TINAMIX REVIEW
TINAMIX
エスプレッソCDレビュー ―音響派について

レビュアー u:臼田/W:大和田/A:赤坂

●Computer Soup:GIRL FROM URUMUCHI(CD-R)
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遠くトランペット近くに電子音。左にピアノ、右に電子音。絶えず前後左右しつつも時間の経過を(おそらくは)テープのヒスノイズが伝える。音空間は絶えず時間をもてあまし気味に経過し、「退屈かも」と呟きさせもする。この作品はCD-Rで発売されている。音響派云々に関わらず「CDを出すこと」がとても安価で、身近なことになった、ということから、音楽聴取のあり方を考えてみることは出来ないか。(u)

●Alan Licht & Loren Mazzacane Corners:TWO NIGHTS (Road Cone/1996)
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ニューヨークの音響系ギタリスト×2による現地録音×2。徹底的に弱いギターの爪弾きは、それゆえギターという楽器が弦の振動により音を生成するのだという当たり前のことを確認させる。あるときは優れてロマンティックなフレーズを奏でる二人だが、インプロからも遠く、ブルースからも遥か遠い。「シブく」も「枯れ」ても「老いて」も「幼く」ない。乾いた、もとい乾いてセンチメント。(u)

●PAPA M:Live from Shark Cage (DragCity/1999)
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元Tortoiseのデヴィット・パホによるクールでロマンティックなミニマルギターミュージック。素朴というか朴訥としたドラムスに電子音とミニマルな展開のギターが絡み合うシンプルな音響。中盤のテープコラージュ等も見事だが、なにより「音を紡ぐ」といった表現がこれほど似合うアルバムも無いかと思うリアルテクスチャーミュージック。帰り道はスクールバス。(u)

●VA:SONIG COMP (TOKUMA/2000)
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先頃来日した、Mouse on Marsらが自ら運営するレーベル“Sonig”のコンピレーションアルバム。相変わらず脱臼系ブレイクビーツのMOMや、OvalとMOMのヤン・ヴェルナーのMicrostoriaの鉱物系電子音響なヤンによるLithopsなど全10曲。吉祥寺では強烈な痙攣系電子音響を披露したf.x.randmizもここではエクスクルーシブなリアルテクノポップ。スタイルの違いこそあれ、どこか牧歌的でささくれ立っていないところがMOM的。(u)

●pita:Seven Tons for Free (Mego/1996)
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パルス on YOU。パルス音なサイン波のノイズで組み立てられた精緻な建築、奇妙な構築物。MegoのボスPitaのファーストアルバムにして、ある快楽原則に基づく音響の選択というテクノの要素の最果ての地。次作「Getout」でよりテクスチャルなノイズに傾倒するが、君が代ライクにドラマティックな3曲目は必聴。(u)

●Fennesz:PLAYS (Mego/1999)
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mego周辺のアーティストでもひときわ精緻な音響を聞かせるChristian Fenneszによるストーンズとビーチボーイズのカバー。虫の鳴き声のようなプチプチノイズで編み出されるPaint it Black、海賊放送をバックに演奏するプリペアードギター奏者のようなDon't Talk。どちらも原曲とは遠く離れた音響ながら、タイトルとの対比で「ああそうかもね」と呟きかねないくらいかすかにのぞく原曲の影。ノスタルジアでなくて「いまここ」でもない。ジムオルークのMoikaiから出した7インチのmegoからのリイシュー。(u)

●想い出波止場:VUOY (WEA/1997)
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ボアダムズ等で活躍する山本精一と津山覚によるユニット。91年「水中JOE」のライナーにて「ヘッドフォンミュージックと呼んでほしい」と明言した、意図せざる確信犯的音響ユニット。爪弾かれるギターの音色、ブレイクビーツも徹底してアブストラクト。決してテクノ畑の人間からは発せられないような、手癖のようなブレイクビーツ、唐突な展開は誰も志さぬであろうが貫禄。98年リリース。(u)

●Gastr Del Sol:CAMOUFLEUR (DragCity/1998)
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音響派の代名詞ともいえるJim o'rouke、David Grubbsによるフォークデュオの最新作にして最終作。Drum'n Bassの上澄みだけのような奇妙なリズムトラックの一曲目SEASONS REVERSEで交わされる、フランスの子供とマイクを持ったo'rouke(多分)の決定的なすれ違いが悲しい。入れ替わり取られるGrubbs/o'roukeのボーカルの緩やかさ、穏やかさ、絡み合うギターに、Marcus Poppによる電子音が彩りを加える。Electro/acoustic&Life。(u)

