「蝶よ花よの歳では無いが」

 口の中だけでそう呟きながら、閻魔は魂依の蝶を見上げた。

 冥府の薄暗い空の中、ひらりひらりと舞うそれから、時折燐光が零れる。

「蛍や蝶狩りに興じる美女とか、実に絵になるわよねぇ」

 口では太平楽を並べているが、彼女には珍しく、その顔は緊張に引き締まっている。

 魂依の蝶も、集団で飛んでいてくれれば、目も鮮やかな燐光の帯となるが、一羽だけでは、羽ばたきの合間にちらりちらりと光が見えるだけ……それを追うのは中々に難しい。

 全神経を集中してそれを追いつつ、閻魔の頭は、更に別の事を考え続けていた。

 

 あの蝶の正体。

 向かっている方角。

 想定される事態。

 

 妙な話だが、彼女は今追っている問題の答え……もしくはそれに準じる、今回の件に関する大枠を知っている。

 そして、今までの彼女の調査は、その大枠を補完する結果を得ている。

 だが、彼女に答えを告げたあの知恵の女神とて、ここ冥府という特殊な結界内で起きた出来事の全てを知る事は流石にできない。

 彼女が閻魔に告げた部分は事実だろう、だが彼女の知り得た事を超える事態という物は十分にありうる。

 だからこそ、閻魔も慎重にならざるを得ない。

 今までが、ほぼ予想通りの答えを得ているからとて、実際の結末がその通りという保証は無い。

 そんな事を考えながら、上を見上げた閻魔の視線の先で、蝶が飛ぶ高さを徐々に下げていく。

「目的地にご到着かしらね」

 そこは、自分が予想していた範囲内の場所。

 その屋敷の二階の窓から室内に蝶が入って行った事を確認して、閻魔は頬を歪めた。

 想定の範囲内で事態が進んでいる事に、安堵と同時に、若干の居心地の悪さを感じる。

 何だろう……この違和感は。

 だが、疑問はあれど、今はあの蝶以外に手繰る糸も無い。

 まして、あれが閻魔の想像している通りなら、逡巡して、時を無駄にしても居られない。

 肚を括るか。

 

「や、どもども、いつもお疲れさん、ところでここのご主人居る?居たらとりついでよ」

 いかつい顔をした門番の存在など気にもしない様子で、彼女はその屋敷の門の前に歩み出た。

「何奴か女!」

「我らが主に無礼な!……え?」

「閻魔様?!」

 普段無表情な鬼の顔が、驚愕に目を見開く様を見て、閻魔は内心皮肉に笑った。

 冥府の裁判長たる、閻魔の地位にある彼女が、供の一人も連れずに出歩いている事に驚いたのか、はたまた、ぐうたらで冥府にその名を轟かせる彼女が、こうして法服を纏って出歩いている事を驚いたのかは定かでは無いが……。

 

 まぁ、十中八九、後者だろうけどねぇ。

 

「あ、主は只今裁きのお役目で、閻魔庁に出仕なされておりますが」

 

 うん、それは知ってる。

 というか、あいつが居りゃ、この屋敷の傍には、頼まれても近寄らないわよ。

 

