No.919841

機械仕掛けのカンパネラ Part.1

瑞原唯子さん

お父さんを殺した男を殺すんだ、七海のこの手で——。
淡い月明かりに照らされた静謐な夜、父親が惨殺された。
幼い七海は復讐を誓う。
父親の親友で七海の親代わりとなった拓海とともに。

2017-08-25 10:02:05 投稿 / 全9ページ    総閲覧数:735   閲覧ユーザー数:735

プロローグ はじまりの日

 

 それは、今にも雪が降りそうな、冷たく静謐な夜だった。

 

「う……ん……」

 坂崎七海(さかざきななみ)は布団の中で寝返りを打ちながら、ぼんやりと眠りの海から引き戻される。どこからか大きな物音が聞こえた気がした。いつも朝まで熟睡している彼女にとって、就寝中の物音に気付いて目を覚ますなどめずらしいことだ。

 時計を見ると、深夜零時をまわっていた。

 おとうさんがお仕事から帰ってきたのかな——常夜灯のみがともる薄暗い中、眠い目をこすりながらもぞもぞと布団を這い出した。冷えた部屋の寒さにぶるりと身震いしつつ、一緒に寝ていた大きなイルカのぬいぐるみを引きずり、小さな手でリビングへ通じるふすまを開ける。

「……だれ?」

 ぽかんと見上げた七海の口から、白い息が上がる。

 正面に立っていたのはまったく知らない男だった。ガラス越しの月明かりが彼を背後から照らし出す。今までに会った誰よりも高い身長、見たこともない煌びやかな金髪、そして海を思わせる深い青の瞳。まるでテレビの中から抜け出たかのようで、現実味が感じられない。

 足を踏み出すと、何か濡れたものを踏んだように感じて目を落とす。そこには黒っぽいぬめりのある水たまりが広がっていた。引きずっていたイルカのぬいぐるみも下の方が浸かっている。水たまりは正面の男にまで続いており、その足元にもうひとりの男性がうつぶせに倒れているのが見えた。

「おとうさん?」

 よく似ていたのでそう呼びかけたものの反応がない。不安になるが、足を濡らす黒っぽい水たまりが気持ち悪くて、進むことも戻ることもためらってしまう。うろたえたまま立ちつくすことしかできない。

 そのとき、ふいに吐き気を催すような生臭いにおいがして顔をしかめる。何が起こっているのかわからないながらも、何かとんでもないことが起こっていることを感じ取り、縋るように見ず知らずの男を仰いだ。

 何の音もしない静寂。

 淡い月明かりに照らされた色彩のない景色の中で、金色の髪と青色の瞳だけが不自然なほど鮮やかに色づき、神秘的な光を放っている。そして手は黒っぽいものでぬらりと濡れ、その長い指先からはきらりと輝く赤い雫が滴り落ちた。

 

 その美しく残酷な光景は、幼い七海の脳裏に鮮烈に焼き付いた。

 

 

第1話 回り始めた復讐の歯車

 

「こいつだッ!!」

 ガタッ——七海は朝食中、テレビの情報番組に映し出された似顔絵を見て目を見張り、食べかけのトーストを手にしたまま弾かれたように立ち上がった。その拍子にコップを倒してオレンジジュースをこぼしたが、気になどしていられない。

 テレビに駆け寄り、食い入るように見つめる。

 そこには、鉛筆で描かれた若い男性の似顔絵と、ブレザーを着た美少女の顔写真が並んで映っていた。美少女は橘財閥会長の孫娘だという。そして彼女を誘拐したのが似顔絵の男で、橘会長により三億円の懸賞金がかけられたと、男性レポーターが興奮ぎみに説明している。

 七海はその似顔絵と記憶の男を脳内で比較した。似顔絵は鉛筆描きなので色まではわからないが、すっきりとした輪郭、キリッとした目元、甘すぎない二重まぶた、きれいな大きめの瞳、すっと通った鼻筋、まっすぐに結ばれた薄い唇、そして各パーツの配置——そのどれもが記憶の男と一致していた。

「お父さんを殺したのこいつだよ!」

 振り返って、黙々とトーストを咀嚼している拓海に訴える。

 父親を殺した直後の男にばったりと出くわしたのが四年と数か月前。それ以来、お父さんの敵を取るんだ、あの男に復讐するんだと心に決め、そのためだけに生きてきた。一日たりとも忘れたことはない。

「あの男は金髪だとか言ってなかったか?」

「そんなのカツラとかどうにでもなるよ!」

「まあ、それはそうだが……」

 拓海は言葉を濁し、無表情を崩すことなく残り少ないコーヒーを口に運ぶ。

 いままで行方どころか手がかりのひとつも掴めなかったのだから、あっさりこいつだと言われても信じられないのかもしれない。そうでなければこんなに落ち着いてはいられないはずだ。

 

 真壁拓海(まかべたくみ)は、身寄りがなくなった七海の保護者である。

 そもそもは殺された七海の父親・坂崎俊輔(さかざきしゅんすけ)の高校の同級生であり、友人であり、そして仕事の同僚でもあった。七海よりもずっと昔から俊輔と一緒にいたのだ。

 だから、彼が犯人を憎む気持ちはおそらく七海に負けていない。いまは二人の共通の目的となっているが、最初に俊輔の敵を取ろうと言い出したのは彼である。あのときのまなざしはきっと一生忘れないだろう。

 

 テレビでは、橘財閥会長がレポーターからの質問に答えていた。

 誘拐犯から身代金などの要求はまだ来ていないこと、懸賞金は警察ではなく独自の判断だということ、孫娘を無事に保護するのが目的だということ、誘拐犯の顔は実際に身内が見ていることなど、淀みなく話している。

 このひとの家族は見ているんだ。本当にいるんだ。お父さんを殺した男が——具体的な話を聞くにつれて存在が現実味を帯びてくる。七海の鼓動はドクドクと苦しいくらいに早鐘を打ち始めた。

「このおじさんに聞きに行かなきゃ」

「七海、落ち着け」

「落ち着いてなんかいられない!」

 反抗的に言い返すと、拓海の切れ長の目がわずかに細められて鋭さを増した。じっと七海を見つめ、言い含めるようにゆっくりとした静かな口調で切り出す。

「いいか、七海、行方がわからないから三億円の懸賞金をかけてるんだ。そのおじさんに聞いたところで何もわかりはしない。少なくとも今の段階では」

「そっか……」

 言われてみればもっともな話である。興奮していた気持ちが急速にしぼみ、しゅんとうなだれた。食べかけのトーストを皿に置き、台所から布巾を持ってきてこぼしたオレンジジュースを拭き取る。

「その男が見つかったら行動を起こそう。ただし自分ひとりで勝手に行動するな。焦って動いてもろくなことにならない。せっかくの手がかりをふいにするだけだ。いいな?」

「うん」

 あの男が父親を殺した犯人だという七海の言い分を、一応は信じてくれたようだ。そのことにすこしほっとする。もちろん焦る気持ちはあるが、今は待つしかないということくらいもうわかっている。

 七海は冷えたトーストをかじりながら、再びテレビに意識を向ける。

 もう中継は終わり、スタジオでコメンテーターたちが誘拐の目的について議論していた。いまだに要求がないのであれば金銭以外が目的ではないか、橘財閥に何らかの要望を認めさせるつもりかもしれない、あるいは少女自体が目的ということも考えられる、とそんな内容だ。

 似顔絵の男についての手がかりがあればと思ったのだが、残念ながら憶測ばかりで役に立つ情報はない。落胆しているうちに、アナウンサーの仕切りで別の話題に変わってしまった。

 

 拓海がシャワーを浴びているあいだに、七海は食器を洗う。

 それはこの家に引き取られたときに与えられた役割である。といっても嫌々やっているわけではない。すこしでも役に立てるならと喜んで引き受けていた。いまの七海にできる恩返しはこのくらいしかないのだから。

