第1話 今日からここで
「ようこそ橘邸へ。今日からここで一緒に暮らすんだ」
車の後部座席から降りた遥たちの正面には、白亜の洋館がそびえている。
隣を見ると、七海がイルカのぬいぐるみを抱きしめて、不安そうに屋敷を仰ぎ見ていた。その小さな手に力がこもる。すこし前まで泣いていたせいか目元が赤く、いつもの元気もない。
だが、いつまでもここで立ちつくしているわけにはいかない。このあと面会の予定があるのだ。こちらの都合で急かしてしまうことを申し訳なく思いつつ、優しく肩を押して玄関へと促した。
坂崎七海と初めて会ったのは、一年半ほど前、彼女が十歳のときだった。
父親を殺した男の手がかりを求めて橘邸に不法侵入したのである。それも本物の拳銃を持って。六歳のときからずっと父の敵を取るためだけに生きてきたというが、小さな子供がひとりでできることではない。
そそのかして手を貸していたのは父親の同僚で親友だった男だ。孤児となった彼女を戸籍上死亡にしたうえで引き取り、銃の扱いを教えていた。しかも手を下した真犯人は彼自身だったというからタチが悪い。
その事件には遥の家族も大きく関係していた。直接の原因となったのは遥の血縁で、大本の原因を作ったのが遥の両親だ。そのことを知り、遥は責任を感じて彼女を引き取れないかと考えたのだ。
祖父の剛三に相談したところ、自分が里親になっても構わないと言ってくれた。ただし遥が一切の面倒を見るという条件で。金銭面については十分な個人資産があるし、できなくはないだろうと了承した。
しかしながら肝心の七海本人に激しく拒絶された。知らない人ばかりで嫌だと。遥が怖いと。学校にも行きたくないと。そんな状態にもかかわらず強引に事を運ぼうとして、ひどく追いつめてしまった。
マンションの一室に閉じ込められて、ろくな食事も与えられず、ひたすら人殺しの訓練をさせられていた——その彼女を真っ当に生きていけるようにしなければという使命感に囚われすぎていたのだ。
ひとまず彼女が懐いていた男に預け、一年半をかけてすこしずつ外の世界に触れさせていった。橘邸にも何度か連れてきた。そうやって幾度となく顔を合わせていくうちに、親しく話をしてくれるようにもなった。
だが、ここで暮らすことにはまだ抵抗があるらしい。
それでも腹を括るしかなかったのだろう。イルカのぬいぐるみを抱きしめたままではあるが、しっかりと前を見据えて入っていく。懐いていた男はひとりで遠い故郷に帰ってしまい、もうほかに行くあてはないのだから——。
「おなかが空いてるだろうけど、先にじいさんのところへ挨拶に行こう。一応、七海のお父さんになる人だからね」
絨毯の引かれた大階段をのぼりながら、隣の七海に告げる。
名前だけとはいえ、里親になってくれた剛三には挨拶をしておく必要がある。顔を合わせるのは初めてだが、たとえ彼に気に入られなかったとしても、いまさら反対などという事態にはならないはずだ。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。僕がついてるから」
「うん……」
さきほどまで抱きしめていたイルカのぬいぐるみは、執事の櫻井に預けたので手元にない。そのこともあってかひどく不安そうにしていたが、こくりと頷くと、気を取り直したように表情を引きしめた。
「掛けなさい」
剛三の執務室を訪ねると、待ち構えていた彼に応接用のソファを勧められた。遥は七海とともに並んで腰を下ろす。その正面に剛三が腰掛け、奥底まで探るようにじっと七海の瞳を見つめた。
「私が里親として君を迎え入れた橘剛三だ」
「よろしくお願いします、坂崎七海です」
七海は背筋を伸ばしたまま、多少ぎこちなくはあるが怯むことなく返事をした。めずらしく丁寧な言葉遣いだ。普段は目上の人に対してもぞんざいな話し方なので、彼女なりに気を使っているのだろう。
剛三はゆったりとソファに身を預けて、満足げに頷いた。
「よく食べて、よく遊んで、しっかりと勉学に励みなさい。遥の言うことをよく聞くようにな。困ったことがあれば、学校のことでも、勉強のことでも、家のことでも、何でも遠慮なく遥に言うといい」
「はい……?」
七海はそう返事をしながらも、混乱したような怪訝な面持ちになっている。だが機会が掴めなかったのか、雰囲気に飲まれたのか、その場で尋ねることはなかった。
「ねえ、遥の言うことを聞けってどういうこと?」
執務室を辞した途端、七海は眉をひそめて遥に疑問をぶつけてきた。
事情を知らなければ、剛三が無責任に丸投げしたようにしか聞こえないだろう。おそらく彼はあえてそう聞こえるような言い方をしたのだ。単に面白がっているだけかもしれないが、もしかすると保護者としての遥を試しているのかもしれない。
「じいさんが橘財閥会長ってことは知ってる?」
「うん、大きい会社のいちばん偉い人って聞いた」
「そう、だから家のほうまで手がまわらないんだ」
「……それで僕のことを遥に押しつけたって?」
「押しつけられたんじゃなくて任されたの」
正確ではないが、そういうことにしておいたほうがいいだろうと判断した。遥自身が責任を感じて引き取らせてもらったなど、ましてや金銭面まですべて面倒を見ているなど、わざわざ告げる必要はない。
それでも七海は負い目を感じたらしく、神妙な顔でうつむいた。
「なんか……いろいろごめん……」
「七海が謝ることはないよ。そもそも嫌がる七海を連れてきたのはこっちなんだから。じいさんに言われたとおり、遠慮せずにここで楽しく暮らして、ちゃんと勉学に励んでくれればいい」
彼女に望むのはそれだけだ。感謝してほしいわけでも恐縮してほしいわけでもない。憂いなくあたりまえの生活をしてもらうために引き取ったのに、萎縮などされては本末転倒である。
「わかった。勉強は好きじゃないけど頑張るよ」
彼女はしばらく無言で目を伏せていたが、やがてしっかりと遥を見ながら頷き、かすかに笑みを浮かべてそう答えてくれた。
「じゃあ、挨拶も済んだしごはんにしよう」
「うん、おなかすいた!」
食事の話をすると元気になるのはいつものことだ。思わずくすりと笑い、はしゃぐ七海とともに一階のダイニングへ足を進める。きっとここでの食事も気に入ってもらえるだろう。
「あ、七海の部屋はここだよ。僕の部屋は隣」
ふいに長い廊下の途中で扉を示しながら言う。本当は食事のあとで案内するつもりだったが、通りかかったついでだ。七海はきょとんとして不思議そうに尋ねる。
「僕の部屋があるの?」
「もちろん」
もともとは双子の妹である澪の部屋だったが、結婚して家を出たので、代わりに七海の部屋にしたのである。他にも空き部屋はあるが、遥の部屋に近いほうが便利だろうと考えてのことだ。
扉を開けると、執事の櫻井に預けておいたイルカのぬいぐるみが、空っぽの本棚の上にちょこんと置かれているのが見えた。彼女にとっては父親の形見である。自分のもとに戻ったことで安堵しているようだった。
クローゼットには少ないながらも衣類が用意してあるし、ベッドと学習机もあるので、とりあえずはそれなりに暮らしていけるはずだ。もちろん足りないものがあることは十分承知している。
「学校関係のものとか、必要なものは追々そろえていこう」
「うん」
七海にもいろいろと欲しいものがあるだろうし、中学入学のための準備も必要だ。まずは制服と学生鞄、靴、それから——遥はちらりと隣に目を向け、彼女が中学生になった姿を想像した。
「七海ちゃん!」
鈴を転がすような声が聞こえて振り向くと、ひとりの少女が嬉しそうに甘い笑顔で駆け寄ってきた。ゆるいウェーブを描いた腰近くまであるピンクアッシュの髪が、ふわふわと揺れている。
彼女の名はメルローズ。遥の両親に実験体として拉致監禁されていた過去を持つ。わけあって故郷に帰ることができず、遥とは血縁上いとこになるということもあり、剛三が養女として引き取ったのだ。
彼女がここに来て一年半以上になる。最初はしゃべることさえままならなかったが、いまでは小学校に通い、友達にも恵まれて楽しく過ごしているようだ。七海が来ることも無邪気に喜んでくれた。
「今日から七海ちゃんが私のお姉ちゃんになるんだね。早く一緒に暮らしたいなって思ってたからうれしい。仲良くしてね」
「うん……」
対照的に、七海は困惑ぎみに顔を曇らせている。
メルローズに対してはいつもだいたいこんな反応だ。嫌っているのではなく苦手なだけというのが本人の弁である。それなら無理に仲良くする必要はない。適度に距離をとっておけばいいと彼女には言ってある。
しかしメルローズはそのことに気付いていないようで、仲良くなろうとしてぐいぐいと間合いを詰める。これでは逆効果でしかない。遥はさりげなく彼女の意識をそらそうと横から話しかける。
「メル、もう夜ごはん食べた?」
「うん、ひとりでさみしかった」
「ごめんね」
彼女はこくりと頷き、ほんのりと頬を染めて甘えるように抱きついてきた。すこし潤んだような鳶色の瞳でじっと見つめ、小首を傾げて尋ねる。
「あとでお部屋に行ってもいい?」
「構わないよ」
その頭にぽんと手を置くと、彼女は花が咲くように可憐に顔をほころばせる。鳶色の瞳にはもう遥しか映っていなかった。
「もしかして、メルも遥が面倒見てるのか?」
