網状言論Fレポート

オタク第一世代の自己分析 〜あくまで個人的立場から〜


竹熊健太郎(編集家) Kentaro,TAKEKUMA

1960 年生まれ。編集家。神奈川県立座間高校在学中にミニコミ誌「摩天樓」創刊。高校卒業後、桑沢デザイン研究所に通うが一年で中退し、自販機ポルノ誌の編集者に。以後編集・ライター・マンガ原作等に従事する。著書に『サルでも描けるまんが教室』(相原コージと共著/小学館)、『私とハルマゲドン』(ちくま文庫)。編著に『庵野秀明パラノ・エヴァンゲリオン』『篦棒な人々』(共に太田出版)等。現在、スピリッツ増刊IKKI (小学館)に『追跡者〜幻の漫画家・韮沢早を追え!』を連載中。

■70 年代〜80 年代「オタク」はなぜ成立したのか? 第一世代からの証言

中森明夫、浅羽道明、宮台真司ら(彼らは皆オタク第一世代に属す る)の論説にもあるように、いわゆる「オタク」と後に名付けられ ることになる層は、70 年代後半に急激に増加した。これはなぜか?

→戦後の高度経済成長の成功による中流家庭の増加(オタクは中 流以上の経済的基盤なくしては成立しえない)。
→敗戦後、津波のように押し寄せた西欧のサブ・カルチャーと、 それの日本的な咀嚼過程が70 年代まで続く。
→同時に、70 年代初頭の学生運動の挫折と、オイルショックによ る経済停滞により、「大きな物語」が喪失。
→政治的・思想的な「大きな物語」の代替物としてのサブカルチ ャー。「親に対する反抗の形」としての「児童文化」。70 年代中 盤に登場するコミケットや、その数年後に成立した「ロリコン」 同人誌も、初期のそれはカウンター・カルチャーの文脈で捕ら えなければ理解できない。意図的に「大人にならない」ことで 「大人社会」を批判する構図。
→いわゆる「新人類(サブカル)」と「オタク」は70 年代において は同じものであったが、77 年のアニメブームを境にしだいに分 派していく。これは学生運動の分派過程と似ている。
→マンガやアニメは、「大きな物語」の代替物としてのそれであっ たから、第一世代オタクには当初から自己韜晦の傾向が強かっ た。ここから「悪趣味文化」「パロディ文化」が発展していく。 →しかしアニメブーム以降、アニメやマンガに「素直に」熱狂す る人々も増えていく。数としてはこちらが多い。それ以前から そうしたサブカルチャーを「反抗のかたち」として捉えていた 人々は少数派となり、「密教化」していく。
→80 年代中盤〜90 年代は、一部の「密教徒」が「顕教徒」を操作 しつつ、総体としてのオタク文化を隆盛に導く過程である。そ の典型的な動きがGAINAX である。

■90 年代〜90 年代中盤オタク文化の爛熟

90 年初頭にかけて隆盛を極めるオタク文化。しかし反面それらは 「密教」「顕教」も含めて消費の一形態に過ぎず、消費されるべき資 源(この場合は作品や作者のモチベーション)はどんどん枯渇して いった。

→マンガにおいては「少年ジャンプ」のトーナメント連載方式に みられるように、ここでも「物語」が喪失していく(動物化?)。 ここにおいて、手塚治虫以降追求されてきた「物語を表現する 媒体としてのマンガ」は決定的な変質を迫られ、行き詰まり感 を強めることになる。89 年に「サルまん」を描くにあたって、 私にはそうした意識がはっきりあった。

■95 年オタク的「大きな物語」の終焉

95 年に発生した「地下鉄サリン事件」、そして「新世紀エヴァンゲ リオン」は、オタク第一世代がそれでも抱いていた「オタク版大き な物語」の終焉であると言える。

→地下鉄サリンはともかく、「エヴァンゲリオン」は「物語」の喪 失した時代でいかに「創作」を行うかを身をもって示した壮大 な実験であり、同時に消費のニヒリズム(密教)に埋没するオ タク達への(作者の自己批判を含めた)異議申し立てだった。
→ゆえに、「人類オタク化計画(?)」を夢想していた一部の第一世代 があの作品に生理的拒否反応を示したのは当然である。
→「エヴァンゲリオン」は恐ろしく多面的な作品なのでさまざま な解釈が可能だが、以上の文脈から解釈するなら、作者が「自 分の足下を見ろ」と観客に突きつけた作品であるということが できる。それはもちろん作者・庵野秀明にも突きつけられた課 題である。

■95 年以降〜「動物化」した時代の中で「物語」を 紡ぐことは可能か?

すでに万人がコミットしうる「大きな物語」が壊滅したことはほぼ 明らかである。このような時代にあって、私たちはどのような態度 で生きればよいのか?

→ひとつの方向としては「動物化」を徹底させること。げんに多 くの人がそのような傾向にあるが、しかしこれは危険な要素も 内包している。
→なぜなら、生理的快感をともなう「偽りの大きな物語」がもし 与えられたとき、そうした人々がその「物語」に抗しうるかは 疑問だからである。
→また既成の作品を動物的に消費しようにも、作品資源はすでに 枯渇しつつある。
→そして作品の作り手の側は、「大きな物語」消失後にどのように して創作のモチベーションを維持すればよいのか。
→この時代にあっての創作のモチベーションは、必然的に個人の 内的な問題にならざるをえない。
→ここでセクシャリティという古くて新しいテーマが浮上する。 「エヴァ」以降の庵野秀明の軌跡(「ラブ&ポップ」「式日」)は、 こうした文脈で見るなら私的には理解できる。

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