No.799706

蝉時雨と夏の幻

幼馴染みの少年少女が住む、真夏の片田舎での御伽噺です。
小さなちいさな夢の物語を、お楽しみください。


初めましてorお久しぶりです。真鶴あさみです。

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2015-09-01 00:14:27 投稿 / 全11ページ    総閲覧数:1243   閲覧ユーザー数:1238

■1■

 

「…あの、鮎里も降りようか?」

「いや、そのままでいいだろ…」

愛用の自転車の荷台に幼馴染みの少女を座らせたまま、僕は両手で握ったハンドルに力を込めて、ひたすらと坂道を登り続ける。

――高校生の女の子の重さって、こんなもんなのか――

「その、鮎里…重いでしょ?」

「ばっちりだな…」

「あ、ひどーい!」

彼氏の彼女に対する気遣いとしては、ここは否定するべきなのかもしれない。しかし重いものは重いのだ。この重さを全て上り坂のせいにできるほど、僕は人間ができちゃいない。

「どうせ病院で、美味いもんでも食いすぎたんだろ…」

「別に美味しくなんてないよー。でも、食べ過ぎたかもしれないのは認める…かも…」

「美味くないもんまで食いすぎるのか、お前は!」

「あははっ」

なんということもない、いつものやり取り。それでも僕は、鮎里とこうして過ごす時間が大好きだった。

遥かに高く青い蒼い夏空をバックに、緑のグラデーションをまとった丘が幾重にも連なる、典型的な鄙びた田舎の風景。

その緑の木々の合間を縫って、一本の頼りない舗装道路が、延々と続いていた。

容赦なく照りつける真夏の太陽と、日差しを反射するアスファルトの熱で、立ち昇った陽炎の向こう、僕たちの行く手の僅か先には、逃げ水のようなものさえ見えている。

僕たち二人の他には殆ど何も動くものはなく、聞こえてくるのはただ、頭上から降り注ぐ蝉たちの大輪唱だけ。

人間というのは妙なところで繊細にできているもので、蝉の声ひとつで体感温度がぐぐんと急上昇するものだ。

暑苦しいから止めてくれと言いたくもなるが、これも夏の風物詩。きっと蝉の鳴かない夏なんて、何処か物足りなく思うのだろう。

――どうせ先の短い命だ。今のうちに存分に鳴いておくがいい!――

悪代官か闇の幹部にでもなった気分で、そう心の中で呟く。

――!!!!――

次の瞬間、けたたましいクラクションの残響を残して、後ろから僕たちを追い抜いた物流トラックの巨体が、猛スピードで走り去っていく。

「わわわっ!」

僅かに遅れて巻き起こる突風に、慌てて頭に載せた帽子を押さえる鮎里。

情けない声に振り向いた僕の視界に飛び込んできたのは、長い黒髪と白いスカートの裾を風に躍らせる幼馴染みの姿だった。

「綺麗だよな…」

と思った。が、僕は不覚にも、無意識のうちにその言葉を紡いでしまっていたようだ。

「うん?」

聞こえていて聞き返すのだ、この意地悪な幼馴染みは。

だから、あえて僕も天邪鬼な態度を決めこむ。

「典型的な日本の、ザ・片田舎って感じだよな!」

「えー、そっちー?」

不満げに抗議の声を上げる笑顔の鮎里である。ほら、やっぱり聞こえていたんじゃないか…。

そんな鮎里の笑顔も、真夏の太陽に負けないくらい眩しく思えた。

「ほら、行くぞ!」

だらだらと続く坂道を、僕は再び愛車を押して歩み始める。

荷台に座ったままの鮎里は、最初のうちこそ、「頑張れ!」だのと励ましの言葉をかけてくれたが、やがてかける言葉の在庫が切れたのか、それはいつの間にか、怪しげな応援歌に代わっていた。

ちょっと前の流行歌を即興でアレンジした、極めて意味不明の代物だが、幸か不幸か僕以外に聴いている者など誰もいない。

綺麗な歌声だけに、少々勿体ない気もするが、僕の苦労に対する割に合わない報酬ということで、ささやかな独占を許してもらおう。

――!!!――

突拍子もない気恥ずかしい歌詞が鮎里の口から漏れたとき、僕は思わず愛車に急ブレーキをかけた。

「わっわわっ!」

またも妙な声を上げて転がり落ちそうになる鮎里を支えて、僕はそっと地面に降ろす。

「どうしたの、響ちゃん?」

怪訝そうに尋ねる鮎里がきょろきょろと辺りを見回してみるが、相変わらずの田舎風景が続いているだけで、特に何も変ったことはない。

「パンクでもした?」

愛車の前輪に歩み寄りながら、そう首を傾げる。

「足元に注意だ、鮎里」

僕はそう言って、鮎里の隣に並んだ。

「え、ヘビ? ミミズ? ケムシ? ク…マは違うか…」

一人ボケツッコミ状態の鮎里を無視して、僕はおもむろにしゃがみこむと、前輪の僅か先の路上を這う小さな物体を、そっとやさしく摘み上げる。

「何それ、可愛くない…」

隣に同じようにしゃがみこんで、僕の手元を覗き込んだ鮎里が、極めてストレートな感想を口にする。

「セミの幼虫だな。よく抜け殻が花壇の葉っぱとかにあるだろ?」

「あー、って、あのうるさいセミ?」

お前の歌といい勝負だ…と言いたいところだが、それは置いておこう。

「普通は夕暮れ後に地面から出てきて、夜中に脱皮するはずだけど、まぁ、何処にでもうっかり者はいるってことかもな…」

「ふーん…」

ちょっと載せてみて、とばかりに広げた鮎里の小さな手のひらの上に、やさしく幼虫を置いた。

「ねぇ、刺されたりしない?」

「セミに刺されて死んだやつの話を、聞いたことがあるのか、お前は…」

「ない、かも…?」

手のひらを様々に傾けながら蝉の幼虫を観察する真剣な表情の鮎里は、まるで小さな子供のようで、その口から飛び出てくるお間抜けな質問もまた、無邪気で愛らしい。

「お前、さっきのトラックに轢かれなくて良かったな…」

先ほど僕たちを追い抜いていった暴走トラックを思い出しながら、そう語りかける。

「そうだね、良かったね、セミさん」

鮎里も同調する。

「交通事故は怖いよー? めちゃくちゃ痛くて死んじゃうよー?」

「現役の入院患者にそう言われてもなぁ…」

「それもそっか」

――ぐぅ――

何処かで何かが鳴った。

それが鮎里のお腹の虫だと気付いたときには、鮎里の顔はすっかり真っ赤になって、俯いた前髪に隠されていた。

こういうところは、いっちょまえに年頃の娘なのだ。

「さて、行くとするか…」

鮎里はこくりと頷く。

静かにそっと立ち上がると、道路脇のガードレールぎりぎりから手を伸ばして、できるだけ遠くの茂みにセミの幼虫を放した。

「ばいばい幼虫さん。元気なセミさんになってね」

何にしろ、これといった娯楽のない小さな町である。

隣近所は生まれたときからの顔馴染み、学校すら町にたったひとつとなれば、僕と鮎里が出会うのは当然の成り行きといえた。

そりゃ、運命とか言えばもっともらしく聞こえるが、不良の銀次郎や、エロ大将の将太なんかと出会ったのも、そうなれば運命ということになってしまう。そんなのは勘弁して欲しい。