「あらそうなのー、残念だわぁ、晩ご飯ご馳走になる約束してたのよねー……そういう訳だから、上がって待たせてもらって良い?」

 そう口にして、回答も待たず、門番の狼狽をしり目に、勝手に通用門に手を掛けた。

「閻魔様お待ちを、我らでは判断できかねます故、只今家宰に連絡します。暫時お待ちを」

「良いから良いから、後で柔らかいお布団と、煎餅とお茶持って来てくれれば、私待つのは一向苦にしないから」

「我らが咎めを受けます故、何卒!」

「くどいわねぇ……お布団とお茶位、自分の判断で出したって罰は当たらないわよ」

 左右から伸びて来た門番二人の手を、さりげない様子で閻魔が払いのけた。

 絶妙な力加減と、相手の力を誘導する一手。

 痛みなどは無く、何が起きたか判らないうちに、二人の鬼の体が、埃っぽい冥府の大地に転がり、甲冑がガチャガチャと音を立てた。

「な……」

「何が」

 慌てて跳ね起きようとする、それを制するかのように、その前に閻魔が立って、二人を見おろした。

「今回の件に関して、あんた達に文句言う奴がいるようなら、私の方に話を持ってくるように言いなさい」

 そう言った後、閻魔は二人に少し顔を近づけて、囁くような声を出した。

「どの道、あたしが通りたいと思ったら、あんた達じゃ止められないわよ」

 穏やかな笑顔だが、その瞳には感情を宿さない冷たい光が凝っていた。

 彼女がその気なら、彼らを始末した上で、その場で魂に地獄行きを宣し、口封じをするなど、いと易い。

 閻魔や夜摩天になる、というのはそういう事。

 故に、それを軽々しく為すような輩は、その職に就く事は叶わない。

 とはいえ、彼女たちは死者の魂を裁き、行先を定める役目だけではなく、冥府の秩序を司る存在でもある。

 もし、それを守る為に必要が有ると判断すれば、目の前の存在は、それを躊躇わないだろう事を、彼らは良く知っていた。

 恐怖が悪寒となって背筋を走り抜ける。

「……どうぞお通りを」

「我ら二人、何も見ておりませぬ故」

「物わかりの良いのは嫌いじゃないわよ」

 お役目、お疲れ様ー。

 そう言いながら、手をひらひらさせて閻魔は通用門を潜った。

 最後に、ふわりと長い法服の裾を翻し、門の向うに姿を消した閻魔を茫然と見やってから、門番二人は何とも言えない表情を浮かべ、互いの顔を見合わせた。

 今の主に不服がある訳では無いが、自分の命や来世を捨ててまで仕えようという気はさらさら無い。

「……次の仕事探しとくか」

「……だな」

 表のささやかな騒動も厚い門扉と塀に遮られ、中には届いた様子も無い。

 今日は主に付いて、使用人の多くも閻魔庁の方に行っているのだろう、邸内はいたって静かな物。

 家の用事の為に残っていると思しき何人かとすれ違ったが、ゆったりと正面の道を歩む、位の高い衣服を纏った閻魔に対して深々と礼をするだけで、彼女は特に見とがめられもせず、悠々と邸内に入り込んだ。

 外から見た蝶の入って行った部屋を思い出し、それを瞬時に間取りに落とし込む。

 それまでのゆったりした動きをかなぐり捨て、閻魔は階段を駆け上り、勢いのままにその部屋の扉を蹴り破った。

 閂までかけた分厚い扉だったが、閻魔の一撃でそれがへし折れ、蝶番を軋ませながら、内側に開く。

「何の狼藉じゃ、一体!」

 狼狽した顔が、彼女に向く。

 何かを一心に読んでいた小男の顔が、閻魔の顔を認め、驚愕と、それ以上に失意と憤怒に歪んだ。

「げぇ!」

 無駄口を利かず、彼はその手にしたものを袖口に隠しつつ、窓に向かって走りだした。

「良い判断ね、けど、閻魔様直々の手入れで、逃げられるとでも?」

 閻魔は慌てて追う事も無く、部屋一杯に敷かれた、分厚い絨毯をわしづかみにした。

「……良い絨毯ねぇ」

 何やってるか知らないけど、儲けてやがるわね、あんにゃろう。

 忌々しげにそう呟くと同時に、彼女はそれを思い切り引っ張った。

「あわっ!」

 窓までもう少し、という所で足を思い切り後ろに引っ張られる形になった小男が、前にのめって、柔らかい絨毯に絡めとられる。

 慌てて手紙を破り捨てようとするが、体の下で動く絨毯に翻弄され、それもできない。

 上に小男や調度類を乗せたまま、絨毯がすごい勢いで閻魔の元に引き寄せられていく。

 流石に鬼神族の長の一人である、すさまじいまでの膂力であった。

 前につんのめった姿のまま、絨毯に絡めとられた小男が、閻魔の前まで運ばれて来た。

「いやねえ、こんな美女の来訪から逃げようなんて、どんな悪い事してたのかしらね?」

 閻魔がその襟首を掴んで、ぐいと小男を引き上げる。

「おのれ……もがっ」

 開いた小男の口に、閻魔は引き毟った絨毯を突っ込んだ。

「美味しい物じゃ無くて悪いけど、舌噛まれると面倒なんでねー」

 そう呟きながら、閻魔は抵抗する男の力を物ともせず、袖から、一枚の紙を引っ張り出した。

 ぱっとそれを片手で開き、中身にざっと目を通す。

 女の細手跡(ほそて)でさらさらと書かれた短い書簡。

 内容を把握した閻魔の顔が、会心の笑みを浮かべた。

 

