No.919844

機械仕掛けのカンパネラ Part.4【完】

瑞原唯子さん

お父さんを殺した男を殺すんだ、七海のこの手で——。
淡い月明かりに照らされた静謐な夜、父親が惨殺された。
幼い七海は復讐を誓う。
父親の親友で七海の親代わりとなった拓海とともに。

2017-08-25 10:12:59 投稿 / 全7ページ    総閲覧数:681   閲覧ユーザー数:681

第19話 身寄りのない少女

 

 ぐす……すん……。

 七海は後部座席で武蔵にもたれながら、ずっとすすり泣いている。

 二人とも血と雨でどろどろに濡れてひどい有り様だ。座席どころか足下まで大きく染みが広がっている。そこに転がっている父親の形見ともいえるイルカのぬいぐるみも、元の色がわからないくらいに汚れている。

 武蔵の肩の傷にはタオルがあてがわれているが、まだ完全に血が止まっていないようで赤く染みてきている。顔はひどく青白く、息も苦しそうだ。それでも七海を守るように抱き寄せてくれている。

 ただ、濡れているせいか出血のせいかわからないが、触れているにもかかわらず体温が感じられない。肩にまわされた腕も次第にぐったりとしていく。かすかに伝わる鼓動と呼吸だけが望みだった。

 フロントワイパーがせわしなく往復する。

 助手席の遥はちらちらと後部座席を覗っていたが、やがて急いでと声をひそめて隣に指示を出す。執事の櫻井は緊張した面持ちで頷き、信号を守りながらも脇道に入って速度を上げた。

 

「ん……ぅ……」

 七海が目を覚ましたのは、あたたかくやわらかいベッドの上だった。

 隣には武蔵がいた。上半身は裸のようで、肩に巻かれた白い包帯が上掛けから覗いている。素肌に触れてみるとほんのりとあたたかく、静かに寝息を立てているのもわかる。生きてるんだとほっと息をついた。

 もぞもぞと彼に身を寄せ、寝る前のことをぼんやりと思い返す。

 橘の屋敷に帰るとすぐにシャワーを浴びるよう言われた。べっとりとついた血や泥の汚れを落とし、新しい衣服に着替えてバスルームを出ると、ソファにいた遥においでと手招きされて向かいに座った。武蔵は別室で傷の手当てを受けている、もうすぐ食事の準備ができるから食べよう——そんな話をされたことは覚えている。

 しかし、そこから先の記憶がない。

 おそらくソファに座ったまま眠ってしまったのだろう。そうであれば、誰かがベッドに運んでパジャマに着替えさせたことになる。武蔵だったらいいが、ひどい怪我をしているのだから違うような気もする。

 そもそもどうして武蔵と一緒に寝ているのかもよくわからない。けれど、おかげで目を覚ましてすぐに彼が無事だとわかったし、彼のぬくもりを感じて安心できたのだから、七海としてはありがたかった。

 ふいに拓海のことが頭をよぎる。

 死にたければ勝手に死ね——そう言い捨てた武蔵とともに一度はその場を去ったが、嫌な予感がして戻ったら本当に拳銃自殺しようとしていた。すんでのところで止めたものの、その後のことはわからない。

 父親を殺したのは拓海だと知って、ずっと自分を騙していたとわかって、言い表すことができないほどショックだった。彼なりの事情があったにしても許す気にはなれないし、一緒に暮らすのはもう無理だと思う。

 だからといって死んでほしくはない。

 四年半ほど一緒に暮らして、嬉しいことも楽しいこともたくさんあった。憎めたら楽なのかもしれないが憎みきれない。親友を手に掛けた痛みを感じながら生きてほしい、それが素直な気持ちだ。

 

 ぐるぎゅるるるる——。

 布団の中で盛大におなかが鳴った。

 そのせいで思い出したように空腹を感じてしまう。頭を起こしてヘッドボードの時計を見ると、午後三時近くになっていた。ずっと寝ていたとはいえ、きのうの夕方から何も食べていないのだから、おなかが空くのも無理はない。

「七海の腹の虫はいつも騒がしいな」

 かすかな笑いを含んだ声がすぐ隣から聞こえた。振り向くと、武蔵が口もとを上げてこちらに目を向けていた。恥ずかしさにカッと顔が熱くなるのを感じながら、口をとがらせる。

「いつから起きてたんだよ」

「その音で目が覚めたんだ」

「嘘だ」

 いくらなんでもそこまで大きな音ではなかったはずだ。思いきり眉をひそめて抗議の意を示すと、彼は小さく笑い、もぞりと布団から手を出して七海の頭に置いた。その手にも白い包帯が巻かれている。

「俺も腹ペコだ。何か食べるものを用意してもらおうか」

「うん!」

 腹を立てていたことも忘れて、七海は破顔した。

 武蔵はすぐに体を起こしてヘッドボードの電話を取り、二人分の食事を頼む。相手の声は聞こえなかったがどうやら使用人のようだ。この部屋まで運んでくれることになったらしい。

 そのあいだ、七海は横になったままじっと彼の上半身を見つめていた。傷は白い包帯で覆われていて血もにじんでいないが、きのうのひどい出血を思い出してしまい、自然と眉が寄る。

「心配するな。俺は相当頑丈にできてるらしい」

 視線に気付いたのか、彼は受話器を置くと冗談めかしてそう言った。

 確かに意識が朦朧としていたきのうよりは良くなったのだろうが、まだ動作は多少ぎこちなく見える。七海を不安にさせないよう無理をしているのかもしれない。そう思うと何を言えばいいのかわからなくなり、ただ小さく頷くしかなかった。

「食事が来るまえに着替えよう。七海の服はそこだ」

「うん」

 武蔵が指さしたのはベッド脇の椅子だった。きのうシャワーのあとに着ていた服が無造作に投げ置かれている。彼がベッドから降りてシャツに袖を通しているのを見て、七海も急いで着替え始めた。

 

「おいしい!」

 丸テーブルに用意された食事を一口食べるなり、七海は声を上げた。

 ハンバーグがびっくりするくらいやわらかくてじゅわっとしている。コーンスープも濃厚で自然な甘みがあり、サラダもみずみずしくドレッシングが絶妙で、ごはんももっちりふっくらとしている。

 コンビニのハンバーグ弁当もおいしくて気に入っているが、まるで次元が違うように感じた。武蔵のところで食べたスパゲティといい、世の中にはそういったものがまだたくさんあるのかもしれない。

 空腹だったこともあり、口のまわりにソースがつくのも厭わず頬張っていく。隣の武蔵がその様子を見ながらくすりと笑った。彼もおなかが空いていると言っていたが、がっつくことなく行儀よく食べている。

「あー、おなかいっぱい!」

 ごはんもコーンスープもおかわりして、食後にはプリンも食べて、おなかはパンパンになっている。動くのも苦しいくらいだ。こんなにたくさん食べたのはいつ以来か思い出せない。

 武蔵もおかわりこそしなかったものの完食していた。左手をナイフで切られているうえ肩も撃たれているが、食事をするのにさほど支障はなかったようだ。氷の入ったグラスの水を飲んで一息つく。

「七海は普段どんなものを食べてたんだ?」

「コンビニのお弁当とかお菓子とかだけど」

「そうか……」

 何気ない会話のあと、彼は急に表情を曇らせてうつむいた。

 七海はどうしてそんな顔をするのかわからずきょとんとしたが、すぐに話題が変わり、かすかに浮かんだ疑問は意識する間もなく霧散してしまった。

 

「よかった、元気そうだね」

 食事を終えてノートパソコンに向かっている武蔵の隣で、特にすることもなくソファに身を預けてうとうとしていると、遥が部屋に入ってきた。学校の制服らしきブレザーを身に着けている。

「学校、行ってるの?」

「今日は平日だからね」

「学生だったんだ」

「高校生。見えない?」

「うーん……」

 言われてみればそのくらいの年齢に見えなくもないが、とても学生とは思えなかった。まじまじと観察して首をひねるものの、彼は気にする様子もなく向かいのソファに腰を下ろす。

「七海、これからのことだけど」

 ドキリと鼓動が跳ねた。

 拓海のところにはもう戻らないと決めていたが、それ以上のことは何も考えていなかった。どうしたらいいのかと不安でそわそわしながら、感情の読めない遥の顔を見つめて続きを待つ。

「まずは戸籍回復の手続きを取ろうと思う。死んだことになっている戸籍を復活させるんだ。そうすればもう隠れて暮らさなくてもよくなるし、他の子と同じように普通に生きられるよ。手続きはこっちでするから任せてほしい」

「うん」

 そんなことができるなんて考えもしなかった。

 隠れて暮らしていたのは死んだことになっていたからだ。買い物には出ることは許されていたが、許可された時間帯だけで、近所の店も避けなければならなかった。誰かと個人的に親しくなることも許されなかった。そういうことが全部自由になるならいいなと思う。

「それから、七海にはうちで暮らしてもらおうと思う」

「えっ……なんで……?」

「君のお父さんが亡くなったことに武蔵が関わっているのなら、うちの責任でもあるからね。成人するまで面倒をみようということになったんだ。学校にもきちんと通えるようにする」

 そういえば、武蔵に遥との関係を尋ねたら親戚だと言っていた。うちの責任というのはつまりそういうことなのだろう。でも——硬い表情でうつむき、膝に置いた小さな手をゆっくりと握っていく。

「ここで暮らすなんて嫌だ」

「どうして?」

 さらりと聞き返されるが、いろんな感情が絡み合って自分でもよくわからない。嫌なことはたくさんあるのにうまく説明できない。汗ばんだこぶしを握りしめて顔をうつむける。

「知らない人がいっぱいだし」

「心配しなくても、七海ならすぐにみんなと仲良くなれると思うよ。どうしても合わない人とは無理に仲良くしなくてもいいし、もし何かあったら、僕に言ってくれればできるかぎり対処するから」

 思いのほか真摯に答えてくれたことに驚くものの、納得したわけではない。すぐに仲良くなれるなんて子供だましの気休めだ。それに——じとりと上目遣いで睨みつつ口をとがらせる。

「そもそも遥が怖いんだけど」

 ぼそりと言うと、彼はおかしそうにくすりと笑った。

「そういえば七海との出会いは最悪だったね。でも、不審者相手じゃなければあんなことはしないよ。あんまり優しくはないかもしれないけど、話は聞くつもりだし、言いたいことがあれば遠慮なく言ってほしい」

「うん……」

 まだここで暮らすことを了承したわけではないが、遥ならちゃんと話を聞いてくれるかもしれない、無理強いしないかもしれない、そんなふうに彼をすこし信頼する気になった。けれど——。

