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Blue-Crystal Vol'03 第一章 ~暫定護衛隊~

C92発表のオリジナルファンタジー小説「Blue-Crystal Vol'03」のうち、 第一章を全文公開いたします。

2017-08-07 23:16:09 投稿 / 全5ページ    総閲覧数:1017   閲覧ユーザー数:1017

 

 <1>

 

 東より昇った朝の太陽が大地に穏やかな光を投げかける。

 サファイアにも似た色の空の下、地面には草木の類などなく、遥か地平の彼方まで純白の深雪によって覆い尽くされていた。

 そんな心寂しき蒼と白の世界。その只中に一つだけ聳え立つものがあった。

 風除けの高い石壁に囲まれた敷地の中央。四方に高い尖塔を備えた、まるで王城を彷彿させる造りの建造物。

 長年にわたり雪風に晒され続けているためか、外壁は常に真白き雪に覆い隠されており、建物の材質までは判然とせぬ。だが、この雪の純白こそが見る者に荘厳な美しさを印象づける装飾の役割を果たしていた。

 外壁の南側には門が設けられていた。門より内側、建物の入り口へ至るまでの雪は取り除かれ、踏み固められている。

 それはさながら純白の絹布につけられた一筋の浅傷のよう。

 門は内側に向かって開け放たれていた。金属で補強された木製の門が、風に煽られ軋み音をあげる。

 敷地内に刻まれし純白の浅傷の上、門と建物との中間地点に立つ者がいた。

 地面に積もりし雪と同じ、純白の外套に身を包んだ男。背には神を象徴する青色の刺繍が施されている。

 一見すると旅の巡礼僧とも思われた。

 しかし、その手や腰には道具袋や護身用の武器などといった、旅に必要な代物など全くない。『魔孔』の活動期にあり、魔物が跋扈するこの世に不釣り合いなほどの軽装。

 フードを目深に被っているせいか、顔の詳細は判然とせぬ。だが、吹き抜ける寒風に一切動じることなく、雪原の上にて背を伸ばして佇み続ける姿からは、老いや衰えの気配など感じられぬ。

 程なくして空の太陽が厚い雲の中へと没した。太陽を飲み込み、その光を遮ったのは雪雲。空から降り注ぐ穏やかな朝の陽光は、数分と待たずして冷たい氷雪と化し、踏み固められていたはずの雪の小道に新たな雪の層を作り始めていく。

 目まぐるしく変貌を遂げる冬山特有の天候。

 ルインベルグの街──ラムド国に散在する神殿、及び、そこに勤める聖職者たちを統べる大聖堂を擁する国内最大の宗教都市。

 僧はその郊外にある建物の前に佇んでいた。

 頭が僅かに上に動く。しかし、フードの陰に隠れ、眼前の建物を見上げるその目に如何なる光が、如何なる感情が宿っているのか窺い知ることはできぬ。

 天候がかわり、郊外の朝に寒風が吹き荒んでからどれだけ経ったであろうか。男はまるで思い出したかのように歩きはじめていた。

 伴の者すら連れず、たったの一人で。

 建物の入り口、その両脇には番の者と思しき二人の僧兵が無言で近づいてくる男に目を止めた。彼らはこの突然の来訪者に要件を問い、返答次第によっては中で待機している上役に伺いを立てねばならぬ立場にある。

 だが、彼らはそれをしなかった。何の躊躇もなく近づいてくる白外套の男を一瞥したのみ。

 無言で、男の通過を許していた。

 宗教都市という土地柄、この僧と門番たる僧兵との間に信頼に基づいた関係が存在していたがゆえか。

 しかし、真実はそうではなかった。

 男が通り過ぎた後──番兵が立っている入り口の両脇、薄く積もる雪の上に一滴、二滴と水滴が落ちた。

 水滴とは汗。寒風吹きすさぶ極寒の地であるにも関わらず、二人は酷く発汗していたのだ。

 まるで熱病に浮かされたかのような玉の汗を顔中に浮かべて。

 刹那、左の門番が膝から崩れ落ち、右の門番が慄然と震え出した。

 その様たるや、重い眩暈にも似た身体の異変。

 そう。彼らは動かなかったのではない。動けなかったのだ。

 男の発する気配に圧されて。

 入り口の番を任されているのは僧兵。聖職の末席に座する者達。

 聖職者とは神という不可視にして大いなる存在を認識し、それへの信仰と信奉を生業とする。

 そういった性質上、聖職者と呼ばれる者達には霊的なものに対する感覚が常人より敏感な者が多い。彼らもまた例外ではなく、その生来からの体質ゆえに、目の前で発せられた尋常ならざる気配の影響を、常人より強烈に受けていたのであった。

「なんだ、あれは──」

 頽れた左の男が無意識に呟いた。

 左の頬が触れる、雪の積もりし石畳の冷たさすら認識できぬかのごとく、そんな虚ろめいた声で。

「あの気配は、まるで……」

 二人の番兵の前には、既に男の姿はなく、入り口の扉が開け放たれていた。

 雪風が一陣、風除けの外壁を乗り越え、敷地内を吹き抜ける。

 それに煽られ、扉の蝶番が軋む音が鳴った。

 

 建物の最上階には礼拝堂があった。

 香が焚かれているのだろうか、室内は強い香気を帯びた乳白色の煙が立ち込めていた。煙は祀られている神像の足元にまで達しており、それはさながら神の居る雲上の国を表しているかのよう。

 そんな乳白の世界の最奥──祭壇の前には一人の女が祈りを捧げていた。祈りの強さゆえであろうか、彼女は来訪者に気付いた素振りすら見せなかった。後頭部で結い上げられた髪の先端、身に纏いし純白の僧衣の端に至るまで、まるで蝋人形のように微動だにせぬ。

 僧衣の男は礼拝堂の入り口に立ち、一心不乱に祈りを捧げる女の背を眺め続けていた。

 男は、その背に投げかけるかのように言葉を紡ぐ。

「──また、足掻くというのか?」

 まるで何かを嘲るかのような口ぶりであった。

「『魔孔』がこの国に現れてから幾星霜──数多もの女がこれに挑み、世に束の間の安息を与えてきた。だが、あの暗黒の孔は時を経て必ずや再生する。人々が脅威を忘れ去った時を狙っているかのように」

 男の独り言は続く。

「封印と再活動──この繰り返しこそが『魔孔』との戦いの歴史、延いてはこの国の歴史と言い換えても過言ではない。虚しくはならぬのだろうか? 根幹からの解決などできぬがゆえ『聖石の巫女』という、姑息的な手段に全ての希望を託すという行為に」

 男は頭を二、三度横に振る。理解できぬと言わんがばかりに。

 事実、彼の言葉は正鵠を射ていた。

『魔孔』は一度封印されれば以降の数十年は休眠状態となる。無論、これによってラムド国は『魔孔』による打撃から回避できるのだ。その巫女の行為は英雄的な実績であるのは違いないだろう。

 だが、一部の学者は、巫女の行為を『魔孔』の対処を次の世代に先送りさせているだけの愚行と指摘する。

 長すぎる『魔孔』の休眠時間は、人々から魔物の恐怖を忘れさせ、その忘却が、魔物に対抗するための手段──騎士団に代表される武力組織の成長や、彼らが身に着ける武具の鋳造、その原料となる金属の精錬といった技術の発展を著しく妨げ、結果として復活後の被害を拡大させている要因となっているのだと。

