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オレの愛しい王子様【第16話〜第22話(最終話)】

瑞原唯子さん

幼なじみの男装令嬢に片思いする少年の話。

ずっと翼のそばにいて、翼を支える——。
幼いころ創真はひとりの少女とそう約束を交わした。
少女はいつしか麗しい男装で王子様と呼ばれるようになるが、

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2020-03-13 21:55:48 投稿 / 全7ページ    総閲覧数:832   閲覧ユーザー数:832

第16話 指名

 

 あれから十日が過ぎても、創真と翼の関係は何も変わっていなかった。

 終わらせたよ、と遊園地から帰るときに言っていたので、予定どおり綾音に告白してふられてきたのだろう。寂しそうでありながらどこかすっきりとした様子で、気持ちに一応の区切りがつけられたことが窺えた。

 しかしながら創真との今後についてはまだ何も話をしていない。さすがにふられてすぐには難しいだろうし、翼が自ら話したくなるまでゆっくり待とうと思っている。もう焦る理由はないのだから。

 

「そうだ、おまえあした夜九時にうちに来られるか?」

 穏やかに晴れわたっているのに空気が肌を刺すように冷たい朝。いつものように翼と登校していると、校門が見えてきたあたりでふとそんなことを尋ねられた。

「まあ、大丈夫だと思うけど……」

 やけに遅い時間だが、西園寺の家であれば親が反対することはないはずだ。先方から呼ばれたのならなおのこと。ただ、どういう用件なのか見当もつかなくて小首を傾げる。

「そんな時間に何するんだ?」

「祖父から話があるらしくてな」

「オレに?」

「僕と両親も呼ばれている」

「ああ……」

 面子からして拉致事件に関係する話ではないかと察しがついた。わざわざ創真を呼ぶということは創真が怪我をした件だろうか。ただ、もう謝罪は受けたし終わった話だと思っていたのだが——。

「おはよう、諫早くん!」

「うわっ」

 後ろから東條が挨拶しながらガバリと肩を組んできた。創真はすこしつんのめり、思わず口をとがらせてじとりと横目で睨んだものの、彼はおかまいなしに肩を抱いたまま覗き込んでくる。

「深刻そうな顔してたけど何かあったのか?」

「……別に」

 隠すようなことではないが、話していいのかどうかわからなかったし、東條に拉致事件を思い出させてしまうのも憚られた。しかし、彼はどう思ったのか創真の向こうに白い目を向ける。

「ま、どうせまた翼のことなんだろうけど」

「このところずいぶん僕に当たりが強いな」

「諫早くんの味方だからな」

 苦笑する翼に、東條は悪びれることなく当然のように答えた。

 遊園地で綾音にデレデレしていたことにまだ腹を立てているのだろう。あれ以来、ことあるごとに創真にくっついて味方アピールをするようになった。翼には意図が伝わっていない気がするけれど。

「行こうぜ」

 東條はがっちりと創真の肩を抱いたまま歩き出し、そのまま横から頭をくっつけてきたかと思うと、そっと耳打ちするように言う。

「いつでも話くらい聞くからな」

 それは遊園地でも言ってくれたことだ。創真の表情はわずかにゆるむ。

 そのとき——いつのまにか創真たちに追いついて並んで歩いていた翼が、こちらを横目で見ながらどこか苛ついたような表情を浮かべていたことには、まったく気付いていなかった。

 

 翌日、指定された時間に西園寺の家を訪れた。

 案内された部屋に入ると、翼とその両親、それに姉の桔梗がすでに席に着いていた。桔梗が来るとは聞いていなかったので驚いたが、にっこりと優雅に微笑みかけられて我にかえり、あわてて会釈する。

「創真、こっちだ」

 翼にひどく不機嫌そうな声で呼ばれて、隣に座った。

 それきり広い部屋はしんと静まりかえった。口を開かず、音を立てず、みんなただ姿勢を正して座っているだけである。創真は迷ったが、やはり気になるので翼に顔を近づけてそっと話しかける。

「桔梗さんも来てるんだな」

「祖父に呼ばれていたらしい」

「あの事件の話じゃないのか?」

「何の話かは聞いてないよ」

「そうか……」

 どうやら創真がひとり勝手に思い込んでいただけのようだ。しかし、わざわざ部外者の自分を呼びつけるような話など他に見当もつかない。小首を傾げながら思案をめぐらせていると——。

「皆、来ておるな」

 ゆっくりと扉が開いて、皆をここに呼び集めた当人である西園寺徹が現れた。当主にふさわしい風格を見せつけるように堂々と中央を進み、彼のために空けられていたいちばん奥の席につく。

「創真くん、遅い時間にすまないね」

「あ、いえ……」

 どう応じればいいかわからず漠然とした返事をしてしまったが、彼は気にしていないようだ。マホガニーの上でゆったりと両手を組み合わせて小さく息をつき、真剣なまなざしを皆に向ける。

「まず最初に、ここでなされた話はすべて他言無用に願いたい。良いな?」

「承知しました」

 翼の父親の征也が静かにそう答えて、他の皆も頷いた。

 その硬い雰囲気にいやがうえにも緊張が高まり、創真はごくりと唾を飲む。そのまま徹を見つめて次の言葉を待っていると、長くはない沈黙のあと、彼はあらためて前を向いて厳かに口を開いた。

「私は、西園寺家当主と西園寺グループ会長を辞することに決めた。時期は来年度。後任はどちらも予定どおり征也になるだろう」

 それを受けて征也が頭を下げる。

 ちらりと隣に目をやると、翼は眉をひそめて納得のいかないような顔をしていた。征也が過去にしたことを思うと無理もない。それでも反対の声を上げたりはしなかった。

「そして次の後継者だが……」

 途端に翼はハッと我にかえったように表情を引き締め、背筋を伸ばす。

 次期後継者は新当主就任時に指名を行うのが慣例らしい。生まれたときから後継者として育てられてきた翼も、指名を受けてようやく正式な後継者として認められる。その内示がこれから出るのだろうと思ったが——。

「桔梗を指名するつもりだ」

「……えっ」

 幽かな声を落として翼は凍りついた。

 創真も驚いて頭の中がまっしろになったが、桔梗はたおやかに頭を下げ、征也は心苦しそうな面持ちで目を伏せていた。この反応からすると二人とも知っていたのだろう。けれど母親の瞳子は初耳らしく、顔面蒼白になりながら大きく目を見開いている。

「き、桔梗って……どう、し、て……」

 わなわなと唇を震わせながらそう声を絞り出したかと思うと、縋るように徹のほうへと身を乗り出す。

「どうして翼ではないのです?!」

「瞳子、落ち着きなさい」

「桔梗は女ではないですか!!」

 征也の制止などまったく耳に入っていないかのように、悲痛な声で喚き散らした。けれど徹はすこしも動じることなく丁重に答えていく。

「男子でなければならないというのも時代錯誤だろう。ここで変えていくのがいいと判断した。時代遅れの慣習にしがみついていては生き残れない」

「いまさら、そんな……」

「すまなかった。瞳子さんが女児を産むたび周囲に落胆され、次を望まれ、ひどく追いつめられていたのはわかっていた。だからこそ変えたかったのだ」

「う……っ……」

 瞳子は泣きそうに顔を歪ませてうつむくと、その顔を両手で覆い、細い肩を震わせながらしゃくり上げ始める。その姿は大人とは思えないくらい頼りなくて、弱々しくて、いまにも壊れてしまいそうだった。

 征也は静かに立ち上がって内線電話で使用人を呼び、彼女を休ませるよう命じた。

 

「私ではなく、桔梗姉さんを選んだ理由を聞かせてください」

 瞳子が使用人に支えられながら退出し、話を再開する場が整ったところで、翼がそう切り出した。まだ顔色は優れないものの落ち着いてはいるようだ。まっすぐ徹を見据えたまま理性的に畳みかけていく。

「私も女です。慣習を変えたいだけなら私でもよかったはずです。だからそれ以外の理由があるのでしょう。私でなく桔梗姉さんでなければならなかった理由が。せめてそれを聞かせてください」

「能力、資質、適性などを総合的に判断して桔梗を選んだ」

 返ってきた答えはそれだけだった。

「そう、ですか……」

 あからさまに納得のいかない表情を浮かべながらも、翼は口をつぐんだ。そのままうつむいて膝の上でグッとこぶしを握り込んでいく。あらゆる感情をそこに押し込めようとするかのように——。

 翼は生まれたときから西園寺の後継者となることを定められていた。性別を偽ることを強要され、後継者にふさわしい人間であれと言い聞かせられて。それゆえ翼自身もそうあろうと努力してきた。

 それなのに、いまになってこんなにもあっさりと切り捨てるだなんて。それも普通に女として生きることを許されてきた桔梗を選ぶだなんて。翼の気持ちを思うと胸が押しつぶされそうになる。

 ただ、徹はおそらく何もかも承知のうえであえて桔梗を選んだのだ。その意味するところを悟ったからこそ翼も口をつぐんだのだろう。だとすれば部外者の創真に言えることなどありはしない。

 そういえば、オレはなんでここに呼ばれたんだ——?

 翼を支えるつもりで後継者教育にも同席してきたのだから、まったくの無関係とはいえないが、西園寺家からすると家族でも親族でもない部外者である。なのにこんな内々の場にどうしてわざわざ。

「さて……」

 徹が静寂を打ち破り、その声で創真は思考の海から引き戻される。

「いささか気の早い話だが、そうなると桔梗には婿を取ってもらわねばならない。後継者はあくまで桔梗だということをわきまえて、控えめながらも公私にわたって誠実に支えてくれる、身辺に問題のない人間を」

 本当に気が早いなと他人事ながら微妙な気持ちになったが、桔梗本人は美しい居住まいを崩していない。うっすらと微笑さえ浮かべている。どうしてそんなに余裕でいられるのか不思議に思っていると。

「私は、創真くんを桔梗の婿にしたいと考えている」

「え……オレ?!?!」

 混乱したまま自分を指さして聞き返す。何かの間違いではないかと思ったが、徹は真面目な顔で頷いた。

「ご両親には許しを得ている。君は後継者の補佐となるために勉強を続けてきた。この西園寺の家で。つまり西園寺家は君に投資してきたということだ」

「ちょっと待ってください!」

 彼の言わんとすることを明確に理解して、あわてて声を上げた。

「そんなの後出しじゃないですか。オレは翼を支えるために勉強してきたんです。翼しか支える気はありません。投資とか言うなら、そもそも翼を後継者にしないとおかしいですよね?!」

「創真、もういい……」

 振り向くと、翼がうつむいたまま力のない自嘲を浮かべていた。創真は息もできないくらいにギュッと胸を締めつけられ、固まってしまう。それを見計らったかのように徹が声をかけてきた。

「創真くん、もちろん君の意思は尊重するつもりだ。ただ、ここで感情的に断ってしまうのではなく、落ち着いて一度じっくりと考えてみてほしい。まだずいぶん先のことなのだからな」

「…………」

 頑なに拒むとかえって面倒なことになる気がして、ひとまず曖昧に頷いた。けれど気持ちが変わることは絶対にない。納得してもらうには、しばらく考えたふりをしてから断るしかないだろう。

 

「話は以上だ」

 皆はすぐに退出するが、翼だけは深々とうつむいたまま動こうとしなかった。その暗然とした様子に創真は声をかけることも躊躇してしまう。それでもせめて隣にいようと思っていると——。

「悪いが、今日はもう帰ってくれないか。ひとりで気持ちを整理したい」

「……わかった」

 すこし迷ったが、ひとりになりたい気持ちもわからないではないし、その願いを無視してまで居座ることなど自分にはできない。またあしたな、とあえて普段どおり軽く挨拶をして部屋をあとにする。

 翼はずっと下を向いたまま一瞥もくれなかった。

 

「創真くん」

 ひとり玄関に向かう途中、ふいに背後から名前で呼びかけられてビクリとする。おずおずと振り返ると、桔梗がどこか寂しそうに微笑みながら肩をすくめた。

「怯えなくても取って食いはしないわ」

「あ、いえ……すみません……」

「私、あまり良く思われていないのね」

「そういうわけじゃないですけど」

 あわてて否定したが、桔梗の婿にと言われてあれほど感情的に反抗したのだから、いずれにしても彼女からするとあまり気分はよくないだろう。いまさらながら気付いて気まずさに目を伏せる。