 これだ。

 

 地上で、彼らに都合の悪い人物を抹殺し、こちらは閻魔帳や調べ書きの改竄を行い、地獄や餓鬼界に落とす。

 寿命半ばで不自然な死を遂げた者が定期的に来れば、あの几帳面でしっかりした夜摩天を誤魔化すのは難しいが、このやり方では、さすがに彼女と言えども気が付くことは難しい。

 そんな形で地上の動きと連携していた以上、地上と冥府の間で、何らかの方法で打ち合わせをしていた事は疑い無い。

 だが、今日閻魔を訪れた女神程の力が有れば兎も角、冥府、死者の世界の結界を超える、しかも他者に察知されずに、というのは、いかな陰陽師とて、それ程容易い話では無い。

 現世と冥府の行き来をしていた、小野篁の例も無いではないが、あれはあくまで、あの時代の閻魔が、彼の見識を買って、助言を求めしていた事。

 

 では、と手始めに閻魔は、冥府の入り口である奪衣婆の所などで調べてみたが、別の収穫は有ったにせよ、本命のその形跡は無かった。

 亡者という、一番自然な存在を通じたやり取りが無かった事が腑に落ちなかったが、これで納得いった。

(成程ねぇ、言霊を込めた手紙に呪を込めて、魂依の蝶を作り、それで冥府と現世のやり取りをしてとはね)

 冥府の暗い空の下で、魂依の蝶がひらひら舞っていたところで、誰も気が付かないし、よし気に留めてもそこに重大な意味を見出す事までは、まず無理だろう。

 何らかの痕跡を探していた閻魔だからこそ、見いだせた偶然。

 

 判ってみれば、なるほど妥当な手段ではあるが、そうそう思いつける物では無い。

 どちらが考え付いた事か知らぬが、敵手の術者としての力は、中々に侮れない物がある。

 もがもがと、口にした絨毯を吐きだそうと苦労している小男に向けて、ひらひらと手紙を振りながら、閻魔はにまりと笑った。

「あら大変、綺麗な蝶を追いかけていたら、変な手紙をみつけてしまったぞー」

 棒読みと言って、これ以上ない声で、閻魔は続けた。

「閻魔帖の改竄依頼なんて、地獄の最下層行き確定の重罪だー、どうしよう」

 閻魔の言葉から身の破滅を悟り、青ざめるのと真っ赤になるのを交互に繰り返していた小男がぐったりと項垂れる。

「そうそう、無駄に体力使うもんじゃないわよー」

 地獄の最下層じゃ、いくら体力有っても足りないからねー。

 などと言いながら、彼女は男の帯を器用に解き、それで彼の手足をひょいひょいと縛り上げた。

(下っ端時代の技だけど、久しぶりでも覚えてる物ねぇ)

 あーやだやだ、めんどくさい、と心底嫌そうに呟きながら、最後に念入りな猿轡を噛ませる。

「あんた達が余計なことするから、柄でも無い労働する羽目になったじゃないのよ」

 身動きできなくなった小男を、襟首を掴んで猫の子よろしく持ち上げて、閻魔は扉に手を掛けた。

「さてと……とっとと終わらせて、理想の昼寝生活に戻るわよー」

 

