と再会してひとつ屋根の下で暮らすとなれば、そんなに余裕でいられるとは思えない。七海の気持ちもどうなるかわからない。
僕は、どうすればいい——。
多分、いまの自分はとても情けない顔をしている。そう自覚すると、気持ちよさそうに眠る彼女のほうに向いていられなくなり、身を翻しながら布団にもぐりこむ。しかし、胸がざわついてとても眠れる気がしなかった。
第16話 温度差
「どうぞ、こちらです」
一通りのボディチェックを受けたあと、遥はスーツの乱れを直し、公安の男性に案内されてスイートルームに入った。
落ち着いた色調でまとめられたゆとりのある空間が、目の前に広がる。華美な装飾はなく思ったよりもずっとシンプルだが、それでも床や調度品など至るところに上質さは感じられた。
正面のリビングルームに足を進めると、金髪碧眼の男がソファで脚を組んでいるのが見えた。彼は新聞を広げていたが、遥が声を掛けるより先にこちらに気付き、きれいな顔をパッとかがやかせて立ち上がる。
「久しぶりだな」
「元気そうだね」
「ああ、おまえも」
その男——武蔵はこの三年半ぶりの再会を心から喜んでいるようだ。無邪気なまでに気持ちを隠そうとしていない。座れよ、とブランクを感じさせない気安い口調で、向かいのソファを示す。
しかし、遥はそれほど無邪気ではいられなかった。懐かしさよりも、緊張、嫌悪、不安などの暗い感情が胸に渦巻いている。それでも平然とした表情と態度を崩さず、促されるまま腰を下ろした。
今日は七月二日である。
交渉の結果、武蔵を橘の屋敷に迎え入れる日取りは、要望どおり七月三日の午後に決まった。ただ、七月一日に来日する予定は動かせなかったため、三日間だけホテルに滞在してもらっているのだ。
遥は事前に会っておこうと考えて面会を申し入れた。特に話したいことがあるわけではないが、心の準備をしておきたかったのだ。七海の前でみっともない姿をさらすことのないように——。
「ちょっと大人びてきたな」
武蔵はやわらかなソファにゆったりと身を預けると、遥を観察して目を細めた。まるで久々に会った息子の成長を喜ぶ父親のように。遥は内心でムッとしながらも眉ひとつ動かさず、ぶっきらぼうに言い返す。
「もう大人だけど」
「いくつになった?」
「二十二」
そう答えると、まだまだ若いなと苦笑された。
武蔵はもう三十代後半になっているはずだ。七海が幻滅するくらいくだびれていればよかったのに、いまも初めて会ったときと変わらない。まだ二十代といっても十分に通用するだろう。
変わったのは髪と瞳くらいだろうか。当時は日本で逃亡生活を送っていたため、目立たないように髪も瞳も黒くしていたのだ。いまは華やかにきらめく金髪にサファイヤのような碧眼という、彼本来の姿をしている。
「みんなは元気にしてるか」
彼は背もたれから体を起こして声をはずませる。
だが、遥は素直に答える気にはなれなかった。
「みんなって誰のこと?」
「やけに突っかかるな」
「曖昧だから訊いただけ」
「いまごろ反抗期か?」
「かもね」
投げやりに答えたあと、その大人げなさを自覚して溜息をついた。
「じいさんは元気すぎるくらい元気でバリバリ仕事してる。澪は誠一と別れる気配もなく第一子妊娠中。メルは中学三年生で友達もできて成績優秀。七海は高校一年生で僕の出身校に進学してる」
「そうか……澪が……」
武蔵は何とも言えない複雑な面持ちでそうつぶやくと、口もとを押さえながらうつむいていく。澪のこと以外はまるで頭に入らなかったようだ。彼にとってはそれだけ衝撃だったのだろう。
「まだ澪のことが好きなんだ?」
「感傷にひたるくらい許せよ」
以前の遥ならあきれていたと思うが、いまは彼の気持ちがわかるので何も言えない。たとえあきらめたとしても、そう簡単に想いを消すことはできない。自分ではどうしようもないのだ。
故郷にいるあいだに結婚はしなかったのだろうか。恋人はいなかったのだろうか。気になったものの、藪蛇になりそうで尋ねることは躊躇われた。すこし思案をめぐらせてから口を開く。
「交渉が終わったら故郷に帰るの?」
「いや、できればこっちで暮らしたいと思ってる。姉にメルローズのことを頼まれてるしな。それにいまさらだけど七海との約束も守りたい。いつでも会えるし、相談にも乗る、遊びにも行こうって……あのとき言ったんだ」
