No.919899

ひとつ屋根の下 Part.4

瑞原唯子さん

橘財閥の御曹司である遥は、両親のせいで孤児となった少女を引き取った。
純粋に責任を感じてのことだったが、いつしか彼女に惹かれていき——。


2017-08-25 20:34:52 投稿 / 全6ページ    総閲覧数:986   閲覧ユーザー数:986

第26話 因縁の地

 

「五月の一日二日、大学休めない?」

 穏やかに晴れた土曜の昼下がり。

 遥は話したいことがあるからと七海の部屋を訪れると、窓際のティーテーブルで向かい合って紅茶を飲みながらそう切り出した。彼女は不思議そうに目をぱちくりと瞬かせたものの、すぐに記憶を探り始める。

「ゴールデンウィーク中は半分くらい休講になりそうだし、実験もないし、二日くらいなら別に休んでも大丈夫だと思うけど……なんで?」

 望みどおりの答えに、遥はティーカップに手を掛けてにっこりと微笑む。

「小笠原へ遊びに行こうよ」

「それどこ?」

「ずっと南のほうの島」

「遠いってこと?」

「船で丸一日くらいかかるかな」

「え、そんなとこになんで?」

 確かに海辺のリゾートというだけなら沖縄のほうがよほど行きやすい。しかし遥としては小笠原でなければならない理由があるのだ。ただ、いまの段階でそれを明らかにするつもりはない。

「野生のイルカが見られるんだ」

「ほんと?」

「一緒に泳ぐこともできるって」

「すごい!」

 この話をすれば一も二もなく飛びつくことはわかっていた。

 彼女は幼いころからイルカが好きだった。生活が苦しい中、父親に買ってもらった数少ないおもちゃのひとつがイルカのぬいぐるみで、当時は寝るときも離さないくらい気に入っていたらしい。

 いまはときどき水族館にイルカやイルカショーを見に行っているが、どちらかというと海で自由に泳ぎまわっているほうが好きなようだ。それを実際に見られるというなら断りはしないだろう。

「あ、でも……泊まりなんだろ?」

「心配しなくても部屋は別々だよ」

 そのあたりを気にしているようなので先回りして答えた。付き合っていないのだから部屋を分けるのは当然である。おかしな下心があって誘っているわけではない。そのことをはっきりと伝えておきたかったのだ。

 七海はきまり悪そうにごまかし笑いを浮かべ、目を伏せる。

「じゃあ、行こうかな」

 やわらかな頬をほんのりと紅潮させたままそう答えると、白いティーカップに手を伸ばし、まだうっすらと湯気のゆらめいている紅茶に口をつけた。

 

 その日は、午前から眩しいくらいの白い日射しが降りそそいでいた。

 七海はそびえ立つような大型船を見上げて唖然としていた。ここまで大きいとは思っていなかったのだろう。船内に入ると、興奮を隠しもせずあちこちきょろきょろと見てまわる。

「すごい……船っていうかホテルみたい」

 この船は今年二月に就航したばかりの三代目だ。

 むかし乗った二代目は、特等室はそこそこゆとりがあってきれいだったが、エントランスや通路は無骨で野暮ったく、船内レストランも古めかしい食堂といった風情で、全体的に冴えない印象だった。

 だが三代目は小粋なバーのような展望ラウンジや、明るく広々とした船内レストランなど、パブリックスペースにもかなり力を入れているようだ。クルーズ客の拡大を狙ってのことだろう。

 遥はカードキーで特等室の扉を開けて、七海を促した。

「さ、ここが僕らの部屋だよ」

「僕らの……?」

 彼女は思わずといった感じで聞き返しながら、怪訝に振り向いた。わかっているのかいないのか問うような視線を向けてくる。遥は気まずい微苦笑を浮かべて軽く肩をすくめた。

「ごめん、小笠原の宿は二部屋とったんだけど、船は一部屋しかとれなかったんだ。ゴールデンウィークだけあって満室でさ」

 間際になってしまったのでこの一室を確保するのが精一杯だった。しかもベッドはキングサイズひとつ。あらかじめ了承を得るのが筋だということは重々承知しているが、断られたくなくて黙っていたのだ。

「七海が寝るときは部屋を出てるから」

「遥はどうするんだよ」

「ラウンジで時間をつぶすつもり」

 一室しかとれなかった時点でそうしようと決めていた。ラウンジもデッキも特等専用のほうなら混むことはないだろう。幸いにも身体は丈夫なので一晩くらい寝なくても平気である。

 だが、彼女は眉をひそめて困惑した面持ちになった。

「そんなことさせられるわけないじゃん」

「部屋は別って約束したんだし当然だよ」

「いいよ、もう……」

 疲れたように溜息をつくと、ベッドサイドまで足を進めてリュックサックを下ろし、開いた扉のまえで立ちつくしている遥にちらりと目を向ける。

「遥のことは信用してるしさ、一緒に寝よ」

「……ああ」

 ドキリとして、気付けばそう返事をしていた。

 もちろん彼女に他意がないことくらいわかっている。遥をひとり追い出すのが忍びなかっただけだろう。なのに——これしきで意識してしまう自分を情けなく思いながら、後ろ手で扉を閉めた。

 

「ねえ、外には出られないの?」

 展望ラウンジで昼食代わりのアップルパイを食べながら、ガラス越しに外の景色を眺めているうちに、七海はその空気を実際に肌で感じたくなったらしい。

 遥は冷めた紅茶を飲み干してから七海をデッキに連れて行く。特等専用のほうだ。一般向けよりだいぶ狭いが、利用人数を考慮するとこちらのほうが快適だろう。いまは二人きりである。

 そこは若干ひんやりとした潮風が吹きすさんでいた。周囲の構造ゆえか複雑な気流が起こっているらしく、髪が乱雑に吹き上げられて絡まりそうになるが、七海はあまり気にしていないようだ。

「海の匂いなんて久しぶり」

 そう言いながら手すりに腕を置いてもたれかかり、目を細める。

 幼いころに海辺の田舎町に住んでいたこともあって、懐かしく感じているようだ。父親に連れられて海を見たことも少なくないだろう。なにせ娘に七海と名付けるくらい海が好きな人なのだ。

「この景色、お父さんに見せてあげたかったな」

「今度の墓参りのときに教えてあげればいいよ」

「ん、そうする」

 遥も同じように手すりにもたれかかる。

 どこまでも果てなく続くかのような見渡すかぎりの大海原。はるか彼方の青い空。陸からは決して見ることのできない景色だ。その中に立つと何か飲み込まれてしまいそうな感覚に陥る。

 いつしか陽が傾いてじりじりと水平線に沈み始めていた。その様子を二人して無言で眺める。やがて夕陽が完全に隠れて見えなくなり、急速にあたりが暗くなるのを感じると、遥は隣に目を向ける。

「そろそろ中に戻ろうか」

「うん」

 七海は夕陽の名残を見つめたまま頷いた。

 薄暮の中、消えゆく光を受けて浮かび上がるその横顔は、気のせいかもしれないがいつになく儚げに見えて、キュッと胸が締めつけられるように感じた。

 

 二人は船内レストランで夕食をとり、客室に戻った。

 七海はシャワーを浴びに行き、そのあいだに遥はノートパソコンを開いて仕事をする。急ぎの案件ではないが、ひとりの時間があれば進めようと思っていた。どのみち帰ったら休日返上でやることになるのだから。

「あれ、お仕事してるの?」

「もう終わるよ」

 浴室から出てきた七海は、太腿くらいまで丈があるゆったりとしたパーカーに、細身のスウェットパンツという格好をしていた。半分ほど残っていたペットボトルの水を飲み干して、ふうと息をつく。

「もう寝ようかな」

 そうつぶやくと、キングサイズのベッドの端にちょこんと腰掛けた。遥に背中を向けているので表情まではわからない。ただ、気のせいかその背中が緊張しているように見えた。

「僕はシャワーを浴びてくるよ」

 遥はノートパソコンを閉じて意識的に普段どおりの声を出した。着替えの入った鞄を持って立ち上がるが、彼女は同じ姿勢で座ったまま振り向きもしなかった。

「七海は寝てていいから」

「うん……おやすみ」

 ようやくこちらを向いたその顔には、随分とぎこちない笑みが浮かんでいた。完全には信用されていないのかもしれない。そう思いながらも、おくびにも出さずにおやすみと微笑み返し、浴室に入って扉を閉めた。

 

 シャワーを浴びて戻ったときには、すでに部屋の明かりが落とされていた。

 それでもスタンドライトの薄明かりがついているので支障はない。キングサイズのベッドの端が控えめに盛り上がり、七海が口元まで上掛けをかぶって寝息を立てているのがわかる。

 ここまで端に寄らなくても十分距離はとれるのに——遥は思わず苦笑する。やはり完全には信用されていないのだろう。もうすこしゆったりと寝てほしかったが、元凶である遥が勝手に移動させるわけにもいかない。

 おやすみ——。

 心の中でそう声を掛けると反対側からベッドに潜り込んだ。結局、七海と同じように端に体を横たえてしまう。ひとつのベッドで寝ているのに、ぬくもりを感じるどころか横顔を見ることさえできなかった。

 

「んー、いいお天気!」

 タラップを降りるなり、七海は大きく伸びをして抜けるような青空を仰いだ。

 人口約二千人という小さな島にしては思いのほか活気があった。乗船客が多いので、その客を迎えにくる宿の従業員やツアーの係員も多い。ほかにも飲食店や土産店の宣伝をしている人たちが集まっていた。

 十年ほど前に遥が来たときはもっと閑散として寂れた印象だった。それだけ観光客が戻ったということだ。客足が途絶える原因となった小笠原沖フェリー事故から三十数年、島民たちが努力を続けた結果だろう。

 遥たちの宿は港からほど近いところにあるので迎えはない。地図を見ながら徒歩で向かうとすぐに着いた。チェックイン時間前なので荷物だけ預けて、併設されたカフェのテラス席で昼食をとった。

 午後からは予約したツアーに出かけた。小笠原の自然や歴史をガイドに解説してもらいながら、島をめぐるというものだ。ガイドが丁寧で親しみやすかったこともあり、思いのほか楽しめた。

 そのあとは寄り道せずに宿に戻ってチェックインする。サーファーズハウスを思わせるハワイアンな雰囲気の建物だ。一階がテラス席のあるレストラン兼カフェで、二階が客室になっている。

「七海はそっちね。僕はここ」

「うん」

 二人の客室は隣り合っていた。

 七海はさっそく渡した鍵で扉を開けるが、中に入ろうとしたところで動きを止め、怪訝に振り向いた。

「ねえ、なんかベッドが二つあるんだけど……」

「ああ、ここにはシングルの部屋がないらしくてね。ツインを二つとったんだ。僕のほうにもベッドが二つあるはずだよ」

 遥も扉を開いて中を見せた。赤みがかった陽射しが差し込む開放的な部屋に、ベッドが二つ並んでいる。それで状況は理解したようだが、納得はできなかったのか微妙な面持ちになる。

「なんか、もったいないね」

「一部屋でよかった?」

「いまさらって感じもする」

 船では同じ部屋どころか同じベッドで寝たのだから、確かにいまさら感は否めない。だがリラックスして休むには別々のほうがいいだろう。どのみちもうチェックインをすませてしまったのだから、それこそいまさらだ。

