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新世紀が始まってまだ半分も過ぎていないのに、人類はすでに二度目の大戦争の真っ最中だった。
この世紀が始まって以来、今世紀は科学の時代だと言われていたが、その科学の威力は戦争にこそ遺憾なく発揮された。
科学の力によって作り出された機械たちが、空を舞い、波を蹴立て、地を蹂躙して戦場の主役となった。
戦争に参加した国々は、全ての力を振り絞って、敵国よりも速く、堅く、強い機械を造り続けた。でなければ戦争には勝てない、と誰もが信じていた。
最初に二度目の大戦争の火蓋を切ってからというもの、新しい戦法と兵器で快進撃を続け、無闇に戦線を拡大するばかりだった国の勢いが、そのお陰もあってようやく陰り始めた頃、唐突に戦争が終わった。
戦争の終結は、誰もが考えていた、どちらかの陣営が降伏する形で訪れたものではなかった。勿論双方の全滅によるものでもなかった。
突如として、戦争の主役であった機械たちが動かなくなってしまったのだ。
人々は戸惑った。前世紀から使われていた、機械とは呼べないような簡単な作りの武器はまだ使い物になったが、いまさらそんなものに戻ってまで戦いを続けられるとは到底思えなかった。
しかし、その戸惑いも長くは続かなかった。何故ならば、唐突に動かなくなった戦闘機械たちが無人のまま唐突に動き出し、人々に襲いかかってきたからだ。
戦争の主役の叛乱に対して人々は、自分たちに扱うことができる前世紀の兵器をもって果敢に立ち向かった。しかしながら、科学技術によって速く、堅く、強くなっていた戦闘機械に、有効な打撃を与えることはなかなかできないまま、いたずらに消耗を続けるだけだった。
このままでは人類は機械に蹂躙され、ただ滅亡するのみかと思われた。
だが、全ての戦闘機械が叛乱を起こしたわけではなかった。ただ動かなくなっただけの戦闘機械も、相当数あったのである。
その事実を発見した人物は、戦いの混乱によって忘れ去られてしまったけれども、ある時、特定の人物が乗り込むことによって、以前のように戦闘機械を動かせるという事実に人々は気づいた。
人類は、ようやく機械にただ追われるだけの立場から、ようやく対等の立場に戻ったかに思われた。戦闘機械を動かすことのできる人間を探し出し、組織立った抵抗も始められた。
だが、叛乱を起こした戦闘機械はあまりにも多く、それに対して抵抗できる人間の数はあまりにも少なかった。一方的に蹂躙されることこそなくなったけれども、叛乱機械を駆逐することはできなかった。
叛乱機械と人類は、少しづつ互いの数を減らしながら、戦いを続けた。
どちらの陣営も、相手に有効な打撃を与えることなく、ある意味だらだらと戦いは続いた。
そして、人々が自分たちはなぜ戦っているのかを思い出せなくなってしまうくらい、時が流れた。
叛乱機械たちはただ『敵』と呼ばれるようになり、戦闘機械を動かすことのできる人間は、その立場と特権的能力から『貴族』または『騎士』と自らを呼ばせるようになった。
1
抜けるような青空の下、黄金色に染まった草原の向こう、遠く地平線から一両の戦車がやってくる。地面に伏せ太陽の光を背に受けながら、彼女は双眼鏡越しにそれを見つめていた。
「ハグレね、一両だけだわ」
視線を彼方へと向けたまま双眼鏡を下ろすと、彼女はそれを傍らの女性に手渡す。
「そのようです、お嬢様。いかがいたしましょう?」
双眼鏡を受け取ったメガネの女性は、それをケースにしまいながら答える。彼女達は低く灌木の生い茂る小高い丘に身を隠していた。
「ブラウ小隊とゲルプ小隊は奴を左右から挟み込んで、いつも通り対戦車地雷で片付けて。ローテ小隊は対戦車ライフルで正面から注意を引きつける」
「かしこまりました」
「お嬢様」と呼ばれた銀髪の小柄な少女は、手慣れた様子で指示を出す。部下と思しきメガネの女性は、さらに後ろに控えているそばかす顔の通信兵に、各小隊へ命令を伝えるように指示を出す。
「私はローテ小隊と一緒に正面から行く。着いて来て」
銀髪の少女は、傍らに置いてあった身の丈ほどもある対戦車ライフルを手に取って立ち上がると、腰をかがめて素早く丘を下る。その後ろに、先ほど彼女から指示を仰いでいたメガネの女性と、無線機を担いだそばかすの少女が着いて行く。
部下と思しき二人の女性たちは、メイドの様なヘッドドレスと黒いワンピースに身を包み、先頭を小走りに駆けて行くグレイのヴィントヤッケに身を包んだ銀髪の少女に付き従っていた。
*
「ハグレ」と呼ばれた戦車はT-34/76だった。恐らくこの先の戦線で乱戦になり、本隊とはぐれてこちらの領域奥深く迷い込んで来たのだろう。激しい戦闘が行われると、大抵一、二両はこのような迷子がやってくる。
前線で戦っている騎士たちからすると孤立した敵は大した脅威ではなかったが、戦線の後方で暮らしている非武装の市民にとっては非常にやっかいな存在だ。彼女らは、そんな市民を敵から守る仕事を請け負う集団の一つだ。
機械が謎の反乱を起こしてから長い年月が経ち、彼女たちの様な非正規の戦闘団が平原に点在する街や村を回りながら、用心棒の役割をするのが既に一つの職業として定着していた。
*
丘の麓ですでに隊列を組んで待ち構えていた部下も、傍らにそれぞれ対戦車ライフルを携えている。全員邪魔になるコートを脱ぎ捨てて、この寒空の下黒いワンピースにブーツといった出で立ちで、頬を紅潮させながら丘を降りてくるヴィントヤッケの少女を見つめていた。
彼女たちも先ほどの二人と同じく、メイドのようなヘッドドレスを着けている。
「ブラウ小隊とゲルプ小隊はすでに左右へ展開を始めました」
ローテ小隊の小隊長と思しき赤毛の女性が、ヴィントヤッケの少女へ声をかける。
「我々はこの先のくぼみのところまで前進し、ブラウとゲルプが配置につくまで待機」
報告に頷きながら、決して大きくはないがよく通る声でヴィントヤッケの少女が指示を伝えると、小隊は素早く一列横隊に展開して前進を始めた。
程なくしてローテ小隊は予定していた位置に到着し、身をふせ対戦車ライフルを構えて合図を待つ。ヴィントヤッケの少女も小隊の中央で身を伏せ、双眼鏡でT-34/76を監視しながら準備完了の合図を待った。
「ブラウ、ゲルペから配置についたと連絡がありました」
ヴィントヤッケの少女の傍らで無線に耳を傾けていたそばかすの少女が小声で報告をする。
「囮を作動させて」
ヴィントヤッケの少女が指示を出すと、後ろに控えていた部下の一人が背中から小型の発動機を降ろして起動を始めた。
何度かスターターの紐を引くとやがてガソリン臭い排気ガスを吐き出しながらゴトゴトと唸りを上げて動き出す。それとほぼ同時に敵は前進を止め、慎重に砲塔を巡らせ始めた。
人を乗せずに自律して行動する彼らは、電波で会話していることが、今までの交戦の経験から推測されている。特に、エンジンのディストリビュータとスパークプラグの発する一定周波数のノイズに敵は強く反応する。囮はそれを利用して敵をおびき寄せる。
「目標、敵ペリスコープ。射撃開始!」
十分引きつけたと判断したヴィントヤッケの少女が指示を出すと、ローテ小隊の六丁の対戦車ライフルが火を吹いた。
タングステン鋼で出来た六発の7.92ミリ対戦車ライフル弾が敵の弱点であるペリスコープに吸い込まれる。驚いたように速度を上げた敵は慌ただしく砲塔をこちらに向けると、不意に停車し発砲した。
「発砲炎!」
ヴィントヤッケの少女は叫びながら身を伏せる。その直後、砲弾はローテ小隊の後ろ五メートルほどに着弾した。幸い徹甲弾だったらしく、地面がえぐれて土埃が上がるだけで部隊に損害はない。
次の瞬間、敵の右側面からバラバラと数人の人影が飛び出すと、手に吊り下げた対戦車地雷を砲塔と車体の隙間に押し込み、遅延信管を作動させた。彼女たちが飛び退いて身を伏せると同時に信管が起動し、敵は砲塔を空へと吹き飛ばして沈黙した。
2
夕闇の迫る草原に一筋の煙が上がる。とどめを刺すため、敵にガソリンをかけて放った火の煙だ。炎の周りでは、工兵メイドたちが慌ただしく工具を片付けている。
万が一動き出す可能性を考えて、彼女たちは既にキャタピラを切断し、起動輪を外している。砲塔も持たず移動手段もなければ、仮に自己修復したとしても何も出来ずに朽ち果てていくだろう。
一仕事を終え、背を丸めてヴィントヤッケのサイドポケットで手を暖めながらメイドたちの作業を見守っていた少女のところへ、背広姿の中年男性が歩み寄ってきた。