●Oval:szenario EP (Tokuma Japan/1999)
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オヴァルプロセスとよぶ自身のソフトウェア、それにCDのスキップ音をトレードマークに「音楽」の更新を図るMarcus Poppの最新作。硬質なドローンによる電子音響を多用してきた(それゆえロマン派などという批判対象にもなった)Ovalが、突如4.5分といったポップミュージックのような短い楽曲を発表した決定的な転機。「音楽を聴かない」と公言しているMarcusが、日本のヒップホップユニットCappablackを「普遍性があるからいい」と評したそうだが、これはOvalにおける普遍性、来るべき「音楽 ver.2」への第一歩か?(u)

●Aphex Twin:Richard D James Album (Warp/1996)
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エクスペリメンタルテクノ界(?)の代名詞であり異端児として「自作楽器」や「戦車購入」など、そのエキセントリックな挿話と音響を広く世に知らしめてきたAphex TwinことRichard D James。だが不思議とその名前が「音響派」界隈で語られることはなったのではないか? その秘境的な製作プロセスと幾多の挿話により天才にまつりあげられてきた彼の一応の最新作が本作である。その隠されてきた制作プロセスも徐々に顕になってきた今となっては、かなり素朴に聞こえる。その素朴な音響の豊かさに耳を傾けてみる(u)

●Ryoji Ikeda:+/- (TOUCH/1996)
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私は一度、ライブで熱くなった池田氏を見たことがあるが、それは即興演奏の故だったからか。インプロビゼーションには人を熱くさせる何かがあるのだろう。しかしそれとは打って変わって彼のCD作品はいたって冷たく計算尽くである。聴取者はそこに計測のプロセスを聴くのである。ある種の快感原則は、客観的な状況分析によっていかようにもその姿を変える。そしてその状況分析の報告に耳を傾けること。そこには幾ばくかの快感が残っているだろうか?(W)

●John Fahey:John Fahey Anthology (RHINO/1994)
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50年代より既にフェイヒィはギタリストであった。そして今なおフェイヒィはギタリストである。「音響」とは、音しか残されていないことの証なのだろうか?しかしフェイヒィがそうであるように、音とともにあるのは無闇とでかい巨体と、臭ってくるほどの生である。彼が何かの証であるとしたら、「音響派」なるものがなにも新しいものなどではないことの証だろうか?いや、それ以上に、彼がジョン・フェイヒィであることの、ギターがギターであることの、曲が曲であることの、証であるはずだ。(W)

●conpilation(mouse on mars, scanner, oval, main, hazan+shea) :folds and rhizomes for gilles deleuze (sub rosa/1995)
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フランスの哲学者、ジル・ドゥルーズの死んだ年に出された追悼盤。一般的なイメージとして流通している「音響派」のイメージにそぐう主だった面子、主だったサウンド。しかしこれが1995年発表だということ。われわれは一体これまで何をしていたのか?今なお新鮮に聴くことができるのは彼らが先駆者だったからか?そうではないだろう。いついかなるときにでも耳に触れた新しい足跡として聴ける何かがそこにあるが、同時にそれは、ひどく昔からある身近な足跡でもあるのだ。(W)

●Sachiko M:SineWave Solo (AMOEBIC/1999)
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サイン波、ソロ。というタイトルは松原幸子のソロ作品であるということと、もうひとつ、サイン波のみでできている音楽であるという意味を含んでいる(と勝手に考える)。グラウンド・ゼロにおけるサンプラー奏者としてその音楽活動を開始した松原幸子は、サンプリングという窃盗行為すら捨てて、現在ではサンプラーに既に用意されているサイン波だけで自分自身の音楽を構築している。サイン波の奇妙な音の輝きとニードル級の鋭さは、絶えず私の耳、というか鼓膜を刺激してやまないのである。(W)

●GROUND-ZERO:融解GIG-LAST CONCERT (AMOEBIC/1998)
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大友良英ひきいるカットアップ・即興集団、グラウンド・ゼロ最後のライブを2枚組に収録。CDは演奏の途中から唐突に始まり、静かに、穏やかに消えていく。そこではCDが部分的な記録でしかないことが示される。このCDを聴いていると、CDの時間がそっくりそのまま現在の時間の流れにぴったりと一致していくような気になる。ポップソングがある意味時間の流れを忘れさせるのとは対照的だ。グラウンド・ゼロは明らかに、時間の流れを思い出させてくれる。今現在、時間がこうして流れているのだということを、退屈さとともに。(W)