メルローズがひらりと身を翻して戻っていくのを見送ると、七海はちらりと横目を流して尋ねてきた。その表情から隠しきれない不安が垣間見える。
「いや、メルには専任の世話役がいるよ」
「雇ってるってこと?」
目をぱちくりさせて確認する彼女に、そうだよと首肯する。
メルローズに護衛を兼ねた世話役をつけたのは剛三だ。さすがに自分で引き取っておきながら遥に押しつけたりはしない。遥は血縁として彼女に寄り添うようにはしているが、面倒を見るのは七海だけである。だから心配などしなくていいのだが——。
「なに考え込んでるの?」
「ん……やっぱり養子と里子は違うんだなって。別にひがんでるとかじゃないんだ。違ってあたりまえだし納得しただけ」
養子のメルローズには世話役をつけて、里子の七海にはつけない。
実際には経緯が違うので単純に比べられるものではないが、この事実だけを見れば差別と思うのも仕方がないかもしれない。すべてを飲み込むかのように表情を消した七海を見つめ、淡々と言う。
「世話役より僕のほうが贅沢だと思うけど」
「…………?」
何を言いたいのかわからなかったらしく、七海はきょとんとして振り向いた。しばらく無言で見つめ合っていたかと思うと、急にブハッと吹き出し、おかしそうに肩を震わせて笑い出す。
「贅沢ってなんだよ。そういうこと自分で言うかな」
「事実だからね」
遥はわずかに口もとを上げた。
雇われの世話役より彼女のことを親身に考えられる自信はある。世話役がつかなかったことを嘆かせたりしない。そう決意を新たにし、いまだに笑い続けている彼女の肩に手をまわした。
第2話 二人きりの朝
「七海、もう起きる時間だよ」
遥はベッドの端に腰掛けてそっと声をかけた。スヤスヤと心地よさそうに眠っていた彼女は、かすかに眉を寄せながらこちらに寝返りを打ち、ぼんやりと半目を開く。
「ん……武蔵……?」
武蔵というのは、昨日まで一年半ほど七海を預かっていた男である。しかしながらいまはもう遠い故郷に帰ってしまい、ここにはいない。遥は微妙なこころもちになり苦笑を浮かべた。
「寝ぼけてる?」
「……そっか」
七海はゆるりとあたりを見まわして現状を思い出したようだ。枕元の目覚まし時計に眠そうな目を向ける。目覚ましは七時にセットされていたが、いまは六時すぎである。
「早いね」
「朝練するから六時起きって言ったでしょ」
「あ……ごめん、いままで七時だったから」
彼女は目をこすりながらもぞりと体を起こした。まだぼうっとしていて半分寝ているようだ。髪もあちこち寝癖でぴょんぴょんはねていて、いかにも寝起きといった風情である。
遥はくすりと笑い、クローゼットから取ってきたジャージを差し出した。
「これに着替えて」
「うん……」
七海はうつらうつらしたまま、おぼつかない手つきで着ていたパジャマのボタンを外し始めた。
「ふわぁ」
ジャージに着替えた七海は、遥と並んで廊下を歩きながら盛大に欠伸をした。目尻には涙がにじんでいる。冷たい水で顔を洗ったはずだが、それでも完全には目が覚めていないようだ。
「眠れなかった?」
「ん……寝たけど眠い」
「疲れてたんだね」
それまで暮らしていた人と別れたり、新しい家に連れてこられたりと、きのうは精神的に疲弊する出来事が多かった。早起きさせるのは酷だったかもしれない。今日は案内くらいにしておこうかと考える。
「……あのさ」
七海はうつむき加減でちらりとこちらに視線を流し、ためらいがちに切り出した。
「遥って、いつもメルと寝てるのか?」
「いつもじゃないけどわりと多いかな」
メルローズはひとりだと寂しくて寝られないと言って、遥のところへやってくる。昔は一緒にベッドに入って寝かしつけていたが、いまはそこまでしていない。彼女が寝つくまで、勉強や仕事をしながら話し相手になるくらいだ。
「もしかして話し声がうるさかった?」
「うるさいってほどじゃないけど……」
そんなに騒いでいなかったはずだが、たまにはしゃぎ声を上げていたので隣の部屋まで響いていたかもしれない。メルローズを引き取ったときは両隣とも空いていたこともあり、気にしたことはなかった。
「わかった、メルにはなるべく声を抑えるように言っておく。そろそろちゃんと自分の部屋で寝させようと思ってるけど、急には無理だから、もうしばらくはこういう状態が続くかな」
もともと中学生になるまでにはやめさせるつもりでいた。あと一年とすこしだ。寂しがりで甘えたところがあるので、突き放すのではなく、すこしずつ慣れさせていこうと考えている。
「うるさかったら我慢しないで言いにきて」
「……わかった」
七海はそう答えつつも、下を向いてひそかに口をとがらせている。
気持ちはわかるが、彼女の望みばかりを優先するわけにはいかない。ごめんね、と言いながら隣でうつむいている頭にぽんと手をのせる。そのとき小さな耳がほんのすこし上気するのがわかった。
「わあ……!」
地下へ続く階段を下り、重みのある扉を開けて蛍光灯をつけると、七海が感嘆の声を上げた。さきほどまでの眠気はどこへいったのか、きらきらと顔をかがやかせながら駆け込んでいく。
そこは数か月前にできたばかりの真新しいジムである。エアロバイクやランニングマシン、トレーニングマシンなどが並び、奥には格闘術の訓練ができるよう広いスペースがとってある。
「テレビで見たスポーツジムみたい!」
「七海はこっち」
いそいそとトレーニングマシンに跨がろうとしていた彼女を手招きで呼び寄せると、広い訓練場のほうへ向かう。彼女は並んで歩きながら、さきほどのマシンが並んでいるあたりを指さして尋ねた。
「あれは使わないの?」
「子供にはまだ早いから」
「そうなんだ……」
しょんぼりとするが、素直に聞き入れてくれたようで駄々はこねなかった。
遥は訓練場の前でポケットから紙を取り出して広げる。何の変哲もないレポート用紙に書いたメモのようなものだ。その内容を確認していると、彼女がひょこりと首を伸ばして覗き込んできた。
「あ、これ僕のトレーニングメニュー?」
「そう、きのう考えてみたんだ。どうかな?」
「うん……これなら余裕だよ」
筋力トレーニングではなく体力づくりを目指しているので、ランニングや腕立て伏せ、腹筋、背筋などで軽く汗を流す程度にしてある。余力があれば体幹トレーニングを入れてもいいだろう。
七海からトレーニングをしたいと言ってきただけに意欲は高いが、その分オーバーワークには気をつけなければならない。体が出来上がっていない子供なのでなおさらだ。メニューを作ったのもそのあたりを警戒してのことである。
「腕立てとか腹筋とかこの五倍でもできるよ」
「やりすぎはかえって体に悪いんだ」
「でもいままでそのくらい平気でやってたし」
「メニューは様子を見ながら調整するよ」
「……わかった」
メニューを作っても守ってくれなければ意味がない。彼女の納得していなさそうな様子からすると、勝手に回数を増やしかねないので、きちんと見守っておく必要があるだろう。
「あとトレーニングとは別に護身術もやろう」
「えっ?」
これは武蔵に頼まれたことだ。彼は七海に簡単な格闘術を教えていたのだが、筋は悪くないので継続して教えてやってほしいと。遥としてはまず護身術を身に付けさせたいと考えている。
「土日の時間に余裕があるときに教えるから」
「えー……遥に教えてもらうのってなんか怖い」
「まあ、武蔵ほど甘くはないかもね」
思いきり嫌そうに顔をしかめた七海を見て、遥はくすりと笑う。彼女にはいまだに若干怖がられているようだ。それに関しては身に覚えがあるので仕方がない。実際、指導においては甘やかさないつもりでいる。
「でも、護身術は身に付けておいて損はないよ」
「どうせなら射撃やりたいんだけどなぁ」
七海は口をとがらせた。
その瞬間——遥は冷たい手で心臓を鷲掴みにされたかのように感じた。我知らずこぶしを握りしめる。彼女としては何も考えず軽い気持ちで言ったのだろうが、聞き流せるものではない。
「もう人殺しの練習はさせない」
真剣なまなざしで強く見つめながら、そう告げる。
彼女は幼いころから復讐のために射撃を教え込まれてきた。犯人を殺すことだけを頭に思い描きながら。だから、勝手かもしれないがもう二度と銃を持たせたくない。たとえ合法であったとしても。
「うん……ごめん……」
彼女は最初こそ目をぱちくりさせて驚いていたが、すぐに真意を察したらしい。神妙な面持ちで謝罪の言葉を口にする。それを見て、遥はだいぶ頭に血が上っていたことを自覚した。いつのまにか強く握りしめていたこぶしを緩める。
「僕のほうこそきつい言い方をして悪かった」
「うん」
七海はほっと息をつきながらそう返事をすると、気を取り直したようにエヘヘとはにかみ、軽やかな足取りで訓練場に入っていく。
「じゃあ、ランニング始めるね!」
「疲れてるみたいだし今日は休んだら?」
「平気、体を動かしたい気分なんだ」
「わかった」
遥も付き合い、二人でメニューをこなした。
その時間が思いのほか楽しかったのは、誰かと一緒のトレーニングが久しぶりだったからか、あるいは他の誰でもない七海が一緒だったからか、このときの遥にはまだわかっていなかった。
第3話 偽装恋人