 

「ちゃんと勉強するんだぞ」

「はーい」

 いつものように、玄関で革靴を履いている拓海とそんなやりとりをする。

 彼はこれから出勤だ。亡き父親と同じく警察に勤めているそうだが、警察官でも刑事でもないという。それ以上のことは家族にも言えないらしい。何日も帰ってこなくても怪我をしていても、何も教えてもらえない。

 できることといえば、心配や不安を胸に秘めつつ笑顔で見送ることだけだ。革靴を履き終えた彼に、にっこりとして黒いビジネスバッグを手渡し、ひらひらと小さく手を振りながら言う。

「いってらっしゃい、パパ」

 といっても、もちろん彼は父親ではない。

 家ではたいてい拓海と名前で呼んでいるが、おかしな誤解や詮索をされてはいけないので、外ではパパと呼んで親子を装うよう言いつけられている。玄関口でも誰かに聞かれているかもしれないのでそうしていた。

 拓海は小さく頷き、ビジネスバッグを片手に静かに扉を開けて出ていった。

 

 七海は玄関の鍵を閉めてリビングに戻った。

 勉強しなければならないことはわかっているものの、とてもそんな気になれない。胸がざわついて落ち着かない。隅のキャビネットへ小走りで駆けていくと、その上の大きなイルカのぬいぐるみを手に取り、ぎゅっと抱きしめた。

 それは、幼いころ父親がプレゼントしてくれたものだ。

 当時は寝るときも抱きしめているほど気に入っていた。父親が殺されたあの夜も——血溜まりの中を引きずったせいで、尾びれから横腹にかけて血で汚してしまった。いまも大きな黒いしみがついたままである。

 しかし、その血塗れの汚れがあったからこそ、あの夢を見ていたかのような光景が現実だと確信できた。五感で感じた生々しさを忘れずにいることができた。そのため常に目の届くところに置いてきたのだ。

「お父さん、もうすこし待ってね」

 父親を殺した男に関しては、早く見つかれと祈ることしかできない。

 だから自分はそのあいだに精一杯の準備をしておこう。居場所がわかったらすぐに行動を起こせるように、絶対に失敗しないように、いままで以上に熱心に真剣に取り組もう。そう決意する。

 ぬいぐるみを抱いたまま引き出しから鍵を掴み、キャビネットからオルゴールを取り、洋間から地下へ続く秘密の階段を駆け下りていく。そして手にしていた鍵で突き当たりの扉を開けると、パチンとスイッチを押して蛍光灯をつけた。

 そこにあるのは広々とした射撃場だ。

 マンションの地下にどうしてこんなものがあるのかは知らないが、拓海が専用で使っているようだ。七海もここで彼に射撃を教えてもらっている。一年ほど前からはひとりでの練習も許可されていた。

 

 隅の机にイルカのぬいぐるみとオルゴールを置くと、スニーカーを履いて軽く準備運動を行う。射撃の反動で体を痛めないためにも必要だという。ほんのり体が温まるくらいがちょうどいいらしい。

 準備運動を終えると、射撃に入る。

 たくさんの拳銃の中からいつも使っているものを取る。手の小さい七海にも扱いやすい小型のものだ。安全点検をしてから装弾すると、人間の上半身をかたどった的に銃口を向け、まっすぐ両手を伸ばして引き金に指をかけ、狙いを定める。

 バァン——。

 指を引いた瞬間、反動で手が上にはじかれてのけぞり、尻もちをつく。思わず顔をしかめるが、すぐに立ち上がって食い入るように的を確認した。

「やった!」

 顔のほぼ中央にあたる部分に小さな穴が空いていた。本当は眉間を狙ったのですこし外しているものの、十分に許容範囲と言える。実戦なら、撃たれた相手はきっと即死しているだろう。

 もう一度、しっかりと丁寧に構えて同じ的を撃つ。今度はよろめいただけで尻もちはつかなかったが、銃弾は的中しなかった。ギリギリ頭の端をかすめている。これでは致命傷になり得ない。

 七海はあまり筋力がなく、片手で撃つことも連続して撃つこともできない。それゆえ絶対に狙いを外すわけにはいかないのだ。一撃必中。そうでなければ仕留めることは格段に難しくなる。

 一発ごとに手を休めながら、装弾済みの二十発を撃つ。

 そのうちの十六発が狙いに近いところに当たっていた。以前と比べるとだいぶ当たるようにはなっているものの、実戦には心許なく、決行の日までにもっと命中率を上げなければと思う。

 ただ、数発撃つだけで手が痛くなる有り様なので、猛練習は難しい。拓海にも無理はするなと言われている。手を痛めると完治するまで休まなければならず、かえって腕がなまってしまうのだ。

 もどかしい気持ちはあるが、仕方がない。

 ひとまず拳銃を戻し、小さく息をついて隅の椅子に腰を下ろした。手にはまだすこし痺れたような感覚が残っている。拓海なら二十発連続で撃ってもへっちゃらなのに、とすこし溜息をついた。

 

 無言のまま椅子にもたれて休みつつ、横目を流す。

 そこにあるのはイルカのぬいぐるみと木製のオルゴールだ。ひとりで射撃練習をするときはよくこの二つを持ち込んでいる。イルカのぬいぐるみは父親との記憶に、オルゴールは拓海との約束に繋がっていた。

 そっと指を伸ばして、繊細な模様が彫られたオルゴールの木蓋を開ける。一拍の間のあと、優しくまろやかでなおかつ力強さを感じさせる音色が、興奮を掻き立てる旋律を奏で始めた。

 ラ・カンパネラという曲が流れるこのオルゴールは、拓海のものである。

 お父さんの敵を取ろう——彼が言い聞かせるようにその話をするときはいつも、このオルゴールを流していた。理由はわからないし、尋ねたこともないが、彼にとっては何か特別な意味があるのかもしれない。

 ただ、もう言い聞かせる必要がないと判断したのか、ここ一年はめっきりそういうこともなくなっていた。それでも今のようにひとりで射撃練習をするときは、自主的に聴くことにしているのだ。

 それだけで否応なく記憶が引きずり出される。

 遺体安置所で呆然としていたことも、その手を拓海が握ってくれたことも、敵を取ろうと言ってくれたことも、拳銃の扱いを丁寧に教えてくれたことも、初めて拳銃を撃ったときのことも。

 心臓がぎゅっと締めつけられて鼓動が早鐘を打ち、じわじわと汗がにじんでくる。目をつむり、気持ちを落ち着けるようにゆっくりと呼吸したあと、強いまなざしで真正面を向いた。

 絶対に、あいつを殺すんだ——。

 脳裏に浮かぶのは手を血で染めた金髪碧眼の男。その頭の真ん中に銃弾を撃ち込むことを想像する。脳内ではこれまで数えきれないほど殺してきた。それをこの手で現実にするのだ。

 曲が終わり、余韻を響かせてオルゴールが止まる。

 よし、と気合いを入れて椅子から立ち上がると、再び拳銃を手に取り、すっかり慣れた手つきで弾倉を交換する。そして無機質な人型に敵である男の姿を重ねて、銃口を向けた。

 おまえはお父さんのカタキ——!