もちろん、小学校も中学校も鮎里とは一緒だった。クラスだって、さほど人数の多くない学校ゆえに何度も一緒になった。

家も比較的近所――都会の感覚でものを考えてはいけない。近所っていうのは、徒歩で行ける範囲全部が近所なのだ――だったし、親同士も何故か仲が良かった。

だからごく自然に、僕と鮎里はお互いの家を行ったり来たりしていたし、何をするにも殆ど一緒で、それが当たり前のように思っていたし、特に意識することもなかった。

学校には他にも近所の生徒はいたし、顔見知りの女の子だって何人かいたはずなのだが、その子たちとはさほど縁がなく、男女問わず一番身近にいるのは、結局のところ鮎里だったということになる。

隣町の高校に進学すると、さすがに少しは生徒の数も増え、新しい顔ぶれとの付き合いも始まったが、もはや公然と既定路線になってしまった僕と鮎里の関係を、あらぬ方向に曲解する者も多かった。

ありがたいといえばありがたい気もするが、逆に言えば、「響には鮎里がいるんだから、他の子に手を出しちゃダメ…」という意味でもあり、どっちもどっちといったところだろうか。

鮎里にしたって、僕以外に気になるクラスメイトの一人や二人いてもおかしくはないだろうし、そもそも鮎里が僕にこだわる理由なんてないだろう。

結局のところ、成り行きでこうなっているだけで、僕と鮎里の間には、いわゆる「特別な感情」なんて呼べるものはなかったと思う。

そう、つい先日までは…。

 

幼い頃からあまり身体が丈夫ではなかった鮎里は、僕と一緒になってはしゃぎ回るときも、おそらく相当無理をしていたのだろう。

そんな無理が祟ったのか、春の連休明けに体調を崩した鮎里は、唐突の入院生活を送ることとなった。

始めのうちは、たいしたことはないと高をくくっていた僕だったが、鮎里の入院生活が長引くにつれ、次第に不安な心境になっていった。

当の鮎里自身は、自分の病状を知っているのかいないのか、僕が見舞いに訪れるたびに変わらない笑顔で出迎えてくれた。

その変わらない笑顔が、ますます僕を疑心暗鬼にさせた。

この辺りでは一番の――といっても、選択肢など殆どないのだが――大病院だし、優秀な先生もいるだろうから心配は要らないとは思うが、やはり一度目覚めた不安感はそう簡単には消え去ってくれない。

当たり前のように日々そこにあったものが、ある日突然消え失せてしまう…そんな例えようのない恐怖感が僕の心を侵していった。

入院からひと月ほど経ったある日、夕暮れの病室で、鮎里は僕にこう告げた。

「明日、手術するんだってさ。さっさと終わって、早く元気になるといいねぇ…」

他人事のようにそう笑う鮎里の表情は今にも泣き出しそうで、僕以上に毎日不安と戦い続けてきた幼馴染みの姿が、陽炎のように揺らいでいた。

「え、ちょ、ちょっと! 何で響ちゃんが泣くのよ?」

次の瞬間、頭の中が真っ白になった僕は、少し細くなった鮎里の身体を抱きしめるように泣いていた。

何故か泣きじゃくる僕の頭を、鮎里がそっと優しく撫でて、もはやどちらが病人なのかわからなくなっていた。

■2■

 

予定よりだいぶ遅くなってしまったが、どうにかこうにか昼過ぎには、目的地の展望台に着くことができた。

展望台といっても、小さな郷土資料館と天文台をくっつけたようなもので、天文台の外周路――つまり資料館の屋上が展望台として開放されているだけの、極めて簡素な施設だった。

僕たちがここに来た名目は、単純明快に夏休みの課題を仕上げるためだ。

それでも、鮎里はせっかく丸一日の外出許可が出たのだからと、朝から張り切っておにぎりを作るほどの気合いの入れようだった。

屋上の展望台で二人、連なる緑の森を見下ろして頬張るおにぎりは、不恰好だが美味しい。

いつまでもこんな時間が続けばいいのに…と僕は思う。

この茹だるような真夏の昼下がりに、わざわざ炎天下の屋上で弁当を食べる酔狂な者は、僕たちの他にはいない。階下の資料館では、冷房完備の軽食コーナーが絶賛営業中なのだ。

