TINAMIX REVIEW
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青少年のための少女マンガ入門(13)〜清原なつの『花図鑑』〜

■迷走する少女たち

「なけなしのラブストーリィ」表紙
「なけなしのラブストーリィ」
(c)清原なつの
集英社 りぼんコミックス

『花図鑑』に登場する女性は、みな必死にセックスに向き合っています。処女性が重んじられ、女の子の性欲がないことになっている倫理観が支配的な現代日本では(ま、最近のレディコミや『快感フレーズ』が大ヒットの少女マンガ界では、その状況はかわってきておりますが。ビバ快フレ)、これは大変むずかしい。試行錯誤を繰り返しながら、それでも逃げずに何とかセックスと折り合いをつけようとあがく彼女たちの姿は、感動的に美しい。清原なつのは少女マンガの殿堂、「りぼん」出身の作家ですが、星キラキラ花バリバリの、性的なものを排除しがちな少女マンガ界で、「りぼん」時代から一貫してセックスを真正面から描き続けた稀有な作家です。「りぼん」時代の傑作『俺たちは青春じゃない』(りぼんコミックス『なけなしのラブストーリィ』収録・1983)の主人公は、両親の離婚で傷ついた文学少女が、「きれいな詩ばかりえらんでひたってちゃだめなのよ」と、エロ本まがいのポルノ文学に走ります。この屈折ぶりは近年の「やおい」に自分たちの倒錯した性欲を求める少女たちに通じるものがありますが、その迷走を主人公はこう肯定するのです。「まがいものでもウソっぱちでも、そこにはそういうものを書かざるをえなかったわたしたちがいるのよ」と。

■女の子に性欲があってもいいじゃない

「空の色・水の青」表紙
「空の色・水の青」
(c)清原なつの
集英社 ワイド版ぶ〜けコミックス

作者本人が『花図鑑』を描きつづけるきっかけになった、と言及している『空の色・水の青』(集英社ワイド版ぶ〜けコミックス・1990)では、この「女の子の性欲」がもっと掘り下げて描かれます。幼女のころに近所のお兄さんにいたずらをされた過去を持つせいで、やはり自分のセックスを「汚らしい」と感じてしまうようになる主人公が、サル学の研究者との関係を通じて、健康な性欲を取り戻すようになるのですが、この話の凄いところは、いたずらされた主人公が「それをいやがっていなかった」と自覚するところにあります。

例えば『BANANA FISH』などの傑作が名高い吉田秋生も、『吉祥天女』『ラヴァーズ・キス』等で幼女期のトラウマがどんなに深く女性の人格形成に影響を及ぼすかについて描いていますが、幼女の性欲を否定せずに描いたのは、少女マンガ界ひろしといえども清原なつのだけでしょう。

『空の色・水の青』で、主人公は昔を思い出してこう独白します。「お兄さんのそれが幼かったわたしに触れることは、奇妙にくすぐったくて気持ちの良いことだった」「さからわず身をまかせ期待さえしてその河原に出かけたのだ」そして、「こんな汚れた自分の正体を知ったら男の人は皆目を背けるだろう」「もう誰も愛してくれないに違いない」と考えます。しかし、彼女の正体、彼女の性欲を愛してくれないのは男の人ではなく、実際のところ自分が自分を愛せないのです。

幼児にも性欲があることはフロイド先生も言っております。だいたい禁忌の対象であるセックスに子供が興味を持つことは当然です。隠されれば知りたくなるのが子供ゴコロ。まだ毛も生えそろっていない純真な頃でも、親が天井裏に隠したなんだか楽しそうな本を見つけたら興奮しちゃうのが人間として自然でしょう。

しかし、社会によってその性欲を否定された少女たちは、健康な性欲を肯定することは出来ません。『空の青・水の色』の主人公の相手がサル学者であることは象徴的です。サルは社会的な動物ですが、性欲を抑圧するような倒錯した文明は持っていません。そのサルの性行動を含む生態を語りあううちに、主人公はセックスを汚らしいもの、と感じなくなってゆくのです。

清原なつのの作品には『金色のシルバーバック』『銀色のクリメーヌ』(ぶ〜けコミックス『金色のシルバーバック』収録・1990)等、サルを扱った作品群があり、清原なつののサルものと(筆者によって勝手に)カテゴライズされておりますが、サルという人間に近い動物を人間と同列に描くことによって、人間さまとその社会が相対化されるのでしょう。岩明均が『寄生獣』で人間と天敵を同列に扱って、その存在の相対化に成功したように。でも清原なつのは少女マンガだから、異種間恋愛がメインになって楽しいんですけどね。あ、『寄生獣』もシンイチとミギーの異種間恋愛か?とかやおい根性丸出しで言ったりすると引かれてしまうのでやめておきますが。

■少女が倒錯する理由

ところで、どうして男性に比べて女性は自分のセックスを獲得するまでかくもメンドくさく屈折しなければならないのでしょうか。いえもしかしたら男性もいろいろタイヘンなのかもしれませんが、ここではなーんか男の性欲の方が単純でいいよーに思えるなーというこちらの根拠が希薄な感覚をもとに話を進めさせていただきます。

ま、それは前述したように女性の性欲を抑圧してきた社会的背景もあるのですが、フロイドによると、性発達過程において男性は男根期で成熟が完成するのに対し、女性は男根期において男根を持たないために性衝動がザセツするから、らしいです。要するに無抵抗な乳児期に刷り込まれた母親との一体感がエロスの源である、と。だから男はみんなマザコンである、と。そして男根リビドーにおいてゼサツを味わった少女たちのセックスは迷走し、屈折していく、と、大雑把に言えばそーゆーことらしいです。違うかもしれんが。

ま、いまヒトツぴんとこない部分もありますが、少女たちも男性にではなく、女体に対して興奮する、というのは実感としてなんかわかる、それはレズビアン的な意味合いではなく、自分の体、ナルシシズムの方向へ向かうものです。だから少女は自分の体だけで、男性の体を必要とせずにセックスを完結させてしまうことが出来る。筆者が今までの当連載でくり返し触れた「少女たちの自己完結」がこれで説明できてしまう。また、新條まゆのコラムで言及した少女たちのレイプ願望についても説明できてしまう。彼女たちはムリヤリ性交させられる事象そのものに興奮するのではなく、レイプというリスクを犯してまでに激しく求められる自分の肉体にナルシスティックに興奮するわけです。ここにレイプ願望についての男女両者間の激しい齟齬があるわけですが。

あまりにすとんと理に落ちてしまうので、なーんか上手いことだまされているんじゃねーかという気になりますが、とにかくフロイド先生のおっさることなので、そういうことにしておきましょう。とりあえず。たぶんやおいも上手く説明付けられるぞ。少女の男根リビドーとナルシシズムを同時に満足させるシチュエーションを創造しやすいとか何とか。 >>次頁

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