No.787374

「琥珀」(神威乙女の黙示録シリーズ)

Ticoさん

Ticoのオリジナルファンタジー、「神威乙女の黙示録」シリーズ。
短編ではありますが、その最初の作品をお届けします。
実は以前投稿した、掌編「ファムファタール」と世界観は同じです。
あの時はワンシーンだけ切り出しましたが、今回はエピソードとしてまとめてみました。

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2015-07-04 09:46:24 投稿 / 全2ページ    総閲覧数:894   閲覧ユーザー数:890

 多くの夢がそうであるように、ここもどこかしら浮遊感をおぼえる。

 地に足がついていない感覚。歩いていても雲を踏んでいるかのような感覚。

 あるいは“幻想夢市(ファンタシアム)”は本当に雲の上の世界にあるのかもしれないな――

 少年はそう思った。ここへの訪問方法は夢を見ることだが、幻想夢市をどう構築しているかは運営結社のみぞ知る事実だ。“教会(カーク)”の審問官でさえ明らかにできていないことならば、あるいは本当に天界にこそ、この場所は存在するのではないだろうか。

 彼は周囲を見渡した。立ち込めるうっすらとした靄。薄暮の光。

 白い靄の向こうには、無数の絵が浮かんで見える。

 少年はその中のひとつに意識を向けた。

 体があちらへ吸い寄せられたのか、あるいは絵がこちらへ向かってきたのか。

 すうっと目当ての品が目の前に立ち現われる。

 峻険な山を見下すように、天空で大きく翼を広げる龍の絵。

 少年はじろりと一瞥すると、ふうとため息をついた。

 描かれている龍は目つきは鋭く、鱗も艶やかで、かかげた翼も力強い。

 恐ろしげで強大な力を感じるが――しかし、それだけだ。

 古の世界の生き物である龍を実際に見たものなど、「ほぼいない」のが現実だ。

 この絵に描かれた龍も想像だけで描かれたものだろう。

 だが、少年は知っている――龍は美しいものだと。

 現に目にしたことのある彼には分かるのだ。

 たとえ「龍の影」であってもあの美しさならば、本当の姿はいかばかりか。修行中の工房から抜け出して旅を続けているのは、龍の美しさに惹かれればこそだ。

「……まあ、そのためには路銀がいるんだけどね」

 彼はひとりごちると、絵を手放して靄の彼方に意識を向けた。

 白い靄の向こうがぼうと光る。

 明かりの方向へ歩みを進めると、靄のカーテンがふわと開いたかに見えた。

 まばたきをひとつはさむと、自分の『画廊』が周囲に広がっていた。

 靄に浮かぶ数多くの絵。

 鉛筆でスケッチしただけのものもあれば、彩色を施したものもある。

 絵のひとつを彼は手にとった。

 先ほどと同じく静かに寄ってきた絵には、一人の少女が描かれている。

 小麦色の肌をした、ほとんど全裸のしどけない姿。

 ただ一枚の白い反物が彼女の身体に巻きつき、絶妙に秘所や乳房を隠している。

 題名は『琥珀の瞳の少女・八』。

 彼は絵の周囲の靄に意識をこらした。靄の中に文字が浮かび上がってくる。

 同じように幻想夢市(ファンタシアム)を訪れた人が残した評価や寸評だ。

 点数でいえば数十万に届く勢い。〔気に入った〕をつけたものも五千はくだらない。寸評には「美しい」「エロい」「まさに女神」「見せないのがいい」と並ぶ。三日前に夢市にあげてこの評価ならば、描きあげたときの手ごたえは間違いなかったのだ。

 そしてなにより大事な――〔買いたい〕が五十以上ついていた。

 中でも最高額をつけた者の名前を確認して、彼は安堵の笑みを浮かべた。この人物であれば、何度か取引をしている。信頼していい。

 靄の中で彼はしばし手を動かして、希望主に伝文を送った。

 最後にこう付け加える。

「今回もありがとうございます。今後もよろしく。“雀の絵師”ジゼより」

 本来は幻想夢市(ファンタシアム)の呼び名だけでよいし、身の安全からもそうするのだが――この買主は思い切りの良い値付けからしてどこかの富豪か貴族であるかもしれない。であれば本名を知らせて誼を通じておくのは旅の助けになるかもしれない。彼はそう思った。

 アルビオ工房のジゼ。それが彼の名前である。

 

 夢絵巡りから目を覚ましたとき、なにやら暗いな、とジゼは思った。

 二三度、目をしばたたかせて、起き抜けの頭で状況を理解しようとする。

 部屋の窓を閉じているせいか部屋全体が薄暗いが、それだけではない。

 誰かが寝台の枕元で自分の顔を覗き込んでいるのだ。

 暗い影の中で琥珀色の瞳が自分を見つめている。大きく目をみはってジゼの顔にまなざしをそそぎ、まるで心の奥まで見透かそうとするかのよう。

「……やっと起きた」

 ぼそり、と琥珀の瞳の持ち主は言った。

 少しかすれて、ぶっきらぼうで、だが芯にしとやかさを感じさせる少女の声。

 ふわりと彼女の匂いが漂う。花の香りと煤の匂いがないまぜになった不思議な空気。

「なんで人の寝顔を見ているんだい、ローテ」

 ジゼが訊ねると、少女――ローテシュネは答えた。

「面白かった」

 彼女がすうっと目を細め、指でジゼの頬をつつく。

「寝ながらニヨニヨしてた……良いことあった?」

「あったともさ。ああ、窓を開けてくれないか――いま何時くらいかな」

 ジゼが言うとローテがうなずいて立ち上がり、とててと窓へ駆け寄る。

 ぱたんと窓が開けはなたれると、まばゆい光が部屋に差し込んだ。

 日の光の中に、ローテの姿が照らし出される。

 小柄ながら、出るべきところは豊かに出て、引っ込むべきところは締まった肉感的な体つき。なめらかな小麦色の肌。少し高めに後ろで束ねた、やや癖のある銀の髪。琥珀色と言うにはやや赤みがかった橙の瞳。

 身にまとうのは軽快そうな茜色の短衣。そこからあらわになって伸びている手足はしなやかさを感じさせて、どこかしら猫科の獣の体つきを連想させる。

 ひょいと窓から頭を出し、ローテが太陽を探す。ちょっとお尻を突き出して窓から外を窺う彼女の姿にジゼは目を細めた。身体を起こしてベッドに座ると、両手の親指と人差し指で枠を作る。そうして、彼女を収めるのに最適な構図を探してみる。