「まだ嫌なことや心配なことがある?」

「……学校には行きたくない」

「残念だけどそれは聞き入れられない。七海は義務教育を受けるべき年齢なんだ。いままでは死んだことになってたから学校へ行けなかったけど、生きていることがわかったからには行かせないわけにはいかない」

 淡い期待は打ち砕かれた。

 七海としては、この屋敷で暮らすより学校へ行くほうが怖かった。父親がいたころは小学校に入学することを楽しみにしていたし、普通に入学していたら楽しい学校生活を送っていたかもしれないが、いまさら知らない集団に放り込まれるのは恐怖しか感じない。

「じゃあいいよ、ひとりで生きてくからほっといて」

「子供の君がどうやってひとりで生きていくの?」

「働いてお金を稼げばいいんだろ」

「働くにしてもまわりは知らない人ばかりだけどね」

「…………」

 頭の中がまっしろになった。

 遥は淡々と畳みかける。

「七海は長いあいだ二人きりの閉じた世界で暮らしてきたから、集団生活を怖がるのは当然かもしれない。でも克服しないことにはまともな社会生活を送れない。いまは子供だからいいけど、大人になったらそれでどうやって生きていくつもり?」

「おまえ、子供相手にそんな厳しいこと言うなよ」

 それまで黙ってなりゆきを見守っていた武蔵が、我慢しきれなくなったのか、非難するように眉をひそめて口を挟んだ。しかし、遥はすこしも表情を変えることなく反論する。

「厳しくても七海が知るべき現実だよ」

「でも言い方ってものがあるだろう」

「婉曲に言うと伝わらないんじゃない?」

「それは、そうかもしれないが……」

 武蔵は渋い顔で言いよどみながら腕を組んだ。小首を傾げて考え込んでいたかと思うと、ふいに何か思いついたような顔をして、正面の遥に目を向ける。

「しばらく俺に七海を預からせてくれないか」

「…………」

 遥がわずかながら目を見開いたのがわかった。それでも表面上の冷静さは失っていない。挑むような鋭いまなざしで見つめ返して言う。

「それで、学校はどうするつもり?」

「すぐに行かせなくてもいいだろう」

 武蔵はそう答え、隣の七海をちらりと見やる。

「長いあいだ世間から切り離されてきたんだ。急激に環境が変わりすぎるのは良くないだろう。七海の気持ちもそんなすぐには追いつかないだろうし、徐々に慣らしていくのがいいんじゃないかと思う」

「僕もそれがいい、武蔵のとこで暮らしたい!」

 七海はローテーブルに手をついて身を乗り出し、必死に訴えた。

 こんな知らない人だらけの大きな屋敷で暮らすより、あの山小屋の方がずっといい。武蔵と二人きりなら安心できる。武蔵の作ったごはんもまた食べたい。そして何より学校に行かなくていいと言ってくれた——。

 遥はその思い詰めたまなざしから目をそらして、腕を組んだ。七海をどうするかについて真剣に考えているのだろう。迂闊に声を掛けられないくらい難しい顔をしている。やがて視線を上げ、身を乗り出したままの七海をじっと見つめて尋ねる。

「武蔵が原因でお父さんが殺されたって話だけど、いいの?」

「うん……それは武蔵が悪いわけじゃないし、恨んでないよ」

「わかった」

 そう言うと、溜息をついて静かに切り出した。

「武蔵の言うことは確かに一理ある。僕はちょっと急ぎすぎてたのかもしれない。七海の状況と年齢をもうすこし考慮すべきだった。七海が希望するなら、しばらくはリハビリってことで武蔵に預かってもらおうと思う」

「本当?!」

 七海は大きく目を見開いて顔をかがやかせた。勢いよくソファに腰を下ろして武蔵に寄りかかる。よかったな、と白い包帯を巻いた手で頭をなでられ、はじけるように満面の笑顔になって頷いた。

「武蔵、あんまり甘やかさないでよ」

「わかってる」

 遥は胡乱な目を向けるが、武蔵は気にする様子もなくさらりと受け流していた。

 七海には甘やかすということがよくわからなかったが、頭をなでたり笑いかけたりしてくれることなら、これからもずっと武蔵に甘やかされたいと思った。

 

 その三日後、武蔵の山小屋で二人きりの生活が始まった。

 

 

第20話 夢の終わり

 

「ごちそうさまでした!」

 七海は両手を合わせて元気よく声を弾ませた。

 今日の昼食は、ごはん、ぶりの照り焼き、豚汁、ほうれん草のおひたしだった。空になった二人分の食器を手早く集めてシンクに運び、泡立てたスポンジで洗っていく。

「なに? ちょっと邪魔なんだけど」

 ふいに何かがずっしりと肩にのしかかるのを感じて、口をとがらせる。それが武蔵の仕業であることは見るまでもなくわかった。彼は七海の肩にもたれかかるように腕をのせたまま、若干言いづらそうに切り出す。

「このあと海に行きたいんだけど、駄目か?」

「あれ、今日は本屋に行くんじゃなかった?」

「予定変更」

「それはいいんだけど、この真冬になんで海?」

「泳ぐわけじゃないぞ。眺めに行くだけだ」

「ん、わかった」

 そう答えた七海に、武蔵はありがとうなと大きな手をぽんと置いた。どうして礼を言われたのかわからずきょとんとするが、彼は曖昧に微笑むだけで、のんびりとした足取りで日の当たるリビングへと戻っていく。

 七海はシンクに向きなおると、泡のついた手で水道のレバーを上げ、食器をすすいでいった。

 

 武蔵と山小屋で暮らすようになってから、一年半が過ぎた。

 家にいるときの食事はいつも武蔵が手作りしてくれる。いままでずっとコンビニ弁当やお菓子ばかりだったと知り、うちではまともなものを食わせてやるからな、とやたら意気込んでいたのである。

 七海も手伝っているが、食器の用意をしたり、材料を出したり、野菜を洗ったり、皮を剥いたりとその程度だ。武蔵とわいわい言いながら準備をするのは楽しいけれど、役に立っているとは言いがたい。

 せめて、ということで後片付けだけは任せてもらっている。武蔵はそこまでしなくていいと言ってくれたが、七海が望んだのだ。拓海と暮らしていたときからしていたことなので、得意だという自負もあった。

 しかし、以前は食器が少なくてずいぶん楽だったのだと、ここで後片付けをするようになって初めてわかった。今は食器が多いうえに鍋やフライパンもあってなかなか大変である。ガスコンロやレンジもきれいにしなければならない。それでも、続けていくうちにだいぶ手慣れてきたのではないかと思う。

 

「よしっ!」

 きれいになったシンクやガスコンロを見て、腰に両手を当てて頷く。

 武蔵はもう出かける準備をすませているようだった。七海も急いで準備をする。お気に入りのセーターとショートパンツに着替え、その上に厚手のブルゾンを重ねて真冬仕様にした。黒の靴下は膝上まであるので脚もあたたかい。

「準備できたか?」

「うん」

「じゃあ、行こう」

 武蔵が投げてよこした小さめのヘルメットを、七海がキャッチする。いつものことなので慌てたりはしない。彼とともに山小屋を出ると、うきうきしながらバイク置き場に向かった。

 

 こんなふうにのんびり遊びに出かけられるのは、土曜日だからだ。

 平日の午前は屋内や屋外で体を動かすことになっている。軽いジョギング、腹筋や背筋、縄跳びなどをすることが多い。最近では、護身術や格闘術も武蔵に教えてもらうようになった。

 そして午後はみっちりと嫌になるくらい勉強させられている。それも橘の用意した男性家庭教師にずっと付かれたままで。教えるのは上手いが、冗談さえ通じない堅物なのでどうにも息苦しくて仕方がない。

 しかし、土日は学校と同じように休みだ。

 せっかくなので、よほどの荒天でないかぎりは遊びに出かけていた。武蔵と二人きりのこともあれば、遥が一緒のこともある。そのときは、必ずといっていいほど武蔵の姪のメルローズもついてきた。

 彼女は幼いころに拉致されて行方不明になっていたものの、二年ほどまえに武蔵に救出され、今は橘財閥会長で遥の祖父でもある橘剛三の養女となっている。こういう境遇のせいか、単に可愛いからか、みんな彼女にはすこぶる甘い。

 実際、甘やかされるのがよく似合う綿菓子みたいな子だ。やわらかそうな白い肌、小さな唇、赤みがかった髪と瞳、細くすらりとした手足、どれをとってもお人形みたいである。七海のひとつ年下とは思えないくらい外見も中身も幼い。

 そんな彼女のことを七海はすこし苦手に感じていた。武蔵の姪だから仲良くしなければと思っていたが、彼女が甘えているのを見るとイライラするし、甘やかされているのを見るとモヤモヤしてしまう。

 だから、こうやって武蔵と二人きりで出かけられるのがいちばん嬉しい。バイクに二人乗りをして、彼の大きな体に腕をまわしてしがみつき、その体温をひとりじめしていると、心から安心していられた。

 

「あれ、ここって……」

 バイクの後部座席から降りてヘルメットを取り、潮風を感じながら正面の景色を目にすると、不思議と懐かしい気持ちになった。どこかで見たことがあるような気もするが、思い出せない。

「そうか、七海は来たことあるかもしれないな」

 ふと、武蔵がフルフェイスのヘルメットを置きながらつぶやいた。しかし、少なくとも彼と一緒にここへ来たことはないはずだ。七海はわけがわからず怪訝に眉をひそめて振り向く。

「どういうこと? なんで武蔵が知ってるわけ?」

「以前、この辺に住んでたって俊輔に聞いたんだ」

「そうだったんだ……」

 おそらくマンションに転居する前のことだろう。

 幼かったせいかそのころの記憶は曖昧である。薄汚れた狭いアパートにいたことはぼんやりと覚えているが、日々の出来事はあまり思い出せない。印象に残っているのは拓海が遊びに来たことくらいだ。

 でも、この浜辺に連れてきてもらったことはあったのだろう。懐かしく感じるということはきっとそうなのだ。住んでいたアパートがどのあたりかはわからないが、近くなら何度も来ていたかもしれない。

 武蔵が砂浜へ続くコンクリートの階段を下りていく。七海も小走りであとを追った。砂浜に入ると足がとられて途端に歩きづらくなるが、それでも遅れないように必死についていく。

 武蔵の足が止まった。まっすぐ前を向いてわずかに目を細め、遙か彼方まで広がる海原を眺めている。いいのかな、と七海はすこし迷いを感じながらも、邪魔をしないようそろりと隣に立った。

 こっそりと彼を見上げる。

 七海の背丈はあれから15センチほど伸びているものの、彼にはまだ全然届かない。それでも顔はすこし近くなっているように感じる。遠くに向けられている青い瞳が、色彩のない薄曇りの中でやけに鮮やかに見えた。