「ヘルガさんお見事でした」
「あ、はい……」
男は彼女たちの依頼主、ムシャナドルナ市の市役所の職員で、戦果を確認するために随伴している。
「これで七両目ですね。いつも見事なお手並みです。私も安心して見ていられますよ」
「それはどうも……」
黒い戦車兵の規格帽を深くかぶり、ヴィントヤッケに身を包んだ少女、ヘルガは、部下を指揮していた時とは打って変わっておとなしくなっていた。
「明日で契約期間は終了ですが、我々の感謝の意味を込めて今夜はお別れパーティを準備してあります。ぜひ隊員の皆さんと参加していただけますか?」
「あ、はい。ぜひ……」
困ったような笑顔を作りながら、規格帽の鍔に隠れて目線を合わせようとはせずに、頬を赤らめてモゴモゴと返事をする。内心、面倒くさいなぁと思っているのが表情から見て取れる。
「カール様、お心遣いありがとうございます」
そこへ満面の笑みを浮かべたメガネの女性、イルメラがやってきた。
「あぁ、副官の方。ご苦労さまです」
ヘルガよりも頭ひとつ背が高く、ピシッと背筋を伸ばして歩く彼女は、アップにした金髪とメガネも相まって、スキのない有能な副官の雰囲気を醸し出している。カールの方が明らかに歳上なのだが、傍から見るとイルメラの方が偉そうだ。
「隊長さんにもお話していたのですが、今日の夕食はお別れパーティをご用意しています。市長も出席される予定です」
「はい、ありがとうございます。隊員たちも喜ぶでしょう。ところで報奨の件ですが……」
イルメラは外見に違わず中身も優秀のようだ。早速今日の獲物の報奨金を釣り上げる交渉に入った。こうなるとヘルガの出る幕ではないので、彼女はとばっちりを避けるためにそうっと二人から離れる。
「いやちょっといくらT-34とはいえその金額は……」
背中にカール氏の困り切った声を聞きながら、足音を立てないように、対戦車ライフルを磨く戦車猟兵メイドたちの輪の中に逃げ込む。
「お嬢様、お疲れ様です」
ヘルガに気がつくと、すぐに彼女たちは立ち上がって気をつけのポーズでヘルガの前に並ぶ。
「みんなご苦労さま。気を使わないでいいから作業を続けて」
部下のメイドたちにいたわりの言葉を掛けると、ヘルガも近くの木の切り株に座って自分の対戦車ライフルを磨き始める。彼女たちとはまだヘルガが屋敷で暮らしていた時からの仲だ。
「お嬢様、T-34の処理が完了しました」
そこへ工兵メイド小隊の小隊長、テレーゼが小走りに報告にやってきた。日が落ちてぐっと冷え込みが強くなってきている。彼女たちも連日の戦闘で疲れているだろう。早く宿舎に帰ろう。
*
三両の馬車と一両のキューベルワーゲンに分乗して、ヘルガの部隊は街へと帰還した。死傷者はゼロ、獲物はT-34/76が一両。なかなか悪くない戦績である。
イルメラの運転するキューベルワーゲンの助手席でくつろぎながら、徐々に近づいてくる街を眺めていると、特徴的な建物が目に入ってきた。街の四隅に建てられたコンクリート製の塔だ。かつてまだ戦闘機が空を飛び回っていた頃、街を守るために建設された高射砲台である。今も一門の8.8センチ高射砲が空に睨みを効かせているが、飛行機が死に絶えた今や、誰も使うものはなく朽ち果てている。錆びた砲身は夕闇に覆い尽くされていく空を背景に、黒くシルエットとなってそびえていた。
やがて街の境界である橋を過ぎ、市庁舎の前に車を停めると、先回りして帰っていたカール氏が彼女たちを出迎えた。
「パーティは市役所の食堂で行いますので、支度が済みましたらお越しください」
「ご配慮痛み入ります」
キューベルワーゲンの運転席を降りると、早速イルメラが満面の営業スマイルで対応を行う。その間にも馬車から降りた部隊のメイドたちは市庁舎の前に隊列を作りつつあった。
ヘルガは営業活動をイルメラに押し付けると、隊列の正面で彼女たちの準備が整うのを待つ。
「アハトゥンク《傾注》!」
ローテ小隊の赤毛の小隊長、ミヒャエラが鋭く掛け声をかけると、戦車猟兵、工兵の各メイドたちは背筋を伸ばしてヘルガへ視線を向ける。
「みんなお疲れ様。休んでいいわ」
メイドたちは一斉に足を肩幅に開くと、手を後ろに組んだ。
「今日も一人の負傷者もなく帰還出来たことを嬉しく思います。この街での任務は明日で終わりますが、全員元気な姿で任務を終えましょう。本日の夕食は市役所の皆さんにごちそうを準備して頂いているそうですので、着替えを済ませたら市役所の食堂へ集まってください。食事はヒトハチサンマルから開始します。以上」
「解散!」
解散の掛け声を聞くと、メイドたちはほっとした表情で散開して市役所横の宿舎へと移動を始めた。
ヘルガの戦車猟兵戦闘団は、ローテ、ブラウ、ゲルプの戦車猟兵メイド三個小隊と、工兵メイド一個小隊からなる。小隊の定員は八名だが、最近は不足がちだ。それ以外に指揮官付きの副官が一名と通信士が一名いる。総勢三十名の全てがかつてヘルガの住んでいた屋敷のメイドたちだ。部隊規模としては中隊だったが、慣例からカンプグルッペ《戦闘団》を名乗っている。
三両の馬車と一両のキューベルワーゲン、一両のフィールドキッチンでヨーロッパの主に東側を廻っている。戦車猟兵メイドの武器は対戦車ライフルと対戦車地雷がメインだ。パンツァーファウストも使うが、供給が滞っているためまれにしか使わない。特に今日のような一両だけはぐれてうろついている相手には対戦車地雷で十分だ。以前は3.7センチ対戦車砲も使っていたが、重くて扱いが難しい割に威力が無いので、手に入りづらい物資と交換してしまった。そうやって手に入れた虎の子のパンツァーファウストもあと二本しか残っていない。
今回の仕事で予定よりも多くの収入が望めそうなので、この後一旦後方へ移動して補給をする予定だ。この街での契約は一ヶ月。それも明日で終了である。メイドたちの疲れも溜まってきたところだろう。一週間は休息期間を取って彼女たちを休ませてあげる必要がある。それにヘルガもそろそろ両親の命日が近づいている。墓参りに行く時期である。
*
ヘルガは自分にあてがわれた部屋のドアをくぐると、汗じみた規格帽を帽子立てに引っ掛けて、ホコリまみれのヴィントヤッケを脱ぎ捨てた。ヴィントヤッケの下は、父の形見の黒い国防軍戦車兵の制服だ。肉薄攻撃を行う戦車猟兵は一般的にはフィールドグレイの制服だったが、彼女はあえてこの制服を着ていた。
イルメラは、まるで軍規違反で懲罰大隊送りになった戦車兵みたいでみっともないと反対したが、ヘルガにとって軍服
は、子供の頃からいつも父の着ていたこの戦車兵の黒服だった。
「まぁ、これでいいかな?」
パーティとは言いつつ、契約期間中は臨戦態勢が基本である。とりあえずズボンのホコリを払ってからブラウンのショートブーツの泥を拭うと、帽子立てからこれも父の形見の制帽を取り、それを小脇に抱えて食堂へ向かった。
*
「それでは我らがカンプグルッペ・ヘルガの健闘を祝しまして、乾杯とさせてください」
市長の長々とした演説にうんざりしてきた頃、ようやく食事スタートの合図となった。
「「「プロージット《乾杯》!」」」
隊員三十名と市役所側の事務方三名はビールのジョッキや水の入ったコップを掲げると、まずは乾いた喉を潤す。ヘルガは隊の責任者ということもあり、アルコールは遠慮して水である。隣に座るイルメラは当然のように陶器製のジョッキに並々と注がれたビールをあおっていた。
目の前には美味そうなソーセージとザワークラウトが山盛りになっており、明日で任務が終わると言う安心感からか皆いつもよりも食欲旺盛で、もりもりとソーセージを食べていた。
「ヘルガさんは伝統ある騎士の一族の出と伺いましたが、またなんで危険な戦車猟兵をされているのですか?騎士であるなら、戦車で戦ったほうが安全な気がしますが?」
当然といえば当然の質問が、向かいの席に座る市長から発せられた。はげ上がった頭が特徴的なやや小太りのこの老人は、ビールが回ったせいか赤くなった顔で人懐こそうな笑顔をたたえている。彼にしてみると単なる世間話で悪気は全くないのだが、ヘルガにしてみるといつもうんざりさせられる、困った質問だった。
「えと、それは……」
両手にフォークとナイフを握りしめたまま固まっていると、横のイルメラがすかさず市長の質問を引き取った。
「戦車は強力な武器ですが、それだけに危険な前線で戦うことを強いられます。むしろハグレ程度しか相手にしなくて良い後方で戦車狩りをしていた方が安全ですのよ。なにせウチの隊は女性しかおりませんから」