「寂しかったらこっちに来てもいいけど」

「さっ……寂しくなんかないし!」

 七海はあわてて言い返し、逃げるように自分の部屋へ駆け込んでいった。

 その場にひとり残された遥はうっすらと苦笑し、隣の部屋で荷物を置くような物音を聞きながら、静かに扉を閉めた。

 

 荷物を置いたあと、七海を誘って一階のレストランに降りた。

 夜は一般向けの営業をせず、予約した宿泊客のために夕食を提供しているらしい。地元の素材を使った本格的な料理と謳っていたので、半信半疑ながらも今日の夜だけ予約してみたのだ。

 ウェブサイトにも料理の写真は載っていなかったため、どういうものかはわからなかったが、出されたのは新鮮な海の幸を使った創作和食だった。趣向を凝らした見た目も美しい料理がテーブルに並べられた。

 食べてみると、基本がしっかりしていて奇をてらった感じはしない。本格的というのも嘘ではないようだ。七海も最初こそ見たことのない料理を警戒していたが、食べるとすぐに顔がほころんだ。

「あー、おなかいっぱい!」

 食事を終えて二階に上がりながら、七海は満足げに声を上げた。

 それぞれ一品の量は少ないが品数が多いのだ。あまり食べたつもりはないのに、いつのまにか満腹になる。最後のほうはすこし苦しいくらいだったが、それでも二人とも残さず完食した。

「じゃあ、おやすみ」

 隣り合ったそれぞれの客室に戻ろうとしたとき、七海にそう声を掛けられた。ゆっくりと食事をしていたとはいえ、まだ夜九時にもなっていないはずだ。確かに、このあとには何も予定を入れていなかったが——。

「もう寝るの?」

「うん、あしたに備えて」

「そうだね……おやすみ」

「うん、おやすみ」

 七海は笑顔を返し、鍵を開けて部屋へ入っていった。

 せっかくなので散歩でもしようと思っていたが、疲れているところを無理に連れ出すわけにはいかない。まだ明日も明後日もあるのだから焦らなくてもいいだろう。そう自分を納得させると、煌々と蛍光灯がともる下でノートパソコンを取り出した。

 

「わっ、すごい!!」

 翌日、小型船で沖に出てしばらく走るとイルカの群れが見えた。それも結構近い。晴れわたった青い空に白い雲、透明度の高い海を元気に泳ぎまわる本物のイルカ——七海は目をキラキラと輝かせている。

 同じ船には、遥たちのほかに若い女性の三人グループと男女カップルがいた。インストラクターの教えを受けながら、順に海に入っていく。ウェットスーツを着ているのでさほど冷たさは感じない。

 七海と一緒にそっとイルカに近づく。

 そう簡単に近づけはしないだろうと思っていたのに、すぐそばまで行っても逃げなかった。キラキラと光る水面を見上げると、そこを横切るようにイルカが泳いでいく——まるで写真のような光景だ。

 ただ、写真では感じられない確かな実感がここにはあった。果てが見えない海中に、意外と大きなイルカ。水槽を見ているのではなく自分も同じ海にいるのだ。触れずとも水流などですぐそばを泳いでいることがわかる。

 隣の七海がはしゃいでいることは動きから伝わってきた。長くはない遊泳のあと船に戻ると、表情を覆い隠していたマスクとシュノーケルを外して、パッとはじけるような笑顔を見せる。

「海でイルカと泳げるなんて夢みたい」

「楽しんでくれてよかった」

「ありがとう、連れてきてくれて」

 無邪気に声をはずませる彼女の髪からは海水が滴り、太陽の光を受けてキラキラと輝く。そのまぶしさに、遥はうっすらと目を細めてやわらかく微笑み返した。

 

「夜は外に行こうと思ってるんだけど、行けそう?」

「全然平気」

 ドルフィンスイムの小型船を下りて、宿に向かう道すがら尋ねてみたところ、七海は元気いっぱいにそう答えてくれた。さすがに疲れたのではないかと心配していたが、この様子なら大丈夫だろう。

 宿に着くと荷物を置いてすぐにシャワーを浴びた。ウェットスーツを着ていても頭は海水につかるし、船の簡易シャワーだけでは落としきれないので、きちんと洗ってさっぱりしたかったのだ。

 ふう——。

 ベッドに腰掛け、ぬるいペットボトルの水を飲んで息をつく。

 さきほど七海と楽しい時間を過ごしたからか、ひとりの時間が無性に寂しい。仕事をする気にもなれず、そのまま仰向けに倒れてぼんやりと天井を眺め、隣の部屋にいるであろう七海に思いを馳せた。

 

 日が沈みかけたころ、予約した近くの魚料理店に出かけた。

 ここでは一品料理をいろいろと頼んで分け合った。七海はコースより自分でひとつずつ選ぶほうが好きなのだ。遥としても、二人でメニューを見ながらあれこれ話し合うのはとても楽しい。

 頼んだものは、煮魚、焼き魚、島ずし、天ぷらなどの定番メニューである。どれも素材そのものがよく活かされていて驚くほどおいしかった。素材が良くても料理人の腕が良くなければこうはいかないだろう。

 

「今日もおなかいっぱい!」

 店を出ると、もうすっかり夜の帷が降りていた。

 控えめな街灯と店明かりに照らされた路地を二人並んで歩く。ときどき観光客らしき人たちとすれ違うくらいで、それほど人通りは多くない。飲食店の多く集まるところからすこし外れているからだろう。

「七海、上を見てみて」

「上?」

 真上に向けた人差し指につられるように、七海は顔を上げる。

「わぁ……!」

 電線の向こうに見えるのは宝石を散りばめたような星空だ。空気がきれいだからか、明かりが少ないからか、都心とは比べものにならないくらい数多の星が見えている。

「もっときれいに見えるところへ行こう」

「うん」

 海辺に出ると、あたり一面に降るような星空が広がっていた。

 周囲には同じ目的と思われる人たちがちらほらといた。望遠鏡を用意して星空の解説をしているガイドもいる。ただ、星明かりしかないようなところなので、すこし離れるとほとんど黒い人影にしか見えない。

 しかし七海は周囲には目もくれずにひたすら空を仰いでいた。そのまま砂浜の上をふらふら歩きながら、まるで息をするのも忘れたかのように、ぐるりと空全体に視線をめぐらせていく。

「天の川って本当にあるんだ……」

 視線の先には肉眼でもはっきりとわかる星々の集まりがあった。ところどころ蛇行していて川の流れのように見える。存在は知っていても、自分の目で見られるとは思っていなかったのだろう。

「座ろうか」

「うん」

 遥がハンカチを出すより早く、七海はその場に腰を下ろして仰向けに寝転がった。砂が乾いているのでさほど汚れはしないだろう。遥も同じように彼女の隣に並んで寝転がった。

 ザザーン……。

 波の音を聞きながら、まるでプラネタリウムのような視界一面の星空を眺める。もちろんスケールや美しさは比べものにならない。まるで吸い込まれていきそうな、あるいは落ちてしまいそうな、そんな感覚に陥る。

「ねえ、七海」

「ん……」

 星空に心を奪われているのか、七海は返事ともいえないようなかすかな反応を返す。すくなくとも聞こえていないわけではないのだろう。遥は空のほうを向いたままうっすらと表情を緩めると、静かに言葉を継いだ。

「小笠原は、僕にとって因縁の場所なんだ」

「…………?」

 隣に目を向けると、七海が仰向けのまますこしだけこちらに顔を向けていた。その漆黒の瞳はまるで続きを促しているかのようだ。遥はゆっくりと空のほうに視線を戻して息をついた。

「昔、この近くの海で小笠原への定期船が事故に遭ってさ。そこに結婚するまえの両親が乗っていたんだ。何百人もの乗員乗客のなかで生き残ったのは二人だけだった」

 七海は黙って耳を傾けている。彼女にこの話をするのは初めてだが、両親がフェリー事故の生き残りということは知られた話なので、もしかしたらどこかで聞いていたのかもしれない。

「表向きは落雷による海難事故ということになってたけど、そうじゃないことは現場にいた両親にはわかっていた。だから二人は事故の謎を解明しようと研究にのめり込んだ。そのためなら倫理観も無視してどんなことでもした。結果、僕と澪は実験体として生み出され、メルローズは実験体として拉致された」

「ちょっと待って、実験体って……えっ……遥の両親……?」

 七海は体を起こし、ひどく混乱した様子を見せている。

 メルローズが拉致されていたことは武蔵に聞いているはずだが、その目的や、遥の両親の仕業ということまでは知らなかったのだろう。ましてや遥の生い立ちなど知っているわけがない。

「僕や澪はそんな自覚もなく普通に暮らしていたから、心配はいらないよ。メルももう大丈夫。ただ国の機密事項だからこれ以上のことは言えないし、七海も絶対に口外しないでほしい」

「うん……」

 一連の事件において、七海もまったくの部外者とはいえない。

 武蔵は行方不明のメルローズを探しに日本に侵入して公安に捕らえられたが、その監視係を務めていた七海の父親が自らの立場を利用して逃亡を手助けし、同僚に刺殺されている。

 機密事項の一部となっているその事実についてはすでに七海も知っているし、関連する事実についても知る権利はあるだろう。ただ、遥の勝手な判断でしかないのであまり詳しくは話せない。

 七海はいまだにどうすればいいかわからないといった様子だ。上半身を起こして手をついたまま、同情、困惑、恐怖など複雑な感情をにじませながら、おろおろと目を泳がせている。

「星を観ようよ」

 遥が微笑んでポンポンと隣を叩くと、彼女は戸惑いつつも仰向けになり星空に目を向けた。その横顔には隠しきれない緊張がにじんでいる。星を映した漆黒の瞳もこころなしか揺れているように見えた。

 遥は目を細めてゆっくりと空に向き直る。

「そういうわけで父親は後継者から外されているんだ。だから僕が一刻も早くじいさんの後を継げる人間にならないといけないし、結婚して跡取りを作らないといけない。周囲からはそういうプレッシャーを掛けられている」

 ザザーン——。

 七海は身じろぎひとつせず、ただじっと口をつぐんで続きを待っている。その息の詰まる雰囲気はもちろん、波の音にさえ煽られているように感じ、遥の緊張も次第に高まっていく。

「僕は幼いころから橘の後継者として生きてきた。十年ほど前、橘の血を引いていないことがわかったけれど、それでもじいさんは僕を変わらず家族として扱ってくれたし、後継者にすると言ってくれた」

 本来、血筋を重んじる橘家ではあり得ないことだ。

 もともと遥自身が後継者になりたいと望んだことはない。本家の長男に生まれつき、そういうものとして無感情に受け入れてきただけである。後継者を外されることも粛々と受け入れるつもりだった。

 だが剛三はそうしなかった。本家筋ではほかに適切な人物がいなかったので、仕方なく目をつむっただけかもしれない。それでも家族として認められているように感じて、嬉しかったのだ。

「だから僕はその恩義に報いなければならない。結婚して次の後継者を作るのも求められる役割のひとつだ。このままだと近いうちに見合いをすることになる。でも、僕はきっとこれからも七海しか好きになれない」

 未来のことなので断言はできないが、いまのところ七海しか好きになれる気がしない。ほかの誰にも心を奪われたことがないのだ。七海と出会うまえも、七海と別れてからもずっと——。