あのときというのは、三年半前、武蔵が故郷に帰ると決まる直前のことだろう。結果的に嘘をついたことになってしまい、七海にも号泣されて、いたたまれない思いをしたことはわかっている。だが——。
「七海はもう小さな子供じゃない」
わずかに目を伏せて告げる。その声は自分でも驚くほど冷ややかだった。
しかし、告げられた武蔵のほうがもっと驚いただろう。遥を見つめたまま暫しきょとんとしていたが、やがて困惑ぎみに顔を曇らせ、納得がいかないとばかりに口をとがらせる。
「俺はもう必要ないって?」
「それは七海に訊いて」
現在の彼女が何を望むのかは遥にもわからない。ただ、幼かったあのころと同じでないのは確かだ。きっとそこまで考えが及んでいないのだろうが、わざわざここで教えてやることでもない。
武蔵は眉をひそめるが、やがて気を取り直したように唇に笑みをのせる。
「そうだな、あした七海に会えるんだしな」
「…………」
あしたなんか永遠に来なければいいのに——遥は素知らぬ顔を装ったままそんな乱暴なことを思う。もちろん実現不可能なことくらいわかっている。それでも何かに縋らなければ平静を保っていられなかった。
「まだテスト残ってるんだけど」
家に戻り、七海の部屋に入れてもらおうとしたところ、怪訝な顔でそう言われてしまった。試験前は二人で過ごさないと決めたのは遥だ。だが、今日はそれを曲げてでも彼女と過ごしたかった。
「ちょっとだけだから」
「……わかった」
彼女は渋々ながらも了承してくれた。
遥は部屋の中に足を進める。学習机には教科書とノートが広げられていた。真面目にテスト勉強をしていたのだろう。すこし申し訳ない気持ちになりながらも、ベッドに腰を下ろす。
「何か話があるの?」
七海は隣に座ると、答えを求めるようにじっと見つめてきた。その無防備な表情と仕草は自分にだけ向けられるものだ。他の誰にも許したくない——遥は横目で見つめ返したままふっと微笑む。
「七海、あした結婚しようか」
「……は?」
「十六歳になるだろう」
「無理に決まってんじゃん!」
「どうして?」
「だって……んっ……?!」
混乱したようにあたふたとする彼女の後頭部に手を添えて、口づける。自分で理由を問いながら聞きたくないと思ってしまった。吐息ごと奪いながらベッドに押し倒し、長袖Tシャツの裾から手を差し入れて、なめらかな肌に這わせる。
「んんっ……ちょ、あしたテストあるんだって!」
七海は身をよじりながら訴えた。
彼女を困らせてしまうことは十分すぎるほどわかっているし、保護者の責任を放棄した行動であることも自覚しているが、どうしても彼女を全身で感じたかった。どうしても彼女に受け入れてほしかった。
「ごめん……やめられない……」
口をついたのは、思いのほか情けない声だった。
顔を見られたくなくて隠すように白い首もとにうずめ、愛撫を続ける。そのときにはもう彼女の抵抗はやんでいた。あきらめたのか、流されたのか、同情したのか——頭の片隅にちらりと疑問がよぎるが、すぐに熱い吐息まじりの声をもらし始めた彼女に夢中になり、それ以外のことは何も考えられなくなった。
第17話 プレゼント
「行ってきます」
七海はローファーを履いてくるりと向きなおり、笑顔でそう言った。短めのポニーテールが揺れている。もう夏服なので半袖シャツにベストという格好だ。オレンジ色のネクタイもきちんと締められている。
一方、見送る遥のほうは部屋着のままである。普段は七海より早く家を出ることが多いのだが、今日は休みをとっていた。会社だけでなく祖父の仕事のほうもすべて。
「学校が終わるころ迎えに行くよ」
今日は七海の誕生日だ。午前で定期試験が終わることもあり、一緒においしいものを食べに行こうと約束していた。車なので迎えに行ったほうが早いと思ったのだが、なぜか彼女はすこし困ったような顔になる。
「わざわざ迎えに来なくてもいいからさ」
「今日は休みをとってるから心配いらない」
「遥が来ると目立つから嫌なんだってば」
それが本音だろう。
中学のときから何度も同じようなことを言われてきた。目立つなというが、目立つことは何もしていないのだからどうしようもない。くすりと笑うと、彼女はあからさまにムッとして眉を寄せた。
「ごめん。プレゼント用意してあるから機嫌なおして」
「ほんと?」
その顔がパッと輝いた。