 ザザーン——。

 周囲に人影はなく、寄せては返すゆったりとした波の音しか聞こえない。心が落ち着くようなどこか懐かしい音だ。ゆるやかな潮風に、昔よりすこし伸びたボブヘアがさらさらと揺れる。

「ここな、俊輔と初めて出会ったところなんだ」

「えっ?」

 驚いて目をぱちくりさせた七海を見て、武蔵は薄く微笑む。

「俺は意識をなくしてたから覚えていないが、この海岸に漂着して倒れていたのを、最初に見つけたのが俊輔だったらしい。あいつは救急車を呼ぼうとしたけど、直後に来た真壁拓海が止めた。俺はそのときに捕らえられて監禁されたんだ」

 具体的な話を聞いたのは初めてだった。

 わざわざ他県の遠い海へ連れてきたのはこのためだろうか。いまさらどうしてこんなことをしようと思ったのかはわからないが、彼なりに考えがあるはずだ。とりあえず最後まで聞こうと無言のままじっと耳を傾ける。

「俺の監視係のひとりが俊輔だった」

 武蔵は懐かしむようなまなざしで遠くを見やった。

「あいつだけは俺をひとりの人間として扱ってくれた。いつも俺を気遣ってくれた。俺に日本語を教えてくれて、俺が日本語を理解するようになると、いろんなことを話してくれた。だいたい俺と同じ年齢だってこと、両親がいないってこと、結婚したけど妻を亡くしたこと、そして可愛い娘がいるってことも」

 そう言うと、意味ありげな笑みを浮かべて振り向いた。七海はドキリとして頬が熱くなるのを感じたが、気が付かなかったのか気にしなかったのか、彼はすぐに表情を消して藍色の海に向きなおった。

「だから俺もいろいろ話した。ずっと向こうの海底にある国から来たこと、潜水艇で浮上すると待ち構えていたように爆撃されたこと、この国へはいなくなった姪を探しに来たこと、姪は多分この国の人間に拉致されたんじゃないかってこと」

「え……海底にある国……?」

「水中に住んでるわけじゃないぞ」

 武蔵は苦笑まじりに言う。

「説明は難しいが人工的に空間を作ってるって感じだな。みんな地上とそんなに変わらない生活をしている。空も太陽もあるし、一般人は海底だなんてことは知らない。まあ、信じられない話だろうけど」

「信じるよ」

 七海は迷わず答えた。

 武蔵がいまさらそんな嘘をつくとは思えない。その国がどうなっているのかはまだ理解しきれていないが、実際にそんな未知の国があるのだとしたら、武蔵の存在自体が国家機密という話も何となくわかる気がする。

「ありがとうな」

 武蔵はやわらかい笑みを浮かべて、話を進める。

「七海と同じように、俊輔もその荒唐無稽な話を真剣に聞いてくれてな。さらわれた俺の姪が自分の娘と同じくらいの年齢だと知ると、ますます同情してくれるようになった。頼んでもいないのに脱走計画を立ててくれて。俺は危ないからやめろと何度も言ったんだが、あいつは上手くやるから心配ないって」

 うん、お父さんはそういう人だった——。

 人懐こくて、優しくて、お人好しで、おせっかいで、困っている人がいれば懸命に助けようとする。たとえ何の得にならなかったとしても。

「で、俊輔の計画通りに脱走したのはいいが、あいつが大丈夫なのか心配になってな。明かりがついているかだけ確認しようと、マンションまで行ったんだ。でも明かりは消えていた。嫌な予感がして部屋まで行ってみると刺されていて……七海に見つかったのはそのときだ」

「うん……」

 すこし涙ぐむと、ふいに優しく頭を引き寄せられた。

 あのとき目にした光景はあまりにも鮮烈で、強烈で、いまでもときどき思い出してゾクリとするけれど、いまはもう武蔵が犯人じゃないと知っている。だから安心してそのぬくもりに身を預けていた。しかし——。

「七海……そろそろお別れだ」

「えっ?」

 一瞬、何を言われたのかよくわからなかった。ゆらりと顔を上げて武蔵を見つめる。その視線の先で、彼は物寂しげにうっすらと微笑んでいた。

「来週から、七海は橘の家で暮らすことになる」

「そ、んな……」

 ガツン、と鈍器で頭を殴られたような衝撃に襲われた。

 ぐわんぐわんと気持ち悪いくらいに脳内が揺れている。とても何かを考えるどころではない。目の焦点が合わずよろめきそうになりながら、それでも必死にふるふると首を横に振った。

「いやだ……武蔵が……武蔵と一緒がいい……」

 震える声で縋る七海に、彼は追い打ちをかけるように残酷な言葉を紡ぐ。

「春からは中学に通わないといけない」

「いやだっ!!」

 わああああ、と大きな体にしがみついて火がついたように泣きじゃくった。何度も何度も固い胸板をこぶしで叩く。彼は黙ってそれを受け止め、気遣わしげに七海の頭に手を置きながらも、ごめんとしか言ってくれなかった。

 

 すん……。

 泣き疲れても、涙は止まることなく静かにあふれ続けている。武蔵の服を濡らしてしまったことを気にしながらも、ぐったり寄りかかっていると、頭に置かれていた手にすこし力がこもるのがわかった。

「七海、会えなくなるわけじゃないんだ。ときどき様子を見に行くし、何か困ったことがあったら俺に言ってくれてもいい。休日はまたどこか遊びに行ったりしよう、な?」

「……うん」

 七海は力なく返事をする。

 いつしかこの幸せな日々が永遠に続くかのように錯覚していたが、本当はわかっていた。武蔵との暮らしはあくまで一時的なもので、いずれ橘の家で暮らすことになるのだと。

 嫌な現実を無意識に頭から追い出していたのかもしれない。あるいは夢を見ていたのかもしれない。だけど夢は夢でしかなかった。これからは現実と向き合っていかなければならない。

 そのことを考えると怖くて苦しくてたまらなくなる。せめていまだけは何も考えずに武蔵に甘えていたい。彼に抱きついてほのかな体温を感じ、寄せては返す波の音を聞きながら、そっと涙に濡れた目を閉じた。

 

 

第21話 うそつき

 

「おかえり」

 日が沈みかけて薄暗くなってきたころ、武蔵と七海がバイクで帰ってくると、山道への分岐点で遥が待ち構えていた。傍らには黒いセダンが停まっている。その運転席には白い手袋をした男性が座っているようだ。

 武蔵はバイクに跨がったままフルフェイスのシールドを上げ、驚いたように遥を見た。

「来るなら電話くれればよかったのに」

「邪魔するのも悪いと思ってさ」

 遥は軽く肩をすくめる。

 いつから待っていたのかとすこし心配になったが、予定もわからないまま朝から来たりはしないだろう。武蔵はどこに出かけてもたいてい日沈前に帰ってくる。だから、待たずにすむようこの時間を狙って来たのかもしれない。

 しかし、いままで連絡もなしに来たことは一度もなかった。まさか自分を連れて行くために、不意打ちで——七海は表情を硬くする。武蔵には来週からだと聞いていたので、まだ心の準備ができていない。

「で、何の用なんだ?」

「後部座席を見てよ」

 遥は傍らの黒いセダンを示しながら答える。

 武蔵はエンジンを止めると、七海とともにバイクから降りてヘルメットを外し、怪訝な面持ちで後部座席のほうに足を進めた。ガラスが黒っぽくて中がよく見えなかったが、近づくとゆっくりとそのガラスが下がっていく。

「……レオナルド!」

 後部座席には三人の男性がいた。両端の二人はスーツを着た体格のいい男性で、中央は口にテープを貼られて拘束衣を着せられた金髪碧眼の男性だ。武蔵の視線はその中央の男性にそそがれている。

 彼のほうも武蔵を目にして驚いたようだ。何か言いたそうに顔をしかめて体をよじるが、口にテープを貼られているので言葉にならない。隣のスーツを着た男性に腕を掴まれて動きを止めた。

「やっぱり知り合いだったんだ」

「どういうことだ?」

 武蔵が眉をひそめて振り向くと、遥は助手席の扉に軽く寄りかかり、腕を組んだ。

「彼ね、小笠原沖で潜水艇に乗って出てきたところを公安に捕らえられたんだ。そのとき武蔵の写真をいくつか持っててさ。おまけに僕と澪の似顔絵まで持ってたもんだから、うちに話がまわってきたってわけ」

「なるほど、サイファさんのしわざか……」

 武蔵は難しい顔でそうつぶやき、遥に目を向けた。

「こいつは親戚だ。話をさせてくれないか」

「もちろん、そのつもりでここに連れてきたからね。彼の言葉がわかるのは武蔵だけだろうし。ただし二人きりにはできない。公安が同席して、本部とビデオ通話をつなぐことになる」

「それで構わない」

 七海は黙って二人の会話を聞いていた。

 わからない話もたくさんあったが、この拘束衣の男性が武蔵の親戚であることだけは理解した。それほど顔は似ていない気がするが、瞳の色はよく似ている。髪も武蔵が染めるまえと同じ金髪だ。

 そんなことをぼんやり考えているうちに、公安職員と思われるスーツを着た男性のひとりが、後部座席から降りて拘束衣の男性を肩に担いだ。武蔵の山小屋で話をすることに決まったようだ。

「悪い、七海はここで遥と一緒に待っててくれないか。いや、ここじゃなくて喫茶店とかでゆっくりしてきてもいい。ちょっと込み入った話になりそうなんだ」

「うん、わかった……」

 得体の知れない不安が胸に湧き上がるが、あまり困らせたくないので素直に頷いた。あのひとは敵じゃなくて親戚だし、話をしてくるだけだから大丈夫なはず、と自分自身に言い聞かせる。

 武蔵は真剣なまなざしを遥に向けた。

「じゃあ、七海を頼む」

「わかった」

 その返事を聞いて頷くと、バイクを押して歩きつつ公安職員の二人を促した。一人は拘束衣の男性を肩に担ぎ、一人は大きな鞄を持っている。七海は冷たい風に吹かれながら、その一行が細道をたどり山へ消えていくのを見送った。

 

「七海、どこに行きたい?」

「僕はここで待ってる」

 後ろから七海の両肩に手を置いて尋ねてきた遥に、前を向いたまま即答した。視線は山小屋の方を向いているが、いくら目を凝らしても見えないことは知っている。

「これからもっと寒くなるけどいいの?」

「遥は喫茶店に行ってくればいいじゃん」

「七海を置いていくわけにはいかないよ」

 そう返されてムッとしたが、遥はこう見えて意外と律儀で面倒見が良かったりする。武蔵に頼まれたからには置いていくことはないだろう。たとえ七海自身がひとりになりたいと願ったとしても。