だから今だけは、ここから見える風景全てが、僕と鮎里の貸し切りだった。

鮎里の病気についての詳細は、僕にはわからない。

いちおう手術は成功したらしいことだけはわかっているが、それにしては、事後観察にこれほど長い間かかっているのはおかしい気もする。

鮎里本人も知っているのかいないのか――いや、たとえ知っていたとしても、悲観的な内容であれば、きっと僕に打ち明けたりはしないだろう。

「あ、あの人、魚釣りやってる! いいなぁ…」

目ざとく眼下の渓流にいる釣り人を発見した鮎里が、満面の笑顔で指を差す。

「お前、魚、好きだったか?」

「うん! 塩焼きにすると美味しいんだよ!」

「まだ食うんかい!」

けらけらと笑う。そんな鮎里の横顔は今も昔もまったく変わらなくて、いつも傍で眺めている僕もたぶん変わらなくて、それが何処か嬉しくて悲しい。

「アユだったら共食いだぞ…」

「あー、そうだねぇ…」

思えば、鮎の里とはこれまた風流な名前である。昨今流行のキラキラした名前に比べて、趣きがあるというか、絵心がある感じがする。

「そういえば、『あゆり』って、いい名前だよな…」

「え、何を今更言ってんの? どうしたの、響ちゃん…」

予想外の褒められ方をして、鮎里の表情が動揺する。気恥ずかしさと嬉しさの入り混じった微妙な表情で照れ笑いする。

その表情にどきりとするのは僕のほうだった。

「でもこれね、実はお父さんが昔好きだった歌手の名前なんだってさ」

「歌手?」

「えーとね、中学の頃好きだった『さゆり』さんって歌手と、高校の頃好きだった『あゆみ』さんって歌手と、合体させたんだって」

「なんじゃそりゃ…」

「だよねー」

そう言って、またも鮎里はとびきりの笑顔である。夏の陽射しが良く似合う、明るく健康的な笑顔だ。

「そいつは歌手じゃなくて、親父さんの昔の彼女だな、きっと」

「えー、まさかー」

――彼女――か…。

自分で叩いた軽口を、僕自身が過剰に意識して動揺してしまう。

思えば、周りから鮎里との仲をからかわれるたびに、表面的には否定しつつも、まんざらでもない気もしていたのは事実だった。

それが、いわゆる恋愛的な「好き」とイコールなのかは自覚していなかったが、「好き」と「嫌い」の二択で言えば、おそらく「好き」なのだろうと思う。

もっとも、たとえ僕が鮎里のことを気にかけていたとしても、鮎里が同じようにそうだとは限らないわけで、鮎里が何を考えているのかなんて、僕にはまったく想像がつかなかった。

「どうしたの、響ちゃん? 今日は何だか変だよ?」

急に黙ってしまった僕の顔を覗き込んで、鮎里は心配そうに尋ねる。

あまりの顔の近さに、僕の心臓がひときわ大きくどくんと鳴って、その音が鮎里の耳にまで届いてしまったかもしれないと、斜め上の方向に意識がいってしまう。

言いようのない照れくささから逃げるように、僕は咄嗟に立ち上がり、展望台の縁のフェンスに駆け寄ると、遥か向こうの山の天辺めがけて声の限り叫ぶ。

「僕はいつだって変だぞー!」

背後からばたばたと走ってくる鮎里も、続いて叫ぶ。

「鮎里もいつでも変なんだぞー! だから、変な響ちゃんは大好きだぞー!」

僕の隣で力いっぱい叫ぶ幼馴染みの姿を、突拍子もないことを叫ぶその眩しい横顔を、僕は見てしまうのが怖くて、そちらに向き直ることができなかった。

眼下の渓流では、何事かを叫ぶ僕たちの姿に気付いたのか、振り返った釣り人が不思議そうにこちらを見上げていた。

面倒な夏の課題とやらをようやく片付けた頃には、眩しかった太陽もすっかり西の空に傾いていた。

再び屋上の展望台に出た僕たちは、暮れていく夕陽を眺めながら、相変わらずの取り留めのない話で時間をつぶしていた。

気の早い一番星を見つけた鮎里が、子供のように指を差してはしゃいでいる。

そのオレンジ色に染まった華奢な後ろ姿が、何処か儚く美しかった。

「綺麗…だよな」

あえて鮎里の耳に届くように、行きの道中と同じ言葉を紡ぐ。

「あー、またどうせ、『夕陽が…』とか言うんでしょ?」

こちらを振り向きもせずに鮎里はそう言った。その声は何処か寂しそうで、何処か嬉しそうだった。

「カメラ、持って来れば良かったかな」

今この一瞬を切り取って、永遠に残しておきたい…という不思議な欲求が、突然の夏雲のように沸き起こって、僕はそんな言葉を口にする。

「そうだねぇ…」

鮎里は遥か彼方の稜線に沈んでいく太陽を眺めたままで答える。

「でも、無くて良かったのかも…。鮎里たち二人の心だけに、この思い出の記憶が残るんだし…」

まぁ、鮎里の言いたいことはわからないでもない。

写真なんてなくたって、二人で過ごした思い出はいつまでも色褪せることなく、心の中に刻まれていくものだ。

ロマンチックな理想論かもしれないけれど、それでも僕たちはそう信じたいし、そうありたいと思っている。

たとえ、永遠なんてものがこの世になくても、だ…。

「いいのか、それで?」

「うん、いいんだよ、きっと…」

僕の問いに、今度こそ振り返って、鮎里が微笑む。何かを悟ったような、何かを決意したような、そんな笑顔だった。

「ねぇねぇ、響ちゃん。実は鮎里、夢があるんだけど…」

「ほう、鮎里の夢、ねぇ…」

いつになく真剣な表情の鮎里に見つめられて、僕は空気をはぐらかしながら答える。

「『響ちゃんのお嫁さんになりた~い!』とか言うなよ?」

我ながら見事なまでの墓穴だ、と言ってしまってから僅かに後悔するが、全てはあとの祭りである。

一瞬、きょとんとした表情で固まった鮎里は、大きな澄んだ瞳でまじまじと僕の顔を見つめて――そのまま暫く時が止まった――ような気がした。

どのくらいの時間が経ったのか、視線に耐えられなくなった僕が先に目を逸らすと、唐突に鮎里が吹き出した。

「あっ、あははっ! 鮎里にお嫁さんになって欲しかったんだ、響ちゃん!」

よろよろとたどり着いた近場のベンチに倒れこみながら、失礼にも腹を抱えて笑い転げている。

どうでもいいから人を指差すな、お前は!

「えへへへへ、ひー、く、苦しぃー!」

こうなれば、ヤケクソである。開き直った僕は正直に打ち明ける。

「まぁ、あれだ…。他のやつに取られちまうよりはいいかな、とか…考えたことは、あるかもな…」

「あぁ~」

存分に笑い転げた後、ようやく笑いのツボから開放されたのか、涙目の鮎里がベンチに座り直して口を開いた。

「うーん、別に鮎里、心配するほどモテないよ?」

それはお前が知らないだけだ、と思う。

確かに、クラスでダントツの人気者というわけではないし、どちらかというと、同世代のクラスメイトよりも、近所の爺婆連中からの人気があるような不思議なやつだが、それでも鮎里に好意を持つ酔狂な若者は、決して少なくない。

周囲の友人たちがそれとなく余計な気を回したり、ぼんやりと僕と鮎里の関係を仄めかされることによって、淡い恋心の多くは水泡に帰していたし、遠まわしのアプローチに到った勇気ある男子も、極めて鈍感な鮎里の前に、不発弾を数発打ち込むだけで力尽きていった。