●john hudak:pond (meme/1998)
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何も起こらないこと。にもかかわらず何かが起こっていること。「音響派」を聴く際によく考えることだ。とどのつまり、何かが起こらなければならない、という拘束から自由な場所で音楽を制作することが要なのだ。佐々木敦氏主催のmemeからリリースされた本作は、ツーーーーーーーーンというどこからどこまでがフィードバックなのか、そうでないのかという困惑の中で音に気づいているほかない、という性質の音楽だ。音が消えたあとも、しばらく耳に張り付いて離れないこれは、残響だろうか?それとも耳鳴り?(W)

●christophe charles:undirected 1986-1996 (mille plateaux/1997)
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ジョン・ケージ、マリー・シェーファーらの伝統を受け継ぎながらも、クリストフ・シャルルはひどく投げやりなやり方で彼自身の音楽を放り投げる。「適当派」とはシャルル氏自身の弁だが、それなら「音響派」とは「適当派」だろうか。しかしその場その場の耳だけを頼りに、適当に音を選択するその方法は、まさに適当な音を選択するに至る鋭敏さを兼ね備えていなければならない。それは常に、音の中に身体が浸り、また身体の中に音が浸透する、そのような相互の交換を、皆にとって忘れ得ぬものにしてくれるのだ。(W)

●Toshiya Tsunoda:Extract from field recording archive #2 (Hapna/1999)
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Wrkの一員としての活動でも知られる角田俊也氏ソロ作。近所で行う理科実験。タイトルの通り、フィールドレコーディングの貯蔵庫でありそこからの拡張。録ること、というそれだけの行為の中にどれだけのアイデアと意志を詰め込むことができるかの挑戦。ガラス瓶の中にマイクロフォンを入れ、山奥に転がしておく放置プレイ。そのユーモアと、極限的かつ神経に障る美の感覚。彼はほとんど何の手も加えていないにも関わらず、その瓶の中には勝手にいろいろな音が集められてくるのだ。(W)

●Kevin Drumm, Taku Sugimoto:Folie A Deux (BOXmedia/1998)
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かたやギターを電子楽器へとプリペアドするケビン・ドラムに、かたやギター本来の姿から最小限の音のバランスを引き出してくる杉本拓。その両名のスプリットCDが、シカゴのBOXmediaから発売された本作である。彼らの演奏は、演奏をしている当の本人達ですら、注意深くしていなければ聴き逃してしまうであろうほどの、そのような微細な音の浮き沈みから成っている。その様子を見守るという行為は、そのスケールに反して驚くほどスリリングだ。(W)

●Philus:Tetra (SAHKO/1997)
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フィンランドはサーコより。Pan sonicのMika Vainioソロ作。ここでもまた収録作品の制作期間は1995-1997と幅を持ち、音響派に新旧の規範が通用しないことを伺わせる。新作、新曲ということがほぼ無意味なのだ。ほぼ、というのは通常の音楽における意味において、という留保。微妙な変化や移動はわれわれの生がそうであるように絶えず行われてある。彼らの「音楽」がそれに忠実だということだ。クリーミィなジャケと粒子系サウンドの組が妙味。テクノへ、ノイズへ、ポップへ。ありうるジャンルがもはやジャンルとしてでなく踏破される。(W)

●RICHIE HAWTIN:CONCEPT 1 96:VR (minus/1998)
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PLASTIK MAN名義による「CONCEPT」シリーズとして毎月1枚づつ12inchできられた音源の、THOMAS BRINKMANNによるリミックス・アルバム。絞り込まれた音数の中で左右のチャンネルの音が微妙にずれていくことで音は異なるリズムを刻みだし、曲は知らぬ間にまったく別の相貌をあらわしはじめる。THOMAS BRINKMANNはセルフ・メイドのターンテーブルを使用し、音高、レンジ、リズムなどを徹底操作することで音の次元を幾層にもずらそうとしている。(A)

●steve roden:CROP CIRCLES (trente oiseaux/1997)
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1996年に行われたexhibition"they came from beyond"にてサウンド・インスタレーションとして発表された作品。ここに収録された音はすべてサンプリング、スピーカーのマイクロフォンのループからなる。テキストはbrandon labelle、レコードカバーはm.behrens。何かを磨り潰すような音の背後に聞こえる足音、CDのデータを読み込むときに生じる音、これらに共通するのは出来事が起こる際に意図せず鳴ってしまう音ということだ。出来事は常に音を伴う。影のようにつきまとう音。(A)