ささやかなものだが誕生日プレゼントを買ってある。そしてもうひとつ、彼女にとっては何よりのプレゼントとなるものも——。
「夕方、帰ってから渡すよ」
「楽しみにしてる!」
七海は手を振り、軽やかな足取りで学校へ出かけていった。
遥の複雑な心境など何も知らないままに。
昼ごろ、遥は学校の正門からすこし離れたところに車を駐めた。
そろそろホームルームが終わり生徒たちが帰る時間である。振り返って正門を確認するがまだ出てくる生徒はいない。シートベルトを外し、おもむろに鞄から取り出した白い紙を見つめた。
それは白紙の婚姻届である。
ここに来るまえに区役所に寄ってもらってきたのだ。あした結婚しようか——きのうの夜、七海にそう告げたのはふとした思いつきだが、だからといって軽い気持ちだったわけではない。
そもそも七海とは結婚するつもりで付き合っているのだ。彼女本人にはまだそういう話をしていないが、祖父には意向を伝えてある。ただ、時期としては彼女が成人してからと考えていた。
なのに十六歳になったばかりのこの日に結婚を申し込み、婚姻届を提出しようと思ったのは、このあと彼女と武蔵が再会することになっているからだ。その前に、法的に自分のものにしてしまいたかった。
しかし、それを実行に移すことにはためらいがある。武蔵が帰ってきた事実を隠したまま結婚を承諾させるなど、騙し討ちにも等しい。あとで真実を知ったときに彼女がどう思うだろうか。
もっとも、きのうの時点ですでに無理だと断られているので、承諾してもらえる確率は低いだろう。それでも本気であることを伝えればあるいはとも思う。二年半も付き合ってきたのだから。
気持ちが揺れる。後悔しないためにはどうすればいい——。
ふと賑やかな声が聞こえて顔を上げると、校門から生徒たちが出てくるのがバックミラー越しに見えた。婚姻届をしまい、車から出て、助手席側に軽く寄りかかりながら七海を待つ。
梅雨明けはまだだが、今日は真夏のように澄んだ青空が広がっていた。陽射しもかなりきつい。日焼けはしないほうなので心配していないが、それでもジリジリと肌が焼けつくように感じる。
やがて、出てくる生徒たちの中に七海の姿を見つけた。隣の男子は中学時代から仲良くしている二階堂である。卒業式のあと七海に告白して振られていたが、友人関係は続いているようだ。
確証はないものの、彼が有栖川学園に進学したのは七海を追ってのことだろう。そこまでする彼が簡単にあきらめるとは思えない。友人という立場を守りつつ虎視眈々と狙っているはずだ。
七海がこちらに気付いた。急にあたふたとして二階堂と何か言葉を交わし、軽く片手を上げて踵を返すと、ポニーテールを左右に揺らしながら駆けてくる。だが、その表情はひどく不満そうに見えた。
「迎えに来なくていいって言ったじゃん」
「このほうが時間の節約になるだろう?」
七海が帰るのを待ってから出かけるより、ここで拾ったほうが早いのは確かだ。それだけの理由で迎えに来たわけではないが、素直な彼女は言葉どおり受け止めて、くやしそうな顔になる。
「せめて車の中で待っててくれよな」
「さっきの彼、二階堂君だっけ」
「……同中の同級生ってだけだよ」
「向こうはそうでもなさそうだけどね」
遥は校門前に目を向ける。
そこにはいまだに立ちつくしたままの二階堂がいた。微妙な面持ちでこちらを窺っていたが、遥の視線に気付き、そろりときまり悪そうに顔をそむける。
「牽制が必要かな」
そうつぶやくと、隣できょとんとしている七海に振り向き、意図的に甘ったるい笑みを浮かべて手を伸ばした。彼女はぎゃっと声を上げながら飛び退き、上気した顔で恨めしげに遥を睨む。
残念ではあるが致し方のない反応だ。二人の関係は秘密にしているので、これまで自宅以外では決してこんなことをしなかったし、恋人だと疑われないよう気を配ってきたのだから。
だが、いまは知られてもいいと、むしろ知らせて外堀を埋めたいとさえ思っている。結婚あるいは婚約してしまえば問題はない。誰にも文句は言わせないし手出しもさせない。けれど——。
じっと七海を見つめる。彼女は顔を紅潮させたまま何か言いたげにしていたが、まわりから注目されているこの状況で言えるはずもなく、ふいと逃げるように助手席に乗り込んだ。
「今日の試験はどうだった?」
運転しながらそう尋ねると、助手席の七海は苦虫を噛み潰したような顔になった。それだけであまり良くない出来だったことがわかる。遥は黒革のハンドルを握ったままくすりと笑った。