知らぬのは本人ばかりなり、とはよく言ったものだと思う。

「聡史とか、お前のこと、ずっと気にしてたぞ?」

「え、聡史君って、あのイケメンの聡史君?」

「ああ、既に過去形だけどな…」

「過去形…って、えー、響ちゃん、なんで教えてくれなかったのよ!」

なんで…って、それを僕に言わせますか、鮎里さん…。

そもそも、もし僕が聡史のことを鮎里に話していたら、どうするつもりだったのだろう…。本気で付き合う気でもあったのだろうか…。

「話してたら、付き合う気だったのかよ…」

自分でもわかるくらいに棘のある物言いで、そう鮎里に問う。

どちらにせよ、全ては過去の話であるのだから、今更期待はずれの答えが返ってきてもどうということはない。そう、どうということはない…はずだ。

というか、期待ってなんだ。僕は何を鮎里に期待しているんだ…。

「んー、やっぱり断るかなぁ…」

「ほう、そいつは意外だな」

ささやかな安堵に胸をなでおろす。何でこんなにも些細なことに一喜一憂しているのか、自分でも不思議だった。

「だって、響ちゃん、泣いちゃうじゃない!」

「泣かねぇよ、別に!」

全身で否定する僕を、にこにこと悪戯な表情を浮かべて見つめる鮎里。何処まで本気なのかわからずに、じっとその笑顔を見つめ返してしまう。

「鮎里にお嫁さんになって貰えなかったら、響ちゃん、困るんでしょ?」

「別に、こま…」

確かに人生、幾つかの出会いと別れはつきものだ。

だから、たとえ鮎里と将来的にどうこうすることがなくても、それはそれで仕方がないことなのかもしれない。

そうすることで僕も鮎里も幸せな人生が送れるなら、そういう道もあるだろう。頭ではそう理解している。

それでも、あの時――聡史の恋心に気付いたあの日――僕の心に渦巻いていたのは、底知れぬ不安と焦りの入り混じった、言葉にできない感情だった。

正直に言えば、僕と鮎里がこの先付き合うことにならなくても、それはそれでたいしたことはなかった。今までと同じ日常が、これからもまた続くだけのことだと思っていたから。

しかし、もし鮎里が聡史と付き合うようなことになったら――いや、自分ではない誰かと付き合うことになったとしたら、毎日のようにその光景を、二人のすぐ傍で眺め続けなければならないのだ。

それは視点を変えれば、聡史の目には、今の自分と鮎里の関係がそういう風に見えているかもしれない、ということでもある。だから、僕は聡史の胸中が痛いほどに理解できた。

果たして僕は、そんな状況に耐えられるだろうか…。笑顔で二人を祝福してあげられるだろうか。

――否、だ――

その結論に到るのに時間はかからなかった。

「んー、じゃあ、響ちゃんの告白のお返事は、しばらく考えておきます」

鮎里は嬉しそうにそう言って、ありがとうございました、と頭を下げた。

その姿があまりにも幸せそうで、なんか悔しくなった僕は、再び天邪鬼になる。

「別に告白なんてしてねぇし…」

■3■

 