「でも、桔梗さんこそオレなんかとじゃ……」

「私は創真くんでよかったと思っているわ」

「えっ?」

 思わず顔を上げると、桔梗はくすりと小さく笑って言葉を継ぐ。

「創真くんのことは前々から買っていたもの」

「……だからって好きでもないのに結婚なんて」

「好きよ、創真くんのこと」

「…………」

 わけがわからなかった。いきなりそんなことを言われて素直に信じるほどおめでたくはない。好きだなんて出任せだろう。それなのにいったいどうしてこんな結婚を望んで受け入れようとするのか——。

「いい返事を待ってるわ」

 桔梗は一分の隙もないきれいな笑みを浮かべて一礼すると、身を翻し、艶やかな黒髪をなびかせながら颯爽と歩き去っていく。その後ろ姿を、創真はもやもやした気持ちのままただ黙って見送った。

 

 

第17話 バレンタインデー

 

「僕を待たせるとはいい度胸だな」

 翌朝、翼は西園寺邸の玄関でいたずらっぽくそう言って創真を出迎えた。まるで昨晩のことなどすっかり忘れてしまったかのように。創真は困惑するが、だからといってわざわざ蒸し返すようなことを言うのも躊躇われる。

「……悪かった」

「次はペナルティだぞ」

「気をつける」

 翼はふっと笑い、いつもと変わらない颯爽とした足取りで玄関をあとにする。

 創真はその後ろ姿をぼんやりと目で追うが、ほどなくして我にかえり、あわてて小走りで追いかけて隣に並んだ。

 

 昨晩はいろいろぐるぐると考えをめぐらせてしまい、ほとんど眠れなかった。

 帰宅して母親に尋ねたところ、桔梗との結婚については実際に西園寺から話があり、許可を求められたが、どうするかは本人に任せると答えたそうだ。それで創真が呼ばれることになったのだろう。

 昔から両親は放任主義で、創真にも兄にも好きなように生きればいいと言っている。父親の会社を継がせるつもりも特にないようだ。創真がずっと翼を支えると言っても肯定も否定もしなかった。

 今回の件についてもどうこうと意見することはなかった。いますぐ返事しないといけないわけではないんだし、頭を冷やしてゆっくりしっかり考えてみたら、と他人事のように言うだけである。

 もっとも自分の気持ちは考えるまでもなく決まっている。ただ、いつどのように断れば上手くいくのか、翼とどう向き合えばいいのかなど、これからのことを考えると悩みは尽きなかった。

 

「翼くん、これもらってくれる?」

「いただくよ、ありがとう」

 通学途中、何度も同じクラスになっている女子から小さな手提げ袋を差し出され、翼はよそいきの笑顔で受け取った。それがどういう類いのものかは聞くまでもなくわかっているのだろう。

 今日は二月十四日、つまりバレンタインデーなのだ。

 毎年、翼は義理から本命まで数多くのチョコレートをもらっている。かなり面倒だと思うが、そんなことはおくびにも出さずにいつも笑顔で応対していた。女子が求める理想の王子様そのままに。

 当然ながら今日も完璧なまでに理想の王子様を演じていた。しかし女子から離れるとふと目がうつろになる瞬間がある。よく見ていなければわからないくらいの変化だが、東條も気がついたようだ。

「なあ、諫早くんも翼もどうかしたのか? 元気ないみたいだけど」

「ああ……」

 昼休み、翼が女子に呼ばれたので東條とふたりで学食に向かっていたところ、彼から気遣わしげにそんなことを尋ねられた。自覚はなかったが、どうやら創真も元気がないように見えているらしい。

「もしかしてケンカしたとか?」

「そういうわけじゃない」

「翼には内緒にするから話せよ」

「西園寺の家に口止めされてる」

「ああ……そういうことか」

 東條は急にトーンダウンした。彼もまた西園寺家に口止めされている身なので、詳細はわからずとも事情は理解できるのだろう。ただ、ますます心配そうな顔になり創真を覗き込んでくる。

「大丈夫なのか?」

「……多分」

 何をもって大丈夫とするかはわからないが、翼はきっと元気を取り戻すだろうし、創真との関係も悪いようにはならない。根拠はないものの創真はそう信じていた。

「これやるから元気出せよ」

「えっ?」

 ふいに軽そうな茶色の小箱がふわりと投げてよこされて、あたふたと両手でキャッチする。わけがわからないまま目を落とすと、そこには有名チョコレートブランドのロゴが刻印されていた。

 まさか、これって——。

「あ、違う違う、俺がもらったものじゃなくて家から持ってきたんだよ。諫早くんにあげようと思ってさ。日本だと友達にもチョコをあげたりするって聞いたし」

「……男どうしではあんまりやらないけどな」

「そうなのか?」

 安価なチョコ菓子ならともかく、男が男友達にブランドチョコレートを渡すなんて一般的とは言いがたい。幼少のころに日本を離れたので日本独自の風習には疎いのだろう。

「ま、せっかくだからもらってくれ」

「お返しが面倒なんだよなぁ」

「ははっ、そんなの期待してないって」

「それなら……」

 ありがとな、と礼を言ってから上着のポケットにしまう。チョコレートは好きなのでもらえるのは素直にうれしいが、もらいっぱなしというのも気が咎めるので、やはり何かお返しはしようと思う。

 学食に入ると、カフェテリアでごはんとおかずを買ってから窓際の席をとった。スマートフォンを確認するが翼からの連絡はまだ来ていない。ひとまずふたりだけで向かい合わせに座って食べ始める。

「そういえば翼からはチョコもらったのか?」

 東條が箸を持ったままふと思い出したように尋ねてきた。結婚を前向きに考えるなどと話していたので真面目に気になったのだろうが、創真は思わず苦笑してしまう。

「あいつは自分がもらう認識しかないと思う」

「ああ……それなら催促すればよかったのに」

「別にこだわってないし」

 それは強がりでも何でもない。

 普通の女子みたいなことを翼に求めているわけではない。もちろんもらえたら素直にうれしいが、もらえなくても落胆はしない。それに——翼はいまバレンタインどころではないはずだから。

 

「悪い、待たせたな」

 放課後、他クラスの女子に呼ばれて廊下に出ていた翼が、そう言いながら創真たちのいる教室に戻ってきた。両手に余るくらいたくさんのプレゼントを持って。

「またずいぶんたくさんもらってきたなぁ」

「僕のために用意してくれたのに断れないだろう?」

「まあ、そうだよな……」

 東條は自分のスクールバッグを一瞥してうんざりしたように同調する。彼もときどき女子に呼び出されてはチョコレートを渡されていて、ファスナーの開いたスクールバッグからあふれかけていた。

 しかしながら翼はその比ではない。大きな紙袋ふたつがすでにほぼ満杯で、いましがたもらったものも詰め込むとあふれんばかりになった。その紙袋のひとつを創真に押しつけるように差し出してくる。

「これひとつ家まで持ってくれないか」

「ん、ああ……」

 そんなことを頼まれたのは初めてだったのですこし戸惑ったが、中学のときよりも増えているし、全部ひとりで持つのは確かに大変だろうとすぐに納得した。ただ、複雑な気持ちではあるけれど——。

 

 校門前で東條と別れ、翼といつものように話をしながら帰路についた。

 ただ、話題となるのは学校のことや東條のことばかりで、家に関係することはそれとなく避けているように感じられた。もっとも、こんな往来できのうのことを話すわけにはいかないのだが。

「悪いが、僕の部屋まで運んでくれないか」

「……わかった」

 創真は頷き、翼につづいて西園寺邸に上がる。

 もしかしたら部屋に上げるための口実としてプレゼントを持たせたのかもしれない。何となくではあるがそう感じた。だが創真としても翼に話しておきたいことがあったのでちょうどいい。

「あら、創真くん」

 階段を上がると、ちょうど降りようとしていたらしい桔梗と鉢合わせた。帰宅したばかりなのか制服のままだ。翼が不快そうに眉をひそめるのを横目で気にしつつ、創真は軽く会釈する。

「おじゃましています」

「荷物持ちをさせられているのね」

「あ、いや……」

「ちょうどよかったわ」

 そう言うと、桔梗は紙袋からダークブラウンの小箱を取り出して、にっこりと華やかな笑みを浮かべながら差し出す。

「これ、もしよかったらもらってくれないかしら。これから家に届けに行こうと思っていたの。創真くんチョコレート好きだったわよね?」

「えっと……」

 目が泳ぎ、返事に詰まる。

 桔梗がどうして創真にチョコレートを用意したかを考えると、無邪気に受け取るわけにはいかない。翼のまえではなおのこと——その葛藤を察してか桔梗はくすりと笑って言い添える。

「これを受け取ったからといって結婚を了承したことにはならないし、迫るつもりもないわ。私の気持ちとして創真くんにあげたいというだけよ」

「…………」

 それでも受け取ることができずにいると、隣の翼が溜息をついた。

「受け取ればいいだろう」

 まだ迷っていたのに、その言葉に推されてつい手を伸ばして受け取ってしまった。瞬間的に後悔する気持ちが湧き上がるが、いまさらやっぱり間違いだったなんて言えるはずがない。ほっと息をつく桔梗を見たらなおのこと。

「ありがとう」

「いえ……」

 あっ——彼女と言葉を交わしているあいだに、いつのまにか翼は何も言わずにひとりで歩き出していた。創真はあわてて彼女にぺこりと頭を下げると、遠ざかる寂しげな背中を全力で追いかけた。

 

「すまなかったな」

 翼は部屋に入るなり創真に持たせていた紙袋を引き取り、ふたつまとめて学習机に立てかけるように置くと、スクールバッグもそこに下ろして振り返った。その真剣なまなざしに創真がドキリとしていると——。

「創真、おまえは桔梗姉さんと結婚すべきだと思う」

「は……?」

 いきなり思いもしないことを言われて頭の中がまっしろになった。鼓動がだんだんと速くなっていくのを感じながら、縋るようにスクールバッグのショルダーベルトをグッと握りしめる。

「あっ……さっきチョコもらったからか? 返してくる!」

 あわてて踵を返して部屋を飛び出そうとしたが、腕をつかんで止められた。そのはずみでスクールバッグが床に落ちる。振り向くと、翼はうっすらと物寂しげな笑みを浮かべていた。

「桔梗姉さんは個人的には気にくわないが悪いひとじゃない。創真のことも前々から気に入っていたから、きっと良くしてくれるだろう。何より正しく女性だ。桔梗姉さんと結婚すればこれまでの勉強も無駄にせずにすむしな」

「そんなの関係ない!」

 黙って聞いていられなくて食いぎみに声を上げた。さらに前のめりになり畳みかけるように訴える。

「翼以外となんて考えられないんだ!」

「……聞いてくれ」

 翼は静かにそう言い、創真の体から力が抜けたのを見計らって語り始める。

「きのう、あのあと父からいろいろと聞かされたんだが……母は、跡継ぎとなる男子を産まなければと追いつめられていたが、僕を産んだときのトラブルで子供を望めない体になったそうだ。そのせいで心を病んでしまって、僕のことを男だと思い込むようになったらしい」

「病んで……?」

「本来、本家に男子がいなければ分家の男子を養子にして跡を継がせていたそうだ。女子しかいないからといって男のふりをさせたなんて前例はない。あくまで母が勝手にしたことで、家族はみんな見て見ぬふりをしてきた……要するに母の精神安定のために僕は人身御供にされたんだ」

 そのひどく残酷な話に創真は唖然とした。

 翼はふっと自嘲の笑みを浮かべる。

「滑稽だよな。母に言われるまま西園寺を継ぐためだけに生きてきたのに、すべて嘘だった。あげく女のまま生きてきた桔梗姉さんに惨めに負けてしまった。未来を失って、空っぽになって、これから先どうやって生きていけばいいかもわからない。おまえも愛想を尽かすだろう」

「は、なんだよそれ」

 反射的に声が漏れ、それからふつふつと怒りが湧き上がってくる。

「そんなくらいで嫌いになるわけないだろ、決めつけるな!」

 十年も片思いをしてきたのだから簡単に心変わりはしない。すぐに裏切るような薄情な人間だと思われていたことにも、ずっとそばで支えるという誓いを信じてくれなかったことにも、ひどく腹が立った。

「なあ、なんで何もかも終わったみたいな顔してんだよ。未来をなくしたんじゃなくて自由になっただけだろう。自分の意思で何だってできるし何にだってなれる。オレらの年齢なら、まだ将来のことを決めてなくても全然おかしくない。これからゆっくり考えて悩んで決めていけばいいんだ」