「それなら遥もここにいるしかないよね」

「しょうがないな」

 七海の声には露骨な反発心がにじんでいたが、彼はすこしも不快そうな様子を見せず、軽く笑って肩をすくめた。

 

「はい」

 冷たいガードパイプに腰掛けていた七海に、遥はあたたかいペットボトルのお茶を手渡してきた。その手がじんじんと温まっていくのを感じながら、七海はさっそく一口飲んでほっと息をつく。

 遥も並んでガードパイプに寄りかかると、同じペットボトルのお茶を両手で持ち、山のほうに目を向けた。ちょうど日が落ちたところだろうか。空は急速に光を失い、山もひっそりと闇に包まれようとしている。

「武蔵から聞いた? 来週からうちで暮らすって」

「うん……どうしてもそうしなきゃダメなの?」

「七海がこの国でまともに生きていくためにはね」

「…………」

 遥はペットボトルのキャップを開けて一口飲むと、白い息を吐いた。まっすぐ山のほうを見つめたままわずかに目を細める。

「楽しいことだけで生きていけるほど、世の中甘くないよ」

 それは、多分そのとおりなのだろう。

 意地悪で言ったわけでないことくらいわかっている。いいかげん覚悟を決めなければと思うものの、どうしても嫌だと感じてしまう。橘の家で暮らすことも、学校に行くことも——。

「メルのことは嫌い?」

「……苦手」

 メルというのは、武蔵の姪のメルローズのことだ。

 これまで遥にも誰にも言ったことはなかったはずだが、見透かされていたようだ。彼女とはあまり話そうとしなかったし、冷たい態度をとったこともあるので、傍目にわかりやすかったのかもしれない。

 彼女は何も悪くない。七海が一方的に苦手意識を持っているだけなのだ。そのことを考えると、自分がとてつもなく嫌な人間になったような気がする。きっと遥にも懇々と説教されるのだろうと覚悟したが。

「じゃあ、学校で気の合う友達を見つけるといいよ」

 さらりとそんな提案をされて、拍子抜けする。

 メルローズのことをずいぶん可愛がっているのに、その彼女と仲良くできない七海に不満はないのだろうか。いつもは厳しいくせに、ときどき変なところで寛大なのがよくわからない。

 でも、学校で気の合う友達を見つけるのも難しい気がする。街で見かける同年代の女子はみんなまるで別の人種のようだ。ひとりならまだしもグループでいたら怖い。ペットボトルを持つ手に力がこもっていく。

「心配しなくても、七海ならすぐにできるんじゃないかな」

「……遥にもできるくらいだしね」

 その嫌味を、遥はくすりと笑って受け流した。

 彼が誰かと仲良くしているところなどあまり想像できないが、実際に友達はいる。小学校からの同級生でいまも同じ大学に通っているらしい。おそろいの指輪をしているくらいだからかなり親しいようだ。

 彼自身、友達がいて良かったと思っているからこそ、友達を作るように勧めているのだろう。しかし、七海にとってそれがどれほど難しいことか、まるきり境遇の異なる彼にわかるはずがない。

 七海は両手の中にあるペットボトルのあたたかさを感じながら、口をとがらせた。

 

「あ、戻ってきた!」

 日没から一時間ほどが過ぎてあたりがいっそう冷え込んできたころ、山道から出てくる武蔵たちの姿を見つけ、七海は腰掛けていたガードパイプからぴょんと飛び降りた。ほっとしながらも、気持ちがはやり急いで彼のもとへ駆けていく。

「話、終わった?」

「ああ……」

 武蔵はだいぶ疲れているように見えた。その手を掴んで帰ろうとせがむものの、彼はちょっと待ってくれと動かない。後ろの公安職員に何かを告げて先に行かせると、七海の後ろにいた遥に向きなおった。

「事情はだいたいわかった。あいつ……レオナルドは外交特使として来たみたいだな。最近、俺らの国に侵入しようとしたりミサイルを撃ち込んできたり、何かと手出ししてくるやつらがいるから、こっちの政府と話し合いがしたいということらしい」

「公安は何て?」

「話し合いの場を持てるようにすると約束してくれた。日本政府にもすでに話が通っているらしい。本来なら、得体の知れない侵入者の言うことなんか聞き入れられないと思うが、橘財閥があいだに入ってくれたおかげで実現できそうだ。おまえがあらかじめ根回ししておいてくれたんだな、感謝する」

「僕はじいさんによろしく言っただけ。実際に動いたのはじいさんだよ」

「そうか……じゃあ、あのじいさんにも世話になったと伝えておいてくれ」

「わかった」

 じいさんというのは遥の祖父である橘財閥会長のことだ。七海も一度会ったが、テレビで見るよりもさらに威厳があり、笑っていても目が鋭く、何となく油断のならない人だという印象だ。

 遥はゆったりと腕を組んだ。

「それで、武蔵はこれからどうするの?」

「故郷に戻って手伝えと言われた。この国との橋渡しができるのは俺しかいないだろうし、故郷のためにもこの国のためにもそうすべきだと思ってる」

「え……戻る……?」

 七海の口から思わず疑問がこぼれた。

 瞬間、武蔵の表情がはっきりとこわばるのがわかった。しばらく眉間にしわを寄せて逡巡する様子を見せていたが、意を決したように真剣な面持ちで七海に向きなおると、静かに告げる。

「俺は自分の故郷に帰る。この国には仕事で来ることもあるだろうが、決められたところ以外に行くことは許されなくなりそうだ。だから……七海とはもう会えなくなるかもしれない」

 もう会えなくなる——?

 ドクリ、七海の心臓はつぶれそうなほど激しく収縮した。じわりと気持ち悪い汗がにじむ。苦しくてまともに息もできない。彼に縋りついた手にぎゅっと力をこめて、そろりと見上げる。

「なんで……」

 涙を含んだ声が詰まった。じわりと熱く融けるように目が潤んでいく。うつむいて奥歯を食いしばり、彼の服を破れんばかりに強く握りしめる。その震える手に生ぬるい雫がぽたりと落ちた。

「悪い……急にこんなことになって……」

「ふざけんな! ときどき会いに来てくれるんじゃなかったのかよ! 困ったことを聞いてくれるんじゃなかったのかよ! さっきそう言ったばかりなのに、なんで……うそつき!!!」

 小さな肩をいからせて、涙を振りまきながら声のかぎり叫ぶと、その場に崩れ落ちて号泣した。大粒の涙がぼろぼろとこぼれて冷たい土に染み込んでいく。宵闇に七海の泣きわめく声だけがむなしく響き渡る。

 そのときの武蔵がどんな顔をしていたか、七海が知ることはなかった。

 

 

第22話 最後の一日

 

「起きたか?」

 七海が身じろぎしてぼんやりと目を開けると、真上から青い瞳に覗き込まれていた。起き抜けの頭でもすぐに武蔵だとわかる。見慣れたスウェットを着て、同じ布団の隣で肘をついて上半身を起こしていたようだ。

 いつもの布団、いつもの天井——どうやらここは武蔵の山小屋らしい。

 確か、故郷に帰るからお別れだと彼に告げられて、泣きじゃくっていたような気がするが、それからどうしたのかまったく記憶にない。泣き疲れて寝てしまったのだろうか。それとも——。

「あ……えっと、故郷に帰るとかって話は……」

「ああ、今日の夕方まで時間をもらったんだ」

 もしかしたら夢だったのかもしれないという期待は、あっさりと打ち砕かれた。

 寝ているあいだにいなくならなかっただけ良かったが、夕方になれば彼方の海底にあるという故郷に帰ってしまい、二度と会えなくなるのだ。そのことを考えるだけで胸が締めつけられる。

「いま何時?」

「十一時すぎ」

「えっ?」

 バッと布団から飛び起きて枕元の時計に目をやると、本当にその時間を指していた。外が明るいのでもちろん昼だ。そういえばやたらと体が重い気がする。きのうの宵からずっと寝こけていたのなら、寝過ぎもいいところだ。

 ぐうぅぅぅ——。

 時間を意識するなり空腹を感じ、おなかが鳴った。

 丸一日、何も食べていないのだから当然かもしれないが、だからってこんな急に鳴らなくてもいいのに。あまりの恥ずかしさに顔が熱くなるのを感じてうつむく。隣でくすりと笑う気配がした。

「起きるか?」

「うん」

「顔洗ってこい」

「うん」

 洗面所で鏡に向かうと、思ったよりもひどい顔をした自分がそこにいた。さんざん泣いたせいか瞼が腫れぼったく、目もすこし充血し、かなり憔悴しているように見える。あわてて冷たい水でばしゃばしゃと顔を洗った。

 ——よし!

 タオルで拭いたあと、パンと軽く両頬を叩いて気合いを入れる。瞼の腫れはそう簡単に引かないが、気持ちはスッキリしたし、すこしは良くなったように思う。鏡に向かったままにっこりと口角を上げてみた。

 どうやっても故郷に帰ることを止められないのなら、せめて笑顔でお別れしよう。せっかく最後にすこし時間をもらえたのだから、それを無駄にしないで、武蔵にとっていい思い出になれるように頑張ろう。

 七海はそう決めて、しっかりとした足取りで部屋に戻っていった。

 

「こんな時間だから朝昼兼用な」

 扉を開けると、武蔵が包丁を握ったまま台所から軽い調子で声を掛けてきた。まな板の上には、刻み終わったにんじんと刻みかけの玉ねぎが見える。

「僕も手伝うよ」

 小走りで駆けていき、武蔵に聞きながら食材やフライパンなどを準備する。

 湿っぽい雰囲気にならず、いつものように楽しく手伝うことができたのは、いつものように彼が接してくれたおかげだろう。意識的かどうかはわからないが、どちらにしてもありがたかったし嬉しかった。

 

 出来上がったのは、ミートソーススパゲティ、ポタージュ、生野菜のサラダだ。

 奇しくも武蔵が最初に作ってくれた手料理と同じメニューである。もしかしたらそれを意識してくれたのかなとちらりと思ったが、彼本人に尋ねる勇気はなかった。それでもひそかに想像するだけで胸がはずむ。

「いただきます!」

 七海は両手を合わせて元気よくそう言い、頬張っていく。

 武蔵の料理はとてもおいしい。洋食でも和食でもいつだって七海を幸せな気持ちにしてくれる。でも、もう食べられないんだと思うとしんみりしてしまった。もちろんそんな暗い気持ちを見せるつもりはないけれど。

「七海……、どこか行きたいところはあるか?」

 すべてきれいに平らげたあと、水を飲んで一息ついていると、武蔵が遠慮がちに尋ねてきた。これで最後だから——言葉はなかったものの、彼のどこか寂しげな表情がそう語っている。