「遥、おまえ眠そうだけど大丈夫か?」
経済学の講義が終わり、遥が教科書やノートを片付けていると、隣に座っている富田拓哉(とみだたくや)が心配そうに尋ねてきた。
確かに、土日はあちこち駆けずりまわったうえ、片付けることも多くてあまり寝ていない。眠いといえば眠いが、講義は最前列で居眠りもせず真面目に受けていたし、そういう素振りは見せないよう気をつけていたつもりなのに。
「そんなに眠そうにしてた?」
「いや……何となくだけど」
富田は小学から高校までずっと同じクラスの幼なじみで、大学の学部学科も同じである。それゆえ遥のことをよくわかっているのだろう。彼になら見抜かれても仕方がないかもしれない。
「いつも本当によく見てるよね」
「まあ、そりゃあ……」
「そんなに僕のこと好きなんだ」
にっこりと笑い、額が触れ合わんばかりにずいっと顔を近づける。富田は耳まで真っ赤になりながらわずかにのけぞった。大講義室の後ろのほうから、キャーと歓喜まじりの悲鳴が上がる。
「近すぎるだろっ!」
「そう?」
周囲に聞こえないよう声をひそめて言い合う。
ふいに富田はよろけそうになり慌てて長机に左手を置いた。その薬指にはシンプルなプラチナの指輪がかがやいている。遥はそこに同じ指輪をはめた自分の左手を重ね、微笑を浮かべた。
富田はただの親友だ。
友情にしては高価すぎるペアリングも、過剰なスキンシップも、近づく女子を退けるための偽装でしかない。多数の女子からうんざりするくらい声をかけられ、また男子からもひっきりなしに合コンに誘われ、辟易していたのだ。
思わせぶりなだけで付き合っていると公言したわけではないが、それでも一定の効果はあった。最初は気にせず突進してきた人や、偽装ではないかと疑っていた人も、一年が過ぎるころにはほとんど脱落していった。
当然だろう。同性愛者であればいくら努力したところで望みはないのだ。早々に見切りをつけて他のターゲットを探すほうが賢明である。どうせルックスやステータスしか見ていないのだから。
「心臓がもたねぇ」
二人は大学から数駅離れた静かな雰囲気のカフェに移動した。人目を避けたいときに利用している隠れ家的なところだ。いつものように奥の目立たない席に座ると、富田はぐったりとテーブルに突っ伏してそうつぶやく。さきほどの大講義室でのことを言っているのだろう。
「約束どおりキスはしてないよ」
「いつか事故るぞ」
そう口をとがらせる彼に、頬杖をついてにっこりと笑いかける。
付き合っていると公言せずそう匂わせるだけ、キスもしない、富田に好きな子ができたら終わりにする——そういう約束で彼の協力を取り付けたのだ。いまのところ約束は守っているつもりである。
ただ、限界ギリギリを狙っている部分はあるかもしれない。まとわりつく女子の幻滅や動揺が楽しくてつい悪乗りしてしまう。もっとも、最近はどういうわけか歓喜の声がよく上がっているのだが。
「いらっしゃいませ、ご注文はお決まりですか?」
「フルーツパフェとストレートティ、ホットで」
「あ……俺はホットコーヒー」
水とおしぼりを持ってきた壮年の男性店員に、それぞれ注文する。
富田はさっそくグラスの水に口をつけて一息ついた。そしてちらりと物言いたげな目を遥に向け、戸惑いがちに切り出す。
「おまえさ、目的のためとはいえ嫌じゃないのか? 俺と……みんなの見てるところで手を握り合ったり、顔を近づけたりとか」
「全然」
遥は即答したが、富田は何ともいえない複雑な表情になった。
遥としては嫌だと思ったことは本当に一度もない。幼いころは一緒にお風呂に入ったこともある仲だ。いまさらそのくらいでどうこう感じたりしないし、他人に眉をひそめられても気にしない。けれど——。
「富田が嫌なら終わりにするけど」
「いやいや、大丈夫だ!」
左手薬指のペアリングを抜くポーズを見せると、彼は大慌てで押しとどめた。遥はその勢いに唖然として目をぱちくりさせる。
「これやめても友達まではやめないよ?」
「あ、いや……嫌じゃないから続けようぜ」
「そう?」
スキンシップをするとき、富田はよく真っ赤になってうろたえている。
おそらく遥の顔立ちが澪と似ているからだろう。富田は幼いころからずっと遥の双子の妹である澪に片思いしていた。彼女は結婚してしまったのでもう望みはないが、未練はあるらしい。
もしかしたらそれでつらく感じていたのかもしれない。だが富田自身がそれを否定して続けることを望んでくれるのなら、断る理由はない。あまり無理をしていなければいいのだが——。
「それより話があるんじゃないのかよ」
「ああ……きのう七海を引き取ったんだ」
「そういや、そろそろって言ってたな」
富田には七海のことをおおまかにだが話してあるし、紹介もした。幼なじみで親友だからというのもあるにはあるが、偽装恋人という関係を続けるうえで、そのくらいは知っておいてほしいと考えてのことだ。
「あ、それでさっき眠そうにしてたのか」
「まあね」
肩をすくめると、富田が同情的な目を向けてきた。
「大変だな、まだ大学生なのに」
「そうでもないよ。家でのことは使用人に頼めばいいから、僕は主に学校関係のことくらいかな。だから大学の講義もいままでどおり出るし、富田とお茶する時間だってとれるよ」
「ん、ああ……」
食事の用意や洗濯までしなければならないのなら無理だが、幸い使用人がいる。小さな子供ではないのでずっとついている必要もない。しばらくは学校関係の手続きや入学準備などで忙しいだろうが、中学生になってしまえば落ち着くだろう。
「それでさ、これ」
ペアリングをはめた左手を軽く掲げてそう切り出すと、富田は飲みかけのグラスを置いてきょとんとした。こういう表情を見るとついからかいたくなるが、いまは真面目に話を進める。
「七海にきちんと説明しておこうと思って」
「え、きちんとって……どう説明するんだ?」
「もちろん正直に本当のことを話すつもり」
「女よけの偽装だって?」
「そう」
噂という形で彼女の耳に入るよりは、先に真相を知らせておいた方がいいと考えてのことだ。こんなくだらないことで悩ませてしまうような事態は避けたい。
「それ子供に理解できるのか?」
「七海なら大丈夫だと思う」
「その子からバレるってことは」
「もちろん口止めしておくよ」
「でも子供だからなぁ」
富田は腕を組んで渋い顔をする。
今のところ、真相を話したのは祖父とその秘書と妹夫婦くらいである。確かに知る人物が増えるだけ露見する可能性は高まるし、それが子供となればなおさらだろう。わかってはいるが、それでもやはり自分から話しておきたいのだ。
「駄目?」
遥は瞬ぎもせずまっすぐに富田を見つめて尋ねる。彼は腕を組んだまま伏し目がちに考え込んだかと思うと、急に顔をしかめてガシガシと自分の頭をかき、ふうと大きく息をついた。
「俺と違って、おまえはいつもリスクを考えたうえで決めてるもんな。だったらもう止められないだろ。そもそもおまえのためにやってることだし、バレたところで俺が困るわけじゃないし」
「ありがとう」
ふっと微笑んだところで、注文したものが運ばれてきた。
遥がフルーツパフェを食べ始めると、富田もコーヒーにたっぷりのミルクを入れて口に運んだ。そのあいだずっと視線を落として何か考え込んでいたが、やがて背もたれに身を預けると、ちらりと物言いたげな視線を上げておもむろに口を開く。
「なあ、もしバレたら他のヤツに頼むのか?」
「頼める人なんて富田以外にいないよ」
遥はパフェを食べる手を止めずにさらりと答えた。
そもそも露見してから他の人に頼むなど意味のないことだ。また偽装と思われるだけである。さまざまな意味でまわりが騒がしくなるかもしれないが、どうにかやり過ごすしかないだろう。
「そうか……そうだよな……」
新たな犠牲者が出ることを懸念していたのか、あるいは遥のことを心配してくれていたのか——富田はほっとしたように小さく息をついて表情を緩めると、再びコーヒーカップに手を伸ばした。
第4話 彼女と暮らした男
「自分が死んだあとのことなんかどうでもよかった」
警察庁長官の執務室にある応接ソファで、七海と約二年ぶりの再会を果たした真壁拓海は、彼女の質問に対して眉ひとつ動かさずにそう答えた。すこしの希望も抱かせない冷めた口調で。
七海はいまにも泣きそうになりながら深くうつむいた。
真実を知ってもずっと心のどこかで信じていたようだが、こうなってはもう認めざるを得ないだろう。彼にとって自分は復讐の道具でしかなかったということを——。
それは散り始めた桜の花びらが吹雪のように舞う、ある春の日のことだった。
遥は七海が通うことになった私立中学校の入学式に保護者として出席し、その帰りに、真新しいセーラー服に身を包んだままの彼女を連れて警察庁に向かった。真壁拓海と面会させるためである。
彼は、七海の父親である坂崎俊輔を殺した男だ。
ともに公安で最重要機密に関わる職務に就いていた同僚で、親友だった。あるとき俊輔が国家を危険にさらしかねない反逆行為を犯し、処刑を免れない状況に陥ったため、拓海が自らの手で葬ったというのが真相のようだ。
しかし、彼は自分を許せなかった。