辺りの風景が紫色の闇に閉ざされようとする頃、僕たちは愛車とともに丘を下っていた。

頭上には、幾つかの星が競い合うように煌いて、大きな光の帯を描いていた。

僕の背中にしがみつきながら、不自然なほど首を傾けて、鮎里はその満天の星空を飽きることなく眺めていた。

「変な体勢でコケるなよ?」

「んー」

午前中の炎天下に散々僕たちを――いや、僕だけか――てこずらせた急坂は、嘘のように僕たちを歓迎して、心地よい風をはらみながら愛車はスピードを上げていく。

「病院だと、この時間はもうカーテン閉められちゃうから、なんか夜空も新鮮だよー」

「そういえば、お前、入院患者だったな」

「そうだよー、もっと丁重に扱えー」

「そんだけ元気なら、ここから歩いて帰るか?」

「ひどーい、なにそれー」

互いに口にするばかばかしい会話が、あっという間に向かい風に流されていく。もちろん、聞いている者など、満月の他には誰一人いない。

「月が綺麗だな…」

「ふむ、なになに? お前の方がよっぽど綺麗だよ?」

「言ってねぇし!」

「あははっ!」

酔っ払いか、お前は! 心の中でそう言いつつも、病室ではなかなか聞けない鮎里の明るい声を、心から嬉しく思う自分がいた。

「あ、流れ星だー。響ちゃん、止めてとめて!」

「ほいよっ!」

急ブレーキをかけた僕の背中にもたれこむようにして、鮎里のあまり大きくない胸が触れた。

慌てて荷台を飛び降りた鮎里は、そっと目を閉じて両手を組んで何事かを祈る。

「間に合わないだろ、三回…」

「いいのいいの、気分なんだから、こういうのは…」

祈り終わると、そう言って、鮎里が再び荷台によじ登る。よいしょ!という掛け声が年寄りくさい。

「行くぞ?」

「おー」

僕らはまた、ゆっくりと帰途を進み始める。

病院から今日一日の外出許可を貰っているとはいっても、決められた門限までに帰らなければならないのはお約束だ。

まだ十分に余裕はあるはずだが、いずれにせよ、何もないこんな場所に長居をする必要もなかった。

「そういえば、さっき、お前、夢があるとか言ってたよな…」

「うん、あるよー」

「願い事、やっぱりそれか?」

僕の腰に回した鮎里の腕に、僅かに力がこもった気がした。

「そうだねぇ…」

それだけ言って、鮎里は沈黙する。だから僕はそれ以上、もう何も尋ねることができなかった。

どれくらい二人は無言で走り続けたのだろう。

虫たちとフクロウとが奏でる囁き以外は何も聞こえない夜の峠道を、僕たちはじっと息を潜めるように下っていった。

気がつくと、鮎里は星空を見上げるのに飽きたのか、ぴったりと僕の背中に張り付くようにして、その細い身体を預けていた。

「お願い…」

「ん?」

静寂を破って紡がれた鮎里の呟きが、僕の耳をくすぐって、すぐに彼方へと流されていく。

「知りたい? 鮎里の夢…」

「そうだなぁ、お前が話したかったら話せばいいし、話したくなかったら無理に話さなくてもいいだろ…」

それは、この場でできる僕の精一杯の強がりだった。

本心から言えば、鮎里のことは何でも知りたいと思っていたし、その夢の実現に少しでも力になれるなら、それは僕にとっても嬉しいことだった。

しかし、いくら幼馴染みとはいえ、それを無理強いして聞きだすほどの権利は、僕にはない。

というよりも、だ…。

こんなに長い間、すぐ近くにいた鮎里の願い事、叶えたい夢に、これっぽっちも思い当たることがない自分の不甲斐なさに呆れ、驚いていた。

「そっか…、優しいね、今日の響ちゃんは…」

「ばか言え、僕はいつでも優しいんだ、鮎里には…」

「ん、そうだね…」

将来、何処かの誰かが、鮎里の夢を叶えてやる日が来るのだろうか。

そのとき、笑顔の鮎里の隣にいるのが僕自身でないとしたら、僕は果たしてどうするだろう。

願いを叶えた幼馴染みの女の子を、笑顔で祝福してあげられるのだろうか。

もしそれが僕にとって耐えられない痛みだとして、では、その誰かの代わりに、僕が鮎里の夢を叶えてあげることはできるのだろうか。

鮎里のために全てを差し出す度胸が、この僕にあるのだろうか。

そして何より、鮎里はそれを望んでくれるのだろうか。

僕とまだ見ぬ誰かを天秤にかけて、鮎里は僕を選んでくれるのだろうか。

全ては、この満天の星空と同じく、闇の中だった。

病院の門限を破ること約五分、玄関前で待ち構えた当直の看護師に叱られながら、名残惜しそうな鮎里を託す。

ばいばい、と小さく手を振る鮎里を背にして、自宅への帰途につく頃には、遅い夏の夜も十分に更けていた。

蝉の声か、鈴虫の声か、ころころとした音色が辺りを涼やかに彩っていた。

病院のある隣町のこの辺りは、僕や鮎里の住む町とは、川を挟んだ対岸にあたる。

直線距離ではほんの僅かな道のりだが、残念ながら適当な橋がない。少し下流にある県道の橋まで、わざわざ迂回しなければならない不便な立地だ。

ようやく鮎里の重さから開放された軽やかな愛車とともに、最近造成された新興住宅地を駆け抜ける。

聞こえてくるのは、あちらこちらで花火遊びを楽しむ親子の笑い声。

色とりどりの光に照らされて、暗闇に浮かび上がる子供たちの笑顔が、花火に負けまいと輝いている。

前はよく、僕や鮎里もああやって楽しんでいたなぁ…と、そんな懐かしさに駆られる。

――!!!――

極めて唐突に、そんな僕の安らぎを打ち破ったのは、またしても蝉の声であった。

咄嗟の大音量に危うくよろけながら、暫し周囲を確認する。

すると、少し先の道端の植え込みで、けたたましい程に鳴きながら、必死にもがく一匹の蝉。

愛車を止めてよく見れば、どうやら運悪く蜘蛛の巣に引っかかってしまったようだ。

決して諦めずに健気に頑張っている姿が、何処となく鮎里に似ているような気もして、なんだか他人の気がしない。

いや、もしかしたら、僕自身に似ているから、なのかもしれない。

だから、巣の主である蜘蛛には少し気の毒だが、僕は暴れる蝉を開放してやることに決めた。

そっと摘んで、やさしく引き剥がす。

蜘蛛の巣の拘束から開放された途端、一言の礼も言わずに、小さな蝉は夜空に消えていく。まったく、近頃は蝉まで礼儀知らずなやつばかりだ。

僅かに遅れて現れた美しき巣の主は、驚いたように僕を見つめる。

――悪かったな、おい…。だけどまぁ、世の中、そういうことだってあるさ、きっと…――

イケメン蜘蛛の――あ、雄とは限らないか――恨みがましい視線を背中に浴びながら、僕はそう心の中で笑い、再び愛車に跨り走り出す。

夜空にぽっかりと浮かんだ満月だけが、その一部始終を静かに見守っていた。

■4■

 

「お早う御座います、響様」

翌朝――といっても、もはやすっかり日は高くなり、「おはよう」ではなく「こんにちは」でも許されそうな時間帯に、僕は目覚めた。

確かに目覚めた…と思ったのだが、もしかしたら、まだこれは夢の続きなのかもしれない。

ひと通りの洗面と歯磨きを終えた僕が、食料調達という喫緊の課題を解決すべく、台所に歩を進めたとき、既にそこには先客がいたのだ。

当然、家族の誰かであるなら特段驚く必要はない。さすがに無精者の親父が、こんな朝っぱらから、厨房で料理など始めていれば驚くかもしれないが…。

先客は振り返ると、もう一度、妙なテンションの声を上げる。

「昨晩は大層お疲れの御様子でしたね」

「はぁ…」

目の前にいるエプロン姿の和服美人は、もちろん僕の母親ではない。

僕の母親は、数年前に既に他界している。まさか真っ昼間から幽霊というわけでもないだろう。

うちにいる若い娘といえば、中学生の妹一人だが、魔法のステッキで変身でもしない限り、こんな美人にはなれそうもない。

夢か幻か、はたまた…。

百歩譲って、これが現実だとして、だ。

「あの、さ…」

「はい、何で御座いましょう、響様」

「あんた、誰?」

我ながら、いきなり失礼な質問ではある。しかし、僕に思い当たる節はない以上、ストレートに本人に聞くのが、一番の解決策だろう。

だが、この問いに対する先客の反応は、僕の想像の遥か上をいった。

「これは大変御無礼を…。私、瀬見菜乃香と申します。不束者では御座いますが、どうぞお見知り置き下さい」

いきなり台所の床に正座をすると、深々と頭を下げた。まるで時代劇に出てくる、武家の嫁のような挨拶である。

「いや、挨拶は適当でいいんだけど…って、せみ?なのか?」

「はいっ!」

道端で代官に申し立てをする町娘のように、足元から僕の顔を見上げる。

「はぁ?」

これは悪夢だ、悪夢に違いない! それにしては、やけにリアルでラッキーな悪夢である。

「う~ん、まずはとりあえず、何か食うものを…」

「畏まりました、響様」

菜乃香は嬉しそうにそう応えると、ぱたぱたと再び調理台へと戻っていった。

 