 無論、このような偏屈な意見など、人々の意見に本流になどなりえぬ。

 だが事実、この国に住まう大半の者は『巫女』による封印を熱望している。

『巫女』による、問題の先送りを。

 当然であった。一度『魔孔』の封印に成功すれば、その世代の間に復活することはない。その時代の人間は死ぬまでの間、あの忌まわしき孔の脅威に怯えずに済むのだから。

 だが、数ヶ月前──その済むものと思われていたものが覆された。

 八年前に封印したはずの『魔孔』が再び活動を始めたのである。

 同じ時代に二度、あの忌まわしき異界の孔が現れたのだ。

 人々は恐慌に陥った。想定外の闇の到来に、誰もが嘆き、悲しみ、いつ襲われるとも知れぬ魔物の襲来に恐怖した。

 そして、願う。救世主の再臨を。再び『魔孔』を封印し、この国に光を取り戻してくれる英雄の到来を──

「まさか、あの原理主義派が焚きつけた奴の野望が結実するとはね。この大聖堂の権威を保つためだとか言っていたようだが──やれやれ、殊勝なことで」

 男は僅かに天を仰いだ。乳白色の靄の奥に浮かぶ、神とその御遣いの豪奢な天井画が目に留まる。

「──とはいえ、別派閥の人間がしでかしたこととは言え、この大聖堂が『魔孔』の復活を促してしまったようなもの。このことを世間に公表するわけにはいかぬが、程なくして現れるであろう巫女を志す者に手を差し伸べることによって、この罪に対する償いとしよう」

 礼拝堂の中に立ち込める乳白の煙が漏れ出て、男の足元を洗う。

 咽かえるような独特の香気が嗅覚を刺激する。だが、男は一切の反応を示さぬ。

 男の独白は続いた。

「さて、次なる巫女はどんな人物か? 荒れる世を憂いた博愛主義者か、名誉欲に囚われた愚か者か、或いは──」

 視線を降ろし、祈りの場にいる女の背へと向ける。

「もしかしたら、お前に所縁ある者かも知れぬな」

 口元が歪む。

 小気味よさそうな笑みを浮かべて。

「──先代『聖石の巫女』よ」

 笑みを浮かび、口腔の隙間より覗いた歯の隙間には──吐血したのであろうか。血と思しき赤い泡がいくつも付着していた。

 

 <2>

 

 ラムド国中央部には高き壁が存在する。

 その両端は、国の西端と東端にまで至るほど。南北を分断するかのように聳え立つそれは、まるで隣接する敵対国間の国境の様相。

 国の南北には、国教の本山と言うべき大聖堂が存在しており、この壁は各々の大聖堂が管轄下に置く教区の境界線を示すものであった。

 壁と街道が交わる地点には巨大な鉄門が備えられ、その左右には物見櫓と思しき高き建造物。

 その様たるや、まるで城砦の正門のごとし。これらの門の両脇には絶えず鉾槍と重厚な甲冑で武装した四人から成る番兵の一団が立ち、襲来する魔物や、不法に通過しようとする者の監視に目を光らせている。

 北の大聖堂とは『魔孔』に対抗する唯一の手段──『巫女』に『聖石』の力を引き出す術を授ける唯一の機関であり、この技術を守ること、即ちこれらの主導による宗教的・歴史的な伝統の保守こそが『魔孔』の脅威より国を守り、その秩序の維持に必須であると信じられていた。

 事実、北の大聖堂は数多の『巫女』を輩出し『魔孔』の封印に成功を収めているという確固たる実績となっていた。この事実は北の住民たちにとって、自らの正しさを証明する明確な裏付けとなり、その保守的な思想や気風をより一層強固とする要因となっていた。

 それゆえに、北の住民は極端な変化を嫌う。

 国外からの移民も多く、多様な文化が混在する南部からの人や物の流入には厳しい制限が課せられており、北教区への通行を可能としているのは北側が認めた行商人程度のもの。或いは騎士や文官などといった公的な身分を持つ者の随行が必要とされており、そういった厳格過ぎる取り決めが起因しているのか、自ら進んでこの境界線に近寄ろうとする者など極めて稀。人の姿を殆ど見かけることはない。

 だが、今日だけは違った。

 この南北境界線の程近くに併設されている石造りの建物。番兵の詰所を兼ねた北への入域審査場。

 人の姿は、その地下にあった。

 地下にある──牢の中に。

 境界線を不法に突破しようとする不届き者を一時収容するための地下牢。その一室。粗末な寝台、あちこちに汚い染みの目立つ敷布の上に横たわる青年がいた。

 眠っているわけではない。後頭部のところで組んだ両手を枕にし、無機質な天井に向けて厳しい視線を投げかけ続けている。

 その表情は険しく、時折寝返りを打っては、印象的な銀髪を苛立ったかのように掻き毟る。

 青年とはアイザックだった。

 

 

 遥か南の都市ラズリカと呼ばれる街の守衛隊に属する騎士見習い。

 彼は『巫女』の道を志すクオレの護衛のため、ルインベルグを目指す旅の途上にある。しかし今、その足は止まっていた。陽の光の差し込まぬ、この地下牢の中で。

 アイザックの視覚を支配しているのは、無機質な石の天井。房の外に備えられた松明台より漏れ出る灯りによって、それは鈍い橙に染まっていた。

 嗅覚を支配しているのは、強烈な臭気。窓一つない地下牢では湿気が乾くことはなく、天井や床、壁のあちこちにカビが生えており、臭気の元はこれであった。

 そして、聴覚を刺激しているのは足音──

 独房へと近づいてくる、一人のものと思しき足音。石畳の上を硬質な革製の靴で打ち鳴らす独特の音。

 程なくして、周囲の気配に変化が生じた。

「──出ろ!」

 次いで、怒声が彼の耳朶を打つ。アイザックは気怠そうに、声のした方向へと目を向けた。

 声の主は格子の向こうに現れた男だった。短剣と鎖帷子で武装し、顎に豊かな髭を蓄えている。

 顎髭の男は更に声を発する。

「貴様らの身分について確認できた。北への入域を許可する」

 その言葉に、アイザックの表情が一層険しくなり、反射的に言葉を返す。

「だから言っただろう。怪しい人間じゃないって」

「無理を言うな」

 石造りの地下に錠前の音が響き渡る。

「この壁は北が認めた人間、或いは騎士の位を持たぬ者には越えることは許されぬ。いくら特別な事情があろうとも、騎士の盾を持たぬお前たちを俄かに信じられるものか」

 顎鬚の男は牢から出たアイザックの背中を軽く叩く。

「しかし、この退屈な境界警備の仕事もやってみるものだな。まさか今回、聖石を携えた『巫女』殿を護衛しているのが武装した平民ときたものだ。しかも、その平民こそがこの境界を超えるために陛下より特別に『この護衛任務の最中に限り騎士同等の権限』を与えられているとは」

「王都から早馬による連絡が回っているはずだと聞いていたんだけどね。陛下からの親書を見せれば、この壁を超えられるよう手配してもらえるのだとか」

「確認したところ数日前には連絡が届いていた。しかし、前例のないことなので我々も情報の扱いに苦慮していたのも事実。北の伝統を崩しかねぬ人間を一人たりとも入れてはならぬのが、我々境界警備隊の仕事なのでね」

 アイザックは肩を落とし、溜息を吐いた。

 クオレを北の最果てにある宗教都市ルインベルグへ送る旅は、期日の決められた急ぐ旅ではない。

 しかし、『魔孔』が活動期に入り、空や海上などで目撃され、魔物の出現が数多く報告されつつある今、人々の生活が脅かされつつあるのは事実。

 そんな状況下においてアイザックらは三日もの間、この場所で足止めを食らっていた。

 銀髪の青年は深い溜息を吐く。

 そして、思う。

 宮廷のお歴々が、もう少し柔軟な人達だったら、こんな無駄な苦労をせずに済んだのだろうに──と。

 

 時は半月ほど前に遡る。

 王都アルトリア。深緑の木々に覆われた小高い丘陵の上、城下街を見下ろすかのように築かれし王城。

 その最上階、最奥にある玉座の間。

 アイザックとアイリ、そしてクオレの三人は、この部屋にて両側に立ち並ぶ武官と文官の環視のなか、玉座に座する一人の男の前に跪いていた。

 屈強な肉体の上にガウンを纏い、斑白の頭の上には略式の冠を戴く男。

 ラムド国の王。その姿であった。

 貴人としての例に漏れず、武人としての経験を経ているのか老いの途上にあってもなお、全身より放たれる威圧感は相当なるもの。

 騎士を志すアイザックやアイリも、その厳しい道のりによって心身ともに鍛えられているはずであった。しかし、王より放たれる気配たるや、そんな若者の付け焼刃めいた頑強さをいとも簡単に打ち崩していく。