俊輔の娘を戸籍上死亡にしたうえでひそかに引き取り、復讐をそそのかして銃の扱いを教え、最終的に自分が敵だと明かして殺させる計画を立てた。それがどれほど身勝手で残酷なことか考えもせずに。
幼い七海にとって彼はひとりぼっちの自分に手を差し伸べてくれた恩人だった。四年半も一緒に暮らしたのだ。ささやかながらもたくさんの思い出があっただろうし、慕う気持ちもあっただろう。
それゆえ父親を殺したのは自分だと彼に明かされても、引き金を引けなかった。計画は失敗に終わったのだ。彼は自分で始末をつけるべく自害しようとしたが、それも彼女に止められた。
その後、彼がどういう状況を経てきたのかはわからないが、現在は以前と同じように公安で任務をこなしているらしい。
その情報は、公安職員をしているひとまわり年上の義弟から得たものである。任務の内容以外であればと教えてくれた。その彼に頼み、拓海と面会できるよう取りはからってもらったのだ。
七海はずっと彼のことを気にしているようだった。気持ちの整理がつかないまま別れたのだから仕方がない。未練を断ち切らせるためにも、中学生になったら一度だけ会わせようと考えていた。
もちろん強制はせずどうするかは彼女に委ねた。突然のことでさすがに戸惑っていたようだが、それでもすぐに意志の強さを感じさせる面持ちになり、まっすぐ遥を見つめて答えた。会わせて——と。
面会場所は警察庁長官の執務室だった。
これは楠長官の意向である。拓海の精神状態を心配しているのかもしれないし、遥に対する牽制の意味もあるのかもしれない。ただし、面会の内容については一切口を出さないと約束してくれた。
コンコン——。
扉が開くとスーツを身に付けた真壁拓海その人が姿を現した。
七海ははじかれたように立ち上がり、拓海もそれを目にして動きを止めた。互いに無言のまま、息をすることさえ忘れてじっと見つめ合った。まるでそこだけ時が止まったかのように。
「七海……元気そうでよかった。大きくなったな」
「拓海は変わらないね」
そこには多少ぎこちないながらも心を許しあったような空気が流れた。
四年半も一緒に暮らしてきたのだから仕方がないが、いまさら拓海のほうへ気持ちが傾くのは危険だし、何より面白くない。ここで遥にできることといえば無言の牽制くらいだった。
攻撃的な気をぶつけていれば遥の存在を無視できなくなる。その目論見は成功したといっていい。彼は近況報告のような他愛のない会話を続けながらも、ひそかに遥を意識していた。
「橘家で暮らしていると聞いたが」
「うん、良くしてもらってるよ」
「学校にも行ってるんだな」
「今日が中学の入学式だったんだ」
七海のセーラー服を見ながら曖昧な笑みを浮かべた彼は、何を思ったのだろう。学校へ行かせなかったことを、すこしは申し訳なく感じたのだろうか。だとしてもいまさら遅い。
拓海が七海から奪い去ったものや与えなかったものは、すべて遥が与えるつもりである。拓海には何も望んでいない。七海に爪痕を残さず消えてくれればそれでよかった。なのに。
彼は七海の求めに応じて、俊輔を手に掛けるに至るまでの状況や心情を語った。七海が本当のことを知りたいというなら止められない。気持ちに区切りをつけるために必要なのだろう。しかし——。
「七海が許せないなら、死んで償う」
この期に及んでまだそんなことを言うなんて。
七海のためといいつつ彼自身がそうしたいだけだ。あいかわらず自分のことしか考えていない。どうせならいっそ無関係の事故で死んでくれればいいのに——遥は冷たく拓海を見据えた。
ただ七海は、すくなくとも表面上はあまり深刻にならず、死なれたら寝覚めが悪いよと受け流して苦笑した。しかしそれも束の間。ふいに表情を消すと、緊張した様子を見せながら別の話題を切り出した。
「お父さんの敵を取ったあとのことは、何か考えてた?」
それが彼女のいちばん聞きたかったことだろう。
復讐を完遂すると七海はひとりぼっちになってしまう。死んだことになっているので誰にも存在さえ知られていない。せめて生きていけるよう、何かしら取りはからってくれていたのではないかと。
彼女は信じたかったのだ。復讐のために引き取られたのは事実だとしても、四年半の同居で情が移り、それなりに大切に思われていたということを。しかし、拓海は冷ややかに言い放った。
「自分が死んだあとのことなんかどうでもよかった」
——と。
「もう聞きたいことは聞いたから、帰ろう?」
かすかに涙のまじった声。
振り向くと、七海は顔を隠すように肩をすくめてうつむいていた。遥はわかったと端的に答えてソファから立ち上がり、奥の執務机で書類を広げていた楠長官に告げる。
「私たちはこれで失礼します」
「ああ、橘会長によろしくな」
「伝えておきます」
一礼すると、七海も立ち上がりぺこりと頭を下げた。
すぐに退出しようとしたが、扉を開こうとする手を彼女が無言で押しとどめた。やけに思い詰めた顔をしていたかと思うと、そっと振り返り、ソファでうつむく拓海の後ろ姿を見つめる。
「じゃあね……もう会うことはないと思う」
「ああ……七海、おまえは真っ当に生きろ」
「勝手だね」
かすかに震えた声でそう言い捨てた。そして前に向きなおりグッと奥歯を食いしばると、勢いよく扉を開け放ち、今度は振り返ることなく執務室をあとにした。
「よく我慢したね」
エレベーターの前まで来ると、そう七海に声を掛けてハンカチを差し出した。
瞬間、潤んだ目からぶわっと決壊したように涙があふれた。彼女はあわててそのハンカチを目元に押し当てる。しかしおさまる気配はなく、それどころか嗚咽の声までもらし始めた。
「あんなやつに涙を見せずにすんでよかったよ。もったいないし」
「うっ……もったいないって何だよ……っ……意味不明すぎ……」
泣きながらもいつもと変わらない彼女を見て、遥はふっと笑う。人通りのないひっそりとしたエレベーターホールで、そのままボタンを押さずにただそっと寄り添い、彼女が泣き止むのを待った。
二人は警察庁をあとにする。
泣くだけ泣いてすっきりしたのか七海の足取りは軽い。うららかな春の陽射しを顔いっぱいに浴びながら大きく伸びをすると、膝丈のプリーツスカートをひらめかせて遥に振り向く。
「連れてきてくれてありがとう。おかげでふっきれたや」
「そう」
ふっきれたというにはまだいささか早いかもしれないが、それもまもなくだろう。彼女は強い。下手な慰めの言葉などなくても、自分で気持ちに折り合いをつけられるはずだ。
ぐうぅぅぅ——。
鳴ったのは七海のおなかだ。
真っ赤になってあたふたとうろたえる彼女を見て、遥は思わず笑った。今日だけでなく何度かこういうことがあったなと思い出す。彼女は恨めしげに横目で睨んで口をとがらせた。
「お昼の時間だいぶ過ぎたからね。どこかで食べて帰ろう」
「うん、パフェも食べたい!」
食べると聞いて、頬を染めたままパッと顔をかがやかせてはしゃぎだした。食事の話になると機嫌が良くなるのはいつものことだ。待ちきれないとばかりに身を翻して階段を駆け下りていく。
その後ろ姿を眺めながら、遥は口もとを上げてゆったりとあとに続いた。
第5話 井の中の蛙
「いじめ?」
それは、梅雨入りしてまもないある日のことだった。
遥が大学から帰ると、玄関で待ち構えていた執事の櫻井から、内密で話したいことがあると切り出された。彼はこの家に長年仕えている信頼のおける人物だ。すぐ空き部屋に連れて行き、ガラスの応接テーブルを挟んで向かい合った。
そこで聞いたのが、七海がいじめを受けているらしいという話だ。毎日元気でそんな様子はまったくなかったので、にわかに信じられず聞き返すと、彼は遥を見つめたまま顔を曇らせて首肯した。
「体操服が何度か泥水で汚れていまして」
「七海に話は聞いたのか?」
「学校にいじわるな人がいるのだと」
我知らず眉が寄る。一度ならず何度もとなると、彼の言うようにいじめである可能性が高いが、それだけで安易に決めつけるわけにもいかない。
「わかった。僕から七海に聞いてみるよ」
「よろしくお願いします」
櫻井が頭を下げる。
しかし保護者であれば対処するのは当然のことだ。彼に頼まれるまでもないし頼まれるいわれもない。遥は表情を動かさず、口を結んだまま小さく頷いて立ち上がった。
「七海、ちょっと話があるんだけどいい?」
「いいけど、何?」
櫻井と別れてすぐに七海の部屋を訪ねた。
彼女は真面目に勉強していたようで、学習机の上には開いた教科書やノート、辞書などが乱雑に置かれている。中断させてしまうことを申し訳なく思うが、こちらも大事な話だ。部屋に入らせてもらいベッドに腰掛けた。
「櫻井さんから体操服のことを聞いた」
「ああ」
七海は軽く頷いて椅子に腰を下ろし、口をとがらせる。
「なんかさ、教室を離れたときに校庭に捨てられたりしてさ。授業前なのにドロドロになって困るんだよな。さすがにあんな状態じゃ着られないし」
着ているときに暴行を受けたのではないかと心配したが、そうではなかったようでほっとした。しかしながら安心はできない。いじめらしき事実があったことには違いないのだから。
「じゃあ、体育の授業はどうしたの?」
「予備のを持ってる人が貸してくれた」
「そう」
どうやら少なくともひとりは七海の味方がいるようだ。この様子からしても孤立はしていないのだろう。
