プレアイドルやコスプレや同人誌といった文化圏に足を突っ込みつつ、どれからもちょっと浮き上がっている存在。桜井恭子と話しているとそんな印象を受ける。それはたぶん、彼女がオタク文化を愛してはいるものの自分の生活の全てを捧げるようなことはなく、適度な距離の取り方を自然と身につけているからだ。それはオタクである自分に実存を預けていないとも言えるわけで、彼女の若さを考えてみるとそれはオタクとしての新しいスタンスを自然体で身につけているということなのだろう。
また、注目したいのはコスプレの対象にするキャラクターへの彼女の割り切り方だ。もちろんキャラクターへの思い入れが強い場合もあるのだが、作品やキャラクターとは無関係に、単純に服飾としてのデザインの可愛さや非日常性を彼女は重視している。しかも桜井恭子の場合は、コスプレが自己表現としてさらに徹底されていて、コスプレをする対象であるキャラクターの木之本桜に過剰に投影して見られることに拒否感すらあるようだ。コスプレをしていても自分は自分。そのシンプルな考え方は、コスプレに関して語られがちなキャラクターとの同一化という文脈から完全に離れてしまっているどころか、むしろ相反している。コスプレという行為は結局のところ生身の人間が特殊な衣装を着ているだけであり、衣装を着る者とそれを見る者との間に共通する概念に依存しなければ成立しない。キャラクターそのものになれるわけなどない。コスプレの構造に内在するそんな矛盾を、桜井恭子は当然のことのように受けとめてコスプレをしているかのようだ。
そうしたコスプレ活動の一方で、彼女の写真は幾度となく雑誌に無断掲載されたりネット上で無断転載されたりしてしまうことになった。その写真が「これ誰!?」といった関心を呼び、桜井恭子のカルト的な人気につながった事実は見逃せないのだけれど、やはり彼女自身には精神的に負担が大きかったのは無理からぬ話だ。考えてみれば、プレアイドルにしてコスプレイヤーという目立つ立場にいる彼女は、見知らぬ人々との距離の近さに常に悩まされてきたのかもしれない。コスプレイヤーに対する好奇の目は鋭くて刺々しいこともあるし、しかもインターネットは人間同士の距離感を時に見失わせる。彼女が活動しているフィールドの性質に起因しているとはいえ、自分の好きなことをしようとすると同時にそうしたリスクを背負わなければいけないことは、オタクとして生きる上でちょっと世知辛い現実だ。
けれどやはり桜井恭子のユニークさは、オタク文化に入れ込みつつも適度な距離の取り方をしている点と、それと同時に学校のクラスにもなじんでいる普通の少女だという点にあると思う。従来のコスプレやアイドルという枠組でしか彼女を見ない人々からは異端扱いされるかもしれないが、軽やかに自分のモードをチェンジして、あるいはミックスして活動する彼女のスタンスは魅力的だ。普通の少女としての服飾感覚を備えつつ、オタクとしての視点も持ち、しかもプレアイドルという立場にいる彼女なら、従来のプレアイドルやコスプレの文脈の中から飛び出してその可能性を広げてくれるかもしれない。
TINAMIXのアートを担当するマリちゃん制作のぬいぐるみやグッズ類を気に入った様子だった彼女は、マリちゃん制作のかぶりものを着用して撮影することに応じてくれた。可愛さと同じぐらい毒々しさも含んでいるマリちゃん作品を身に着けた桜井恭子は、カメラの前ですぐにモデルの顔になる。その表情の変化はプレアイドルやコスプレイヤーとして身につけたものでもあるだろうが、なにより普通の少女としての好奇心の表れだろう。そして「コスプレのイメージを変えたい」という彼女の意思と好奇心が、現代アートとの接点を持ったなら、アイドルとしてもコスプレイヤーとしても面白い展開が期待できるかもしれないと考えた。マリちゃん作品を身に着けることが、実は現代アートとのコラボレーションだったことは、あまりに自然な流れ過ぎて彼女も気付いていなかったかもしれないけれど。
付け加えるならば、オタクとして周囲の目を多少気にしている部分こそあれ、ルサンチマンとは無縁そうであることも印象的だった。恐らく彼女は、とても濃密な時間を過ごしている。僕らが取材したのは彼女の誕生日の翌日、桜井恭子はまだ16歳になったばかりだったのだ。
(宗像明将)
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