No.987924

魔王の庭の白い花

男子しか生まれない魔族の家系である“魔王”は、多くの先人たちがそうしてきたように、妻にするため“人間の女”をさらってきた。
しかしこの魔王、魔族にしてはちょっとばかり気弱で、変わり者。
あろうことか女のために人間の料理を勉強しはじめて……

(2014年執筆作品・完結済み・他小説投稿サイト&自ブログにも掲載しております)

2019-03-22 09:46:39 投稿 / 全6ページ    総閲覧数:655   閲覧ユーザー数:655

 

 

 満月が煌々と照らす不気味な古城。

 

 人を喰らうという獣たちが徘徊する深い森の真ん中にひっそりと、しかし圧倒的までの確かな存在感を持って、その城は立っていた。

 

 その最上階から、男が高らかに笑う声が響く。

 

「はーっはっはっはっはっは!」

 

 全てを得、それでもまだ満足しないとでも言うような強欲さを秘めた笑い。

 

「ふあーっはっはっはっはっはっ!」

 

 恐怖は己が感じるものでなく、他人に与えるもの。そう言わんばかりに堂々とした強気な笑い。

 

「うぅあーっはっはっはっはっはー……」

 

 城じゅう、森じゅうにこだましていた、自信にあふれた高笑いが不意に消えた。

 そして、城の最上階に座する男は目の前の姿見を覗き込んだ。

 

「……なんか違うなぁ。もっと男らしくてスタイリッシュで、でもって威厳を感じられるような……」

 

 そして何度か腹式呼吸の発声練習をしてから、もう一度叫ぶ。

 

「ふおぁーっはっはっはっはッ……ゴホッゲホッゲホッ!」

 

 盛大に喉を痛めて涙目でむせる男の部屋に、一匹の小さな竜が飛び込んできた。

 

 その暗いオレンジ色をした生き物がぽんっと煙に包まれると、その煙の中から一人の背の低い少年が飛び出してきた。見た目は齢5,6歳程度だが、少年は容姿にそぐわぬしっかりとした口調で男にこう言った。

 

「魔王様! 何をやってるんですか、早く来てくださいよ! こういうのはタイミングってものがあるんですから!」

 

「あ、ああ、すまない……。あの、これだけアドバイスをくれないか? 『あっはっは』の最後の『は』は、『はー!』と『はっ!』どっちが魔王らしくてカッコいいと思う?」

 

 怪訝な表情をしている家来の両肩をひしっとつかみ、男は詰め寄った。

 

 そこにまたもう一匹別の小さな竜が飛んでくる。そのスカーレットの竜も煙に包まれると、同じくらいの幼い少女が現れた。

 

 少女は呆れたように口にする。

 

「どっちだって変わりゃしないですよ。ほら、行きますよ」

 

 そう言って強引に手を引いて部屋の外に出そうとする二人の家来になんとか抗って、男は姿見に再度姿を写した。

 

「み、見た目だけでも最後に確認させてくれ……。このマント、どうだろうか? 実はもう一着、先々代の魔王の勝負服も用意しておいたんだが、そちらの方が高級感があっていいだろうか……? ああでも、“高い服に着られてる”みたいに思われたらどうしよう。やはりオシャレ上級者のように自分らしさなど追わず、潔く流行に乗ったデザインのマントに着替え直すべきか……」

 

 再度自分の迷宮に入り込む男に、家来の少年少女が一喝する。

 

「我々にはどれも同じに見えます!」

 

 男のベッドの上を占領する黒い布の地層を一瞥して、二人はため息をついた。

 

 小さな家来たちに引きずられ、男は身だしなみを気にしながら渋々部屋を出た。

 

 

 

 漆黒の細い髪を低く束ねて背中に流し、人間の貴族の服とほぼ同じそれをまとった上からマントをはおり、紅蓮の色をした瞳と、日光には縁遠そうな青白い肌を持つこの男。

 

 彼はこの地区一帯の魔族や魔物を治める、もう何代目とも知れない“魔王”である。

 

 この世界は、人間の居住区と魔族の居住区が暗黙の了解的に分かれている。

 

 人間の世界にいくつもの国がありそこに幾人もの王が存在するように、魔族の世界にもいくつもの国があり、そこには幾人もの魔王がいた。

 

 そんな魔王の一人がこの男である。

 

 魔族は人間と違い、自然法則を無視した特殊な力を使うことが出来る。重力に逆らって物質を飛ばしたり、何もないところに炎を発生させたり。

 

 しかしそんな特殊な力を持つ魔族にも唯一、決定的な弱点があった。それは“ほとんどの魔族の家系には男子しか生まれない”ということ。特殊な力を持つとはいえ、単性で子供を作れる魔族は非常に稀である。

 

 それゆえ子孫を残す為には“人間の女”を使う必要があった。

 

 今まで多くの魔王たちがそうしてきたように、この男も近くの人間の国から人間の女をさらってきたのであった。

 

 しかし。

 

「魔王様、何を今更及び腰になっているのです!」

 

 家来の少年にそう叱られ、男は困ったように頬をほのかに赤くして、どもりながら言った。

 

「や、やはり私はこういうのは向いていない……あちらの意思も確認せずに無理矢理連れてきて……よ、嫁にするなんて……ぐえっ!」

 

 潰されたカエルの断末魔のような悲鳴。後ろを歩く家来の少女が自分の主人の膝の裏に強烈なキックをかましたのだった。

 

「魔王様、さらっておいて往生際が悪いです。第一、人間の女に『魔王の妻になってくれませんか』などと訊いて首を縦に振る者などおりましょうか」

 

 家来の少女の言葉に間違いは一つも感じられない。男は受け入れがたいけれど口を結ぶしかない。

 

「いいですか、人間の女というものは堂々としている男に惹かれるものです。強引すぎるくらいが良いのです。そんな風にオロオロしていては、魔王としての貫禄はおろか、男としての魅力も全く感じられませんよ」

 

「それは、女の子の君が言うんだから間違いないだろうけど……。前に言われてから気をつけているつもりだよ」

 

 うろたえつつも頑張ってアドバイスを聞こうとする男が、目の前の家来に自然と“女の子”と口にする。

 

 家来の少女からすると、自分は幼い人間の少女の姿を擬態しているだけで本当は竜の魔物。性別の概念もないし、年齢だって魔王よりはるかに上だ。“女の子”だなんて呼ばれるような存在ではないのだが、この主人は自分をいつもそういう風に扱う。女の子なんだから重い物を無理して運ばないで、だとか、女の子なんだからかわいらしい洋服を着たらいいよ、とか。

 

 そんな、少し周囲とずれている変わり者の主人に小さくため息をこぼしてから、家来の少女は言葉を続けた。

 

「でしたらもっとシャンと胸を張って、キリリとした目つきになってくださいまし。魔王様は、他のどんな魔王よりも素敵な方であるのは間違いありません。一番家来であるわたくしたち双子竜が保証いたします」

 

「そうですよ! 魔王として男として、そして何より僕らの主人として、堂々としていて下さい!」

 

 家来の少女の言葉に、家来の少年も目をキラキラさせながら続く。

 

 先代の魔王以前よりこの城に仕えるこの双子の竜は、魔物の中でも力が強く、城の家来の中でもかなりの古株だった。見た目こそ幼い人間の子供に擬態しているが、男のことは彼が幼少の頃からよく知っている。