「体操服を汚した人は誰かわかってる?」
「それがさぁ」
七海は思いきり眉をひそめる。
「たぶんそうだろうなって思う人はいるんだけど、証拠がないんだ。こんな卑怯なマネやめろよって言っても、証拠もないのに犯人扱いするなって言い返されて。でも薄笑いしてるし間違いないと思うんだよなぁ」
「誰?」
「綾辻瑠璃子、あと手下の三船百合奈と三枝琴音。こいつら何か知らないけど僕を目の敵にしててさ、くっだらない嫌味や悪口を言ってくるんだ。あんまり相手にしないでほっといたけど」
その対処は間違っていないと思うが、七海を泣かせたいのにまったく相手にされず、ムキになってエスカレートしたとも考えられる。このまま放置していたらどうなるかわからない。
「よし、まずは証拠を集めよう」
「え、だから証拠はないって……」
「今度そういうことをされたら、なるべくそのままの状態でとっておいて。指紋とか、分泌物とか、犯人の痕跡が残っている可能性があるから。目には見えなくても警察で調べればいろいろとわかるんだよ」
そう告げると、彼女は微妙に顔を曇らせながら、言いづらそうに切り出す。
「あの、僕、警察とかあんまりオオゴトにしたくないんだけど」
「警察はあくまで最後の手段。証拠となるものを握っているという事実が大切なんだ。彼女たちも言い逃れがしづらくなるからね。戦うための武器ってこと」
「そっか……うん、わかった」
彼女は真面目に頷くと、ほっとしたように表情を緩めて笑顔になる。こういうのなんかちょっとワクワクするね、などと無邪気にはしゃぐのを見て、遥もつられてくすりと笑った。
「いろいろ集まったね」
切り裂かれた体操服、らくがきされたノート、破かれた教科書——あれからたった数日で証拠となりそうなものがこれだけ集まった。ビニール袋に入れて床に並べたそれらのものを眺め、遥はわずかに眉を寄せる。
正直、ここまで一気にエスカレートするとは思っていなかった。体操服を何度も踏みつけてずたずたに切り裂くなど、かなりまずい状況だ。教科書の破り方にもただならぬものを感じる。
しかしながら七海はケロッとしていた。発見したときにどう感じたかまではわからないが、すくなくとも今現在ショックを受けている様子はない。それどころか期待に満ちた目で遥を見つめている。
「どうかな、証拠になりそう?」
「十分だよ」
体操服だけでは突きつける証拠として微妙なところだが、ノートは思わぬ収穫だった。これだけわかりやすいものがあれば中学生相手に戦いやすい。それを聞いた七海はすっかりやる気になっているが——。
「七海、ここから先は僕に任せてくれないかな」
「そんな、僕のことなんだから僕がやるよ!」
こればかりはいくら懇願されても聞き入れられない。真剣に彼女を見つめ返して言い聞かせる。
「七海が大丈夫だと言うなら出張る気はなかったけど、さすがに度が過ぎてる。悪いようにはしないから僕を信じて任せてほしい」
「……わかった」
不満はあるのだろうが、それを飲み込んで遥の願いを聞き入れてくれた。そんな彼女の信頼を裏切るわけにはいかない。遥は神妙に頷き、必ず結果を出そうとひそかに気合いを入れた。
「綾辻瑠璃子さん」
放課後、校門からすこし離れたところで例の三人組に声をかけた。
瑠璃子は怪訝に振り返ったが、すぐに誰だかわかったようでハッと息を飲んだ。入学式のときに見て知っていたのだろう。なのに、逃げるどころか嫣然と微笑みながら近寄ってきた。
「坂崎さんの保護者の方ですね」
艶のある声で、中学一年生とは思えない大人びた受け答えをする。
彼女は大手製薬会社の創業家一族の娘だ。四人きょうだいの末娘ということもあり、ずいぶん甘やかされて育ったらしい。それゆえわがままで、小学生のときから女王様気取りだったという。
実際、腰近くまである艶やかな黒髪や、美人になるであろう整った顔、物怖じしない堂々とした態度からも、そういう雰囲気がにじみ出ている。もちろんそれ自体は決して悪いことではないのだが。
「すこし話をさせてもらえませんか。三船さんと三枝さんも一緒に」
「ええ、構いません。それでは……あちらの喫茶店でいかがです?」
「綾辻さんさえ良ければ」
話をするなら人目のあるところでなければと考えていたので、喫茶店なら問題はない。後ろの二人は勝手に話が進んでとまどっているようだが、瑠璃子は気にもせず、当然のように遥と並んで喫茶店に向かい始めた。
「綾辻さん、あなたは七海の何が気に入らないんですか?」
広くはない喫茶店で、遥は二人掛けソファに並んで座る瑠璃子にそう切り出した。彼女は予想していたのだろう。焦る様子もなく、うっすらと思わせぶりな笑みをたたえて聞き返す。
「坂崎さんの言うことを信じてらっしゃるの?」
「心当たりはないと?」
「言いがかりをつけられて困っているわ。ね?」
向かいの二人は請われるまま頷き、ひどく落ち着かない様子でオレンジジュースに手を伸ばした。一方、瑠璃子はストローをつまんで悠然とアイスレモンティを飲み、話を続ける。
「坂崎さんってもらわれっ子でしょう? 育ちがよくないせいか平気で嘘をつくの。本当に困った人だわ。本来なら東陵に来られる身分じゃないのに、そのことをわかってらっしゃらないみたいだし」
その発言から、七海をいじめる理由が透けて見えた。
くだらない選民思想だが、彼女がそういう思想を持つことを咎めるつもりはない。それに基づく七海への不当な行動を止めたいだけだ。遥はビニール袋に入った証拠品を鞄から取り出した。
「これ、覚えはありますよね」
「さあ、証拠はあるのかしら」
瑠璃子はとぼけるが、向かいの二人が表情をこわばらせている。大変なことになったという心の声がダダ漏れだ。七海の読みどおり彼女たちの仕業で間違いない。遥は冷静に観察したのち溜息をついてみせた。
「こちらとしては二度としないでほしいだけなんですが……そちらが認めないのであれば警察に被害届を出します。器物破損はれっきとした犯罪ですから。指紋照合や筆跡鑑定をすれば、犯人が誰かは容易に突き止められるでしょう」
そう告げると、瑠璃子の顔色が変わった。
「警察なんて……そんなことパパがさせないわ」
気付いているのかいないのか認めたも同然の物言いだ。さきほどまでのお嬢様然とした表情はどこへやら、眉を吊り上げながら苛立ったように睨みつける。それでも遥はすこしも動じない。
「へぇ、君のパパに何ができるっていうの?」
「パパは綾辻製薬の社長よ。何だってできるわ!」
彼女は安い挑発に乗って声を荒げた。何だってできる——製薬会社の社長にできることなどたかが知れているが、彼女は本気で信じているのだろう。大人ぶっていてもまだ子供である。
遥は名刺を一枚取り出してすっと彼女の前に置いた。大学生ではあるが、祖父の仕事を手伝うために会社の名刺を作ってあるのだ。普段は当然ながら仕事相手にしか出さないけれど。
「パパに伝えてくれる? 売られた喧嘩は買うって」
うっすらと唇に笑みをのせ、名刺に手をそえたまま身を乗り出して覗き込む。彼女が耳まで真っ赤にしてのけぞったのを見ると、すぐに表情を消し、テーブルに置いた証拠品を手早くしまって立ち上がった。
「今週中には警察に届けを出そうと思ってるから、そのつもりで」
「イケメンだからっていい気になってると痛い目見るわよ」
彼女は顔を火照らせたまま恨めしげに睨み、捨て台詞を吐いた。
遥は目を細めてふっと思わせぶりな笑みを浮かべると、伝票を取ってレジに向かう。背後から、こんな会社パパにつぶしてもらうわ、あとで泣きついても知らないんだから、覚えてらっしゃい、などと喚く瑠璃子の声が聞こえてきた。
青ざめて冷や汗をだらだら流した瑠璃子の父親が、地面に頭をこすりつけんばかりの勢いで謝罪に来たのは、その日の夜のことだった。
第6話 クラスメイト
七海へのいじめはピタリとやんだ。
瑠璃子は前にもまして憎々しげに睨んでくるものの、あからさまな暴言を吐いたり物を壊したりということはなくなったらしい。二度としないよう父親に強く言いつけられているのだろう。
一部のクラスメイトは巻き込まれるのを怖れてか七海を避けていたが、いじめがやんでからは普通に接してくれるようになったと聞いた。ただ、校外で会うほどの友達はまだいないようだ。
それもあってか休日はあまり外に出ようとしなかった。遥が声を掛けないかぎり、宿題や勉強をしているか、小説などの本を読んでいるか、ジムで体を動かしているかのどれかである。
かつて何年も軟禁状態だったことも影響しているのかもしれない。彼女にとっては家から出ない生活があたりまえだったのだ。おまけにひとりにも慣れているので寂しがることもない。
それゆえ時間を見つけてはこまめに買い物や美術館、映画館、夏祭りなどに連れ出すようにしていた。外出が嫌いなわけではないので誘えばたいてい来てくれるし、楽しんでくれる。
もちろん勉学も疎かにはさせない。好きじゃないなどと言っていたわりには真面目に取り組んでいるようだ。成績も悪くない。定期テストで十位以内をキープしているのだから上出来といえるだろう。
夏休みが過ぎて二学期になっても、そんな平穏な日々が続いていたが——。
「野球?」
それは、秋めいてきた涼しい夜のことだった。