 少し彼女を右にずらして窓を真ん中寄りがいいか。そんなことを考えていると、

「まだ正午にもなっていないかな――もう、またやってる」

 こちらを振り返ったローテが、ジゼを見て胡乱なまなざしを向けてくる。

「どんな時でも絵のことを考えてしまうのは画家の習性だよ」

 ジゼがすまして答えると、ローテは短衣の裾を軽くつかんで事も無げに言った。

「脱いだ方がいい?」

「……なんでもかんでも僕が裸体を描きたいと思ってるのかい、君は」

「こないだの絵だってほとんど裸だったもの」

 ローテの声に恥じらった様子はない。怒っている様子もない。淡々とした口調はいつも通りだが、しかしジゼには責めているように聞こえた。

「……そっちの方が受けはいいんだよ」

「本当に? わたしは夢市(ファンタ)に入れないからよくわからない」

「うーん、君にも見せてあげたいんだけどなあ」

「そんなにすごいの?」

幻想夢市(ファンタシアム)に集う絵の数々と、その中で燦然と輝く僕の評価を見れば、わかるさ」

 自信たっぷりに答えたジゼを、ローテはじとりとにらみつけた。

「なんか、えらそう……」

「これこそ裏打ちのある誇りってやつだよ」

「絵の自慢になるとあなたって途端に大きくなるよね」

「申し訳なさそうに見せる絵なんて誰もほめてくれないよ」

「その、大陸中の人がほめてくれる、っていうのがわからない」

 ローテはぷくっと頬をふくらませてみせた。

「あなたの絵が上手いのはわかるんだけど」

「だから夢市(ファンタ)で見てもらえれば納得するって」

 弁明の言葉にローテは首をかしげつつも、じっと見つめてくる。彼女の目つきに居心地の悪いものを感じて、ジゼは思わず咳払いして言った。

「それよりも、そのこないだ描いた絵さ」

 開いた窓から風が一陣吹き込む。部屋に立ち込めていた香の匂いが消えていく。徐々に夢の残滓から覚めてきたジゼは軽く頭を振ると立ち上がった。

「買い手が見つかったよ。これでしばらくは路銀の足しになる」

 ジゼの言葉を聞いて、ローテは軽く微笑んだ。

「よかったね」

「モデルの君のおかげだよ」

「描いたのはジゼだもの。あなたの手柄」

 ローテはそう言うと部屋の隅、布をかけられた画板に目をやった。

「いつもみたいに宿の人に持っていくの?」

「ああ。本当に便利だね。運営結社さまさまだ」

 ジゼは立ち上がると、画板の方へと歩み寄った。

「そのまま買物に行こう。ここ数日、ろくなものを食べてなかったしね」

 彼の言葉に、ローテがぱあっと表情を輝かせる。

「ほんと? お肉、買っていい?」

「買い食いはしないぞ。料理の材料を買うんだ。いいね?」

 念押しのジゼの言葉に、ローテはこくこくとうなずいてみせた。

 ――本当にわかっているのかな。

 いささか不安に思うジゼであったが、彼女のきらきらした目を見ては何も言えない。

 さぞかしいまの自分は間抜けな表情をしているだろうな。

 そう思い、部屋にかかった姿見に映る自分の顔を、ジゼは見た。

 焦茶色の癖毛の髪、そこそこ整っていると思える目鼻立ち、明るい緑の瞳。なかなかの男前だとうぬぼれる顔には、いまは困ったような笑みが浮かんでいた。その表情がローテには負けっぱなしなことを如実に示している――ジゼはふうと息をついた。

 まあいいかと思いなおし、画板を手にとった。

 描かれている絵は幻想夢市(ファンタシアム)にかかっていた『琥珀の瞳の少女・八』と同じ。

 ただ明らかに異なるのは――絵の中の少女は「動いていた」。

 そよぐ風に髪が揺れ、まばたきをし、時折こちらを見ては微笑みかける。

 かすかに動かす手足に反物がつき従い、なまめかしい身体の線が変化する。

 さながら、モデルとなったローテを絵に封じ込めたかのごとき幻像。

 絵の出来栄えにジゼはうなずく。

 まぎれもなく、これは『みわざの品』だ。

 

 世界最古の職業は芸術家だったと言われている。

 なぜなら、この世界を作りたもうた神が、そうだったからだ。

 神は、大地を彫刻し、空を描いた。

 描いた空から雨が降り、地に注いで海となった。

 そして、神は様々な作品を残した。木々、植物、けものたち、そして人間。

 神は自らが隠居した後も作品を作り続けるために、人間を作ったと伝えられる。

 人間たちは、生まれた当初こそ幼稚な作品しかできなかったが、やがて彼らが作った作品は、単に描いたものや彫ったものを域を超えた出来を見せるようになった。

 絵画であれば、幻像を生み出して動いているようにみせる。彫刻であれば、刻んだ形にかりそめの命を与えて動かすことができた。それだけではない――裁縫にも、舞いにも、歌にも、曲にも、ある領域に到達したものが生み出した作品には、人智を超えた力が実際に宿るのだと人間は改めて気づいた。

 文明と社会が発達し、同時に文化も発達して、力ある芸術が生み出す作品は、時代とともに多様性と精緻さを高めていった。

 やがて、作品に込められた力や古くから伝わるまじないを研究して、より純粋な術式として取り出す『法術』が生まれ――人々の芸術に対する態度も近年では少し変わってきたとはいえ、いまだにこの世界の住人にとって、芸術とは特別な力をもつ尊い何かであることには違いないのだ。

 それは芸術の扱いを巡る論議が、この“大陸(アルテ)”においては“教国(パスク)”と“帝国(リーケ)”という二つの勢力の対立となってぶつかり、血で血を流す争いにさえ発展させるほどであった。

 この世界の名はミューゼア。

 優れた芸術に、神のみわざの力が宿る世界。

 

 絵をたずさえて、ローテを連れたジゼは宿の主人を訪れた。

 幻想夢市(ファンタシアム)を置いているような宿は上等なところと相場が決まっている。

 泊まる者もそこそこ手持ちがあるような人で礼儀はわきまえているから、宿の主人も自然と品のよい人が多い。ジゼたちが逗留している宿の主も、灰色の髪を綺麗になでつけた洒落た感じの初老の男性だった。困ったお客がいたら腕ずくではなく慇懃無礼に言葉で追い出すタイプだろう。