 程なくして、王の威圧は二人の心の芯へと至る。身体は慄然とし、その顔は緊張によって強張りはじめていく。

 緊張が周囲に伝播しはじめたのか、騎士の道を志す奇妙な平民という物珍しい存在を目の前にして、ざわついていた官吏たちも次第にその口を閉ざし、場は一斉に静まり返った。

「顔を上げよ」

 王より声を発せられたのは、丁度その時であった。

 従い、三人は顔を上げる。極度の緊張ゆえに、強く引き締められた表情が露わとなる。

 だが、そんな最中であろうとも三者の目に宿る三様の強き光は揺らぐことはなかった。王もまた、その光に秘められた意志の強さを瞬時にして見抜き、小さく頷いては若者を評価した。

「お前達のことは聞いている」

 最初に発せられたのは、アイザックとアイリの二人に関する事柄であった。

「幼少の頃『魔孔』の出現によって身寄りを無くしたところをオルク卿の助けを受け、養子となったのだとか。その恩に報いるために騎士の道を志し、養父の助けとなり──延いては国のために尽くしたいと」

「はい」

 代表してアイザックが答えた。

「養父からの親書にもございました通り、『魔孔』が活動を再開したのは、ラズリカの地における封印が解かれたことによるもの。管轄下にありながら封印の存在を知らず、封印解除を目論む不届き者の動きに対して後手に回ってしまったのは全て我々──ラズリカ騎士隊の不徳の致すところ。我が騎士隊の手によって『魔孔』の再封印をせぬ限り、この不名誉を雪ぐことはできません」

「そのために、貴殿が護衛をしている『巫女』というのが後ろに控える娘か」

 王は視線を後ろに控える僧衣の娘──クオレへと向ける。

 クオレはその視線を真正面より受け止めた。首より下げられた聖石と同じ群青色の瞳、そこに秘められた神秘的な光が玉座に座する男を射貫く。

 その時、不意に王より放たれ続けていた威圧感が消えた。

 如何なる理由によるものなのか、アイザックは知らぬ。しかし、玉座の間を支配する空気が一気に弛緩したのだ。

 ──その間隙を縫い、彼は続けた。

「しかしながら、隊の者は急増する魔物より街の防衛のために割かれており、護衛の命を受けることとなったのは私と、このアイリの二人のみ。彼女もまた同じ境遇によって養父に育てられた身、貴人の血を一滴も継いではおりませぬ身にございます」

「──なるほど」

 アイザックの発言を聞き、玉座の男は得心して頷いた。

「北への境界線を越えるためには騎士の身分が必要であるがゆえに、貴殿らは南部の主要都市を歴訪し、推挙してもらうよう各騎士隊の信を得て回っていたのだと」

「陛下」

 王の左側に控える一人の武官が口を開く。

「彼らの国に尽くしたいという思いは非常に殊勝なものとして高く評価されるべきでございましょう。しかし、騎士とは元来、武力をもってして外来の敵、或いは『魔孔』由来の魔物より民衆を守るという貴人の義務の一環として定められたもの。残念ながら彼らのような本来庇護されるべき身分の者が騎士位を望むのであれば、それは我々貴族の沽券に関わるというもの」

「しかし、歴訪した南部の都市における彼らの活躍は素晴らしいものであるのも事実にございます」

 その正面に立つ文官の一人が、武官の発言を遮るかのように意見を述べる。

「その最たる例はリュートの街における異変の解決。駐留している騎士隊からの報告によりますと、領主家と長きにわたって裏で契約を交わし、街や騎士隊を混乱に陥れていた魔物インキュバスを追い払ったのだとか。インキュバスとは『魔孔』を由来とする数多の魔族のうち上級に位置する悪魔族の一種。これらの眷族は比類なき魔力と狡猾さによって、人間を堕落させるという。ラムド国の歴史を紐解いても、その呪縛より解き放つことができた例は僅か。並大抵の騎士では困難極まりない偉業と言っても過言ではなく、かの魔物が将来、国に及ぼすであろう悪影響を考慮致しましても、彼らの望みを叶えられるよう特例を設けることも検討するに値するものかと」

 文官の提案を聞いた王は唸った。

「では、貴殿は彼らを騎士に推挙することに賛成であると?」

「慣例を破ることについて些かの抵抗こそございますが──概ね」

「私は反対です」

 先ほど言葉を遮られた武官が反論の声をあげる。

「このようなことを当事者の前で言うことは憚られますが、彼らは『魔孔』復活を看過してしまったラズリカ騎士隊に属する者。正規の騎士ではなくともその一員にございます。一連の失態の責は受けて然るべきであり、彼らの手で『魔孔』封印を成し遂げたという結果を出したのならば兎も角、それも未然である現時点そのような過分な特例を与えるのは、些か尚早であるものかと」

 怒気を孕んだかのような声色に、多くの者が僅かに怯んだかのような表情を見せた。だが、討論の相手である文官の男はと言えば、この脅しに一切臆した様子はなく、淡々と持論を展開するのみ。

「その責は、ラズリカ騎士隊という組織に求めるべきであり、彼らのような個人に背負わせるのはあまりにも酷。それに騎士の身分がなければ北への境界線は越えられず、巫女殿の護衛を完遂することは不可能。そのような状況で如何にして彼らに『魔孔』封印を成し遂げたという結果を出せと?」

「諦めよ、と言っている。巫女殿の御身はひとまず宮廷で預かり、以降の護衛の役目は、王都の騎士隊のうち適当な者を割り当てることとする。そもそも巫女殿の護衛をはじめとした、様々な騎士の責務は我々貴人にのみ課せられるべき。如何なる武功や実績があろうとも、この責務だけは軽々に背負わせるわけにはいかぬ。これは『聖石』を行使する御業を継承するため、長きにわたり伝統を守り続けてきた北の人々の思いに等しいものなのだ」

「では、その適当な者というのが果たしていつ現れると? 八年前、我が騎士隊より先代巫女へと貸し与えた護衛の者も任務を終えた後、遂に帰還することなく行方は杳として知れぬ。昨年まで加入した者もいまだ成長の途上。先の『魔孔』の時代に失った仲間の穴を埋めるほどには至ってはおらぬ──そう、聞いておりますが?」

 玉座の両脇に立つ二人の男の言葉を皮切りに、謁見の場は議論の場へと変じた。誰も彼もが各々の身勝手な論を展開しはじめ、もはや収拾の目途すらつかぬ。

 本来、当事者であるはずのアイザックらは部屋の中央に跪いたまま──まさに除け者、疎外の様相。

 アイザックは誰にも気付かれぬよう小さく溜息を吐き、隣に控えているアイリもまた辟易したかのように表情を曇らせた。

 以降、場内は議論が紛糾して喧々囂々。挙がる声は数多の声によって掻き消し合い、その中心にいる若者たちにすら聞き取ることすら叶わなかった。

 

 こうした不毛な議論の末、宮廷によってこのような組織が急設された。

『暫定護衛隊』

 これは、宮廷の認可を受けた民間人のみが参加できる組織であり、『魔孔』が出現した期間、騎士団に適切な人材がおらぬ場合に限り、その隊に騎士と同等の権限を付与し、巫女の護衛任務を代行させるというもの。

 現在、隊員はアイザックとアイリの二人のみ。二人と宮廷との間を取り次ぐ連絡員すらいない。まさに姑息的な代物。

 だが、この隊には一つだけ特権が付与されていた。

 巫女の護衛を完遂させ、『魔孔』封印を成功させた暁には、隊員全てを特例として騎士叙勲を認めるというものであった。

 ──本当に守ってもらえるものなのか?