 

 二人の信頼できる家来にそう言われて、男の目に涙がにじみそうになる。それをごまかすように深くうなずき、男は決意を新たにした。

 

「頑張るよ……! 私は誰より魔王らしく振舞ってみせる!」

 

 

 

 そして、男が何度も練習したことを披露する時がきた。

 

「ふあーっはっはっはっはっはっ! 人間の女よ、我が城へようこそ。気に入ってくれたかね」

 

 女を幽閉している部屋のドアを強く押し開けると、力強く自信に溢れた声でそう言い放った。城じゅうに男の笑う声がこだまする。

 

 それを迎える女は、自分をさらった魔王の姿を直視して恐怖に表情を強張らせていた。

 

 ふわりとした白っぽいブロンドの髪と、宝石のような碧の瞳が小さく震えている。着の身着のままでさらわれ、自分の両肩を強く抱いて男を見ていた。

 

 その圧倒された様子を見て満足したように、男は口元に深い笑みを浮かべた。

 

「クックック……。ここは君がこれから暮らすことになる部屋だ。どうだ、窓からは血を溶かし込んだような真っ赤な月が見えるぞ。今宵は我々魔族の力が最も強大になる満月の夜だ。眼下に広がるは狼たちが徘徊する森、全てが私の配下だ」

 

 女は口を結んだまま何も発しない。発することができない。ただじっと、怯えて男を見つめていた。

 

「私は君を悪いようにするつもりはない……君の態度や心がけ次第だがな。フフフ」

 

 男も女の目を見すえ、薄く笑いながらそう言った。

 

 それでも女はひたすら恐怖に耐え、黙っていた。

 

「あとから食事を運ばせよう。必ず食べなさい。なあに、毒など混ぜたりはしない……フッ。私の妻となる女に倒れられたら困るからな。ふあーっはっはっはっはっはっ!」

 

 そう高笑いしながら男は部屋を出て行った。

 

 部屋には女だけが取り残され、男のそばに付き従っていた双子竜により外から鍵がガチャリと落とされる音が響くと、彼女は崩れ落ちるように泣き出した。

 

 

 

「ど、どうだった?! 魔王らしいワイルドな男らしさ、出ていたか?!」

 

 威厳ある態度のまま自室まで戻った男。しかし部屋に入るなり家来の少年に慌てて問いかけた。

 

「はい、ばっちりでございます! 流石は魔王様、やるときはしっかりやられるお方! 女はすっかり怯えた様子でありました!」

 

 信頼する家来から合格点を得て、男はようやく表情をゆるめた。ふうと深く息をつく。

 

「やっぱりこういう振る舞いは慣れないな……。今度、近隣の魔王に手紙を出して相談してみようか、『どうやって魔王の風格をかもし出していますか?』と……」

 

 腕を組んで真剣にそう悩む男に、そばに控える家来の少女がきっぱり言い放つ。

 

「他国の魔王にそんな相談をする魔王なんて聞いたことがありません。変な勘違いをされて戦いになりかねませんから、やめてくださいまし」

 

 そうか、と残念そうに肩を落とした男が、大事なことを思い出して少女にこう告げる。

 

「そうだ。あとで彼女のところに食事を持っていってくれないか?」

 

「わたくしがですか?」

 

「うん。やはり女の子の部屋には女の子が行った方がいいだろう」

 

 自分は本当は女の子なんかではない。しかし、彼の配慮にため息をこぼしつつ、主人がそう言うのならと家来の少女は「かしこまりました」と承知した。

 

「娯楽などほとんどないこの城だ、せめて食事くらいは楽しんでもらいたい。イモリではなくトカゲ、アオダイショウではなくマムシ、アマガエルでなくウシガエルを使うように厨房の者に言ってくれ」

 

 満面の笑みでそう言う男のもてなしの心は、盛大に裏目に出ることになる。

 

 

 

 

「ど、どういうことだ……」

 

 翌朝、男はある知らせを受けて狼狽していた。

 

「ちゃんと私の指示したものを出してくれたのだろう?」

 

「はい。こちら、あなた様の目の前にございます冷め切ったご馳走の数々。わたくしが食べてしまいたかったくらいです」

 

 家来の少女が淡々とそう言う言葉も、男の耳には届いていない。理解のできない不測の事態に男は膝を折っていた。

 

 そしてある事に気づく。

 

「もしかして彼女は、昨日からまったく何も口にしていないと言うことか?!」

 

 そうなりますね、と家来の少女が首肯する。

 

 男は驚愕し、慌てて家来の少女に指示をした。

 

「水差しだけでいい、今から持っていってくれ。そして彼女の目の前で君が飲んで見せてほしい。何か人間の体によくない物が入っていると思われているのかも知れない!」

 

 そう言いつつ急いで部屋を出て行く男に、

 

「どこに行かれるのです?」

 

 と家来の少女がたずねる。

 

「亡き父上の書物庫だ」

 

 それから男はしばらく書物庫で熱心に何かの本を探したあと、数冊持って厨房に駆け込んだ。

 

 この城で料理を担当する召使の魔物たちが「魔王様、我々がやりますので……!」と止める中、「私にやらせてほしい」と言い張り、なんとか厨房に独りきりになったのだった。

 

 張り切って両腕をまくり、食材庫で材料をあさる。

 

「えーっと、これが……米? この本に書いてある『炊く』ってなんだろう?」

 

 柱の陰や扉の隙間からこっそりと、家来と召使たちが不安げな眼差しを送っている。

 

「人間も食べている食材はどれか……。これも違う……これも違う……。えっ、人間はネズミの尻尾食べないのかぁ。おいしいのにもったいないなぁ」

 

 ひとりごちながら一生懸命、手元の人間用の料理本と見比べ、野菜や果物、凍らせた生肉を手にとっては探っていく。

 

 仮にもこの男は“魔王”だ。今まで料理などしたことはない。

 

 それでも、何も食べることの出来ていない女のため、自分が責任を持って料理することにしたのだった。

 

「私のせいで故郷からいきなり引き離されたのだ、さぞ寂しかろう。食事くらいいつも人間が食べているものを出してやるべきだったのだ……」

 

 自分の配慮の至らなさを悔やみつつ、男は必死にあらゆるものと格闘していた。

 

 指先一つ動かすだけで何であろうと均一に切り分けられるけれど、人間のやる方法で作ってやりたいと慣れない包丁をにぎり、ミスに鈍い悲鳴を上げながら下ごしらえをしていく。

 

 また、指を鳴らすだけで幾らでも炎なんて起こせるけれど、それも「何か違う」と思い自分で火を焚いた。勿論、ヤケドするわ食材を焦がすわで効率は非常に悪かった。

 

 指に増える怪我。服を汚して格闘する男。見守る召使たちは気が気ではない。

 

 自分たちの管理する場所が盛大に汚されて散らかされていくことに対してなどではない。主人が一生懸命に頑張っていることが心配なのだ。

 

「双子竜様、魔王様は……」

 

 その先の言葉を濁すしかない召使たち。それでも家来の双子竜たちは召使らが何を言いたいのか、何を心配しているのかが分かっていた。

 

「魔王様はこういうお方だから、わたくしたちが止めても無駄でしょう……」

 

「今は、魔王様がやりたいと思うことを応援するしかないと、僕も思います」

 

