TINAMIX REVIEW
TINAMIX
偽・花輪和一論(後編)
樋口ヒロユキ

不敬文学作家としての花輪和一

さて、俺は前回までの本文において、花輪が自己の分身として連綿と描いてきた縄文顔の少女と、その顔立ちが持つ意味について述べてきた。この縄文顔の少女は、花輪が江戸の残虐趣味を離れて平安朝を舞台に移した頃に登場している。つまり、花輪がそれまで無方向に暴発させていた暴力衝動を、「支配者対被支配者」という整流器に流し込むことに成功した頃から、この縄文顔の少女は登場したのである。

前回俺は花輪の「縄文性」について、「人のあるべき姿=自然人」のしるしではないか、というふうに記した。だとするなら、花輪は無方向な暴力表現から対権力の暴力表現に転換すると同時に、「人のあるべき姿=自然人」というポジティブなコンセプトをも獲得していたことになる。縄文顔の少女は、花輪が作家としてのキャリアを積むとともに、その登場回数を増やしていく。ネガティブで無方向な暴力表現から、人間のあるべき姿の表現へ。極めて大ざっぱな言い方だが、花輪作品の辿った軌跡は、このように要約できると俺は思う。その道のりは、花輪が作家として、人間として「業」を落とす過程でもあったのではないか。

とはいえ、花輪はいきなりその業を落とせたわけでも、急に悟りを開いたわけでもない。確認しておくが、花輪は「自然人=まつろわぬ民」の反逆と暴力を幾度となく描くことによって、次第にその業を浄化させていったのである。

例えば既に見たとおり、花輪は平将門の乱を逆賊たる将門側から描き出したし、「コロポックル」はアイヌ人によって滅ぼされたとされる伝説の民族・コロポックルへの深い共感がベースとなっている。こうした周縁の異人たちへの共感は今日も変わるところはなく、「ニッポン昔話」所収の「桃太郎」では、桃太郎による鬼退治が、異民族への虐殺行為であったことを暗示してすらいるのだ。

桃太郎
「ニッポン昔話」から「桃太郎」より (c)花輪和一 小学館

このように花輪の視線は常に、周縁に追いやられた逆賊の側から歴史を眺めてきたのだと言って良い。ここには「不敬文学」の香りすら漂っている、と言っても過言ではないだろう。

敗北の人、花輪和一

だが、このように書くと、花輪があたかも「権力への闘争」をアジり続けてきた戦闘的作家のように誤解する読者もいるかもしれない。大急ぎで訂正しておこう。花輪が主題としてきたのは、むしろこうした闘争が往々にして敗北に終わるほかないという無力感、権力への抵抗が挫折に終わる不条理性だ。花輪和一とはむしろ、「敗北の作家」なのである。

例えば、「御伽草子」所収の「かぐや姫」を見てみよう。主人公(例によって縄文顔)は、病弱ながらわがまま言いたい放題の継母と、酒乱の継父に虐待を受けている。少女はある日竹藪で、縄文様の文様が刻まれた銅鏡のようなものを拾うが、これは異星人(これまた例によって縄文様の体紋を持っている)の持ち物であった。少女ら銅鏡を返してもらった異星人は、お礼に継父母を若返らせようとする。だが異星人の手違いから、継父は「顔だけは老人のまま、体は乳児」という姿となり、少女はいっそうむごい虐待を受けるのである。

かぐや姫
「御伽草子」から「かぐや姫」より (c)花輪和一 双葉社

けっきょく継父は地獄へ堕ち、継母も異星人の超能力の効力が切れてこの話は終わるのだが、同時に少女もまた、異星人とともに彼岸へと旅立ってしまう。少女は現世での幸せを享受することはできないのである。

花輪の作品ではこの「かぐや姫」のように、超自然的な「縄文的異類」の力によって復讐こそ完遂するものの、結局現世的な勝利を手にすることはない、という筋書きのものが目立つ。「御伽草子」では「舌切り雀」もこの類型に属するといって良いだろう。

また、苦難に対して立ち向かった努力が一切報われず、単なる偶然によって一挙に全ての問題が解決してしまう、という話も多い。同じく「御伽草子」所収の「水人」や、「朱雀門」所収の「虫剣虫鏡」などはこの系列に属する。花輪的世界においては、努力と現世利益は往々にして、すれ違いの不条理劇を演じるのである。

こうした花輪作品の孕む不条理性は、他方では処世術とも人生観ともつかぬ、独特の透明感を持った諦観に結びつく。次節ではこの曰く言い難い諦観について考えてみることにしよう。>>次頁

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コロポックル
そのものずばり「コロポックル」と名付けられた登場人物が登場するのはこの単行本からだが、花輪のコロポックルへの関心は比較的早い時期から芽生えていたと思われる。例えば、前回言及した「茸の精」(「朱雀門」所収)に登場する小人などにも、コロポックルの投影を見て取ることは難しくない。

鬼退治
岡山に伝わる桃太郎伝説では、2〜3世紀頃に瀬戸内海一帯を支配した「吉備王国」の「温羅(うら)」という鬼を、「吉備津彦命(きびつひこのみこと)」が退治したことが起源である、と言われている。この「吉備王国」は、一説によるとかつては大和朝廷と同じ程の勢力を振るったと言われている。鬼退治は畿内王権による「吉備王権」への侵略戦争であり、その目的はおそらくこの地方で産出される豊富な鉄資源だったのである。また、瀬戸内海・高松市に浮かぶ女木島にも鬼ヶ島伝説がある。伝説によると、桃太郎とは孝霊天皇第八皇子の稚武彦命(わかたけひこのみこと)のことであり、彼に平らげられた鬼とは付近一帯を荒らす海賊であったという。おそらくは、稲作文化の畿内王権が、海洋民族を掃討した故事が、この伝説の起源なのだろう。あるいは、女木島が吉備王国の残党のアジトであったという解釈も可能かもしれない。いずれにせよ、畿内王権の瀬戸内政権への侵略が桃太郎伝説の背景にあると見ることはそう間違いではないのではないだろうか。

不敬文学
文芸評論家の渡辺直巳の造語。「不敬文学論序説」(太田出版刊、2800円、ISBN4-87233-472-8)によると、不敬文学とは今上天皇を「直写」した文学のことである。従ってこの言葉を厳密に用いるならば、花輪のマンガは「不敬文学」にはあたらないことになるのだが……。

不敬文学論序説
「不敬文学論序説」
(c)渡辺直巳 太田出版

「御伽草子」
双葉社刊、820円。ISBN4-575-93247-7。読んで字の如くお伽噺をメインのモチーフにした作品集。縄文的な渦巻きの乱舞する装丁となっている。

御伽草子
「御伽草子」(c)花輪和一 双葉社
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