No.105793

還魚

朝喜紅緒さん

大昔に書いたものです。詩のような小説をテーマにしたもののひとつ。

2009-11-07 19:47:06 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:707   閲覧ユーザー数:699

彼は、魚だった。

―― プールの海で、泳ぐ魚。

誰よりも、海に近い人だった。

 

 

彼はいつも、誰よりも長く水の中にいた。

水に溶けている様に。

いつまでもその中から、出てこないような気がした。

 

 

七月。

ずっと、彼が泳ぐのを見ている。

すごく、きれい。

澄んだ海で、魚は泳ぐ。

 

 

八月。

彼が、消えた。

水の中にも、現れなかった。

 

 

九月。

彼が現れたのは陸の上。

痛々しく引き摺られている、足。

魚は泳げなくなっていた。

 

 

彼は、水に溶けてしまった。

「魚は海にかえります」

そう呟いて消えてしまった。

 

 

気がつけば、プールサイドに立っていた。

服を着たまま飛びこんだ。

魚がおぼれて溶けていったその水は、私の涙をすくい取った。

 

 

たった一匹の魚の死。

それでも海は、哭いている。


 
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