 家来の少年が発する“今は”という言葉には、“いずれ気づいてしまうであろう何か”を包含するような切ない響きがあった。

 

 

 

 しばらく、というにはあまりに長い間格闘したあと、疲弊しきった男が召使たちの前に一皿の料理を差し出してきた。

 

「あ、味を見てくれないか?」

 

 料理本に「味見は絶対にしましょう!」と書いてあるのだが、人間と味覚が違い過ぎて魔族の自分の舌が全く参考にならなかったのだ。

 

 しかし、それは魔物たちだって同じこと。代表してスプーンを取った二足歩行をする獣型の召使たちは、一口食べて首をかしげる。

 

「我々には少し、味が薄いように感じますが……」

 

「もう少し鉄分の臭みがほしいですね。コウモリの血でも加えたらいかがでしょうか」

 

 そう口々にアドバイスをくれるのだが、男は戸惑ってしまう。

 

「人間はどうやらコウモリの血は飲まないらしいんだ。人間用の料理本に記載してある通りの材料とやり方でやってみたのだが、やはりまた失敗だろうか……」

 

 悲しげに眉尻を下げる主を見て、家来の少女は厨房に立ち入った。

 

「あ、まだ火がついてるから危ないよ」

 

 自分は幼い人間の少女の姿に擬態しているだけの竜の魔物だというのに、自然とそんな言葉をかけてくる変わり者の主人に呆れながら、火にかけられた鍋を見た。

 

 辺りには色んな食材のかけらや調理道具が散らかっていて、主人が一人でどれだけ頑張っていたのかが分かる。

 

 家来の少女はそれらを見回してからこう告げた。

 

「魔王様、これを皿によそってくださいまし。わたくしが女の部屋に持っていきますゆえ」

 

「でも」

 

「……わたくしたちには人間の料理のおいしさやまずさなどはよく分かりませんが、魔王様が愛情を持って作られたことだけはよく分かります」

 

 家来の少女はいつも通り淡々と喋っているのだが、それゆえ変に慰めるような嘘には感じられなかった。

 

「もし女がこれを食べないと言うのなら、わたくしが無理にでも口に押し込んできます」

 

 無理にはしないでくれ、と言いつつも、男は同意してくれる召使たちに嬉しそうな笑顔を見せて、一皿の料理をようやく完成させた。

 

 

 

 家来の少女が女の部屋の扉を叩く。返事はないが、しばらく待ってからそのまま入った。

 

「お食事でございます」

 

 先ほど水差しを運んだ際、目の前で水を飲んでみせ「わたくしが飲んだくらいでは証明にならないかもしれませんが、まずいものは何も入っておりませぬ」と軽いやりとりをした。

 

 だからか女は幾分か家来の少女に気を許しているように見える。実際は家来の少女は人間の少女ではないが、同性同士と思っている気持ちもあるのだろう。

 

「人間の食べる食材を、人間の方法で料理したものです」

 

 目の前に出された料理を、女はじっと見つめていた。

 

 香り立つそれは女の知る“いつものご飯”そのものだった。しかし昨晩、直視するのもためらわれるようなあんな信じられない料理を出してきた者たちだ。何が入っているのか分からない。怖い。

 

 それでも、女の手はゆっくりスプーンに伸びた。

 

 どんな感覚よりも恐怖が勝っているとはいえ、あまりにも空腹が過ぎていた。

 

 それに、この料理ならなんとなく大丈夫なような気がしたのだ。空腹すぎて都合のよい解釈をしているのかもしれないけれど、見た目や香りはいつものそれと相違なく感じられた。

 

 スプーンの先にほんの少しだけすくって、恐々口に運ぶ。最初は思わず強く目をつぶってしまったが、すぐにそれが自分に問題のない食事であることが分かった。

 

 もう一口、遠慮がちにではあるが、今度は少し多めにすくって口に運ぶ。

 

 口に広がる懐かしい人間の味に、女の目から自然と大粒の涙がボタボタこぼれた。

 

「……お口に合いませんでしたか?」

 

 目の前に立つ家来の少女がたずねるも、女は何も言わず首を横に振る。

 

 女は何かを説明する代わりに、もう一度料理を一口食べてみせた。

 

 どうやら口に合わなかったわけではないのだと理解した家来の少女は、ほっとして小さく息をついた。

 

 無表情な見た目で分かりづらいが、彼女なりに繊細な主人のことを心配しているのだ。主人が心を込めて作ったものが受け入れられて、心底安心したようだった。

 

「味や食材に注文があればなんでも言ってくださいまし」

 

 家来の少女の言葉に、女はじっと何か訊きたげな視線を送る。

 

「ああ、わたくしが作っているわけではないんですけれどね。伝えておきますゆえ」

 

 当然のことながら、それは“あの魔王”が作ったものだとは言うつもりは絶対になかった。魔王が厨房で悪戦苦闘しながら人間の食事を用意しただなんて、どう考えても格好のつく話ではない。

 

 

 

 

 それから男は怪訝な顔をする召使たちを尻目に、暇さえあれば厨房で本格的に人間の料理の勉強を始めた。

 

 書物庫を更に探して新たな人間用の料理本をいくつか発見した。

 

 亡き父の書物庫に無い本などあるわけがない、そう思っていたのだがそれは正解だった。料理本だけでなく、年代は少し古いが人間の風俗や文化が分かる本も見つけた。

 

「魔王様、城主であり王であるあなた様がこんなところで料理などしていると知れれば、心無い他国の者たちになんと言われるか……」

 

 召使たちは口々にそう言う。しかし。

 

「事情を知らぬ者には好きに言わせておけばいい。事情を知ってなお何か言うのであれば、残念ながらその者とは始めから上手くいかない相性だったのだろう」

 

 と、傷とヤケドだらけの指で、男はにこにこしながら料理をしている。

 

「どうだ、皆も食べないか? 最近は人間も魔族も両方おいしく感じられるような味付けに挑戦しているんだ」

 

 そう言って自分も一口味見をすると「うむ、悪くない」と無邪気な笑顔を浮かべた。

 

 自分たちの主は優しいのか、バカなのか、能天気なのか。変わり者の一言で片付けてしまうにはあまりに情け深く、常識にとらわれない存在だった。

 

「また料理の勉強をされていたのですね」

 

 女の部屋から食後の皿を下げてきた家来の少女が、呆れを通り越しもう慣れたものと淡々と言う。

 

 その声を聞いて男は駆け寄った。そしてすっかりきれいに空になった皿を見て、嬉しそうに顔をほころばせた。

 

「よかった、また全部食べてくれている」

 

 女の世話は基本的に家来の少女が任されていて、男が人間の食事を作るようになってからもう何度も配膳をしている。空いた食器を下げてくるたび、自分の主はこうして安堵し、喜ぶのだ。

 

「魔王様! ある程度方法が分かれば召使たちにも作ることは可能かと思います。あなた様自らが人間の女の飯炊きなどしていると知れたら、きっと女に馬鹿にされ、男性としても失望されますよ!」

 

 同じく傍に控えていた家来の少年はそう忠告するが、男は首を縦には振らない。

 

「皆が心配してくれてるのは分かる。しかし、私が彼女に作ってやりたいと思うのだ。私は彼女から奪うばかりで、何も与えてやることは出来ない。だから少しでも彼女にしてあげられることがあって、幸せなんだ」

 