 真摯に語りかけると、翼はわずかに目を伏せて考え込んだ。

「そうだな……言われてみればそうかもしれない。自暴自棄になるより、そうやって前を向いて生きていくべきなんだろう。だからといってすぐに気持ちを切り替えるのは難しいし、どうすればいいかもまだわからないが……すこしずつでも前を向いていけるように努力はしようと思う」

 ひとまず冷静にはなったようだ。いまはまだ立ち上がる気力まではないのかもしれないが、翼ならきっとまた未来を見据えて歩き出せるようになるだろう。もちろん創真も一緒に——。

「ただ、創真が僕を支えるというあの約束は破棄しよう」

「は?」

 反射的に眉をひそめて聞き返してしまったが、それでも翼は動じない。

「あれは僕が西園寺を継ぐという前提で交わした約束だ。前提が崩れた以上、このまま継続するわけにはいかない。桔梗姉さんと結婚すべきというのは言いすぎだったが、僕に縛られることなく、これからはおまえも自由に自分の人生を歩んでほしい」

 いつもどおり理路整然とした発言だった。

 じっと見つめると、翼は目をそらさずまっすぐに見つめ返してきた。しばらくそのまま黙って視線を合わせていたが。

「わかった」

 そう返事をして、挑むような強いまなざしでグッとこぶしを握る。

「オレはこれからも翼のそばにいたいし、翼を支えたい。だから自由にしろっていうならそうさせてもらう」

 それが創真の望む人生だ。

 約束なんかあってもなくても関係ない。西園寺を継げなくても関係ない。翼と一緒にいたい、最初からただそれだけなのだ。創真のことを嫌がっているわけでないのなら、離れる理由はない。

 だが、翼はその熱情に怯んだように瞳を揺らしてわずかにうつむいた。めずらしく当惑していることが表情からも窺える。しばらくそのままじっと思い悩むような様子を見せていたが、やがて——。

「二つ、頼みがある」

 静かながらも芯のある声でそう切り出した。

「一つは、桔梗姉さんとの結婚についてはいますぐ結論を出さず、もうしばらくあらゆる角度から真剣に考えてみてほしい。もう一つは、気持ちが変わったら隠さず正直に言ってほしい」

「……わかった」

 創真のためを思って、後悔させないようにそういう条件を出してきたのだろう。これからも気持ちが変わらない自信はあるが、それで翼が安心するのならと素直に聞き入れることにした。

 そうだ——。

 ふと思い出し、足元のスクールバッグを探ってチョコレートの小箱を取り出した。東條にもらったものでも桔梗にもらったものでもない。それを翼の胸元にまっすぐ突きつけるように差し出す。

「えっ?」

「もらってくれ」

「これは……」

「本命だからな」

 この日のために一週間も前から用意していた。

 ただ、きのうあんなことがあったので渡すのをためらっていたが、いまあらためて自分の気持ちを伝えておきたいと思いなおしたのだ。

「いただくよ」

 最初こそ翼はすこし戸惑ったような表情を見せていたが、すぐにふっとやわらかく目を細めてチョコレートを受け取り、軽く掲げる。女子に向ける完璧な王子様とは違った自然な顔で——。

 それを見てようやく創真は大きく安堵の息をつき、つられるように微笑んだ。

 

 

第18話 ホワイトデー

 

 三月十四日、放課後の教室はいつもよりこころなしか賑やかだった。

 しかしそれも落ち着き、残っている生徒たちがだいぶ少なくなってきたころ、他クラスまで出かけていた東條が畳んだ紙袋を片手に戻ってきた。そのいかにも疲れたと言わんばかりの表情を見て、翼は軽く笑う。

「お疲れ」

「ああ」

 ホワイトデーということで律儀にも全員にお返しを用意したらしく、今日一日、東條は休み時間になるたびに方々へ渡しに行っていたのだ。放課後までかかってようやく完遂したらしい。

 ちなみに翼は昔からお返しはしないと公言している。それでもいいというひとからしか受け取らない。東條は今朝になって初めてその話を聞いたらしく、ずるい、俺もそうしたかったとうなだれていた。

 同情的なまなざしを向けていると、彼は大きく息をついて自分の席にどっかりと腰を下ろした。すぐにスクールバッグをつかんで帰り支度を始めるが、ふと何かに気付いたように隣に振り向く。

「もしかして俺を待っててくれたのか?」

「ああ、創真がおまえに用があるって言うからさ」

「諫早くんが?」

 驚いた目を向けられ、創真は思わずそっと視線をそらした。

 こんなはずじゃ——本当は、翼がいると気まずいので先に帰ってもらうつもりでいたのに、気付けば一緒に待つことになっていた。どんな用事かと聞かれて言葉を濁したことで怪しまれたようだ。

 こうなってはもう下手に隠し立てをしないほうがいいだろう。腹を括るしかない。何となく気恥ずかしくて何となく後ろめたいというだけで、いけないことをするわけではないのだから。

「これ、お返し」

 スクールバッグから白い小箱を取り出すと、東條に投げる。

 緩やかに放物線を描いたそれを、彼はすこしあわてながらもしっかりと両手でキャッチした。そして箱に箔押しされたブランド名から何であるか察したようだ。

「え、もしかしてバレンタインの?」

「やっぱりもらいっぱなしは悪い気がして」

「うわ、めちゃくちゃうれしい」

 そう言って、本当にうれしそうに破顔した。

 彼に渡したのはチョコレートである。チョコレートのお返しにチョコレートというのも芸がない気はするが、何もないよりはいいだろう。バレンタインにもらったものと同等くらいの品を選んだつもりだ。

「ちょっと待て」

 ふいに困惑したような焦ったような声が割り込んできた。振り向くと、翼がうっすらと訝しげに眉をひそめて東條を睨んでいた。

「僕は何も聞いてなかったんだが」

「おまえに報告する義務はないだろう」

「創真にチョコをあげたのか?」

「ああ、諫早くんにだけな」

「……創真のことが好きなのか?」

「だとしたら?」

 東條は挑発するように口元を上げる。いつものように応酬を楽しんでいただけなのだろうが、なぜか翼は真に受けてしまったようだ。とても静観などしていられず創真はあわてて口をはさむ。

「おい、変な悪ふざけはよせ」

「嘘は言ってないけどな」

 いたずらっぽい笑みを浮かべつつ東條はそう言い返してきた。完全にこの状況を面白がっている。創真は小さく溜息をついて咎めるように彼を睥睨したあと、翼に視線を移して釈明する。

「友達としてってことだからな。ただの友チョコだし」

「友チョコ……ああ……」

 その言葉はさすがに翼も知っていたようだ。ただ、女子どうしでやっているイメージが強いので、創真と東條には結びつかなかったのかもしれない。まだどこか疑わしげな顔をしている。

「翼はたくさんもらうだろうし、俺からのなんていらないんじゃないかと思って、諫早くんにだけ用意したんだよ。男どうしであんまりやらないって知らなかったし」

「そういうことか……」

 東條のフォローを聞いてようやく納得することができたようだ。いまだに微妙な面持ちはしているけれど——それでもひとまずおかしな誤解は解けてよかったと、創真は安堵の息をついた。

 

「じゃあ、またあしたな」

 いつものように校門前で東條と別れて、翼と帰路につく。

 ふたりとも無言だった。いつも話を振ってくる翼も今日はなぜかおとなしい。しかし住宅街に入ってまわりに誰もいなくなると、唐突に口を開いた。

「お返し、桔梗姉さんにも用意してるんだろう?」

「えっ……ああ、一応……帰りに寄っていこうかと思ってる」

「そうか」

 お返しをすることで変に期待させてしまう心配もあるが、もらいっぱなしにもできないので、東條に渡したチョコレートと同じ種類のものを用意した。それでもわざわざ家にまで行くのは気が重い。

「本当は学校でこっそり渡せたらよかったんだけど」

「いや、もしまわりに知られたら大騒動になりかねないぞ」

「だよなぁ」

 桔梗は昔から誰にもバレンタインのチョコレートを渡していない。本命はおろか義理チョコも友チョコも。それなのに創真がもらっていたなんて知られたらどうなるか、考えるだけでも恐ろしい。

「まあ、姉さんは外堀を埋められて喜ぶだろうけどな」

 翼はそう毒を吐くが、何となく想像がついてしまって創真も否定できなかった。

 ただ、どうして自分なのかはいまだにさっぱりわからない。気に入ってるだの買っているだの言われても、とてもじゃないが鵜呑みにすることなんかできなかった。

 

「こちらでお待ちくださいませ」

 創真は軽く会釈して、案内された応接間のソファに腰を下ろした。

 本当は玄関先で渡すだけにしたかったのだが、桔梗を呼んでほしいと使用人に伝えたところ、問答無用で応接間まで案内されてしまった。そうするよう桔梗に言いつかっていたのだろう。

「いらっしゃい、創真くん」

 ほどなくして桔梗が入ってきた。

 すでに私服に着替えている。クラシカルなロングのフレアワンピースというお嬢様らしい格好だ。軽やかながら品のある所作で創真の正面に腰を下ろすと、どこか申し訳なさそうな笑みを浮かべる。

「うちに上がるのは久しぶりかしら」

「そうですね……」

「その機会がなくなったものね」

 桔梗が西園寺を継ぐと決まり、翼は後継者になるために受けていた教育をやめてしまった。父親には続けても構わないと言われたものの断ったという。それゆえ同席という立場の創真も必然的にやめざるを得なかったのだ。

 もっともそのことについては特に何とも思っていない。新たに翼を支えるために必要なことを模索するだけだ。これからもずっと翼に寄り添っていくつもりでいるし、一緒に人生を歩めたらと思っている。だから——。

「これ、バレンタインのお返しです」

 雑談を切り上げるように早口でそう言いながら、すぐに取り出せるように準備していた小箱をローテーブルの上に置いて、立ち上がる。

「待って!」

 凜とした声で呼び止められると、まるで魔法にでもかかったように足が動かなくなってしまった。そんな創真をまじろぎもせずまっすぐに見つめたまま、桔梗はすっとソファから腰を上げる。

「西園寺の事情にここまで巻き込んでしまって、創真くんには本当に申し訳ないと思っているわ。でもこのままではあきらめがつかないの。だから……お願い、一日だけあなたの時間を私にちょうだい」

 その言葉に、その声に、いつも堂々としている彼女らしからぬ切実さがにじんでいた。漆黒の瞳もこころなしか潤んで揺らいでいるように見える。無視して背を向けることなどできなかった。

「……どういうことですか」

「私と過ごして、私を知ってほしいの」

「オレの気持ちは変わらないと思います」

「それならそれであきらめがつくわ」

 彼女の言い分もわからないではなかった。幼いころから面識があるとはいえ一緒に過ごした時間はそう多くない。なのに自分のことを知ろうともせず拒絶されたら納得できないだろうし、あきらめもつかないだろう。

 まあ、桔梗さんのほうが幻滅するかもしれないし——。

 そもそも彼女だって創真のことはたいして知らないはずである。気に入っているだなんて勝手な幻想を抱いているとしか思えない。一日一緒に過ごしてみたら現実が見えてくるのではないだろうか。

「わかりました」

 挑むようなまなざしで見つめ返してそう答えると、桔梗は小さく息をついた。その顔にはにかむような笑みが浮かぶ。それを見て、創真の胸にほんのすこし罪悪感のようなものがよぎった。

 

「お疲れ」

 応接間を出ると、壁にもたれながら口元を上げて腕を組んでいる翼がいた。コートは脱いでいるが制服のままである。その落ち着いた様子からもいま来たばかりには見えない。

「どうしたんだ?」

「桔梗姉さんに襲われていないか心配してた」

「そんなことあるわけないだろう」

「だが揉めているような声が聞こえてたぞ」

「ああ……」

 話の内容までは聞き取れなかったのだろう。すこし迷ったが、隠しきれるものでもないので正直に話すことにした。

「今度、桔梗さんと一日だけ一緒に出かけることになった。自分のことを知ってほしいって頼まれて、それで納得してくれるならと思って」

「そう、か……」

 目を伏せる翼を見て、創真は自分が落胆したことを自覚する。

 行くな——そう言ってくれることを無意識のうちに期待していたのだ。ありえないということくらいわかっているはずなのに。そもそも桔梗との結婚を真剣に考えるよう促したのは翼なのだから。

 そこはかとない寂しさを感じながらも顔に出さないようにしていると、ふいに翼が腕組みを解き、その下に隠し持っていた白い箱のようなものを軽く放り投げてきた。創真はあわてて両手で受ける。