 この特例は、まさに賛成派と反対派の意見を折衷させた形と言えば聞こえこそ良い。しかし、その実情は面倒な問題を先送りにしただけとも言い換えることができる。

 今、この境界線越えにおける対応ぶりを見る限り、宮廷の本気ぶりなど窺い知ることはできない。

 ──体のよい厄介払いをされた、と言ったところか。

 地上へと続く階段を上るアイザックは心の中で愚痴をこぼす。

 この苛立ちを、前を歩く髭面の番兵にぶつけてやろうか──そんな幼稚な考えが何度も彼の脳裏をよぎる。

 当然、その行為は無意味。せっかく解けた誤解、得られた北への通行許可を無に帰しかねぬ愚行。彼は必死になって、この衝動を抑え込んだ。

 北の人間は伝統を重視する気風を持つと言われている。外から荒事を持ち込むような人間など土着の伝統文化を破壊しかねぬとして忌避される傾向が強い。それだけ、この国の人間は『魔孔』を恐れ、その切り札である『巫女』の伝統を、『聖石』の力を守らんとしていた。

 アイザックが立ち向かうのは『魔孔』や魔物だけではない。

 北の渦巻く伝統に対する挑戦の旅でもあったのだ。

『魔孔』封印の成功を果たした『巫女』は、強大な魔力を秘めた『聖石』の濫用──封印技術の徒な拡散を防ぐため、北のルインベルグ大聖堂の最奥にある『聖域』に身を置き、俗世と隔離された生活を送り、そこで一生を終える。

 先代巫女である、クオレの母親も──

 救国の英雄という名声は、その娘にして、貴族との間に生まれた不義の子クオレに対する迫害を止めるほどに絶大であった。しかし、幼き頃に経験した心の拠り所であった母親との永遠の別れは、彼女の心に深い傷をつけるには十分にして余りある不幸な出来事。

『巫女』の歴史とは、裏を返せば別離の歴史。『魔孔』の封印という大勢にとっての平和は、ごく少数の──永久の別れを悲しむ涙によって支えられている。

 それは即ち、救国の名誉の恩恵を与えることとの引き換えに、この理不尽な離別に、一切の文句を言うことを許さぬ。言い換えれば『巫女』周辺の人達の悲しみを、伝統という鎖で雁字搦めにさせて表面化させることを許さぬと言っているに等しい。

 その鎖に今、クオレは苦しんでいる。

 騎士とは魔物から人々を守ることを至上の役割とする防人である。

 しかし、それはただ魔物の脅威より人の生命を守るということだけではない。人の生命を救うことによって、その周りの人達の心もまた守ることでもあるのだ。

 隣人を失う憂いを与えぬように。

 或いは友や恋人を失う悲しみを与えぬように。

 そして、親に子を、子には親兄弟を失う嘆きを与えぬように──

 民の一人ひとりが人として幸せに生きる権利。それを最大限保証するために努力をすること。

 これこそがこのラムド国における騎士道。騎士にとっての正義の概念であった。

 そう。この国には大きな矛盾が存在している。

 一人ひとりの幸福のために懸命となっているはずの騎士が、少数の犠牲を強いる『巫女』の存在を許容してしまっている。

 大多数の平和のためとして、ごく僅かな離別の嘆きを見て見ぬふりをしている。

 誰も疑問に思わないのか?

 改善しようとしないのだろうか?

 アイザックはこの矛盾を、まるで素描の狂った絵画を眺めるかのような思いで見つめていた。

「──お仲間のもとへとご案内だ」

 彼の意識を思考の渦から現実へと引き戻したのは、先導する兵士からの何気ない発言。

 地上階にある一室。人同士が向き合う応接の光景を意匠化した彫刻が施された扉の前にて、その兵士の足は止まっていた。

「──アイザック!」

「アイザックさん!」

 扉が開き、まず目に留まったのは、飛び上がるように立ち上がっては、アイザックのもとへと駆け寄る二人の女の姿であった。

 一方は艶のある長い黒髪が印象的な、腰に剣を佩いた女性。

 衣服に沿って浮かび上がるは、十分に女性らしさを残しつつも余計な肉の見当たらぬ戦士として洗練された身体の輪郭。

 眉と目の端が少し上がり気味なせいか、どこか鋭い印象を与える。しかし、仲間を迎え入れるその表情は穏やかにして愛嬌の溢れたもの。

 そしてもう一方は小柄な──波打つかのような癖をもつ髪の少女。

 純白を基調とした僧衣を纏い、首からは神に仕える僧の証たる聖印を下げていた。

 アイザックの姿を一目見た瞬間、その顔に笑みが浮かぶ。まるでぱっと花開くかのように。

 生来の顔つきの幼さも手伝ってか、その笑顔は屈託がなく、理不尽な拘束にやさぐれていたアイザックの心を優しく癒す。

 この部屋で彼を出迎えたのはアイリとクオレの二人であった。

 悪環境のなか長く拘束されていたアイザックとは違い、彼女らの顔に疲れの色は薄い。

『巫女』と、その世話役の女として二人はこの場所においても比較的丁重に扱われていた。

 アイザックの処遇は、言わば三人の身分の確認がとれるまでの間の人質としての扱い。

『暫定護衛隊』などという急造された組織など、この短期間で知れ渡るはずもなく、『魔孔』出現している期間に限られているとはいえ、民間人に騎士同等の権限を与えられるなど、長いラムド国の歴史のなかにおいても例のないこと。アイザックらの弁を信じろというほうが無理な話であるのだ。境界警備隊のとった一連の行動は至極常識的な考えに基づいたものと言えよう。

 にも関わらず、同行者であるアイリやクオレがアイザックと同じく拘束されることがなかったのは、当のクオレが『聖石』を携えていたがゆえ。『巫女』に対する人々の畏敬の念の強さ所以。

 仲間より労いの言葉をかけられる中、アイザックはその理不尽を感じつつも数日ぶりの自由を堪能していた。

「──本当に行くのか?」

 そんな三人に強面の兵士が語り掛ける。

「北への入域は許可する。しかし、今のお前達では北での生活は相当な苦労を強いられるであろう。宮廷によると、お前達は巫女様をお守りするために組織された急造の部隊──平民でありながら騎士と同格の権限を持つと聞く。そのような変則的な立場の人間を、果たして北の人間は受け入れるであろうか?」

「無理は承知しております」

 アイザックは決然と言った。小柄な巫女の頬を軽く撫でながら。

「我々が属するラズリカ騎士隊は大恩ある養父オルクが統べる名誉ある隊。我が隊が犯してしまった『魔孔』復活看過の不名誉──それを雪ぐことは、育ててくれた恩に報いるためでもあるのですから」

「そうか」

 この言葉を聞き、兵士は得心して頷いた。

『魔孔』による被害の著しいこの世において、魔物によって親を失った子、子を失った親の例など星の数ほど存在している。それゆえ、家族を失った者同士が出会い、互いが抱く喪失感を埋め合うために新たな縁を結ぶことなど珍しい話などではない。

 アイザックの言葉とは、この世界において至極ありふれたもの。決して陳腐な美談などではない。

 新たに結んだ縁──育ててくれた恩というものを縋り、これに報いることを生き甲斐とすること。

 これこそが気が狂いそうになるほどの喪失感より自分を守るために編み出さざるをえなかった叡智。失うことに慣れてしまった人々が、必死に生きるために身につけざるをえなかった悲しき知恵。

 彼の言葉は、この世界の厳しくも理不尽なる側面を象徴するものに過ぎなかった。

 ゆえに、眼前の兵士の心は動かぬ。感激することもなければ、感涙も見せぬ。ただ、誰でも口にするかのような当たり前の言葉であるかのように平然と聞き流していた。

 しかし、だからこそ彼はアイザックの言葉を聞いて納得する。当たり前の言葉だからこそ信に値するのだと。

「そこまでの覚悟があるのならば止めはせぬ。行くといい」

「そうしたいのは山々だけどね」今度はアイリが口を開いた。

「貴方達の手厚い歓迎のお陰で、相棒が疲れているのよ。せめて回復するまでは追い出さず、休ませてあげるのが筋というものじゃないかしら?」

 