 今は何を言っても意味がないだろうと思える充実した表情に、周囲はみな肩を落とした。

 

 そんな皆に男は「大丈夫、誰が作っているかなんて分かったりしないよ」と明るく言ってみせるが、皆が思っているのはそういう問題ではない。

 

 こんな時に渡していいものだろうか、と少し悩んでから、家来の少女は自分の服のポケットから一枚の紙を男に差し出した。

 

「女が書いたものです」

 

 不思議そうにその紙を受け取って、男は驚いた。

 

 そこには小さく一言だけ、「ごちそうさま」と書かれていた。

 

「こ、これは……?」

 

「わたくしが食器を下げに部屋を訪れた際、渡されたものです。以前にこの料理はわたくしが作ったものではないと言ってありますし、恐らく、料理を作った者に伝えてほしいということだと思いますが」

 

 男は感極まって、泣いてしまうかと思った。

 

 女はこの城に連れて来られてからというもの、一言も言葉を発していなかった。自分たちに心を開くつもりがないからなのか、はたまた具合が悪くて本当に声が出ないのかは定かではない。

 

 それでも男には、まだ聞いたことのない彼女の声で「ごちそうさま」という言葉が聞こえてくるようだった。

 

 男はわきあがる喜びをかみしめながら、目をキラキラさせて周囲の家来たちにこう言った。

 

「……なあ、みんな。私に良い考えがあるんだ、協力してもらえないだろうか?」

 

 皆は面倒な予感しかしなかった。そしてその予感は的中した。

 

 

 

 男が書物庫より見つけた人間の流行りの生活に関して書かれた本を元に、大規模に女の部屋の内装を変えることになった。

 

 冷たい石の材質がむき出しだった壁面には暖かみのある色の壁紙がはられ、鉄格子がのぞき隙間風の吹き込む窓は、小さな植木が乗った可愛らしい出窓に変えられた。ゴツゴツした古いレンガの床には、柔らかな絨毯が敷き詰められた。

 

 そして家具はなんと、召使たちに少しの間だけ人間の姿に擬態してもらって、人間の国に買いに行かせたのだった。かなり疲れるしリスクも高いことだったが、自分たちの主がどうしてもと願うのだから仕方がない。

 

 女が何を好むのかが分からなかったので、また見当違いなことして彼女を傷つけてしまわぬよう、男は召使たちに判断基準を与えた。

 

「本によると、人間の娘というのはとかくピンク色が好きらしい。なるべくその系統の色で買い揃え、その色がなければ、碧色か白っぽい金色にしてくれ」

 

「碧と、白っぽい金色……でございますか?」

 

「ああ。彼女の瞳と髪の色だ」

 

 

 

 天蓋付きのふかふかのベッド、久々に見る人間の世界の棚や机にきょとんとしている女の元に、家来の少年少女が訪れる。

 

 二人は小柄な身体いっぱいに、前も見えないくらいの大荷物を抱えていて、女は慌ててその荷物を受け取った。

 

 ふう、と態勢を立て直した家来の少年が女にこう告げる。

 

「すべて、あなた様への贈り物にございます!」

 

 誰から、とは言わず、目の前の大小様々あるきれいな色の袋や箱たちを示した。

 

 女はしばらく呆然と目をしばたかせていたが、目の前の二人の視線に押されて、袋の一つを開けてみた。

 

 すると、出てきたのは。

 

 深い色の宝石が飾られたネックレス、細かく編まれたレースがあしらわれたドレス、きれいな色をした透き通るようなガラスの花瓶、きらりと輝く万年筆。

 

 その他にも人間の女が喜びそうなかわいらしいものやきれいなものが次々出てきた。

 

 突然夢のように変わった部屋と、沢山の素敵な贈り物。

 

 女は魔法にでもかけられているのではないかと、目を丸くしてしまった。

 

 実際、この大規模なインテリアの変更には魔王の特殊な力も多少使われた。一瞬にして壁紙をはり絨毯を敷き、窓の形を作り変え、大きな家具を運び込む。

 

 しかしその他は魔王自らの手や召使たちの協力によってなされ、何よりこの贈り物たちは魔王自身の財力で人間の世界から買い揃えたものだった。つい買いすぎてしまい、しばらくは一層慎ましやかに過ごさなくてはならないなと、苦笑いを浮かべながら。

 

「お気に召されましたか?」

 

 家来の少女がそう尋ねると、女はもらったばかりの万年筆の先をインクに漬した。

 

 何も声を発さずとも手元の紙にしっかりと綴られる「ありがとう」の文字。

 

 女はそれを家来の少女にそっと手渡した。

 

 家来の少年少女たちが出て行くと、女は少し迷ってから再び贈り物の山を開封していく。こんなものが魔族の世界でも簡単に手に入るのかしら、などと愚かなことは思わない。これらは間違いなく自分のためだけに人間の世界から用意されたものだった。

 

 そして、家来たちの荷物の重ね方が悪かったのか、一番下の地層から潰された花束が出てきた。

 

 女はあわててその花束を救い出し、もらったばかりの花瓶に水を注いでそこに避難させた。

 

 自分を優しく包むような部屋と贈り物をぐるっと見回してから、女はしばらくじっと、その白い花と見つめ合っていた。

 

 

 

 

「ごちそうさま」

 

「ありがとう」

 

「おいしかったです」

 

 シンプルに一言だけ。大した言葉じゃない、メモ書きのような手紙。

 

 それでも男にとって、毎日積み重なっていくそれはかけがえのない宝物だった。

 

 今朝の朝食を下げた時に添えられていた新しい手紙を、大切そうに眺めている。

 

 するとその時、コンコンと扉を叩いて家来の少年が現れた。

 

「魔王様! お仕事がこーんなに溜まっていますよ!」

 

 早く返さなければならない他国への重要な書簡、目を通すべき諸々の報告書、自分が書かなくてはならない書類。それらを山のように抱えて、家来の少年は口をとがらせていた。

 

「ここ最近熱心に人間の料理の勉強をされていますが、これ以上魔王としてのお仕事が滞るようであれば、僕たちは料理の勉強を止めざるをえませんからね!」

 

 そんなことをされては困る、と男は慌てて手紙を机上の小さな棚にしまった。「迷惑かけるね」と家来の少年から書類の山を受け取ると、机の上に順に広げた。

 

 早速仕事に取り掛かろうとした時、家来の少年がふと尋ねた。

 

「……また、人間の女からのメモ書きを見ていたのですか?」

 

 そう言われて男はほのかに頬を紅潮させてから、ぎこちなく首肯した。

 

「魔王様は本当に、女のために熱心ですよね。他国の魔王がこんな風にしているだなんて、僕も長いこと生きてきましたが聞いたことがありませんよ」

 

 家来の少年の素直な言葉に、男は困ったように照れをにじませ、苦笑した。

 

「他国とはほとんど個人的な交流がないから分からないけど、もしかしたら同じようにしている魔王もいるかもしれないよ」

 

 そう言って男は、机上の本棚に並ぶ人間の生活に関する本を示してみせた。

 

「これが亡き父上の書物庫にあったのも、同じく人間の世界から連れてきた母上を父上も大切にしたかったからなんだと思う。母上は私が物心ついた時には既に病死してしまっていたからほとんど記憶がないけれど、父上の代からこの城に仕えていた君たちだったらきっと分かるだろう?」

 