 えっ、まさか——。

 白い箱には控えめな水色のリボンがかかっていた。今日という日から考えて思い当たることはひとつしかないが、とても信じられず、当惑したまま答えを求めるように翼に目を向ける。

「中身はマカロンだ。ただのお返しでそれ以上の意味はないからな」

「でも、お返しはしないんじゃ……」

「そこらへんの女子と同じ扱いをしたら怒るだろう?」

 翼はいたずらっぽく肩をすくめて言う。

 それはかつて自分がぶつけた言葉を引き合いに出しての揶揄だ——創真はぶわりと顔が熱くなる。いたたまれない気持ちになる一方で、自分の言葉をきちんと受け止めてくれていたことをうれしくも感じていた。

「ありがとう……」

「ああ」

 うっすらと笑みを浮かべる翼を目にして、創真の表情もゆるむ。

 そのとき——扉ひとつ隔てたすぐそこに桔梗が立っていたことにも、彼女がふたりの会話を黙って聞いていたことにも、創真は気付いていなかった。

 

 

第19話 今日一日だけは私を

 

「お待たせしてごめんなさい」

 玄関で待っていると、桔梗があわてたように階段を駆け降りてきて謝罪した。

 だが、待ったといってもほんの数分程度のことだし、そもそも創真がすこし早く来てしまったのがいけないのだ。いまがちょうど約束の時間くらいだろう。

「いえ……」

 むしろ焦らせてしまったことを申し訳なく思いながら返事をすると、それだけで桔梗は安堵したように表情をゆるめた。そしてあらためて創真と目を合わせてにっこりと微笑む。

「おはよう、創真くん」

「おはようございます」

「来てくれてよかった」

「約束したので」

「そうね、約束だものね」

 彼女は含みのある言い方をして肩をすくめると、すぐに靴を履き始めた。

 それを待っているあいだ、何となく視線を感じたような気がして顔を上げたところ、翼が階段の中ほどに立ったままこちらを窺っていた。目が合うとふっと微笑を浮かべて軽く手を上げる。

 瞬間、創真はギュッと胸が締めつけられるのを感じた。

 この期に及んでまだ止めてくれることを期待していたのかもしれない。せめてもうすこしつらそうな顔をしてくれればいいのに、などと身勝手なことを思いつつ、同じように手を上げて応じたが——。

「行きましょう」

「あ、はい」

 どこか冷ややかな凜然とした声で桔梗に促されたかと思うと、上げていなかったほうの手をつかまれて外に連れ出される。扉が閉まると、彼女は手を離してゆっくりと創真に向きなおった。

「お願い、今日一日だけは私を見てほしいの」

 そう言って、まっすぐに縋るようなまなざしを向けてくる。

 創真は言葉に詰まり、ただこくりと頷いて了承することしかできなかった。

 

「えっと、日帰り……ですよね?」

 どこへ行くかは当日までに桔梗が決めておくという話になっていたので、駅に向かう道すがら尋ねてみると、彼女は前を向いたまま隣県にある有名な温泉地の名前をさらりと口にした。

 しかし創真としては想定外のことで戸惑う。都内でお昼を食べたり映画を観たりするくらいだと思っていたのだ。そもそも温泉地なんて日帰りで行くところではないような気がするが——。

「日帰りでも楽しめるらしいから安心してちょうだい」

「それなら……まあいいんですけど……」

「創真くんが泊まりにしたいのなら泊まりでも構わないわ」

「いえ、日帰りで!」

 食いぎみに答えると、彼女は艶やかな長い黒髪を揺らしながらクスクスと笑った。それを見て創真はようやくからかわれていたことに気付き、軽く口をとがらせて恨めしげに横目で睨んだ。

 

 現地までは新幹線を使えばわりとすぐだった。

 駅前の通りに出ると、さっそく桔梗はたくさん並んでいる土産物屋を見てまわる。いかにもお嬢様といった出で立ちなのでいささか浮いているが、本人は気にする素振りもなく楽しそうにしている。

「創真くん、一緒にこれ食べましょうよ」

「えっ、いまここで食べるつもりですか?」

「そういうものでしょう?」

 桔梗が指さしたのは単品の温泉まんじゅうだった。

 まさか食べ歩きをしたがるなんて思わなかったが、知った人のいないところで羽目を外してみたいのかもしれない。それぞれひとつずつ買うと、通行の邪魔にならないよう隅のほうに寄ってから食べ始める。

「ふふっ、出来たてはおいしいわね」

「はい」

 目の前でひとつずつ焼き印を入れてくれたその温泉まんじゅうは、まだほかほかしている。冷めてもおいしいのかもしれないが、出来たては格別だ。風が冷たいので温かいものがおいしく感じるというのもあるだろう。

「あっちのカステラも食べたいわ」

 彼女はあらかじめ行きたいところを調べていたらしく、そのあとも目当ての店をいくつかまわって食べ歩いた。お嬢様が温泉街なんかで楽しめるのか心配していたが、杞憂だったようだ。

「おみやげは帰りに買ったほうがいいわよね」

「荷物になるし、そのほうがいいと思います」

「創真くんも買う?」

「……まあ、家族には買っていこうかと」

 一瞬、翼の顔が浮かんだものの、素知らぬふりをしてごまかした。

 だが、もしかしたら桔梗は気付いたのかもしれない。さきほどまでの無邪気に楽しんでいる表情とは違い、隙のない完璧な笑みを浮かべたのを目にして、そう思った。

 

「このあとはどうするんですか?」

「温泉に入るわ」

 昼過ぎ、ふたりは老舗そば屋で自然薯のかかった冷たい蕎麦を食べた。

 そのとき話の流れでこのあとの予定について尋ねてみたところ、桔梗はにっこりと満面の笑みで即答した。やはり下調べをしていたのだろう。ただ、確かに温泉が有名なところではあるのだが——。

「宿泊しなくても入れるんですかね?」

「ええ、もう日帰りで予約してあるの」

「へぇ」

 何となく旅館に宿泊しないと入れないのかと思っていたが、日帰りというものがあるらしい。すでに予約まで済ませているのなら間違いはないはずだ。

「私、温泉に入ってみたかったから」

「入ったことないんですか?」

「ええ……創真くんは?」

「オレは三、四回くらいですかね」

「もしかしてここも来たことあった?」

「いえ、いつも草津のほうなんで」

「それならよかったわ」

 彼女はニコッと笑うと、置いていた箸を手に取って再び蕎麦を食べ始めた。翼とよく似ている美しい所作で——。

 

 昼食を終えると、予約した温泉旅館へと移動した。

 桔梗が手続きをして、仲居のような女性に案内されたところは和風の客室だった。温泉に入るんじゃなかったのか——創真は困惑するが、桔梗は特に不審がる様子もなく笑顔で応じている。

「それではお時間までごゆっくりお楽しみください」

「ありがとう」

 和服の女性が丁寧にお辞儀をして下がると、桔梗はスプリングコートを脱いでハンガーに掛ける。部屋の中は暖房がよく効いていてあたたかい。創真もとりあえずジャケットを脱ぐことにした。

「あの、温泉に入るんですよね?」

 ジャケットをハンガーに掛けてから座椅子に腰を下ろし、向かいにいる桔梗を遠慮がちに窺いながらそう切り出すと、彼女はニコッと笑った。

「ええ、さっそく入る?」

「場所は聞いてますか?」

「聞いてるも何も、そこよ」

「え……ええっ?!!」

 彼女がすっと手を伸ばして示したのは、窓の外だった。

 庭だと思っていたそこにはうっすらと湯けむりが上がり、よく見ると、小さいながらも本格的な露天風呂になっていたのだ——。

 

 それは、貸切個室露天風呂というらしい。

 つまりここを借りた自分たちだけが使える露天風呂だ。小さいとはいえ少人数なら十分な広さだし、源泉掛け流しだし、半分ほど岩造りできちんと風情もある。露天風呂として特に不満はないが——。

「えっと、時間をずらして別々に入るんですよね?」

「別々に入るのならわざわざ個室になんかしないわ」

「……あの、オレ、これでも一応男なんですけど」

「それって私を襲うかもしれないってこと?」

「あ、いえっ……そういうわけじゃなくて……」

「だったら問題ないわ」

 桔梗はすっと立ち上がり、うっすらと思わせぶりな微笑を浮かべて座椅子の創真を見下ろす。問題しかない。問題しかないのだけれど——創真はごくりと唾を飲んだまま何も言葉を返すことができなかった。

 

 信用されているのか、それとも試されているのか——。

 緩やかに湯がそそがれる音を聞きながら、創真は何も身にまとうことなく桔梗と肩を並べて露天風呂につかっていた。最初はタオルで隠そうとしたのだが、タオルを湯につけるのはマナー違反だとたしなめられてしまった。もちろん言われるまでもなく知ってはいたけれど。

 しかし、入ってしまえばそんなに気にならなくなった。真正面を向いているかぎり彼女の体はほとんど視界に入らない。もっとも湯は透明なので目を向けると見えてしまうが、そもそもこの状況を望んだのは桔梗自身なのだから、あまり過剰に気をつかう必要もないだろう。

 ふぅ——。

 じんわりと体が温まって心地よさから大きく息を吐く。湯温はだいぶ高めだが、外気が冷たいのでこのくらいでちょうどいい気がした。御影石にもたれかかりながら、ひさしの向こうにわずかに見える水色の空をぼんやりと眺める。温泉街の喧噪が嘘みたいに静かだった。

「創真くん、気持ちいい?」

「はい……とても……」

 気の抜けた声で答えると、隣で彼女がくすりと笑うのが気配でわかった。湯もすこしさざめいている。創真は淡い水色の空を眺めたまま言葉を継ぐ。

「桔梗さんは?」

「とても気持ちいいわ」

「それならよかった」

 ぼんやりと返事をしたそのとき、ちゃぷ、という何かが動いたような水音が聞こえて反射的に横目を向ける。彼女はすらりとした手を首筋に当ててうつむいたまま、曖昧な微笑を浮かべていた。

「……本当はね、私のほうからおじいさまにお願いしたの。私を次期後継者にするなら創真くんを夫にしてほしいって」

「えっ」

「もちろんお眼鏡にかなったから聞き入れてくれたのよ」

 多分、それは事実なのだろう。

 徹の独断ではなく、桔梗の希望だというほうがまだ得心がいく。ただ、どうしてあえて創真なのかはやはり不思議でならない。もっと優秀で、もっと見目の良いひとなんていくらでもいるのに。

「もしかして翼へのあてつけですか?」

「あてつけで夫を選ぶような女に見えて?」

「あ、いえ……すみません……」

 消え入るように答えると、隣で桔梗はおかしそうにくすくすと笑った。

「創真くんはもっと自分に自信を持ってもいいと思うわ。翼が幼いころからずっと自分のそばに置いて、私が将来をともにしたいと願って、おじいさまが西園寺の婿として認めたひとなんだから」

 そう言われても釈然としない。

 翼には補佐役として力不足だと認識されていたようだし、桔梗にも徹にも何か裏があるような気がしている。それが何かはいまのところさっぱりわからないし、見当もつかないけれど——。

「近々、おじいさまが正式に次期後継者を発表するわ」

 ふいに桔梗が言う。さきほどまでとは違ったあきらかに硬い声で。創真もつられるように緊張が高まっていくのを感じた。

「発表されたら何か変わるんですか?」

「社交の場にも正式に後継者として顔を出していくそうよ。後継者教育も始まるわ。具体的なことはまだ何も聞いていないけれど、きっと翼がしていたようなことをするのでしょうね」

 桔梗はどこか他人事のように淡々と語った。そして短い沈黙のあと、こちらを意識しながら遠慮がちに言い添える。

「創真くんが一緒に受けてくれると心強いのだけれど」

「……オレ、桔梗さんと結婚するって決めてませんよ」

「もちろんそれとは切り離して考えてくれていいわ」

「そう言いつつ外堀を埋めていこうとしてますよね?」

「ふふっ」

 胡乱げな創真の指摘を否定せずに笑う。

 おそらく図星なのだろうが、そうであろうとなかろうとその申し出を受けるつもりはない。創真は小さく溜息をついてから落ち着いた声でゆっくりと切り出す。

「オレ、いま父親の仕事を手伝ってるんです」

「えっ?」

 緩く水音がして、桔梗がこちらに振り向くような気配がした。

 それでも創真はまっすぐ前を向いたままで言葉を継ぐ。

「翼の勉強がなくなって、それで暇ならやってみないかって父親に誘われて……別に暇ってほどじゃなかったんですけど、すこし興味もあったし、そのほうが気もまぎれていいかなと思って」