「はぁ、そういうものなんですか」
市長はまだ釈然としない顔をしていたが、イルメラは素早く話題を切り替えて市長の口を塞ぐ。正直なところ、戦車猟兵の方が生身のまま敵と戦うので危険である。しかもヘルガの部隊には長射程の強力な対戦車砲も無いからどうしても近接戦闘を強いられる。一発至近距離に榴弾を食らえば、命にかかわる。
「それよりも報奨金のことですが、T-34クラスでしたらあと十パーセントは上乗せしていただかないと……事前の契約で
は、報奨金はBT-7クラスを前提としていましたし、T-34クラスになると当然我々のコストも増えますし」
イルメラの、目が全く笑っていない鉄壁スマイルとマシンガントークに市長が怯んだ隙に、ヘルガは気配を消して針のムシロから逃亡を計った。
「お嬢様おやすみなさい」
忍び足で食堂から脱出を試みるヘルガに、メイドたちが無邪気な挨拶をよこす。
「皆さん、おやすみなさい」
彼女たち相手だと、不思議と全く緊張せずに、心からの笑顔がこぼれてくるヘルガだった。
3
翌朝、まだ日が登りきらない早朝から、ヘルガたちの活動は始まる。市庁舎前の広場に集合すると点呼を取り、その後戦闘糧食で簡単な朝食を済ませると車両や装備類の整備にかかる。
戦車猟兵メイド達は愛用の対戦車ライフルを分解すると掃除を始める。特に銃身とチャンバーは命中精度と不発弾の発生に関わるので念入りに火薬のカスをぬぐい油をさす。工兵メイド達は愛用の馬車とキューベルワーゲンの整備である。
大所帯な隊では車両の整備は整備専門の中隊が付くのが普通だが、この隊は人数が少ないため工兵が兼務している。また炊事も専門の炊事隊を置かずに、以前屋敷で炊事を担当していたメイドが順番に炊事当番をしている。
今回の仕事では幸い宿舎と食事が市側から提供されたが、街から街へ移動するときや、隊の受け入れが難しい小さな村で仕事をするときには、テントを張り、フィールドキッチンを使って料理をする。
午前八時頃には整備が完了し、メイドたちは馬車に分乗して街を出発する。敵は東部戦線から迷い込んでくるのが常なので、パトロールは主に街の東側で行われる。中隊は街から東へ五キロメートルほど離れたところにある小屋で一旦待機をし、ヘルガとイルメラのキューベルワーゲンと、馬車に積み込んできた二台の自転車でそれぞれ偵察を行う。
通常はこの体制で午後五時までパトロールをし、敵を見つけたら街に到達する前にとどめを刺すのがヘルガたちの仕事だった。
「今日はまた一段と東のほうが騒がしいですねぇ」
キューベルを止めた傍らで、イルメラが東の地平線を双眼鏡で覗きながらつぶやいた。ヘルガは助手席に座ったまま、地図と照らし合わせて東の戦線の位置を確認しようとしている。
「かなりの数の煙が認められますねぇ。敵か味方かはわかりませんが、戦車の燃える煙だと思います」
確かに肉眼でも、うっすらと地平線の向こうに立ち上る幾筋もの黒煙が確認出来た。
「無線にも戦闘中と思われる音声が入ってきます。不明瞭で詳しくは聞き取れませんが……」
後部座席で通信機に耳を傾けていた指揮官付きの通信兵メイドも、傍受した無線の内容からイルメラの推測を肯定した。ヘルガも騎士の持つ特有の能力で、大量の戦車が東の彼方にひしめいているのを感じていた。
「うひゃ……」
突然双眼鏡を覗いていたイルメラが変な声を上げる。予想していたのよりも遥かに手前の位置で、爆発の炎とそれに伴う黒煙を認めたためだ。
「運が悪いなぁ、最終日だって言うのに。お嬢様、今日は早めに引き上げましょうよぅ」
イルメラが情けない声で弱音を吐く。これだけ大掛かりな戦闘になると、半端ない数の敵が迷いこんできそうだ。下手をすると小隊規模の敵と遭遇するかもしれない。今日で契約は終わるのだから、なるべく早く引き上げて無駄な損害を最小に抑えるのが賢いやり方である。
「そうも行かないわ。街を守るのが私達の仕事よ。今日はハグレが多そうだから、少し遅くまで粘りましょう」
しかしヘルガは騎士特有の高潔さ、あるいは育ちのいいお嬢様特有の馬鹿正直さに従って、イルメラの提案を即座に却下する。イルメラもそういう反応が来ることは長い付き合いで半ば予想していたので、あえて不満も言わず、ふーっと長い溜息を一つ吐いただけだった。
「でも索敵ラインは下げたほうがいいですよぅ。うっかり突出しすぎて、敵に包囲されるかもしれません」
イルメラはちょっとふてくされた感じでヘルガへアドバイスをする。昨日カール氏や市長に見せた営業スマイルと余裕は既にどこかに消え失せ、今やイルメラとヘルガの印象は逆転していた。
「それには同意するわ。ユーリア、各小隊の斥候に索敵ラインを五キロメートル下げるよう伝えて」
ユーリアと呼ばれたそばかすの指揮官付き通信兵メイドは、すぐに周波数を自分たちのものに切り替えるとヘルガの指示を連絡し始めた。
「私達も下がりましょう」
「了解ですっ!」
ヘルガが指示を出すと、待ってましたとばかりに運転席に乗り込み、イルメラはキューベルワーゲンを西の方へと走らせる。イルメラから双眼鏡を受け取ったヘルガは、煙のたなびく東の地平線を助手席から不安げに見つめていた。
*
ちょうどその頃、東部戦線は混乱の極みにあった。南北に薄く長く引き伸ばされた戦線の、丁度ど真ん中に突如敵の大群が押し寄せたのである。
騎士たちは北端もしくは南端が敵に回りこまれて包囲されるのを警戒して、そちらへ戦力を多めに寄せていた。従って
戦線中央がやや手薄になっていたのだ。もし中央が責められても、後方の予備兵力から機動力の高いⅢ号やⅣ号を回せば手当ができると踏んでいた。
ところが敵はKV-1やJS-2を中心とした重戦車を先頭に最も防御の薄い中央部分に突っ込んできたのだ。守りの要であるティーガーⅠは早々に撃破され、応援に駆けつけたⅢ号やⅣ号では重戦車を倒す事ができなかった。
重戦車が南北からやってくる援軍を足止めしている間に、中央に開いた穴から大量のT-34/76が雪崩れ込み、得意のスピードで戦線の後方深くに浸透した。戦線の後方で待機していた味方の予備兵力も突然のT-34/76の大群に混乱し、有効な戦線を構築できずに敵味方入り乱れた乱戦に突入してしまった。予備兵力の待機していた場所は実にヘルガたちの守る街の東二十キロメートルの位置だった。
*
ゲルプ小隊の斥候、カロリーネは自転車を止めると、首から下げた双眼鏡を目に当てて東の方角に目を凝らした。ここは部隊の主力が待機する小屋から北西に十キロメートルほど離れた位置である。幸い整備された道があったので、自転車でも大した苦労もなくここまでたどり着くことが出来た。あたりには民家もなく、茶色く色を変えた木々の向こう、遠く前方に低い山が見えている。
午前十時。まだ陽の光は冬の朝特有の透明感のあるあたたかな色をたたえ、空気は凛と冷えて風もなく穏やかだ。今日は任務の最終日であるため、午後三時には撤収を開始して任務完了後の移動に備えることになっている。明日は一日中移動だが、明後日からは一週間の休暇が始まる。休暇中にやりたいあれやこれやを想像すると、自然に心が浮き立ち頬が緩んでくる。しばらくぶりのまとまった休暇だったので、気が緩んでしまったのも無理は無い。自転車の後ろに積んである無線機のスイッチを入れ忘れているのにも気が付かず、彼女は熱心に東側の警戒を始めた。
突然、カロリーネの右後方からエンジンを吹かす轟音が聞こえてきた。とっさに振り返る彼女の目前をT-34/76が横切って行く。カロリーネは素早く自転車ごと左脇の雑木林の中へ突っ込み、身を伏せる。幸い敵はカロリーネの存在には気がついていないようだ。
T-34/76は石畳の真中で一旦停止すると左に回頭して西の方へゆっくりと進み始めた。カロリーネの目の前には今、無防備なT-34/76の背面が丸見えになっている。考えるよりも早く、カロリーネの手が自転車のラックに積んであるパンツァーファウストへと伸びる。カロリーネの身体は、日頃の訓練で叩きこまれた対戦車攻撃の手順へとごく自然に入っていった。
*
「ゲルプ小隊の斥候に連絡がつきません」
西へと移動中のキューベルワーゲンの中、不安そうな顔でユーリアが助手席のヘルガへと報告をした。
「斥候は誰?」
「カロリーネが出ているはずです」
ヘルガの問に、当番表を暗記しているイルメラが即答する。ヘルガの脳裏には昨日の夜、食堂から抜け出すときに挨拶を交わしたあどけない少女の顔が浮かんだ。