 懐かしく優しいものを想うような男の眼差しに、家来の少年は一瞬困ったように言葉に詰まってから、コクンと一度だけうなずいた。

 

 その時ふと、男の頭にある疑問が浮かんだ。

 

「そういえば、彼女はこの城に来て大分経つのに、まだ誰とも一言も口を利いていないそうだな」

 

 滅多に会わない自分は勿論のこと、世話係を務めている家来の少女でさえ、彼女の声は聞いたことがないという。

 

「もしかして、何か悪い病気なのではないだろうか?」

 

 人間の母親を病で亡くしている男は、どうしても不安を拭えなかった。

 

「話を聞いている限り、特に体調が悪い様子は見られないと思いますが……。ああでも、人間は精神が揺らぎやすくもろいと聞きます。もしかしたら環境の急激な変化で口が利けなくなったのでは?」

 

 家来の少年がなんとなく口にしたその言葉に、「それだ!」と男は勢いよく立ち上がった。机からバラバラと書類が舞い落ちる。

 

 呆気に取られる家来の少年に向かって、男はとんでもないことを言い放った。

 

「今から人間の国に行く! 私は彼女の声を取り戻してやるぞ!」

 

 普段は女々しいまでになよなよとしていることもあるというのに、一度そう決めたらてこでも動かない頑固さが、男にはあった。

 

「き、危険すぎます! 人間が沢山いる場所で、もし魔族だと、ましてや魔王だとばれたりしたらどうなると思っているのですか?!」

 

「大丈夫、ばれたりしないよ。少しばかり人間の医学書とかを探してくるだけだから」

 

 必死に止めようとする家来の少年の言葉など意に介さず、マントを脱ぎ、人間の着るものと変わりない外套に身を包んだ。

 

「それに一応私だって魔王だから、擬態は皆より上手にできているはずだ」

 

 そう言ってみせる男の見た目は、完全に人間と相違ない。

 

 召使たちは人間の姿を長く維持することは出来ないし、魔物の中では力が強い方である双子竜でさえ、服に隠れた体幹の一部に鱗模様が浮いて、背には小さな翼がついている。

 

「しかし……」

 

「そんなに言うのなら、君も一緒についてきたらいいよ」

 

 にこりと笑ってそう言う男をもはや自分が止めることなど出来ないということに、家来の少年は気づいてしまった。

 

 だから仕方なく、「はい」とうなずくしかなかった。

 

 

 

 魔族の国を出て人間の国に行くこと自体はすんなり出来た。それは彼が魔王だということもあるし、見た目だけでは全く魔族だとは分からないハイレベルな擬態のおかげでもあった。

 

 しかし、隣を歩く家来の少年はずっと冷や冷やしていた。

 

「早く帰りましょう、やはり人間の国は空気が合いません」

 

 街に着いた瞬間そんなことを言う家来の少年に、男は小さく肩をすくめた。

 

「まだ着たばかりだ。本が沢山あるところを探して歩こう」

 

 ぽかぽかとした昼の穏やかな陽気の中、二人が石畳を歩く。男は綺麗なレンガ造りの町並みや整備された花壇を眺めていた。

 

「きれいだな」

 

 まぶしい何かを見るときのように目を細めそう言うも、同意する言葉は返ってこない。

 

 すっかり不機嫌な様子の家来の少年に、男はぽつぽつと語りだした。

 

「実は、まだ幼かった頃に一人でこの街に来たことがあるんだ」

 

 家来の少年はちらりと主を見上げると、

 

「あなた様が突然居なくなって城じゅうが大騒ぎだったこと、僕が忘れているとでもお思いですか?」

 

 とトゲのある口調でそう言った。

 

 はは、と困ったように男は苦笑し、言葉を続ける。

 

「私は父上のように威厳ある魔王になれるとは思えなかったし、それ以前に気弱すぎてまともに友達も作れなかった。情けなくて、寂しくて。もしかしたら私の生きる場所は魔族の世界ではなく、人間の世界なんじゃないかと思ったんだ」

 

 すれ違う人間の子供たちに視線をやって、昔の自分を思い出しながら切なげにほほえんだ。

 

「幼い頃から力はあったし、擬態は完璧だった。それでも、気が弱くて周りの顔色ばかりうかがってしまう私に、友達なんて出来なかった。私に友達ができないのは種族のせいなんかではないと分かっただけだった」

 

 そしてかたわらの花壇の前におもむろにしゃがむと、その白い花弁にそっと指先を触れさせた。

 

「私がこの街中で一人泣いていた時、ある優しい少女が話しかけてくれた。そしてこの花を私にくれた」

 

 この白い花に、家来の少年は見覚えがあった。

 

 自分の主は、魔王としては相当不似合いな趣味だが、城の周りの庭に手作りの花壇を持っている。そこは魔族の特殊な力など一切使っていないけれど、いつも白い花が一面きれいに咲いている。

 

「あの花壇の一番はじめの一本は、その時の少女がくれた花なんだ。あれから私はその花のことも、その少女のことも、片時も忘れたことはない。優しい言葉と暖かなまなざし。いつか人間の誰かにお嫁さんに来てもらわなければならないのなら、あの子がいいとずっと思っていた」

 

「その花とは、あなた様が毎日女に送られているあの花束、ですね? そしてあの女は……」

 

 男はうなずいて、静かにこう言った。

 

「いくら魔王だって、好きでもない女性と夫婦になりたいだなんて、思わないよ」

 

 そう言って、家来の少年に小さく笑顔を向けた。

 

「相手の意思も確かめず強引に連れてくるという方法しか、魔王である私には選ぶことができない。でも、その分私はいくらでも彼女に尽くすつもりでいるよ。彼女の声だって私が絶対に治してみせる。必要とあらば人間の医学の勉強だってするさ」

 

 無邪気にそう言うと、街並みに本屋を見つけて意気揚々と足を進めた。

 

 そんな主人の後姿を見つめながら、家来の少年は不安げに瞳を曇らせていた。

 

 

 

 

 男は本屋に入ると片っ端から本を開いていった。

 

 彼女が話すことが出来ない原因を調べるため、わずかでも可能性のありそうなことは徹底的に知りたかった。

 

 あまりに熱心に本を読み込んでしまい、家来の少年がすっかり飽きてしまって「外で待ってます」と傍を離れてしまったくらいだ。しかしその言葉さえも、集中している男の耳には届いていないようだった。

 

 医学書の類をひとしきり読んで買うものを選別してしまうと、ようやく家来の少年がそばにいないことに気がついた。

 

 本屋の中をきょろきょろと探していると、子供向けの絵本が揃えてある一角があった。

 

 読みやすい大きな文字に簡単な表現、きれいな絵も添えてあるし、本が苦手な召使たちでも読めるかもしれない。いつも迷惑ばかりかけているし、彼らの為に何か買っていってあげようと、適当な絵本を開いた。

 

――ある日、お姫さまはとつぜんさらわれてしまいました。お姫さまは、ぶきみなお城でまいにち泣いていました。しかし、お姫さまのもとに王子さまがあらわれて、すくいだしてくれたのです。

 

 男は別の絵本を手に取った。

 

――女の子をさらったみにくい魔物は、勇者さまの手によってみごとたおされました。そして女の子にえがおがもどりました。

 