次の土曜日に映画を観に行こうと七海を誘ったのだが、野球を見に行くからと断られた。これまで野球なんて興味を示したこともなかったのに。怪訝に聞き返すと、彼女は屈託のない笑みを浮かべながら答えてくれた。
「野球部が準決勝に進んだんだって」
「友達と応援に行くってこと?」
「ううん、僕はひとりで行くつもり」
強豪校でもないのに準決勝まで進んだのなら快挙だろう。そんな野球部を応援しに行くというのはわからないでもないが、七海が自主的に思い立ったとは考えられない。
「学校から応援に行くように言われた?」
「そうじゃなくて……クラスメイトが試合に出るみたいでさ、応援に来てほしいって頼まれたんだ。そいつ、僕の体操服が汚されて使えなくなったとき、何度も予備のを貸してくれたから恩もあるし」
事も無げにそう言うが。
女子野球部がない以上、そのクラスメイトは必然的に男子ということになる。いじめがあったときにも話は聞いていたが、まさか借りた相手が男子だとは思いもしなかった。確かに体操服は男女とも同じなのだが——。
「行ったらダメ?」
いつのまにか真顔で深く考え込んでいたが、その声で現実に引き戻された。安心させるように優しく微笑みかけて答える。
「ダメじゃないよ。気をつけて行っておいで」
「うん」
七海がほっとしたように頷いたのを見て、部屋をあとにした。
彼女が休日に出かけるのも、クラスメイトと仲良くするのも、歓迎すべきことだ。なのに——無意識に眉を寄せてしまう。自室に戻って法社会学のレポートを書き始めても、心にかかる靄は晴れなかった。
「いってきまーす」
土曜日はすがすがしい秋晴れだった。
七海はショートパンツにパーカー、キャップといったいつもの格好をしている。しかし、もう昔のように男の子と間違えられたりはしない。ボーイッシュな格好だがどこをどう見ても女の子である。
背中には黒のリュックを背負っている。重量感があるのは二人分の弁当を入れているからだ。体操服のお礼として野球部のクラスメイトに差し入れるらしい。といっても七海の手作りではないのだが。
バタン、と扉の閉まる音で我にかえった。
誰もいない玄関ホールで溜息をついて部屋に戻る。先日買ったミステリを読もうとしたが、文字を目で追うだけでまるで頭に入ってこない。苛立ちまぎれに本を閉じて机に突っ伏す。
いっそ、見に行くか——。
我ながらどうかしていると思うが、何も手がつかず悶々としているくらいなら、とりあえず状況を確認してきたほうがいいだろう。そう自分に言い聞かせるとすぐに立ち上がり、クローゼットへ足を進めた。
カキーン——。
澄みわたった秋空に、金属バットの甲高い打球音が響く。
遥が球場に着いたときにはもう試合は始まっていた。スタンドに入ってぐるりとあたりを見まわす。応援団はおらず、制服や私服の中学生らしき子たちや、選手の親と思われる人たちがまばらに座っている。
七海は最前列のベンチにひとりぽつんと腰掛けて、試合に見入っていた。もとより彼女に声をかけるつもりはない。遥は迷わず最後列に座り、斜め後方から見下ろす形でひそかに様子を覗う。
「二階堂! 行っけー!! 打てー!!」
それまでおとなしくしていた彼女が急に立ち上がり、こぶしを突き上げながら絶叫ともいえる声援を送り始めた。バッターボックスに入った選手が例のクラスメイトなのだろう。遠目だが一年生にしては体が大きいようだ。
カーン——。
軽めの音がして白球が飛んだ。ヒットになるか微妙な当たりだったものの、俊足でセーフになった。やった、と七海は何度も跳びはねながら全身で喜びを表し、彼もスタンドの七海に振り向いてはにかんだ——ように見えた。
ただ、残念ながら得点には繋がらなかった。続く打者が凡打に終わり、一塁に彼を残したままスリーアウトチェンジとなる。彼も力みすぎたのかその後の打席では精彩を欠き、チームは完封負けを喫した。
観客たちが次々と席を立つ中、七海はじっと座ったまま動こうとしなかった。しばらくすると制服に着替えた彼がスタンドに姿を現し、七海の持ってきた弁当を一緒に食べ始める。
野球部といえば坊主頭というイメージだが、彼は清潔感のあるスポーツ刈りだった。若干の幼さを残しつつも精悍で男性的な顔立ちで、体つきもがっちりとしている。遥とは正反対のタイプだ。
七海はその大きくも丸まった背中をぽんぽんとたたき、笑顔で何かを言っている。だいぶ離れているため声までは聞こえないが、落ち込んでいる彼を明るく励ましているのだろう。その様子はまるで——遥は立ち上がり、がらんとしたスタンドに背を向けて球場をあとにした。
「ただいまー」
廊下から足音が聞こえた気がして部屋の扉を開けると、リュックを背負った七海が帰ってきたところだった。遥が帰宅してから一時間もたっていないので、弁当を食べたあと寄り道しないで帰ってきたのだろう。そのことにひそかに安堵する。
「野球、どうだった?」
「負けちゃった」
七海は肩をすくめる。
「僕、野球のルールとかあんまりわかんなくてさ。でも一点差だったし惜しかったんじゃないかなぁ。あいつも頑張ってたし……そうだ、来週の土曜日に残念会やろうって話になったんだけどいい? どこか近くのお店へお昼ごはんを食べに行くみたい」
「野球部のクラスメイトと二人で?」
「うん……ダメかな?」
「お昼ごはんだけなら構わないよ」
「ありがと!」
軽い足取りで自分の部屋へ入っていく七海を見送り、遥も部屋に戻る。
球場での様子からしても、二人が互いに憎からず思っているのは間違いない。それなら言うことは何もない。友人ができるのも、世界が広がるのも、彼女の保護者として歓迎すべきだろう。
もし付き合うとしても——思春期ならそういうことがあってもおかしくはない。交際禁止の校則がない以上、中学生なりの節度を守るのであれば反対はできない。彼に問題がないかぎり。
遥は扉を背にして立ちつくしたまま考え込む。自分がどんな顔をしているかなど気付きもしないで。
第7話 自覚
「ただいま」
ノックが聞こえて扉を開けると、そこにはニコニコと笑みを浮かべた七海が立っていた。クラスメイトの二階堂と残念会をするために昼前に出かけて、いまは午後二時である。言いつけどおり昼食だけで帰ってきたのだろう。
「おかえり、楽しかった?」
「うん、もうおなかパンパン」
七海はおなかをさすりながら満足そうにエヘヘと笑う。しかしすぐに思い出したようにショートパンツのポケットを探り、そこから折りたたまれた千円札三枚を取り出して、遥に差し出した。
「これ使わなかったから返すね。僕がおごるって言ったんだけど、逆にあいつがおごるって譲らなくてさ。結局おごってもらっちゃった」
「……そう」
一瞬、躊躇したが受け取る。
中学校の近くにあるイタリアンでランチブッフェを頼むと聞き、念のため二人分の金額を渡しておいたのだ。試合に負けた彼を元気づけると言っていたので、七海がおごってあげられるようにである。
もちろん彼がおごる可能性もあるだろうとは思っていた。女の子におごられるのを良しとせず、むしろ男の自分がおごらなければと考える人もいる。気のある相手であればなおさら——。
先週、球場で見てから彼のことを調べた。
父方の祖父は地方銀行の頭取で、父親は外資系企業に勤めている。なかなかのエリート家系だが、瑠璃子のように鼻にかけることもなく、いたって真面目で自己主張の薄い性格のようだ。
小学生のときはリトルリーグでそこそこ活躍していた。中学でも野球部で頑張っており、秋季大会の準々決勝では負傷した先輩の代わりに出場を果たした。一年生では彼だけである。
学業のほうも悪くない。成績は七海と同じくらいのようだ。試験の順位も抜きつ抜かれつといった感じで、いいライバル関係だといえる。そういった意味でも話が合うのかもしれない。
口数は少ないが暗いわけではない。軽薄なところがなく実直な人柄。おまけに文武両道で見目も悪くない。それゆえ同性からも異性からも人気があるようだ。ただし告白はすべて断っている。
彼を排除すべき理由はどこにも見当たらない。もし二人が本当に想い合っているのであれば、付き合うことになっても反対はできないだろう。もちろん節度は守ってもらわなければならないが。
「じゃあね」
「ねえ」
軽く片手を上げて自分の部屋に戻ろうとした七海を、間髪入れずに呼び止める。もやもやした気持ちのまま過ごすくらいなら、いっそはっきりさせたほうがいいだろう。
「七海はさ、彼のことが好きなの?」
「えっ、まあ嫌いじゃないけど……」
「別に反対するつもりはないから」
「そんなんじゃないよ!」
七海は目を見張り、ふるふると両手を振って否定した。
「あいつはただのクラスメイト。学校では普通に仲良くしてるけど、付き合うとかそんなつもりは全然ない。だって僕が好きなのは……」
そこで言葉が途切れる。
彼女は口を半開きにしたまま顔を紅潮させると、狼狽あらわに身を翻して逃げようとするが、とっさに遥はその手首を掴んで止めた。息が詰まりそうになりながら後ろ姿を見つめ、問いかける。
「七海が好きなのは、誰?」
「誰でもいいだろ……」
「教えて。知りたいんだ」
細い手首を掴む力が無意識に強くなる。