「北上してカロリーネのところへ向かって」
「了解!」
勢い良くハンドルを右に切ると、イルメラはキューベルワーゲンのギアを一速落としてアクセルを踏み込んだ。
*
十数分後、ヘルガたちのキューベルワーゲンは未舗装の小道から石畳の街道にたどり着いた。敷き詰められた石には白く擦れたような跡が沢山ついている。
「戦車のキャタピラ痕のようです」
キューベルワーゲン停車させ、ギアをニュートラルに入れながらイルメラが報告する。助手席からヘルガが身を乗り出して周りを見回すと東の方角にうっすらと立ち昇る黒煙が見えた。
「お嬢様、東へ向かいましょう」
ヘルガの視線の先にあるものを確認したイルメラは、ヘルガからの指示を待たずにキューベルワーゲンを再び走り出させる。胸騒ぎを押さえ込みながらヘルガたちが石畳の道を進んで行くと、やがて戦闘の跡と思しき地点に辿り着いた。
そこには撃破された一両のT-34/76と、その周りを取り囲むキャタピラ痕だけが残っていた。イルメラがキューベルワーゲンをT-34/76の脇に止めると、ヘルガは助手席から飛び降りてまだ煙を上げる残骸へと駆け寄る。
T-34/76は後方から成形炸薬弾で攻撃を受けたようだ。後部装甲板上に固定されている二つの排気管のちょうど真ん中に、成形炸薬弾独特のメタルジェットによって貫通した穴が見える。後ろを振り向いて五十メートルほど先を見ると、使用済みのパンツァーファウストの柄が転がっていた。
「明らかに我が隊のものです」
イルメラが柄を拾い上げ、蒼白な顔で記憶の中のシリアルナンバーと照合する。通信手のユーリアは一心不乱に応答の無い無線機に呼びかけを続けていた。
「カロリーネ!」
大声で呼びかけながらヘルガは石畳を東へと歩く。ふと道の脇に、まだその幹に引き裂かれた跡も生々しい大木を見つけた。ヘルガは迷わずにそこへ向かって走り出す。果たして、その大木の後ろには黒いメイド服を血に染めた少女が倒れていた。
「カロリーネ!」
ヘルガは素早く少女の脇へと跪くと、そっと少女の手首をつかんで脈を取る。
「う、ぁ、お、お嬢様……すいません……」
脈を確認するよりも早く、倒れていた少女は意識を取り戻した。
「しゃべらなくて良い。すぐに衛生兵のところへ連れて行くから、もうちょっと我慢して」
ヘルガの呼びかけに、カロリーネは痛みにこわばる顔を無理矢理笑顔に作り変える。
「イルメラ! いたわ! 車をこちらに回して!」
イルメラはキューベルワーゲンに飛び乗るとカロリーネが発見された場所まで車を走らせ、ヘルガとともに負傷したカロリーネを後部座席に回収する。
「至急本隊へ帰還」
「はいお嬢様!」
全員がキューベルワーゲンに乗車したのを確認すると、イルメラは可能な限り静かに石畳の上を走らせ始めた。その間にも、ユーリアは無線で本隊に負傷者の存在の報告と衛生兵の準備を要請する。
「お嬢様すいません、一両だけだと思っていたら、いつの間にか周りを敵に囲まれてて……」
後部座席でヘルガに抱きかかえられながら、蒼白な顔でカロリーネが状況の報告を始める。
「状況は既に把握出来てるわ。報告ありがとう、ゆっくり休みなさい」
「すいません……」
斥候としての任務を果たした安心感からか、カロリーネは直後に気を失ってしまった。ヘルガは自分のヴィントヤッケが血で汚れるのも忘れ、少女が二度と帰れぬ遠くへと連れ去られぬよう、しっかりとその身体を抱きかかえた。
4
途中敵と遭遇する危険もあったが、一刻の猶予も許さない状況であったため、あえて街道上をまっすぐ西へと飛ばす。
敵と遭遇したらその時はその時と覚悟を決めていたが、敵は街道を外れて草原へ入り込んだらしく、一時間もかからずに無事本隊へと帰り着くことができた。
カロリーネの報告と道に残されたキャタピラ痕から推測すると、パンツァーファウストで一両のT-34/76を撃破した直後、他の数両の敵戦車にとりかこまれてしまったようだ。
カロリーネは新しい敵に気が付くとすぐに雑木林の中へと飛び込んだが、既に敵に補足されてしまっており、榴弾を至近距離に食らってしまったらしい。
幸い雑木林の木々が榴弾の破片の大半を受け止めたらしく、カロリーネに致命傷は無かった。不幸中の幸いだったが、この状況は敵が少なくとも小隊規模でこの街の周辺に存在する事を意味していた。
今までは本隊からはぐれた一、二両の敵を個別に撃破すればよかったのだが、群れを作って組織的に動き回る敵に同じ
手は通用しない。カロリーネの容態が確認出来るとすぐに、ヘルガはイメルラを伴って部隊に随伴しているカール氏を尋ねた。
「なるほど、多数の敵がこのあたりまで入り込んでいるのですね……」
「状況は一刻を争います。まずは街の人達を集めてどこか安全な場所へ隠れてください。後は我々が片付けます」
血にまみれたヴィントヤッケからただならぬ状況を察したカール氏は、あれこれと詮索せずにヘルガの言葉を受け止めると、すぐに小屋を出て馬立場に繋いでおいた馬へ向かった。
「ご武運を」
見送るヘルガとイメルラに短く別れの挨拶を告げると、カール氏は街へと馬を走らせる。
「私たちも急ぎましょう」
「お嬢様、その前にお召し物を換えてください。メイド達がおびえます」
血まみれのヴィントヤッケでメイド達が待機する場所へ向かおうとしたヘルガを、イメルラが引き止める。この姿のままでは部下にいらない動揺を広めるだけだろう。
「そうね。忘れていたわ」
気が動転していた自分に気がついて一瞬顔をしかめると、ヘルガはヴィントヤッケを脱ぎ捨ててイルメラに手渡した。
「これでどう?」
カロリーネの血は薄いヴィントヤッケの生地を染み通っていたが、黒いウール製の戦車服だと血が目立たない。
「はい。参りましょう」
受け取ったヴィントヤッケをきちんとたたむと、イルメラは硬い表情でヘルガとともにメイド達のもとへと急いだ。
*
まず行ったのは味方への援軍要請だった。既に予定された作戦をあらかた消化し、弾薬も尽きかけているヘルガたちにとって、この戦いは避けるに越したことはない。
しかし混乱している戦線を立て直すため、今現在後方へ割ける戦力は無いと言う回答が返ってきた。カロリーネの証言と街道上のキャタピラ痕から、少なくとも五両の敵をヘルガたちの中隊だけで相手をしなくてはいけないことになる。
この状況下では、積極的に打って出るにはリスクが大きすぎる。ヘルガたちは拠点にしている小屋を引き払うと、街を囲む対戦車壕を兼ねた堀の内側へと撤退した。
「お嬢様、市側との交渉が完了しました。こちらの要求は全て飲んでもらいました」
「ご苦労様。早速工兵メイド小隊に作業開始を伝えて」
キューベルワーゲンを飛ばして街に戻ると、すぐにイルメラは市長と折衝を行い、籠城戦しか残された道がないことを説明した。
作戦としては単純で、東側の出入口を除いて対戦車壕にかかっている全ての橋を落とし、残された出入口に地雷原を敷設しておびき寄せる、と言ったものだ。ただし、敵が対戦車
壕越しに街へ攻撃を加えてくる可能性があるため、市民には街の中央部にある石造りの教会の地下へ避難してもらうことになる。イルメラの試算では、敵の7.6センチ戦車砲程度の攻撃であれば、十分市民の安全は確保されるはずだ。
ヘルガの命令はすぐに無線で工兵メイド小隊へ伝達され、橋の爆破と地雷原の敷設が開始された。
「私達も東の橋へ急ぎましょう」
工兵メイドたちの爆破音を遠くに聞きながら、ヘルガたちは東へとキューベルワーゲンを走らせた。
*
工兵メイドの作業が完了し、ブラウ、ゲルプ、ローテの各小隊が対戦車ライフルによる狙撃位置に着いた頃、辺りは夕闇に包まれた。敵の習性として夜間は活動が低下するため、必要最小限の見張りを残してメイドたちを一旦宿舎に引き上げさせる。
「敵はうまく引っかかってくれますかねぇ?」
監視のために橋の手前に止めたキューベルワーゲンの運転席から、イルメラが助手席へ問いかける。
「囮次第かしら」
対戦車ライフルを重そうにぶら下げ、引き上げていくメイドたちを見送りながら、助手席のヘルガが答える。
「本当は私達が使ってるような小さなエンジンじゃなくて、十二気筒のマイバッハがあればいいんだけど」
「それは無理ですねぇ。このご時世で十二気筒エンジンなんて、敵に自分の位置を大音量で知らせてるようなもんです。そんなものを使うのは騎士くらいですよぅ。それにそもそも騎士じゃないとエンジンが言うことを聞いてくれません」
