TINAMIX REVIEW
TINAMIX
偽・花輪和一論(後編)

祈り、単に生きること

竹筒のように...
「朱雀門」から「感応」より
(c)花輪和一 青林工藝舎
刑務所の中
「刑務所の中」(c)花輪和一 青林工藝舎

例えば、「朱雀門」所収の「感応」を振り返ってみよう。注目したいのは、ラストに描かれるこのセリフである。

要するに、竹筒のように上から飯を入れて下から出す、それだけの人生がいちばんだ、というのである。ある意味、恐るべき虚無的な思想であるとも言える。また、「刑務所の中」にもこんなセリフが出てくる。

この人物(花輪自身)は、ほかの囚人たちが少しでも看守にかわいがられようと、日々鍔迫り合いを演じるのをよそ目に、「飯に醤油をかけようかソースをかけようか」といったことばかり考えている。要するに花輪という人物は、救済の到来などまるで信じていないのである。それは来るときは勝手に来るし、来ないときは逆立ちしても来ない。醤油だソースだとちゃらつきながら、竹筒のように生きるしかない。それが花輪の根本的な信念なのだ。

だが、ここで少し考えてみて欲しい。「余計なことは一切考えるな。ただ単に、生きよ」。簡単なようでいて、これくらい難しい注文もない。宮台真司ではないが、終わりなき日常をただ生きるというのは、キツイ。「神の口から出る言葉」にも、「大文字の歴史」にも頼ることなく、「パンのみにて」生きよ、というのだから。

「単に生きる」という行為は、どことなく「祈り」にも似ている。「御伽草子」所収の「闇夜の森」に出てくる主人公は、いつともしれぬ戦乱の世の中で、ひたすら「ただ単に生きる」ことだけを考えて暮らしている縄文顔の少女である。

ただ単に生きる
「御伽草子」から「闇夜の森」より (c)花輪和一 双葉社

この少女は夜盗から逃げ、飯を食い、ブナの森で野宿をするという生活をひたすら続けている。そこには「ただ単に生きる」以外の目的は、ない。仏の道を求めるでも、悟りを求めるでも、ない。だが、少女は夢うつつの境に仏の幻影と相まみえる。ここでは「単に生きる」ということと「祈り」とが、ぴったりと重なっているのである。

描くこと、祈ること

花輪和一は、こうした諦観に満ちた哲学を作中人物に語らせるだけでなく、作品そのものを作るプロセスにおいても実践している。ふつうマンガを製作する上では、まず全体のコマを割ってネームを入れ、ペン入れ、ベタ塗りと進んで仕上げにかかる。ところが花輪の場合、全体を通したコマ割りを行うことなく、初めから一コマずつ完成させていくのである。

こうした特異なプロセスを経て製作されるため、花輪の作品はほとんどが短編であるにも関わらず、奇妙な逸脱や屈曲を見せて展開する。突然前後の流れと無関係な人物が出てきたり、なんの脈絡もなく見開きの細密画が出てきたり、最初の話がどこかへすっ飛んでしまうことすら珍しくない。一言で言えば夢を見ている感覚と非常に近く、このためストーリーが実に要約しづらい。

つまり、花輪はあらかじめ設定された目標やプロットという、「大文字の歴史」に向かってペンを振るっているのではない。ただ単に、目の前にあるケント紙の白い空間を、一コマひとこま埋めていく。何も考えずに、ただ単に、緻密に丁寧に……。そしてこの特異な作業の結果生まれる独特の浮遊感・迷走感こそが、花輪作品に奇妙な魅力を与えているのである。

これは俺の憶測に過ぎないが、花輪の執筆作業は、何の見返りも求めない、「無償の祈り」のようなものなのではないか。そして花輪はこの「祈り」を繰り返す中で、デビュー当時の暗い想念に満ちた作風から脱却し、少しずつその業をそぎ落としていったのではないか。俺にはそんな気がしてならない。

このようにして考えたとき、花輪和一の作品群が巷間言われるような(そして俺自身そう考えていたような)エログロ・ナンセンスの文脈を遠く離れて、静かな光芒を放っていることに気づかされる。ここにあるのは、不条理極まりないこの世界を、静かに、確かに生き抜くための智恵なのである。

ただ生きる。ただ描く。そしてただ働く。そしてそこに「無償の祈り」を見出す。この仏教的な諦観に満ちた「花輪哲学」は、俺の見るところ「コロポックル」で頂点を迎えたように思える。この連作集には、ここに述べてきた花輪ならではの労働観が、余すところなく描かれている。次節以降ではこの「コロポックル」を入口にして、花輪の労働観と機械観を見てみることにしよう。>>次頁

page 2/4

宮台真司
「終わりなき日常を生きろ」(筑摩書房刊、1300円、ISBN4-480-85720-6)の中で宮台真司は、ハルマゲドンなどの「デカい一発」に期待するのでなく、援助交際やナンパなどで、終わることのない日常をまったり生き抜く術を身につけよ、と説いた。花輪マンガに見られる救済観はこれとは若干違い、地道な労働の喜びに救済を見出す色彩が濃い。また花輪作品には、当人の意志とはなんの関係もなく「デカい一発」が来てしまう、という物語も多く、一抹の偶然性に期待する哲学が垣間見られる。両者のあいだには微妙なニュアンスの違いが見られるが、さて、どっちがリアルな人生観として役に立つだろうか。読者諸氏の判断にゆだねたい。

終わりなき日常を生きろ
「終わりなき日常を生きろ」
(c)宮台真司 筑摩書房

細密画
花輪和一はもともとマンガ家ではなく、高畠華宵や伊藤彦造のような、少年雑誌の挿絵イラストレーターになりたいという志向を持っていたという。彼の描く細密画は明らかにこうした作家たちの作風の延長上にあるが、「半劇画調」とも言うべき安定したタッチの中に忽然と現れる細密画は、前後の脈絡を異化してしまう働きを持つ。特に「朱雀門」所収の諸作品にこうした傾向が強い。

「コロポックル」
「復刊ドットコム」にて復刊希望の書き込みをしておいた。興味をお持ちになられた方は復刊希望の登録をしてみて欲しい。それだけの値打ちのある本だと思う(もちろんこのほかの書物についても復刊希望を出してくれるとありがたい)。是非。

==========
ホームに戻る
インデックスに戻る
*
前ページへ
次ページへ