 大きく伸びをする。

 鎧に身を包んでいるがゆえ、さほど身体がほぐれた様子はないが、窮屈な牢獄の中にいるよりは断然に良い。

 アイザックは久々に吸う外の新鮮な空気を堪能しつつ、そんな愚にもつかぬ考えに浸っていた。

 彼が解放されたのは、地下より出て数時間後のこと。

 今、久方ぶりに自由を得た彼らの前には北への門が大きく口を開いていた。

 門より吹き抜けてくる風が、どこか冷たく感じられる。

 壁の向こう、地平の彼方に見える山々には雪が積もり、まるでこれらが冠を戴くかのごとく、その真上には暗い色をした雪雲が覆っていた。

「これから私たちはあそこへ行くのね」

 アイリがそう語り、溜息を吐く。

 宗教都市ルインベルグ。北の最果てにある聖地。万年雪に覆われた極寒の地。生まれてより温暖な南部での生活しか知らぬ彼らにとって、まさに未知の世界であった。

 三人の胸中に、大きな不安が去来する。

 今、自分達が向かおうとしているのは理想郷でもなければ、至福の地でもない。何かの救いが存在しているわけでもないのだから。

 言うなれば──疑惑の地。

 確かにかの聖地は『巫女』に『聖石』の力を引き出す御業を授ける場所である。しかし、あの時『魔孔』の復活に際し、直接手を下したのはルインベルグより帰還した僧兵。

 ラズリカの聖堂長であるラーラの言によると、旅立つ前の彼は温和にして争いを好まぬ誠実であり、十三年前、クオレが母親と引き離された場に居合わせた数少ない人物の一人であり、ラーラと同様、クオレの境遇には極めて同情的であったという。

 おおよそ標準的、逸脱した性格とは思えない。

 だが、そんな人間がどうして大聖堂の権威を取り戻すためという考えのもと、忌み嫌っているはずの『魔孔』復活に直接手を下したのか?

 一体、あの場所で何を吹き込まれ、変わってしまったのか?

 疑惑は尽きぬ。

 アイザックは、ルインベルグに着いたら、まずはある人物と接触を図ろうと考えていた。

 それは八年前──先代巫女であるクオレの母に同行した、護衛の騎士たち。元王都騎士隊に属していた人物。一説には八人の騎士が彼女の旅に付き従っていた。だが、旅の終わりとともに、彼らは王都に凱旋することもなく、その行方は杳として知れぬという。

 アイザックはこう考えていた。

『聖石』の濫用を防ぐため、その秘密を知る『巫女』を俗世より隔離させるほど徹底している大聖堂が『巫女』の側に仕え、その一部始終を見届けてきた騎士たちに何の処遇もせぬまま放置するとは思えない、と。

 程よい名誉と厚遇を与えた上で、大聖堂の環視が行き届く場所に置いておく程度のことはするものと考えるのが自然。

 ──ゆえに、彼らはルインベルグに留まったままでいる。

 帰らないのではない、帰れぬ事情を抱えているのだ、と。

 根拠こそない。だが、この仮説がアイザックの抱く疑問を解消する最も納得のいくもの。

 だからこそ、そんな彼らの話を聞くことができればと思っていた。

 大聖堂が掲げる『巫女』制度について、使命を終えた彼らが、どんな考えを抱いているか──それを知ることができれば、自分たちが今後取るべき行動の、そのなんらかの指標になるのではないかと。

 もし、アイザックの考えの通り、大聖堂の命令によってかの地に縛られ、自由を制限されている状況下にあり、彼ら自身もそれに不満を抱えていたとしたら、自由を渇望する彼らより協力を得ることもできるだろう。

 伝統という名の堅牢な壁に風穴を開け、そこより先代巫女であるクオレの母を救い出さんとするための一助となるのかも知れない。

 ──そんな儚い可能性の存在が、不安に押しつぶされそうになっている騎士の心を支えている。

「行こう」

 言葉少なに、アイザックは出発を宣言し、前へと足を踏み出した。

 アイリとクオレも、無言で彼に続く。

 門より吹き抜ける冷たい風が三人に襲い掛かる。

 まるで新たな入域者を拒むかのように。

 だが三人は、そのような拒絶を押しのけて門をくぐり、北の地へと足を踏み入れる。

 目の前には壁一枚隔てた南とは何ら変わらぬ光景が広がっていた。

 しかし、アイザックは感じていた。南とは明らかに違う空気の冷たさを。

 アイリは感じていた。澱みにも似た、空気の湿っぽさを。

 そして、クオレは感じていた。

 ──この北の領域の全てより漂う、抑圧的な空気を。

 理由はわからない。ただの気のせいなのかも知れない。

 だが、これが入域して初めて抱く、北に対する忌憚のない感想だった。

 三人は知らぬ。だが、いずれ知る。

 その感想こそが正鵠を射た感性ゆえのものであることを。

 そして同時に、おのれの未来を暗喩していたということを。

 

 

 <3>

 

 王都アルトリアの北。小高い丘陵の上に聳え立つ王城。

 その最奥にある玉座の間。半月ほど前、武官と文官を交え、謁見に現れたアイザックらの騎士叙勲を巡って喧々囂々たる議論が交わされし場所。

 夜の帳が降り、人気の失われたこの部屋に二人──王とその側近と思しき男が静かに言葉を交わしていた。

 側近とは、アイザックとアイリの騎士叙勲に賛意を示した文官であった。

「──どういう風の吹きまわしだ?」

「どういう、と仰いますと?」

 側近の文官は涼やかな表情で、王の問いに応じていた。

「陛下のお言葉の真意がわかりませぬ以上、私としても如何様に答えて良いのやら……」

「とぼけるな」

 斑白の王が厳しい声で、文官の言葉を制した。

「どうして賛意を示したのだ?」

「なるほど」

 文官の男は得心して頷き、そして続けた。

「あのオルク卿の御養子である若者の騎士叙勲についてですね?」

「お前は長年、この宮廷の重鎮として保守派の者達を束ねてきたのではなかったのか? 言うなれば、あの武官どもと思想を同じくする懇意の関係。我が国の騎士文化に最も拘泥せねばならぬはずの貴殿のような人間が、なぜあのような──言うなれば、仲間を裏切るような発言をしたのだ?」

「──別に宗旨替えをしたわけにはございませぬ」

 指摘を受けた男は王より目を逸らし、ゆっくりと天を仰いだ。

 それにつられるかのように、王もまた玉座に座したまま、上を向いた。

 絢爛な天井画がそこにはあった。しかし、二人が見ているのはそれではない。

 王と文官は、天井の遥か先にある夜の円屋根を幻視していた。

 満面の星海の只中に浮かんでいるであろう、忌まわしき漆黒の孔──『魔孔』を。

「今回は異例。先の『魔孔』封印より、たったの八年を経ての復活にございます。過去の例から類推するに、一度封印が為されれば五、六十年は復活しなかったはずであったものなのに」

「──先代巫女の神に対する信仰心が欠けていたがゆえに弱い封印しか施せなかった。そう、大聖堂の一部の坊主どもが抜かしているようだが、私は信じてはおらぬ。証拠もなく、証明も不可能な事象についての雑音など聞くに値せぬ」

「御意。肝要なのは、この異例の事態に対する現実的な方策を練ることにございます」

「その通り。以前に『魔孔』が出現してより十三年。その際に失ってしまった国力、兵力も完全には回復しきってはおらぬ。兵力の根幹をなす騎士団も、絶対数の限られる貴族たちの子息のみで構成されている都合上、十分な数を確保するには時間がかかりすぎる。かと言って、人材を慎重に選りすぐらねばリュート領主家のような連中を呼び込んでしまい、組織が内より崩壊しかねぬ」

 歯痒い話よ──そう、王は忌々しげに語った。

「そう考えれば、なるほど。平民のなかでも有能な人間を登用するというのも一つの手ではあろうな」

「幸運にも、血は繋がってはおらずとも、あの若者は王家に連なる血筋の家の養子。オルク家に限らず社会奉仕の一環として彼らのような『魔孔』の被害を受けた子供を引き取って育てている貴族家も少なからず存在しております」