 激しい怒りによる気持ちの昂ぶりを感じながら、グッと奥歯を食いしばる。手元がぶれないよう足に力をこめると、照準を定め、標的を見据えたまま引き金を引いた。

 

 

第2話 曖昧な誘拐事件

 

「もう、いつになったら見つかるんだよ」

 あれから三週間、毎日欠かさずテレビや新聞で動向をチェックしていたが、誘拐犯が見つかったという情報はなかった。この誘拐事件を取り上げることはあっても、三億円に踊らされる人々の話など、有益な内容とはいえないものばかりである。

 その日の朝も、トーストをかじりながらテレビの情報番組を見ていた。しかしながら無関係な事件や芸能ニュースばかりで、誘拐事件については何もない。いつものように口をとがらせてぶつくさと独りごちる。

 拓海は最初の日からずっと関心の薄そうな様子を見せていた。七海が進展のなさに不満をもらしても同調することはないし、テレビで誘拐事件を取り上げていてもちらりと横目を向けるくらいだ。いまも七海の文句を聞き流して黙々とトーストを食べている。

『えっ?』

 かすかにマイクが拾った、女性の聞き返すような声がテレビから聞こえた。

 それを皮切りにスタジオがひそかに慌ただしくなった。女性アナウンサーが横から差し出された紙に目を落とすと、これまでの流れを打ち切り、すっと背筋を伸ばして無感情で真面目な面持ちになる。

『橘財閥会長の孫娘が誘拐され、犯人と思われる男に三億円の懸賞金がかけられた件で、これより橘会長の緊急会見が行われますので中継いたします』

 直後、映像が切り替わり橘会長が映し出される。

 七海は大きく目を見開き、一瞬遅れてガタッと椅子を弾き飛ばさんばかりに立ち上がった。ついにあの男が見つかったということだろうか。口を半開きにしたまま瞬きも忘れるほどテレビを凝視する。

 橘会長は報道陣に向かって端然と一礼すると、お忙しい中お集まりいただきましてとお決まりの挨拶を始めた。そう長いものではなかったのだろうが、気持ちの急いている七海にはとてつもなく長く感じられた。握りしめる手のひらに汗がにじむ。

 一通りの挨拶が終わり彼がその場で腰を下ろすと、本題に入る気配を感じて一気に緊張が高まった。無意識のうちに体がこわばり奥歯を噛みしめる。

『私たちは犯人と思われる男に三億円の懸賞金をかけ、皆様に協力を仰いできましたが、只今をもちまして終了とさせていただきます。これまで捜索に力をお貸しくださった皆様には深く感謝し、御礼申し上げます』

 バシャバシャという音とともに無数のフラッシュが焚かれた。テレビ越しでもまぶしさを感じるくらいに。レポーターたちは競うように勢いよく挙手をしていた。

『お孫さんが無事保護されたということですか?』

『そう思っていただいて結構です』

 進行役の男性に当てられた若い女性レポーターが質問し、橘会長がさらりと答える。すぐさま他のレポーターたちが再び我先にと挙手をした。

『あの似顔絵の男は逮捕されたのでしょうか?』

『申し訳ないがノーコメントとさせていただきたい』

『それでは世間が納得しないと思いますが』

『では問題は解決したとだけ申し上げておきます』

『懸賞金を手にした人はいるのでしょうか?』

『残念ながら有益な情報は寄せられておりません』

『では懸賞金は……』

『三億円はしかるべき公益団体に寄付いたします』

 次々と上がる質問に端的な答えが提示されていく。しかし、七海の知りたいことは濁されたままだ。怪訝に眉をひそめて首をひねりながら、向かいでコーヒーを飲んでいる拓海に振り向いた。

「あの男、見つかったってこと?」

「はっきりしないな。誘拐犯を捕まえて孫娘を保護したのであれば、おそらく今ごろは警察に留置されているはずだ。だが誘拐犯が自ら孫娘を解放したのであれば、いまだに行方が掴めていない可能性もある」

 拓海は横目でテレビを見ながら答える。

 それを聞いていた七海の顔は次第に曇っていく。警察に逮捕されていたらどうやって殺せばいいのかわからない。いや、それよりも行方さえ掴めていない方がよほど困った事態といえる。

 だとしてもまったく手がかりがないわけではない。少なくとも孫娘はこの誘拐犯と接触しているのだ。何らかの交渉をしたのであればその家族も。いずれにせよグダグダと考えているだけでは始まらない。

「とにかく話を聞きに行こうよ!」

「そうしたいが住所がわからない」

「え……、そんなぁ」

 予想外の展開に思わず泣きそうな声になる。こんな記者会見を行うくらいだから簡単に行けると、誰でも会えると、何となくではあるがそう思い込んでいた。縋るように拓海を見ると、彼はことりとマグカップを置いて無表情のまま言葉を継ぐ。

「調べてみるから待ってろ」

「うん!」

 ほっと安堵して元気よく頷く。

 失念していたが拓海は警察に勤めているのだ。相手の素性はわかっているのだから、住所を調べる方法などいくらでもあるだろう。きっとすぐに見つけられる。そう考えると一気に気持ちが浮上してそわそわしてきた。

「七海、まずちゃんと食べろ」

「はぁい」

 すぐにでも射撃場に向かいたかったが、我慢して席につき、残りのトーストを大急ぎで口に押し込む。あわてるな、ちゃんと噛め、と叱られつつ食べ終えたものの、結局、拓海を見送るまでは射撃場に行けないことに気が付いた。

 

 いつもどおり、拓海がシャワーを浴びているあいだに食器を洗う。テレビの情報番組はいつのまにか別の話題に変わっていた。しばらくして出勤の準備を整えた拓海が自室から出てくると、七海も彼について小走りで玄関に向かう。

 

「気持ちはわかるが、勉強を疎かにするなよ」

「わかってる」

 革靴を履くために屈んだ背中を見ながら、言葉を交わした。

 あの男の似顔絵を見た日から気持ちは射撃場に向いているが、勉強を忘れたわけではない。気乗りしないながらも毎日欠かさず勉強している。ただ時間と分量はすこし減ったかもしれない。

「いってらっしゃい」

 革靴を履いて振り返った彼にビジネスバッグを手渡すと、ごまかすように笑顔を見せてひらひらと手を振る。彼は何か物言いたげな顔をしていたが、しかし何も言わないまま扉を開けて出ていった。

 

 ひとりになるとすぐにイルカのぬいぐるみとオルゴールを抱えて鍵を取り、一目散に地下の射撃場へと駆け降りていく。そしていつものように隅の机にぬいぐるみとオルゴールを置くと、スニーカーを履いて紐をきつく結び直した。

 まず準備運動がてら三十分ほどランニングをしてから、腕立て伏せ、腹筋、背筋、スクワット、ハンドグリップを行う。本当はすぐにでも射撃の練習をしたいが、拓海に言われて体力と筋力の増強に取り組んでいるのだ。その方が結果的に射撃の命中率も上がるらしい。しかし——。

「あー、もうほんと疲れるっ!」

 彼の作成したトレーニングメニューを終えるころには、いつも汗だくになっていた。手足を投げ出して冷たい床に寝そべり、大きく息を吐く。続けて射撃練習をしなければならないのに動くのさえ億劫である。

 こんなときはやはりあれで気分を高めるしかない。視線をめぐらせてオルゴールの存在を確認すると、気合いを入れて立ち上がり、隅の椅子に腰を下ろして繊細な木彫りの蓋を開ける。

 ゆっくりと流れ出す旋律と音色。

 数えきれないほど聴いてきたが飽きることはない。耳にするだけで様々な記憶と感情が引きずり出される。同時に、興奮が呼び覚まされて体中に力が湧き上がる。父親を殺したあの男の顔を、煌びやかな金髪を、鮮やかな青の瞳を、血に濡れた手を、そこから滴り落ちる雫を、はっきりと思い浮かべて憎悪をみなぎらせる。

 ——七海、お父さんの敵を取ろう。

 ——お父さんを殺した男を殺すんだ。

 ——七海のこの手で殺すんだ。

 頭の中でガンガンと打ちつけるように鳴り響く拓海の声。オルゴールの音色と絡み合い不協和音を奏でる。そう、あの男だけは必ずこの手で殺さなければならない。七海のたったひとりの大切な家族を惨殺したのだから。

 お父さん……。

 ゆるりと横を向き、血で汚れたイルカのぬいぐるみを視界に捉えると、ふいにこみ上げるものを自覚してわずかに目を細めた。手を伸ばし、そのぬいぐるみを腕の中に抱え込んで瞼を閉じる。目の奥でじんわりと熱い涙がにじむのを感じた。