さて、話を整理したいのだが、どうにも信じがたいことの連続である。

まず、「瀬見菜乃香」なる人物は、自称「セミ」であるらしい。

いや、名前の話ではなく、「蝉」らしいのだ。

そして、昨日、展望台への往路に、鮎里とともに見つけた幼虫であり、帰路に蜘蛛の巣から救ったアレだというのだ。

要するに、アレだ。

鶴の恩返しとか、人魚姫の話とかのように、人間になって「響様」――つまり、僕の傍に来ましたよ…ということのようだ。

全てを信じるならば、だが…。

それはまぁ置いておくとして、何で和装の似合う日本美人で、しかも時代がかった性格なのだろう。今時、普通の人間にだって稀有な存在だろうに…。

――そもそも、雌だったのか、昨日のアレ…――

菜乃香の話によると、うちの親父はいつも通り仕事に出かけ、妹は友達の家まで宿題を片付けにいったらしい。

二人が出かけるまでの間、じっと窓の外から様子を伺っていたらしいのだが、いくら田舎とはいえ、それはさすがに目立つだろう――人間ならば。

「美味いな…」

菜乃香の用意した純和風の朝食メニューは、定番の目玉焼きと海苔が中心の、よくあるものだった。

だが、我が家の普段の朝食とは違い、何倍も美味だった。似たような食材で、似たように作っているにも関わらず、だ。

――お袋の味…とか言ったら、失礼か――

「響様のお口に合いまして、嬉しゅう御座います」

にこりと控えめに笑う。奥ゆかしい笑顔が、とても美しいと思った。

最後の味噌汁を平らげると、僕は自然と両手を合わせていた。

「ご馳走様でした」

「お粗末様で御座いました」

またしても深々と頭を垂れる菜乃香。

悪い気はしないが、他人に頭を下げられることに全く慣れていない僕にとっては、些か居心地の悪い感覚が残る。

「ところで…菜乃香、あんたこれからどうするつもりなの? 何処か行く当てあるの?」

「特にその様な所は御座いませんが、響様のご心配には及びません。夕刻までにはお暇致しますゆえ…」

これまたお約束の、夜には魔法が切れるアレなのかもしれない。もう、ここまでくれば信じるしかないのだ。

「じゃあ、少しその辺りに散歩にでも行くか…」

「畏まりました。すぐに支度を致します」

僕を見上げる菜乃香は、花のように清楚な微笑を浮かべて、目を細めた。

その日一日、僕は菜乃香を引き連れて、町中を散策して回った。

僕と一緒にいるのが鮎里ではなく、見ず知らずの和服美人ということが、それほどまでに奇妙なことなのか、たまに出会う顔見知りに冷やかされては、曖昧な返答でやり過ごす。

さすがに蝉だとは言えまい。というか、誰も信じるまい。

目に映るもの全てが物珍しいのか、菜乃香は時折立ち止まり、感慨深げに辺りを見渡していた。

狭い田舎の町である。何があるわけでもない、辺鄙なところである。

長年住んでいる僕からすれば、日々変わることのないこの安穏とした日常風景の、何処がそれほど珍しいのか、見当もつかない。

それでも菜乃香は、つまらない僕のいい加減な説明に頷きながら、控えめに一喜一憂しながら、全身で町中を満喫しているようだった。

考えてみれば、「鮎里以外の」女の子――女性と、こうして二人きりで町を散策するなど、いつ以来のことだろう。

鮎里の台詞じゃないが、僕は普段から人気者ということもないし、年頃の女の子と特段の縁があるとも思えない。

もしかしたら、これが「鮎里以外の」女性との、最初で最後のデートになるかもしれない。

――デートねぇ…――

こういうのも、たまにはいいものだ。

が、鮎里がもし、今の二人を見ていたら、果たして何と言うだろう。

他の皆と同じように、冷やかして終わりだろうか。

少しは女の子らしいヤキモチを焼いてみせるだろうか。

それとも、泣きそうな顔をして逃げていってしまうだろうか。

――菜乃香と一緒にいるのに、何で僕は鮎里のことばかり…――

気がつくと、僕たちは長い石段の続く、町外れの神社にやってきていた。

「響様、ここは…」

「んー、星影神社っていう由緒正しき神社だな。上のほうにも鳥居が見えるだろ…」

石段脇の木々に隠れるように、朱色の鮮やかな鳥居が見え隠れしている。

「行ってみるか? 菜乃香のお仲間も大勢いるみたいだしな」

「はい、響様!」

菜乃香の手を引いて、ゆっくりと石段を登りつつ、時々途中で振り返って、眼下に広がる町の様子を展望する。

昨日、鮎里と出かけた天文台つきの郷土資料館ほどではないが、この町の中ではおそらく一番高い場所であろう。

「綺麗で御座いますね、響様の町…」

「いや、そういう言い回しをされると、何処かの城主みたいだろ…」

「そういえば、そうで御座いますね」

口元に手を当てて、くすくすと笑う。

品の良いお嬢様というのは、こういう感じなのかもしれない――蝉だが。

「あら…」

石段を頂上まで上り詰めた僕たちの前に広がっていたのは、神社の境内の厳かな雰囲気ではなく、夏祭りの櫓を組む職人たちの、活気に満ちた喧騒だった。

「そういえば、もうそんな時期か…」

不思議そうに固まっている菜乃香の手を引いて、作業の邪魔にならぬように、再び本堂の傍らへと足を進める。

「もうすぐ祭りなんだよ。みんなで躍って歌って、飲んで騒いで…」

そもそも、祭りの由来や具体的な神事の小難しい話など、不勉強極まりない僕には、到底できるはずもない。

だからせめて精一杯、菜乃香に祭りの楽しさを伝えようと、身振り手振りで頑張ってみる僕だった。

「それは楽しみで御座いますね…」

少し憂いを秘めた、何処か悲しげな表情のままで、菜乃香は笑った。

ちくりと、僕の胸に小さな痛みが走る。

僕には確信めいた予感があった。

そう、時は残酷に過ぎてゆくのだ。

菜乃香にかけられた魔法が――奇跡が、もし真実であったとしても、その運命から逃れることはできないのだ、たぶん。

永遠なんて、この世にはないのだから…。

菜乃香が微笑んで、小さく手を振っている。

その視線の先で、参拝に訪れたのだろうか、夏休みを満喫する笑顔の子供たちが、元気に手を振り返していた。

一陣のそよ風が、神社の境内を爽やかに駆け抜けていく。

菜乃香の髪がふわりと舞った。

「響様、最後に是非お訪ねしたい場所が御座います」

■5■

 

夕暮れが迫る頃、鮎里の病室を訪ねる僕と菜乃香の姿があった。

僕にとっては、看護師に顔見知りさえできるほど通い慣れた病院だったが、菜乃香にとってはここもまた全てが目新しいのだろう。落ち着きのない様子で、きょろきょろと辺りを見回している。

