TINAMIX REVIEW
TINAMIX

多重人格探偵サイコ オウム真理教的、宮崎的

■ゲームの人・大塚英志

大塚まんがには、繰り返しこうした「鉄壁のごときゲームの規則」が描かれるが、その傾向は初期の作品ほど強く、作者自身が「ゲームの規則」に囚われているような印象さえ与える。なぜ大塚まんがにはこのような「ゲームの規則」が再三登場するのだろうか。

大塚がはじめて原作を受け持ったのは『魍魎戦記MADARA』という作品だが、実はこのまんが、RPGとのタイアップ作品として生まれてきたという出自を持つ。なんのことはない、大塚まんがの原点はゲームそのものなのである。それだけではない。大塚は自分の創作方法をいくつか公開しているが、これがいずれもゲームめいた創作法ばかり。例えば、キャラクターが経験するシチュエーションを書き込んだカードをシャッフルし、タロットカードを読み込む要領で物語を作り出す。あるいは、過去の映画やまんがの構造=ゲームの規則を抽出し、キャラクターをそれにはめ込んで物語を作る。詳しくは『物語の体操』なる大塚の著作を見て欲しいのだが、要するに大塚は最初から「ゲームの規則」を設定し、その規則に従って登場人物を動かすことで、まんがの原作を書いてきたのである。

確かにこうした手法でも、短編ならそれほど問題はないだろう。だが、同じ方法で長編を作ろうとすれば、作品の背後で動いている「ゲームの規則」は、否が応でも読者の視界に入ってくる。またそこでは登場人物が「ゲームの規則」自体に気づくとか、それに異議申し立てを行うとかいった展開はあり得ない。あらかじめ登場人物はゲームの規則に従って行動することを運命づけられ、それに逡巡することも悩むこともなくなってしまう。つまり、登場人物の「深み」や「内面」が入り込む余地がなくなってしまうのである。またこのような方法による創作では、作品が作者の実存から切り離され、ほとんど自動的にできあがってしまうことも見逃せない。大塚の初期作品に見受けられる奇妙な平板さは、大塚の創作方法自体に根ざしているのである。

このほかにも大塚は、ことあるごとに「内面」や「深み」を追放するかのような身振りを見せている。同人誌を意図的に公認し、版権管理を行って2次創作をビジネス化しようとする。「キッチリもうける」ためにメディアミックスを仕掛ける。物語の創作技法をマニュアル化して公開し、作品を作者の実存から切り離そうとする。そしてさらには「内面など近代が生んだ勘違いに過ぎない」とまで断じてしまう。ここにあるのはほとんど「実存」や「内面」への総攻撃なのである。

図2【図1】
大塚が『聖痕のジョカ』というまんがの原作を担当していたときに使用したカード。これをタロットカードのようにスプレッドして主人公の運命を占い、ストーリーを組み立てていく。

『物語の体操』より
(c) 大塚英志

■内面の人・大塚英志

それでは大塚英志は内面などには何ら興味を持たない、ドライでスーパー・フラットな「ゲームの人」なのか。実は、そうではない。大塚はまんが評論家としての顔も持っているのだが、奇妙なことに大塚は、評論家としてふるまう際には「内面」や「深み」を一貫して擁護してきたのである。例えば、キャラクターの表現手法についての大塚の評価を振り返ってみよう。手塚以来の戦後まんがの王道であるキャラクターの記号的表現について、「そこには生身の身体性が欠如している」として、大塚はバッサリ切り捨てている。それどころか、こうした記号的キャラクター表現は、描かれる対象が「他者」であるという意識を消し去ってしまう原因であり、それがためにロリコン・コミックの過激な(それでいて貧しい)性描写や、手塚の「差別的」黒人表現が生まれてきたのだ、とまで言い切ってしまう。

こうした手塚系の記号的身体に大塚が対置するのは、例えば石井隆の描く身体である。石井が生み出した「村木と名美」という二つの身体、彼らが紡ぎ出す「切って血の出る物語」を、まんが評論家・大塚英志は高らかに称揚する。また大塚は山本直樹描くところの身体も擁護しているが、これもその延長上にある。夏目房之介らの唱える「まんが記号論」や「キャラクター素解析」のようなポストモダン的な概念装置とは到底相容れない、「切って血の出る」生々しい肉感。この肉感を、評論家としての大塚英志は称揚するのである。