 やがてオルゴールのドラムが止まり、しんと静まりかえる。

 七海はゆっくりと一呼吸し、強気なまなざしを真正面に向けて立ち上がった。イルカのぬいぐるみを机に置いて足を進め、いつもの拳銃を手に取って装弾し、人型の的を睨むように見据えて銃口を向ける。

 立ち止まってる場合じゃない——。

 遠くない未来、いつかこの手であの男を殺しに行く日のために。そしてそのとき後悔しないために。ただ眉間に銃弾を撃ち込むことだけを考えて引き金を引いた。

 

 

第3話 見えない真意

 

「橘の住所、まだなの?」

「そう急かすな」

 二か月が過ぎても、橘の住所はわからないままだった。

 三億円の懸賞金が取り下げられた翌日から、すくなくとも一日一回は尋ねているが、拓海の返事はいつもつれないものだった。焦る様子さえ見られない。ただ淡々と否定の言葉を繰り返すだけである。

 

 誘拐事件に関連した報道は、今ではすっかり下火となっているが、記者会見から数日はかなり盛り上がりを見せていた。誘拐事件の顛末を伏せられて不完全燃焼だったのだろう。様々な憶測をめぐらせて事件を読み解こうとしていたようだ。

 七海の見た番組では、お家騒動というのが最有力として挙げられていた。後継者争いや遺産相続をめぐる問題などで、橘会長と対立する側が実力行使に出たのではないかと。その場合、身内あるいはその知人の犯行という線が濃厚らしい。

 あと、実は駆け落ちだったのではないかという説もあった。橘会長が交際を反対したところ駆け落ちしてしまったので、その二人を探し出すために、もしくは懲らしめるために、誘拐されたと偽って懸賞金をかけたのではないかと。

 どちらにしても、あの似顔絵の男は橘家と何かしら関係があるということだ。素性も掴んでいるに違いない。もう和解しているのであれば居どころも把握しているかもしれない。

 橘会長に訊けば、何らかの情報は得られる。

 その確信があるにもかかわらず、住所がわからないから会いに行けないなど、くやしくてもどかしくて落ち着かない。けれど七海にはどうすることもできない。せいぜい毎日あきらめずに拓海をせっつくくらいだ。

「ねえ、本当に調べてるの?」

「仕事の空き時間にな」

「本当にまだわからないの?」

「ああ」

 拓海は食べかけのトーストに目を落としたまま答えると、マグカップのコーヒーを一口飲んだ。

「七海、いまは仕事が忙しいんだ。もうしばらく待ってくれ」

「うん……」

 仕事が忙しいというのは嘘ではないように思う。このところ帰宅はいつも七海が寝たあとだし、今日も土曜なのに仕事に行くという。けれど、何か逃げているように感じるのは気のせいだろうか。

 彼が冷静なのはいつものことだが、お父さんの敵を取ろうと七海に言い聞かせていたときの、あの力強いまなざしがまったく見られなくなった。それどころか、この話をしているときは目を合わせてもくれないのだ。

 結局、今朝も顔を上げることなく席を立ち、シャワーを浴びに行ってしまった。七海は釈然としない気持ちのまま、その背中を横目で追いながら、食器を集めて流しに運んでいった。

 

 泡立てたスポンジで皿を洗いながら、もやもやと考える。

 橘の住所を調べるのに行き詰まっているだけなら仕方ないが、そもそも調べていないのだとしたら。調べたくないのだとしたら。彼の様子からするとありえなくはないと思うが、理由がわからない。

 復讐をあきらめた——?

 ふいに浮かんだ答えを認めたくなくて、顔を曇らせる。

 そういえば、父親を殺されたあの日からずっと敵を取ろうと言い続けてきた彼が、一年ほど前から口にしなくなっていた。七海に自覚が芽生えて必要なくなったと解釈していたが、もし気が変わっていたのだとしたら。

 ずっと共通の目的で結ばれた仲間だと思っていたのに、どうして。裏切られたように感じてギリと奥歯を食いしばる。そうと決まったわけではないが、その可能性があるのなら、ただじっと待っているわけにはいかない。

 

 食器を洗い終えて、水を止める。

 濡れた手をタオルで拭いながら、自分ひとりで何ができるだろうと思案をめぐらせる。住所を調べようにもどうすればいいのか見当もつかない。やはりどうにかして拓海に協力してもらうしかないように思う。でも、普通に頼んでも今までのようにごまかされるのがオチだ。

 何か弱みを握れば言うことを聞いてもらえるかも——ふと思いついたその考えに鼓動が速くなり、胸が苦しくなる。こんな脅迫みたいな真似をして後悔しないだろうか。けれど、そんなことを言っていたらいつまでたっても敵が討てない。

 拓海がシャワーから出てくるまでに、まだ時間はある。

 表情を引きしめ、くるりと身を翻してざっとあたりを見まわす。拓海の部屋はいつも鍵がかかっているので入れない。探れるとすれば、リビングに掛けてあるスーツの上着くらいだ。確かあの内ポケットには黒い手帳が入っているはず。ときどき家でも広げながら電話をするのを見かけていた。

 はたして、内ポケットには手帳があった。

 何か弱みになるようなことが書かれていないか、手早くめくりつつチェックする。しかし目につくのは断片や暗号のようなものばかりで、内容はほとんど理解できなかった。考えてみれば、知られてはまずいことをそれとわかる形で書くはずがない。溜息を落とし、もうあきらめようと思いながらも手が止まらず一枚めくると。

「え、これ……!?」

 そこには「タチバナ」という文字と住所らしきものが斜めに走り書きされていた。大きく息を飲んだが、考えている時間はない。すぐに電話の横に置いてあるメモ帳を一枚引きちぎって書き写すと、上着の内ポケットに手帳を戻した。

 

「いってらっしゃい、パパ」

 いつもどおり玄関でひらひらと手を振りながら見送る。拓海も不審に思いはしないだろう。案の定、手帳を盗み見たことに気付きもせず、扉を開けて出ていった。

 

 七海は玄関に立ったまま、ジャージのポケットに手を差し入れ、書き写した紙切れをそっと取り出した。住所は東京23区内。あの橘だと断言することはできないものの、それ以外に考えられない。

 どうして教えてくれなかったの?

 復讐をあきらめたわけではなかったのだろうか。でもわざと教えなかったのなら、七海に行かせるつもりはないということだ。拓海が何を考えているのかわからない。だからこそ、迂闊に問いただすわけにもいかない。

 僕ひとりでここへ行ってこよう——。

 七海に外出が許されている時間は、土日祝の日中と、平日の午後三時から日沈までだ。今日は土曜なので午前中から外出しても問題ない。日が沈むまでに帰れば知られることもないだろう。

 さっそく白いTシャツとデニムのショートパンツに着替え、ショルダーホルスターを装着し、手入れして装弾した愛用の拳銃をそこにおさめる。さらにその上からブルゾンを重ねてキャップを目深にかぶると、唇を引きむすんだ。

「お父さん、行ってくるね」

 血で汚れたイルカのぬいぐるみをギュッと抱きしめて、元に戻す。

 絶対にあの男の居どころを聞き出してくるんだ。そしてこの手で殺すんだ——強い決意を胸に、まぶしい日射しが降りそそぐ外へと飛び出していった。

 

 

第4話 立ちはだかる悪魔

 

「おじさん、この住所に行って」

 七海はタクシーに乗り込むなり、住所の書かれたメモを運転手に差し出してそう告げた。中年の運転手はメモに目を落としたあと、どこか心配そうな面持ちでちらりと振り向く。

「ボク、ひとりかい?」

「お金なら持ってるよ」

 七海がそう答えると、運転手はバツが悪そうに苦笑して車を走らせ始めた。

 