「そう……知らなかったわ」

「翼にもまだ言ってなかったので」

 隠していたわけではなく、何となくきっかけがなくて話していなかっただけだ。しかし先に桔梗に話すことになるとは思わなかった。ほんのすこし罪悪感のようなものが湧き上がる。

「将来はそちらのほうに進むつもりなの?」

「いや、そこまでは……」

 父親の仕事はIT系だが、詳しいことはあまりよく知らない。

 手伝いにしても、いまのところ指示どおりに操作するだけのデバッグ作業しかやっていない。それでも面白いと感じているし、興味もあるし、勉強してみるのもいいような気はしている。

 ただ、将来はやはり翼を支えたい。翼がどういう道を進むのかはまだわからないが、どういう道であれ何かしらの方法で支えることはできるはずだ——などとまだ言うわけにはいかないが。

「いいのよ、好きな職業についても」

 ふと吐息まじりの脱力した声が聞こえた。

 どういう意味なのかはかりかねてチラリと横目で窺うと、桔梗は顔を火照らせてうつむき加減になっていた。水面を見つめたままゆっくりと呼吸をしてから、ぼんやりとした声で言葉を継ぐ。

「もちろん、西園寺グループに入って私を補佐してくれればありがたいけれど……そこにはこだわらないわ。何なら仕事上のパートナーとして翼を支えてもらっても構わない。それでも……わた、し、を……」

 消えゆくように声が小さくなって途切れたかと思うと、じゃぶ、と湯をかき分けるような音とともに、やわらかな体が創真にもたれかかってきた。

「ちょっ……え、桔梗さん?!」

 その感触にあたふたとしながら押し返そうとしたが、どうにも様子がおかしい。よく見ると顔も体も火照っており、呼吸も苦しげで、座ることもままならないくらいぐったりとしていた。

 

「本当に、ごめんなさい……」

 桔梗は露天風呂の脇に置かれていたデッキチェアに仰向けになったまま、弱々しく謝罪した。体には白いバスタオルが掛けてある。まだ服を着られる状態ではないので創真が備え付けのものを持ってきたのだ。

「これ、飲めますか?」

「ええ……」

 キャップを開けたペットボトルの天然水をひざまずいて差し出すと、彼女はバスタオルを胸元で押さえながらよろりと体を起こして受け取り、何口か飲んで息をついた。

「ありがとう。もう大丈夫よ」

「部屋に戻りますか?」

「もうすこしここにいるわ」

 そう答え、ペットボトルを返して再びデッキチェアに仰向けになった。

 おそらく彼女はのぼせたのだろう。それほど長く入っていたわけではないが、湯がだいぶ熱かったので無理もない。幸い意識はあったので、ひとまずここで休ませて様子を見ることにしたのだ。

 創真はペットボトルのキャップを閉め、彼女のほうを向いたまま隣のデッキチェアに腰掛ける。腰にタオルを巻いただけなのでいささか肌寒くは感じるが、まだそこまで体は冷えていない。

「ねえ、創真くん」

「はい」

「…………」

 桔梗は口を閉ざしたまま次第に気まずげな表情になり、顔をそむけた。透き通るような白い肌はまだほんのりと紅潮している。気にはなるが、だからといってあまり無神経に催促することもできない。

 創真は手にしていたペットボトルのキャップを開けて喉を潤し、そっと息をつく。

「オレ、桔梗さんと今日ここへ来たことは後悔してないんで」

「……そう……それならよかったわ」

 顔をそむけたまま、彼女はどこか堪えるような声でそう答えた。

 胸元でバスタオルを押さえていた手がそっと握り込まれていく。ほんのすこしだけバスタオルを巻き込みながら。気のせいか、そのすらりとした指先がかすかに震えているように見えた。

 

 

第20話 ともに時を刻みたい

 

「十六歳の誕生日おめでとう」

 あらたまって口にするのはすこし照れくさいが、それでも創真はしっかりと目を合わせてそう告げて、洋菓子店のロゴが描かれた白い紙袋を差し出す。

「ありがとう」

 翼は小さく笑いながら心得たように受け取り、創真を招き入れた。

 

 翼の誕生日は、今日、四月一日である。

 小学生のころから、それぞれの誕生日に一緒にケーキを食べることが恒例行事となっている。今日もそのために来たのだ。このパーティーとも言いがたいふたりだけのささやかなお祝いが、創真は気に入っていた。

 

「あら、創真くん」

 ケーキを使用人に託して、ふたりで翼の部屋に向かおうと二階に上がったところで、桔梗とばったり出くわした。これから出かけるのか、淡いピンク色のスプリングコートを羽織り、ショルダーバッグを肩に掛けている。

「こんにちは」

 例の日帰り旅行以来なので若干の気まずさは感じたが、素知らぬふりで挨拶をする。そうしなければもっと気まずくなる気がしたのだ。彼女のほうも何でもないかのように微笑を浮かべる。

「避けられていなくてよかったわ」

「オレが避ける理由はないですし」

「ずいぶん迷惑をかけたもの」

「別に気にしてないです」

「じゃあ、また一緒に入ってくれる?」

「えっ……いや、それは……」

 予想外の切り返しに動揺してあたふたしていると、桔梗はくすりと笑った。どうやら本気ではなくからかっただけのようだ。創真は恨めしげにムッと口をとがらせるが、彼女は笑みを崩さない。

「ゆっくりしていってね」

 そう言い置き、艶やかな黒髪をなびかせながら階段を降りていった。

 創真は無言のまま大きく溜息をついて前に向きなおる。そのとき、翼の表情が凍りついていることに気付いて息をのんだ。きっと桔梗との会話を聞いて察しがついたのだ。ふたりで温泉に入ったと——。

「ごめん……あ、いや、そうじゃなくて」

「創真は悪くないさ」

 さらりと話を打ち切るようにそう告げて、翼は足を進める。

 確かに謝罪や弁解をする道理はないのかもしれない。翼とはつきあっているわけでも何でもないのだから。創真はもやもやした気持ちを抱えたまま口をつぐみ、小走りであとを追った。

 

「どうぞ」

 扉を開けた翼に促されて部屋に入る。

 学習机、本棚、ベッド、テレビ、テーブル、ソファ——広めではあるが、取り立てて変わったものはないごく普通の部屋だ。何度も来ているのでもう見慣れている。ただ、学習机の上にはめずらしく無造作に本が積み上がっていた。

「それ、どうしたんだ?」

「ああ、後継者教育がなくなって時間ができたから、ただ学校の勉強だけするというのもつまらないし、視野を広げるために手当たり次第に読んでるんだ」

 へぇ、と相槌を打ちながら積まれた本を覗き込む。

 手当たり次第という言葉どおり、純文学、ライトノベル、自己啓発、哲学、心理学、宗教学、法律関係など統一感のないラインナップだった。書籍だけでなく映画のブルーレイもいくつか混ざっている。

「興味があるんだったら貸してやるよ」

「これ全部読み終わったのか?」

「ああ、そこに積んであるものはな」

「すごいな」

 学校の試験もあったのに、たった一か月半でこんなにたくさん読んだなんて。

 創真はいまのところ父親の仕事を手伝うことに時間を費やしているので、借りるつもりはないが、ちょっとした好奇心でいちばん難しそうな法律関係の本を開いてみた。

「うわ……」

「それ一読の価値はあるぞ」

「いや、オレはいい」

 渋面になりつつ本を閉じる。やたらと漢字が多くて、文章もややこしくて、日本語なのに読める気がしなかった。そんな創真を見て、翼はおかしそうに笑いながらソファに腰を下ろす。

 コンコン——。

 ちょうどそのタイミングで扉が叩かれた。

 どうぞ、と翼がソファに背中を預けたまま応じると、すぐに扉が開き、母親の瞳子がたおやかな微笑を浮かべて入ってきた。紅茶の準備をする使用人ふたりを従えて。翼は驚いたように立ち上がる。

「母上、いったいどうしたんです?」

「創真くんがいらしてるって聞いてね」

「……創真に何か?」

「とりあえず座りましょうか」

 瞳子に促されて、翼は怪訝な面持ちになりながらも無言で腰を下ろした。つづいて創真も会釈して向かいに座る。そして瞳子自身は迷うことなく翼の隣に席を取った。創真からは斜向かいの位置だ。

「お邪魔をしてごめんなさいね」

「いえ……あの、体調はもう大丈夫なんですか?」

「ええ、だいぶよくなってきているのよ」

 後継者指名の日以降、体調を崩して寝込んでいると翼から聞いていた。確かにだいぶやつれて憔悴した感はあるものの、顔色は悪くないので、よくなってきたというのも嘘ではないのだろう。

 そうこう話しているうちにケーキと紅茶がローテーブルに置かれた。ただ、創真と翼のまえだけで瞳子のところには何も置かれていない。そのまま使用人たちは一礼して退出してしまった。

 しんと部屋が静まりかえる。

 創真は何となく身の置きどころがないように感じて目を泳がせた。すぐまえにはうっすらと湯気の立ちのぼるティーカップが置かれているが、自分ひとりだけ勝手に飲むわけにもいかない。

「私、どうしても創真くんにひとこと謝りたくて」

 瞳子がどことなく緊張ぎみにそう切り出した。そして覚悟を決めたように居住まいを正すと、まっすぐに創真を見つめる。

「翼を後継者にするという私個人の身勝手な思いで、創真くんの人生まで翻弄することになってしまって、謝ってすむ問題ではないとわかっていますが……本当に申し訳ありませんでした」

「え、あ、いや……」

 頭まで下げられて、創真はあわてて体のまえでふるふると両手を振る。

「オレは別に翼といられれば何でもいいんで」

「でも無意味な勉強をさせてしまったでしょう?」

「これから役に立つこともあるかもしれません」

「それ、は……そうだといいけれど……」

 瞳子はそっと目を伏せて戸惑いがちに応じた。

 その隣では、翼がソファにもたれたまま黙って腕を組んでいた。あからさまに何か言いたそうな顔をしているが、口を開こうとはしない。気になったものの、この状況であえて尋ねるようなことはできなかった。

 

「食べよう」

 瞳子が退出すると、翼は肩をすくめて苦笑しながらそう切り出した。

 創真は頷き、紅茶をすこし飲んでから自分が買ってきたケーキを口に運ぶ。ほのかな酸味のあるイチゴと生クリームがよく合っているし、スポンジはきめが細かくふわふわだ。翼も一口で気に入ってくれたらしく目を輝かせている。

「おいしいよこれ。初めての店だな」

「三丁目のほうに新しくできたんだ」

「へぇ」

 いつも同じ店ばかりというのもどうかと思ったので、新規開拓してみたのだ。

 この一年、良くも悪くもこれまでにないような経験をして、ときには踏み出すことも必要だと思うようになっていた。不安はあったが、ひとまずケーキは気に入ってもらえたようでほっとする。あとは——。

「おい、聞いているのか?」

「えっ」

 我にかえると、翼が怪訝に眉をひそめながら前屈みで覗き込んでいた。思わずドキリとしてフォークを持ったまま体をすこし後ろに引く。

「悪い、ちょっとぼーっとしてて……」

「そろそろ桜が満開になるらしいぞ」

「ああ、そういえば近所の桜も咲いてたな」

「食べ終わったら見に行かないか?」

「ああ……」

 返事をしながらも頭では別のことを考えていた。もうひとくちケーキを食べて心を決めると、フォークを置く。

「あのな、翼」

 しっかりと力のこもった明瞭な声でそう切り出した。すぐさま足元のボディバッグから包装された小箱を取り出して、すっと両手で差し出す。

「これ誕生日プレゼント。もらってくれ」

「えっ?」

 まさかプレゼントだとは思いもしなかったのだろう。

 おそらく負担にならないようにと母親どうしで相談して決めたのだと思うが、この恒例行事を始めた当初から、誕生日ケーキ以外のプレゼントは贈らないということになっていたのだ。けれど——。

「プレゼントなしって小さいときに親が決めたことだし、もういいかげん従わなくてもいいんじゃないかと思って。今回、どうしても翼にプレゼントしたかったんだ」

「……わかった、ありがたくいただくよ」

 すこし考えたあと、翼はやわらかく表情をゆるめて小箱を受け取った。

 たとえ決まりに反していても、すでに用意してしまったものを断らないだろうという目算はあったが、その目算どおりにいかない可能性もなくはなかったわけで。小箱が手を離れてようやく安堵の息をつく。