「時間的に遠くは無理だけどな」

「どこにも行かなくていいよ」

「……それでいいのか?」

「うん、武蔵とここにいたい」

 それは、遠慮ではなく嘘偽りのない素直な気持ちである。最後だからこそ二人で暮らしたこの場所にいたい。その思いをこめて見つめると、わかってくれたのか彼はふっと表情を緩めた。

「じゃ、ここで何したい?」

「いつもどおりがいい」

「ジョギングでもするか?」

「うん!」

 そうと決まればのんびりしてはいられない。すぐに食器を集めて洗い始める。武蔵は今日くらい自分がやると言ってくれたが、これは七海の仕事なのだ。いつものようにきちんと自分でこなしたかった。

 

 後片付けが終わると、ジャージに着替えて武蔵と外に出た。

 目をつむって胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込む。木々の合間から見上げた水色の空は穏やかに晴れわたり、気温は低いものの、降りそそぐ陽射しでほんのりとあたたかく感じられた。

 準備運動をしてから、木々のあいだの細道を軽い足取りで駆けていく。ふもとに近いとはいえ山なので傾斜がついているし、足下も悪いが、家の中で走っているよりよっぽど楽しい。

 草や小枝を踏みしめる感触、足を取られそうなでこぼこ道、進むにつれて変わりゆく景色、頬を撫でる心地のいい風——どれも好きだが、何より先に走る武蔵の背中を追いかけるのが好きだった。

 視界の開けた小高いところで武蔵が足を止めると、七海も隣に並んだ。荒い息を整えながら眼下に広がる田舎町を眺める。いつもと変わらない景色だが、これが最後なんだと思うと胸がきゅうっとなる。

 ちらりと横目を流すと、武蔵もやはり物思いに耽っているように見えた。せつなげに目を細めてどこか遠くを眺めている。しかし七海の視線に気付くと、ごまかすようにパッと笑顔になって振り向いた。

「走ったあとはどうする?」

「ん……どうしようかな」

「いつもなら勉強だけどな」

「え、勉強は嫌だ」

 いつもどおりがいいとはいえ、さすがにひとりで黙々と勉強をしてお別れというのはあんまりだ。思わず苦虫をかみつぶしたような渋い顔をすると、武蔵はおかしそうにくすりと笑った。

「じゃ、格闘術でもやるか」

「うん!」

 その提案に安堵して大きく頷く。

 格闘術もそんなに好きなわけではないが、残りわずかな時間を有意義に過ごすには、勉強よりずっといいはずだ。武蔵につきっきりでいてもらえるのだから。

 

 ジョギングをしながら山小屋に戻ったあと、武蔵に格闘術を教えてもらう。

 いつもながら、教えられたとおりに体を動かすのは難しい。自分ではできたつもりでも、構えがおかしかったり、受け身がとれていなかったり、反応が遅かったりするようだ。

 普通の子供ならこんなものだろうとは言われているが、やはり面白くない。だが、頑張ったところで急にできるようにはならない。今日もあまり進歩のないまま終わるしかなかった。

「これからも続ける気があるなら、遥に教えてもらえ」

 汗だくで足を投げ出して座る七海に、武蔵はスポーツドリンクのペットボトルを手渡すと、隣にゆったりと腰を下ろしながらそう言った。

「遥に?」

「あれで意外とやるんだぜ」

「格闘術を?」

「ああ、俺といい勝負だ」

「へぇ」

 鍛えてるようには見えなかったので驚いたが、そういえばやけに力は強かったなと思い出す。細身でも意外と筋肉はついているのかもしれない。

「でも、僕は向いてないみたいだし、あんまり気が進まないかな」

「本格的にはやらなくても、護身術程度はやっといて損はないぞ」

「うん……じゃあ、考えとく」

 曖昧に答えを濁すと、ペットボトルの蓋を開けて喉に流し込む。

 格闘術がそんなに好きではないというのもあるが、正直、あまり遥に教わりたいと思えない。悪い人ではないだろうし、嫌いなわけでもないけれど、先生としては容赦がなさそうですこし怖い。

 遥のほうにしても暇ではないだろうし、面倒だろうし、そもそもそこまでする義理はない。七海の境遇に責任があるといっても間接的なものでしかなく、住まわせるだけでも十分なはずである。

 お互いあまり関わらないほうがいいのかなと思いつつ、そのことをすこし寂しく感じ、ペットボトルの蓋を無意識にきつく締めてうつむいた。

 

 ピンポーン——。

 お風呂のあと、武蔵に髪を乾かしてもらったところでチャイムが鳴った。

 開いてる、と武蔵がドライヤーのコンセントを抜きながら声を張ると、玄関が開き、濃紺のスーツを着た男性二人を従えて遥が入ってきた。床にあぐらをかいている武蔵を見下ろして尋ねる。

「準備はできた?」

「……ああ」

 武蔵は目を伏せたまま硬い声で答えた。

 その様子から、これで本当にお別れなのだということを思い知らされ、わかっていたはずなのに胸が押しつぶされそうになる。しかし、もう泣きわめくようなみっともない真似はしない。

「七海もいい?」

 遥は腰を屈めて、武蔵の隣でぺたりと座っている七海を覗き込んだ。

「うん……あのさ、これ持ってっていい?」

「もちろん、何でも持っていけばいいよ」

 七海が掴んで見せたのは、父親の形見ともいえるイルカのぬいぐるみだ。

 父親が殺されたときの血がこびりついていたうえ、武蔵が撃たれたときにもべっとりと血で汚れてしまったが、遥がクリーニングを頼んでくれたおかげで、完全ではないもののいまはかなり汚れが落ちている。

 ただ、いいかげんぼろぼろでみすぼらしく見えるので、あの立派な屋敷に持ち込むのは反対されるかもしれないと心配していた。しかし、彼が不快に感じている素振りはなかったのでほっとする。

「じゃあ、行こうか」

 まるで散歩にでも誘うかのような軽い調子で、遥が言う。

 すこし戸惑ったものの、やたらと深刻そうにされるよりはいいかもしれない。イルカのぬいぐるみを抱いて立ち上がると、先に出ていく遥たちを追い、武蔵とともに住み慣れた山小屋をあとにした。

 

「武蔵はその公安の車に乗って。七海はうちの車で連れて行く」

 山小屋から夕暮れの細道をたどって車道まで出ると、二台の車が停まっていた。両方とも黒いセダンである。遥の話していた内容から察するに、前方が公安の車で、後方が橘の車なのだろう。

「武蔵とはここでお別れになるね」

「ああ、いろいろ世話になった」

 武蔵は気持ちのこもった声でそう告げて、山小屋の鍵を遥に手渡した。そして真剣な顔になり七海と向かい合う。

「……七海」

「うん」

 別れのときが迫りくるのを感じて緊張が高まる。すこしも目をそらしたくなくて、その姿を脳裏に焼き付けておきたくて、何を言えばいいのかわからないまま、ただじっと武蔵を見つめた。

 彼もまた無言で七海を見つめ返した。しばらく時が止まったかのようにそうしていたが、やがて体の横でゆっくりとこぶしを握りしめると、固く引きむすんでいた薄い唇を開く。

「俺は、故郷に帰らなきゃいけない。だが向こうで望まれた役目を果たして、いつかここに来ることを許されたなら、そのときはまた——」

「言うな!」

 そんなことを聞いてしまえば、何の確証もないのにきっといつまでも待ち続けてしまう。不安に駆られて思わず大声で叫んだが、武蔵が唖然としていることに気付くと、あわてて笑顔を作った。

「武蔵がいなくたって僕は平気だから」

「……そうか、だったら安心だ」

 武蔵はすこしのあいだ探るように怪訝な目を向けていたが、やがて静かにそう言い、イルカのぬいぐるみごと七海を包み込むように抱きしめた。

「じゃあ、元気でな」

「うん、武蔵も元気で」

 手がふさがっているため抱きつけないことがもどかしい。そのかわりに甘えるように頭を寄せて、彼の体温と匂いを感じ取った。

 

 武蔵はスーツの男性二人に挟まれて後部座席に乗り、どこかに連れられて行った。

 その車を見送ったあと、七海と遥はもうひとつの車の後部座席に乗った。運転席には白い手袋をした年配の男性が座っていた。家までよろしくと遥に声を掛けられると、ゆっくりとなめらかに車を走らせ始める。

 静かな走行音しか聞こえない車内で、七海はイルカのぬいぐるみを抱きかかえたまま、シートに寄りかからず背筋を伸ばして前を向き、口を引きむすんでいた。しかし——。

「もう我慢しなくてもいいんじゃない?」

 そう言われ、ハッと隣に振り向いた。

 遥はこちらに横目を流してうっすらと微笑んでいた。それを目にした瞬間、堰を切ったようにぶわりと大量の涙があふれ出す。あわてて止めようとするがどうにもならない。

「うっ……せっかく我慢してたのに……ばかぁ……」

 涙は止めどなく流れ落ち、イルカのぬいぐるみに染み込んでいく。

 遥は何も言わなかった。ただそっと七海の頭を抱いて自分に寄りかからせる。七海はイルカのぬいぐるみを抱きしめたまま彼に身を預けて、泣き疲れるまでずっとすすり泣いていた。

 

 

第23話 訣別

 

 うららかな春の陽気の中、散り始めた桜の花びらが吹雪のように舞う。

 

 七海はふくらんだスカートをあわてて手と学生鞄で押さえた。

 セーラー服はどうにも風通しが良すぎて心許ない。普段はショートパンツで外出しているので、脚を露出することには慣れているものの、下着が守られていないようで不安に感じる。いっそスカートの下にショートパンツをはこうかと思ったが、遥に止められた。

 

 橘の屋敷に移って三か月とすこし。

 今日は七海が通うことになった私立中学校の入学式だった。もう学校へ行きたくないなどと駄々をこねたりはしていない。式と写真撮影を終えて、保護者の代理として来ていた遥と帰るところである。

 屋敷での生活は、特に嫌なこともなくそれなりに快適だ。

 橘の家族や親類の他によくわからない居候もいるが、屋敷が広いうえ、みんな好き勝手に生活しているのでそんなに会うこともない。頻繁に顔を合わすのは使用人と遥とメルローズくらいである。

 最初は使用人なんて冷たくて落ち着かなくて嫌だと思っていたが、屋敷で暮らすようになってすぐにそういう感情はなくなった。みんな七海に良くしてくれるのだ。特に、執事の櫻井はまるで家族のように目をかけてくれている。

 ただ、遥の祖父である橘財閥会長とは数えるほどしか会っていない。彼が七海の里親ということになっているらしいが、実質的には遥や櫻井、そして会長秘書の楠という男性に任せているようだ。