 めったに見られない車窓からの景色が面白くて、窓にかぶりついてひたすら眺めているうちに、目的の場所についた。思ったよりも時間が掛からなかった気がする。七海の住んでいるところとは別の区だったが、そう遠くなかったのかもしれない。

「ありがと、おじさん」

 運転手に告げられた料金を支払い、タクシーを降りる。

 正面には七海の背丈よりはるかに高い門が立ちはだかっていた。門柱には橘と表札が掛かっているので間違いない。門の向こうには手入れされた立派な木々と白亜の洋館が見える。まるでイギリスやフランスの貴族が住んでそうな屋敷だ。

 表札の下にインターホンらしきものがあったのでボタンを押してみた。だが、屋敷が遠くてチャイムが鳴っているのかよくわからない。聞こえてるのかなぁ、と思いながら連打していると、ほどなくして男性の声で応答があった。

『はい』

「橘会長っていうテレビに出てたおじさんいる?」

『失礼ですが、お約束はございますでしょうか』

「約束? そんなのしてないけど」

『会長はお約束がなければお会いになりません』

「じゃあ、誘拐された澪っていうお嬢様でいいよ」

『申し訳ありませんがお引き取りください』

「あ、ちょっと!」

 プツッと応答が切れた。

 それから何十回とインターホンを連打したが反応はない。

「もうっ!」

 インターホンの応答内容から橘会長の家であることは間違いないようだ。拓海の手帳を盗み見までしてようやくここまでたどり着いたというのに、門前払いでノコノコ帰るわけにはいかない。

 こうなれば、もう強行突破しかないだろう。

 自分の身長より高い鉄製の門を掴んでよじ登り始める。何度か失敗したあと、身軽さを活かしてどうにか上までたどり着いた。安堵の息をつき、向こう側に飛び降りようとしたそのとき。

「ひゃっ!」

 柵の細いところに掛けていた足を滑らせ、意図せず向こう側に落ちた。かぶっていたキャップもはずみで地面に落ちる。

「いったぁ……」

 とっさに庇ったおかげで頭は打たなかったが、背中を打ちつけてしまった。顔をしかめながら手で押さえて呻いていると——あっというまにスーツを着た大人の男たちに取り囲まれた。

 

「これほどけよ! ほどけったら!!」

 七海は後ろで手首を縛られ、足首も縛られ、屋敷の一室に芋虫のように転がされた。幸い絨毯が敷かれているのでさほど痛くないが、そういう問題ではない。じたばたしながらありったけの声を張り上げて喚き立てる。

 しかし、七海を縛り上げた初老の執事は何の反応も示さない。代わりに隅で腕組みしながら眺めていた若い男が近づいてきた。その顔立ちは例の誘拐されたお嬢様と驚くほどよく似ている。年頃も同じくらいに見えるのできょうだいかもしれない。

 彼は七海の前でしゃがみ、寸分の隙もない探るようなまなざしでじっと見下ろす。下手なことを言えば取り返しのつかないことになる。七海はぞくりと背筋が冷たくなるのを感じながら直感的にそう思った。

「君の名前は?」

「…………」

「学校はどこ?」

「…………」

「親の連絡先」

「…………」

 どれも答えてはいけない質問だ。父親の敵と繋がりがあるかもしれない相手に、素性を知られるわけにはいかない。わずかに目をそらして唇を引き結び、無言を決め込んでいると、彼はわざとらしく大仰に溜息をついた。

「自分の名前も連絡先も言おうとしない、そのうえこんなものまで持ってるんじゃあ、いくら子供でも見過ごすわけにはいかないよねぇ」

 そう言いながらポケットから拳銃を取り出す。それは警備員に取り押さえられたときに奪われた七海のものだ。奪い返したいが、手足をきつく縛られたこの状況ではどうすることもできない。くやしくてありったけの怒りをこめて睨みつける。

「返せよ、泥棒!」

 そう噛みつくが、何がおかしいのか彼はクスッと笑った。

「確かに、僕は泥棒だけどね」

「開き直ってないで返せよ」

「銃刀法違反って知ってる?」

「…………」

 七海は眉を寄せた。許可なく銃を持つことは法律に違反するから、誰にも見つからないようにしろと、幼いころから拓海に言い聞かされてきた。だからブルゾンの下のホルスターにおさめて見えないようにしていたのに——。

 痺れを切らしたのか、彼は脇に控えている執事に振り向いて声を掛ける。

「ねえ、櫻井さん。警察の電話番号ってわかる?」

「今回は緊急事態ですし、110番でよろしいかと」

「ああ、なるほどね」

 いつのまに用意したのか執事がすっと電話の子機を差し出すと、彼は当然のように受け取り、すこしもためらうことなく片手でボタンを押し始める。

「待って!!」

 彼の手が止まった。七海は全身から汗が噴き出すのを感じながら、これ以上ないほど必死に頭をめぐらせて言い訳を探す。

「あ……えっと……それ、おもちゃだよ?」

「へえ、そうなんだ」

 彼はまじまじと拳銃を眺める。反対の手に持っていた電話の子機は執事に返していたので、もう警察に連絡する気はないのだろう。どうにかごまかせたとひそかに安堵したが——。

「最近のおもちゃってすごいね。安全装置までついてるんだ」

 そんなことを言いながら彼は安全装置を外している。パッと見てわかるものでもないのにどうして。唖然としていると、七海の眉間に冷たい銃口がグリッと突きつけられた。その感触に一瞬で背筋が凍りつく。

「引き金を引くとどうなるんだろう。火薬の空砲? それともBB弾?」

 彼の人差し指に力がこもる。

 七海はヒッと息を飲んだ。

「やめてそれ本物っ!!!」

 絹を裂くような叫び声を上げて顔をそむけ、ギュッと目をつぶり、歯を食いしばり、全身に力を入れてこわばらせる。が、いつまでたっても何も起こらない。おそるおそる瞼を震わせながら薄目を開けていく。

 彼はもう七海に銃口を向けていなかった。しかし拳銃はしっかりと握ったままだ。それを七海の目の前でちらつかせて尋ねる。

「これ、どこで手に入れたの?」

「……さっき道ばたで拾った」

 さすがに無理のある答えだと自分でも思った。きっちりホルスターまで装着しているのに、拾ったなどと言っても誰も信じはしないだろう。また拳銃を突きつけられるのではとビクビクしながら、彼の反応を窺う。

「僕、スパイ映画とか結構好きなんだよね」

「…………?」

「一度やってみたかったんだ、手荒な尋問」

 彼はそう言うと、わけがわからず眉をひそめている七海を見ながら、形のいい唇にうっすらと不敵な笑みを浮かべた。

 

「やっ……も、やめ、て……あ……ひっ、っ、っ、うはははははははっ!」

 七海は息もたえだえに絨毯敷きの床をのたうちまわっていた。彼は膝立ちで跨がり、脇腹や腰など容赦なく次から次へとくすぐってくる。手足が縛られているので逃げることも防ぐこともできない。

「正直に答えないかぎり、やめないよ」

「答える! ちゃんと答えるから!!」

 自分がくすぐりに弱いなんて今の今まで知らなかった。それなりに我慢強い方だと自負していたが、これ以上は耐えられない。冗談抜きで気が狂う。下手をすれば死んでしまうかもしれない。

 やっとくすぐる手が止まった。

 七海は脱力してくたりとなったまま呼吸を整える。だが、いつまでたっても彼が七海の上からどく気配はない。そろりと目を向けると、彼は跨がったまま手をついてこちらに身を乗り出し、組み敷くような体勢でじっと覗き込んできた。目に掛かっていた七海の前髪をそっと指先で流しながら、唇に微笑をのせて言う。