 ジゼの姿を見かけると、主人は「ほう!」と声をあげた。

「これはこれは。絵描きの若人さん。何用ですかな」

 彼の問いかけにジゼは布にくるんだ画板を示してみせた。

夢市(ファンタ)で買い手がついたんだ。換金をお願いしたいんだけど」

 ジゼの答えに主の目つきが鋭くなる。

「……拝見してもよろしいかな?」

 主人のお願いにジゼはうなずいた。布をはずして見せると、絵を目にした主人が感嘆のため息をもらすのが聞こえた。

「おお、また見事な……数日前に夢市(ファンタ)に出されたものですな。私も拝見して大したものだと思いましたが、こうして実物を見るといやはや……まさか『みわざの品』とは思いませんでした――いくらの値がついたのですか?」

「三百トゥーリだよ」

「銀貨で三百枚! ずいぶん大した額ですな」

「この宿に泊まっていたら三週間ともたないよ」

 ジゼが苦笑いを浮かべると、主もにんまりと笑った。

「それは確かに……買主の呼び名を頂いてもよろしいですか」

「“紫の梟”。前も買ってくれた人さ。身元は確かだろう?」

「あの方ですか。気に入られてますな――確認してくるのでしばしお待ちを」

 そう言って、宿の主人は奥の部屋へと引っ込んでいった。

 見送るジゼの服の裾をくいと引っ張る者がいる――後ろについてきたローテだ。

「ねえ。三百トゥーリってそんなに大金なの?」

「倹約すれば僕たち二人なら二ヶ月は暮らせるさ。宿が悲しいことになるけどね」

「……でも、ジゼはここから出る気はないんでしょう?」

「ああ。((夢市|ファンタ)が使えないと、みんなに絵を見てもらう場がないからね」

「みんなってどのくらいなの?」

「大陸中で幻想夢市(ファンタシアム)を利用する人みんなさ。それこそ百万はいるんじゃないかな」

「ふうん……」

 うなずいてもらす声にちょっと感心したような響きが感じられて、ジゼは内心で鼻が高かった――そうだよ、ローテ。いわば君の絵はそれだけの人に見られているんだ。

「――確認してきました。たしかに“紫の梟”さま。お代は三百トゥーリ」

 宿の主が戻ってきて、そうジゼに告げた。

「ただ、ちょっと厄介なことがありましてな。この方、運営結社も身元保証した筋で取りはぐれの心配はないのですが――その、支払いがディル金貨でして……前回の買い取りの時も届いた証文を確認して思わずうめいたものです」

 主人の言葉にジゼは眉をひそめた。ディル金貨――帝国(リーケ)の通貨だ。

「……買い手がどこの人でも応じるのが夢市の決まりごとじゃないか」

「ええ、おっしゃる通り。ですが、教会の“執行人(ゼクトーア)”にでも嗅ぎつけられたら厄介ごとになります。そこで銀行にちょっと無理を聞いてもらう必要が……」

 語尾をごまかす主人に、ジゼはため息をついた。

「わかったよ、手数料はいくらなんだい?」

「そうですな、二十トゥーリ」

 しれっと答えた主人に、ジゼは目を剥いた。

「高級料亭でごちそう一式が食えるじゃないか。五トゥーリにしてくれよ」

「では……こちらも少々勉強しましょう。十五トゥーリ」

「八トゥーリだ。これ以上はまからない」

「いけません、それはいけません」

 宿の主は愛想笑いを崩さない。ジゼは頭をかいた。

 にわかに張り詰めた空気にローテが息をひそめて見守っている。

 ジゼは振り返ると、にかっと彼女に向かって微笑んだ。

「三トゥーリあれば鶏のいいのがまるごと一羽買えるぞ。引き下がれないな」

「ほんと!?」

「ああ、市場で太ったのを買おう」

 ジゼの言葉にローテが目をきらきらと輝かせる。宿の主人がため息をついた。

「お連れ様をだしに使うのは反則ですぞ……では十二トゥーリで」

「きりのいいところで十トゥーリにしないか?」

 ジゼがにやと笑んで提案すると、主人は両手を挙げた。

「分かりました。手数料を十トゥーリで手を打ちましょう。ただ、ひとつ条件が」

「なんだい?」

「銀貨で三百枚ともなると手持ちから出すのはなかなか厳しい。とりあえず五十トゥーリをお渡ししますので、残りは銀行から引き出してからでもよいですかな」

 主人の提案にジゼはうーんと悩んでみせたが、ややあってうなずいた。

「それなら待つかわりにこっちもひとつささやかな条件を出したいんだけど」

「なんでしょうか」

 主人の問いに、ジゼはちらとローテを見やって言った。

「この子が夢市におじゃまできるようにしてくれないかな。夢誘いの香炉を置いている宿が認めれば、賓客待遇で夢絵巡りできるって聞いたことがあるからさ」

 ジゼの言葉に、宿の主は肩をすくめてみせた。

「本来は五トゥーリは頂くところですぞ……まあ、よいでしょう」

「さすが、話が分かる」

 ジゼはうなずいて手を差し出した。宿の主がその手を握る。

「取引成立ですな。ではこちらが当面のお代になります」

 握手してから、主人は懐からじゃらと音の鳴る革の小袋を取り出した。

 流れるような彼の手つきに、ジゼは顔をしかめて頭をかいた。

 