いっぽう、キャラクターの心理描写に関して、大塚が高く評価するのはいわゆる「24年組」の仕事である。よく知られているとおり、24年組は登場人物の「心内語」を、吹き出しの外に書き込むという手法を多用する。この「心内語」と実際の「発話」との重層的なハーモニーによって、登場人物の内面に文学的な深みが与えられるわけだ。大塚はこうした重層的描写の手法が80年代以降後退し、まんがの登場人物が平板化していったことを説いた上で、それをまんがの閉塞、自閉の過程だと断じている。ここでも大塚は内面を擁護しているのである。

つまり評論家としての大塚英志は、キャラクター表現においては「切って血の出る」肉感を、そして心理描写においては「心内語」と「発話」の重層性による内面描写を称揚しているわけだ。そればかりではない。大塚英志は梶原一騎描くところの「過剰な内面の爆発」に共感を寄せ、「デビルマンで少年まんがは終わった」と感じ、つげ義春における内面描写の不徹底ぶりと虚構性を批判し、大島弓子についてなら「2時間でも3時間でも話せる」と豪語するのである。これはもう「内面の人・大塚英志」としか呼びようがないではないか(※)。

『魍魎戦記MADARA』
クレジット上では田島昭宇作品となっており、大塚のクレジットは「コンセプト」。角川書店刊、全12巻。
(c)田島昭宇
『物語の体操』
大塚英志著、朝日新聞社刊。
(c)大塚英志
2次創作をビジネス化
正確に言うと下記の通り。以下当人の弁より引用。

「昔、『マダラ』っていうまんがとゲームをやったとき、意図的に同人誌が出てくるように仕掛けて、それで同人誌を公認してったわけ。ちょうど同人誌に対する版権管理が角川書店で大きな問題になっていたんだけれど、認知したら冷めるだろうという計算があったんですよ。実際、コミケのスペースが劇的に終息していった。でも今は違う。プロの連中が喜々としてゲームのサイドストーリー書く。」(『小説トリッパー』2001年夏季号より)
記号的表現
手塚は生前、キャラクターに生気がない、色気がないという批判を幾度となく被った。こうした批判に対して手塚は一種居直り気味に、「自分の漫画における身体表現は、いくつかの記号的表現(=漫符@竹熊健太郎)の順列組み合わせに過ぎない」と宣言した。こうした身体表現はやがてまんが界の多くの描き手に受け継がれ、まんがにおける身体表現を覆い尽くしていく。
石井隆
1946年〜、まんが家、映画監督。「三流エロ劇画」と蔑視を受けながらも、男女の関係性の極北を描ききる孤高の身体表現でコアなファンを獲得。『天使のはらわた』で大ブレークし、その映画化作品、『天使のはらわた・赤い目眩』で1988年に監督デビュー。現在はもっぱら映画監督として知られている。映画の代表作には『死んでもいい』や『GONIN』など。写真は『おんなの街』、ワイズ出版刊、全2巻。
(c)石井隆
山本直樹
1960年〜、まんが家。森山塔、塔山森名義でフランス書院などからエロ劇画を多数リリースする一方、青年誌誌上で数々の問題作を発表。80年代以降のニューウェーブまんがに登場した均等幅の描線と、「切れば血の出る」肉体のエロティシズムを融合させた画風で知られる。代表作に『ありがとう』、『ビリーバーズ』など。写真は『ビリーバーズ』、小学館刊、全2巻。
(c)山本直樹
24年組
昭和24年前後生まれの少女漫画家たちを総称してこう呼ぶ。それまでの少女まんがの主流であった恋愛至上主義を大きく離れ、壮大なスケールの物語と卓抜した心理描写をその特色とする。一般的には萩尾望都、竹宮惠子、大島弓子、山岸凉子らを指すが、場合によっては木原敏江、ささやななえこ、池田理代子なども含めてこう呼ばれる。
(※)
この項については『戦後まんがの表現空間(記号的身体の呪縛)』(大塚英志著、宝蔵館刊)をもとに執筆した。
(c)大塚英志
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