「正直に答えるなら、警察には特別に黙っててあげる」

 七海は息を詰めて真上の彼を見つめたまま、こくりと頷く。

「まず名前を教えて」

「七海」

「フルネームだよ」

「……坂崎七海」

 もはや七海には素直に答える以外の選択肢はない。くすぐられるわけにも警察沙汰になるわけにもいかないのだ。声にはありありと不満がにじんでしまったが、彼が気にする様子はない。

「あの拳銃はどこで手に入れたわけ?」

「うちの射撃場から持ってきた」

「家が射撃場を経営してるってこと?」

「そうじゃなくて専用の射撃場」

 その答えを聞くなり彼は怪訝に眉をひそめた。すこしのあいだ無言で何か考え込んでいたが、やがて気を取り直したように質問を続ける。

「ここへ来た目的は?」

「三億円の懸賞金をかけてた誘拐犯、あいつの居どころを教えてもらおうと思ったんだ。ここしか手がかりがなかったし……ねえ、あんたでも誰でもいいから知ってるなら教えてよ」

 散々な目に遭ったのだから、せめて当初の目的を果たさないと割に合わない。こうなったらなりふり構わず食らいつこうと決める。

 彼はほとんど表情を動かさないまま、眼光を鋭くした。

「その人とどういう関係?」

「あいつが僕のお父さ……」

 そこまで言いかけてハッと口をつぐんだ。父親の敵だから殺したい——こんなことを言ったら、知っていても教えてもらえない可能性が高い。どうしようかと冷や汗をにじませながら思案し、そして。

「僕のお父さんかもしれないんだ!」

 どうにか取り繕ったが、全然似ていないのに無理があったかもしれない。彼もさすがに驚いたらしく目を大きくしていた。

「本当に?」

「うん」

 心を見透かすようなまなざしにドキドキしながら嘘をつく。

 彼は上半身を起こして立ち上がると、ジーンズのポケットから折りたたみ式の携帯電話を取り出し、親指で素早くいくつかのボタンを押してから耳に当てた。

「武蔵? ……うん、元気だよ」

 ほどなくして電話の向こうの誰かと話し始めた。

「何かさ、自分の父親は武蔵だって言ってる子供が来てるんだけど……わざわざ電話してまでそんなつまらないウソ言わないよ……それは前も聞いたし疑ってるわけじゃない……十歳くらいかな……うん、それは僕だってわかってる。でも100%ないとは言い切れないよね……じゃなくて」

 どうやら武蔵という電話の相手が誘拐犯らしい。

 やっとここまできた——七海はどくどくと鼓動が高鳴るのを感じた。痛いくらい胸が締めつけられて体中が熱くなる。けれど今はまだ悟られるわけにはいかない。必死に感情を抑制して何でもないふりをする。

 しかし聞かれたくないことがあるからか、彼は電話で話を続けながら部屋をあとにした。七海は床に転がされたまま置き去りにされたが、ひとりではなく櫻井という執事も残っている。下手なことをしないよう見張っているのだろう。

 しばらくして彼が戻ってきた。すでに通話を終えているらしく携帯電話は手にしていない。執事と小声ですこし話をしたあと、絨毯敷きの床に横たわる七海の前に再びしゃがんだ。

「いいよ、連れて行ってあげる」

「えっ……誘拐犯のところへ?」

「行きたくない?」

 困惑する七海に、彼は意味ありげな笑みを浮かべて挑発する。

 本当に連れて行ってくれるのであれば、願ったり叶ったりだ。ようやく父親の敵を取ることができるのだ。けれど——七海はどことなく不穏なものを感じて身構える。頭の中に警鐘が鳴り響くが、それでもせっかくの好機をふいにすることはできない。

「連れてって」

 覚悟を決めると、彼をまっすぐ睨むように見据えてそう答えた。

 

 

第5話 四年半ぶりの殺人犯

 

「ふざけんな!」

 七海は新鮮な空気を吸い込むと、トランクを開けて真上から覗き込んできた男に思いきり食ってかかった。顔に陰が落ちているので表情まではよくわからないが、うっすらと不敵な笑みを浮かべているように見える。その背後にはどんよりとした鈍色の空が広がっていた。

 おそらく目的地の近くに着いたのだろう。

 誘拐犯のところに連れて行ってくれるというので頼んだら、手足を縛られたまま車のトランクに放り込まれ、ひたすら二時間ほど走ってここまで連れてこられたのだ。手厚くもてなされることを期待していたわけではないが、まさかこんな非人間的な仕打ちを受けるとは思わなかった。

 トランク内には一応やわらかい毛布が敷かれていたが、それでも何度も体をぶつけるとけっこう痛い。特に最後の方は傾斜はあるしガタガタだし散々だった。手足を縛られているため身を庇うこともできず、為すがまま打ちつけられるしかないのだ。

「こんなところに放り込むなんて荷物扱いかよ!」

「君は拳銃所持で不法侵入した不審者だよ。自覚ある?」

 そう言うと、彼は七海を米俵のように肩に担ぎ上げた。彼の背中側に七海の頭が逆さ吊りになる。

「ちょ……落ちるっ! 落ちるから!!」

「そう思うなら暴れないで」

 怯える七海に冷たく言い放ち、そのまま歩き始める。

 最初は無理だと思ったが、しっかり腰と脚を抱えてくれているので意外と安定している。おとなしくさえしていれば落とされることはなさそうだ。この運ばれ方については甚だ不本意だがあきらめるしかない。

 あまり顔を動かさないよう横目でちらちらとあたりを窺う。鬱蒼と茂る木々や草花、舗装されていない細道くらいしか目に入らない。その細道を、彼は躊躇のない足取りでずんずんと進んでいく。後ろからは執事の櫻井が無表情でついてきていた。

 

 しばらく木々のあいだの細道をたどっていくと、山小屋が現れた。

 彼は七海を担いだまま鍵を開けて勝手に入っていく。そして突き当たりの扉を開けて中に進むと、七海を板張りの床に下ろした。転がされたのではなく座らされただけ、今までよりも丁寧な扱いといえるだろう。

 七海はぐるりと見まわす。

 すっきりとしたシンプルな部屋。ダイニングテーブルと椅子、ソファくらいしか目立つ物はない。テレビすら見当たらない。ただ隅の台所だけは充実しているようだ。七海のいるところからすべてが見えるわけではないが、それでも食器や食材、こまごまとした道具などが小綺麗に置かれているのがわかる。

 窓の方に目を向けるとベランダに人影が見えて息を飲んだ。後ろを向いているので顔まではわからないが、すらりとした背格好は父親を殺した男にとてもよく似ている。頭は金髪ではなく黒髪だが染めているのかもしれない。

 きっと、あいつだ——。

 ドクドクと痛いくらいに鼓動が速くなる。まともに息もできない。

 こちらに気付いたのかベランダの男が振り向いた。その顔を見て七海はごくりと唾を飲んだ。間違いなくあのとき脳裏に焼き付いた顔だ。すっきりとした輪郭、精悍な目元、まっすぐ通った鼻筋、薄い唇、そして鮮やかな青の瞳。すべてが一致する。

「わざわざ来てもらって悪いな、遥」

「この子だよ。武蔵のことお父さんって」

 ベランダの男はガラス戸を開けて部屋の中に入り、七海をここに連れてきた若い男と言葉を交わすと、七海の前で片膝をついた。宝石のような青の双眸が真正面から七海を捉える。

 瞬間、吐き気のするような血の匂い、なまぬるいべとりとした感触、底冷えするような鮮烈な青の瞳、どす黒い血に濡れた大きな両手——五感を伴う記憶が脳裏を駆けめぐった。体の芯が冷たくなりゾクリと身震いする。

「おまえ、俺が父親だっていう根拠は何かあるのか?」

「お……おまえなんか父親じゃない! 父親なもんか!」

「は??」

「おまえはお父さんのカタキだ!!」

 ぶわっと涙をあふれさせながら身を乗り出して突っかかるが、手足を縛られていたためバランスを崩してしまい、みっともなく倒れかかったところを彼に受け止められる。カッとして思いきりその手首に噛みついたものの、致命傷どころか血のにじむ程度の傷にしかならなかった。

「拳銃返して! こいつ殺さなきゃ!!」

「違法なものを返せるわけないでしょ」

 七海をここに連れてきた若い男——遥に振り向いて訴えたが、彼は冷ややかにそう答えるだけだった。その後ろに控えている執事も無反応である。

「じゃあ台所からナイフ持ってきて!」

「残念だけど殺人も違法だからね」

「こいつが先にお父さんを殺したんだ!」

「江戸時代なら仇討ちできたけどさ」

 激昂する七海とは対照的に、遥は何を聞いても動じることなく淡々と言い返す。

 くやしい、くやしい、くやしい!!!

