TINAMIXレビュー
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では、「時間処理」に着目して論を進めていくことにしよう。

まず、我々はここで「間白」の機能について知っておく必要がある。

「間白」は単なるコマとコマの間の隙間ではなく、多義的な機能を有している。端的にいえば、コマとコマの間に時間的に連続させているのが「間白」である。

大友克洋のマンガでは、一般に間白は安定して置かれる。それによって時間的な連続を保証され、あたかも映画のフィルムの上でカットが連続するかのような表現が可能になっている。例外的に間白が省略されることもあるが、それはある瞬間に起っていることを同時に見せるような、カットバック的な効果をもたらし、逆にそれ以外の場合は安定して時間経過が表現されていることを強調するものである。

まず、マンガ内に描かれる時間経過が、間白の使い方によって表現されるということをしっかり記憶していただきたい。たとえば場面転換などの際、時間が経っていることを表すのに間白を広くとるなどの表現を思い起こせば、ここが「時間」に関わる要素であることが理解しやすいと思う。

『陽だまり』 永島慎二だが、「間白」にはまだ意味がある。

主人公の青年の驚きが、小さくなったコマで、逆にいえば間白が誇張されることで表現される。(中略)永島慎二はここで間白にそれまで以上の役割を与えた。同じ幅の間白ではなく、間白自体を拡張して圧縮/開放の落差をつくったのだ。すると同じ幅の間白がもっていた時間継起の感覚に違和感が与えられ、間白の広さが、そこだけ時間が遠のいたような時間に転化する。実際は同じ時間が経過しただけなのに、主人公にだけ停止したように長く感じられた時間を比喩する落差になっているのである。
<「間白」という主張する無 夏目房之介「別冊宝島EX マンガの読み方」 宝島社 1995>

さきほど、大友克洋を例に間白と時間について説明した際、「時間」とはマンガのなかで物理的に流れている時間、時計で計測できる時間のことを指していた。一方、夏目が永島慎二を例に説明している「時間」とは、「主人公が主観的に感じている時間」である。つまり、マンガのなかに流れる時間には「時計で計測されるような、物理的に流れる時間」と、「登場人物が主観的に感じている時間」の二種類があるわけだ。このことは、『エイリアン9』を考えるうえでは、きわめて重要なことである。

精神科医の齋藤環は、物理的時間を「クロノス時間」、主観的時間を「カイロス時間」と呼んで区別している。

『サイボーグ009』 石ノ森章太郎石ノ森(章太郎)作品においては、時間はおおむね一定の速度で――妙な言い回しだが――流れている。石ノ森作品ではおなじみの、対話における「間」の描写――それは例えば吹き出し内部のセリフと、吹き出しの外に手書き文字でつけ加えられたセリフとの対比における時間性である(図4 原著では図1)。――こそが、石ノ森作品に流れる時間の「客観性」あるいは「間時間性」を維持するだろう。よりクロノス的な、つまり計測された時間により近く、よどみなく流れる直線的で平滑な時間性である。
<「戦闘美少女の精神分析」 齋藤環 太田出版 2000>

吹き出し内部のセリフと、外に描かれた手書き文字との「間」は、ふつうに発話する場合を想定することによって、ほとんどの読者はおおむね同じ時間だと感じることができる。この「間」が固定されることで、マンガ全体に流れる時間に「客観性」が維持されているというのであろう。

齋藤はコマ割りのもたらす時間分節については言及していないが、やはり同じことである。石ノ森は表現上の実験を多数行っていることもあり、すべての作品がそうであるわけではないが、多くの場合、コマからコマへと流れる時間はクロノス時間を指向している。また、大友克洋はさらに徹底して「クロノス時間」を指向している。むろん、ここで齋藤が例に引いている石ノ森と大友の間の影響関係をいってもいいだろう。

『デビルマン』永井豪さて、齋藤はこの議論を発展させ、こう続ける。

いっぽう永井(豪)作品において、もはや時間は流れない。時間は読者の主観にしたがって伸縮する。濃密で迫力ある瞬間は、大きなコマや大量のページ数を割いて描写される(図5 原著では図2)。石ノ森がほとんど採用しなかった、こうした時間描写こそは、わが国の漫画技法を端的に特徴づけるものだ。

つまり、マンガは読者の主観によって時間が伸縮する「無時間性」を有しているというのだ。この指摘は原理的にはひじょうに示唆に富む。少なくとも、マンガのコマ割り、時間処理について考える際にはかなり重要なこととなる。

そこで、齋藤が言及していない、コマ割りというレヴェルも含めて、この「クロノス時間」「カイロス時間」という概念を手がかりに考えてみることにしよう。

たとえば、少女マンガによく見られるような、コマとコマを多層的に重ねたコマ割りがある。これなどは、大友のように(あるいは石ノ森のように)、コマとコマを時間的になめらかにつなぐという機能からはいくらか逸脱しているように思える。ここでは、むしろ強調されるのは「カイロス時間」のほうである。『エイリアン9』に戻る前に、そのことについて、少し詳しく検討しておこう。

『ポーカーフェース』田中ユタカ

この図版は、主人公の男の子の主観的な時間の伸縮がきわめて精緻に描かれている例である。

上段の2コマでは、主人公の目線にとらえられた対象の動きを叙述している。この2コマの間の時間経過は「クロノス時間」とみてよいだろう。この2コマの間には「通常の」間白が置かれている。

次に中段では、右側の2コマは左側の大きなコマに重ねられているように見える。ところが、よく見ると左のコマには枠線がなく、この大ゴマはむしろ拡大した間白のなかに絵が置かれていると見ることができる。さらに、右側の小さな2コマの間の間白はここだけ省略されている。

最初、淡々と流れていた時間は、中段右側の間白の突然の省略によって混乱させられる。つまりここで、「待って」という、主人公にとって心理的な転機になるセリフとともに、時間がクロノス時間からカイロス時間へと転換するという仕掛けである。

さらに、次の大ゴマで主人公はいきなりキスされ、その一瞬が彼にとって途方もなく長く感じられていることが想像させられる。そして下段に進むと、主人公の内面の声が記述され、時間ははっきりカイロス時間へと移行する。

つまり、読者の「読み」に生成する時間が、主人公の感じる主観的時間に重ね合わせていくわけである。そこでおのずと、読者の感情移入は高まっていく。コマ割りを用いて、巧みに読者の感情移入を誘う、たいへん優れた技巧といえよう。

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