 

「あしたから七海ひとりだけど、通えそう?」

「バカにしてんのか。道なんかもう覚えたし」

「それならよかった」

 桜並木の下を並んで歩きながら、遥は軽く笑った。

 中学校までは電車と徒歩で通うのだが、電車は乗り換えがないのでさほど難しくないし、駅からの道筋も簡単なので迷うことはないだろう。定期券も購入済みなので何の心配もない。

「今日だって僕ひとりで平気だったのに」

「ここの入学式は親子で行くものらしいよ」

「親じゃないじゃん。すっごい浮いてたし」

 そう言いながら、先ほどまでの騒動を思い出して口をとがらせる。

 他の保護者と変わらない地味なスーツ姿のはずだが、保護者にしては若すぎるうえに容姿だけは無駄にいいので、保護者席に座っているだけでひときわ目立っていた。女子たちが誰のお父さんなのかときゃあきゃあ騒ぐ始末だ。

 七海はその様子を横目で見ながら素知らぬふりを決め込んでいた。なのに、遥が声を掛けてきたせいで自分の保護者だとばれてしまった。空気読め、と恨めしげに睨みつけるものの後の祭りである。

 お父さん若いね、などと言われて釈明せざるを得ない状況に追いやられた。親ではなく知り合いだと答えると関係を追及され、一緒に住んでいると答えるとさらに詮索され、曖昧にごまかすしかなくなった。

 あしたも何か言われるかもしれないと思うと気が重い。どうしてこんなことになったのだろう。すべて遥のせいだとまで言うつもりはないけれど、元凶には違いない。彼が来なければこんなことにはならなかったのだから。

「大学生なんだから大学に行けよな」

「七海の晴れ姿を見るためなら休むよ」

「……落第しても知らないぞ」

 微妙な面持ちで捨て台詞を吐き、口をとがらせると、隣で小さく笑う気配がした。

「じゃ、そうならないように協力してくれる?」

「協力?」

「なるべく問題を起こさないでねってこと。学校に呼びつけられると、そのたびに講義を休まなきゃいけなくなるからさ。あんまり頻繁だと、七海の言うように進級できなくなるかもしれない」

 遥の話からすると、学校で問題を起こすと保護者が呼びつけられるらしい。七海としても彼の負担にならないようにしたいし、そもそも問題なんて起こしたくないが——。

「あのさ……今日、さっそく怒られたんだけど……」

 おずおずと窺うような視線を向けてそう告げると、遥はすこし驚いたように振り向いた。それでもいつもの冷静さはなくしていないようだ。

「どうして?」

「自分のことを僕って言ってたらさ、女の子なんだから僕はやめなさい、私と言いなさいってお説教されたんだ。でも、昔からずっと僕だしすぐに変えるのは難しくて……なんか変な感じだし……」

 遥のためには、素直に先生の言うとおりにすべきなのだろう。けれど——言葉に詰まりうつむくと、彼は真面目な顔でなるほどねと相槌を打った。

「普段はそれでいいんじゃない?」

「え、いいの?」

「普段は僕、かしこまった場では私、と使い分けられるようになればいい。僕もそうしてるし。最初は難しいだろうけどすこしずつね。先生にはあとで僕から話しておくよ」

 七海はほっとして頷いた。

 かしこまった場というのがよくわからないし、きちんと使い分けられるか自信はないが、すこしずつということなら焦らなくてもいいのだろう。とりあえず、先生と話すときだけでも私と言うようにしようと思う。

「あ、ごめんちょっと待って」

 遥は足を止めると、上着の内ポケットから震える携帯電話を取り出し、歩道の脇に寄りながら通話を始める。

「はい……うん……そう……わかった。あとで折り返す……じゃあ」

 七海は彼の隣に立ち、薄紅色の花びらが舞い落ちるのを眺めつつ待っていたが、一方的に報告を聞いただけのようですぐに通話は終わった。しかしながら彼は携帯電話をしまおうとせず、手に持ったまま振り向く。

「七海、真壁拓海に会いたい?」

「えっ?」

 七海は目をぱちくりさせて聞き返した。あまりにも予想外の名前を耳にしたせいで、一瞬、何を言っているのか理解できなかった。そこへ、さらに畳みかけるように問われる。

「いまから彼に会いに行かない?」

「えっ……え……なんで……?」

「彼のことずっと気にしてたよね」

 図星を指されて息を飲んだ。はっきりと口にしたことはなかったはずなのに、どうして。何となくいたたまれなさを感じて黙り込むが、彼は気にする素振りもなく話を続ける。

「中学生になったら会わせてもいいかなって考えてたんだ。公安の知人に聞いたら、明日からしばらくは外の任務に出るけど、今日なら夜まで警察庁にいるってさ。もちろん会いたくなければ会わなくていいし、心の準備ができてないなら後日でもいい。ただし会うときは僕も同席させてもらうけど。どうする?」

「……今日、会わせて」

 いきなり言われて心の準備などできているはずがない。それでもせっかくの機会を逃したくない。ドクドクと痛いくらいに心臓が早鐘を打つのを感じながら、まっすぐ彼を見つめてそう告げた。

 

「二人とも掛けたまえ」

 楠警察庁長官に促されて、遥と七海は革張りのソファに並んで腰を下ろした。遥は普段と変わらない落ち着いた様子を見せているが、七海は場の雰囲気に気後れして緊張を隠せない。背筋を伸ばしながらも遠慮がちにきょろきょろとあたりを窺う。

 ここは警察庁長官の執務室である。

 警察庁長官というのは警察庁でいちばん偉い人だと聞いた。この執務室もそれにふさわしい威厳のある作りになっている。ただ、奥の広い執務机でひとり書類に目を通しているその人は、威厳というより鋭利なナイフのような冷ややかさを感じさせた。

 七海たちは彼の意向ということでこの執務室に連れてこられた。じきに拓海も来るらしいが、どうしてこんなところで会わなければならないのかわからない。不安に思いながらも、遥が当たり前のように受け入れているので従うしかなかった。

 

 コンコン——。

 七海たちがおとなしく待っていたところへ、ノックの音が響いた。

 ゆったりと椅子にもたれていた楠長官が、入れ、と低めながらもよく通る声で応答する。七海は緊張で体をこわばらせて音のほうに目を向けた。年季の入った木製の扉がゆっくりと開いていくのが見える。そして——。

 ハッとして、はじかれたように立ち上がった。

 扉の向こうにいたのは思ったとおり拓海だった。最後に見たときと外見はほとんど変わっていない。こちらが目を見開いて立ちつくしているのと同じように、彼の方も七海を見たまま目を見開いて動きを止めていた。

「座ったらどうだ」

 執務机のほうから存在感のある声が聞こえて、我にかえった。七海に言ったのか拓海に言ったのかはわからないが、隣の遥にぽんと肩を叩かれて一緒に腰を下ろす。拓海も無言のまま歩を進めて二人の正面に座った。

「七海……元気そうでよかった。大きくなったな」

「拓海は変わらないね」

 昔と変わらない調子で声を掛けられたことにほっとし、笑顔で応じる。

 しかし、次の瞬間——彼の表情があからさまに険しくなった。思わずビクリとしたが、それが七海でなく遥に対するものだということは、その射るような視線をたどればすぐにわかる。

「警戒のつもりか牽制のつもりかは知らないが、その殺気をおさめてくれないか。さすがにこんなところで事を起こす気はない」

「油断はしない主義なので」

 遥が身じろぎもせず受け流すと、拓海は眉を寄せた。

 殺気といわれても七海にはよくわからないが、二人のあいだには確かに緊迫したものを感じる。困惑して執務机のほうに目を向けると、楠長官はゆったりと椅子にもたれたまま面白がるように口元を上げていた。

「七海」

 ふいに名を呼ばれ、七海はドキリとして正面の拓海に向きなおる。彼は再びこちらに目を向けていた。もう遥のことを気にするのはやめにしたらしい。

「橘家で暮らしていると聞いたが」

「うん、良くしてもらってるよ」

「学校にも行ってるんだな」

「今日が中学の入学式だったんだ」

「そうか」

 彼は七海の着ている濃紺のセーラー服を見つめて、曖昧な笑みを浮かべる。そこには自責の念がにじんでいるように感じられた。七海を騙して学校にも行かせなかったことを、すこしは申し訳ないと思っているのかもしれない。

「……えっと、拓海はどうしてる?」

 会話が途切れてしんと静まりかえると、今度は七海から尋ねた。拓海は目を伏せて答える。

「俺にはもう仕事しか残っていない」

「今もあのマンションに住んでるの?」

「ああ……七海の部屋もそのままだ」

「片付けていいのに」

 思わずそう言ったが、七海に遠慮してそのままにしていたわけではないだろう。仕事が忙しくて時間がなかったか、面倒で放置していたか、あるいは——寂しくて片付けられなかったのかもしれない。感傷と困惑の入りまじった微妙な気持ちが湧き上がる。

「ねえ……もう、死のうとかしてない?」

「ああ、七海が死ねと言わないかぎりは」

 彼は温度のない平坦な声で答えて七海を見つめた。まるで本心を探るかのように。一瞬たじろいだものの、目をそらすことなく負けじと強気に見つめ返す。彼のペースに飲まれるわけにはいかない。

「僕、ずっと考えてたんだけどさ」

 そう前置きをし、ゆっくりと呼吸をしてから続ける。

「お父さんが勝手に武蔵を逃がしたんだとしたら、拓海はすごく頭にきたんじゃないかな。親友の自分を裏切ってまで武蔵を助けたんだもんね。お父さんのこと殺したくなかったって言ってたけど、本当は憎らしくなって、それで……」

 話を進めるにつれてドクドクと鼓動が強くなり、ついには言葉を紡ぐことができなくなった。プリーツスカートの上にのせた手をグッと握る。重い静寂に息が詰まりそうになったころ、拓海が口を開いた。

「殺したくなかったのは本当だ。俺は最後まで親友のつもりだった……が、俊輔の気持ちはいつのまにか俺から離れていた。あの男に同情し、そのことを注意した俺を敵視するようになった。だから憎らしい気持ちもなかったわけじゃない。ただ、殺した理由は本当にあのとき言ったとおりだ。他の誰かに痛めつけられて始末されるくらいなら、いっそこの手で葬ってやりたい……そこに一ミリたりとも憎しみがなかったとは言い切れないが」

 淡々と語ったあと、無表情のまま七海をじっと見つめる。

「七海が許せないなら、死んで償う」

「……死なれたら寝覚めが悪いよ」

 七海はぎこちなく笑って肩をすくめた。

 聞きたかったのは嘘偽りのない本当のことだ。それがどんなものでも受け入れるつもりでいたし、いまさら償ってもらおうなんて思っていない。ただ、父親の言い分を聞けないのはやはり残念に思う。