「まあ、今度頑張ればいいよ」
「誰のせいだと思ってんだよ」
「そうだね、ごめん」
軽く謝罪すると、七海がじとりと非難めいた視線を流してきた。
彼女があまり勉強できなかったのは遥のせいだ。試験前日だというのに強引に迫り、最終的には彼女も仕方なしに受け入れてくれたが、さすがに申し訳ないことをしたという自覚はある。
七海を必ず幸せにすると、大切にすると、そう誓ったはずなのに——それは恋人としての思いであり、保護者としての責任でもある。彼女より自分を優先するなどあってはならない。
「ねえ、きのう言ってたアレさ、やっぱ冗談だよね?」
「本気だよ」
七海もきのうのことを考えていたようだ。
ほんの一瞬だけどうしようか迷ったが、赤信号で止まると、鞄から薄っぺらな白い紙を取り出した。ゆるく二つ折りにされているそれを、彼女は怪訝な顔をしながら受け取り、ぺらりと開く。
「婚姻届?! なんで、無理って言ったじゃん!」
「気が変わったらすぐ出せるようにね」
七海は未成年なので本来なら父母の同意が必要だが、実親はどちらも亡くなり養親もいないので必要ない。証人二人には当てがある。七海さえその気になれば今日中に提出できるはずだ。
「ちょっと待って、僕、まだ高校生だよ?!」
「結婚しても高校に通えるから安心していい」
「そうじゃなくて!」
彼女は必死に言いつのるが、ふと戸惑ったように瞳を揺らして目を伏せる。
「まだ、そんな……考えられないよ」
訥々と言葉を紡ぐと、手にしたままの白紙の婚姻届を苦しげに見下ろし、遥の胸元に勢いよく押しつけるように突き返してきた。その両手からはかすかながら震えが伝わってくる。
遥はただそっと引き取るよりほかになかった。もうあきらめるべきだろう。無理やり承諾させても意味がない。受け入れられなかったことを残念に思う一方で、安堵もしていた。
しわになった婚姻届を元の場所にしまいながら、ちらりと隣に目を向ける。
「もしかして、まだ武蔵を待ってる?」
「……武蔵は関係ない」
七海はふいと顔をそらした。
どういう表情をしているか気になったが遥からは見えない。青信号になり運転を再開しても、サイドウィンドウのほうに顔を向けたまま動こうとしない。駐車場に着くまで重い沈黙が続いた。
昼食はひつまぶしの店を予約していた。
以前、七海が雑誌の特集に興味を示したことがあったのだ。店は祖父に教えてもらったおすすめのところだ。彼女は一口食べるなりおいしいと感嘆の声を上げた。思わず遥の表情もほころぶ。
食事を始めてからは、車中での澱んだ空気が嘘のように会話がはずんだ。おいしいもので七海の機嫌が直るのはいつものことだ。何もかも忘れ、いまは二人だけの時間を存分に楽しむことにした。
昼食後は、あてもなく二人で街中をぶらぶらと歩いた。
本当はすぐに帰らなければならないのだが、そんな気になれない。目についた雑貨屋さんを見てまわったり、通りがかりの喫茶店でパフェを食べたり、足の向くまま気の向くまま楽しんだ。
ビルを出ると、空の一部が鮮やかな茜色に染まっていた。
目を細めたそのとき、後ろのポケットで携帯電話が震えるのを感じた。嫌な予感がしつつサブディスプレイを一瞥し、素知らぬ顔をしてポケットに戻すが、振動はしつこく続いている。
「ケータイ、出なくていいの?」
「馬に蹴られて死ねばいい」
思わず本音が口をついたが、彼女は訝しむ様子もなくおかしそうに笑った。
「でも、そろそろ帰る時間だよ」
「…………」
遥は何も言えず、前を向いたまま包み込むように七海の手を握る。これまで決して外ではしなかったことだ。昼間のように拒まれるかもしれないと思ったが、今回は受け入れてくれた。
「やっぱり帰したくないな」
「帰るの一緒の家じゃん」
「どこか泊まっていこうか」
「あした学校あるんだけど」
「……仕方ないか」
もうタイムリミットだろう。いつまでも現実逃避を続けるわけにはいかない。溜息をつき、七海の手を引いて駐車場のほうへと歩き始める。繋いだ手には無意識に力がこもっていた。
車を出すときには、すっかり夜の帷が降りていた。
もうすぐ七海を武蔵に会わせなければならない。そう思うと、緊張と不安でいつものように話をすることもできない。彼女も何か感じているのだろう。静かに座ったまま話しかけてくることはなかった。