 夜の闇の中、雷の雨が青白く、間断なく降り注ぐ。

「どーなってんだよ、神鳴りってのは、こんなにバンバン落としまくれる代物じゃねぇだろ!」

「私に言っても、知りませんよ!」

 雷の直撃を受けて意識を失った鈴鹿御前を担いで、森の中に逃げ込んだ紅葉御前と童子切が、走りながら轟音の中で怒鳴りあう。

 上空を見上げても、不自然な黒雲が上空一杯に拡がっているのが判るだけで、奴がどこにいるのか、下からではまるで分らない。

 何かを投げつけようにも、その暇も無ければ、どこに狙いを定めるかも決められない。

「訳判らんぜ、あいつぁそんだけの力持ってるって事かよ」

「術に疎い私たちが考えていても仕方ありませんよ、今は取り敢えずおゆきさんに、鈴鹿さんを預けるのが先決です」

「判っちゃいるんだけどよ……って、それより童子切よ……」

「はい?」

「なんで奴の脚なんぞ持って来てるんだ?」

 鈴鹿がその身を犠牲にした渾身の一撃で、根元から斬りおとされた鵺の丸太のように太い前脚を、童子切は肩に担いで走っていた。

 童子切の足さばきを見ていれば、別段重そうな様子も無いが、長大なそれは、わざわざ逃走の際に持って歩くような物でも無い。

「戦利品って奴です」

 しれっとした顔でそんな事を口にした童子切に、紅葉は妙な顔を向けて肩を竦めた。

「普通そういうのは、勝ってから回収するもんじゃねぇの?」

「誰かに持って行かれたら嫌なので」

「……ここまで取りに来る酔狂な奴なら、譲ってやっても良いんじゃねぇか?」

「私ね、こう見えて貧乏性なんですよ」

 付き合いは長い方だと思うが、常に笑みをたたえ、眼光を細く閉ざした彼女の表情は相変わらず読みにくい。

 体を張った諧謔なのか、それとも何か意味がある行為なのか。

「あっそ……走りにくくない?」

「人生は重荷を負うて走るがごとし、ですよー」

「そういう使い方する言葉じゃねぇだろ!」

「まだ動けぬか……わっちとした事が無様な」

「気が合うな姐さん……」

 木の根方に身を預けた仙狸と羅刹の二人が、不景気な顔を見合わせる。

「何を馬鹿言ってるのよ、二人とも寸前で急所を外してたから生きてるだけで、死んでても不思議はないんだからね」

 全く、無茶するんだから、と呟いて、おゆきは低くため息をついた。

 傷は塞がったようだが、まだ砕けた骨や痛んだ筋までは回復しきってはいない。

「まぁ、激戦を終えた勇士らしく、今は気と体を楽にして、ゆっくり休んで頂戴」

「ゆっくりしても居られねぇよ……早くあの庭に戻らねぇと、女狐が」

 身を起こそうとする羅刹を、おゆきは慌てて押し留めた。

「仙狸から話は聞いたけど、今は鞍馬達を信じるしか無いでしょ、第一その体で何を……」

「……っ!」

 羅刹の表情を見て、おゆきは自分が言い過ぎた事を悟り、口を閉ざした。

「……頼むから、今だけでいいから安静にしてて」

「判ったよ……」

 自由が利かずに横たわる仙狸と羅刹の傍らで、おゆきが慈愛の光を二人に注ぎ続けている。

 いかに山神として強大な力を誇るおゆきと言えど、これだけの重傷を負った二人を癒すのは並大抵の労苦ではない。

 おゆきの表情は変わらない、だが最前の彼女らしからぬ物言いが、その体に掛かっている負担を雄弁に物語っていた。

 そのおゆきの顔をちらりと見てから、仙狸は視線を落とした。

 言うべきか、僅かに逡巡してから、彼女は低く言葉を発した。

「……のう、おゆき殿」

「なに?」

「あやつ……まだ滅んでおらぬな?」

 仙狸の静かな言葉に、おゆきが表情を強張らせる。

 何か言葉を選ぼうと、僅かに迷った後に、おゆきはため息をついた。

 この二人の歴戦の戦士を誤魔化すなど、最初から無理な事。

「まぁね」

「やはり……の」

 ふぅと息を吐いて、仙狸は目を閉じた。

「では、早くこの身を動けるようにせねばな」

 仙狸はそれだけ言って、目を閉ざし……あろうことか寝息を立てだした。

 傷を癒している時の猫その物と言うべきか。

 だが、あの強大な妖が暴れていると告げられた戦場のただ中で寝入る事が出来るあたり、流石の胆力である。

「わりぃ、おゆき姐さん……頼む」

 こちらは仙狸ほどは達観していない羅刹が、動けぬ我が身の不甲斐なさに、悔しそうに項垂れる。

 隠す必要がなくなって気楽になったのか、おゆきの表情がふっと緩んだ。

 そうね、今できる事をやるしか無いわよね。

 力なく項垂れる羅刹の額を、雪白の指がちょんと小突く。

「らしくも無い事言わなくていいわよ、さっさと体治して、あの野郎をぶん殴りに行きなさいな」

「姐さん……」

 傍らですやすや寝始めた仙狸とおゆきの顔を見て、羅刹もふっと笑みを浮かべた。

「……おう!」

 


 
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