 ひそかに横目で隣を窺うと、遥は隙のないまなざしで拓海を見据えていた。いまだ警戒を解かず、いつでも飛び出せるように身構えている。それでも七海たちの邪魔をする気はなさそうだ。

「もうひとつ、気になってたことがあるんだけど」

「ああ」

 七海が話を続けると、拓海は静かに相槌を打った。

 きっといまなら何を尋ねても正直に答えてくれる気がする。たとえ自分にとってつらい話になるとしても聞いておきたい。緊張で喉が張りつくのを感じながら、表情の変わらない拓海を見つめて唾を飲み、本題をぶつける。

「お父さんの敵を取ったあとのことは、何か考えてた?」

「……自分が死んだあとのことなんかどうでもよかった」

「僕のことも?」

「ああ、将来を案じるなら死んだことにはしないだろう」

「そっか……そうだね……」

 拓海がひそかに考えていた敵討ちの計画は、七海に武蔵を殺させ、そして拓海自身を殺させるというものだった。そうすると七海はひとりぼっちになってしまう。死んだことになっているので誰も七海の存在さえ知らない。

 そんな状態で、どうやって生きていけばいいのかわからない。

 もしかしたら拓海が何か考えてくれていたのかもと思ったが、そうではなかったらしい。彼にとっては本当に復讐の道具でしかなかったということだ。奥底から何かがこみ上げてくるのを感じてうつむいた。

「……もう聞きたいことは聞いたから、帰ろう?」

 一拍の間のあと、どうにか普段どおりの声をよそおって遥に声を掛けた。彼は小さく頷いてわかったと答えると、ソファから立ち上がり、奥の執務机にいる楠長官のほうに体を向ける。

「私たちはこれで失礼します」

「ああ、橘会長によろしくな」

「伝えておきます」

 遥が一礼するのを見て、七海もあわてて立ち上がりぺこりと頭を下げた。

 そのあとソファに座ったままの拓海をちらりと見たが、遥に肩を抱かれ、急き立てられるように学生鞄を掴んで歩き出した。しかし扉を開こうとした彼の手を無言で押しとどめると、ちらりと振り返り、ソファに座る拓海の後ろ姿を見てわずかに目を細める。

「じゃあね……もう会うことはないと思う」

「ああ……七海、おまえは真っ当に生きろ」

「勝手だね」

 すこし上擦った声でそう言い捨てるなり前に向きなおり、グッと奥歯を食いしばる。そして一呼吸おくと、乱暴ともいえる勢いで叩きつけるように扉を開け、スカートをひらめかせながら執務室をあとにした。

 

「よく我慢したね」

 エレベーターの前まで来ると、遥が隣からハンカチを差し出してきた。

 それを目にした途端、堪えていた涙がぶわっと一気にあふれた。あわててハンカチを受け取り目元に押し当てる。こんなところでみっともなく泣きたくはないが、一度こうなってしまってはなかなか止められない。

「あんなやつに涙を見せずにすんでよかったよ。もったいないし」

「うっ……もったいないって何だよ……っ……意味不明すぎ……」

 しゃくり上げながらつっかかるように言い返すが、遥はうっすらと口元に笑みを浮かべるだけだった。結局、七海が落ち着くまでエレベーターのボタンも押さず、そのままただ黙って待っていてくれた。

 

 二人は警察庁をあとにする。

 外は風が強くなっていた。セーラー服の風通しの良さに慣れたわけではないが、いまはスカートが風をはらむのを心地良く感じる。うららかな春の陽射しを顔いっぱいに浴びながら、大きく伸びをし、さっぱりとした笑みとともに隣の遥に振り向いた。

「連れてきてくれてありがとう。おかげでふっきれたや」

「そう」

 すこし無理をしていることに、鋭い彼なら気付いているに違いない。それでも余計なことは何も言わず、たださらりと受け止めてくれた。それがどれだけ七海の救いになったか、きっと彼は知らない。

 ぐうぅぅぅ——。

 気が緩んだ途端におなかが鳴った。

 七海はゆでだこのように顔を赤らめながらあたふたする。どうしていつも変なタイミングで鳴るんだろう。隣を見ると、遥がおかしそうにくすくすと笑っていた。恥ずかしさと腹立たしさを感じてますます顔が熱くなる。

「お昼の時間だいぶ過ぎたからね。どこかで食べて帰ろう」

「うん、パフェも食べたい!」

 明るく声をはずませると、くるりと身を翻して階段を駆け下りていく。その足取りは、自分でも驚くほど軽やかになっていた。

 

 

第24話 プレゼント(最終話)

 

「げっ」

 校門を出た瞬間、七海は思わず変な声を上げた。

 まばゆいくらいの白い陽射しの下、歩道に横付けされた深紅のスポーツセダンに遥が寄りかかっていた。白シャツに紺パンツというシンプルな格好でありながら、スタイルがいいからか腹立たしいほど様になっている。まるで車の広告みたいに。

 当然のように、帰宅途中の生徒たちがチラチラと目を向けている。中には頬を染めて色めき立つ女子グループもいるが、気に留める様子はない。注目を集めることには慣れきっているのだ。

「二階堂、悪いけどここで」

「先約ってあの人なのか?」

「……まあね」

 二階堂は中学のときのクラスメイトだ。同じ中学出身者は二人だけということもあり、高校に進学してクラスが分かれた今でも仲良くしている。遥のことは中学の三者面談や卒業式などで見ているはずだ。いつだったか、父でも兄でもなく居候先の息子だと話した記憶もある。

 じゃ、と軽く片手を上げると、物言いたげな顔をしている二階堂を残して、短いポニーテールを揺らしながら駆けていく。遥はこちらに視線を流してうっすらと笑みを浮かべていた。また何かおかしなことを考えているのかもしれない。七海は眉をひそめて口をとがらせる。

「迎えに来なくていいって言ったじゃん」

「このほうが時間の節約になるだろう?」

 今日は七海の十六歳の誕生日で、ちょうど期末試験の最終日ということもあり、一緒にお昼を食べようという話になっていた。ただ、学校まで迎えに行くという申し出は断固拒否した。遥がいるだけでやたらと目立つから嫌なのだ。なのに——嫌がらせのように校門の前で待っているなんて。

「せめて車の中で待っててくれよな」

「さっきの彼、二階堂君だっけ」

「……同中の同級生ってだけだよ」

「向こうはそうでもなさそうだけどね」

 遥の視線をたどると、校門前で立ちつくしたままの二階堂が、微妙な面持ちでこちらを見ていた。目が合うと、きまり悪そうにそそくさと立ち去っていく。野球部のがっちりしている背中がやけに縮こまって見えた。

 遥の推測は正しい。

 実際に中学生のときに一度告白されているのだ。そのとき付き合えないとはっきり断ったが、彼がまだあきらめていないことは何となく感じていた。あきらめたくてもあきらめられない気持ちはよくわかるので、無下にもできない。

「牽制が必要かな」

「ぎゃっ!」

 遥が甘ったるい笑みを浮かべて手を伸ばしてきたので、七海はあわてて後ろに飛び退いた。

 遠巻きに見ていた生徒たちは、不思議そうな顔をしたり囁き合ったりしている。その中には同じクラスの女子もいるので、下手すればあっというまにおかしな噂が広まりかねない。

 中学のときみたいに騒がれるのは勘弁してほしいのに。恨めしげに遥を睨むが、こんなところで抗議をしては余計に目立ってしまう。グッとこらえて無言で車の助手席に乗り込んだ。

「変な噂を立てられたらお互い困るだろ。軽率なことすんなよ」

 車内で二人になると、腹立ちまぎれに乱暴な手つきでシートベルトを締めながら文句を言う。

 彼の左手薬指には何年も前から指輪がはめられている。女が寄ってくるのが面倒で、牽制のために幼なじみの男友達とペアリングをしているのだ。同性愛者ではないかと取り沙汰されるのも計算の上で。

 その状況で七海と噂になればまずいことくらいわかるだろう。ペアリングがただの牽制でしかないと露見するかもしれない。あるいは二股をかけるクズ野郎だと誤解されるかもしれない。

 七海としても平穏な高校生活を送りたいので目立つことは避けたい。ただでさえ橘財閥会長の里子ということで注目されているのに、そこの御曹司と噂になれば騒がれることは間違いない。

「なあ、わかってんのか?」

「確かにすこし先走ったな」

 遥は曖昧な笑みを浮かべてシンプルな指輪に目を落とす。しかしすぐに気を取り直したように顔を上げると、シートベルトを締め、エンジンを掛けてゆっくりと車を走らせ始めた。

 

「今日の試験はどうだった?」

 ふいに振られたその話題に、七海は思わず苦虫を噛み潰したような顔になった。ズタボロとまではいかないが、頭を抱えたくなるような出来である。遥はハンドルを握ったままこちらを一瞥し、くすりと笑う。

「まあ、今度頑張ればいいよ」

「誰のせいだと思ってんだよ」

「そうだね、ごめん」

 ホントに悪いと思ってんのかな——軽く笑いながら謝罪した彼にじとりと視線を流す。自分としては真面目に勉強するつもりでいたのだが、彼に邪魔をされたのだ。試験期間に部屋に来るなんてこれまでなかったのに。

「ねえ、きのう言ってたアレさ、やっぱ冗談だよね?」

「本気だよ」

 ちょうど赤信号で止まると、足下の鞄から取り出した白い紙を手渡してきた。二つ折りになっており外側には何も書かれていない。何だろうと怪訝に思いながらぺらりと開くと——。

「婚姻届?! なんで、無理って言ったじゃん!」

「気が変わったらすぐ出せるようにね」

 きのうはすぐにうやむやになってしまったので、冗談か思いつきで口にしただけではないかと思ったが、ここまで用意しているなら本当に本気かもしれない。七海はすうっと血の気が引くのを感じた。

「ちょっと待って、僕、まだ高校生だよ?!」

「結婚しても高校に通えるから安心していい」

「そうじゃなくて!」

 もちろん高校のことも大事ではあるが、それ以前の問題だ。

「まだ、そんな……考えられないよ」

 結婚なんて意識したこともなかったのに、急にそんな話をされても戸惑うばかりで、どうすればいいのかわからない。白紙の婚姻届を胸元に押しつけるようにして突き返す。

 遥は苦笑を浮かべながらも素直に引き取り、元の場所に戻した。

「もしかして、まだ武蔵を待ってる?」

「……武蔵は関係ない」

 七海はふいと視線をそらした。

 多分、武蔵が初恋だった——当時はまだ幼すぎて自覚していなかったが、離ればなれになってから気が付いた。そのことは遥も承知している。そしていまだに気持ちを残していることも、わざわざ告げてはいないが察しているはずだ。