 宿から外へ出ると日は中天に差し掛かった頃だった。

 まばゆい日差しが部屋に篭もりきりだった目にはまぶしい。

 ジゼは目を細めながら、ローテは大きく伸びをしながら、通りへと歩いていった。

 お昼時とあってあちこちの屋台から美味しそうな匂いが漂い、人々が集っている。ともすればローテはジゼから離れて、あちらこちらへふらふらと引き寄せられていく。

「ローテ、ちょっと、ローテ!」

 我ながら飼い猫を呼ぶ時みたいだと思いつつ、ジゼは声をあげた。

 呼ばれたローテが振り返る。彼女の仏頂面を見て、ジゼは苦笑いを浮かべた。

 ――あー。怒ってる怒ってる。それもおなかすいてイラっと来てる顔だ。

「ちょっと我慢しなよ。いま行っても混んでるだけさ。買物すませて、人がある程度はけてからでもいいじゃないか」

「食べたいときが食べどき」

 ぼそっとローテが言う。彼女の言葉にジゼは顔を半分しかめた。

「そんな食欲丸出しの台詞はやめてくれ。せっかくの美人が台無しだ」

「……あの蜜瓜、まるかじりしたい」

 ローテが指差した先には、半分に割った蜜瓜を並べる屋台があった。

 蜜瓜は井戸水で冷やしたものらしい。日光を反射して果汁がてらてらと光る。ほのかに鼻をくすぐる甘い匂いにジゼも思わずごくりと喉を鳴らした。

「いや、いかんいかん。ここは倹約しないと」

 お経を唱えるかのようにつぶやくジゼに、ローテが歩み寄り、顔を近づけてきた。

 彼女がにやっと笑ってみせる。薄く開いた口から八重歯がきらりと覗く。

「いまジゼのおなか鳴った。我慢はよくない。一緒に食べよう?」

 ローテはそう言うと、こくりと首をかしげてみせた。

 愛らしい仕草は計算してか天然なのか――どっちにしろあざとい、とジゼは思った

「わかったわかった。それじゃあ――」

「――おばさん、蜜瓜を二玉くださいな」

「うおおおい」

 勝手に注文するローテを、ジゼは思わず止めに入った。

「半分ずつでいいだろ。僕はまるごとひと玉なんて食べられないぞ」

「だいじょうぶ。あたしがひと玉と半分食べる」

 自信ありげにこちらを見据えてくるローテに、ジゼはあきれた声で言った。

「……お昼ご飯食べられなくなるぞ」

「べつばら」

「とか言ってると太るぞ」

「問題ないよ。あたし食べても太らない」

 ローテの問いにジゼはぐむむとうなった。

 嘘ではない。実際にローテは大食らいだが、これっぽちも体型が崩れないのだ。一方で数日食べなくても平気な顔をしているときがある。まるで野生の獣だ。

 あるいは――彼女が見た目どおりの少女ではないことにも関係しているのだろうか。

 そう、『喰らうもの』あるいは『屠るもの』――その転生にして受肉した存在。

 ただ可愛らしいだけの女の子ではないのだ、彼女は。

 ともあれ、この小さな暴君を納得させるには、仕方があるまい。

 ジゼは小袋から銀貨を一枚取り出すと、屋台の店主に言った。

「……お姉さん、蜜瓜を二玉だ。大きいのを頼むよ」

「あいよ! たんと食べておくれ、お嬢ちゃん」

 年かさの女店主が言うのに、ローテがにこにことしてみせる。

 ジゼは息をつくと通りの先を見つめた――まだまだ、屋台はあるなあ。

 

 満ち足りた表情のローテの隣でジゼは頭をかいていた。

 彼女の手には丸々太った鶏が一羽。羽根もむしって血抜きもすませてある。

 ローテがぽんぽんと軽くおなかをはたく。けふ、と軽くげっぷもしてみせる彼女をジゼはじろとにらんだ。

「鶏代込みで八トゥーリだ……お昼で使う額じゃないよ」

「これは今夜の晩ご飯と明日の朝ご飯にする」

 手にした鶏をかかげてローテは言った。

「骨が残ったら出汁をとればばいい。スープで明日の昼ご飯」

「……食べ方がほんとに極端だな、君は」

 ジゼは恨みがましく言った。つきあって食べた彼もお腹が張っている。

 屋台を制覇せんとする勢い。小さな身体のどこに入るのか、彼女は次々と料理を平らげていったのだ。元が人目を引く美人なだけに食べっぷりとの落差が余計に目立って、終点付近では見物の人だかりができていたように思う。

「……ここ一週間、パンだけだったもの」

 ぼそりと言うローテに、ジゼは口をつぐんで再び頭をかいた。

 わしゃわしゃと髪の毛をかき回して思い出す。たしかに彼女の絵を描いている最中と、幻想夢市(ファンタシアム)で反応を見ている間は粗食で通したのも事実だ。それを考えればこれぐらいの散財はやむをえないか――そう思っていると、ローテがひょいと顔を覗き込む。

「こうしないと、ジゼ、食べない」

「……なんだって?」

「ジゼはもっと食べた方がいい。元気出ない」

 気遣わしげなローテの眼差しにジゼは苦笑いを浮かべてみせた。

 たしかに自分は小食だが――そんなに心配させるほどだろうか。

 そんなことを考えていると、

「わあ……なんだろ、あれ」

 ローテがはずんだ声をあげて、屋台のひとつに駆け寄る。

 ジゼが後に続くと、そこは食べ物屋ではなく、身を飾る小物を売っている店だった。

 首飾り。髪留め。指輪。

 いかにも高そうなものはなく、素朴な味わいの品だ。

 こういうのに興味を示すとはローテもやはり女の子なんだろうか、と思っていると、よくよく見れば彼女はある品に目を釘付けにしていた。

 小さな琥珀がついた髪留め。土台は樫の木だろうか。

「お嬢さん、お目が高い。それはなかなかの品物だよ」

 店主の老婆がそう声をかける。

 ローテはこくりとうなずいてみせた――何か違うというのだろうか。

 ジゼはローテを見た。正確には後ろに束ねたローテの髪を見た。あまり身を飾ることをしない彼女は髪留めも革紐で済ませている。

 銀の髪にひときらめきの琥珀――うん、いいかもしれない。

「お嬢さんにはお似合いさね。元が綺麗な髪だから、これぐらいの品が丁度いい」

「……これいくらなんだい?」

「十五トゥーリさね」

 思いがけない額にジゼは目をむいた。

「はあ? なんだよその額は」

 ジゼは思わず髪飾りを見た。たしかに琥珀は使われているが粒の小さなものだ。頑張って八トゥーリってところだろう。いや、先ほどあれだけ散財したのだ。五トゥーリでも買うかどうか怪しいところだが――問題はローテだ。

 老婆の返答にもこくこくとうなずいてみせて、目線は髪留めに釘付け。

「これほしい」

 ぼそっとローテが言う。老婆がにんまりと笑んで言った。

「お連れさんはこう言ってるけど、甲斐性を見せたらどうだい、おにいさん」

「……六トゥーリにまからないかな」

 ジゼがしぶしぶ切り出すと、老婆は首を横に振ってみせた。

「すまないが、この品は特別でのう。一トゥーリもまからないね」

「いや、特別っていったいどこが……」

 言いかけたジゼに、ローテがくいと袖をつかんでみせた。

 手にとった琥珀の髪飾りに顔を寄せて、すんすんと鼻を動かしてみせる。

「なにか込められてる。たぶん、ただの髪留めじゃないと思う」

「おやあ、お嬢さんの目利きは確かだね。その通り、それには迷子避けのまじないがほどこしてあるのさ」

 老婆の言葉にジゼは眉をひそめて髪留めを見た。樫の台座にうっすらと法術紋様が浮かんでいる――たしかに、なにかの術式がほどこされている証だ。

「……ちゃんと導力は生きているんだろうね?」

「だいじょうぶ。だって、美味しそうな匂いがするもの」

 ジゼの問いに答えたのはローテだった。彼女の言葉に老婆がホッホと笑う。

「面白いことをいうお嬢さんだ。でも、間違っちゃいないよ」

 老婆がジゼをじっと見つめる。ローテもまたジゼを見つめる。

 二人の視線に挟まれて、ジゼは口をへの字に結び、自分の髪の毛をかき回した。

 