 長年、殺してやろうと思っていた男が目の前にいるのに何もできない。顔をぐちゃぐちゃにしてただ見苦しく泣いているだけだ。あまつさえその男に抱き留めてもらっているなど、屈辱で頭が沸騰しそうになる。

 ごめん、拓海——。

 こんなはずではなかった。いったいどこでどう間違ってしまったのだろう。勝手な行動はするなと散々注意されていたはずなのに、言うことをきかずに突っ走ってこんな結果になるなんて、あまりに申し訳なくて彼に顔向けできない。

「なあ、遥……この子の名前、なんて言ったっけ?」

「坂崎七海。自称だから本名かどうかはわからない」

「坂崎……」

 二人が自分について話すのを、七海はぼろぼろと涙を流してしゃくり上げながら聞いていた。正直に本名を答えたのに信じられていなかったようだが、口を挟む気にはなれない。泣き疲れたせいか心も体もぐったりと憔悴していた。

 ふいに、七海を抱く手に力がこもる。

 怪訝に思って彼を見上げるとひどく険しい顔をしていた。ゾッとするくらいに。忘れていたわけではないが、この男は殺人犯なのだとあらためて認識させられて、いまさらながらすこし怖くなる。

「遥、来たばかりなのに悪いが櫻井さんと帰ってくれ」

「どういうこと?」

「この子と二人で話をしたい。事情はあとで話す」

「……わかった」

 この殺人犯と、二人きり——?

 七海は青ざめる。そういえば、父の敵として命を狙っていることを本人の前でぶちまけてしまった。冷静に考えればあまりにも軽率だ。このまま何事もなく解放してくれるとはとても思えない。

 救いを求めるように遥を見上げたが、彼は本当に七海を置いて帰ろうとしていた。当然ながら執事も一緒である。二人とも七海に声をかけようともしない。

「じゃあ、何かあったら必ず連絡して」

「ああ」

 遥は軽く右手を上げ、執事の櫻井を従えて部屋から出て行く。

「ちょっと待って、置いてかないで!!!」

 七海は懸命に叫びながら、体をむちゃくちゃに捩って武蔵の手を振りきり、板張りの床を芋虫のように這いつくばっていく。しかし遥たちが戻ってくることはなかった。無情にも玄関の閉まる音が遠くに聞こえ、絶望して動きを止める。

「そんな……」

 眉根を寄せておそるおそる背後の武蔵に振り向く。彼は噛まれて血のにじんだ手首をじっと無言で見つめていたが、ふいに七海を一瞥すると、ジーンズのポケットから細長いものを取り出してシャキッと開いた。

 ナイフだ——!

 露わになった銀色の刃が鈍い光を放った。彼はそれをちらつかせながら七海の方へと足を進めてくる。あのときの父親と同じように、七海もナイフで刺し殺すつもりなのかもしれない。

 逃げたいのに凍りついたように体が動かなかった。それでも必死にふるふると首を振って拒絶の意を示すが、彼の動きが止まることはない。ナイフを構えて、七海に跨がり覆いかぶさるように身を屈めてくる。

「うわあああああああ!!!」

 七海の絶叫が、他に誰もいない二人きりの山小屋に響き渡った。

 

 

第6話 憎むべき父の敵なのに

 

「遥が手荒なことをして悪かった」

 武蔵と呼ばれていた男は、七海を縛っていた両手両足の縄をナイフで切ると、神妙な面持ちでそんなことを口にした。その声からも、表情からも、申し訳ないという感じがにじみ出ている。

 てっきりナイフで刺し殺されるとばかり思っていた七海は、唖然として彼を見上げる。手首には噛みついたあとがくっきりとついていた。お父さんの敵だ、殺さなきゃ、などと喚いて噛みついた相手を解放するなんて、いったい何を考えているのだろうか。

 しかし、自由になったからといって目の前の男を殺せるとは思えない。唯一の武器である拳銃はあの若い男に取り上げられてしまった。体格差を考えると、捨て身でかかっていったところでどうにもならないだろう。

 それがわかっているから警戒もしないで拘束を解いたのかもしれない。だからといってこのまますんなり帰してくれるとも思えない。ふたりきりにしてくれと頼んでいたのだから何か思惑があるはずだ。

 眉間にしわを寄せてつらつらとそんなことを考えていると、彼がふいに目の前にしゃがんできてビクリとした。思わず顔をこわばらせながら、床についた手をひそかに握り、身構える。

「どこか痛いところはないか?」

「別に、ない……」

 たとえひどい怪我をしていてもこの男に告げるつもりはない。しかしながら幸いにも実際に怪我といえるほどのものはなかった。縛られていたところがヒリヒリするし、車のトランクでぶつけたところがすこし痛いが、その程度である。

 彼は深い海をたたえたような瞳でじっと七海を見つめた。

「坂崎七海……」

 確認するようにフルネームを呼ばれてついと眉を寄せる。父親の敵である男に名前を呼ばれるなんて不快でしかない。しかし、彼は反抗的なまなざしを気にする様子もなく言葉を継ぐ。

「おまえの父親は坂崎俊輔だな?」

「えっ……知ってるのか?」

「ああ、俊輔には良くしてもらった」

「だったらなんで殺したんだ!!」

 カッと頭に血がのぼり、こぶしを握りしめながら声を荒げる。

 彼は動じることなく真顔のままうっすらと目を細めた。

「七海は俺が殺したと思ってるんだな」

「あのときおまえを見たんだぞ!!!」

「七海、おまえのその目で何を見た?」

 問われなくても、その光景は毎日のように思い返している。

 大きな血溜まりの中に倒れていた動かない父親。その傍で月明かりに照らされて立つ金髪碧眼の男。髪の色こそ違うものの、顔の造作も、背格好も、瞳の色も、目の前にいる男と同じである。彼の手はべったりと赤黒い血で染まっていた。

 記憶をたどるにつれて激しい憎悪が湧き上がる。目の前に父親を殺した張本人がいるのでなおのこと。言い逃れるつもりかもしれないが取り合う気はない。誰が何と言おうと七海ははっきりと目撃したのだから。しかし——。

「刺したところを見たわけじゃない、違うか?」

「…………」

 言われてみれば確かにその瞬間は見ていなかった。だからといって彼が犯人でないとはとても思えない。決定的な場面を見られていないから言い逃れられる——そんな舐めたことを考えているなら大間違いだ。

「だから殺してないって言いたいのか?」

「さあ、どうだろうな」

 てっきり肯定するものとばかり思っていたのに、彼は目を伏せてふっと曖昧な笑みを浮かべた。どういうつもりか知らないが随分と思わせぶりだ。何となく馬鹿にされているように感じて苛立ちがつのる。

「ごまかそうたって無駄だ!」

 ぐうぅぅぅ——。

 大声を張り上げると同時に、おなかも盛大に鳴った。

「あ……」

 あまりに間の抜けた醜態にぶわっと顔が熱くなる。きっとゆでだこのように真っ赤になっているだろう。おろおろとうろたえながら目を泳がせていると、武蔵はくすっと小さく吹き出した。