七海は頬を上気させたまま困惑ぎみに眉を寄せた。だが、もう逃げることはできないと悟ったのだろう。バッと勢いよく振り向き、覚悟を決めたようにまっすぐ強気に見据えて答える。
「武蔵だよ!」
「……えっ?」
思わず手が緩んだ。七海はすかさず振りほどいて自分の部屋に駆け込んでいく。何の反応もできず呆然と立ちつくす遥をその場に残して——。
その夜は、ほとんど眠ることができなかった。
夕食のときは互いに何事もなかったかのように振る舞っていたが、少なくとも遥のほうはそういうふりをしていたにすぎない。本当は頭を鈍器で殴られたようなショックから立ち直れていなかった。
僕が好きなのは——。
彼女が口をすべらせたあの瞬間、なぜだかわからないがとっさに自分だと思った。息もできないくらい胸を高鳴らせてしまった。そう、他の誰でもなく自分であってほしかったのだ。
なのに。
まさか武蔵だなんて。彼女がここに来る前に一年半ほど一緒に暮らした男だ。確かによく懐いていたが、亡くなった父親と同じ年頃ということもあり、家族のように甘えているとばかり思っていた。
しかしながら彼はもう遠い故郷に帰ってしまった。二度と会うことは叶わないかもしれない。それを承知でなお想い続けているのだろうか。あきらめきれないほど好きなのだろうか。
ひどく打ちのめされた気分だった。これまで他人にどう思われようが気にしたことはなかった。むしろ恋愛感情は煩わしいものとしか考えていなかった。なのに、彼女にはそれを求めている——。
遥はベッドから体を起こし、大きく溜息をつきながら自らの額を掴んだ。
「あれ、早いね」
翌朝、いつもの時間に地下のジムにやってきた七海は、すでに汗だくでエアロバイクをこいでいた遥を見て、不思議そうに目をぱちくりさせながら駆け寄ってきた。
「体を動かしたい気分だったから」
「嫌なことでもあった?」
「別にそういうわけじゃないよ」
遥はエアロバイクから降りて、タオルで汗を拭きながら訓練場へ向かう。
その隣に七海も並んだ。あんなことがあったばかりなのに自然体の彼女を見ていると、自分のことなどすこしも意識していないのだと実感させられ、胸の内に黒いものが渦巻く。
しかしそんな素振りは見せず、いつものように彼女のトレーニングに付き合った。メニューを一通りこなしたあと、仰向けに寝てストレッチをしながら、ちらりと隣に目を向けて尋ねる。
「いつから好きだったの、武蔵のこと」
七海は驚いたように目を見開いて振り向いたが、反発はせず、どこか曖昧に視線をさまよわせながら静かに答える。
「よくわからない。好きだって気付いたのは離ればなれになってからなんだ。もしかしたら最初に会ったときから好きだったのかなぁ。まだ子供だったからわかってなかっただけで」
「……そう」
いまでも子供だが、二年以上前なら精神的にもっと幼かっただろう。特に彼女は同年代の子とまったく交流がなかったので、そういう方面に疎くても仕方がない。しかし、いまになって気付いたところで——。
「武蔵はもう帰ってこないけど」
「そんなのわかってるよ」
七海は拗ねたように口をとがらせて言い返した。小さく息をつき、まっすぐに白い天井を見つめながら目を細める。
「待たないし期待もしない。そう決めてる」
「不毛だね」
遥は苛立ち、冷ややかに吐き捨てて立ち上がった。
七海もすぐにぴょんと跳ねるように立った。組んだ手を上に向け、その場で大きく伸びをしながら言う。
「しょうがないじゃん……僕だって会えないってわかってる人を好きになんてなりたくなかった。でも自分の気持ちなのに自分で思いどおりにならないんだもん。どうしようもないよ」
言葉が突き刺さる。
まるで自分のことを言われているかのようだった。返す言葉を見つけられず、それでも無表情を崩すことなく立ちつくしていると、七海が興味津々に目をくりっとさせて覗き込んできた。
「ね、遥は好きなひといる?」
「さあね」
一瞬ドキリとしたが、わずかに目をそらしただけで表情には出さず、どうでもいいことのように素気なく受け流した。えー、と七海は眉をひそめながら不満を露わにする。
「自分だけ秘密だなんてずるい、教えてよ」
「いつかね」
これまで生きてきて誰も好きにならなかった。これからも誰も好きにならないと思っていた。橘の後継者として結婚しないわけにはいかないが、見合いをすればいいと考えていた。けれど——。
遥はうっすらと微笑むと、すこしも納得していない七海とともにジムをあとにした。
第8話 僕で試せばいい
「ぜんぶ七海ちゃんのせいなんだから!」
クリスマス間近の雪がちらついていたある日、遥が帰宅して自分の部屋に向かっていると、ふとそんな叫び声が聞こえた。おそらくすぐ先にある七海の部屋からだろう。そして叫んだのは——。
バン、と勢いよく扉が開いてメルローズが飛び出してきた。鳶色の瞳からぽろぽろと涙の粒をこぼしている。遥に気付くとハッと息を飲んでうろたえたが、すぐに身を翻して走り去った。
「あれ、遥……」
開いたままの扉から姿を現した七海が、そこにいた遥を目にしてきまり悪そうにうつむいた。コートを着たまま鞄を持ったままのこの姿を見れば、帰ったばかりということはわかるだろう。
「メルと何かあった?」
「あー……まあ……」
彼女にしてはめずらしく歯切れが悪いうえ、目も泳いでいる。詳しく話を聞こうとしたが、そのときワゴンを押してきた使用人が足を止めた。
「お茶をお持ちしました」
「どうしよう、メルと飲むつもりで頼んだけど……」
「代わりに僕が飲むよ。そのときに話を聞かせて」
そう告げると、彼女は困惑したように顔を曇らせて目を伏せる。それでも逃れられないことはわかっているのだろう。小さく吐息を落とし、渋々といった様子ながらもわかったと答えた。
自分の部屋でコートを脱いですぐに、彼女の部屋へ向かった。
そのときにはすっかりお茶の準備が整えられていた。窓際に置かれた白いティーテーブルに、ティーポット、ティーカップ、クッキーが所狭しと並べられている。窓の外ではちらちらと雪が舞っていた。
「座ってよ」
「ああ」
二人は向かい合って座り、七海がティーポットの紅茶をおぼつかない手つきで注いだ。差し出されたそのティーカップに遥はさっそく口をつける。真冬の外気で冷えた体にじわりと温もりが広がった。
「それで、メルと何があった?」
「うん……」
七海はそっとティーカップを戻して息をついた。わずかに揺らぐ紅茶の水面を見つめながら、すこしだけ考え込むような表情を見せたあと、ぽつりと言葉を継ぐ。
「遥が構ってくれなくなったって」
「えっ?」
「メルが言うんだ……前みたいにおでかけしてくれなくなったし、部屋にもあんまり入れてくれなくなったし、とうとう一緒に寝てくれなくなった。それもこれも僕が橘に来たせいだって」
そういうことか——。
昨晩、これからはひとりで寝るようにとメルローズに告げた。もうすぐ中学生になるので年齢的にそうすべきと考えてのことだ。きちんと説明してわかってもらえたと思っていたのに、と苦い気持ちになる。
ただ、それ以外についてはメルローズの言うことも一理ある。七海の面倒を見るようになり、その分だけメルローズにかける時間が少なくなった。だからといって七海を責めるのはお門違いでしかないが。
責めるのなら遥だろう。しかしメルローズの面倒を見る義務がない以上、七海を優先するのは致し方のないことだ。望みどおりにはできない。寂しくても悲しくてもあきらめてもらうしかない。
本来なら事前にこのあたりを察して、説得なり懐柔なりの対処をしておくべきだったのかもしれない。遥が至らないがゆえに、七海にもメルローズにも嫌な思いをさせる結果となってしまった。
「七海が責任を感じることはないから」
「ん……でもメルの気持ちもわかるんだ。僕のせいで遥をひとりじめできなくなったのは事実だしさ。遥が責任感から僕にかかりきりになってるのはわかってるけど、もうちょっとメルにも構ってあげてよ」
七海は気丈にもそんなことを言い、曖昧に微笑んだ。
こんな顔はさせたくなかった——負い目など感じなくてもいいと言い聞かせてきたし、彼女もそういう素振りは見せなくなっていたが、直接的に責められれば平気ではいられないのだろう。
しかしながら同時にチャンスだとも思う。彼女への想いに気付いた日からひそかに思案をめぐらせ、機会を窺ってきたのだ。まだ十分にあたたかい紅茶を飲んで小さく息をつくと、彼女を見つめる。
「七海、僕は責任感だけで君と過ごしているわけじゃない」
「どういうこと?」
その言葉とともに問いかけるようなまなざしが向けられた。遥は急に緊張が高まるのを感じながら、気持ちを落ち着けるように小さく呼吸をして、ゆるぎのない確かな声音で答えを返す。
「七海のことが好きだから一緒に過ごしたいと思ってるんだ。七海が好きなのは武蔵だってことはわかってるけど、今はそれでも構わない。僕のことが嫌いじゃないなら付き合ってほしい」
「ちょ……ちょっと待って!」
七海は思いきり混乱した顔をしていた。あたふたとしながらも、必死に考えたであろう正論を口にする。
「両思いじゃないのに付き合うなんておかしいじゃん」
「でも武蔵とは会えないんだから両思いになれないよ」
「それは、そうだけど……」
その瞳が不安定に揺らぐのを見て、遥は畳みかける。