「──彼らにも直系の貴族たち同様に騎士となる義務を課せ、と言うのか?」

「それは極論にございます」

 王より厳しい言葉の箭を受け、文官は慌てて否定した。

「ですが、議論は必要にございます。我々のような宮廷の人間だけではなく民衆をも巻き込んだ国民的な議論を。『魔孔』に対抗するための武力。その要たる騎士団が貴族だけに頼り切るあまり、先細りしてしまっている現状を打破するため、身分の尊卑を問わず、知恵を出さねばならぬのだと」

「それが宗旨替えした理由である、と?」

「……過去の慣例を破り『魔孔』がたった八年で復活してしまった以上、我々だけが慣例に拘ってしまっていては後れを取るのは明白。ならばこの国を守るために、主義主張を捨ててでも見直さねばならぬ時だと思い至ったがゆえに」

「その第一段階が──彼らか」

 王は小さく溜息を吐く。その表情はひどく険しい。

 確かに彼らは騎士に叙勲されるのを強く希望している。ましてや、彼らは王家に連なるオルク家の養子。その素養はオルク卿自身が保障しているという。

 平民として初の騎士叙勲者として最も適した人材と言えよう。

 もし、彼らが『魔孔』封印に成功し、これに寄与した功績によって騎士として叙勲されたとなれば、彼らは当然、国民の間から英雄視されるのは明白。

 おのずと平民騎士の問題は国民の関心事となるであろう。

 この文官の言う通り、国民的議論を呼び起こす絶好の契機。

 第二のアイザック、或いは第二のアイリを目指すべく、数多くの有能な人間が騎士団の門扉を叩くかも知れぬ。

 慢性的な人員不足は解消されるばかりか、『魔孔』に対する国防の意識が民衆にまで行きわたることだろう。

『魔孔』に恐れ、長く顔を伏したまま民衆に、騎士団という対抗組織への道が示されるということは、即ちそういう未来の到来を意味している。

 騎士団の未来は明るいと言えよう。

 ──だが、本当にこれで良いのか?

 王は苦悩する。

 これはアイザックら一行が『魔孔』封印に成功したときに起こるであろう、極めて楽観的な未来像である。

 もし、彼らがこの旅に失敗したら?

 今、北に送られているアイザックらには期間限定とはいえ騎士と同等の資格を与えられている。

 平民への正式な騎士叙勲に抵抗を覚えた宮廷が下した前代未聞の判断。だが、それは保守思想に偏頗した北の人間たちが受け入れられるものではない。

 そんな彼らの旅が途中で頓挫してしまったら──南北問わず、この国の希望でもある『巫女』の護衛を力のない人間に任せてしまった宮廷に対する批判は凄まじいものとなろう。

 南北の対立の激化、最悪の場合、北の独立まで考えられる。

 このような重責を、あの二人に背負わせて良いのだろうか?

 そんな疑問が王の脳裏をよぎる。

 だが、王都をはじめとして各都市を守衛する騎士隊も、八年前までの戦いによって失った戦力が補い切れてはおらず、この急な『魔孔』復活に各騎士隊は自分達の持ち場を守り切るのが精一杯な状況にある。

『巫女』の護衛に人員を割く余裕などありはしない。

 いや、王としての権限を最大限に発揮させれば、ラズリカ騎士隊に人選の再考を命じることも可能であろう。

 だが、そうすれば隊の汚名返上と、養子の騎士叙勲を目論むオルクの抵抗を受けるのは必至。次善策として、王都騎士隊より適当な人材を二人選出し、それによって出来てしまった穴をアイリとアイザックに埋めさせるという方法もある。

 ──だが、王はそれらを選ぶことができなかった。

 先細りが懸念される騎士団の力を回復させるに平民を登用するという手段は、最も現実的にして有効なものであったがゆえに。

 その道筋を消すことができずにいた。

 唯一にして現実的な手段──この言葉が醸し出す誘惑は為政者にとってあまりにも強烈であったのだ。

「暫くは、心安らかに眠れぬ日々が続くであろうな」

 遂に王は決断を下した。誘惑に屈した。

「彼らの成功に賭けるしかあるまい。そして、その果てに未来のラムド国としての姿を──身分問わず、この国の人間全員が一丸となって『魔孔』に対抗できる新たな国づくりをせねばならぬ」

「ええ。私も覚悟するといたしましょう」

 文官の男が自嘲めいた笑みを浮かべ、頷く。

「宮廷内の調停役はどうかお任せあれ。派閥を裏切った責任は、これより始まるであろう政争の矢面に立ち続けることによって全うするといたしましょう」

 

 <4>

 

 北の最果て──ルインベルグ。

 年中氷雪に覆われし常冬の宗教都市。

 雪雲が晴れる日はなく、空に太陽が顔を覗かせることは稀。

 厳しすぎる気候ゆえに、この地方には魔物すら寄り付かぬ。

 五百年前、他国より侵略を受けた際も、その不毛さゆえに攻略の対象からは外されたともあるほど。この場所は国内で唯一、戦禍というものを知らぬ。

 そういった事情も手伝ってか、人は口を揃え──皮肉を込めてこう呼ぶ。

『ラムド国で最も平和な場所』と。

 日が長い南部では、今頃が夕刻──間もなく日没の時刻を迎える頃合。しかし、北におけるこの時刻は既に夜の帳が降り、横殴りの雪だけが吹き荒ぶ漆黒の世界。

 アイザックら三人は脛まで積もる雪に苦しみながら、闇と雪が支配するルインベルグの街を歩いていた。

 旅の途中、北へ進むたびに下がっていく気温。そして、広がり始める銀色の世界。初めて体験する気候と景色の変容ぶりに最初は興奮気味であったアイリやクオレも、この厳冬の如き地に辿り着く頃には興奮も喜びも完全に消え失せ、襲い掛かる雪風にただ無言で震え、耐え忍びながら歩くのが精々といった有様となっていた。

 防寒用のサーコートの上に、数分と待たずして薄い雪の層が出来上がる。

 少しでもこの寒さから逃れんとアイリとクオレは無意識のうちに体を寄せ合っていた。二人はアイザックの後ろを歩き、彼の身体を風除けにするかのように、その背中にぴたりとくっついていた。

「静かですね……」

 寒さに震えながら、クオレがアイリに語り掛ける。

 今、三人が歩いているは宿場街。巡礼者が一晩の寒風を凌ぎ、束の間の憩いを求める場所。路の両側に並ぶ建物からは、そんな彼らの語らいや笑い声が聞こえるはずであった。

 しかし、吹き荒れる雪が、そのような暖かな声をことごとく掻き消し──辺りに静寂をもたらし続けている。

「ええ」そんな少女の言葉に、アイリは小さく頷いた。

「怖いくらいにね」

 今、通りを歩く三人の聴覚を支配しているのは、互いの声、或いは息遣い。そして辺りを吹き荒れる風の音と、時折遠くから響きわたるどこかの屋根からと思しき大きな落雪の音。

 早く暖かなラズリカに帰りたい──そう、アイリは強く思う。だが、今は任務の旅の最中。騎士の道を志す人間にとってそのような甘えた思考は禁物である。こんな報われぬ道を選んでしまった事を彼女は少しだけ後悔をしていた。

 その時、一行の先頭を歩いていたアイザックが不意に前方を指差した。一軒の宿屋に向けて。

「──今晩はここに泊まるとしよう」

 そこは大きな通りの角に面した質素な三階建ての宿。

 霧雪と宵の闇の向こう、通りの遥か先には巨大な建物と思しき影が見える。

 恐らくそこが旅の最終目的地。ルインベルグの大聖堂であろう。

 アイザックが選んだのは、それを最上階より眺めることができるこの場所であった。

「じゃあ、ここにしましょう」

 アイリの促しに、クオレも静かに頷いた。

 馴染みのない街。どこの店が優良か劣悪かなど一切知らぬ彼女らにアイザックの決断を否定する理由はない。

 むしろ、辛抱の限界を超えた寒さから逃れ、温かい食事と寝床の誘惑に身を委ねることを許す彼のこの発言を心より待ち望んでいた。

 アイザックの先導によって目的の建物の前までやってきたアイリとクオレは、もはや我慢の限界と言わんがばかりに温かい暖炉の灯りが微かに漏れる店内へと駆けこんでいった。

 