「だからお願いだ。もう一度だけ僕と付き合うことを考えてほしい」

 これが最後の告白になる。

 そう意識すると、波の音が聞こえなくなるくらい鼓動がうるさくなった。じわじわと全身から汗が噴き出してくるのを感じながら、判決を待つ被告人のような気持ちで息を詰める。

「う……ぐっ……」

 隣から呻くような声が聞こえた。

 驚いて振り向いた瞬間、彼女は腕で目元全体を覆い隠してしまった。しかし唇を結んだまましゃくり上げているのはわかる。泣くのを必死にこらえようとしているようだが、こらえきれていない。

「うっ……僕の答えは変わらないって、いったい何回言ったらわかるんだよ。断るのだってつらいんだぞ。遥なんかとっとと結婚してしまえばいいんだ。そしたら僕だってこんな思いしなくてすむし」

「ごめん……」

 彼女の涙に、吐露に、鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。

 自分の事情ばかりで、彼女の事情を思いやることができていなかった。言われてみれば当然である。その気もない相手から何度も告白されるのは迷惑でしかないし、断るのも負担だろう。

 そのうえ相手は保護者だ。関わりを絶つことも無下にすることもできない。強要しなくても強要になりうる立場だとわかっていたはずなのに、親しくするうちに頭から抜け落ちてしまった。

 しゃくるような彼女の嗚咽はしばらく続いたが、そのうち疲れたように小さくなり、やがて波の音だけが聞こえるようになった。

「泣いちゃってごめん」

「いや……」

 彼女はきまり悪さをごまかすように笑っていた。睫毛や瞳が濡れているのは星明かりでわかるが、すぐに乾くだろう。言いたいことを言って、泣くだけ泣いて、すっきりしたように見える。

 終わったんだ——。

 そのときすとんと納得した。

 潮風が冷たく、砂も冷たく、急に体が冷えていたことを自覚する。しかしそんな素振りはすこしも見せず、仰向けに寝転がったまま彼女に横目を流し、いつものようにやわらかく笑ってみせた。

 

第27話 堰を切ったように

 

『ペアリングが偽装だってバレてるみたいだ』

 平日の昼休み、近くの和食ダイニングに向かおうと会社のビルを出たところで、富田から電話がかかってきた。その声は深刻そうで冗談には聞こえない。遥は通行の妨げにならないよう隅に移動して足を止める。

「どういうこと?」

『午前中、知らない女が会社まで乗り込んできて、いきなり俺に平手打ちして泣きわめいてな。そのペアリング偽装なんですってね、遥さんは同性愛者なんかじゃなかった、よくもわたしを騙してくれたわね、ほかの人と結婚したからもう手遅れよ、とか何とか』

「どんな人?」

『見たところ俺らと同じくらいの年齢だと思う。どうやら運転手付きの車で来てたらしくて、身なりも良かったし、いいところのお嬢さんって感じに見えた。あ、でも結婚してるんだよな。名前を聞いとけばよかったんだけど……悪い』

「気にしないで」

 おそらく遥との結婚を狙っていた令嬢のひとりだ。遥は同性愛者だからとあきらめてほかの人と結婚したのに、それが違うとわかり、協力した富田に八つ当たりしたというところだろう。

 これだけの情報があれば、彼女が誰なのかは調べればわかるかもしれない。ただ、これ一回きりのことなら突き止める必要もないだろう。下手に関わるとなおさらやっかいなことになりかねない。

『しかし、なんでバレたんだろうな』

 そう、問題はなぜ偽装が露見したのかということだ。

 いままでも疑われることは少なくなかったが、決定的な証拠はなく、二人も答えを濁しているのでグレーなままである。ただ、どちらにも女性の影がないということで、かなりの信憑性をもたれているのが現状だ。

「澪あたりが口をすべらせたのかもね」

『あー……』

 偽装であることを知っている人間はそう多くない。

 口をすべらせるとすれば双子の妹である澪くらいだろう。基本的に口止めをすれば守ってくれるし、頭も悪くないが、かなりそそっかしいところがあるのだ。あとで本人に確かめたほうがいいかもしれない。

「ほかの人にもバレてるかもしれないから、しばらくは気をつけて。富田の手に追えないようならこっちで対処する。また何かあったらいつでも連絡して」

『ああ、おまえも気をつけろよ』

 遥との結婚を目的に近づいてくる女性はいるかもしれないので、そういう意味ではもちろん気をつけなければならないが、富田のように直接的な危害を加えられる可能性は低いと思う。

「そういえば会社のほうは大丈夫だったの?」

『おまえの名前は出さないから心配するな』

「じゃなくて、問題にならないかってこと」

『ま、大丈夫だろう』

 富田は何でもないかのように受け流した。

 会社でそんな騒ぎを起こせば、処分はされなくても説明は求められるはずだ。好奇の目にさらされることも避けられない。それなのに文句のひとつも言わないのだから、なおさら申し訳ない気持ちになる。

「面倒なことに巻き込んで本当にごめん」

『いいって。もう報酬はもらってるしな』

「報酬?」

『あ……俺、そろそろ昼メシ行かないと』

「うん、また電話する」

『じゃあな』

 どこか焦ったような声を最後に通話が切れた。

 一瞬、報酬というのが何なのかわからなかったが、おそらく一年半ほどまえのキスのことだろう。澪の身代わりとしてそれを求められていると勘違いし、不意打ちでしてしまったのだ。

 しかも富田にとってはあれが初めてだった可能性がある。当時はかなり酔っていたのでそこまで考えが至らず、翌日になって気付いたが、彼がどう思っているのかは確かめられずにいた。

 しかし報酬と表現していたことから考えると、きっとそれなりの価値は見いだしているのだろう。そのことにいまさらながら安堵を覚えた。澪への恋心をだいぶこじらせていることは心配だが——。

 そっと溜息をつくと、手にしたままだった携帯電話で澪にかけ、呼び出し音を聞きながら彼女が出るのを待った。

 

『いままで一度だって身内以外に話したことないよ。訊かれてもわからないって答えてるし、そもそも最近は訊かれてもないし。大学のときみたいに面識ない人に突撃されることもないから』

 ペアリング偽装の件を誰かに話さなかったかと尋ねると、澪はこう答えた。そそっかしいが記憶力は良いので信じていいだろう。確かに、研究所にまで突撃する輩がそうそういるとは思えない。

『もしかしてバレたの?』

「多分ね。富田が会社に乗り込んできた女に殴られたって」

『うわぁ……じゃあ、七海ちゃんも気をつけてあげないと』

「一応ね」

 富田が偽装なら、七海が本命と思われる可能性もないわけではない。かつて一部でそういう疑惑はあったのだ。澪が否定してくれたおかげで下火になったものの、今後どうなるかはわからない。

『あれ、七海ちゃんとはまだよりを戻せてないんだっけ?』

「ああ……まだっていうか、もう付き合うことはないけど」

『え、あきらめたってこと?』

「しつこくしすぎたせいで泣かれたからね」

『何それ……』

 電話越しでもわかる不満そうな声。彼女の思いきり眉をひそめた顔が目に浮かぶ。

『七海ちゃん、絶対に遥のことが好きだと思うんだけどなぁ』

「どっちにしても期限まであと一週間だし、どうにもならないよ」

『うーん……もういっそ押し倒しちゃえばいいんじゃない?』

「は?」

 思わず耳を疑った。

 そんな尊厳を踏みにじることをして上手くいくわけがない。保護者として友人としてそばにいることを許されているのに、七海本人の意思を蔑ろにして無理やり行為に及ぶなど、信頼を裏切ることに他ならない。だいたいそのつらさは澪自身がわかっているはずなのに——。

『最後まであきらめちゃダメだからね』

「……切るよ」

『うん、頑張って!』

 その能天気な声にますます苛立ち、思いきり眉をひそめながら通話を切った。意識的にゆっくりと呼吸をして気持ちを鎮めると、携帯電話を折りたたんでスーツの内ポケットにしまう。

 しかし——澪でないとすれば、どこから偽装の件が漏れたのだろう。

 春頃から大伯母がひそかに見合い相手を見繕っているらしいので、そのうわさ話を聞きつけての憶測かもしれないが、ただの憶測だけであそこまでの行動に出るのは不自然な気もする。

 ちなみに大伯母はペアリングの偽装については知らない。指輪には気付いているだろうが、恋人がいても婚約までに別れればいいと考えているので、いまのところあまり気にしていないようだ。

 とりあえず富田と七海には護衛をつけておこう。何も起こらないかもしれないが念のためだ。正式に婚約者が決まるまでは——遥は急ぎ足で和食ダイニングへ向かいながら、無意識に眉を寄せた。

 

 その日の夕方から富田と七海に護衛をつけた。

 どちらも本人には内緒なので、ある程度の距離をおいて見守ることになる。富田のほうはひとまず通勤中だけにしたが、七海のほうは通学中に加えて、大学内でも可能なかぎり見守るよう命じた。

 

 

 6月28日(木)

 

「あなた、橘の里子の坂崎七海さんね」

 大学を出たところで、七海はワンピースを着た細身の女性に呼び止められた。その声には自信に満ちた高圧的な響きがある。実際かなりの美人で、まるでモデルのようにメイクされていて爪先まで隙がない。

 七海は眉をひそめ、警戒心を露わにして彼女を見据えた。

「そうですけど……」

「すこしお時間をいただけないかしら。話があるの」

「そのまえに自分から名乗るのが礼儀だと思うけど」

「八重樫由紀。八重樫グループってご存知?」

 彼女は勝ち誇ったような笑みを浮かべて言う。その名を出しさえすれば何でも思いどおりになると思っているのだろう。実際、誰でも知っているくらい有名な財閥系の企業グループである。

 しかし七海はそんなものに萎縮することも媚びることもない。ただその話を聞いて何かを察したらしく、表情を引きしめてすこし考える素振りを見せると、挑むような視線を由紀に送る。

「グランドハリントン東京のラウンジでなら話を聞きます」

「ええ、それで構いませんわ」

 由紀は余裕たっぷりに艶然と微笑んだ。

「坂崎さんもご一緒にどうぞ」

 そう言い、ワンピースの裾をひらめかせて軽やかに身を翻す。彼女の向かうさきには黒塗りの大型セダンが停まっており、白い手袋をした運転手が後部座席の扉を開けて、恭しく頭を下げていた。

「僕はタクシーで行きます」

 七海はきっぱりとそう告げると、大学のまえで客待ちしていたタクシーをつかまえて、さほど遠くない場所にある約束のホテルに向かった。

 

「遥さんと別れていただきたいの」

 適度にざわめいている五つ星ホテルのラウンジで、由紀はそう切り出した。

 二人の前にはまだ口をつけていないアイスティーが置かれている。七海は無表情のままグラスに手を伸ばしてストローで半分ほど飲むと、あらためて正面の由紀に冷ややかな目を向ける。

「どうして?」

「あなたのせいで遥さんが結婚を渋っているそうなの。遥さんはお優しい方だから、気まぐれに手をつけたあなたを無下にできないんでしょうけど、あなたが遥さんにふさわしくないことは自分でもおわかりでしょう? 遥さんのことを思うならあなたが自ら身を引くべきだわ」