――悪い魔王にさらわれたお姫さまは、いつもかなしいかおをしていました。でも、ある日勇者さまがやってきました。勇者さまは魔王をたおし、お姫さまをたすけだしました。そしてお姫さまは勇者さまと、ずっとふたりでしあわせに暮ら……

 

 どの絵本を見たって。

 

 どんな本を開いたって。

 

 自分をさらった魔王と幸せに結ばれるお姫様なんて、出て来なかった。

 

 全て、勇者や王子が活躍するためのお膳立て。

 

 男は頭がくらりとした。

 

 選んでいた医学書も買わずにふらふらと本屋を出ると、駆け寄ってきた家来の少年に一言、悲しげに言った。

 

「帰ろう」

 

 家来の少年が様子のおかしい主人を気遣うも、帰路の間じゅう男はずっと口を開かなかった。

 

 

 

 城に戻ると、男は心配する家来の少年と別れ、一人自室に戻った。

 

 沈む心を引きずって、部屋の引き出しに大切にしまってある女の手紙を取り出した。

 

 大した言葉じゃない、それでも彼女と少しは近付けたのだと思っていた。

 

 でも、彼女にとってそんなことはなかったのだろうか。

 

 自分の贈った万年筆で書かれたであろう彼女のきれいな文字を見ていると、涙がにじみそうになった。

 

 その時、部屋の一角から何やらくぐもった音がしていることに気がついた。

 

 城中に張り巡らせた薄い金属の欄干。その中は空洞で全体が管のようになっていて、空気を震わせ離れた部屋同士で会話することができる。各部屋にめぐらせてある管のうち一つの先が、なにやら震えていた。

 

 沢山ある管だが、いつも使われるものはほぼ決まっている。普段まったく使うことのないそれが震えているのを男は不思議に思い、おもむろに管の先の蓋を開けた。

 

「……わたくしは見た目こそ幼い娘子ですが、本当は竜の魔物です。性別という概念はございませんし、年齢もあなた様の祖父母よりはるかに上だと思います」

 

「たまに一緒にきてくれる男の子も、魔物なの?」

 

「はい、わたくしたちは双子の竜です。あの子にも性別はありませんし、年齢もかなり重ねております。人間や他の魔族と違い、竜の魔物はゆっくり年を取るのでございます」

 

「すごい。人間の女の子と男の子にしか見えない……」

 

 そこに棒立ちになったまま、男はさあっと血の気が引くのを感じた。二人の会話が耳をすべって消えていく。

 

 よく聞く声は家来の少女のそれであるとすぐに分かった。そして、会話の内容で分かってしまった。この管がつながっている先は女のいる部屋。この初めて聞く声の主は、女。

 

 魔族に心を開くつもりがなかったわけではない。ましてや口が利けなかったわけでもない。ただ。

 

(ただ、私が嫌われていただけなのか……)

 

 目の前が真っ暗になって、ともすればそのまま膝から崩れ落ちてしまいそうだった。

 

 よく考えれば当たり前のことだ。自分をこんな所に突然さらってきた者に心を開いてくれるなど、ましてや好意を持ってくれるなど、自分に都合のいい夢物語にしか過ぎなかったのだ。

 

 それなのに、自分はなんて愚かなんだろう。

 

 しばらく放心したまま、何も身動きをとることができなかった。

 

 

 

 それから男は、料理の勉強をやめた。サボりがちだった魔王の仕事にもまじめに取り組んだ。

 

 良いことのはずなのだが、家来たちはいつもと違う主人の様子がとても心配だった。

 

 いつも気は弱いながらもにこりと笑ってくれる主人の表情は憂い、力ない笑顔を向けてくれるだけだった。魔王としてはそれでいいのかもしれない。それでも。

 

「魔王様、最近明らかにおかしいですよ……。本当に、どうされたんですか?」

 

 家来の少年が不安げに尋ねるも、男は「なんでもないよ」と薄いほほえみを返すばかり。

 

「そうだ、そろそろ彼女の食事を用意する時間だ。厨房に向かおうかな」

 

 料理の勉強をやめても、彼女の食事を用意する務めだけは続けていた。

 

 それと、きらびやかな贈り物はやめても、自分の花壇で摘んだ花束だけは毎日運ばせていた。

 

 男は一人、心の中で決めていることがあった。

 

「魔王様が悲しい顔をしていると、なぜか僕まで気分が沈むのです。少しで構いませんから、何を悩まれているのか話してくださいませんか?」

 

 家来の少年がそんな風に言ってくることは初めてで、男は改めて周囲に心配をかけていたことを詫びた。

 

「そんな顔をさせて、すまない。悩んでいるというわけではないんだ。ただ、その……分かってしまった、というか」

 

 言葉を濁しつつ、家来の少年の前で腰を落とした。目線の高さが丁度合うと、男は遠くを見るように目を細めた。

 

「もしかして、だけど。私の母上は病死したのではなく、父上に私を産まされたのち、勇者や王子によって人間の国に連れ帰られたのではないか?」

 

 驚いて目を見開く家来の少年の様子で、男はそれが事実なのだと改めて理解した。

 

 何も言えない家来の少年に、男は「気にしてないよ」と示すように軽く笑ってみせた。

 

「いつかきっと、彼女を救うため、勇ましい人間の男がこの城を訪れる。私を倒し、彼女を人間の国に連れ帰る」

 

「魔王様が人間の男に倒されたりなど、絶対にありえません……」

 

「それは私の亡き父上も、そうだったろう?」

 

 男は尊敬する偉大な先代の魔王である父の心境も、全てを分かった上でそう言っていた。

 

 家来の少年は、どうかずっと気づかないでいてほしいと願いつつ、いつか気づいてしまうだろうとは思っていた事実を知ってしまった主の双眸を、じっと見つめた。

 

「私には、誰かが連れ帰る前に彼女を無理にどうこうしようとは思えないんだ。せめて彼女が残りの期間をなるべく気持ちよく過ごしてくれるよう、少しでも良い状態で城を出られるよう、努めたい。そう決めたんだ。私が彼女にしてあげられることなんて、多くはないのだから」

 

 語る口調は悲しげで、それでも彼女のためにと行動する姿は痛ましくさえ見えた。

 

「……魔王様は、それでよいのですか?」

 

「彼女のことを大切に思うからこそだよ」

 

 にこりと小さく笑って男は立ち上がった。

 

「食事の用意の前に、庭の私の花壇から花を摘んでくる。あとで彼女の部屋に届けてくれるよう頼んでおいてくれ」

 

 そう言って男が出て行くと、部屋を沈黙が支配した。

 

 

 

 

「うっわ、地味な城……。うちの馬小屋の方がまだマシじゃね?」

 

 日光に輝くきらびやかな鎧をまとい、白馬にまたがる金髪の男が眉間にシワを寄せて不機嫌そうに言う。

 

 そばに控える従者は慌ててたしなめた。

 

「王子、城の者にに聞こえてしまいますゆえ!」

 

「大丈夫大丈夫。慣れてるし余裕だよ。だって、さらわれたお姫様なり囚われた女の子なり、助けに行くのもう六人目だぜ? 流石にもう緊張もしなくなるわ」

 

 そう淡々と述べる王子は、形式ばかりの防具と装飾のほどこされた美しい剣を見下ろした。

 

「こんなゴテゴテしたのもなくたってさぁ……。特にこの城、今まで助けに行った中で一番のザルだよ。どこからだって入れるし、あとボロいし」

 