 それは不愉快でこそあったが、慣れた感覚であった。

 宿屋の一階にある酒場を兼ねた食堂にて行われる、全視線を集めたなかでの食事。他の客からの環視を受けながらの憩い。

 北に入域して以降、どこの街でも、どこの店でも同じような目に遭った。宿の店主こそ商売柄ゆえ表立って礼を欠いた行動こそ取らなかったが、一般客となれば話は別。アイザックらが店を訪れると、この見慣れぬ三人に誰もが静まりかえり、視線を向けた。しかし、好意的に声をかけ、素性を尋ねようとするような者など皆無。ただ、好奇と不安が入り混じった視線を向けたまま、声を潜めて仲間と言葉を交わすのみ。

 アイザックやアイリが視線の主と目を合わせようとすると、それはすぐに逸らされ、視線を戻すと、彼らもまたアイザックらに視線を向ける。

 こうして衆目に晒されながら三人が食事を取り終えた頃、店の奥より一人の初老の男が現れ、彼らのもとへと近づいていく。

 そして、アイザックとアイリの席の間に立つと、開口一番にこう言った。

「──すまないね。旅の御方」

 男とは店主であった。店主は慣れた動作で手にしていた盆の上に置かれた器を人数分、卓の上へと置いていく。

 器の中にあるのは芳醇な香りの立つ紫色の液体。葡萄酒であった。

「悪いが店主。それは注文をしていない」

「存じております」アイザックの制止の言葉に、男は笑顔で答えた。

「これは店主として、お客様への詫びの印にございますゆえ。どうかご遠慮なく」

 謝意を意識した暗い声色。歌い手を目指していた過去を持つアイリは、その際の発声に慣れめいたものを直感していた。

「なるほど……ね」

 そして女性特有の鋭い勘で察した。このルインベルグの抱える問題、その片鱗というものを。

 年中、氷雪に覆われたこの地方では当然のことながら作物の類は育たぬ。また、海産物の確保が簡易な海岸地域ならばいざ知らず、このルインベルグは内陸に位置している都市。自給自足は不可能であり、住民の食糧事情は行商人による交易によって支えられている。

 生活を支えてこそあれ、行商人も所詮は異邦者。北の住民特有の排外的な感情は当然、彼らにも向けられる。

 無論、それは揉め事の種となろう。

 ルインベルグは常冬の街。人と人との争いはおのずと人の集まる場所──宿屋の酒場に限られよう。

 そうなると自動的に揉め事の調停は店主である人間に役目となる。

 ましてや、これらの揉め事によって行商人が臍を曲げてしまい、食糧供給が止めてしまうと、真っ先に被害を受けるのは、酒場に代表される飲食を商売とする者たちである。だが、そんな彼らの客の大半を占めるのはルインベルグの住人たち。

 どちらか一方に肩入れする訳にはいかない。

 店主の慣れた謝罪は、そんな苦しい立場ゆえに編み出した処世術であったのだろう。

「お疲れ様です」

 クオレも同じことを察したのだろうか。労いの言葉をかけた。

「──謝罪のついでに少し教えてくれないか?」

 笑顔で葡萄酒を堪能するアイリを横目にアイザックがこう切り出した。

「我々のように南より来る巡礼者というのは、それほどに珍しいものなのか?」

 次いで彼より発せられたのは疑問の言葉。北の集落を訪れるたび、時々向けられる好奇の目に関する問いかけであった。

 このルインベルグとは、大聖堂という北の教区を統べる宗教施設を擁する街。そして、その大聖堂内にはかつてアイリも憧れ、入隊を望んでいた国内最大の聖歌隊──ルインベルグ聖歌隊も存在している。巡礼の旅に寄る者のみならず、歌手を志望する者の来訪も多いと考えられてきた。

 もっと街が賑わっていてもおかしくはない。

 だが、現実は違っていた。

 人の多く訪れる街というものは、得てして多様性に富んだ街の様子をしているものである。街の様子とは立ち並ぶ建物の様式のみを差す言葉ではない。往来を歩く人々の服装、肌の色、口にする言葉の地方訛りや食事をはじめとしたさまざまな文化までを含む。

 だが、この街の様子は、アイザックの思い描く多様性とは真逆の代物。

 とても国の北半分を教区とする総本山とは思えぬ。ましてや北の大聖堂とは『巫女』に『聖石』の力を引き出す業を授ける──言うなれば、この国における巫女信仰の中心的土地。『魔孔』の被害に苦しむ国民全てにとっての聖地と言っても過言ではないのだ。

 もっと巡礼者が訪れるはずであろう。南北問わず、国中の多くの地域から──まさに一国の大都市と見紛うほどに、多様な人々によってごった返しているはず。

 ゆえに、尚更この有様は不可解。これはアイザックの疑問は彼独特の感性ではない。アイリやクオレなど、北の文化に馴染みのない人間ならば誰しもが思い至るであろう平凡な感想であったからだ。

「そういうことでございますか」

 主人の男は周囲を見回した。今まで環視していた他の客も食事を終えて各々の部屋に戻っていったのだろうか。この食堂において人の姿は疎らとなっていた。

 それを確認した店主は小さく溜息を吐くと、アイザックたちが陣取る卓の空いた椅子にゆっくりと腰を下ろす。

 そして、話をはじめた。

「巡礼のお客様は、だいたい三月ほど前まで──雪の弱い時期を見計らっていらっしゃるのが常にございます」

「では、今は──?」

「現在は雪が最も強く、一年で最も巡礼には適さぬ寒さの厳しい時期にございます。にも関わらず、この街を訪れるということは、やはり何らかの非常事態。火急の要件があるのではないかと察するに十分。ましてや、巡礼者の護衛には各神殿が抱える僧兵が同伴するのが常。貴方達のような──聖職者が使用や携帯を忌避するとされる刀剣類を携えた戦士をつけるのは『魔孔』が現れた時のみ、騎士団の支援によって旅立ちが命じられた場合に限ります。そして、数ヶ月前に現れた『魔孔』の存在とを照らし合わせると、時期的に貴方達こそが巫女候補の女性と、それを護衛する騎士であると考えるのが自然かと。──違いますか?」

 三人は肯定も否定もしなかった。いや、できなかった。

 彼らの目的は確かにクオレを『巫女』とし、『魔孔』封印の術を授けてもらうことではある。

 だが、同時に──あの大聖堂の中で暮らしているであろうクオレの母を連れ出すという目的もある。

 ある意味において巫女文化の破壊。保守思想の強い北の人間にとって、決して相容れられない思想であると言えよう。

 ゆえに、三人は黙す。これから彼らの拠り所である巫女信仰の根幹を揺るがすなど、どうして言えようものか?