まぁ、当然ではある。

衛生最優先の病院に、野生の蝉がのこのこ迷い込みでもすれば、退治されはしないまでも、あっという間に外に摘み出されてしまうだろう。

だからきっと、人間の姿でいられるうちに、僕と一緒にいられるうちに…と、菜乃香は鮎里の見舞いを思いついたのだろう。

そう、この予定外の訪問は、菜乃香の言い出したことなのだ。

飾り気のない白い廊下を目的の病室へと向かいながら、時折すれ違う看護師や入院患者たちの好奇の視線にさらされる。

「あら? 響ちゃん、今日はお姉さんと一緒なの?」

顔見知りの看護師の女性に声をかけられ、菜乃香は深々と頭を下げた。

この場をどう切り抜けようかと思った矢先、廊下の先のほうから看護師を呼ぶ声に救われる。

じゃあね、と短く言い残して、看護師は足早に去っていった。

しばらく歩くと、いつもの廊下の右側に、鮎里の名前が書かれた表札が嵌っている。

軽いノックのあとに続いて、明るい鮎里の声が返ってくる。

「入るぞー」

「お邪魔致します」

ベッドに身を起こし、僕を振り向いた鮎里の首が、疑問符とともに傾く。

無理もない。会ったこともない和服美人が、僕と一緒に見舞いに訪れたのだ。

「鮎里様、お会いしとう御座いました」

「鮎里さまぁ?」

病人とは思えない素っ頓狂な大声で、鮎里は聞き返す。

鮎里の視線が疑問を投げかける先は、菜乃香本人ではなく、僕だった。

要するに、「この女は誰なのよ?」という疑惑の眼差し――僅かに軽蔑の色合いも混じっているのかもしれない――で、じろりと睨まれる。

だが、そんな僕たちをよそに、当の菜乃香は至ってマイペースであった。

「お元気そうで何よりで御座います、鮎里様」

「はぁ…」

そして今朝、僕がしたであろう反応を、見事に再現する鮎里である。

「えーと、誰?」

結局、僕と菜乃香はまた最初から、ひと通りの説明を繰り返すことになる。

最初のうちは半信半疑だった鮎里も、納得したのかしないのか――いや、根が単純なのかもしれないが――あっという間に菜乃香と打ち解けて、たわいない話で盛り上がる仲になった。