 森に跋扈しているといわれていた凶暴な狼たちは、まるで誰かにそう指示されたかのように一匹たりともその姿を見せていない。来る者を拒むような殺気が全くない城門。城のそばには一面に花を咲かせている花壇さえ見える。

 

「こいつら魔族のくせに花とか育ててるよ、気持ちわるっ」

 

「口がわるうございますよ! 頼みますから王子らしくしていてください!」

 

「皆が見てるところでは王子らしくしてるだろ。俺はあと五人くらいぱっぱと女たちを助けて、その内一番きれいな女を正室にするって決めてるんだ。あとは全部側室にする。美人だらけのハーレムを作るまで、俺は悪いやつを倒しまくってやるぜ」

 

 とても王子らしくない、とんでもない野望を言ってのける王子に、従者は肩を落とした。

 

 

 

 そしていよいよ王子が城に入り、魔王の間の扉を開こうとする頃。

 

 入り口からはるかに続く赤絨毯の先、真っ赤なベロアが張られた大きな椅子に、魔王が座していた。

 

 ついにこの時がきたのだと、覚悟を決めながら。

 

 男は軽く前かがみになり、身体全体ににぐっと力を込めた。

 

 すると全身は紫色の不気味な光を帯び、己を中心とする周囲一帯の空気をブオンと震わせた。辺りに広がる圧倒的なまでの魔王の力。森の奥深くのどこからか狼たちが遠吠えを繰り返し、城の周りのカラスたちが一斉に飛び立つ。

 

 女をさらって以来ずっと擬態していた人間の姿が解けてゆく。

 

 手は大きく広がり関節が太く浮いて、爪が長く鋭く伸びる。目は瞳孔を無くし、瞼の下からのぞくそこは瞳の区別なく、輝く緋色に染まった。耳の先はとがり、上がった口角からは牙が覗く。体躯全体もわずかに大きくなり、ほどかれた髪はゆうに男の背を越すまでに伸びていた。

 

 本来の姿に戻った男は久々に見る自分の本当の右手を見つめ、ゆっくりと握った。長い爪が空を掻いてゆく。感覚がにぶったりはしていない。むしろ、悲しみで研ぎ澄まされているくらいだ。

 

 そこに王子が現れた。魔王に向かって勇ましく赤絨毯を駆けてくる。

 

「魔王! お前がさらった女を助けに来た。痛い目を見たくなくば大人しく女を返せ!」

 

 これが女を助けに来る男たちの形式上決まったセリフなのだろうか。男が絵本で読んだ通りだった。

 

 威勢よくそう言いきった王子に対し、魔王がいつもそれらしく振舞うような高笑いなどする気力はなかった。

 

 男は左ひじを椅子のひじ掛けについたまま、そっと右手を上げて軽く指を折った。

 

 すると王子の身体は一瞬わずかに浮遊したかと思うと、激しい勢いをもって背後に弾き飛ばされ、そのまま壁に叩きつけられた。古びたそれからわずかにパラパラと壁面が剥がれ落ちる。

 

「くは……っ。な、なんだ……こんなの、聞いてないぞ……」

 

 今まで対峙した相手とは全く格が違う。今更そんなことに気がついた王子が、自らの命の危険を感じ、痛む身体を引きずり逃げ帰ろうとした時だった。

 

 魔王の低い声が響く。

 

「……これ以上、お前に我が城で暴れられてはかなわない。女を連れていけ」

 

 あんたが吹っ飛ばしたんじゃないか、一体何を言っているんだと、満身創痍の王子が顔をゆがめた時だった。

 

 幼い人間の姿をした二人の家来たちに連れられた女が、奥の扉より現れた。

 

 その女の姿を見て王子は息を飲んだ。

 

 女の顔色は良く、髪は艶やかに整っており、レースがあしらわれたきれいなドレスに身を包んでいた。取り乱すこともなく静かに家来たちのあとに続いている。

 

 王子の経験上、今まで助けてきた女性はみな自分に泣いてすがりつき、人によっては叫び取り乱しているものもいた。みな一様に表情は疲れ果て、姿は汚れて乱れ、精神や栄養状態が非常に不安定であることが一目で分かった。

 

 しかしこの女は違った。

 

 女は立ち止まった家来たちから離れ、一人ゆっくりと王子の元へ足を進めた。

 

 そして最後に一度だけ、自分をとらえていた魔王を振り返った。

 

 以前に魔王を見たときは人間の姿だった。今は全く違う恐ろしい魔族の姿。鋭く吊りあがった血の色をした眼は、悲しげな光を宿しているように思えた。

 

 自分を振り返った女に、男は最後に小さな声で一言だけ告げた。魔王らしい威厳を、男らしく堂々と、と言う家来たちの願いを裏切って。

 

「色々すまなかった。どうか、元気で」

 

 女がその言葉を聞き取れたかは分からない。

 

 今まで彼女は誰だか分からない相手に手紙を送り続けてくれていて、自分は何も返してやることができなかった。これが、男が最初で最後に彼女に贈ってやれる精一杯のメッセージだった。

 

 あんなに強かった自分の父親が、人間の男に母親を連れて行かれた時の気持ちがよく分かった。けして力で負けたんじゃない。相手の幸せを願うからこそ、負けたふりをして自ら引き渡したのだ。

 

「ほら、早く行こう! こんな鬱蒼とした所、とっとと去ったほうがいい!」

 

 王子は近寄ってきた女の腕をひっつかんで、急いでぐいぐい出口に引っ張っていく。

 

 鬱蒼とした所、などと言いながら、また魔王に同じ攻撃をされたら無事に帰ることは出来ないと思い焦っているのだろう。

 

 女が王子に強引に腕を引かれて城の扉から外に出ると、晴れ渡った空の下、沢山の白い花を揺らす花壇があった。

 

 その見覚えのあるきれいな花に、女の足は止まった。

 

 毎日自分の部屋に届けられていたあの花束。

 

 確かにここは鬱蒼としている城かもしれない。それでも、自分の暮らした部屋、自分を囲むものたち、毎日出される食事は不気味さとは程遠いもので。

 

 女の脳裏に、ある日のある人の言葉が響いた。

 

 “『彼女のことを大切に思うからこそだよ』”

 

 女は王子の手を振り払った。

 

「な、何をっ?!」

 

 制止する王子を尻目に、女はそのまま走って扉を開け放ち、城の中に駆け戻った。

 

 全てが終わったと、静かに椅子を立った男が魔王の間を去ろうとしていた時だった。

 

 扉が開け放たれる大きな音と足音に王子の再来を予感して、一瞬鋭い殺気を持って振り返ったが、それはすぐに掻き消えた。男の口から頼りなく言葉が漏れる。

 

「どう、して……」

 

 男の目の前には、一人こちらに歩みを進める女がいた。

 

 女は自分をじっと見つめていた。この魔族の姿の自分と以前に会った自分を同じ人だと確かめるように。

 

 そしてわずかに距離を残して女が歩みを止め、口を開いた。

 

「あなたがずっと、私の食事を作ってくれていたのよね……?」

 

 それが、女から自分に発せられた最初の言葉だった。

 

「その手でいつも、あの花壇から花束を作ってくれていたの? あのかわいいお部屋も家具も、贈り物も、みんなあなたが?」

 