「開けてもいいか?」

「ああ」

 翼はケーキと紅茶をすこし寄せてスペースを作り、そこに小箱を置くと、包み紙を丁寧に破ることなく外して箱を開ける。

「へえ、懐中時計か」

 特徴的な形をしているので一目でわかったのだろう。

 新品ながらもどことなくレトロな雰囲気を醸し出していて、裏蓋を開けると歯車などのムーブメントが見られるようにもなっている、華やかで精緻なデザインだ。

「翼に似合うと思って……手巻き式だから面倒だし、何気にかさばるし、時計として使いにくいことはわかってるんだけど。ただの自己満足だからもらってくれるだけでいい」

「いや、すごく気に入ったよ」

 本心かどうかはわからないが翼はうれしそうに応じてくれた。そっと手に取り、裏返しにしたり蓋を開けたりと興味深そうに観察する。しかし——その顔はだんだんと訝しむようなものに変わっていった。

「これ……懐中時計に詳しいわけではないが、銀仕上げだし、作りも精巧だし、かなり良い品のような気がするんだが」

 そう指摘され、創真はギクリとして目を泳がせる。

 確かに数ある懐中時計の中でもそこそこ値の張るものだった。翼に安っぽいものなど贈りたくもないし贈れるはずもない。しかし、まさかそのことを指摘されるだなんて考えもしなかった。

「えっと……翼にはまだ言ってなかったけど、西園寺の勉強がなくなったときに父親に誘われて、会社の手伝いっていうかバイトみたいなことをしてて。そのバイト代がちょうど出たところだったから……まあ……ちょっと奮発したっていうか……」

「そうか……」

 困惑ぎみだが、納得はしてくれたようでひとまずほっとする。

 本当はバイト代だけでは足りなくて貯金もつぎ込んだのだが——そのことは黙っておこうと心に決めると、つやつやの大きなイチゴをフォークで突き刺し、素知らぬ顔をして口に運んだ。

 

 ケーキを食べ終わると、翼の提案で高校へ向かうことになった。

 敷地内に見応えのありそうな桜並木があるのだ。もともと関係者しか入れないうえ、春休みなので先生も生徒もあまりいないはずで、のんびりと眺めるだけなら確かにうってつけだろう。

 懐中時計はさっそく時刻を合わせて使ってくれている。ときどき隣からチェーンの立てるかすかな音が耳に届いて、ドキリとする。今日だけでもうプレゼントが報われたような気がした。

「あ、学校って私服で入っていいのか?」

「おまえ本当に心配性だな」

 ふと制服を着ていないことに気付いて不安になるが、翼には笑い飛ばされた。実際、守衛に学生証を見せるとあっさりと通してもらえた。だが、こんな格好で来ているのは自分たちくらいである。

「西園寺くん、私服でどうしたの?」

 部活動のために来たと思われる制服姿の女子たちが、翼に声をかけてきた。

 その後ろには遠巻きにはしゃぐ女子たちもいる。私服といっても細身のパンツにジャケットというごくシンプルなものだが、学校でしか接点がなければそう見られるものではないし、気持ちはわからないでもない。

「ちょっと用があってね」

「その服すっごく似合ってる!」

「ありがとう」

 翼はいったん足を止めていつものように如才なく応じると、また新学期に、と甘やかな笑顔を振りまいてから桜並木のほうへ歩き出す。創真もすぐに小走りで追いかけて隣に並んだ。

 背後では女子たちが興奮して盛り上がっていたものの、ついてくることはなかった。

 

 桜並木に着くと、そのままのんびりと仰ぎ見ながら歩いていく。

 遠目には満開に見えたが、近くに来てみるとつぼみも少なくなかった。七分咲きくらいだろうか。穏やかに晴れた空の下で、たくさんの小さな薄紅色がささやかに揺れ、時折ひらひらと舞い落ちる。

「ここにして正解だな」

「ああ」

 桜の名所ほど立派ではないが、混雑していないのできれいに景色が見えるし、人波にもまれることなく自分のペースで眺められる。ゆっくりと息を吸い込むとあたたかな春の匂いがした。

「おまえ、頭に花びらがついてるぞ」

「えっ?」

 指でさされたあたりをはらってみるが落ちなかったらしく、翼がおかしそうに笑いながら取ってくれた。その小さな花びらは白い手を離れてひらひらと春風に乗り、すぐに見えなくなった。

 余韻にひたるように翼はふっと微笑む。

 瞬間、胸がギュッと締めつけられるのを感じた。幼稚園で出会ったあのころからずっと翼が好きで、翼だけが好きで、これからもずっと間違いなく好きでいる。それなのに、どうして——。

「オレ、桔梗さんとの結婚はもう断ることにする」

 グッとこぶしを握り込んでひとり決意を固めると、そう宣言する。

「翼に言われたからオレなりに向き合ってみたけど、桔梗さんと結婚なんてやっぱりどうしても考えられないし、その気持ちがこれからも変わらない自信はある。たった一か月半でって言われそうだけど、もう十分だ」

「そう、か……そこまで言うなら僕には何も言えないな」

 翼はすこし驚きながらも軽く肩をすくめて応じた。

 反対されなかった——そのことに関してはよかったのかもしれない。ただ、他人事のような物言いにひどく寂しさを感じてしまった。翼にも関係のあることだと思っていたのは自分だけなのか。

 シャラ——。

 その音につられるように顔を上げると、翼がチェーンのついた懐中時計を手にして時間を確認していた。その仕草がとてもこなれていて美しくて絵画のようで、思わず陶然と見とれていたら。

「いまなら祖父は家にいるはずだ。帰ろう」

「……えっ?」

 話がわからなくてきょとんとする。

 そんな創真を見て、翼は懐中時計を手に持ったまま不敵に口元を上げた。

 

 

第21話 プロポーズ

 

「え……桔梗さん……?」

 創真は扉のところで立ちつくしたまま、目を瞬かせる。

 執事に案内されて入室した西園寺家当主の書斎に、なぜか桔梗がいたのだ。彼女は流れるような所作で応接ソファから立ち上がり、会釈する。創真も怪訝に思いながらつられるように頭を下げた。

「桔梗にも関係する話なのでな」

「あ、はい……」

 奥の執務机にいた徹は、創真のつぶやきにさらりと答えて腰を上げた。

 この面会は翼が執事を通して取り付けてくれたのだが、その際に婚約に関する話だと説明していた。だから当事者である桔梗を呼んだのかもしれないが、創真としては完全に想定外である。

 もちろん彼女にもあとできちんと話をするつもりではいたが、いまはまだ心の準備ができていない。徹に報告するためにようやく気持ちを整えたばかりだったのに、また乱れてしまった。

「そちらにお掛けなさい」

「失礼します」

 創真はペコリと一礼して、徹に示された一人掛けの応接ソファに腰を下ろした。ローテーブルをはさんだ斜向かいに桔梗がいる。そして真正面にはゆったりと歩いてきた徹が座った。

 うっ——。

 向かいのふたりから見つめられて、彼らにそういうつもりはないのかもしれないが、何か強い圧のようなものを感じて息が詰まった。だからといって逃げ腰になるわけにはいかない。

「あの、今日までオレなりに真剣に考えてみたんですけど、桔梗さんとはやっぱり結婚できません。桔梗さんが悪いわけじゃなくオレの気持ちの問題です。すみませんがお断りさせてください」

 待っているあいだに考えていた言葉を口にする。

 ふたりともその話だということは予想していたのだろう。ほとんど表情を変えることなく冷静に聞いていた。桔梗は話が終わっても何も言おうとしなかったが、徹は一呼吸おいてから言葉を返す。

「結論を出すのが早すぎではないかね」

「オレの気持ちは変わりません」

 目をそらすことなく熱く真剣に見据えながら、食いぎみに言い返した。絶対に流されないぞという強い気持ちをこめて。

 それでも徹は冷静なまま動じる素振りもない。

「創真くんは十六歳だったな。若いときはまだ視野が狭く思い込みにとらわれがちだ。いま結論を出してしまっては後々後悔するかもしれない。変わらないと思っていた気持ちが変わることはよくある。若ければ若いほどな」

「でも、オレは……」

「だから、ひとまず成人するまで返事を保留してみてはどうだろうか。もちろん、成人しても気持ちが変わらなければ断ってくれて構わない。君のためにもそうするのがいいと思うのだが。念のためな」

 言葉に詰まり、創真は膝のうえでグッとこぶしを握りしめる。

 もちろん気持ちが変わらない自信はあるし、後悔しない自信もあるのだが、若さゆえと言われてしまうと反論するのが難しい。しかも、保留という控えめな提案だからかえって断りづらい。

「創真くん」

 ふいにやわらかな声で名前を呼ばれて、顔を上げる。

 桔梗はどこか申し訳なさそうに微笑んでいた。

「私のためにもそうしてくれないかしら。そんなにすぐにふられてしまうなんてあまりにみっともないもの。両親にもきっと腫れ物に触るような扱いをされるでしょうし。顔も見たくないほど嫌いだというなら仕方がないけれど」

「別に、嫌いなわけじゃ……」

 答える声はだんだんと消え入っていく。

 できることなら返事の保留はしたくない。ここできっぱりと断ってしまいたい。けれど徹に反論するだけの言葉を持たず、桔梗の懇願をふりきる勇気もない創真に、断れるかというと——。

「あまり創真をいじめないでもらえます?」

 突如、書斎の静寂が破られた。

 飽きるほど耳にしてきた声を創真が聞き違えるはずがない。ハッと息をのんで振り向くと、そこには思ったとおり翼がいた。しかし、まさか乱入してくるなんて想定外で言葉が出てこない。

「ノックもしないで無礼よ」

 桔梗がうっすらと眉を寄せてたしなめるが、翼は引き下がるどころか冷笑を浮かべて向かってきた。応接セットのまえで足を止めると、二人掛けソファに並んで座っている桔梗と徹を見下ろす。

「おふたりとも創真の意思を尊重するという話はお忘れですか?」

「創真くんのためを思って助言をしたまでだ」

 答えたのは徹だ。ソファに座ったまま顔色ひとつ変えず平然としている。そんな彼を見つめながら翼はすっと冷ややかに目を細めた。

「助言、ね……上手く言いくるめて返事を保留させたうえで、少しずつ外堀を埋めて逃げられなくする魂胆でしょう。百戦錬磨のおじいさまからすれば、赤子の手をひねるようなものだ」

「私は純粋に助言をしたつもりだがね」

 そう受け流されて翼はわずかに眉をひそめたものの、深く追及はしなかった。鷹揚に腕を組みながら今度は手前の桔梗に視線を移す。

「桔梗姉さんは創真の優しさにつけ込むのだからもっとタチが悪い。そのうち既成事実でも作るつもりかな。それも騙し討ちのような方法で。先日の温泉旅行もそういう策略だったのでしょう」

「何の根拠もない妄想でしかないわね」

 桔梗はあきれたと言わんばかりにそう切り捨てた。そして背筋を伸ばしたまますっとソファから立ち上がると、ワンピースの裾を揺らしながら一歩二歩と距離を詰めて、翼と対峙する。

「いずれにしてもあなたには関係のないことよ。出て行きなさい」

 彼女は毅然と命じた。

 しかし、翼は身じろぎもせず腕を組んだまま睨みつける。彼女も負けじとまなざしを鋭くする。ふたりのあいだには激しい火花が散っていた。

「あの、ふたりとも落ち着いて……」

 思わず創真は立ち上がって声をかける。

 正直、翼の推測が合っているのかどうかは皆目わからない。まさかと思いつつ、言われてみるとあり得なくもない気がしてくる。それでもこれは創真自身が決着をつけるべき問題だろう。

「オレなら大丈夫だから」

「僕が大丈夫じゃないんだ」

「えっ?」

 翼は決意を秘めたような真剣な顔になって振り向いた。そしてゆっくりと足を進めて真正面から向かい合うと、その場ですっと片膝をつき、まるで壊れ物でも扱うかのように優しく左手を取る。

「っ……!?」

 創真はドキリとしながら、同時にわけがわからなくてひどく当惑してしまう。けれども翼はじっと見つめたまま手を離そうとしない。目をそらすこともできず無意識に唾を飲み込んだ、そのとき——。

「僕と結婚してくれないか」

「…………」

 ついに頭の中がまっしろになった。何も考えられないのに、何もわからないのに、心臓だけが勝手にドクドクと早鐘を打っていく。いまにも壊れそうなくらい激しくて息もできない。

「あの日から僕なりに真剣に将来について考えてきた。まだやりたいことは見つけられていないが、ひとつだけ確信していることがある……創真、おまえのいない人生は考えられない」