機械が人類の制御を離れて以来、騎士と呼ばれる一部の人間を除いて、人々の日々の営みは産業革命前まで後退してしまっていた。この街も例外ではなく、エンジンを使ったものは一切使われていない。
もし仮にエンジンを扱える人物が街に居たとしても、エンジンから発せられるノイズを聞きつけた敵が集まってくるため、一般市民によるエンジンの使用は禁止されていた。
「お嬢様、それよりお腹すきません?」
ハンドルにもたれかかったイルメラが情けない声を上げる。
「炊事当番のメイドにシチューとパンを運んできてもらうようにお願いしてあるはずよ」
ちらりと後方に視線を送りながらヘルガが答える。
「私は温かいご飯ならなんでもいいです。ビールがあればもっと言うことないですが」
「ビールはトイレが近くなるからダメ。コーヒーで我慢して」
「コーヒーもトイレが近くなりますよぅ。どうせおしっこになるならビールのほうがいいなぁ」
「飲酒運転は禁止です」
「うぅ…」
空腹に負けてイルメラが無口になる頃、自転車を走らせて炊事当番がやってきた。
「お嬢様、イルメラさん、お待たせしてすいません。豆のシチューと黒パン、あとコーヒーです」
それは二人分の飯盒と水筒を荷台に積んで、ぱんぱんに膨らんだブレットバッグをたすき掛けにした通信兵のユーリアだった。
「今日の炊事当番はラウラじゃなかったっけ?」
イルメラが意外な人物の登場に驚く。
「えへへ、私も今夜の歩哨に立候補しにきました」
自転車をキューベルワーゲンのそばの木に立てかけると、飯盒とポットを抱えてキューベルワーゲンの後部座席に乗り込んでくる。
「子供は夜更かししちゃだめですよぅ」
ほくほくと温かい食事を受け取りつつ、副官の立場を忘れないイルメラがやんわりと却下する。
「お嬢様は私よりもいっこ下ですよ?」
「んー、まぁそうですけどねぇ、それとこれとは……」
「今日は冷えるわよ」
食事を受け取りながら、ヘルガも心配そうな顔をユーリアに向ける。
「大丈夫です。毛布も持ってきました」
上官たちの心配をよそに、ユーリアはキューベルワーゲンの後部座席でポットからマグカップにコーヒーを注ぎはじめた。
「あ、私は食事済ませてきましたからお構いなく」
にっこりと笑うユーリアに根負けして、イルメラとヘルガは遅い夕食をとりはじめた。
5
三人で交代交代に仮眠を取りながら警戒を続け、やがて東の空がうっすらと明るくなり始めてきた。幌をおろしてはいたが、元々がオープントップなのでスカスカであり、寒気が容赦なく入り込む。歩哨用の毛皮のブーツを履いてウールのロングコートにくるまっていても、冬の明け方のしんしんとした寒さが身にこたえた。
ユーリアはイヤーマフ代わりの無線機のヘッドホンをつけたまま、毛布にくるまって後部座席でうとうととしている。イルメラもハンドルに突っ伏して熟睡しているようだ。
無線機に電力を送るためにアイドリングしているエンジンの音を聞きながら、ヘルガは冷たくなったコーヒーをすすった。その時、後部座席のユーリアが突然目を見開いた。
「お嬢様、異常なノイズが聞こえます。敵の会話のようです」
硬くなった身体を捻って後部座席のユーリアを見ると、眉間にシワを寄せて通信機に張り付き、ダイヤルを回して周波数を変えながら音を探しているところだった。
敵は電波で会話をするのだが、その際にピーガーといった独特の音を発する。それをユーリアの無線機が拾ったようだ。
「やつら活動を開始したか」
いつの間にか目を覚ましていたイルメラが、運転席で忌々しげにつぶやいた。
ヘルガはドアを開けて外へ出ると、双眼鏡を目に当ててぐるりと辺りを見渡した。まだ太陽は地平線の下にあり、薄紫に染まった景色からは細かいところがうかがい知れない。
「念のため全隊に警戒するよう伝えて」
車外から後部座席を覗き込みユーリアに指示を出す。
「はい。現在伝達中です」
早速周囲の塹壕に待機していた戦車猟兵メイドたちが警戒を始めたのが見て取れた。その時、キューベルワーゲンのアイドリング音とはまた違ったエンジン音が微かに遠くから聞こえてきた。
マフラーを通さずに排気を行うディーゼルエンジンが発するバリバリと言う独特の音は、敵がこちらへ近づいていることを物語っている。
「総員対戦車攻撃態勢!」
助手席に潜り込みながらヘルガが指示を出す。
「イルメラ、私達は囮として奴らを引きつける」
「了解!」
この作戦は東側の橋がキーである。他の箇所から対戦車壕越しに街へ砲撃される可能性が捨てきれないため、ヘルガは自分たちのキューベルワーゲンを囮に東側の地雷原に敵をおびき寄せるつもりだ。
「ユーリアは降りて」
「私も一緒に行きます!」
昨晩から様子のおかしかったユーリアに、そういえばカロリーネと同じ村の出身だったことを思い出したヘルガは、それ以上彼女に降車することを強制しなかった。
「分かったわ。一緒に行きましょう。気をつけてね」
「了解!」
ユーリアの嬉しそうな返答を確認すると、イルメラは二速でアクセルを踏み込んで、バサバサと言う空冷エンジン独特の音を響かせながら、キューベルワーゲンを加速する。地雷の敷設位置を正確に記憶している彼女は、地雷原の中に設けられた細い抜け道をたどって街の外部へと出る。
石畳の街道を進んでいくと、すみれ色に染まる東の空を背景に戦車の影が見えてきた。街道を進む敵は一両のようだ。あと四両の位置はまだ把握できない。不意に戦車の影に閃光が走る。
「発砲炎!」
すかさずイルメラはハンドルを右に切り、街道の脇に広がる草原へキューベルワーゲンを突っ込ませる。その直後、街道上に榴弾の炸裂する閃光が見えた。
「奴ら、ここら辺りにはこちらの戦車が居ないことを分かってるみたいですねぇ」
「初弾が榴弾と言うことはそうなるわね」
草原をジグザグに走って敵の照準を避けながら、Uターンして敵を東の橋へと誘導していく。数発の榴弾を難なく避けた後、不意にキューベルワーゲンのすぐそばに着弾した。榴弾の破片がヘルガの頬をかすめる。
「みんな大丈夫!?」
「問題無いです。奴らどうやら回避パターンを学習してますねぇ」
イルメラはなるべくランダムになるように進路をとっているはずだが、敵はその中に何らかのパターンを見出したようだった。
「ユーリア、イルメラにハンドルを切るタイミングを指示してあげて」
「分かりました」
乱数の発生源を変えればパターンが変わることを期待して、ヘルガはユーリアに進路変更の判断を任せた。
「右お願いします!」
「はいよっ!」
ヘルガの作戦はうまくいったようで、その後しばらくは至近弾を食らうことはなくなった。後は適当なタイミングでイルメラとユーリアを切り替えれば良さそうだ。
付かず離れずの絶妙な距離を保ちながらイルメラは地雷原の抜け道を走りきり、敵を地雷原へ誘導することに成功した。後方でさっきまでとは違う爆発音が響くと、敵の砲撃がピタリと止む。
「やりましたねぇ」
炎に浮かぶシルエットはT-34/76のようだ。
「あと四両はどこにいるんでしょう?」
「確かにおかしいわね。敵は群れる習性があるはずなのに……」
その時、後方の街の方から炸裂音が聞こえてきた。
「え!?」
「ローテ小隊から入電です! 敵主力は街の西側から対戦車壕越しに、街の全域へ攻撃を加えている模様!」
「イルメラ! 一旦町の外へ出て西へ向かって!」
「了解!」
地雷原を高速で抜けると、時計回りで西へと向かう。整備された街道が無いので、未舗装の小道をキューベルワーゲンは時速四十キロメートル弱で進んでいた。
悪路を跳ねながら二十分程進むと、街の西側に到達する。まだ明けきれない薄暗い草原の中に四つの黒い影が認められた。その中の一両から発砲炎が上がり、一瞬辺りが明るく照らされる。
「KV-2だわ」
双眼鏡越しにその巨体を認めたヘルガがつぶやいた。
「まさかあの鈍足の巨人が、戦車戦中心のこの戦線になぜ……」
「理由はともかく、あいつの15.2センチ榴弾砲は脅威だわ。街が焼け野原になるのも時間の問題よ」
KV-2の強力な主砲は陣地突破にはきわめて有効だが、移動や発射の速度が極端に遅いため、機動力が重要視される戦車戦には向かない。そのためイルメラは、この鈍重な戦車の存在を完全に想定から除外してしまっていた。
KV-2以外は、T-34/76が三両であり、こちらはイルメラの想定範囲内である。キューベルワーゲンでは近づくこと
も出来ずに遠くから双眼鏡で見守っていると、戦車猟兵小隊が西へ移動して反撃を開始したのが見て取れた。