 驚いて言葉を返せない男にまた一歩一歩ゆっくりと近づいて、女は鱗模様の浮く男の手に指先でそっと触れた。

 

 その慈しむような指先にビクッと身体を震わせた男に、女はこう告げた。

 

「あのね、ある日からあなたの部屋の欄干の蓋が開けっ放しで、会話が筒抜けなの。こちらの部屋の声が聞こえていたのだもの、そちらの部屋の声も聞こえているって気づかなかった?」

 

 女はわずかに目元をゆるめる。そのまなざしは優しげで、男はいつかの子供時代の日を思い出すようだった。

 

 男が女の部屋での会話を聞いてしまったあの日。ショックで放心して、そのまま蓋をするのを忘れて過ごしていたのだった。

 

 女の部屋で声が発せられることはほとんどないし、悲しい出来事を思い出すのが嫌で男がほとんどそこに近寄らなかったせいで、ずっと気づかず今日まで過ごしてしまっていた。

 

 それによって女は、全てを知ったのだった。

 

 陰ながら自分を大切にしてくれている人が誰で、それが本当はどんな人なのか。どんなことを想い、どんなことをしてくれていたのか。

 

 混乱して何も言えない男に、女はたずねた。

 

「私、まだもう少しここに居たい……。だめかしら?」

 

 衝撃の言葉に男は目を見開いた。

 

「今、なんて……」

 

 男が聞き返そうとした時、再び派手な音を立てて城に入ってくる者の姿があった。

 

「何を馬鹿なことを言ってるんだ! 王子でなくこんな気味の悪い奴を選ぶってのか?!」

 

 再度迫ってくる王子を男はちらりとも見ずに、そちらに向けた指先で軽く宙を弾いた。

 

 すると王子の身体はまたあっという間に背後に吹っ飛んだ。更にいつの間にか扉の両脇に控えていた双子竜たちがドアを開け放ったおかげで、今度は壁にぶつかることなくそのまま城の外に放り出された。

 

 そして男は何事もなかったかのように話を続けた。

 

「いいのか……? まだここに、いてくれるのか?」

 

「うん。ずっと居るかどうかはまだ分からないけれど、今は私、ここにいたい」

 

 男は女が人間と異なる自分の姿を怖がらぬようにと、彼女を連れてきて以来ずっと人間の姿を擬態し続けていた。しかし、彼女は自分の本当の姿を前にしても、まっすぐ自分を見つめ、こんなことを言ってくれる。

 

 とても嬉しいのになぜか泣きそうで、男は全身にぐっと力を込めた。

 

 すると再び人間の姿に戻り、幸せそうに微笑んで彼女にこう言った。

 

「ありがとう。君が少しでもここを気に入ってくれるように、頑張るよ」

 

 そう言う男に、女もほほえみ返す。

 

 家来の双子竜たちも、陰ながらその様子を見守っていた召使たちも笑顔でうなずきあっていた。

 

 そこにまた邪魔者が、よせばいいのに戻ってくる。

 

「まだこんな所に囚われていたいなんてほざくとは、ホント頭おかしいな! お前なんて頼まれたってもう二度と助けに来てやらねえからな! バーカバーカ!」

 

 男はモーションなしに一瞬にして本来の魔王の姿に変えると、指先を指揮するように動かして、そのまま王子を城の外、森より遠くへ飛ばしてしまった。間抜けで情けない悲鳴を響かせて、従者や白馬ともども消えていく。

 

 そしてまた瞬時に姿を戻すと、男を見上げる女がクスッと笑った。

 

 男もおかしくなって、しばらく二人は笑い合っていた。

 

 

[newpage]

 

 

「これはもうちょっとお塩を多めにした方がいいのよ、煮込んでると水分が増えるから」

 

「おお、そうなのか。君と料理をすると勉強になる」

 

 二人はまた召使たちに無理を言って、厨房で一緒に料理をしていた。

 

「勉強しなくたって、私が作れるからいいのに」

 

「いや、私が作れないと意味がないんだ。君のために私がしてやれることはとても少ない、できることはなるべく沢山してやれるようになっておきたいんだ」

 

 そう微笑む男につられるように、女も笑顔を浮かべた。

 

 我々の仕事がなくなってしまいますよ、と嘆く召使たちだったが、言うほど嫌そうではなかった。楽しそうに料理をしている二人を見ると、周りも幸せな気持ちにさせられた。

 

 この城への“幽閉の延長”を望んだ女だったが、今度はお客様待遇を断った。私にも何かさせてほしい、と色々と出来ることを探していた。

 

 部屋を回って本棚を整理したり、花壇の世話を手伝ったり、こうして一緒に料理を作ったり。今はまだ大したことはできないけれど、少しずつこの場所と城の皆に馴染んでいった。

 

「魔王様ー、花壇の水やりはどういたしますかー?」

 

 厨房にひょっこり顔を出してきた召使の一人がそう尋ねる。厨房を出て仕事がなくなってしまったので、庭の掃除をしているようだった。

 

「今日は後で雑草を抜こうと思っていたんだ。その後に私が水をあげるよ」

 

 力が弱く擬態の上手くない召使たちは、城内ではいつも魔物の姿むき出しで歩いている。女が城を自由に歩き出してすぐの頃は、鉢合ってしまうたび慌てて人間の姿に擬態していたものだった。

 

 しかし女は最初こそ驚いたものの気味悪がることはなく、「無理しないで」と色んな召使たちに笑いかけていた。そして今や全く魔物の姿に抵抗はないようで、皆とのびのび過ごしている。

 

 力の強い魔王と双子竜だけはずっと人間の擬態を保ち続けていたが、感極まったり驚いたり、力のバランスが極端に崩れると一瞬本来の姿に戻ってしまうようだった。

 

 女がそれを知ったのは、双子竜のために甘いお菓子を作ってあげた時。今まで食べたことのない美味しさに興奮して、二人は竜の姿に戻って部屋中を飛び回ったのだった。

 

 そしてその二人が厨房に駆け込んでくる。

 

「お二人ともっ、僕に味見をさせてください!」

 

「わたくしが先でございます」

 

 我先にと小さな背を伸ばす二人に、男は困ったように笑った。お菓子の一件以来、二人はすっかり女の料理のとりこだ。

 

「味見といっておきながら、君たちはほとんど全部食べてしまうだろう」

 

 同じくクスクスと笑う女が、男にこう提案する。

 

「じゃああなたが味を見て。自分で出来るようになりたいんでしょ?」

 

 ああ、と女に向き直ると、男の目の前にはスプーンが差し出されていた。それは自分がつかむにはあまりに距離が近すぎたし、女もにこにこ笑っている。

 

 男は女の意図を理解した。

 

「はい、あーん」

 

 男はあまりの恥ずかしさに興奮し、一瞬擬態が解けてしまった。

 

 それを見た周りの家来たちは何事かとびっくりしていたが、女だけはクスッと楽しげに笑っていて、背伸びをしてそのまま男の口にスプーンを運ぶ。

 

 温かく優しい味が口に広がるとなんとか気持ちが落ち着けられたようで、再び人間の擬態に戻った。

 

「おいしい?」

 

 女が小首をかしげて笑顔で尋ねてくる。

 

 男はなんとか心を鎮めて、ゆっくりうなずいた。

 

「とてもおいしい……」

 

 

 

 

 

 

 

(終わり)


 
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