 由紀は華やかなローズ色の唇に悠然と笑みをのせた。

 それでも七海は表情を崩さず、淡々と答える。

「僕がふさわしくないっていうのは否定しないけど、その要望には応えられない。だって付き合ってもないのに別れられないでしょ? 僕はただ里子としてお世話になってるだけだから」

 由紀は整えられた栗色の細眉をひそめた。

「そんな見え透いた嘘なんかにごまかされないわよ」

「別に信じなくていいけど事実だし。遥に聞けば?」

「待ちなさい!」

 もう用はないとばかりに席を立った七海に、鋭い一声を浴びせた。

 しかし七海は動じることなく黒のリュックを肩に掛ける。

「そうそう、遥ってコソコソと陰険なことをする人は嫌いだから、あなたとの結婚はないと思うよ。今日のことは全部そのまま遥に報告するつもりだし」

 バシャッ——。

 カッと怒りを露わにした由紀が、一口も飲んでいなかったアイスティーを七海の顔めがけてぶちまけた。顔だけでなく胸元や腕までぐっしょりと濡れ、七海は呆然とする。足元には落ちた氷がいくつも転がっていた。

 

「そのとき近くにいた親切なお姉さんが、ホテルの人に言って場所を借りてくれて、タオルや着替えも用意してくれたんだ。ほんと助かったよ」

 七海から聞いた話は、あらかじめ護衛から受けていた報告と同内容だった。

 ちなみにこの親切なお姉さんが護衛の一人である。七海を守れなかった不手際を謝罪していたが、怪我もなかったことだし責任を問うつもりはない。そばにいられないため対応が難しいことは承知している。

 しかし当の七海はほとんど危機感を持っていないようだ。今回はアイスティーを掛けられただけなのでまだよかったが、怪我をさせられる危険性があるということを、わかっていないのかもしれない。

「七海、知らない人は無視すればいいからね」

「でも気になるんだもん」

 彼女は悪びれもせず言い返す。

「一応、話をする場所は人目のあるところを選んだし、移動も二人きりにならないようにしたし、これでもちゃんと考えて行動してるつもりだよ」

「まあ、そこは評価するけど」

 護身術だけでなく危機回避についても教えてきたが、とっさに実践するのはなかなか難しい。これならひとまず及第点だといえる。しかしながらそれを素直に褒められる状況ではない。

「好奇心に負けて必要もない話に応じるのは感心しない。百歩譲っておとなしく話を聞くだけならいいとしても、煽るのはやめてほしい。帰りぎわの捨て台詞はいらなかったよね」

「だっていいかげん頭に来てたしさ……気をつけるけど……」

 七海はきまり悪そうに口をとがらせる。

 身を案じての苦言であることは理解しているのだろう。彼女の負けず嫌いなところを愛おしく思っているし、捨て台詞も痛快ではあったが、やはり危ないことはなるべく避けてもらいたいのだ。

 遥は湯気の立たなくなったハーブティーを飲んで息をついた。七海もつられるように残り少ないハーブティーを飲み、クッキーを口に運ぶと、どこか遠慮がちにこちらを窺いながら声をかけてくる。

「ねえ、遥……あんなのと結婚するの?」

「まだ誰とも見合いさえしてないよ。でも七海の言ったようにあの子はないね。何度か顔を合わせたことはあるけど、自信家でチヤホヤされてないと気がすまないタイプで、もともといい印象はなかったから」

 見合い相手が決まっているかどうかも知らないが、たとえその中に八重樫由紀がいたとしても決して選ばない。見合いもしたくない。以前から遥に色目を使っていたが嫌悪感しかなかった。

 おそらく今回のことは彼女個人の暴走に違いない。八重樫グループとしてなら他にいくらでも利口な手段があるだろう。間違っても、わざわざ愚かな娘を差し向けたりはしないはずだ。

「よかった。いくらなんでもあれはひどいなって思ってたんだ。見合いだけで本性を見抜くのは難しいかもしれないけど、あんま変な女にひっかかるなよ」

「……気をつけるよ」

 軽く笑みさえ浮かべながら平然とそんな心配をする七海に、遥は静かに微笑み返す。それなら七海が結婚してくれればいいんだ——喉まで出かかったその言葉をどうにか飲み込みながら。

 

 

 6月29日(金)

 

「坂崎七海さんですね」

 大学を出たところで、七海はスーツを身につけた男性に呼び止められた。年のころは四十前後だろうか。落ち着いていながら凛とした佇まいは、いかにも仕事ができそうな理知的な雰囲気を醸し出している。

 七海は怪訝に一瞥して通り過ぎようとしたが、男性の動きのほうがそれよりすこしだけ早かった。まるで足を封じるかのようにすっと彼女の前に進み出ると、丁寧な所作で名刺を差し出す。

「弁護士の堂島と申します」

「何の用?」

 七海は仏頂面で名刺を受け取りながら尋ねる。その目はスーツの襟についた弁護士バッジを確認していた。確かにひまわりを模した小さなバッジがついている。金色でなく銀色なのはメッキが剥がれたからだろう。

「場所を変えましょう」

 堂島はそばで待機している黒いセダンに促そうとするが、七海は身を守るように後ずさった。それでも強気なまなざしで彼を睨んでいる。

「グランドハリントン東京のラウンジでなら話を聞く」

「……まあいいでしょう」

 堂島は鼻で笑いながらも七海の条件を飲んだ。

 前日と同じように同乗は断り、七海はひとりタクシーをつかまえてホテルに向かった。

 

「橘遥さんと別れていただきたい」

 前日と同じ開放的なラウンジで向かい合って座り、頼んだホットコーヒーが運ばれてくると、堂島はいきなり何の前置きもなくそう切り出した。七海は驚きもせず胡乱な視線を送る。

「弁護士ってそんなこともするんだ……依頼人は誰?」

「それはお話しできません」

 依頼人に身元を伏せるよう頼まれているのだろう。こうなると弁護士はよほどのことがないかぎり口を割らない。七海もそのあたりのことはわかっているらしく、しつこく問い詰めようとしなかった。

 堂島は眉ひとつ動かすことなく本題に戻る。

「別れるだけでなく、完全に縁を絶って二度と会わないでいただきたい。転居先や各種手続きなどはすべて私がお世話をいたします。もちろん相応の謝礼もご用意させていただきました」

 そう言うと、黒のダレスバッグから帯付きの札束を取り出し、テーブルの中央に二列に積み上げていった。当然のようにすべて一万円札である。

「一千万あります」

「やっす……」

 七海はあきれたようにつぶやいた。

「こんなので動くわけないじゃん。金に目がくらまない女ならそもそも意味ないし、金に目がくらむ女なら一千万より御曹司を選ぶ。弁護士先生なんだからもうすこし頭を使ったら?」

 その挑発に堂島はいささか面食らったようだ。しかしそれは一瞬のこと。弁護士としての闘争心に火がついたのか、うっすらと口元を上げ、よどみなく流れるように反論を唱え始める。

「坂崎さん、あなたが橘の御曹司と結婚できるなどと本気でお考えですか? 亡くなられたご両親はともに孤児だったと聞きました。こう言っては何ですが、どこの馬の骨ともわからない娘を後継者の妻になどしないでしょう」

「結婚も何も付き合ってすらないけどね」

「えっ」

 それは交渉の前提条件を覆す発言だった。

 依頼を受けただけの彼に真偽を判断する術はないはずだ。それでもほとんど動揺した様子を見せることなく、素早く思案をめぐらせると、気を取り直したようにすっと居住まいを正す。

「それが事実かどうかは問題ではありません。完全に縁を絶って二度と会わない、それさえ約束していただければ一千万は差し上げます。付き合っていないのなら受け取ったほうが得策かと思いますが」

 七海は無言でホットコーヒーを一口飲み、ふうと息をつく。

「僕さ、それじゃ全然足りないくらいの借金があるんだよね。遥に。就職したら一生かけて返すって約束してるから絶縁は無理。まさか弁護士先生が借金バックレろなんて言わないよな」

 堂島の眉がピクリと動いた。それでも表面上の冷静さは消えていない。

「では、もう一千万ご用意しましょう」

「だから全然足りないんだってば」

「……少々、お時間をいただけますか」

 彼は携帯電話を取り出してどこかに掛けようとする。おそらく依頼人と相談するつもりだろう。七海はそれを待つことなく椅子から立った。

「無駄だよ。いくら積まれたって受け取らない」

「お待ちください!」

 堂島は携帯電話を手にしたまま、あわてて七海の行く手を塞ぐように立ちはだかる。それでも七海に動揺はなかった。黒のリュックを背負い、刺すような冷たいまなざしを堂島に向ける。

「弁護士先生なら強要できないってことくらいわかるよね。あ、コーヒーぶっかけたら暴行罪だから」

 そう言うと、棒立ちになった堂島を軽やかによけてラウンジを出ていった。

 

「今日はぶっかけられなくてよかったよ」

 無邪気にそんなことを言う七海を見て、遥は嘆息した。

 今日もあらかじめ護衛から報告を受けていたので、何があったかは知っていたが、七海にはまるっきり反省している様子が窺えない。どう言い聞かせればいいのか考えるだけで頭痛がする。

「煽るのはやめてって言ったよね」

「それは……ごめん……」

「気持ちはわかるんだけどさ」

 正直、報告を聞いて胸のすく思いもあった。金を積まれても少しも揺るがず、相手が誰であろうと堂々と渡り合い、弁護士でさえやり込めてしまう、そんな七海をあらためて好きだと思った。

 ただ、それで危険にさらされる事態になっては困る。弁護士ならそうそう暴力に訴えはしないだろうが、今後どういう人物が出てくるかわからない以上、なるべく相手を刺激しないでほしいのだ。

 ティーテーブルに置いた弁護士の名刺に目を落とす。

 これだけで依頼人を突き止めるのは難しいかもしれない。素性を隠しているくらいだから、顧問弁護士を差し向けたりはしないだろう。おそらく別の弁護士にこの件のみを依頼しているはずだ。

 遥と七海が付き合っていないと聞いて驚いていたらしいので、八重樫とは別口だと思うが、揃いも揃ってなぜそんな事実誤認をしていたのかが解せない。よほど巧妙なデマを流されているのだろうか。

「七海、しばらく護衛をつけさせてほしい」

「え、護衛って……そんな物々しいの嫌だよ」

「わがまま言ってる場合じゃないよ」

 すでにひそかには護衛をつけているものの、本人に気付かれないよう護るには限界がある。離れているためとっさの事態には対応できないのだ。昨日アイスティーを掛けられたときのように。

「今度はいきなり襲ってくるかもしれない」

「そんなの言い出したらキリないじゃん」

「だから護衛をつけたいって言ってるんだ」

「こんなときのための護身術だろ」

 七海には橘に来るまえから継続的に武術を教えている。主に護身術だ。まさにこういうときのためである。教えたことは一通りできるようになっているので、自分の身くらいは守れるという自負があるのだろう。

「だけど相手のほうが腕が立つこともある」

「そんなに心配ならとっとと結婚しろよ」

 そう苛立ったように言い放たれ、遥は息をするのも忘れて呆然とした。確かに他の女性と結婚してしまえば、いや婚約さえしてしまえば、七海が恋人と誤解されることもなくなるが——。

 七海は華奢な背もたれにそっと身を預けて、溜息をついた。

「弁護士先生の言うように、僕がいなくなったほうがいいのかもね。付き合ってはいないけど、僕のせいで遥が結婚を渋ってたのは事実なんだろ。結婚するのに元カノがひとつ屋根の下にいるのもおかしいし」