しかし彼女らの対戦車ライフルでは、せいぜいペリスコープやキャタピラを破壊して足を止めるのが精一杯である。特にKV-2の砲塔には全く歯がたたない。その間にもKV-2の15.2センチ榴弾砲は、街の主だった建物を標的に攻撃を加えている。
「お嬢様、私に行かせてください」
後部座席で俯いていたユーリアが、不意にヘルガたちへ声をかけた。腕にはどこから取り出したのか、パンツァーファウストを抱えている。
「ユーリア、それは?!」
「夕食を届けに来た時に使った自転車に積んであったのを、こっそり持ってきました。これならKV-2を止められるかもしれません」
「しかしあの敵集団の中に飛び込めば、KV-2を仕留めたとしてもT-34から返り討ちにあうわ」
「でもこのままじゃ……」
「私に行かせてください」
ユーリアの手からパンツァーファウストを奪い取ると、イルメラがきっぱりとした口調で訴えた。
「元はといえば私の誤算が原因ですし、部隊の危機には将校が責任を取るのが筋です」
それだけ言い終わると、イルメラはヘルガの返事を待たずにドアを開けて外へ駆け出していった。
「イルメラ! 待って!」
その時、地平線から太陽が顔を出し、戦場を眩しい朝日が照らしだした。イルメラは朝日を背に敵に向かって全速で走り続けている。
「私も将校なのよ、忘れないでほしいわ」
ヘルガはキューベルワーゲンに備え付けたラックから対戦車ライフルを取り出すと、二人分のヘルメットを掴んでイルメラの後に続いた。
*
朝日が目眩ましになったお陰で、イルメラとヘルガは敵に気づかれること無く七十メートルほどの距離まで接近することが出来た。二人は黄色く枯れた草をかき分けて、匍匐前進で接近を続けている。
「お嬢様、今からでも遅くありません。お戻りください!」
「私の対戦車ライフルでバックアップする」
「お嬢様が居なくなったら我が隊は消滅ですよぅ、我々部下のためにも考えなおしてください」
イルメラの半泣きの懇願も聞き入れず、ヘルガは双眼鏡で辺りをうかがう。KV-2は対戦車壕の直前まで接近し、固定砲台となって対戦車ライフル弾を弾き返しながら街への砲撃を続けている。他の戦車は対戦車ライフルを警戒してKV-2を遠巻きに取り囲みながら、KV-2に近づくものがないか警戒をしていた。
対戦車壕から戦車猟兵メイドたちの塹壕までの距離は約百メートル。対戦車ライフル弾に混じって、時おり擲弾筒アタッチメントによる成形炸薬弾が打ち込まれていたが、KV-2の正面装甲は突破不可能のようだ。
「あと五十メートルは近づきたいわね」
「はい。一発しかありませんから、失敗は出来ません」
イルメラの持っているパンツァーファウストは射程が六十メートルあったが、実際は六十メートル先の的に命中させるのは極めて難しい。確実に命中させるには少なくとも二十メートル以内に接近する必要がある。
「お嬢様はここで支援をお願いします」
「分かったわ。気をつけて」
「では行ってまいります」
メガネ越しににこりと微笑むと、イルメラは匍匐前進でKV-2への接近を始めた。その間も、味方の塹壕からは雨あられとKV-2へ対戦車ライフル弾が降り注ぐ。
無線が使えたら塹壕の部隊と連携がとれるのだが、無線機はキューベルワーゲンと一緒に後方へ置いてきてしまった。流れ弾がイルメラに当たる危険性もある。もし対戦車ライフル弾が人間にあたったら、ひとたまりもなく吹き飛ばされるだろう。ヘルガには、せめて敵の攻撃がイルメラに向かわないようにするのが精一杯だ。
「死なないで……」
ヘルガはつぶやくと、対戦車ライフルに弾を込め、こちらへ向かってくるT-34/76のキャタピラに照準を合わせた。
深く息を吐き照準を安定させる。五十メートルほどの距離で、T-34/76が正面をこちらに向けるのに合わせて引き金を引く。ターンと言う発砲音が響き、右肩に強烈な反動が伝わってくる。うまくキャタピラのリンクを切ったらしく、T-34/76は急に向きを変え、側面をこちらへ向けて停車した。
すかさず銃把を押し下げて排莢し、カートリッジケースから二発目を薬室に込めると、今度は転輪の隙間を狙う。旋回するT-34/76の砲塔がこちらを向き切る前に、二発目を機関室の側面に叩き込んだ。
止めを刺そうと次弾を装填した時、仲間の異常を察したT-34/76がこちらへやってくるのが見えた。このままだと二両の相手から同時に攻撃される危険がある。
ヘルガは対戦車ライフルを右手にぶら下げると、低く身をかがめて二十メートルほど南へ移動し、今度は新手の敵のキャタピラを狙う。そうやって徐々に敵を南の方へ引きつけ、KV-2から引き剥がすのがヘルガの狙いだ。
そのころイルメラは地面を這いずりながらジリジリとKV-2へ近づいていた。幸い敵はヘルガが引きつけてくれたため、敵の榴弾を至近距離で浴びることはなかったが、KV-2から二十メートルまで接近した時には、キャタピラやペリスコープを狙う味方の対戦車ライフルの流れ弾が低い位置をかすめ飛び、攻撃に移れる状態ではなかった。
「困ったな……」
イルメラはホルスターから信号拳銃を取り出すと、停戦を意味する白の弾を込めてからゴロリと仰向けになり、空へ向けて発砲した。
ポンと言う射撃音とともに白い煙が尾を引いて空へ吸い込まれていく。直後、味方からの射撃は止み、意表を突かれたKV-2も射撃を止めて車体をイルメラの方へ向けようとするが、既にキャタピラは両側共に切断されており、起動輪が虚しく空回るだけだった。
「チャーンス!」
すかさずイルメラは立ち上がると、照準器を起こしてパンツァーファウストを構え、KV-2の砲塔の側面に叩き込む。
バスッと言う音とともに弾頭が発射され、放物線を描きながら弾頭が砲塔に吸い込まれていくのを、スローモーションの様に感じながら、イルメラは地面に伏せるのも忘れて見入っていた。弾頭が着弾し爆発音と共に炎が上がる。
「やった!」
その直後、砲塔内部の火薬に誘爆を起こして巨大な砲塔は吹き飛び、至近距離から爆風を浴びたイルメラは意識を失った。
6
「うぅ、あ、あれ?」
気が付くと、イルメラはベッドの上に寝かされていた。
「気がつきましたか?」
隣のベッドで負傷者を手当していた看護婦が、目を覚ましたイルメラに気がついて声をかける。
「どこか痛むところはありませんか?」
「あ、え?はい」
一瞬記憶が混乱し、なぜ自分がそのような質問をされるのか理解出来るまでに数十秒を要した。
「あ! お、お嬢様は、お嬢様は無事ですか?」
「ええ、ヘルガさんならあなたをここへかつぎ込んで、すぐにまた出かけて行きましたよ?」
「良かった……」
一気に力が抜けて、イルメラはベッドにへたり込んだ。遠くから、微かに対戦車ライフルの射撃音と7.6センチ戦車砲の砲撃音が聞こえている。まだ残った敵戦力と交戦が続いているようだ。
「私も行かないと……」
あわててベッドから抜け出そうとしたイルメラだったが、自分が下着一枚である事に気が付くと、途方に暮れて辺りを見回す。
「私の服…あとメガネ…」
*
KV-2の爆発の後、イルメラを担いで対戦車壕に飛び込んだヘルガは、そのまましばらく対戦車壕の底を歩いてキューベルワーゲンのところまで帰還した。対戦車壕には腰
のあたりまで雨水がたまり、凍る様な泥水で全身ずぶ濡れになったが、敵戦車の攻撃を浴びせられるよりはマシだ。
「お嬢様! イルメラさん!」
キューベルワーゲンで待機していたユーリアが、イルメラを背負った泥だらけのヘルガの姿を見つけて駆け寄る。
「ユーリア、酷い目にあったよ……」
「ご無事で何よりです……お二人とももう帰ってこないかと……」
無事に帰還した二人を迎えて、ユーリアは思わず涙ぐむ。そんなユーリアの頭を軽くなでて落ち着かせてから、気を失っているイルメラを後部座席に座らせると、ヘルガはキューベルワーゲンを東の橋へと走らせた。
運転に不慣れなため、クラッチを繋ぎそこなって何度かエンストしながらも、なんとか橋までたどり着く。ヘルガは地雷の敷設位置を覚えていなかったので、工兵に誘導してもらいながら街の中へ入ると、イルメラを病院へ預けて、そのまま西の戦車猟兵小隊へ駆けつけた。
「状況は?」
「負傷者は数人居ますが、損害は軽微です。避難していた住民も無事です。ただ、街の建物が相当やられましたね。特に市庁舎は壊滅状態です」
「そう。思ったより被害は軽微で済んだわね」
「しかしもう弾薬がありません。成形炸薬弾は撃ちつくしました。対戦車ライフル弾は残り百発程度です。今は小競り合い程度なので問題ありませんが、また本格的に攻撃を受けたら持ちこたえられません」