 宿の主人はこの沈黙を、次の発言に対する促しと受け取り、再び声を発する。

「ですが……」

 だが、店主は不意に言葉を止めた。まるで奥歯にものが挟まったかのような、ひどく言いにくい言葉を如何にして伝えようか逡巡しているかのようであった。

「大丈夫よ。怒らないから言ってみて」

 アイリが促して一分。店主の男がようやと、その重い口を開いた。

「そういった状況下で季節を問わずこの街を訪れるのは、巫女候補の女性と、宮廷より護衛の任務を受けた騎士様であると相場が決まっております。ですが、御二人様の荷のなかに騎士団の人間であることを表す紋章入りの盾がなかったものでして……」

 アイザックは得心し、溜息を吐いた。

 確かに怪訝に思うだろう。巫女信仰の強い北だからこそ、その候補たる人間を、盾すら持たぬ──どこの家の者かもわからぬ未熟な人間に守らせているのだろう、と。

「ルインベルグはこの寒さゆえ、魔物の類が寄り付くことはありません。しかし、ここ以外の地域で相当な被害が出るものと思われます。早急な『魔孔』の封印。『巫女』の育成は最も人々が望んでいるもの。失敗はしてほしくないと思うがゆえの憂慮なのでしょう。不愉快な思いをさせてしまい大変心苦しいのですが、どうかご勘弁を」

 その言葉を聞いた刹那、二人の騎士見習いが、ばつの悪そうな表情を見せた。

 平民であるがゆえに、半月前の王宮での謁見の際において、正式な騎士叙勲に結びつけることができなかったこと。

『巫女暫定護衛隊』などという、姑息的な立場に甘んじてしまったこと。

 その弊害がこういった形で現れ、こうして今に至るまで、不愉快な思いをしながらの旅を強いられている。

 クオレを守るべき立場の自分達が、逆に彼女に迷惑をかけてしまっている。

 二人は自分を責めたてた。

 その様子を見かねたのか、クオレが店主に向かい穏やかな口調で語り掛けた。

「──皆様がご心配される気持ちはわかります。ですが、彼らを旅の伴として選んだのは私自身」

 口調こそ穏やかであったものの、その表情は毅然としたもの。

 首より下げられた『聖石』と同じ色の瞳に強い光が宿る。それはどこか厳しい──自分や仲間に無理解な、周囲の者達に対する僅かな非難の意志が込められていた。

「彼らは私と同じ、幼き頃に現れた『魔孔』によって人生を狂わされた──言うなれば、心に同じ傷をもった仲間にございます。そして、そんな悲運に見舞われながらも必死に足掻いて生きる姿は、狂わされた自分の人生から目を背け、神殿に籠ることしかできなかった私を勇気づけ、『魔孔』と戦う意志をも与えてくれたのです」

 少女は僅かに俯いた。そっと胸に手を当て、過去に思いを馳せる。

 胸元の『聖石』が僅かに揺れた。

「確かに彼らは正規の騎士ではない、傍目には未熟に映るかも知れません。ゆえに、この旅のなかで互いに成長していければと思い、私は彼らを伴役として指名いたしました。ですから、たとえ誰かより彼らの替わりの伴役として、如何なる屈強な武人や高名な騎士を提示されたとしても、私は丁重にお断りしていたでしょう──私はこのような偏屈者ゆえ、皆様のご期待に沿った『巫女』にはなれないかも知れません。どうか過度な注目はしないで頂きたいものですね」

「なるほど。皆さまには大変なご苦労があったようですな」

 主人は静かに頷いた。

「では、せめてこの店で過ごして頂く間は、今後そのような失礼によってご気分を害されることのないよう気を回しておきましょう」

「──いえ、彼らの気持ちもわかります。ですから、そこまでして頂かなくても……」

「いいえ。そのようにさせて頂きたく」

 クオレの言葉を受け、店主の男は恭しく頭を下げた。

「如何様な御深慮があれども、巫女様の存在は我々にとって大きな希望であることには変わりませぬ。そのような御方が僅かなりともご気分を害するようなことがあれば、人へのもてなしを生業としている人間として失格にございます」

 そう言い、店主は頭を上げた。

 そして、卓上のアイリの目の前に置かれた空の杯を一瞥し、そこへ向けてそっと手を差し伸べた。

「お約束の証として、もう一杯いかがですかな?」

「ええ」

 促され、アイリは頷いた。その顔からは先程までの曇った色は消え、本来の明るさを取り戻していた。

 クオレと店主による気遣いの賜物であった。

「お願いするわ」

「では、ただいまご用意を──」

 そう告げ、店主が店の奥へ戻ろうと、踵を返そうとした。

 その時、突如食堂の空気が急冷した。

 食堂とは宿屋の一階に併設されている公共の空間であり宿泊者でなくとも利用が自由なのがこの国における常。それゆえ、来客のたびに外気が流れ込む。

 このような僻地の宿屋では従業員の数も限られており、客の出入りに気付かぬことも多い。食堂に流れる空気の変動は、そのような人の流れを店の者に知らせる貴重な情報源であったのだ。

 その空気の変動を来客ゆえのものと察したのか、宿の主は反射的に入り口のほうへと向き直った。

 そして、挨拶を交わそうと口を開く。

「いらっしゃい──」

 だが、その口より出るはずの言葉が──不意に止まった。

 店の看板をくぐって戸口に立つ男がおり、それが原因だった。突然の店主の沈黙に不審を覚えた三人も戸口を振り返り、そして見た。

 そこに立っていたのは、外に降り積もる雪を彷彿させるかのような、純白の衣に身を包んだ長身の男。

 しかし、目深に被っているフードよりのぞく顎、或いは首元から見える肌は浅黒く、精悍な印象すら受ける。

 そして、首から下げられていたのは──聖印。神の信徒たる僧の証。だが、それはクオレが身に着けている略式のものではなく細部の装飾に至るまで緻密に造られている高価な代物。無論、末端の構成員などに与えられるようなものではない。

 相応な位にある聖職者であると考えるのが自然。

 ──しかし、高位の僧がどうしてこんな場所に?

 アイザックは訝しがった。

 一部の宗教とは異なり、ラムド国の国教たるこの教団は、厳格な階級制度と階級ごとにおける制約が明文化されている。

 それは、信仰者が神殿外の社会における適応させ、布教や伝道を円滑に行わせるためであり、これらの役目を担う末端の下級僧への制約は概ね緩く、食生活の制限など、生活上の規制を加えられることはない。対して、一定以上の地位にある信徒は皆、様々な戒律のもとに生きることを義務付けられる。その戒律は教団内の地位の向上に比例して厳しくなり、その最たるものが肉食と飲酒、及び聖別されていない武具の携帯の禁止である。

 肉体は生命の根源であり、脳はそれを統括するもの。更に生物にその肉体や脳を授けたのは創造主たる神であり、肉の損壊や脳の機能を狂わせることは即ち、これらを授けてくれた神に対する冒涜である、というのがこの禁止の理由であった。

 そう。ここは宿屋の一階にある酒場。酒や肉の類が数多く提供される。高位の聖職者が決して立ち入ることのない、彼らの信仰とは全く相容れぬ場所であるのだ。

 にも関わらず、高僧と思しき男はここに居た。

 店主も困惑し、その場に立ち竦んでいた。この想定外の客人の来訪に、低頭してもてなさねばならぬ立場の人間が本来の役目を忘れて。

 店内を支配する奇妙な沈黙のなか、高僧はゆっくりと視線を巡らせる。やがてその巡らせた視線は、アイザックらの座する席へと向けられ、止まった。

 この所作に、場にいる全ての者の表情が一変した。

 二人の騎士のそれは緊張によって強張り、クオレのそれには驚きと不安が入り混じったかのような感情が浮かぶ。

 そんな南からの旅人の変化に対し、高僧に起こった表情の変化とは──笑み。

 目深に被ったフードからは、表情の全ては視認できぬ。だが、その口許、或いは頬の肉の吊り上がりは笑みの際に浮かぶ特有の変化であった。

 表情の変化ののち、浅黒の高僧はゆっくりと歩を進めた。アイザックらが座する卓へと向かって。

「お迎えにあがりました」力強い声音で高僧は言った。

「クオレ様──我が大聖堂が誇る偉大なる先代巫女の実娘」

 どうして彼がクオレの事を知っているのか?

 どうして自分達の目的を知っているのか?

 様々な謎があったが、声色に気圧されるあまり、誰もこの瞬間に指摘することができなかった。

 唖然とする三人を余所に、男は深く頭を下げた。

「そろそろ到着する頃合と思っておりました。我ら一同、今日という日をお待ちしておりました」

 

 しかし、この時──アイザックらは知らなかった。

 この瞬間こそが、自身の運命の歯車を大きく動かし、そして狂わせる因果の始まりであるということを。


 
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