「着いたよ」
遥は橘の敷地内で車のエンジンを止めると、助手席に振り向いて言う。
そのとき再び携帯電話が震えた。シートベルトを外してポケットから取り出し、画面を一瞥して顔をしかめたものの、さすがにもう無視はしない。親指で通話ボタンを押して耳に当てる。
「はい」
『おい、遥、いつまで待たせるつもりだ』
電話の向こうから聞こえた声はかなり苛立っていた。三時ごろに七海を連れて帰るという話になっていたので、連絡もなしに五時間近く待たせたことになる。おまけに夕方の電話も無視したのだ。
それも忘れていたわけではなくすべて故意である。一方的に遥が悪い。謝罪すべき立場であることはわかっているが、武蔵の声を聞いてますます憎らしく恨めしくなり、眉を寄せる。
「こっちにだって都合があるんだから」
『言い訳してないで早く連れてこい』
「それが人にものを頼む態度?」
『おまえこそ遅れたヤツの態度かよ』
「逃げたりしないから黙って待ってろ」
『……ん、おまえいま帰ったのか?』
電話口の背後でうっすらと執事の櫻井の声がしていたので、おそらく彼が報告したのだろう。使用人の誰かにこの車庫を見張らせていたのかもしれない。遥は素直にそうだと肯定する。
「だからおとなしくそこにいればいい」
『もうあんまり待たせるんじゃないぞ』
「じゃあね」
煩わしげに言い捨てると、乱暴な手つきで携帯電話を戻してハンドルに突っ伏し、深く溜息をついた。いっそ何もかも投げ出して七海と逃亡したい。ふいにそんな衝動に駆られるが——。
「逃げ回っていても仕方ないからね」
そうつぶやいて自らに言い聞かせる。そして顔を伏せたまま小さく呼吸をして気持ちを整えると、新たに緊張が高まるのを感じながらゆっくりと体を起こし、助手席に振り向いた。
「七海、目を閉じて」
「なんで?」
「サプライズだから」
彼女は怪訝そうにしながらも言われるまま目を閉じる。その上から、遥は用意していた白い手拭いを巻いて後頭部で結んだ。緩めに巻いたので、彼女ひとりで外すのも難しくないだろう。
一呼吸おくと、彼女の頬を両手ではさんで額を合わせた。
「本当は行かせたくない。でも僕の一存でそうする権利はないし、七海のためには行かせるしかない。このままじゃ、きっといつまでも七海の気持ちは宙ぶらりんだ。七海が自分自身でけじめをつけないといけない。たとえ君がどんな結論を出したとしても、僕は君の味方でいる」
「……何の話?」
いまの彼女には意味がわからなくて当然である。しかし、武蔵と再会したそのあとで理解するだろう。半開きになっている不安そうな彼女の唇に、そっと触れるだけの口づけを落とす。
「あのさ」
「行こう」
七海が何か言いかけたのをわざと遮ってそう言うと、車から降り、助手席側の扉を開けて目隠しの七海を横抱きにする。そして車庫の外で待機していた使用人とともに、屋敷へ向かった。
「下ろすよ」
そう声をかけてから、横抱きにしていた七海をそっと足から下ろした。ふらついて倒れないよう手を掴んで支えたが、しっかり自力で立てたことを見定めると、その手を正面のドアノブに誘導する。
「遥……えっと、これどうすればいいの?」
「扉を開けて中に入って、目隠しを外して」
「わかった」
七海は視界を奪われたまま怖々と部屋に入り、扉を閉めた。
しばらくすると、その向こうから二人のやりとりする声が聞こえてきた。やがて七海の声は感情を爆発させたような号泣に変わる。それがうれし泣きであることは確認するまでもない。
「ずっと、ずっと武蔵に会いたかった!」
「俺もずっと七海に会いたかった」
二人の抱き合っている姿が目に浮かぶ。
遥は奥歯を噛みしめてうつむいた。本当はこのあと一緒に七海の誕生日を祝う予定だったが、とても入っていける雰囲気ではない。使用人に後を頼むとひっそりと自分の部屋に帰った。
七海は、やはりいまでも——。
うっすらと月明かりのみが差し込む静寂の中、遥は明かりもつけずにベッドに倒れ込み、目を閉じる。それでも思考を閉ざすことはできなかった。
Part.3に続く。
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橘財閥の御曹司である遥は、両親のせいで孤児となった少女を引き取った。
純粋に責任を感じてのことだったが、いつしか彼女に惹かれていき——。