 宿の部屋に鼻歌が流れている。

 暖炉に向かってローテが鶏を焼いている。鼻歌を唄っているのも彼女だ。

 その銀の髪に琥珀の髪留めがきらめいている。確かに彼女に似合う品だ。たなびく雲の隙間から陽光が差したかのような印象を受ける。髪留めひとつでこんなに変わるものなんだな、とジゼは感心していた。

 ――いささか軽くなった財布が少々頭に痛いけれど。

 結局、十二トゥーリまで値切ったところでジゼが根負けして買ったのだ。あの老婆は本当に手ごわかった。しかもついでにあれこれ買わせようとするのだから始末が悪い。

 部屋に鶏の脂が焦げる香ばしい匂いが漂う。

「ジゼの言った通り。おなかに香草詰めると良い感じになる」

 鶏に視線を注ぎつつ、ローテが上機嫌で言った。

「ジゼ、賢い。あたしだったらそのまま焼いてた」

「……気をつけないと焦がすぞ」

 声をひそめてジゼが言うと、ローテはむうと頬をふくらませて鶏をにらみつけた。

 暖炉に火は起こしていない。

 ローテがかざした手から炎が立ち上り、それが鶏を焼いているのだ。

 手をかざす彼女の視線は真剣そのもので、その額から汗が一筋流れた。

 ――躊躇なく一切合財を火にかけるのとは勝手が違うみたいだな。

 ジゼは思った。ローテがその気になれば、この部屋はもとより、宿まるごと――いや、街ひとつを業火に包んでしまうだろう。怒りや恐れの感情に任せて彼女が力を振るえば、あたり一面がたちまち火炎地獄だ。

 “劫炎の乙女(ミディナ・ジェハナ)”――彼女と出会ったときに知った、『真の名』。

 天使や悪魔などの高位存在が転生して人の胎を借りて受肉して生まれ出でる存在。

 それが“神威の乙女(ミーディナ)”。ローテはその一人だ。

 ジゼは彼女から『恩寵』を授かり、“従士(スカイア)”として仕える存在である。

 もっとも、ローテは彼に忠誠を求めたことはないし、ジゼもまた彼女に無理やりつきあわされている気持ちもないのだが。そもそも、乙女(ミーディナ)従士(スカイア)の関係に、担保や保証などはないらしい。従士(スカイア)乙女(ミーディナ)の意向に従うべき理由は本来どこにもない。

 それでも、彼女から恩寵を授けられたということは、とりもなおさず信頼の証だ。

 ――問題はこの子が天使でも悪魔でもないところだよな。

 ジゼは思う。魅惑的でちょっとぶっきらぼうで、それでいてあどけなさの抜けない少女は、より剣呑でおっかないものの転生なのだ。

「……そろそろいいんじゃないかな」

 鶏の加減を見て、ジゼは言った。

「そう……かな」

 ローテが首をかしげてみせる。ジゼは肩をすくめた

「君は料理があまり得意じゃないからなあ」

「むー。前に鹿の丸焼き作ったじゃない」

「森ひとつを火に巻いて、頃合に焼けたのを選ぶのが料理って言うならね」

 ジゼは暖炉に近づくと、ローテの横から焼けた鶏に短刀を差し入れてみた。

 弾力と共にぷつりと皮が裂け、甘い香りの肉汁が染み出してくる。

「うん、中まで火が通っている。良い感じだ。後は食べる前に温めなおせばいいよ」

「いま食べないの?」

「……これを向こう三食のご飯にすると言ったのは君だろう」

 あれだけ食べてまだ食べる気なのか。あきれてジゼがたしなめると、ローテはおあずけをくらった子供のような情けない顔をした。

「そんなあ」

「まあまあ、すぐに時間なんて過ぎるよ。良い暇つぶしを用意してあげたからさ」

 ジゼの言葉にローテが目をぱちくりとさせる。

「なあに?」

幻想夢市(ファンタシアム)、興味があるだろう?」

 ジゼはちらと部屋に置かれた香炉に目をやった。

「宿の主人に聞いたんだ。準備はできているってさ」

 

 眠りの世界から幻想夢市(ファンタシアム)にいざなうには特殊な香炉を用いる。

 陶器の皿に芳香水を満たしておき、それを下から蝋燭であぶるのだ。温まった芳香水が蒸発して香りが立ち込めた状態で眠りに落ちると幻想夢市(ファンタシアム)へいける。

 ただひとつ、毎回の儀式として必要なことがある。

「じゃあ、手を出して」

 ベッドに腰かけたローテにジゼは言った。彼の手には針が一本握られている。

 ローテは鋭く光る針を見つめながら、こわごわと手を差し出した。

「……痛くない?」

 ちょっとおびえたような彼女の声に、ジゼは苦笑いを浮かべた。

「指先をチクッとするだけさ。君の血が必要だからね」

 ジゼが答えてみせると、ローテは目をぎゅっとつむってみせた。ジゼは彼女の小さな手を優しく取って、その指先を針でつついた。

「ひゅんっ……」

 ぴくっと身体を震わせるローテ。その指先に赤い血の玉がふくらむ。

「大げさだなあ。さあ、お皿の上に落として」

 ジゼはそう言うと、彼女の手をそっと運んだ。陶器の皿に血が一滴したたり、芳香水に混じる。透明な水面に赤い波紋が広がって、皿の中が淡い朱の色に染まる。

「はい、もういいよ。すぐに血も止まるさ」

「……ジゼが夢市(ファンタ)へ行くのは何度も見たけど、毎回やってるの?」

「仕方がないさ。あそこへ行くには血の証が必要なんだ」

 ローテがベッドに横になる。ジゼの顔を見て彼女がうなずくと、静かに目を閉じた。準備ができたのを見届けてから、ジゼは蝋燭に火をともした。台座に置かれた芳香水の皿の下に置いて、とろとろと火をかけ始める。