●山本精一&PHEW:shiawase-no-sumika (TOKUMA JAPAN COMMUNICATIONS/1998)
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羅針盤でのカミングアウトを経た山本精一がかねてからの盟友PHEWと組んで作り上げたアルバム。歌詞も演奏も装飾を可能な限り剥ぎ取り、歌と演奏が同じ方向をみるに至っている。「〜でもない」「〜でもない」と否定を連ね最後に転回する肯定が「まっすぐ鼻を見る」という不可能性を示唆し否定神学的境地に至る「鼻」。「飛ぶひとはおちる」と当たり前のことを当たり前に歌いきる「飛ぶひと」。ここから先は進みようのないポップ・ミュージック=アバンギャルドの極北。(A)

●Directions:in music (Thrill Jockey/1996)
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tortoiseのオリジナル・メンバーであり、現在では辣腕プロデューサーとして活躍するBundy.K.Brownによるユニット。一聴した感じはミニマルかつシンプルでありながら、幾度も聴きこんでいくことによって演奏、編集のテクスチャの複雑さに気づきそのたびに驚かされる。主調をなすフレーズと同時に鳴り続く別のフレーズが音響空間の位相を多層化する。初期tortoiseの方法論をさらに突き進め、それに絶妙なロマンティシズムをまぶした感じ。大傑作。(A)

●JEAN-LUC GODARD:NOUVELLE VAGUE (ECM/1997)
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ここには、映画「NOUVELLE VAGUE」で使用される音源が、映画から映像だけを抜き取っただけの状態でそのまま収録されている。車のクラクション、鳥のさえずり、ヒンデミット、ハエの羽の振動音、ティーカップの揺れる音、パティ・スミス、シェーンベルク、笑い声、犬の遠吠え等々、これら全てが指示対象を欠いたまま、同等の権利でもって「ただの音」として鳴り響く。映像版「NOUVELLE VAGUE」とは違う、もうひとつの「NOUVELLE VAGUE」として。(A)

●永田一直:THE WORLD OF ELECTRONIC SOUND (ZERO GRAVITY/1996)
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レーベル自体が純粋電子音響的な色彩をおびるZERO GRAVITYの中にあっても、ひときわ純粋電子音楽の道を突っ走る永田一直のソロ作。だがこの洒落気のない音選択からは、電子音系のアーティストが陥りがちな音に対するフェティッシュは幾分もみあたらない。ここで永田一直は、とにかく電子音を軋ませることに最大の喜びを見出しているようにみえる。事前にプログラムされた音に対し「軋ませる」ことによって自身の意志を介在させること。ここには「聴く」ことの快楽が最優先される。(A)

●BIOSPHERE:CIRQUE (TOUCH/2000)
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数年前の「インテリジェント・テクノ」ブームに乗っかってでてきたアンビエント系のアーティストの多くが転向していく中で、今でもビートが沈んだ「人口自然」の世界を構築する貴重なアーティスト。「人口自然」とは、閉じられた空間の中にいかに全てをつめこむかということ。朦朧とした音像の中にコントロール可能な音とコントロール不可能な音が同居し、映画のサウンドトラックのようなドラマティックな展開をみせる。(A)

●大友良英:cathode (TZADIK/1999)
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john zornが運営するTZADIKのコンポーザーシリーズとして作られた、大友良英が「演奏」から「聴取」へと移行した軌跡を如実に示す作品。大友良英本人が全曲スコアを手がけ、自身は「聴く」ことに徹している。武満徹の「怪談」のサウンドトラックをモチーフに作られた「CATHODE#1」や、笙とサンプラーのサイン波をぶつけあった「MODULATION#1」など、19世紀西洋的音楽制作の方法論と現在の「テクノ」的方法論がぶつかりあう。「CATHODE#2」の音の響きが美しい。(A)

●FENNO'Berg:THE MAGIC Sound (mego/1999)
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Fennesz、Jim O'rouke、Rehbergの3人によるパワーブック・ユニットの最新アルバム。3人が事前にパワーブックに取り込んだ音源を即興で再生していくスタイルをとる。ありとあらゆる音の断片が縦横無尽に繰り出される様は音のおもちゃ箱というのが適切だろうか。ライブでは、某CMで有名な「お買い物…」のフレーズを再生するJim O'roukeがひどく楽しげだったのが印象的だった。(A)

●Tortoise:TNT (Thirill jockey/1998)
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シカゴ一派の大ボスTortoiseの3rd。Tortoiseのリーダーでもあるjohn maMcEntireが録音、編集、ミックス全てを担当している。大々的にpro toolsを導入することにより、大文字の「MUSIC」という膨大な記憶の倉庫からありとあらゆる音源を引きずり出し、融合、切断、再構築していく。コードではなく質感の変化によって曲を進行させていくその手際は見事としかいいようがない。(A)

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