阿部和重 INTERVIEW
TINAMIX
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基調報告――砂さんへの回答

阿部和重

ともに「週刊ヤングマガジン」で連載中の『頭文字D』と『湾岸ミッドナイト』は、自動車による公道レースという同種の題材を扱うマンガ同士としては、律義なまでにといっていいくらい見事に、内容の棲み分けが出来ているということを最初に指摘しておかねばならないでしょう。「ヤンマガ」誌上での作者同士による対談でも語られていた通り、主人公の車が前者はトヨタ車で後者は日産車という違いがまずあります。さらに前者では、主人公の恋愛の過程(公道レースとは無関係な日常生活)が詳細に描かれていますが、後者においてそうしたエピソードは極めて稀です。また、走り屋的世界観のリアリティーを描き出す上で、前者はドライビング・テクニックを中心に据えているのに対し、後者の場合はメカニックを主軸としています。舞台設定の上でも、カーバトルの主戦場は峠道と高速道、生活環境は地方と都心部というふうに分かれています。

こうした設定上の相違は、『頭文字D』には明快さを付与し、『湾岸ミッドナイト』には難解さを齎しているように思えます。たとえば前者の峠道バトルは、展開と決着が素人目にも判りやすく描き得るのに対し、後者の高速道バトルはどこまでもゴールの見えにくいものです。ドライビング・テクニックの効果は、恐らくかなりの部分まで図解可能なものであり、実際に『頭文字D』では見事にそれが表現されています。他方、チューニングによる自動車性能の向上を目に見えるものとして描くのはかなり困難なはずで、『湾岸ミッドナイト』ではほとんどマニアックな専門用語の羅列に終始しているのも事実であり、メカニックの知識のない者には理解不能な展開を示すことすら多くあります。これらの点から、『湾岸ミッドナイト』は「クルマというフェティッシュと人間との関わり」を描くものにすぎぬとする砂さんの判断も否定できないとは思うのですが、けれども僕としては、それだけではない何かがあると言いたいのです。

『湾岸ミッドナイト』が、高速道バトルの勝敗を明確に決する展開をとらず、難解な表現を用いるのは、作品の主題と深く関係があると思われます。僕の考えでは、『湾岸ミッドナイト』の主題とは端的に、「なぜ走り続けるのか?」という一つの問いです。これは、本作の登場人物たちにとって究極的な問いとして常に重くのし掛かります。そもそも、走り続けること、すなわち改造車で公道レースを行うことは、単なる快楽の追及にすぎず、ほとんど無意味です。非合法で金もかかり、絶えず死の危険を伴うそのあまりにハイリスクな娯楽は、刹那的な快楽の他には何も齎さぬとさえいえます。にもかかわらず、『湾岸ミッドナイト』の登場人物たちは改造車での公道レースにのめり込み、多くの犠牲を払いながら走り続けるというわけです(しかも彼らは決してサーキットへ向かう意志を持とうとはせず、あくまでも非合法の公道に拘り続けます)。そうした過程で、常に誰かが「なぜ走り続けるのか?」という問いを発し、あるいはそれに悩み続けます。その極めてシンプルな問いかけへの答えを考え出す(ゴールへ辿り着く)ことの困難、『湾岸ミッドナイト』は、それを描いているのだと思えるのです。

上記の視点を踏まえると、『湾岸ミッドナイト』の作者にとって、公道レースは万人にとって判り易いものであってはならないといえるでしょう。むしろ徹底的にマニアックで無意味なものとして読者の目に映る必要があります。そのため難解な表現が用いられもするわけです。台詞などの表現が、より深くマニアックで難解になればなるほど、「なぜ走り続けるのか?」という問いかけは重く響き、登場人物たちは無意味に曝されることになるでしょう。そこで展開される登場人物たちの実存のドラマは、時にセンチメンタルに過ぎることも確かにありますが、たとえば1巻から4巻で描かれる「悪魔のZ」の再生と死を巡る一連の過程には、単なる公道レース漫画を超えた普遍性を獲得し得ている瞬間が認められるようにも思えます。改造車のスペックに関わる諸々の台詞に紛れ込み、「なぜ走り続けるのか?」の答えを見出そうとする登場人物たちのモノローグが何度もくり返されてゆくうちに、公道レースの勝敗自体にはもはや意味がなくなります。彼らは誰よりも最速を目指しますが、一晩のバトルに勝つことは必ずしも重要な成果ではないわけです。走り続けることとはつまり、生き残ることでもあるからです。最速で走り続け、生き残る。そうした限界体験へと向かうドラマ(群像劇)を、『湾岸ミッドナイト』は描き続けていると思えるのです。

もう一点、『湾岸ミッドナイト』における走り屋文化の捉え方に触れておきたいと思います。砂さんは、『頭文字D』の特性の一つとして、「峠を単位とした走り屋のネットワークというものが記録されていることも面白い」と指摘しています。それに絡めると、『湾岸ミッドナイト』には、70年代以降の日本における公道レースやチューニングを巡る歴史が記録されていることも面白いといえるでしょう。この点は、作品構成上の時間の処理に大きな影響を及ぼしているようにも思えます。一人の主人公を中心に物語が構成され、時間の推移が丹念に描かれながらほぼ現在時制で展開してゆく『頭文字D』に対し、『湾岸ミッドナイト』は中心となる登場人物(と車)が設定されてはいるものの多声的に展開し、過去と現在が交錯して描かれます。走り屋の世界へ向けられた外部からの視線を物語内に導入したのが『頭文字D』だとすれば、その世界の内側を見つめすぎることで視線の先が外へと突き抜けてしまったのが『湾岸ミッドナイト』だといえるかもしれません。

ともあれ僕としては、この二作はいずれも同程度に優れた作品だと考えています。この二作は、それぞれが描かずにおいた部分を互いにうまく拾い上げているといえるのではないでしょうか。『頭文字D』と『湾岸ミッドナイト』は、同一誌で同種の題材を扱う作品同士として人気を分け合いつつ連載を続けてゆくための戦略という意味でも、相互補完的に互いを支え合っているのだと思えます。そのような展開を維持しつつ、品質の高さを保ち得るというのは、確かにマンガという表現ジャンルにしか可能ではないのかもしれません。


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