この辺りは、男にはわからない女の感性というものなのだろう。

とにかく、仲が良いことは悪いことではないと思う。

おっとりとした古風な佇まいの菜乃香と、対照的に明るく賑やかな鮎里で、よくもまぁ話が噛み合うものだと、妙なところで感心してしまう僕である。

なんだか少し、除け者になったような気がして、ぼんやりと眺めた窓の外の風景に、僕は助けを求める。

遠くに連なる山々の手前、緑の木々に覆われた幾つもの丘と、その向こうに僅かに見える、夕陽に染まる展望台。

何もない田舎の長閑な風景だ。

気がつくと、完全に僕を置いてきぼりにして、何やらひそひそ話を始めていた二人だったが、やがて結論に達したのか、互いの顔を見合わせ、こくりと頷く。

「響様!」「響ちゃん!」

「お、おう!」

振り向いた二人の迫力に気圧されながら、やっとの思いで返事を返す。

「ソーダアイスが食べたいから、買ってきて! 急がなくてもいいから、ゆっくり行ってきて!」

「なんじゃそりゃ…」

「いいから、行くの!」

有無を言わせぬ鮎里の我が儘に屈し――これもいつものことだが――結局、僕は売店への買出しを引き受けることになった。

おそらくアイス云々の話は、僕を病室から追い出すための方便なのだろう。

どちらが言い出したことかは知らないが、二人きりで僕に内緒で話がしたかったのだと思う。

だからあえて僕は、それに乗せられることにした。

もちろん、二人が何を話しているか興味がないわけではない。ただ、僕を外すことにそれ相応の意味があるのだとしたら、詮索しないでおくのもまた大切なことだろう。

――話したかったら話せばいいし、話したくなかったら無理に話さなくてもいいだろ…――

昨日の帰り道に、鮎里に言った言葉を思い出す。

鮎里の夢、鮎里の願い――それがどんなものなのか、僕にはわからない。

だが、菜乃香がもし本当に蝉の化身なのだとしたら、菜乃香自身がそう願って人間の姿になれたのだとしたら、鮎里の願いだっていつかきっと届くはずだ。

漠然とそんなことを思う。

ばかばかしい御伽噺ではある。

菜乃香の言葉を全て丸ごと信じられるほど、僕は純粋無垢ではない。

人間というのは困ったもので、大人になるにつれて、要らぬ猜疑心というものが、自然と芽生えてしまう。

別に、菜乃香が実は悪人で、僕や鮎里を騙そうとしている…と思っているわけではない。

ただ、御伽噺を信じるには、僕たちは些か大きくなり過ぎてしまったというだけの話だ。

売店の入り口までたどり着いて、僕はそんなことを思う。

――だって、ソーダアイスを食いたがるセミなんて、いるわけがないだろ――

ご注文のソーダアイスの他にも、幾つか適当な菓子類を見繕い、頃合いを見計らって鮎里の病室へと舞い戻る。

病室に帰り着くと、鮎里は既にベッドで横になって、静かな吐息を立てていた。

ベッドの傍らの椅子に座った菜乃香が、慈しむような微笑みでそれを見守っていた。

「なんだ、人に買出し行かせといて眠っちまったのか、鮎里のやつ…」

しーっ、と人差し指を唇に当て、菜乃香はこちらを振り向いた。

「大事な話は、ちゃんと済んだのか?」

僕の問いかけに、こくりと頷く。

まるで母のような、姉のような、優しげな表情で鮎里の寝顔を見つめている。

「アイス、食べるか?」

「戴きます」

「どれでも、好きなものを選んでいいぞ」

「はい、では…」

鮎里の寝顔を見下ろしながら、二人でアイスの冷たさを堪能する。

何処かシュールな光景だが、とりあえずは現実だ…と思う。

「冷たくて美味しゅう御座いますね、これ」

「気に入ったか」

「はい」

にこりと控えめに笑う。鮎里とはまた違った、素敵な笑顔だった。

「そいつは良かった」

言葉が続かない。

今のうちに何かを語りかけるべきなのかもしれないが、適当な文句が思い浮かばない。

声をかければ消え失せてしまう、儚い幻影のような、そんな神秘的なものさえ感じさせる菜乃香の横顔が、僕の視線を釘付けにしていた。

時間はおそらく、もうどれほども残ってはいまい。

静寂に包まれた病室の中で、鮎里の息遣いだけが静かに耳に届く。

小さく上下する鮎里の胸元が、確かな命の証を刻んでいる。

どれほどの時が過ぎたのであろうか、重苦しい沈黙を先に破った菜乃香が、おもむろに立ちあがる。

「響様、本日はご一緒出来、とても楽しゅう御座いました」

深々と頭を下げる。

「大変名残惜しゅう御座いますが、お別れの時間に御座います」

微かに菜乃香の背中が震えているように見えた。

「美味しいものも沢山、たくさん戴きました。町の皆様ともお逢い出来ました」

僕は何も言葉を返せない。

幾らでも気の利いた台詞を思いつきそうなものなのに、とうとうと語る菜乃香の心中を察するに、僕の頭は真っ白になって、何も言えなくなってしまうのだ。

「菜乃香は幸せ者で御座います」

菜乃香はそっと病室の窓に歩み寄り、音を立てないように気遣いながら、開いていく。

「とても心地よい風で御座いますね。町も緑も本当に綺麗で御座います」

窓から入り込む風にのって、幾重にも響く蝉の声が流れてくる。

遥か彼方の山の稜線に沈みゆく太陽を、翳した手の隙間から眩しそうに覗いて、もう一度、菜乃香の小さな唇が言葉を紡いだ。

「響様、どうか鮎里様と末永くお元気で…」

振り返り、深々とお辞儀をすると、次の瞬間には、虚空へとその身を躍らせる。

人間が――しかも和装の女性が軽々と飛び出せるほどに、病院の窓は低くはないはずだ。

だが、まるで天女のような軽やかさで、窓の外の夕暮れ空へと消えてゆく。

そのスローモーションのように流れる美しすぎる光景に、呆気にとられて…。

僕が精一杯に伸ばした指の先を、菜乃香の後ろ髪が掠めた気がした。

慌てて駆け寄った窓の外には、ただ暮れゆく夕陽が眩いだけで、何処にも菜乃香の姿は見えなかった。

ただひたすらな蝉の声だけが、相変わらずの輪唱を幾重にも繰り返していた。

■6■

 

夕暮れの町並みを見下ろす神社の境内から、聞こえてくるのは賑やかな祭りの太鼓。

これだけは田舎も都会もさして変わらぬ、夏祭りの風景である。

鳥居の向こうの参道に連なる、色とりどりの屋台の提灯が、夜の闇に煌々と浮かび上がる。

駆けていく子供たちと、それを見守る大人たち。

太鼓を据えた櫓の下では、幾重にも広がる踊りの輪。

飽きもせず、毎年同じレパートリーで繰り返される楽曲を、老若男女が様々に歌い、踊り歩く。

既に出来上がった酔っ払いが、更なる酒を求めて千鳥足…。

何十年も、何百年も続いてきた、日本の夏がそこにあった。

僕は少し歩みを緩めて、手を繋ぐ鮎里を振り返る。

「大丈夫か?」

「うん、平気だよ」

菜乃香に影響されたのか、珍しく浴衣姿に着替えた鮎里は、ぽっくりの足元を気にしながら、頼りなく歩を進める。

「なんだか危なっかしいな…」

「もー、心配性だなぁ、響ちゃんは。と、とっ…」

などと言っている傍から、木の根に躓いてよろける鮎里である。

慌てて手を引き、抱えるように支えた僕の腕の中で、ほっと安堵の溜め息をつく。

「お~、姉ちゃん、気をつけないと危ないぞ~」

悪ガキたちが囃し立てるようにそう言って、追い抜いていった。

――少年よ、それはいったいどういう意味だ――

「あの…さ、響ちゃん、いつまでそうやっているつもり?」

「お?」

――やはり、そういう意味なのか――

僕の腕から開放された鮎里が、今度は先にたって歩き始める。

やがて、大きくもない神社の境内は、太鼓の櫓のある広場で行き止まり、そこを曲がれば社殿に突き当たる。

まだ祭りはこれからだというのに、既に盛り上がった人々の熱気で、広場はいっぱいだった。

「いつもながら賑やかだねー」

暫し立ち止まり、鮎里は大きく息を吸い込んで、祭りの熱気を身体いっぱいに堪能しているようだ。

「あっ!」

小さく声を上げて、何かを見つけた鮎里が、櫓を取り巻くその踊りの列に駆け寄ろうとして――やめた。

「おう、聡史か、あいつもいたのか…」

その鮎里の視線の先の見知った顔に、僕は声をかけようと歩み寄る。

が、それを鮎里が引き止めるように、繋いだままの手を引いた。

「どうした?」

鮎里は俯いて、前髪で表情を隠しながら、首を横に振る。

「聡史君は、やっぱりもういいや…」

「そうか…そうだな…」

鮎里も、おそらく聡史に対して何らかの思いがあったのだろう。

それがいったいどういう感情なのか、僕には知る由もない。

ひょっとしたら、鮎里自身にも良くわかっていないのかもしれない。

ただ、鮎里がそう言うのなら、僕は鮎里の気の済むようにさせてやろうと思う。

沈黙が、暫しの間、二人を包んだ。

祭りの太鼓だけが、腹の奥底へと響く。原始的な、魂の鼓動というやつだ。

賑やかさから取り残された僕たちの姿を、行き交う人々が怪訝そうに窺う。

傍から見たら、別れ話か何かで彼女を泣かせている、ダメな男に見えるのかもしれない。

重苦しい空気から逃れる術を探りながら、ちらちらと鮎里の姿を盗み見る。

そして僕がとうとう音を上げそうになったとき、先に口を開いたのは鮎里のほうだった。

「…鮎里、前に夢があるって言ったよね…」

「ん?」

確かにそんな話をした。展望台へと出かけたときのことだ。

「もし、もしも…ね、鮎里が響ちゃんの傍にいられなくなっても…」

「おいおい、縁起でもない…」

努めて明るく流そうとするが、僕を無視して鮎里は続ける。

「響ちゃんにはね、絶対に幸せになって欲しかったの…」

「そか…」

視線を足元に落としたままで、鮎里は寂しく微笑む。

「でも、ダメだった…やっぱり」

そこで鮎里の言葉は途切れ、涙の溜まった大きな瞳が僕を振り向く。

「あの日、夢を見てたの…。夢で空を飛んで、響ちゃんと菜乃香さんが町を歩いているのを、ずっと見てたの…」

「ほう…」

思い当たる節がないわけではない。

菜乃香が蝉の化身であるなら、それが人の姿を借りるとき、代わりに誰かの意識が蝉になっていようともおかしくはない。

もっとも、菜乃香本人が鮎里と出会っているのだから、鮎里が夢から覚めた時点で、菜乃香の消滅は時間の問題だったのかもしれない。

「鮎里はね、すごく、すっごく寂しかったし、哀しかった。もう、今迄で一番!ってくらいに哀しくて、だから…」

ぽろりと、大粒の涙が、こぼれた。

「だから、決めたんだ。鮎里は絶対生きてやる!って。そして…」

鮎里が泣きながら、えへへ、と微笑む。

「絶対に、死んでも響ちゃんの隣は譲らないんだ!って」

そうか、全ての元凶はお前か、鮎里…。

あの日の白昼夢のような幻の光景、菜乃香と過ごした嘘のような時間…。

何もかもが鮎里の…。

「…ね、響ちゃん、鮎里たちも踊ろっか!」

「あ、おい!」

強引に僕の手を引いて、踊りの列に割り込んでいく鮎里。

「絶対に手を離さないでよね、響ちゃん!」

その時、僕たちの頭上でひときわ大きな花火がひとつ、名残惜しい夏の陽炎のように輝いて、消えた。

 


 
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