「駄目だ!」

 焦るあまり、遥は思わず前のめりで声を荒げた。

 それでも彼女はまったく動じていなかった。表情をほとんど変えずにそれを受け止めると、そのまなざしにかすかな侮蔑の色をにじませつつ、遥を見据える。

「でも、成人すれば僕の意思で決められる」

「…………」

 七海が本気で出ていこうとすれば止められない、そう思い知らされた。

 認めたくないが彼女の言うことはもっともなのだ。かつての恋人をいまも想いつづけているだけでなく、里子であることを隠れ蓑にそばに置こうとするのは、結婚相手に対して不誠実といえる。たとえ二人のあいだに何もないとしても。

「安心して。黙って行方不明になったりしないから。お金も返さなきゃいけないし、出ていくって決めたらちゃんと話すよ。剛三さんにも遥にも。具体的なことはまだ何も考えてないしさ」

 七海はそう告げてニコッと微笑んだ。小さなクッキーをひとつ口に放り込むと、半分ほど残っていたハーブティーを一気に飲み干す。

「じゃあね」

 軽やかに席を立ったその背中を、遥はただ黙って見送ることしかできなかった。

 

第28話 強硬手段

 

『申し訳ありません、七海さんが車で連れ去られました』

 

 それは七月二日、七海の誕生日前日のことだった。

 本社での打ち合わせ中、遥のスマートフォンに七海の護衛から着信があった。この時間にメールでなく電話をよこすということは、おそらく緊急事態である。打ち合わせ相手である会長秘書に断ってから電話に出ると、開口一番、張りつめた声音で冒頭のように告げられたのだ。

 彼から聞いたところによると、自宅からさほど離れていない閑静な住宅街の路地で、一瞬にして黒いバンに引きずり込まれたらしい。

 護衛の二人はすぐに飛び出したが間に合わなかった。一人はどうにかリアウィングに飛びついたものの、角を曲がるときに振り落とされて重傷を負い、さきほど救急車を呼んだところだという。まだ楽観はできないが、意識がしっかりしているとのことで命の危険はなさそうだ。

 

「すぐ本家に向かってください。執事の櫻井に話を通しておくので、協力して七海のGPSを追ってもらえますか」

『了解しました』

 徒歩でも十分とかからない場所だ。走ればもっと早く着くだろう。

 すぐさま櫻井に電話し、この事態を端的に伝えておおまかに指示を出していく。彼はほとんど動揺を見せることなく的確に受け答えした。あの剛三に長年仕えてきた度胸と手腕は伊達ではない。

 通話を切ると、そのスマートフォンで七海のGPSの位置を表示する。もし途中で荷物が捨てられていたらと心配したが、いまのところは大丈夫なようだ。ちょうど車が走るくらいの速度でGPSが移動している。

「師匠……いえ、楠さん」

 スマートフォンを握りしめたまま会長秘書に振り向き、思いつめた声で呼びかける。かつて保護者代理として遥の面倒を見ていた彼は、それだけで言わんとすることを察したらしく、真剣な顔で頷いた。

「事情はだいたいわかった。行って」

「ありがとうございます」

 遥は早口で礼を述べると、そのままスマートフォンだけを手にして応接室を飛び出した。

 

「ん……う……」

 七海が目を覚ましたのは、朽ちかけた廃工場のような場所だった。

 高窓を見るかぎりまだ日は落ちていないようだ。襲撃された時点ですでに夕方に差しかかっていたはずなので、気を失っていた時間はそれほど長くない。せいぜい一時間といったところだろう。

 視線をめぐらせ、古びたパイプベッドに寝かされていることを理解する。敷かれているシーツは薄汚い周囲と比べて不釣り合いに白い。右手には手錠が掛けられ、錆びの目立つ太いパイプ部分に繋がれていた。

 体を起こそうと身をよじると背中にうっすらと鈍痛を感じた。おそらく拉致されるときにスタンガンを使われたのだろう。背中に固いものを押し当てられた直後に気を失ったのだ。護身術など使う間もなかった。

「お目覚めかな、お嬢ちゃん」

 ニヤニヤと下卑た声が聞こえて振り向く。

 隅で煙草を吸っていた男が、もう一人の男を従えて七海のほうへ悠然と歩き出した。途中で火のついた煙草をコンクリートの地面に捨て、ブーツで踏み消す。二人とも目出し帽をかぶっているので顔はよくわからない。

 後ろの男がハンディカメラを構えた。前の男はそれを意識しつつホルスターから拳銃を抜くと、引き金に指をかけ、その銃口をバッと勢いよく七海の鼻先に突きつける。表情が一瞬にして凍りついた。

「悪く思うなよ。お嬢ちゃんには何の恨みもないが、百年の恋も冷めるくらいえげつなく犯して、その動画を撮ってこいって頼まれてんだ。おっと、撃たれたくなかったらおとなしくしてろよ。殺さなければ何をしてもいいって言われてるからな」

 男は拳銃を突きつけたまま軽い口調でそう言うと、口もとを上げる。目出し帽の口まわりが開いている理由は十分に察せられた。七海は冷や汗をにじませながらも強気に反論する。

「バカじゃない? 僕がそんな目に遭わされたなんて遥が知ったら、責任を感じてかえって僕から離れられなくなる。逆効果じゃん」

 しかし男は鼻で笑った。小馬鹿にしたように銃口で七海の鼻先をつつく。

「あのな、俺らは金で雇われてるだけなんだよ。孫請けだから大本の依頼主が誰かも知らないし、目的も聞かされていない。お嬢ちゃんがどこの誰かも知らない。だが一度受けた依頼は確実にやり遂げる。この世界も信用第一でね」

 そう嘯く声にはからかいの色が混じっていた。

「まあ、大金もらって女を犯せるなんて、こんなおいしい仕事はそうねぇよなぁ。これも信用があればこそだ」

 七海はギリと歯を食いしばる。

「いいね。負けん気の強い女を力尽くで犯して、泣かせて、よがらせて、絶望させるのがたまらねぇんだ。まさに俺にうってつけの仕事ってわけだ。正気を失うくらいの快楽に落としてやるよ」

 男は愉悦に酔ったような声でそう言うと、後ろの男に拳銃を手渡した。

「しっかり脅しとけよ」

「おうよ」

 彼は楽しげに返事をして、ハンディカメラを構えたまま反対の手で拳銃を握り、引き金に指をかけてまっすぐ七海に銃口を向けた。さきほどより距離があるものの脅すには十分だろう。

 両手の空いた男は、堅牢な折りたたみナイフをポケットから取り出した。それをじっくりと見せつけるような手つきで開くと、高窓からの光を反射してぎらりと輝く刃を、七海の喉元に突きつける。

「死にたくなきゃ動くなよ」

 そう告げると、素早くパイプベッドに上がって七海に跨がった。右手のナイフでシャツの合わせ目を力任せに開き、その下に着けていた機能性重視のスポーツブラも、舌打ちをして切り裂いていく。押さえつけられていた白い胸が解放されてふるりと揺れた。

「こりゃあ結構な上玉じゃねぇか。思った以上に楽しめそうだな」

「…………」

 七海は何も言わず、ただ真一文字に口をむすんで男を睨みつけていた。

 だが、男にはそんな視線さえも興奮のスパイスにしかならない。舌なめずりしながらショートパンツとショーツを切り裂いていく。ハンディカメラを構えた男は興奮ぎみにちょろちょろと動きまわり、あますところなくおさめていった。

「いつまで耐えられるか楽しみだ」

「んっ」

 いきなり胸の先端を口に含まれ、七海は唇を引きむすんだまま声を漏らした。

 男は気をよくして巧みに舌を使いながら、もう片方の白いふくらみを揉みしだき、その先を指で嬲る。胸だけでなくあらゆるところに吸い付き、舐めまわしていく。唇や口内も例外ではなかった。

「う……はっ、あ……あ……んっ」

 白い肌がうっすらと上気してくると、七海は耐えきれずに声を漏らし始める。

 男は勝ち誇ったようにいやらしい笑みを浮かべながら、さらに容赦なく攻め立てた。濡れた音が激しさを増していく。七海は身悶えし、手錠がパイプにぶつかりガチャガチャと音を立てた。

「ひ……ぁ……!」

 かぼそい悲鳴とともに七海の身体はビクリと跳ねて弛緩した。涙の膜が張った目を虚空に向けたまま苦しげに息をする。男は満足げに舌なめずりしながら上体を起こし、彼女の膝裏から手を放した。

 いつのまにかハンディカメラの男は片膝をベッドにつき、あからさまに興奮して身を乗り出していた。もう拳銃のことなど忘れているのだろう。構えもせずただ持っているだけで銃口は下を向いている。

「へばるなよ、本番はこれからだ」

 からかいまじりにそう言ったのは七海を嬲っていた男だ。七海の脚のあいだを陣取ったまま、ずっと手放さなかったナイフを横に置き、自らのズボンに手を掛けて下ろそうとする。そのとき——。

 ガツッ。

 七海は腰を浮かして男の横っ面に膝蹴りをかました。間髪を入れず、倒れかけた男の首筋を反対側の脚で蹴り抜いてベッドから落とす。即座にナイフを拾い、唖然としていたハンディカメラの男の腿に突き立てた。

「ギャーッ!!!」

 すぐにナイフを抜いてシーツの上に投げ置き、悶絶する彼の右手に飛びついて拳銃をもぎ取った。安全装置を外し、右手首にかけられた手錠の鎖をピンと伸ばすと、そこに銃口をくっつけるようにして撃つ。反動で姿勢を崩してベッドに倒れ込んだものの、無事に鎖は切れていた。

「よくも……このアマ……」

 ベッドから蹴り落とされた男がゆらりと立ち上がる。鼻血を手の甲で拭いながら憤怒にまみれた表情を見せるが、脳震盪を起こしたのか、なかなかまっすぐ立てずにふらふらとしていた。

 七海はパイプベッドから軽やかに飛び降りると、男に向かってしっかりと両手で拳銃を構え——引き金を引いた。

 

 パン……パン……。

 時折、子供の声が聞こえる夕暮れどきの静かな住宅街に、異質な音が響いた。決して大きな音ではなかったが、遥は胸騒ぎがして音のほうに振り向く。隣の護衛も同じほうを見ていた。

 

 遥は本社を飛び出したあと、櫻井たちとともに七海のスマートフォンのGPSを追ってここまで来た。郊外のコインパーキングに駐められた黒いバンを発見したものの、そこには七海のリュックが放置されていただけで、本人の姿はなかった。

 サングラスの男が七海を横抱きにして車から降りたのは、コインパーキングの防犯カメラ映像で確認したが、その後どこに向かったかまではわからなかった。遥と護衛三人は二手に分かれて周辺の聞き込みに奔走した。

 遥たちが異質な音を聞いたのはそのときだ。

 視線の先には町工場のようなプレハブの建物があった。そこに七海がいるとは限らないが、すこしでも可能性があるなら確認すべきである。二人はどちらともなく目を見合わせて頷き、駆け出した。

 そこは廃工場のようだった。社名の看板はひどく汚れ、建物は錆びて朽ちかけ、ガラスはあちこち割れ、長らく放置されていることが窺える。正面の大きなシャッターは閉まっていたが、その脇の扉は半開きになっていた。