「東の地雷原もバレてるようだし、あとは援軍がやってくるのを待つしか無いわね」
ローテ小隊の赤毛の小隊長、ミヒャエラと今後の方針を相談しているところへ、工兵隊長のテレーゼが合流する。
「対戦車地雷は敷設済みが六十四、未敷設が二十、吸着地雷が八、十キログラム爆薬が五と言ったところです」
「報告ありがとう。これでしばらく持ちこたえないと……」
「いざとなったら私達工兵が突撃します」
「それは本当に最後の手段よ」
突撃工兵による爆薬攻撃は絶大な破壊力を持つが、そんなことをすれば死者が出るのは確実である。なるべく避けたい選択だ。
「T-34相手には手を出さなくていいわ。対戦車壕の外からでは深刻な脅威にはならないから。もしまた大口径榴弾砲を装備した敵が現れたら、その時考えましょう」
それからは持久戦だった。街の外をうろつく敵は対戦車壕を超えてはやって来れず、7.6センチ戦車砲ではヘルガたちの陣地に大きな損害を与えることは出来ない。
ヘルガたちも弾薬が不足しているため、積極的に攻撃することは控えていた。街の備蓄食料はあと二週間分はある。それまでに東部戦線が立て直されれば、援軍がやってくるはずだった。
*
それからの数日は、T-34/76との小規模な戦闘が散発的に発生するだけで、小康状態が続いていた。まれに、嫌がらせのように榴弾が街の中心部に打ち込まれたが、正確な間接照準を行っている訳ではないので、大抵は何も無いところに着弾するだけだった。街の外にある農地が敵に踏みにじられるのは腹立たしいが、対戦車壕よりも内側で息をひそめている限りそれ以外の損害は無かった
東部戦線は未だに混迷を続け、再構築された戦線を敵の重戦車で突破される状況が続いていた。騎士達は欧州全域からエレファントやナスホルンをかき集めてほころびの手当をしようとしていたが、自走以外に移動手段が無いため効果が出るまでまだ何日か待たされそうだ。
「このところ急に平和になりましたねぇ」
かつて市庁舎があったガレキの脇にテントを張って、応急の指揮所にしているヘルガのところへ、やっと医者から解放されたイルメラがやって来た。
「お嬢様、ヒドイ目に遭いましたよぅ。こちとら健康体だって言うのに、検査だなんだとベッドに縛り付けられて……」
ヘルガに仕えるのが何より大好きなイルメラにとって、何もせずにベッドに寝ているのは拷問に匹敵する苦痛だったようだ。
「それで、どこか異常は見つかったの?」
「いえ、爆風でしばらく耳が遠くなってた以外は絶好調でした」
「まぁ、たまには健康診断受けるのも良いんじゃない?」
「医者は嫌いなんですよぅ」
ふてくされながらイルメラが指揮所の椅子に座ると、丁度ユーリアが紅茶を運んで来た。
「あ、イルメラさん、退院なさったんですね?お怪我は大丈夫でしたか?」
テーブルにカップを並べながら、不安そうな顔をイルメラに向ける。
「心配させちゃってごめんなさい。全然問題ないから」
「よかった!」
「あ、問題ない訳じゃないんだった。メガネが吹き飛ばされちゃって、何も見えないんですよぅ」
「そうか、なんか違和感あると思ったら、メガネかけてないんですね?」
「これじゃキューベルワーゲン運転出来ません……」
イルメラの裸眼視力は0.1を切るため、実質何も見えていないに等しい。実はこれは結構深刻な問題だった。車の運転技術を持った人間は限られるため、キューベルワーゲンを使った作戦は事実上不可能になってしまった。
「こちらの手のうちもバレてるし、キューベルワーゲンを囮に使うのはやめましょう」
「すいません……」
「元気出してください。怪我が無かったんですから、ラッキーじゃないですか」
しょげかえるイルメラに紅茶を勧めると、ユーリアは指揮所の通信機の前に座り、無線を傍受し始めた。
「敵のピーガー音、最近かなり頻繁に入ってくるんですが、敵にあまり動きは無いですね」
「そうね。いつものT-34が嫌がらせに来るくらいかしら」
ヘルガは平静を装っていたが、本心は嫌な予感でいっぱいだった。待つ事しか出来ない現状では、いたずらに不安を煽り立てても仕方が無い。部下にはつかの間の平和を楽しんでほしかった。
*
丁度そのころ、南端の塹壕で敵を警戒していたローテ小隊の赤毛の小隊長、ミヒャエラは地平線の向こうからやってくる異様な集団を双眼鏡にとらえていた。
「突撃砲?」
それは一見味方のⅢ号突撃砲を思わせる形状をしていたが、ダークグリーンの塗装は敵である事を示している。のろのろとこちらへ向かってくる敵影はおよそ十二両。近づくに連れて、その異様な砲身のディテールが見分けられるようになって来た。
「SU-152!?」
その圧倒的な物量に、一気に血の気が引く。
「通信兵!至急お嬢様に連絡! SU-152と思われる自走砲十二両あまりを発見! こちらへ向かってくる模様!」
「小隊長、どうしましょう……」
対戦車ライフルを握りしめ、蒼白な顔色で部下が指示を求める。
「敵の目をつぶして足を止める! 総員対戦車戦闘用意!」
ローテ小隊の戦車猟兵メイド達は、震える手で対戦車ライフルに弾薬を装填する。
「ニーナ、オティーリエ、パウラはペリスコープを、レギーナ、ザシャはキャタピラを狙って! 左から片付ける!」
残弾数は一人当たり五発あまり。無駄弾は許されない。ローテ小隊の六人はライフルの照星に敵をとらえたまま、息をひそめて射程距離に入るのを待った。
7
「お嬢様! ローテ小隊から入電です! SU-152が十二両、南からこちらへ向ってます!」
ヘルガは飲みかけのティーカップをソーサーへ戻すと、テーブルの上の規格帽を手に取って立ち上がった。
「ブラウ、ゲルプの各小隊へ、南のローテ小隊へ合流するよう指示を出して。その後工兵隊長に繋いで」
「分かりました」
ヘルガは覚悟を決めていた。これが恐らく最後の戦いになるだろう。
「工兵隊長に繋がりました」
「テレーゼ、折り入ってお願いがあるの」
「お嬢様、言われなくても分かっています。突撃のタイミングは対戦車ライフルを撃ち尽くした時で良いですね?」
工兵隊長のテレーゼは、ノイズまじりの通信機の向こうから静かにヘルガの意図を確認する。
「済まない……」
ヘルガはテレーゼに「最後の手段」を命令すると、街の責任者に避難の依頼をするためにテントを出た。
「イルメラ、市長さんのところへ行きましょう」
「はい、お嬢様」
テントの外では昼下がりの日差しが飴色に染まり、既に夕暮れの前触れを感じさせていた。
*
テントから徒歩で数分のところに古い教会がある。堅牢な石造りで、地下の納骨堂は現在市民の避難所になっていた。
ヘルガとイルメラは教会の扉をくぐると、礼拝堂に仮市長室を置いて事務作業をしている市長を見つけた。
「市長さん、緊急のお話があります」
珍しく物怖じせず、まっすぐと目を見て話すヘルガに驚きながら、市長は椅子から立ち上がった。
「どうしましたか? 隊長さんに副隊長さん」
「こちらに向ってくる敵を発見しました。今回のは非常に厄介です。至急市民の皆さんを避難させてください」
「分かりました。カール君、至急連絡を」
市長から指示を受けたカール氏は、慌てて席を立つと外に向う。
「市長さん、残念ながら、今回の敵の撃退は難しいと思われます」
沈痛な表情で話すヘルガに、市長は無言で彼女が先を続けるのを待っている。
「先日撃退したKV-2並みの敵が十二両確認されています。しかし我々にはもう弾薬が十分残されていません。もし可能であれば、市民の皆さんは今すぐこの街から脱出してください」
「ヘルガさん、気に病まないでください。あなた達が残ってくれていなければ、私たちは既に全滅していたでしょう」
市長は半ばこの日が来るのを予見していたように、静かに話し続ける。
「たとえこの街を放棄しても、隣の街には私たちを受け入れる余裕はありません。それに隣の街が安全とも限りません。私たちは既にこの街と運命を共にする事を決めています」
産業革命以前に後退してしまったこの世界では、人口を維持するために必要な食料を確保するのも非常に難しくなっていた。街は一つの独立した生命圏となっており、極端な人口の増加は生命維持システムの破綻をもたらす。そのため、街
が滅びる時は市民もその運命を共にするのが、この近辺の人々の暗黙の了解となっていた。
「分かりました。でもなるべく安全な場所に隠れていてください。教会が敵の攻撃に耐えられれば、生き残る可能性もあります。では、行きましょうイルメラ」