 だからといって武蔵が戻ってくることなど期待してない。そう決めている。もし戻ってきたところで、以前のように一緒に暮らすことはできないし、異性として好きになってもらえるとも思えない。

 そもそも、七海を引き受けてくれたのも贖罪でしかないのだろう。本音では早く解放されたいと思っていたかもしれない。もし好きな人がいても、七海の面倒を見ていては会うことすらままならないのだ。

 溜息をつき、ゆっくりと流れ始めた街の景色を眺めつつ目を細める。

 当時、武蔵に好きな人がいたかどうかは知らない。遥なら知っているかもしれないが尋ねる勇気はない。当時はいなくても、故郷に帰ってから恋人ができたかもしれないし、もしかしたら結婚しているかもしれない。

 こんなこと考えても仕方ないのに——。

 苦しいくらい胸がざわつくのを感じながら、あえて意識しないようにして平静を装う。それでも遥には簡単に見透かされてしまいそうで、駐車場に着くまでずっと窓のほうに顔を向けていた。

 

「おいしい!」

 一口食べるなり、七海は目を丸くして感嘆の声を上げた。

 先ほどまでの澱んだ気分が一気に吹き飛んでしまう。我ながら単純だという自覚はおおいにあるし、向かいで笑う遥もそう思っているのだろうが、実際おいしい食事で幸せになれるのだから仕方がない。

 今日、遥が連れてきてくれたのはひつまぶしのお店である。いつだったか雑誌の特集を興味津々に見ていたことを覚えていたらしい。忙しいはずなのに何かと気をきかせてくれるのだ。

 説明された食べ方に従い、一膳目はそのままで、二膳目は薬味を加え、三膳目はお茶漬けにしていただく。どれもおいしかったが、さくっふわっとしたうなぎの食感、薬味で引き立てられた味わい、その両方が楽しめる二膳目が特に気に入った。

「遥もひつまぶし初めてだよね。どうだった?」

「おいしかったよ。うなぎの焼き加減と味付けが絶妙で食感もいいし、ごはんもふっくらしていてつやと甘みがあるし、お茶漬けのだしも上品でよく合う。うな重と違って変化が楽しめるのもいい」

 そう言うと、遥はきれいな所作でお茶を飲んだ。

 食べている様子からして、気に入っているのだろうとは思っていたが、予想以上の高評価を聞けてほっとする。せっかく一緒に来たのだから、七海だけでなく彼にも楽しんでもらいたかったのだ。

「いいお店でよかったね」

「ここのひつまぶしは本場の味らしいよ」

「お店によってそんなに違いがあるの?」

「焼き方やたれに特徴があるみたいだね」

「他の店のもおいしいのかなぁ」

「気になるなら、今度どこか行ってみようか」

「うん!」

 短いポニーテールをはずませる七海を見て、遥は淡い微笑を浮かべた。再びゆったりとお茶を口に運んで一息つく。

「僕も料理を始めてみようかな」

「え、急にどうしたの?」

「七海を餌付けしようと思って」

「そんな人をペットみたいに……」

「餌付けは野生動物にするんだよ」

「悪かったな、野生で」

 七海がむうっと頬を膨らませると、彼は声を上げて笑った。

 その表情がふいに武蔵と重なりドキリとする。顔の系統は似ていてもそっくりというほどではないのだが、笑ったときや眉を寄せているときの表情を見ていると、つい武蔵が思い浮かんでしまうのだ。

 重症だなぁ。

 こんなことを遥に知られるわけにはいかない。彼に失礼だということも十分承知している。それなのにいつまでも武蔵への執着を捨てられない自分に、心の中でひそかに嘆息するしかなかった。

 

 昼食後は、二人で街中をあてもなくぶらぶらと歩いた。

 遥はたいてい次の目的地を決めてから行動するため、こういうことはめずらしい。目についた雑貨屋さんを見てまわったり、通りがかりの喫茶店でパフェを食べたり、デパートの地下でケーキを眺めたりする。

 途中で欲しいものがあれば買ってあげると言われたが、遠慮した。誕生日プレゼントは家に用意してあると聞いていたし、毎月お小遣いももらっているので、そこまで甘えるわけにはいかない。

 ただ、その誕生日プレゼントが何なのか気になって聞き出そうとしたが、なかなかガードが堅くてヒントさえもらえなかった。もったいつけられるとなおさら期待してしまうのに——。

 

 ファッションビルを出ると、空の一部が鮮やかな茜色に染まっていた。

 そのときふと隣からバイブの振動音が聞こえてきた。遥は後ろのポケットから携帯電話を取り出して画面に目を落とすと、何事もなかったかのように戻す。しかしながらまだ振動は続いているようだ。

「ケータイ、出なくていいの?」

「馬に蹴られて死ねばいい」

 まるで呪詛を吐くかのごとく言うので吹き出した。

 いつもは七海と一緒にいてもかかってきた電話には出ているので、遠慮しているわけではないだろう。出たくないほど嫌な相手か、どうでもいい話か、そんなところではないかと思う。

「でも、そろそろ帰る時間だよ」

 ビル群を彩る茜色の夕焼けを眺めてそう言うが、返事はなかった。代わりにそっと包み込むように手を握られる。一瞬ギョッとして振り向いたものの、気のせいか物寂しげに見えて振り払えなかった。

「やっぱり帰したくないな」

「帰るの一緒の家じゃん」

「どこか泊まっていこうか」

「あした学校あるんだけど」

「……仕方ないか」

 そう言うと、七海の手を引いて歩き出す。

 どうしたんだろう——今日は、というかきのうから遥の様子がおかしい。試験前日に七海の部屋へ来たり、婚姻届持参で結婚を迫ったり、帰したくないなどと言ったり、いままでになかったことばかりだ。

 戸惑うくらい固く手をつながれたまま歩きつつ、ちらりと隣を見るが、その横顔からは何も窺い知ることができなかった。ただ、彼にしてはめずらしく手のひらがすこし汗ばんでいた。

 

 駐車場から車を出すときには、もう夜の帷が降りていた。

 気のせいか車内の空気がやけに重苦しく感じる。遥は真顔で運転していて、何となく話しかけられる雰囲気ではなかった。

 

「着いたよ」

 遥は橘の敷地内で車のエンジンを止めると、助手席に振り向いて言う。

 そのとき、またしても携帯電話の震える音が聞こえた。彼はシートベルトを外してポケットから取り出し、画面を一瞥してあからさまに嫌な顔をしたが、今度は無視しなかった。親指で通話ボタンを押して耳に当てる。

「はい……うるさいな、こっちにだって都合があるんだから……それが人にものを頼む態度? 逃げたりしないから黙って待ってろ……そう、だからおとなしくそこにいればいい……じゃあね」

 彼らしくない感情的な物言いだった。怒鳴ったり叫んだりしているわけではないが、その語調からむきだしの苛立ちが伝わってくる。唖然としていると、彼は乱暴な手つきで携帯電話を戻し、ハンドルに突っ伏して深く溜息をついた。

「逃げ回っていても仕方ないからね」

 そう自らに言い聞かせるようにつぶやき、顔を上げる。

「七海、目を閉じて」

「なんで?」

「サプライズだから」

 怪訝に思いながらもしぶしぶ目を閉じると、上から布のようなものを巻かれて後頭部で結ばれた。外そうと思えば簡単に外せそうではあるが、ただの目隠しのようなのでそのままおとなしくしていた。

 彼の大きな両手がそっと七海の頬を包み込み、何かがこつんと額に当たる。彼が額を合わせてきたのかもしれない。そう思ったとき、すぐ近くでかすかな息遣いを感じて確信した。

「本当は行かせたくない。でも僕の一存でそうする権利はないし、七海のためには行かせるしかない。このままじゃ、きっといつまでも七海の気持ちは宙ぶらりんだ。七海が自分自身でけじめをつけないといけない。たとえ君がどんな結論を出したとしても、僕は君の味方でいる」

「……何の話?」

 混乱して尋ねるが答えは返ってこなかった。その代わり、あたたかくやわらかい何かがかすかに唇に触れた。一瞬のことだったので確信は持てないが、おそらく遥の唇ではないかと思う。

「あのさ」

「行こう」

 助手席側の扉が開き、目隠しのまま軽々と横抱きにされる。

 遥のことはそれなりに信頼しているつもりだ。しかしながら何もわからないまま目隠しをされたあげく、思わせぶりなことばかり言われては、どうしても不安を感じずにはいられなかった。

 

「下ろすよ」

 屋敷内の廊下と思われるところでそっと足から下ろされて、すこしよろけながらも地面に立った。そのときは手を掴んでくれていたが、すぐにドアノブと思われるところへ誘導されてしまう。

「遥……えっと、これどうすればいいの?」

「扉を開けて中に入って、目隠しを外して」

「わかった」

 プレゼントが用意されているのだろうか、あるいはパーティが始まるのだろうか。サプライズという言葉からすると他に考えられない。ただ、そうであれば行かせたくないなんて言うはずがない。

 考えていても仕方がないので、言われたとおり扉を開けてそろりと足を進めた。この屋敷にはもう三年半ほど住んでいて、同じ形状のドアノブを頻繁に触っているので、視界が遮られていても開閉くらい簡単にできる。

 中はひっそりとしていた。

 目隠しをしていても廊下より暗いことは何となくわかる。頬にはすこしひんやりとした空気がかすめた。誰もいないのではないかと不安になりながら、目隠しを強引に頭から抜き取って目を開けた。

 電灯はすべて消されていたが、正面の大きな窓にはカーテンが引かれておらず、ガラス越しの月明かりがあたりを照らしていた。その淡い光に浮かび上がるのは、肩幅の広い体躯、煌びやかな金髪、鮮やかな青の瞳の——。

「七海なのか?」

「うそ……」

 目を丸くしてこちらを見ているのは、まぎれもなく心の奥底で求め続けた人だった。顔も声も記憶のまますこしも変わらない。見慣れた黒髪ではないものの、初めて見たときと同じ鮮やかな金髪である。

 しばらく呆然としたまま無言で見つめ合っていたが、さきに我にかえったのは彼のほうだった。ふっと慈しむように優しく目を細めて言う。

「大きくなったな、見違えた」

「な、んで……」

 涙があふれ、止めどなく頬を伝い落ちる。

 話したいことはたくさんあるはずなのに、何も言葉にならない。ただいま、と彼が照れくさそうに言うのを見た瞬間、小さな子供のように声を上げて泣きながら、思いきり地面を蹴って彼の胸に飛び込んでいった。

 

 

 

http://celest.serio.jp/celest/novel_campanella.html

 


 
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