「私が様子を見てきます。遥さんはここで待機をお願いします。三分以内に戻らなければ応援を呼んでください」

「わかった」

 二人は塀に身を隠したまま声をひそめた。

 さきほど聞こえた音が銃の発砲音ならかなり危険である。日本では護衛であっても民間人に銃の携帯は許可されていない。つまり、ほぼ丸腰で銃を持つ無法者と対峙することになるのだ。

 唯一、携帯を許可されているのは特殊警戒棒だが、銃に対抗するにはあまりに無力である。それでも彼は怯まず、手にしていた特殊警戒棒を素早く振って伸ばし、身構えながら半開きの扉にそろりと近づいていく。

「止まれ!!」

 突如、その扉がバンとはじかれて鋭い声が飛んだ。

 七海だった。切り裂かれたシャツのみを身に着けた裸同然の格好で、正面の護衛を鋭く見据えながら両手で拳銃を構えている。右手首には鎖の切れた手錠らしきものが嵌められていた。

「七海!!」

 目にした瞬間、遥は我を忘れて飛び出していた。

 彼女はハッと息をのみ、そして全身から力が抜けたかのようにへたり込んだ。その体を遥はがむしゃらに抱きしめる。やわらかく、あたたかく、まぎれもなくここに存在しているのだと実感できた。

「ごめん、遅くなって」

「うん……」

 彼女はほっとしたようにそう応じたものの、体は震えていた。

 その身に起こったことを想像するだけで頭に血がのぼり、気持ちがぐちゃぐちゃになるが、彼女を支えるためにも自分は冷静でいなければならない。奥歯を食いしばり必死に激情を抑え込む。

 まずは抱きしめたまま震える手から慎重に拳銃を取り上げる。その拳銃も手足も赤黒い血でべっとりと濡れていたが、彼女自身に傷はないようだ。よく見ると顔には無数の飛沫血痕が散っていた。

 遥はそっと護衛を見上げて目配せする。

 おそらくは彼も同じことを考えていたのだろう。緊張した面持ちで頷くと、伸ばした特殊警戒棒をしっかりと隙なく握りなおし、あたりを警戒しつつ廃工場の中へ足を進めていった。

 たとえ何があったとしても、絶対に守ってみせる——。

 遥は一通り周囲に視線をめぐらせてからスーツの上着を脱ぎ、彼女の露わになった肌を隠すように前から掛けると、スマートフォンを取り出して執事の櫻井に電話をかけた。

 

第29話 罪滅ぼし

 

「ん……ぅ……」

 大きなベッドで眠っていた七海がぼんやりと目を覚ました。ゆるりとあたりに視線をめぐらせて、枕元で見守っていた遥の姿を認めると、記憶を探るように眉をひそめながら小首を傾げる。

「ここ、どこ?」

「ホテルだよ」

 遥はやわらかく微笑んで答える。

 廃工場から飛び出してきた七海を保護したあと、車で都心に戻り、剛三が予約してくれたこのホテルにチェックインした。スイートルームだ。そのほうが何かと便宜をはかってもらえるという判断らしい。

 七海は服を切り裂かれて裸同然の格好だったため、毛布にくるんでここまで連れてきたが、いまはホテル備えつけのバスローブを着せてある。そのときに体の汚れはひととおり濡れタオルで拭いておいた。

 右手首に掛けられていた手錠は、執事の櫻井がピンを使って開錠してくれた。手首にはうっすらと内出血や擦り傷があるが、さほど目立つものでもない。それより背中のスタンガンの痕のほうが痛々しかった。

「なんでわざわざホテル? 家に帰らないの?」

「じいさんが今日はここでゆっくり休めってさ」

「そう……」

 いま、家はこの騒動の後処理でごたごたと慌ただしくしている。そんな様子を七海に見せたくない、聞かせたくない、気配すら感じさせたくない。そう考えて剛三はホテルをあてがったのだ。

 遥もここに残って七海に付き添うように指示された。犯人を殺しかねないので家には戻るなということだ。遥も犯人に挑発されたら冷静でいられる自信はないので、素直に従うことにした。

 あの犯人たちをどうするつもりなのかは聞いていないが、剛三に任せるしかない。彼らには依頼人がいるとのことなので、まずはあらゆる手段を用いてそれを突き止めることになるだろう。

 そして、相応の報いを与えるはずだ。

 七海とは血縁関係にないし、戸籍上の繋がりもないが、それでもひとつ屋根の下で暮らす大切な家族である。その七海を害そうなど橘に喧嘩を売ったも同然だ——そう剛三は息巻いている。

 犯人が七海に何をしたのかはわかっている。すべてハンディカメラにおさめられていたのだ。目的を遂げていないという意味では未遂になるが、七海の心情を思えば未遂で片付けられるものではない。

 できるならその映像は誰の目にも触れさせたくなかったが、そうもいかない。最初にその映像を見つけた護衛と、遥、櫻井、剛三の四人が見ている。ただ、他の人間には決して見せないと剛三は約束してくれた。

「あのさ……」

 七海は天井のほうにじっと視線を向けたまま、緊張した声で言いづらそうに切り出したが、なかなか言葉が続かない。暫しの沈黙ののち、覚悟を決めたように真剣な面持ちで尋ねる。

「僕を襲ったヤツらって生きてるの?」

「残念ながら生きてるよ。意識もある」

「けっこう血が出てたと思うけど」

「応急処置が早かったからね」

「そっか……」

 複雑な表情を見せながらも、ほっと息をつく。

 犯人のひとりはナイフで腿を刺され、もうひとりは拳銃で腿を撃たれ、ベッドまわりは血まみれになっていた。ただ、応急処置が早く適切だったこともあり、どちらも致命傷にならずにすんだのだ。

 死ねばよかったのにと思う気持ちもないわけではないが、たとえ正当防衛が認められたとしても、七海に人を殺めたという咎を負わせるわけにはいかない。そういう意味では死ななくてよかったといえる。

 七海も殺すつもりがなかったから脚を撃ったのだろう。文字どおり足止めとして。もう十年近く拳銃に触れていないとはいえ、それ以前は毎日訓練していたのだから、狙って撃つこともできるはずだ。

「シャワー浴びてこようかな」

「ああ……ついていこうか?」

「ひとりで大丈夫」

 七海はもぞもぞと上掛けをめくりながらベッドから降りると、スリッパを履いて歩き出した。その足取りはしっかりしている。ただバスルームの場所がわからず迷っていたようなので、遥が扉の前まで案内した。

 

「あー、さっぱりしたぁ」

 三、四十分ほどして、七海がニコニコと上機嫌な様子でバスルームから出てきた。さきほどのバスローブをそのまま身に着けているようだ。髪はドライヤーで乾かしたらしくさらさらとしている。

 彼女自身が望んだとはいえ、ひとりで行かせてよかったのかと気をもんでいたが、そこまで心配することはなかったのかもしれない。ただ、あまりにも普段と変わりないのがかえって気にかかる。

「そういえば、僕、服がないんだけど」

「一式クローゼットに用意してあるよ」

「ほんと?」

 七海はさっそくクローゼットの中を確かめて、ほっと息をついた。着替えを手にとらずにクローゼットの扉を閉めると、ありがとうと礼を述べ、大きなベッドの端にぽすんと腰掛ける。

「水、飲む?」

「うん」

 遥が冷蔵庫からペットボトルの水を持ってきて手渡すと、一気に半分ほど飲んでふうと息をつき、きっちりとキャップを閉めてからベッドサイドに置く。そのあいだに、遥は一人掛けソファを彼女のほうに向けて座った。

「遥はもう帰っていいよ」

「いや、僕もここに泊まるから」

「僕ならひとりで大丈夫だしさ」

「じいさんの命令なんだ」

「そう……」

 剛三の命令であれば七海も受け入れざるを得ない。困惑ぎみにぽつりとつぶやいて、深くうつむく。まるで遥に顔を見せまいとしているかのように——。

「僕のまえでは泣きたくない?」

「…………」

 ほどなくして彼女の体がわずかに震え始めた。それでも泣くのは必死にこらえているようだ。遥は何も言わずにソファから立ち上がり、隣に腰掛け、ビクリとこわばる体をそっと抱き寄せる。

「うっ……ぐ……うう……」

 嗚咽とともに、堰を切ったように大粒の涙があふれ出した。こうなるともう止めようとしても止まらないだろう。拭いきれずに落ちた滴が、濃色のスラックスをじわじわと濡らしていく。

 やがて泣くだけ泣いて落ち着いてくると、静かに話し始める。

「怖かった……ずっと逃げる隙ができるのを待ってたけど、うまくいくかどうかなんてわからなかったし、失敗したら殺されるかもって思ったし……でも、このままやられるだけなんて死んでも嫌だったから」

「頑張ったね」

 遥は寄りかかる頭に優しく手をのせる。

 今回は七海が行動を起こさなければ確実に間に合わなかった。あまり無謀なことをしてほしくないというのが本音だが、今回に限っては、結果的に正しい判断だったというより他にない。けれど——。

「ごめん、僕が不甲斐ないせいで」

 本当はこうなるまえに遥が守らなければならなかったのに。そもそもこんなことになったのは遥の交際相手だと誤解されたからである。そこまでわかっていながら守ることも助けることもできなかった。

 その謝罪に、七海はゆるゆると頭を振って答える。

「護衛を断ったのは僕なんだしさ」

「それでもどうにかすべきだった」

「これからは遥の言うこと聞くよ」

「そうしてくれるとありがたい」

 彼女は彼女で反省しているのだろう。このまえとは打って変わっての殊勝な態度に、遥は冗談めかした口調で応じた。彼女は肩に寄りかかったまま曖昧に微笑むと、小さく吐息を落とす。

「なんで遥をふっちゃったんだろ」

 瞬間、遥は息をのんだ。勢いよく彼女の両肩を掴んで引きはがすと、驚いて目を丸くする彼女と向かい合い、その双眸をまっすぐに見つめる。

「いまならまだ間に合う。僕と付き合おう」

「えっ……あ、いや、それは……」

 ひとりごとを聞かれていたとは思わなかったのだろう。もしかしたら声に出した自覚すらなかったのかもしれない。彼女はしどろもどろになりながら気まずそうに顔をそむけた。すぐに顎を掴んでこちらに向きなおらせたものの、目は泳いでいる。

「僕をふったことを後悔してるんだろう?」

「えっと……でもそういうつもりじゃ……」

「付き合いたくないの?」

 畳みかけるように問い詰めるが、彼女は目をそらしたまま何も答えようとしない。そのうちにじわりじわりと頬に赤みが差してきた。この状況で否定しないなど肯定しているも同然である。だとすれば——。

「何が問題なわけ?」

 グイッと顔を近づけて覗き込む。

 彼女は必死に目をそらした状態のまま、瞼を震わせ、何かをこらえるように唇を引きむすんだ。頑固な性格だということはよく知っているが、遥としてもあきらめるわけにはいかない。

「七海、こっちを見て」

 それでも彼女は視線を戻そうとしなかった。ならば——遥は顎から手を離して立ち上がり、不安そうにうつむいた七海を見下ろすと、その体を横抱きにする。

「ちょっ……!」

 抵抗する彼女をものともせず、広いベッドの中央に投げるように置いた。そして遥自身もベッドに上がり、膝立ちで彼女の体をまたいで見下ろしながら、スーツの上着をバッと脱ぎ捨てる。