「蝋燭が尽きたら時間切れだ。そこで目を覚ますはずだから」

「うん」

「だいじょうぶ、ちょっと変わった夢の体験をするだけだ」

「……うん」

「……さあ、お眠り。最初は僕の画廊を探してくれるとうれしいな」

「……わかっ……た……」

 ローテの声がゆったりしたものに変わり、やがて静かな寝息を立て始める。

 ――寝顔の女の子は誰でも可愛いものだけれど、彼女はまた格別だな。

 ジゼはそっとローテの耳元に唇を寄せた。ふわと彼女の匂いが鼻をくすぐる。いつ嗅いでも不思議で、決して忘れようのない――花の香りと煤の匂いがないまぜになった不思議な空気。

「よい夢絵巡りを。ローテ」

 ジゼは静かにささやいた。

 

 部屋に鍵をかけてジゼは一階の酒場へと降りた。

 見ると宿の主人が女中と一緒に夕方へ向けての準備をしているところだった。

 彼はジゼの顔を見かけると、にっこりと笑んでみせた。

「お連れ様はあちらへ行かれた頃ですかな」

「うん、ついさっき夢の世界に入っていった。香炉のしつらえ、ありがとう」

「次回からはお連れ様のぶんもお代金を頂きますぞ」

 片眉をあげてみせる宿の主人だったが、ふと思い出したようにジゼに訊ねた。

「ところで、いつまでご滞在なのです? 放浪の絵描きというのもやっていくのはなかなか大変でしょう。見たところ急がれている様子もないようですが」

「うん……次の目的地が見つかるまで、かな」

「ほう?」

「彼女と探し物をしていてね。その手がかりがつかめないんだ」

「長くかかりそうですかな」

「あるいは」

 ジゼが答えると、宿の主人はこほんと咳払いしてみせた。

「もし、この街に長逗留されるなら、良いお話がありまして」

「なんだい?」

「街の工房が画家を探しておるのです。臨時の手伝いではありますが、そこそこの技量をもった職人が必要だと……あなたの絵は拝見しましたが、なかなかの腕前をお持ちだ。もしよろしければご紹介させて頂くのですが」

 主人の声は親切そのもので、それだけにジゼは困った笑みを隠せなかった。

「……ありがたい話だと思う。でもひとつところに根を張りたくないんだ。手がかりがつかめたらすぐに旅立ちたいところだし」

「旅にも準備が必要ですぞ。手がかりをつかんでも路銀がなければ話になりません。ひと月でも腰をおちつけて稼いだ方がよいのではないですか? 夢市(ファンタ)は小遣い稼ぎにはいいかもしれませんが、あれだけで食べていくのは難儀ですよ」

「僕もそう思うんだけどね」

 ジゼはため息をついた。本当にお金のやりくりは綱渡りだ。幻想夢市(ファンタシアム)を使える宿は値が張るし、なによりローテは大食らいだ。それでもなんとかなっているのは、“紫の梟”のように自分の後援者がついていてくれればこそだ。

 それこそ滞在が長期間になれば、工房の手伝いをやってまとまった額を稼ぐのだが――この街に来て二週間と経っていない。なかなか判断に迷う。

 なにしろ探し物は他の人物たちとも競争なのだ。

 “黒の戦姫(エルスピネス)”も“白の聖女(ラルニース)”もジゼたちが探しているものを追っている。

 彼女たちと事を構えることになるのはできるだけ避けたいのが本音だった。

「……まあ、考えておくよ。僕には描きたいモチーフがあって、そちらを大事にしたいからね。でも、お声がけはうれしい。恩に着るよ」

「いえいえ。しかし、描きたいモチーフですか。てっきりお連れ様と思いましたが」

「ああ、うん、あながち間違ってもいないんだけどね」

 ジゼは微笑みながら言った。

「僕が描きたいのは――本当の姿の彼女、なのかもしれないな」

 謎めいた言葉に主人が不思議そうな表情を浮かべる。

 そんな彼に、ジゼはあくまでも黙って笑むだけだった。

 

 女中たちの似顔絵を描いてみせると、大好評だった。

 宿の主人などは額に入れて飾るなどと言う始末。ローテが夢絵巡りを終わらせるまでの暇つぶしと思ってのことだったが、喜んでもらって悪い気はしない。ジゼは鼻歌交じりで部屋に戻り、扉の鍵を開けた。

 鼻をつんと香の匂いがさす。

 そこにほのかに混じる焦げ臭い匂いに、ジゼは眉をひそめた。 

 香炉に目をやると、蝋燭が燃え尽きていた――いや。

 単に芯が切れたのではない。どろどろに溶けて形をなくしていた。

 ジゼはハッとしてローテを見た。

 ベッドに横たわった彼女は眠ったままのようだった。

 おかしい。普通なら、蝋燭が切れた時点で目をさますはずだ。

 枕元に駆けより、香炉の様子をうかがう。

 ひどい有様だった。芳香水が強い火にかけられたようになって煮詰まっている。

 皿に残る朱色の染みが不吉なしるしにジゼには思えた。

「ローテ……おい、ローテ」

 横たわる彼女をゆさぶり、声をかける――応答はない。

 ジゼは彼女の口元に耳を近づけた――息を、していない。

 自分の顔からたちまち血の気が失せるのを感じた。

 ――ばかな。こんなことって。

 ジゼはローテを抱き起こすと、その胸に耳を当てた。

 ふわりと豊かな乳房の感触の向こうに――かすかだが鼓動が聞こえる。

 改めてジゼは彼女の口元に耳を寄せた。が、やはり息をしていない。

「どういうことだよ……」

 震える声でジゼはつぶやくと、まろびそうな勢いで部屋を駆け出した。

 

「……夢迷いですな。ごくごくまれにですが、ないわけではない」

 呼ばれてローテの様子を見るや、宿の主は沈痛な表情で言った。

「夢迷い?」

 ジゼが聞きかえすと、主人はうなずいてみせた。

夢市(ファンタ)を訪れている最中に香炉になにかあると、起こりやすい――と言われております。わたしも見るのはこれが二度目です。通常は香炉になにかあった時点で目を覚ましますからな。それでも起きないということは、夢絵巡りの最中によほど心囚われる絵にでくわしたのでしょう」