 緊張ぎみに、しかしながらしっかりと目を見つめて翼はそう告げる。

「恋愛感情があるかと言われると微妙だが、人生をともにするなら創真がいい。創真しか考えられない。いまさらながらようやく気付いたんだ。どうか僕と一緒に人生を歩いてほしい」

 自分に向けられた真摯に請うようなまなざし。ふれあう手から伝わる体温と感触。確かに現実であると理解はしているはずなのに、なぜか現実感がなく、まるで熱に浮かされたみたいにふわふわしている。

「はい……」

 気付けば口から肯定の返事がこぼれていた。

 翼は表情をゆるめ、すぐに創真の手をしっかりと握って立ち上がると、応接ソファに座したままの徹に慇懃に一礼する。

「創真はこのとおり僕がいただくことになりましたので、潔くあきらめてください」

 そう言うと、返事を待つことなく創真の手を引いて踵を返した。

 一連の流れをすぐそばで呆然と眺めていた桔梗は、その瞬間ハッと我にかえり、翼の行く手にまわり込んで立ちふさがった。見たこともないくらい余裕をなくした蒼白な顔をして。

「こんなの認められるわけがないでしょう!」

「桔梗」

 たしなめるような重い声が部屋に響く。

 桔梗は表情を硬くし、声の主である徹のほうへぎこちなく振り向いた。彼はソファに深く腰掛けたまま腕を組んでいたが、奥底まで見透かすような目を桔梗に向けると、静かに告げる。

「引き際を見誤るな」

「…………」

 桔梗はキュッと小さな口を引きむすんだ。くやしそうに眉をひそめながらも一歩二歩と脇に避ける。そうして阻むものがなくなると、翼は創真の手を引きながら扉を開けて書斎をあとにした。

 

「なあ、翼」

 手を引かれて長い廊下を歩くうちに創真はだいぶ落ち着いた。脳内ですこし状況を整理してから呼びかけると、歩調を変えることなく「ん?」と聞き返されたので、そのまま話を続ける。

「さっきのって、やっぱりオレを助けるための演技なんだよな?」

「は……?」

 翼は足を止めると、つないでいた手を離して創真に向きなおり、困惑したような落胆したような複雑な面持ちで言う。

「僕としては本気でプロポーズをしたつもりだったが」

「え……でも、無理に結婚する必要はもうないんだろう?」

「だから僕が僕自身のためにおまえを望んでいるんだ」

「綾音ちゃんのことは……?」

 幼いころからずっと好きだった綾音のことを、ふられたからといって二か月やそこらでふっきれるものだろうか。遠慮がちに尋ねると、翼は気まずそうに目を泳がせながら頭に手をやった。

「まあ、正直、好きだという気持ちはまだ残っているが……」

 すこし言いよどんだものの、すぐに気を取り直したように視線を戻して続ける。

「綾音ちゃんは創真のことが好きなんだってな。綾音ちゃんに告白したときに本人から聞いたよ。幼稚園のときからずっと好きで、去年の文化祭のときに告白したけどあっさりふられたって」

「……その……黙ってて悪かった」

 まさか綾音がそこまで暴露しているとは思わなかった。申し訳なさと気まずさでいたたまれなくなり、今度は創真が目を泳がせる。

「言えない気持ちはわかるし責めるつもりはないさ。ただ、それを聞いたとき僕は不安で心配でたまらなくなった。創真の気持ちが綾音ちゃんに傾いたらどうしよう、創真が綾音ちゃんに取られたらどうしよう、って」

「えっ……?」

「おかしいだろう?」

 そう翼は肩をすくめるが、創真はおかしいというより意味がわからなかった。

 もし創真と綾音がつきあったら翼はつらい思いをするだろう。それは理解できるが、創真が綾音に取られるというのは逆のような気がする。混乱して怪訝な顔になると、翼が苦笑した。

「自分でも自分の気持ちがわからなくて戸惑ったよ。だが、おまえと桔梗姉さんの婚約話が出たことではっきりと気付いたんだ。僕が人生をともにしたいのは他の誰でもなく創真なんだって」

「でも、あのとき桔梗さんと結婚しろって……」

「それが創真にとって最善だと思った。けれど熟慮したうえで断るというならもう遠慮はしない。破談になったらプロポーズしようと一か月以上前から決めていたんだ。桔梗姉さんがしつこかったせいで順序が逆になってしまったが」

 翼の言い分はとりあえず理解した。けれど——。

「まだ信じられないか?」

「ていうか実感がない」

「実感……ね」

 翼は思案をめぐらせるような様子で静かにつぶやくと、あらためて創真を見てふっと笑い、そっと手を伸ばして指先で遊ぶように頬に触れてきた。

「…………?」

 創真は困惑のまなざしを送る。

 しかし翼はそのまま無言で顔を近づけてきて——ふいに唇に感じたやわらかさとぬくもりで、創真はくちづけられたことに気付いた。思考が停止して呆然としているうちにすっと離れていく。

「実感したか?」

 いたずらっぽく問われて、創真は火を噴きそうなくらいぶわりと顔が熱くなった。思わず口元を手で覆う。気のせいなんかじゃなく、本当に、翼と——さきほどの感触がよみがえり頭まで沸騰しそうになる。

「まだ足りないのか?」

「え、いや、もう十分っ!」

「僕は足りないけどな」

「はぇっ……」

 からかわれたことにも気付かずあわあわとする。もう頭はいっぱいいっぱいだった。そんな創真を見て、翼はひとしきりおかしそうに笑ったかと思うと、左手を腰に当てながら挑むように口元を上げて言う。

「じゃあ行くぞ」

「行くって……どこへ?」

「ご両親に許しを得ないと」

「ええっ?!」

 翼はニヤリとして、困惑している創真の手をしっかりとつかんで駆け出した。創真もよろけつつ足手まといにならないよう必死についていく。驚きはしたものの抗おうという気はない。

 そもそも、それは創真がずっと夢見ていたことで——。

 翼が扉を開くと、ほのかにあたたかい風がするりと頬をなでていく。思わず創真はふっと表情をゆるめ、そのまま春の陽だまりのもとへと足を踏み出した。今度は自分から翼の手をとって。

 

 

第22話 未来への通過点(最終話)

 

「いらっしゃい、諫早くん」

 チャイムを押すなり待ち構えていたかのように玄関の扉が開き、東條が出迎える。七分袖のカットソーにデニムパンツというカジュアルな格好だ。創真が汗だくなことに気付いてかハハッと笑う。

「上がれよ。部屋はだいぶ涼しくしてあるぞ」

「おじゃまします」

 彼がひとり暮らしをしているこのマンションには、すでに何度も来ているのでいまさら遠慮はない。それでも律儀に挨拶してから、創真は馴染んだスニーカーを脱いで部屋に上がった。

 

「……鍋?」

 ワンルームにしては広めの部屋に入ると、奥の座卓に鍋料理らしきものが用意されているのが見てとれた。中身まではわからないが、カセットコンロにかけられた土鍋からは湯気が立ち上っている。

「冷房をガンガンにかけて食うと美味いんだ」

「ああ、いいかもな」

 まだ九月なので驚いたが、彼の言うとおり部屋はかなり涼しくなっており、確かにこれなら鍋物もおいしくいただけるだろう。軽く返事をして、座卓の脇に荷物を下ろしながらクッションに座る。

 冷蔵庫へ向かった東條は、濃緑色のボトルをひとつ取り出して座卓に持ってきた。

「お祝いにはやっぱりシャンパンだよな」

「いや、オレ、あしたがあるし……」

「雰囲気モノだし一杯だけつきあえよ」

「まあ、一杯だけなら」

 残念ながら創真はあまりアルコールに強くないのだが、せっかくの気持ちを無下にするのも悪い気がして、そう妥協する。東條はうれしそうに笑みを浮かべて隣に腰を下ろすと、シャンパンの栓を開けた。

 

「乾杯!」

 その音頭で、隣の東條と軽くグラスを合わせてひとくち飲んだ。

 わざわざシャンパンのボトルまで用意していたので、あらためてお祝いを述べるのではないかと身構えていたが、何もなくてほっとする。こんなところであらたまったことを言われるのはむず痒い。

「けっこう量があるからいっぱい食べろよ」

「ああ」

 実際、四人用くらいの土鍋に具材がたっぷり入っている。創真がよく食べるので多めに用意してくれたのだろう。遠慮なく鶏つくねや白菜などをとんすいに取って食べていく。

「このつくねうまいな」

「よかった、それ俺が作ったんだ」

「え、自分で作れるのか?」

「ネットでレシピを探してな」

「へぇ」

 鶏つくねなんていくらでもスーパーに売っているのに、料理はそんなに得意でも好きでもないと言っていたのに、わざわざ調べてまで手作りしてくれた気持ちがうれしい。

「そういえばウチでは鍋やったことないな」

「作るの簡単だし、野菜も摂れるからいいぞ」

「そうだな……土鍋とか買ってみるか」

 とりとめのない話をしながら鍋をつついていく。

 東條はときどきシャンパンも口に運んでいた。グラスが空になると、冷蔵庫から濃緑色のボトルを持ってきて自分でつぐ。

「翼はどうしてる?」

「いまは勉強がてら法律事務所でバイトしてる」

「へぇ、翼がバイトってのも何かすごいな」

 どこか面白がるように反応した東條につられて、創真も笑った。もちろん金銭的に困窮しているわけではなく、あくまで勉強が目的なのだが、それでも彼が言わんとすることはよくわかる。

 東條は身を乗り出し、土鍋から野菜やはんぺんを取りながら話を続ける。

「司法修習はいつから始まるんだ?」

「十二月からって聞いてる」

「あれ、めちゃくちゃ大変らしいな」

「そうなのか?」

「俺も詳しくは知らないけど」

 大変だとか難しいとかそういうことは聞いていない。もっともまだ始まってもいないのだから、本当に大変かどうかは翼本人にもわからないだろう。

「まあ、かなりスケジュールが詰まってるとは言ってたな。だからいまのうちにって一緒に遊びに行ったりしてるんだ。夏休みは海外にも……あっ」

 創真は箸を置き、脇にまとめてあった荷物から紙袋をつかんで東條に差し出した。

「これ、夏休みに行ったベルギーのおみやげ。チョコ好きだろ?」

「お、ありがとな」

 彼はうれしそうに顔をほころばせて受け取った。中から箱を取り出すと、外国語で書かれたパッケージを表裏に返しながら眺める。

「ベルギーってベルギービールくらいしかイメージなかったな」

「ビールがうまいかどうかはわからなかったが、そのチョコはうまかった」

「ははっ、諫早くんが言うなら間違いないな」

 再びふたりで鍋をつつきながら、ベルギー、フランス、ドイツ、オランダをまわってきたことや、行ったところや見たことなどを尋ねられるまま話していく。彼は終始楽しそうに聞いていた。

「それにしても翼が裁判官とはなぁ」

「なれるって決まったわけじゃないけど」

「なれるだろう、あいつガチで優秀だし」

「まあな」

 高校三年生で予備試験に合格、大学一年生で司法試験に合格、そして今年三月には大学三年生で早期卒業した。しかも視野を広げるためにあえて理学部に進んで。すごすぎてもはや意味がわからない。

「今日はあいつどうしてるんだ?」

「綾音ちゃんと飲みに行くって言ってた」

「えっ……それ、いいのか?」

「別に」

 さらりと答えて、まだほとんど減っていなかったシャンパンを口に運ぶ。

 正直、複雑な気持ちがないと言ったら嘘になるが、だからといって二人きりで会わないでほしいとは思わない。過去はどうあれ、二人が幼なじみであることに変わりはないのだから。

「まあ、オレが東條のところへ行くって聞いて不機嫌になってたし、きっと当てつけで綾音ちゃんを誘ったんだろうな」

「ああ……」

 東條はものすごく納得したような声で相槌を打ち、苦笑する。

 翼は意外にもヤキモチやきなのだ。だからといって他人にそれを見せるようなことはしないし、創真にも軽く拗ねるくらいである。ただ、相手が東條や桔梗のときだけはあからさまに不機嫌になるのだ。

「でも綾音ちゃんには彼氏がいるし」

「ああ、あの子なら普通にいそうな感じだよなぁ」

「その彼氏ってオレの兄貴なんだけど」

「……マジで?」

 東條は心底驚いたように目を見張って振り向いた。創真はまだ中身の残っているグラスを座卓に戻し、こくりと頷く。

「オレも翼もこないだ兄貴から聞いてビックリした」

 兄の創一は四歳上だが、弟の友達と一緒に遊んだりするほど面倒見はよくなく、綾音とも面識があるくらいで親しくはなかったはずだ。なれそめも教えてくれなかったので謎のままである。それに——。