「どういうつもりだよ」

「いまから七海を抱く」

「はぁ?!」

 七海の声は裏返った。

 それでも遥は表情を動かさない。乱暴な手つきで自身のネクタイを抜き去ると、七海の両側に手をつき、真上から覆いかぶさるようにじっと見つめる。

「ちょっと、えっ……落ち着けよ!」

 そう訴える彼女自身はまったく落ち着いていないが、遥は落ち着いていた。シャツの胸ポケットにさしていたボールペンを取り、彼女に見せつけるように眼前に掲げてから、隣に転がす。

「嫌ならそれで腕でも脚でも刺せばいい。痛みで正気に戻るかもしれないね。まあ、僕はいまも十分正気のつもりだけど」

「え、ちょっ、ま……」

 彼女は顔を紅潮させながら身をよじって逃げようとするが、逃げられるはずがない。腕力も体力も武術も何もかも遥のほうが上なのだ。華奢な肩を押さつけえて仰向けにしたまま腰の上に座り、動きを封じると——。

「ぎゃっ!」

 すでに乱れぎみのバスローブの襟を掴み、一息に前を開いた。

 

 

「強姦されたって訴える?」

「……ばか」

 まだ濃密な空気が色濃く残るベッドの中で、遥がからかうように尋ねると、隣の七海は恨めしげに睨んで口をとがらせた。ほんのりと上気した肌、気怠げな声が、先ほどまでの行為を思い起こさせる。

 もしも本気で嫌がっていれば、やめていた。

 しかし彼女が抵抗らしい抵抗をみせたのは最初だけで、肌に触れるとすぐに受け入れてくれた。むしろねだられた。まるで離れていた時間を埋め合わせるかのように、互いが互いを求め合った。

 いまになって思えば、乱暴されかかったばかりの彼女を抱こうとするなど、正気の沙汰ではない。自分のことしか考えていないと非難されても仕方がない。だが、結果的にはこれでよかったのだと思う。

「もう付き合わないなんて言わないよね」

「負けたよ」

 ドクン、と遥の鼓動が跳ねた。

 これまでなぜ意固地に拒絶していたのかはわからないが、もうどうでもよかった。あきらめていたはずの未来がひらけたのだから。目を細めながら、熱っぽく紅潮した彼女の頬に手を伸ばそうとする。しかし——。

「遥が結婚するまでなら付き合うよ」

「……え?」

 意味がわからない。

 思わず体を起こして問いかけるように彼女を見つめる。彼女も上掛けで胸元を隠しながら体を起こし、真剣なまなざしで挑むように見つめ返すと、きっぱりと告げる。

「不倫はしない。それだけは譲れないから」

「……え?」

 ますます意味がわからない。

 だが、冷静に思考をめぐらせると何となく話が見えてきた。まさか、と思いつつもそれしか考えられない。頭が痛くなるのを感じて額を掴むように押さえる。

「ちょっと待って。僕は七海と結婚するつもりなんだけど」

「え、しかるべき家のお嬢さんと結婚するんじゃないの?」

「それは七海とよりを戻せなかったときの話」

 そういえば七海の十六歳の誕生日に別れて以来、付き合ってほしいとはさんざん言ったが、結婚してほしいとは言わなかったかもしれない。遥としては結婚前提のつもりだったが伝わっていなかったようだ。

 そのうえ近いうちに見合いをするとまで告げた。七海とよりを戻せなかったらそうなるという話で、七海と結婚するなら見合いをする必要もないのだが、明確には言っていなかった気がする。

 だからといって、まさか他の女性と結婚するつもりでいながら、平然と交際を迫るような男と思われていたなんて。不倫するような男と思われていたなんて。七海を愛人にするつもりだと思われていたなんて。

 どうして肝心なことを伝えていなかったのか、どうして七海の心情に気づけなかったのか、いくら後悔してもしきれない。それでも手遅れではない。まだ結婚どころか見合いさえしていないのだから。

 だが、七海は納得のいかない顔をしていた。

「でも僕、高校生のときに、剛三さんの姉ってひとに釘を刺されたんだけど。遥はしかるべき家のお嬢さんと結婚するから夢を見るなって」

「ああ……」

 それが誤解の発端だったのか——。

 遥の大伯母である彼女は、橘の跡取りならしかるべき家柄の令嬢と結婚すべきだと、他家に嫁いだ身でありながらしつこく口を出していた。その強硬さには剛三もうんざりしていたようだ。

 しかし、七海にまでそんな牽制をしているとは思わなかった。剛三が同席していれば黙っていなかったはずなので、おそらく二人きりのとき、廊下ですれ違ったときにでも言ったのだろう。

「それはあのひとが先走っただけ。じいさんは昔から七海と結婚することを認めてくれてたよ。ただし七海の気持ちが最優先だから無理強いは許さない、七海が二十歳になるまでによりを戻せなかったらあきらめろって」

「うそ……」

 七海は唖然としているが誤解は解けたはずだ。だからといってすぐにがっつくのはどうかと思うし、余裕がなさすぎてみっともないという自覚もあるが、悠長に待っている時間はない。

「七海、僕と結婚してくれるよね?」

「……ごめん、やっぱり結婚は無理」

「は?」

 一瞬、耳を疑ったが聞き違いではない。

 七海は気まずそうにうつむき、胸元で上掛けを押さえていた手をゆっくりと握りこんだ。表情だけでなく全身がこわばっているのがわかる。別れを切り出そうとしていたあのときのように——。

「武蔵に未練があっても構わないよ」

「それはもうとっくにふっきれてる」

「え……じゃあ、何が問題?」

 武蔵のことをふっきれているというのは意外だったが、彼女がそこまではっきりと言うのなら事実だろう。嘘をついているようには見えなかったし、そもそも嘘をつく理由もない。

 ただ、そうなると渋る理由がわからない。

 催促するようにじっと無言で見つめて圧力をかける。彼女はうつむいたまま困ったように目を泳がせていたが、そうしていても逃がしてもらえないと悟ったのか、観念して話し始める。

「遥が好きだったはずなのに、武蔵と再会したら気持ちが移って、武蔵にふられたら遥に気持ちが戻って。僕はこんなふらふらと心変わりするような人間なんだ。期間限定で付き合うならまだしも結婚はしないほうがいい。もう二度と遥を傷つけるようなことはしたくないし、遥だってされたくないだろ」

 自責の念をにじませつつも最後まで冷静さを失わなかった。しかしその瞳はうっすらと潤んでいる。曖昧に目を伏せて隠しているつもりかもしれないが、隠しきれていない。

「舐められたもんだね」

「…………?」

 当惑ぎみにおずおずと上げられた視線を、遥は鋭く捉える。

「それしきのことで七海をあきらめるわけないだろう。いったい何回ふられつづけたと思ってるんだ。せっかく僕に気持ちがあるとわかったのに、不確定な未来を理由に断られて、はいそうですかと引き下がれると思う?」

「それ、は……」

「だいたい七海は何も悪くないだろう。もともと七海が好きなのは武蔵だったんだ。それを承知のうえで付き合おうと押し切ったんだから、やっぱり武蔵がいいと言われても仕方がない。武蔵が戻るまでに七海の心を掴みきれなかった僕の力不足。でも、もう二度とほかの誰にも心変わりなんかさせない」

 そう断言すると、鼻先に人差し指を突きつけてずいっと迫る。

「それよりわかってる? 七海が僕にどれだけ残酷なことをしようとしているか。七海に断られたら僕は好きでもない女と結婚することになる。一生、七海を想い続けたまま別の女を抱かなければならないんだ。本当に申し訳ないことをしたと思ってるなら、罪滅ぼしに僕と結婚してよ」

 七海は困惑を露わにする。

 彼女は責任感が強い。こういう言い方をすれば断りづらくなることはわかっている。だからこそ言うべきではないし言わないようにしていた。彼女の気持ちを無視して縛り付けることになるからだ。

 しかし、その気持ちが自分にあるとわかれば話は別である。どんな手を使っても必ず承諾させてみせる——居住まいを正し、胸元に上掛けを当てたままの七海と膝をつきあわせる。

「七海、僕と結婚してくれるよね?」

「……後悔したって知らないからな」

「しないし、させないよ」

 七海はじとりと睨むが、遥が両手を伸ばすと戸惑いつつも身を預けてくれた。上掛けが落ちて肌と肌が触れあう。やがてあたたかい手が遠慮がちに背中にまわされて、遥も抱きしめる手に力をこめた。

 

 ピンポーン——。

 心当たりのない真夜中のチャイムに、遥は思わず眉をひそめて怪訝な面持ちになった。コンシェルジュに何か頼んだ覚えもなければ、来客の予定もない。腕の中にいる七海も不安そうに顔を曇らせている。

「ちょっと出てくる」

「うん……」

 安心させるように微笑んでぽんと頭に手をのせると、床に落ちていた彼女のバスローブを身につけて玄関に向かう。ドアスコープから見えたのは、ホテルスタッフの制服を身につけた壮年の男性だった。

「呼んだ覚えはないんだけど」

「橘剛三様より承りました」

 男性スタッフがドアスコープから見える位置に移動させたワゴンには、ワインクーラーで冷やされたシャンパンが載っていた。そうか——遥は腕時計を確認してひとり静かにふっと笑うと、扉を開けた。

 男性スタッフが一礼してメッセージカードを差し出す。そこには思ったとおりのことが書き記されていた。遥はその場でワゴンごと受け取って男性スタッフを帰し、七海のいる寝室へと運んだ。

「それ、何?」

「シャンパン」

「えっ?」

 きょとんとした七海に、先ほどのメッセージカードを手渡しながら言う。

「二十歳の誕生日おめでとうって、じいさんが」

「あ……そっか……」

 七海はベッドサイドのデジタル時計に振り向いた。

 もう零時を越えている。つまり日付が変わって七月三日になったということだ。シャンパンは七海への成人祝いといったところだろう。メッセージカードにも祝いの言葉がシンプルにしたためられていた。

「これどうしようか?」

「飲みたい!」

 七海は目を輝かせて訴えた。

 遥はくすりと笑うと、用意されていた二つのグラスにシャンパンを注ぎ、ベッドに腰掛けてその一つを七海に手渡した。そろりと慎重な手つきで受け取った彼女は、興味深そうにグラスを覗き込む。

「成人おめでとう」

「ありがと」

 そう言葉を交わしたあと、遥がグラスを傾けるのをちらりと見て、七海も緊張ぎみにグラスに口をつける。喉が何度かこくりと動くのが見えた。

「どう?」

「うん、おいしい!」

 七海ははじけるような笑顔を見せて、そう答えた。

 二人とも喉が渇いていたこともあって、あっというまにボトルを空けてしまい、もう一本追加した。それでも七海はなぜか一向に酔う気配がなく、不覚にも遥のほうが先に酔いつぶれて寝てしまったのだが、それは二人だけの秘密である。

 

第30話 事の真相

 

「本当にすまなかった」

 翌日の夜、ようやく許可が下りて七海とともに帰宅すると、剛三から事件についての説明と謝罪を受けた。応接セットの向かいから深々と頭を下げる当主の姿に、七海はおろおろと困惑を露わにする。