 主人の言葉に、ジゼは髪の毛をかきむしった。

「……いったい、何を見つけたっていうんだ……」

「香炉がこのようになっているのが不思議ですが……おかしいですね。蝋燭がここまで激しく燃えるはずがない。油などは近くにないですし」

 不思議がる主人にジゼは口をつぐんだ。ローテならありえる。夢絵巡りで何か動揺するものを見て、それが無意識に力の発現につながったのかもしれない。

 ただ、いまは香炉が不自然に燃えた原因を探っている場合ではない。

「彼女は……目を覚ますんでしょうか」

 ジゼの問いに、主人はかぶりを振ってみせた。

「夢迷いに出くわしたら葬儀屋を呼べ――夢市(ファンタ)を備えている宿の主人の間で伝わる言葉です。心の臓は動いていても、息をしていない。もちろん水も食事もとれない。やがてそのまま何もかも止まってしまう。そういうことです」

「そんな……」

 ジゼは顔を青ざめさせた――さっきまで笑っていた。話していた。

 それなのに、彼女がこのまま亡くなってしまうなんて。

 ――あんまりじゃないか。僕の人生をここまで狂わせておいて。

 ――こんな厄介な恩寵をさずけたまま、どこかに行ってしまうなんて。

 自分の手を見つめてジゼは思った。

 手のひらに念を注いでみると、ややあってそこに熱が集まっていくのが感じられる。

 全身の体温が高まり、手の中の一点に集中していく。

 次の瞬間――紅蓮の炎がひとふりの剣の形をとってジゼの手に現れた。

「それは……いったい……?」

 宿の主人が目をみはってつぶやく。

 ジゼは答えず、炎の剣を握りしめた。空いているもう片方の手をローテの胸に置く。

 とくんとくんというローテの胸の鼓動。握った剣から感じる力の脈動。

 それは、寸分たがわず同じ拍動を刻んでいた。

 ジゼはきりと目つきを鋭くした。

「……葬儀屋は少し待ってくれないか。試したいことがある」

「どうされるおつもりですか?」

「芳香水と蝋燭を用意してくれ――僕も彼女の夢に入る」

 ジゼの言葉に、主人はひっと息を呑んだ。

「無茶です! あなたも引き込まれて帰れなくなりますよ!?」

「彼女は死んだわけじゃない。そして、僕と彼女は繋がっている。迷った彼女を探し出して、連れ戻す――できるさ。僕たちの仲はただの絵描きとモデルじゃないんだ」

 そう言って、ジゼは主人に頭を下げた。

「僕も目覚めなかったら、そのときは二人まとめて葬儀屋に引き渡してくれ。だけど、なにもしないまま諦めるわけにはいかないんだ」

 ジゼは顔をあげて、宿の主人の目をひたと見据えて、言った。

「彼女は――僕が描きたいモチーフへの、唯一の道案内だから」

「…………本当に戻られなかったら、お持ちのお金はすべて手間賃で頂きますぞ」

 しばらく黙りこくったあと、主人は低い声でジゼに言った。

 

 幻想夢市(ファンタシアム)の風景はいつもと同じように見えて、しかし異なっていた。。

 足元は雲を踏んだようにおぼつかなく、周囲は薄暮の光に包まれている。そこは変わらない。ただ地面のあちこちにちろちろと炎がついている。よく見れば、絵のいくつかは焼け焦げているように思われた。

「……これは……」

 彼女の夢だけのことなのか。それとも幻想夢市(ファンタシアム)の全体に関わる変化なのか。もし後者なら運営結社が今頃えらい騒ぎだろう。ジゼ自身も心が痛む。これは芸術の損失だ。ここに集う絵は世には出ないものの素晴らしい作品が数多くあるのに。

 だが、いまはそんなことを嘆いている場合ではない。

「ローテ! どこだい、ローテ!」

 大声を張り上げて呼ばわってみる。

 しかし声は靄の向こうに消えていくだけだ。

 歩いて探す、といってもこの場所の全貌をつかめているわけでもないし、地図があるわけでもない。普段、絵を見に来るときは自分から望めば目当てのものにたどりつけたが――さっきからいっかな周囲の風景が変わる様子はない。

 そういえば、とジゼは思い出した。迷子避けの髪留めはどうだろうか。あれを使ってローテの居場所を探れないだろうか――考えてみて、ジゼは肝心な「迷子になったときの探し方」を聞きそびれていたのに気づいた。

 なんて迂闊な。ほぞを噛んでから、しかし、いや待てよと思いなおす。

 ローテは何と言っていたか――そう、「美味しそうな匂いがする」だ。

 匂い。彼女の身体の匂い。煤と花が混じった不思議な空気。

 あれを嗅ぎ取ることはできないだろうか。

 ジゼはそう思い、目を閉じて念じた。

 ローテの匂いを記憶に呼び覚まし、琥珀の髪留めを頭に思い描く。

 ここは幻想夢市|ファンタシアム))。夢の中ならば探し方は絵のときと同じはずだ。

 あとは、どれだけ強く想えるか。

 自分の息遣いだけが聞こえる静寂の中、しばしジゼは集中していたが、ややあって耳にかすかな羽音が聞こえてきた。その羽音は自分の胸元から聞こえ、やがてジゼの周囲をぐるぐる回り始めた。

 目を開けると、一匹の蜂がいつの間にか飛んでいた。

 見ていると、蜂がある方向へ飛び始める。ジゼはうなずき、蜂の後を追った。

 