「会えない人のことをいつまでも好きでいてもつらいだけ。待たないし期待もしないって言ったのは七海自身だよ。だったら僕で試せばいい。僕と付き合うことで武蔵をあきらめられるかどうかを」
七海はハッと息を飲み、顔をこわばらせて戸惑いがちに目を伏せた。二度と会えない人を好きでいることがいかに不毛か、望みのない恋愛感情を持ち続けることがどれだけつらいか、彼女自身わかっているのだろう。
「遥は……それでいいの?」
「心配しなくても慈善行為ってわけじゃない。七海のことが好きだって言っただろう。武蔵より僕を好きになってもらえるよう頑張ろうとすると、付き合っていたほうが何かとやりやすい。下心はあるってこと」
そう答えてかすかに口もとを上げる。
七海は再び視線を落とした。その表情からだいぶ悩んでいることが窺える。重い沈黙が続き、遥がすこし緊張して唾を飲んだそのとき——彼女は決意を固めたように強いまなざしを返してきた。
「わかった。遥と付き合ってみることにする」
「その決断が正しかったと証明してみせるよ」
「うわ、すごい自信だね」
張りつめていた気持ちが苦笑とともに緩んだようだ。あらためてふうっと息をつくと、ほとんど湯気の立たなくなった紅茶を一口だけ飲み、籠のクッキーに手を伸ばしてもぐもぐと食べ始める。
「でも遥が僕のことが好きだなんて本当かなぁ。思い返してみても全然そんな感じがしないし、いまいち信じられないんだけど。やっぱり同情してるだけなんじゃない?」
「そんなにお人好しじゃないよ」
いままでは態度に出していなかったので仕方がない。しかし——遥は彼女の口もとに手を伸ばしてクッキーの屑を拭うと、そのまま視線を外すことなく、うっすらと思わせぶりな笑みを浮かべて尋ねる。
「どうしたら信じてくれる?」
「……そんなのわかんないよ」
七海は頬を紅潮させ、消え入るような声で答えて口をとがらせる。
その様子を見て、遥はこれまでにないほど気持ちが高揚するのを感じた。きっと何もかもうまくいく。このときはすこしも疑うことなくそう信じきっていた。
第9話 恋人らしいこと
七海が僕のことを好きになりますように——。
遥は五円玉を賽銭箱に入れ、二礼二拍手し、手を合わせたまま祈念する。
その右隣では七海が、左隣ではメルローズが、同じように手を合わせて祈っていた。七海はどういうわけか眉を寄せて必死な顔をしている。よくばってあれもこれもとお願いしているのかもしれない。遥は横目で見ながらひそかにくすりと笑った。
元日の朝、三人は初詣のためにこの神社に来た。
近所のさほど大きくない神社で、普段は参拝客もほとんどなくひっそりとしているが、さすがに正月ということでそこそこの賑わいを見せている。七海たちのような着物の女性もちらほらといた。
遥は神仏を信じていないうえ年中行事にも興味がない。だからといって七海たちにその考えを押しつけるつもりはない。初詣を楽しむ権利はある。二人とも行きたいというので連れていくことにしたのだ。
七海とメルローズにはこの日のために着物一式を用意した。行きつけの美容室で着付けとヘアメイクをしてもらい、いつもよりずっと華やかになった自分の姿に、二人ともおおいに喜んでいた。
ただ、遥が和服でなかったことには口々に文句を言われた。遥の着物姿も見たかった、おそろいがよかった、と七海に言われてはすこし心が揺らぐ。来年は和服を用意してもいいかもしれない。
「遥は何をお願いしたの?」
帰り道、興味津々に目を輝かせたメルローズにそう尋ねられた。
彼女にはまだ七海と付き合い始めたことを知らせていないし、そうでなくてもあんな乙女のような願いなど言えるはずがない。そんなことを思いつつも表情には出さず、淡々と諭す。
「願いごとは人に話すと叶わないんだよ」
「そうなの?」
もちろん言いたくないがための方便である。
無神論者なので神様に叶えてもらおうとは思っていないし、そもそも神様にお願いしたつもりもない。自分自身がいま何を望んでいるかを確認しただけだ。決意を新たにするという意味では悪くない機会だと思っている。
「教えてもらおうと思ったのに、残念」
メルローズは不満を口にしながらもあきらめたようだった。
一方、半歩後ろを歩く七海はあからさまにほっとしていた。彼女も言えないような願いごとをしたのだろうか。気になったがいまさら訊くわけにはいかないし、訊いても答えてくれないだろう。
「今日は疲れたぁ」
気の抜けた声でそう言いながらベッドに倒れ込む七海を見て、遥はくすりと笑った。
初詣のあと、祖父や親戚に挨拶をしたり、遊びにきた妹夫婦と話をしたり、みんなで一緒にごはんを食べたり、結局夜まで着物のまま過ごした。さきほどようやく着替えて遥の部屋へ来たところだ。
「着物はきれいだけど疲れるよ。歩きにくいし」
「だろうね」
普段、活動的に大股で駆け回っている七海からすれば、足が開かないことはかなりのストレスだろう。何度も大きく足を踏み出して転けそうになっていた。
「まあ、すこしずつ慣れていけばいいよ」
「慣れるほど着ないと思うけど」
「お正月以外にも着る機会はあるから」
その気になれば機会などいくらでも作れる。お堅い行事やパーティはもとより、花見、観劇、音楽会、あるいはちょっとしたおでかけに着てもいい。いや、着物だけでなくドレスやワンピースというのもいいだろう。
七海にはいろいろなことを経験させてやりたいし、その様子をそばで見ていたい。それは保護者としての責務であり、恋人としての願いである。今日も二人きりならよかったのだが——。
「ごめんね、今日はメルに構ってばかりで」
「ううん、全然」
七海は寝そべったまま、椅子に座っている遥に目を向けて微笑する。
先日の件はメルローズにきちんと理解してもらった。だが、彼女を寂しくさせるとまた七海に八つ当たりしかねないので、三人で出かけるときくらいはメルローズを優先しようと考えたのだ。
七海はあらかじめ了承したうえ、遥とメルローズの邪魔にならないよう協力もしてくれた。それでも不満そうな素振りのひとつも見せない。いっそこちらが不安になるくらいに。
「そうはいってもやっぱり寂しかったんじゃない?」
「まあ……でも、いま一緒にいるんだしさ」
その反応に安堵して遥がわずかに微笑むと同時に、彼女はハッとして勢いよくベッドから跳ね起きた。不安そうな面持ちで遥を窺いながら尋ねる。
「まさか今日は勉強しろとか言わないよね?」
「さすがに正月までは言わないよ」
遥が苦笑して答えると、彼女はほっとして再びベッドに顔をうずめた。
冬休みに入ってから、年内に宿題を終わらせるようにと勉強ばかりさせていたのだ。互いの部屋を行き来することはあったが、勉強の進捗を確認したり、わからない問題を教えたりするくらいだった。
「何かさ、付き合うっていってもいままでと何にも変わらないよね。遥は彼氏っていうより小うるさいお兄さんか家庭教師って感じだし。ちょっと拍子抜けだなぁ」
七海はごろりと仰向けになりながら言う。
責めているつもりはないのだろうが、拍子抜けとまで言われては不本意である。恋人になっても保護者としての役割は疎かにできないので、ひとまずそちらを優先していただけのこと。ずっとこのままでいたいとは思っていない。
遥は音もなく椅子から立った。ベッドに片膝をついて微かにスプリングをきしませながら、不思議そうに目をぱちくりさせる彼女を真上から覗き込み、うっすらと唇に笑みをのせる。
「じゃあ、恋人らしいことをしようか」
「別に無理しなくていいよ」
彼女はムッとしたように言い返した。
しかし裏腹に頬はじわじわと熱を帯びて赤くなる。瞳もわずかに潤んできた。それでも遥を見つめ返したまま目をそらさない。そんな強気な彼女を愛おしく思いながら、ゆっくりと唇を重ねた。
やわらかい——。
胸がじわりと熱くなり、鼓動が次第に速く強くなっていくのを感じる。これまでの経験では何の感情も持てなかったのに、好きな相手だとここまで違うのか。ひどく高揚しながらも頭のどこかで冷静に考える。
唇をそっと離し、至近距離で七海を見つめる。
「好きだって言っただろう?」
そう告げると、彼女は唇を半開きにしたままこくりと頷いた。遥は誘われるように再び唇を重ねる。今度は触れ合わせるだけでなく、もっと深く——彼女はビクリとしたが、ぎこちないながらも遥の動きに応えてくれた。
やがて切羽詰まった様子で袖を掴まれたので唇を離した。彼女は息を詰めていたらしく大きく胸を上下させて呼吸をする。そのときにはすでに裾から遥の手が入り込んでいた。彼女のなめらかな肌をすべり柔らかなふくらみにたどりつく。
「嫌ならやめるけど」
「……嫌じゃない」
濡れた唇からはっきりと紡がれた答え。
もう止められないし止めるつもりもない。かつてない緊張と興奮で頭の中がまっしろになりながら、それでもできるだけ彼女を怯えさせないようにしなければと、遥は最低限の理性を必死に繋ぎ止めた。
Part.2に続く。
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橘財閥の御曹司である遥は、両親のせいで孤児となった少女を引き取った。
純粋に責任を感じてのことだったが、いつしか彼女に惹かれていき——。