「別に剛三さんが悪いわけじゃないし……僕も無事だったから……」

「今後、誰であろうと二度と七海に手出しはさせない。約束しよう」

「あ、はい……」

 謝罪を受ける側が、謝罪する側の必死さに気押されていた。

 ただ、遥としてはこれでもまだ足りないくらいだと思っている。悪気がなかったとはいえ、彼の軽率な言動のせいで七海はならず者に辱められ、あやうく取り返しのつかない事態になるところだったのだ——。

 

 事の発端は、先日行われた懇親会だった。

 剛三を含め七人の財界人が高級料亭に集まった。みな旧知の間柄だが、仕事以外で酒を酌み交わすのは久々で、すこし気が緩んでいたのかもしれない。いつになく遠慮のない話題が多かったという。

「そういえば、遥くんが近々見合いをするともっぱらの噂ですが」

「あれは私の姉が先走っているだけだ」

 思い出したように遥の見合い話を振ってきたのは、隣の藤澤だった。剛三はにわかに変わった話題を不審に思うこともなく、冷酒を口に運び、空になったお猪口を漆塗りの座卓に置いて溜息をつく。

「単なるおせっかいか何か思惑があるのか知らんが、勝手に遥の見合い相手をあれこれ見繕ってきてな。だが、あいつの思いどおりにはさせんよ。見合いをさせるにしても相手は私が選ぶつもりだ」

 大伯母の持ってきた身上書や写真は受け取ったが、あくまで参考にするだけで、その中から選ぶと決めたわけではなかったのだ。それに、七海の誕生日まではきちんと待つ気でいたという。

 藤澤は徳利を手に取り、剛三のお猪口に冷酒をつぎながら尋ねる。

「でも、遥くんには長年の恋人がいるという噂を聞きましたけど……その……」

「指輪なら偽装だよ。女に言い寄られるのが面倒で、幼なじみに頼んで恋人のふりをしてもらっているだけだ。同性愛者だと思われれば寄ってこないと考えたらしい。まったく頭がいいのか悪いのかわからんな」

 これまでペアリングの話はのらりくらりと躱してきたが、今回は意図的に暴露した。七海と結婚するにしろ、見合い結婚するにしろ、そろそろ噂を払拭すべき時期に来ているとの判断である。

 目論見どおり、藤澤だけでなく同席している他の面々も興味を示した。あえて二人の会話に加わろうとはしないものの、好奇のまなざしを向け、聞き逃せないとばかりに耳をそばだてている。

「では、その、同性愛者というのは事実ではないと」

「昔からうちの里子に骨抜きにされておるよ」

 藤澤に確認され、剛三はからりと笑い飛ばすように答えた。

 里子については特に隠しているわけではないし、懇親会などで何度か話題にもしているので、年若い女性であることくらいは藤澤も知っている。

「なるほど、それで女性との噂がなかったのですな」

「そういうことだ」

 遥に女性との浮いた噂がなかったのも、目撃情報がなかったのも、ひとつ屋根の下でひそかに交際を続けていたから——藤澤だけでなく、まわりもみな腑に落ちたような顔をして頷いた。

「では、その子と結婚ということに?」

「そうさせてやりたいのは山々だがな」

「まあ血筋もわからない孤児ですしね」

「いや、それは問題ではない」

 藤澤の発言はいささか思慮分別を欠いたものであったが、相手の家格や素性などの理由で結婚を認めないことは、名家ではめずらしくない。しかしながら剛三はきっぱりと否定した。

「では、何が……」

「まだ七海の決心がつかんらしいのだ」

「ああ、本家の嫁になる自信がないと」

「どうだろうな」

 そっけなく流し、お猪口につがれた冷酒を一気に呷る。

「近いうち、あの子に本当の気持ちを聞いてみようと思っておる。色よい返事がもらえればいいのだが……そうでなくても、私ができうるかぎりの説得を試みるつもりだ」

 約束の期限が過ぎたら本当にそうするつもりだったという。遥のことが嫌いだというならあきらめるしかないが、他の理由なら全力で説得し、結婚を承諾してもらおうと考えていたらしい。

「あなたなら説得などたやすいでしょう」

「いや、あの子の頑固さは筋金入りでな」

「ははは」

 藤澤は愛想笑いを浮かべながら、空になった剛三のお猪口に再び冷酒をついだ。しかしその目はすこしも笑っていない。獲物を見つけた獣のように鋭い光を放ち、剛三を窺っている。

「……万が一うまくいかなかったときは、私の孫娘を嫁に考えてもらえませんか。身内の私が言うのも何ですが、器量がよくて、教養もあって、慎ましやかで、遥くんにも気に入っていただけるかと」

「そうだな、悪くないかもしれん」

 藤澤の申し出からはあからさまなくらい下心が透けて見えた。前々から橘財閥とつながりを持とうと躍起になっていたのだ。絶好の機会を前にしてなりふり構っていられなかったのだろう。

 確かに橘と姻戚関係を結べば多少の忖度はあるかもしれない。だが、藤澤がどこまで承知しているのかはわからないが、親族であれ、姻族であれ、剛三自身がビジネスで特別扱いすることはないのだ。

 ただ、そのことさえきちんと了承してくれるのであれば、彼の申し出を受けるのもやぶさかではない。もちろん当事者である遥の意向を最優先にするが——そう剛三は考えていたという。

 それなのに藤澤はやりすぎた。弁護士を差し向けて交渉するだけならまだしも、ならず者を使って暴行させようなど犯罪以外の何物でもない。うまくいくと思っていたのなら舐められたものである。

 剛三は軽率だったと反省しきりだ。少なくとも七海と特定できる形で言うべきではなかった。まだ婚約に至っていないのなら、排除しようとする輩が出ることも十分考えられるのだから。

 とはいえ、さすがにあそこまでの行動を起こすとは想像もつかないだろう。それなりに親しくしている旧知の相手ならなおのこと。口にしなくても裏切られたという思いはあるかもしれない。

 

 ちなみに、向かいにいた越智と八重樫という二人からも迷惑を被っている。富田に平手打ちを食らわせて泣きわめいたのが越智の孫娘で、七海にアイスティーをぶっかけたのが八重樫の孫娘だったのだ。

 ただ、二人とも単なる世間話のつもりで、焚きつけてはいないという。

 越智の孫娘はすでに名家の三男と見合い結婚しており、八重樫の孫娘にも条件のいい縁談が持ち上がっているので、確かにいまさら意味がない。孫娘本人の暴走と考えるほうが自然だろう。

 

「あの、犯人はどうなったんですか?」

 七海は不安そうな顔をしておずおずと切り出した。

 彼女からすれば謝罪よりもそちらのほうが切実な問題である。自分を襲った犯人が野放しになっていたら心配でたまらないだろう。逃げるときに重傷を負わせたことで報復される恐れもあるのだから。

 遥があからさまに物言いたげなまなざしを剛三に向けると、彼は心得ているとばかりに目だけで頷いてみせた。そして気付かれないようすぐさま七海に視線を移し、誠実な声で答える。

「実行犯二人は警察に突き出した。他にもいろいろと重罪を犯しておるようだから、長期の実刑は免れんだろう。依頼主である藤澤のほうは警察沙汰にするのが難しい。しかし橘に喧嘩を売った報いはきっちりと受けてもらう。二度とこんなことをする気は起きなくなるはずだ。それで構わないか?」

「はい……」

 彼女はようやく安堵の表情を見せた。

 実際には、七海の拉致監禁および強姦未遂については事件化されない。事情聴取や証言などで七海にさらなる負担をかけるし、何より世間に知られてしまう危険があるので、見送ることにしたのだ。

 もちろん実行犯二人を野放しにしているわけではない。ひとまずしかるべきところに身柄の拘束を頼んである。法に触れることを数多く請け負っていたようなので、正式な逮捕も時間の問題だろう。

 藤澤のほうを警察沙汰にしないのも同じ理由である。だからといってただで済ますつもりはない。藤澤の会社を窮地に追い込むことも、藤澤を社会的に抹殺することも、剛三がその気になれば可能なのだ。

「僕も七海を守るから安心して」

「ありがと」

 剛三も留意するだろうが、誰よりも近いところで守れるのは自分しかいない——その思いを胸に、隣の七海を見つめながら真摯に告げると、彼女は気恥ずかしげにはにかんで頷いてくれた。

 そんな二人にじっと目を向けたまま、剛三は真剣な顔になる。

「七海……結婚のことだが、本当に遥と一緒になるということでいいのかね。しっかりと考えたうえでの結論なのかね。もし場の雰囲気に流されてしまっただけなら、撤回しても構わんのだぞ」

「撤回……」

 七海はおぼろげにつぶやく。

 おそらくあさっての方向に思考を飛ばしているのだろう。本当は撤回を望まれているのではないか、撤回しなければならないのではないかと——剛三もおおよそのところを察したらしい。

「誤解させたのなら謝るが、私自身は七海が結婚相手であることに何の異存もない。まあ親戚連中にはこころよく思っていないものもいるだろうし、嫌味くらいは言われるかもしれんが、当主である私が認めているのだから堂々としていればいい」

 諭すようにそう告げて息をつき、本題に入る。

「私が確認したかったのは、しっかりと自らの意思で結婚を決めたかどうかだよ。流されて何となく結婚して、後悔するようなことにはなってほしくない。七海を大切に思っているからこそ尋ねているのだ」

 七海は身じろぎもせず聞いていた。

 話が終わると、気持ちを落ち着けるように小さく息をつき、すっと静かに表情を引きしめた。そのまま目をそらさず、まっすぐ挑むように剛三を見据えて答える。

「僕は遥が好きだし、遥としか結婚する気になれないから」

 迷いのない凜とした声だった。

 息を詰めていた遥は、それを聞いて全身から力が抜けるくらいほっとし、同時に胸が焦がれるように熱くなるのを感じた。少なからず遥に流される形で結婚を了承したという経緯もあり、もしかしたらと心配していたのに、まさかこんなにも熱烈な言葉を聞かされることになるなんて。

「わかった。それでは結婚の話を進めることにしよう」

 剛三も安堵をにじませていた。すっかり冷めているであろう紅茶に口をつけると、静かにティーカップを戻し、ソファの背もたれに身を預けてふうと息を吐き出す。

「これで幾分か肩の荷が下りたな」

「……ご面倒をおかけしました」

 彼がずっと気にかけてくれていたことはわかっている。言葉こそ辛辣だったが、このこじらせまくった初恋が成就するよう願ってくれていた。それゆえ遥の不甲斐なさにあきれたことも一度や二度ではなかっただろう。

「七海を大切にするのだぞ」

「はい」

 言われるまでもない。

 だが、名目だけとはいえ里親である彼には言う権利があるし、言わずにはいられない気持ちも十分に理解しているので、居住まいを正して受け止める。すると——。

「僕も遥を大切にします」

 隣で七海が力強く宣言した。

 一瞬、遥は虚を突かれて目を見開いたものの、すぐにふっと表情をゆるめる。いつもの負けず嫌いを発揮しただけかもしれないが、それでも嬉しかった。きっと自分の発言には責任を持ってくれるだろう。

 視線に気付いたのか七海がこちらに振り向いた。遥がにっこりと微笑みかけると、彼女はすこし照れたようにはにかむ。そんな二人を、剛三はいつになく優しい目をして見守っていた。

 

 

Part.5に続く。

 

 

 


 
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