|
・ラベル貼りは言語か、それとも違う記号か
おそらく全体のなかで最も核心的だったのは、「ラベル貼り」の話題だ。どういうことかというと、まず私たちの情動系がなにかの刺激で動く――たとえば「渇望」のメカニズムが起動する。しかしそのままでたんに生理的な興奮状態にすぎない。私たちはこれに、認知やコンテクストを手がかりにして「快/苦痛」のラベルを貼り、貼った後の最終的なプロダクトだけを「快/苦痛」として感じるというのだ。つまり興奮状態だけでは、認知的な過程が働かないと、それが「嬉しい」のか「悲しい」のか私たちにはわからない。
こうした整理を受けて東氏が「ラカンというひとは、頭のソフトウェアをいかに理論化するかに関心のあったひとで、認知脳の部分は基本的に言語によってシステム化されていると考えた。そこでラベルはなにか記号のような感じですけど、快楽/苦痛というラベル=記号の実体はなんなのでしょう」と廣中氏に質問する。
これを捕捉すると、ラカンの理論では象徴界(頭のシステムの言語化)と快感原則の支配は等しいものである。身体はあるXしか与えてくれない。そのXを回収しつつ、ラベルを貼るためにはある種の言語教育が必要で、それによってはじめて快/苦痛を制御(ラベリング)できるのだ……がその理解でよいのか、ということだ。
廣中氏は「そういうものだ」という。薬物依存からひとを立ち直らせていく過程でも、頭のなかにあること外に書き出し、自覚させることで認知の構造を変えていく治療が行われるそうだ。ラベルは一種の言語であり、その形成も各人の生い立ちと深く関係する。オランダで政府が中毒者に薬物を与えるのも「おれは悪いことをやって、世の中で拗ねて生きている」という認知を解消するためだという。
しかしそれではラカンの理論にとどまる(「欲望は他者の言語である」として)――それゆえ東氏は「さきほどの実験ではマウスも渇望にラベルを貼る。その場合のラベルは言語以前のものですか」とさらに問う。ラカンの理論は「動物」を排除することで成立している。それに対して廣中氏は「言語以前のものですね」と回答。
ここから、つまり二つに認知機構があると解釈されるわけだが、それ以上先の議論になると現在の段階ではまだいささか難しいようだ。というのも最後の質疑応答で「人間がある生理的な状態を解釈するときに、高次メカニズムとしての言語と、マウスとも共通の認知機構、はたしてどちらが先なのか」という質問が出たのだが、これに対して廣中氏の応えは「それがわかったら死んでもいい。いまわかっている知識を総動員してお答えすれば両方だ」と研究者魂を迸らせる。
なぜなら「文化的なコンテクスト」を考慮すれば「ラベル貼り」は「言語にひっぱられている」といえるが、しかし「動物の認知系も非常に根源的なシステムでもある」からだという。とはいえ、少なくとも言語に過剰な優位がおかれていない、と理解するだけでも興味深い議論だった。最後にまとめた下條氏の発言――「言語的な認知機能と言語的でない認知機能のあいだを切ってしまうのか、そのあいだに連続体があると考えるのか。あるとしたら言語的ということは、程度の問題かもしれない」からは今後の研究の可能性を感じることができるだろう。また「これらの問題を情報(たとえば生命は遺伝子に還元されるといったときに、それは物質というよりむしろ情報である)という概念でみたら、違ったものになるだろう」という東氏の発言も同様に期待を持たせる意見だったように思う。◆
ルネッサンス ジェネレーション2000 監修者プロフィール
下条信輔 (しもじょう・しんすけ)
カリフォルニア工科大学教授・NTTコミュニケーション科学研究所リサーチプロフェッサ/知覚心理学・認知脳科学・認知発達学
タナカノリユキ (たなか・のりゆき)
アーティスト/アートディレクター/映像ディレクター
出演者プロフィール
廣中直行 (ひろなか・なおゆき)
理化学研究所・脳科学総合研究センター研究員/精神薬理学・神経生化学・実験心理学
東浩紀 (あずま・ひろき)
日本学術振興会特別研究員/哲学研究者・批評家/本誌編集協力
樋口真嗣 (ひぐち・しんじ)
特撮技術監督
(以上、プレスリリースより抜粋して引用)
→ルネッサンス ジェネレーション ホームページ
page 5/5
|