「はー……弟にふられたからって兄に行くとはなぁ」

「さすがにそういうわけじゃないだろうけど」

 それでもかつて告白された創真としては兄というだけで十分驚いたし、微妙な気持ちにもなった。翼も複雑な顔をしていた。だからといってもちろん二人とも反対などしていないし、むしろ祝福している。

 けれど東條は素直に受け入れられなかったようで、うっすらと眉を寄せた。

「もしかしたら諫早くんとこの財産狙いだったりしてな」

 彼は初対面のときから綾音にあまりいい印象を持っていないらしく、何かと見る目が厳しいのだが、すくなくともこの憶測に関してはまったくの見当違いである。

「綾音ちゃんは幸村硝子の創業者一族だぞ。うちより全然上」

「え、幸村硝子って、あの大手企業の幸村硝子?」

「そう。でも普通に就活してたし跡は継がないみたいだな」

「ふぅん……」

 どこに入社するかは聞いていないが、いくつか内定をもらったという話は翼経由で耳にしていた。コネなどではなく自分で一から就職活動をしての内定らしい。

 東條はグラスに口をつけ、隣の創真にちらりと物言いたげな視線を流した。

「なあ、諫早くんは本当に就職しなくていいのか?」

「兄貴のところに就職するけど」

「じゃなくて、大手企業とかに普通に就職したほうがいいんじゃないかって……いや、その、お兄さんの会社がどうこうってわけじゃなくてな……」

 ずいぶんと言いづらそうにしているが、言いたいことはわかる。

 創真の就職先は、兄の創一が五年前に立ち上げたWebサービス企業なのだ。大学に合格したころからずっとアルバイトとして仕事を手伝っていて、卒業後はそのまま正社員になる予定になっている。

 しかし、そんなベンチャー企業より安定した大手企業のほうがいいのではないか、せっかく名のある大学を卒業するのに活かさないのはもったいない、そう東條は考えているのだろう。けれど——。

「兄貴の会社なら融通がきくから何かと都合がいいんだ。リモートで仕事してもいいって言ってくれてるし。裁判官だと何年かおきに全国に転勤があるみたいだから、できればオレもついていきたいと思って」

「なるほど……そこまで考えてたとはなぁ……」

 自分一人ではなく、二人の将来を見据えたうえでの選択なのだ。

 ちなみに彼は大学院修士課程に進むことになっている。特にこれといった目的があるわけでなく、彼の学科では九割以上の学生が進学するので、まわりにつられて何となくという感じらしい。

 それゆえ創真の考えに驚いたのだろう。感じ入ったように相槌を打ちながらグラスを手に取ると、ほとんどない残りを呷り、再び冷蔵庫からシャンパンのボトルを持ってきて無造作にそそぐ。

 ついでに創真のグラスにも足していった。一杯だけの約束だったのに、それを指摘することもなくまあいいかと思ってしまったのは、すでにそこそこ酔いがまわっていたせいかもしれない。

 

「諫早くん、まだ食べられるだろう? シメは雑炊な」

 鍋の具材がなくなりかけたころ、東條はそう言いおいてキッチンのほうへ向かった。冷凍ごはんをレンジで解凍し、卵を溶いて戻ってくると、土鍋に投入して卵雑炊を作っていく。料理が得意でないと言うわりに手際がよかった。

「ん、うまい」

「よかった」

 熱々の雑炊をふうふうしながら口に運んで感想を述べると、彼は安堵したように表情をゆるめた。以降はふたりとも無言で食べ進め、そこそこ量はあったのにあっというまに平らげてしまった。

「じゃ、そろそろ片付けるか。諫早くんは座ってて。酔ってるだろ?」

「……ああ」

 自分だけ何もしないのもどうかと思ったが、確かにいささか酔っている自覚があるので甘えることにした。何となく見ていたテレビのニュースが終わりかけたころ、片付けを終えた彼がこちらに戻ってきたことに気付いて、声をかける。

「オレ、そろそろ帰るな」

「じゃあ送ってく」

「ひとりで帰れるけど」

「酔ってて心配なんだよ」

 いくらなんでもひとりで帰れないほど酔ってはいない。住んでいるマンションはここから徒歩五分くらいだし、成人男性なのにと思うが、断るのも面倒になったので素直に送られることにした。

 

 外はもうすっかり夜の帳が降りていた。

 それでも日中の熱はまだかなり残っている。さきほどまで冷房のよくきいた部屋にいただけにきつい。じわりと汗がにじみ、どこか体がふわふわとするのを感じながら歩を進めていく。

「いよいよあしただな」

「……ああ」

 東條に話を振られ、創真はちらりと横目を向けて静かに相槌を打った。そして小さく息をつくと、淡い三日月が浮かんだ濃紺色の空を見上げて、ひとりごとのようにそっけなく言い添える。

「だからってそんなに何か変わるわけじゃないけど」

「まあ、ずいぶんまえから一緒に住んでるからな」

「でも、やっと式が終わるんだと思うとほっとする」

「ははっ、準備に苦労してたもんな」

「オレも翼も別に式なんて望んでなかったのに」

「そう言うなよ。みんな楽しみにしてるんだからさ」

「わかってるけど……」

 そうこう話しているうちに住んでいるマンションに着いた。本当にすぐだ。ひっそりとしたエントランスのまえで彼に向きなおって言う。

「悪かったな、わざわざ送ってもらって」

「部屋までついて行かなくて大丈夫か?」

「そんなに酔ってないって」

「そうか……じゃあ、気をつけろよ」

「ああ」

 そう応じ、軽く手を上げて身を翻そうとしたが——。

「諫早くん」

 どこか切羽詰まったような声で呼び止められて動きを止めた。何だろうと小首を傾げると、彼はすこし目を泳がせて逡巡する様子を見せたが、長くはない沈黙のあと意を決したように口を開く。

「俺もあしたから創真って呼んでいいか?」

「えっ?」

 思いもしないことを言われてきょとんとした。それを見て、東條はあわてて言い訳のように言葉を継ぐ。

「もう諫早くんって呼べなくなるだろ?」

「別にそう呼んでくれて構わないけど」

「え……でも……」

「まあ、名前で呼びたいなら名前でもいい」

「わかった」

 創真と親しい人間はたいてい名前のほうで呼んでいるので、彼もそうしたかったのかもしれない。許可を出すとほっとしたように表情をゆるめて頷き、またあしたな、と小走りで帰っていった。

 

 翌朝、空はどこまでも青く澄みわたっていた。

 あのプロポーズから五年半、この日、創真と翼はとうとう結婚する——。

 

「おめでとう、創真くんも翼くんもすごく似合ってる!」

 ゲストハウスで双方の両親や祖父母に挨拶してまわり、庭に出ると、綾音が待ち構えていたように笑顔でそう声をはずませた。一緒にいた東條と桔梗も、兄の創一も、おめでとうとあらためて祝福の言葉を口にする。

「ありがとう」

 翼は手にしていた懐中時計をしまいながらにこやかに応じ、創真も隣ではにかんだ。

 ふたりが着ているのは白を基調としたおそろいのタキシードだ。ただしデザインは異なる。それぞれの良さを最大限に引き立てたうえで、ふたり並ぶとよりいっそう華やかになるように、ということらしい。

 創真はともかく、翼はすらりとした長身が活かされたデザインで、確かにこれ以上ないくらいよく似合っていた。格好良くて、華やかで、まさに女子が夢見る王子様そのものといった感じである。

「俺、翼のウェディングドレス姿を楽しみにしてたんだけどな」

「翼くんならウェディングドレスもすごく似合ったと思う!」

 東條がいたずらな笑みを浮かべてからかうように言うと、綾音はきらきらと目を輝かせて同調した。そんなふたりに翼は軽く苦笑しながら肩をすくめる。

「さすがにドレスは恥ずかしくてな」

 もう男装はやめたが、スカートを穿くことはなく常にパンツスタイルなのだ。

 それゆえドレスには抵抗があったらしい。参列者が互いの家族と親しい友人だけということもあり、最初から迷わずタキシードを希望した。ウェディングプランナーもとても乗り気になっていた。

 だからといって創真がブーケを持たされるのは納得いかない。結婚式のときはなかったが、披露宴に場所を移すとなぜか用意されていて、おまえのほうが似合うと翼に押しつけられてしまったのだ。

「創真、一緒に撮ろうぜ」

「ん、ああ」

 翼と綾音が笑いながら会話をはずませている隣で、ひっそりと手元のブーケに目を落としていると、東條が明るく声をかけてきた。スマートフォンを掲げつつ創真の隣にまわりこみ、顔を寄せる。

 カシャッ——撮影した瞬間、東條とは反対側から翼が思いきり顔を寄せてきた。撮影された写真にもしっかりと写り込んでいる。まるで、初めから三人で写真を撮ろうとしていたかのように。

「あーっ!! なんで勝手に入ってくるんだよ!」

「おまえいつから創真って呼ぶようになったんだ」

「……いつだっていいだろ」

 翼に追及されると、東條はほんのりと頬を染めながらふいと顔をそらす。しかし翼は怪訝に眉をひそめたまま追及の手をゆるめない。そんなふたりのあいだから創真はそっと抜け出した。

「創真くん」

 すこし離れて遠巻きに見ていた桔梗がにこやかに近づいてきた。創真が軽く頭を下げると、彼女はふふっと笑う。上品なロイヤルブルーのワンピースドレスがふわりと揺れた。

「すこし悔しいけれど翼とお幸せに」

「はい、ありがとうございます」

「私も早く相手を見つけないとね」

「…………」

 彼女は次期当主として数年内に結婚するよう言われているらしい。適切な相手がいなければ見合いをすることになるという。創真が責任を感じる必要はないのだが、それでも彼女との結婚を断った人間として胸がチクリとした。

「あの……よかったら、これどうぞ」

 そう言いながらウェディングブーケを差し出す。

 こんなことをしても身勝手な自己満足でしかないのかもしれない。罪悪感を払拭したいだけかもしれない。それでも彼女に幸せになってほしいと願う気持ちに嘘はなかった。

 桔梗は目を丸くしたが、すぐにふっと表情をゆるめると華やかな笑みを浮かべる。

「ありがとう。本当に私でいいのならいただくことにするわ。でもあとでね。いまはまだ花嫁が持っていないといけないもの」

「花嫁って……」

 いたずらっぽく言われて、創真はどう反応していいかわからず曖昧に苦笑する。

 そのときふいに後ろからガバリと肩を組まれた。驚きはしたが振り返るまでもなく誰なのか察した。案の定そこにいた翼は、そのまま創真の肩に寄りかかるようにして、ひどく挑発的なまなざしを桔梗に向ける。

「あいかわらず油断のならないひとですね」

「あら、お話をしていただけよ」

 桔梗は素気なくあしらうと、不満そうに口をとがらせている翼を無視し、パッと顔をかがやかせて小さく両手を合わせた。

「そうだわ、ここにいるみんなで写真を撮りましょうよ」

「じゃあオレが撮るよ」

 そう申し出たのは兄の創一だ。一眼レフのデジタルカメラを掲げたまま、ぐるりとあたりを見まわして場所を決めると、そこに並ぶよう指示を出す。

「兄貴は入らないのか?」

「オレは因縁ないからな」

「因縁?」

 首を傾げながらみんなの集まっているほうに目を向ける。東條、綾音、桔梗——彼の言わんとすることが何となくわかってしまい、思わず渋い顔になる。

「いや、そういう趣旨じゃないし」

「いいから、ほら行けよ」

 釈然としなかったが、翼に笑いながら手を引かれてみんなの真ん中におさまった。せっかくなのでブーケを見せるように持つ。創真の側には桔梗が、翼の側には綾音が、ふたりの後ろには東條が立っている。

「準備はいいか? いくぞー……三、二、一、はい」

「わ、ちょっ……!」

 シャッターを切る瞬間、示し合わせていたのか周囲の三人が笑いながら抱きついてきた。突然のことに創真も翼も驚いて思わずバランスを崩してしまう。

「ははっ、いい写真が撮れたよ」

 創一はデジタルカメラのモニタを見ながら笑った。

 みんなも彼に駆け寄って囲むようにモニタを覗き込む。その賑やかな写真は、きっと今日の忘れがたい思い出のひとつになるだろう。どこまでも青く澄みわたった秋空に楽しげな笑い声が拡散した。

 

 


 
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