 蜂の案内のままにジゼは歩いた。

 靄に混じっていくつもの絵が浮かんでいるのが目に入ってくる。

 端が焦げてしまっているそれらは、見たところ風景画のようだった。

 最初は特にどこというわけでもないばらばらの風景が浮かんでいた。

 徐々に赤みがかった絵が増えてくる。奇岩と砂漠が目立つ風景画が多くなってきた。どこだろう、とジゼは思った。大陸西方の乾燥地帯だろうか。

 歩くうちに、風景画にあるものが混じるようになってきた。

 城館のように大きな体躯。鋭い牙と鉤爪。艶やかな鱗。広げられた大きな翼。

「――龍だ」

 ジゼはつぶやいた。赤い風景に混じって描かれた、龍の姿。

 蜂の飛ぶ速度が少し増した。歩いていたジゼは小走りに変えた。

 流れていく絵の数々。幾つもの龍が描かれている絵の中をジゼは進んだ。

 やがて、絵の中の龍は飛ばなくなった。地に伏して斃れている。

 巨大な弩が、幾つもの長槍が、先端を鋭くした破城槌が、龍の巨体を貫いている。

 人に狩られる龍。そんなモチーフの絵が次々にたち現われる。

 蜂の速度があがった。ジゼは靄と絵の中を駆け出した。

 やがて斃れ伏す龍のかたわらに、人影が寄り添うようになってきた。

 あるいは龍に剣をつきたて、あるいは龍を踏みつけている。

 ばらばらだった人影に、やがてある人物が重なって現れてきた。

 赤髪に緑の装束を纏った人物。

 それがいくつもの絵に描かれている。

 ――そうか、これはローテの足取りなのか。

 ジゼは合点がいった。たぶん、ローテはこの人物に覚えがあるのだ。

 やがて、絵が途切れ、靄がぱっと開け、ジゼはたどり着いた。

 広場のような空間。そこに掲げられた一枚の絵。

 絵の前でうずくまる銀の髪の少女。

 蜂は琥珀の髪留めに止まると、すうっとその姿を消した。

 はずんだ息を整えると、ジゼはそっとローテに声をかけた。

「……怖くなかったかい?」

 ジゼの声に、ローテはぴくりと身体を震わせた。

 振り向いた彼女の顔には、涙の跡があった。

「……ここまで来るつもりなんてなかった」

 小さく洟をすすりながら、ローテは言った。

「ただ、見覚えのある風景が出てきたら、止まらなくなってきて。そうしたら、龍の絵がいっぱい出てきて。そうかと思ったら、この人に見覚えがあって、わたし……」

 言い募るローテの声が震えている。ジゼはそっと彼女をかき抱いた。

「だいじょうぶ……だいじょうぶだよ」

「わたし、この人知ってる……おぼえているはずないのに、知ってる……」

 おびえた声でローテは言った。ジゼは靄の中に掲げられた絵を見た。

 長い赤髪。緑の装束と銀の胸甲。地面に突き立てた巨大な剣。

 そしてその傍らには切り落とした龍の首。

 題名は――『龍殺しの騎士フーガ』。

 ジゼは眉をしかめた。「龍殺し」とはまた吹いたものだが、だとするとローテと無関係とはいえない。いや、関係がありすぎる。

 彼女が((神威の乙女(ミーディナ)で、何の転生か考えれば至極当然なことだ。

「……わたし、この人に殺されたことがある……?」

 ローテがかすかな声でつぶやく。そんな彼女の頭をジゼは優しく撫でた。

「いまはそんなことを考えるんじゃない。まずは、ここから出ることを考えるんだ」

 ジゼに言われて、ローテは初めて気づいたように息を呑んだ。

「そうだ……帰り道、分からないの」

「だいじょうぶさ。僕がついている」

 微笑みながらジゼは言い、ローテの手を取った。

「僕の手を握って。そこから僕の体温を感じて――現実では僕は君の手を握っている。僕の体温から君の本来の居場所を思い出して。そうすればこのうたかたの世界から出ることができる」

「……ひとりじゃうまくできない」

「僕もついているよ」

 ジゼが自信たっぷりに言うと、ローテはこくりとうなずいた。

「そう……だね。ジゼも一緒なら、だいじょうぶ」

 ローテが目を細める。自分へのまなざしが信頼で満ちているのをジゼは感じた。

「二人なら、どこへでもいける。二人なら、どんなことだって平気」

 彼女は微笑んだ。笑みを浮かべた顔がすうっと薄らいでいく。

 それを見届けながら、ジゼは自分の意識がおぼろげになっていくのを感じた。

 

 幻想夢市(ファンタシアム)から目覚めた直後は、いつもなら夢の残滓が頭を支配している。

 なかば朦朧とした意識からようやく心を起こすのが常だ。

 だが、今回はすこし違っていた。目を覚ました直後に感じたのは、手のぬくもり。

 ローテの手を握ったところから熱がつたわってくる。

 と、自分の手をそっと握り返してくるのが感じられた。

 小さく、細く、しなやかな指。それを絡めて、すがるように、力をこめて。

 ジゼはローテの方へ頭を向けた。

 銀の髪の少女の顔に、さざなみが立つ。目がゆっくりと開いた。

 そうして彼女もこちらに顔を向ける。琥珀色の瞳がジゼを見つめかえす。

「戻って……これた……?」

「この身体の重みからして、そうなんだろうな」

 ジゼは頭を巡らせた。木の壁と天井。靄の立ち込めた空間ではない。宿の部屋だ。

 自分の腕に、そっとローテが手を絡みつかせて抱きついてくる。

 再び彼女を見ると、琥珀色の瞳を揺らしてローテはつぶやいた。

「……あの絵の人を探さなきゃいけない。いつの人で、どこにいるのか分からないけど、あの龍殺しは散ってしまったあたしの『影』にたぶん関わりがあると思う……」

 そうして、ローテが腕に抱きついた手にきゅっと力を込めた

「……ジゼ、ついてきてくれる?」

 少し不安げな、しかし真剣な声。

「いつもどおり、あたしは何もお返しできないけど……」

 お願いされてジゼはふっと笑んだ。彼女の前髪をそっとくすぐって答える。

「もしまたひとつ『影』を取り戻せたら――君はもっと綺麗になるだろう。その時の君をまた描かせてくれ。君と僕は、乙女(ミーディナ)従士(スカイア)、そしてモデルと絵描きだ――ごほうびはいつだって君の絵を描くことだよ」

 ジゼの答えにローテが身体を起こしてジゼを見下ろした。

「そう言ってくれると思った」

 彼女がふわと笑む。愛おしそうなまなざしを向けて、ジゼの頬を撫でる。

「やっぱり、あなたはわたしの従士(スカイア)。たったひとりの味方」

「しがない旅の絵描きだけどね――非才の身を挙げてお仕えする」

 ジゼはうやうやしく言うと、身体を起こしてローテの頭をなぜた。

「さあ、宿の主人に詫びてから、食事にしようか」

「そうだね――おなかすいちゃった」

 ローテのおなかがくうと鳴る。八重歯をみせながら浮かべる照れ笑い。

 ジゼもつられて笑った。

「たんと召しませ。可愛い、小さな、僕の龍」

 くすくすと笑い声を漏らしたのはどちらからだったか。

 日が落ちてすっかり暗くなった部屋にほのかに灯る蝋燭の明かり。

 かすかな灯りを映して、琥珀の瞳と髪留めに、きらと光が躍った。

 

〔了〕

 

 

【次回予告】

 

 二人めのヒロイン、黒の戦姫エルスピネス。

 帝国の“征服官(エオベルン)”にして“霹靂の乙女(ミディナ・バルカ)”である彼女は皇帝から内乱鎮圧の命を受ける。

 気の進まない任務の中で彼女が見出した、内乱に隠されたひとつの謎とは。

 ――『みわざの品』は時として人をくるわせる。


 
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