「もうお昼だいぶ過ぎてるもんな。何か作ってやるよ」

「……敵からの施しなんて受けない」

「堅いこと言うな。腹が減っては戦ができぬ、だろ?」

 それまでとは別人のような人なつこい笑顔でそう言うと、仏頂面の七海を宥めるようにぽんぽんと頭に手をのせ、すっと台所の方へ向かっていった。

 

 トトトトトン、グツグツ、ジュウジュウ——。

 七海はぺたりと床に座ったまま、台所に立っている武蔵の後ろ姿を眺めていた。彼が軽快に動きまわるにつれていろんな音がする。そして次第に食欲をそそるいいにおいがしてきた。堪え性のない七海の腹は、さきほどからずっとぐうぐう鳴りっぱなしだ。

「七海、できたぞ」

 ダイニングテーブルに二人分の食事を準備して、武蔵が声をかける。

 こいつはお父さんの敵なんだ——七海はおいしそうな食事を目の当たりにしてぐらりと決意が揺れるが、それでも行くまいと唇を引き結んで耐える。しかし。

「な、作っちまったんだから食べてくれよ。もったいないだろう?」

「…………」

 目の前にしゃがんで笑顔でそう言われると無視できず、促されるまま腰を上げてしまった。彼からの施しを受けるわけじゃない、もったいないから食べてあげるだけ、と自分に言い訳をしながら、ダイニングテーブルの用意された席に着く。

 そこには湯気の上がるミートソーススパゲティ、ポタージュ、彩りのいい生野菜のサラダが並んでいた。まるでレストランで出されるようなきれいな盛りつけだ。その見た目も、漂うにおいも、すごくおいしそうでごくりと生唾を飲む。

「毒なんか入れてないから心配するな」

 武蔵は何気ない調子でそう言い、先に食べ始める。

 毒を入れる可能性なんて考えもしなかった。そう言われると逆に気になってしまうが、七海の正体を知ったばかりで準備の時間はなかったはずだ。フォークを取り、不器用な手つきでおそるおそるスパゲティを口に運ぶ。

「……おいしい!」

 途端、目を丸くして感嘆の声を上げた。

 大好物であるコンビニのスパゲティにも引けを取らない。いや、比べものにならないくらいおいしい。ミートソースが濃厚で深みがあり、麺も硬すぎず柔らかすぎず食べごたえがある。何より出来たてほやほやで熱いくらいなのがいい。

「こんなおいしいの初めて食べた!!」

「そりゃ良かった」

 武蔵はくすりと笑った。

 七海は脇目もふらず一気に平らげると、すっかり満足して自然に顔をほころばせた。氷の融けきっていないグラスの水を飲んで一息つき、正面の武蔵に目を向ける。ちょうど彼も食べ終わったところのようだった。

「ねえ、僕をここに連れてきた遥って人、武蔵とどういう関係?」

「親戚だ」

 何となく気になっていたことを尋ねてみると、彼はさらりと答えてくれた。

 誘拐犯と被害者の家族という間柄にしてはやけに親しそうに見えたが、そういうことかと納得した。いつかテレビで言っていたとおりお家騒動だったのかもしれない。懸賞金を取り下げたときにはもう和解していたのだろう。

 そうであれば、橘の協力は期待できない。

 ひとりで来ようにもここがどこかさえわからない。それならいまこの機会に目的を果たすのが得策だろう。おいしい昼ごはんを食べさせてもらったばかりで気が引けるが、敵は敵だ。武蔵を殺さないことには復讐が終わらないのだから。

 どうしようかと思案をめぐらせているうちに、武蔵が後片付けを始めた。てきぱきと食器を集めて流しで洗う。七海はその隙だらけの後ろ姿を眺めながら、今なら何かで殺せるのではないかと思ったが、ちょうどいい武器が見つけられなかった。

 

「今日はもう帰れ。送っていくから」

 後片付けを終えて戻ってきた武蔵は、どこにあったのか七海のキャップを手渡しながら言う。だが、七海としてはそんな一方的な指図を承服できるはずがない。

「嫌だ、武蔵を殺さなきゃ帰らない」

「拳銃がないのにどうやって殺すんだ?」

「それは……あ、じゃあ包丁貸してよ」

「自分を殺すための道具を誰が貸すかよ」

「…………」

 当然だ。自分で探そうにも簡単に探させてくれるとは思えない。冷静に考えるとやはり不可能ではないかという気がしてきた。だからといって、このまま何もせず引き下がるなんて絶対にしたくない。

「いったん帰った方がいいんじゃないか?」

「帰ったら二度と会えないかもしれないだろ」

「俺は逃げないけどな」

「でも僕はここがどこかもわからないんだぞ」

「ああ……」

 彼は大きく身を乗り出してテーブルの隅に置いてあったメモ帳を取ると、さらさらと何かを書いてちぎり七海に差し出した。

「俺の携帯番号と住所」

 その紙切れには、確かに電話番号と住所らしきものが書いてあった。

「一応、秘密にしてるから誰にも教えるなよ。ただな、ここに来るには山を歩かないといけないし、住所があってもたどり着くのは難しい。用があるときは電話してくれれば迎えに行く」

「……わかった」

 逃げるんじゃない、戦略的撤退だ。七海は自分自身にそう言い聞かせて納得させる。いまここで当てもないのに居座るより、態勢を整えて出直した方がいいだろう。連絡先さえわかればいつでも来られるのだから。

「でも送ってくれなくていい。自分で帰る」

「この辺じゃタクシーも捕まらないぞ?」

「…………」

 そういえば、ちらりと見た感じではずいぶん山の方で、周辺に住宅などは見当たらなかった。七海は奥歯を噛みしめてうつむき、テーブルの上でぎゅっとキャップを握りしめる。

「家を知られたくないなら、近くの駅で降ろしてやるから、な?」

 他意のなさそうな優しい口調。

 そこまで配慮してくれるのなら頼ってもいいかもしれない。というかひとりで帰れないのなら頼らざるを得ない。不本意だという気持ちをあらわにしながらこくりと頷き、付言する。

「でもトランクに押し込まれるのは嫌だからな」

「安心しろ、そもそもトランクなんてないから」

「えっ?」

 七海がきょとんとすると、彼は思わせぶりに口の端を上げて目を細めた。

 

 緑の生い茂る木々のすきまから木漏れ日が落ちている。無数の細い光が降りそそぐ様はとても幻想的だ。昼下がりの陽気の心地よさと、澄んだ空気のさわやかさに、七海は張りつめた気持ちが凪いでいくのを感じた。

 山小屋を出て連れてこられたのは大型バイクの前だった。それを目にして、ようやくトランクがないという彼の言葉を理解した。

「これをかぶれ」

 武蔵はそう言ってヘルメットをひとつ投げてよこす。彼自身がかぶるのを見て、七海も素直にキャップを脱いでかぶった。武蔵のはフルフェイスで七海のはハーフタイプだ。子供用なのか七海の頭にちょうどいいサイズである。

「乗れるか?」

「バカにするな」

 すでにバイクに跨がっている武蔵の服を掴み、ステップに足をかけ、不格好ながらもどうにか後部座席に跨がった。武蔵は七海の手を取って自分の腰にまわさせる。七海は自然と広い背中に寄りかかることになり、その体温を感じてドキリとした。

「しっかり掴まってろよ」

「……今度は絶対に殺すから」

「ああ、待ってる」

 本気にしていないのか、武蔵は軽く応じてエンジンをかけた。

 ブォン——小さくない音と振動が体に伝わってくる。そのときすこし車体が傾いてずり落ちそうになり、あわてて彼の腰にまわした手にぎゅっと力をこめる。行くぞという声が聞こえて頷くと、二人を乗せたバイクはゆっくりと山道を走り出した。

 

 

Part.2 に続く


 
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