「待ってください、ヘルガさん」
きびすを返して出口へと向う二人を市長が呼び止める。
「これを持って行ってください」
市長は机の引き出しから一つの鍵を取り出した。
「これは高射砲台の鍵です。昔から、街が危機に陥ったときに騎士の方へ渡すよう、言い伝えられてきました。あなたも騎士の血筋と伺っています。どうかこれを持って行ってください」
ヘルガは市長が差し出す、その小さな金色の鍵を受け取った。
*
半信半疑ながらも、鍵を握りしめてキューベルワーゲンで南へと向う。イルメラがメガネを無くしてしまったため、今回の運転手はヘルガである。例によってガクガクとノッキングを繰り返しながら、なんとか南の陣地へと車を走らせていた。
「お嬢様、本当に使い物になるんでしょうか?」
座り慣れない助手席で、ヘルガの下手糞な運転に思わず存在しないブレーキを踏もうと右足に力を入れてしまいながら、イルメラはヘルガに問いかける。
「分からない。騎士は故障した戦車を修復する能力があると聞いた事があるけど、私はそんな事した事無いし……」
ヘルガの父親はⅣ号戦車を操る騎士だった。しかし四年前に不慮の事故で母親共々命を落とし、まだ幼かったヘルガには騎士の事などさっぱり分からなかった。
その事故が元で騎士の知識を持つ執事やメイドが全て居なくなってしまったため、イルメラも騎士についての知識は継承していない。
やがて南の陣地が近づくと、その後ろにそびえる高射砲台も視界に入って来た。
「ここね。とりあえず昇って見ましょう」
キューベルワーゲンを高射砲台の前に止め、市長から託された鍵で入り口の扉を開ける。小さな金色の鍵は鍵穴にぴたりと嵌り、鍵をひねるとカチリと言う小さな音とともに封印が解けた。
扉の中は螺旋階段になっており、ぐるぐると塔の壁の内側を回りながら昇るようになっている。ヘルガはイルメラを伴って、その窮屈な階段を昇り始めた。
やがて階段を昇りつめると、塔の頂上は小さな広場になっており、そこには錆びに覆われた8.8センチ高射砲が空を睨んでいた。
「錆だらけですねぇ。使い物になるのかな、これ?」
早速イルメラが高射砲のレバーをいじり始める。
「うーん、だめだ動かない……」
広場の隅には弾薬箱もあり、中からは8.8センチ徹甲弾が出て来た。
「これが使い物になればなぁ」
ヘルガも一縷の望みをかけて高射砲を操作してみようとしたが、固く錆び付いたハンドルは全くうんともすんとも言わない。そんな事をしているうちに、遠くからディーゼルエンジンの排気音が微かに聞こえて来た。
「お嬢様、奴らです!」
高射砲台の上からだと、こちらへ向ってくるSU-152と、敵を迎え撃つ味方の陣地がよく見える。塹壕の中には既にローテ、ブラウ、ゲルプの各小隊が射撃体勢に入っており、射程内に敵が入ってくるのを待ち受けていた。対戦車壕では、冷たい泥水に腰まで浸かりながら、工兵メイド達が爆薬や吸着地雷を抱えて、突撃のタイミングを伺っている。
やがてSU-152が対戦車壕の直前まで到達すると、一斉に対戦車ライフルが火を噴いた。良く訓練された戦車猟兵達の狙撃は一糸乱れず、SU-152のペリスコープを打ち抜き、キャタピラのリンクを切って行く。しかしSU-152は彼女達の攻撃を全く意に介さず、ゆっくりと狙いを付けると、ローテ小隊の塹壕に向けて榴弾砲を放った。
「ミヒャエラ! 逃げて!」
イルメラがいたたまれずに叫ぶが、ローテ小隊の陣地まで声が届く訳も無く、ローテ小隊は榴弾に蹴散らされてしまう。
それでもローテ小隊の生き残りは、果敢に残りのライフル弾を敵に浴びせる。やがてライフル弾を撃ち尽くすと、今度は対戦車壕から工兵メイド達がSU-152に向けて突撃を開始した。
まずは右端のSU-152に取り付くと、吸着地雷を敵の装甲に張り付け、起爆する。吸着地雷が底をつくと、対戦車地雷や爆薬に遅延信管を付けて、装甲の薄い戦闘室やエンジンルームの上部で起爆するが、回転砲塔を持たないSU-152にはなかなか致命傷を与えられない。
こうして二、三両を撃破することが出来たが、敵の機銃掃射を受けてそれ以上敵に近づけなかった。そうしているうちにも、生き残った残りの八両あまりのSU-152が、街の中心に向けて15.2センチ榴弾砲を浴びせ始める。
「まずい、このままじゃ全滅する……」
眼下に広がる絶望的な光景になす術も無く、ヘルガとイルメラは立ち尽くした。
「私に騎士の力さえあれば……」
ヘルガは自らの無力に歯ぎしりをすると、一縷の望みをかけて8.8㎝高射砲の閉塞器に手を当てた。
「お父様、お願い力を貸して!」
その時、高射砲台の存在に気がついた一両のSU-152が、ヘルガ達の居る頂上へ向けて榴弾砲を放った。直撃は免れたが、高射砲台をかすめた榴弾は空中で爆発し、破片がヘルガ達に降り注いだ。
*
一瞬何が起こったのか理解出来ず、気がつけばそばに血まみれのイルメラが倒れていた。SU-152がこちらを照準しているのに気がついたイルメラが、ヘルガの上に覆い被さってかばってくれたのだ。
しかしヘルガも無事では済まず、ヘルメットが吹き飛んだ頭からは、暖かい血があふれて来ていた。よろよろと立ち上がったヘルガは、8.8㎝高射砲に寄りかかりながらもう一度最後の望みをかける。
「お願い力を貸して……」
頭の傷から溢れ出た血液が錆び付いた砲身に触れたとき、それまで沈黙を守っていた8.8㎝高射砲が不意に光を放ち始めた。呆然として見守るヘルガの目の前で錆が空中に霧散し、工場からロールアウトした直後の様な、金属の光沢を放ち始める。
慌ててヘルガは足元に転がっていた徹甲弾を装填すると、台座から突き出したハンドルを回す。この砲台は当初から地上攻撃も考慮されていたようで、マイナス俯角が取れるようになっていた。おおよその位置を合わせたら、砲の右側に位置する照準を覗いてハンドルを回し、SU-152に狙いを付ける。
「ぶっ壊れろ!」
気合とともに射撃レバーを引くと、8.8センチ高射砲の高初速特有の発射音とともに、徹甲弾がSU-152へと吸い込まれて行った。
*
8.8センチ高射砲によって、残りの敵も全て撃破され、今や戦場に動く戦車は一両も残っていなかった。
あの後、気絶したイルメラを背負って高射砲台を降りたヘルガは、キューベルワーゲンで味方の陣地へと向った。
ローテ小隊の小隊長ミヒャエラは、榴弾の破片を頭に浴びて即死していた。他にもローテ小隊の隊員に重傷者が出ていたが、幸いにも致命傷は免れた。
一番危険な任務を遂行した工兵隊は、意外にも一人の負傷者も出さずに帰還した。ブラウ、ゲルプの各小隊も、榴弾の破片で若干の負傷者は居たが、いずれも軽症だった。ローテ小隊が突出して攻撃していたため、敵の反撃がそちらへ集中し、他の小隊への被害が食い止められたようだった。
街への攻撃も教会の地下までは届かず、市民への被害はゼロだった。
*
全てが終わった後に、市長の主催でミヒャエラの葬儀が執り行われた。戦車猟兵の中では最古参の彼女も、まだ二十五
歳だった。身寄りが無い彼女の遺体は、街の共同墓地に英雄として埋葬された。
ヘルガをかばって榴弾の破片を浴びたイルメラは、幸いにも致命傷を免れたが、背中にいくつかの傷が残り、一部の破片は取りきれずに体内に残ったままになってしまった。また、大きめの破片が右太ももを貫通したため、その後しばらくは歩行困難となり、大嫌いな病院のベッドに一ヶ月も寝ているはめになった。
ローテ小隊の重傷者、ザシャは、横腹に破片を受けて摘出手術を受けた。幸い内臓は無傷だったため、横腹に小さな傷が残っただけで、二週間ほどで歩き回れるようになった。しかし弱冠十六歳の彼女にとって、姉同然だったミヒャエラの死は深く精神を傷つけて、再び対戦車ライフルを手に戦場へ戻る事は出来なかった。彼女はこの街に残り、ミヒャエラの墓を守って残りの一生を過ごした。
*
長い休息期間を経て、カンプグルッペ・ヘルガは後方へと移動を開始した。三両の馬車と一両のキューベルワーゲン、一両のフィールドキッチンの隊列は、石畳の街道を西へと進み、次の戦いを求めて彷徨うのだった。
二〇一三年十二月三十日 第一版 発行
発行者 Quintessence(やまいしゆたか & 深井龍一郎)
連絡先 : y_iwata@mac.com
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C85の新刊です。SF+ミリタリーな感じのラノベ風オリジナル小説です。